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【旧東海道】その13 酒匂川の渡しと酒匂橋(その6)

前回は、小田原馬車鉄道や小田原電気鉄道と併用した、明治時代中期から後期にかけての歴史を追いました。今回はその先、関東大震災頃から後の歴史を追います。

明治45年(1912年)に架け替えられた酒匂橋ですが、早くも大正時代に入って次の架け替えが行われます。その間全く無事だった訳ではなく、大正3年(1914年)に暴風雨で一度途絶しており、復旧補修が行われています(「酒匂歴史散歩 第一集」による)が、それにしても随分と短期間での再架橋です。

馬入橋の場合も、神奈川県が散々苦労して予算をようやく通して明治41年に架け替えたばかりの橋を、大正12年の関東大震災の際には更新工事実施中でした。何故そんなに早く架替工事が実施されたのか、馬入橋の記事をまとめている頃には理由が見えていませんでした(明治41年の架橋がどの程度の耐久性を見込んでいたかも疑問ではありましたが)。今回酒匂川の事例を調査していて、前回引用した「道路の改良」に、神奈川県の技師の方がはっきりとその答えを記されているのを見て、ようやく腑に落ちた次第です。

然るに本舊橋架設の後自(ママ)車の使用は急速に發達し殊に國府津驛より箱根に至る遊覽自働車の通路に當れる爲橋板の摩損甚だしく僅かに六年を出でざる大正七年に至りては、到底從來の如き小修繕を以てしては、交通の量に耐ふる能わず維持困難を訴ふるに至り、…

(「酒匂橋架換工事報告」神奈川縣技師 桝井照藏、上記誌大正12年第5巻2号115ページより、強調はブログ主)

人力車の轍や馬車の蹄鉄の摩擦でさえ摩耗に苦しんでいた木板張りの橋ですから、更に重量があり、しかもその摩擦で強い動力を地面に伝える自動車のタイヤにはひとたまりもなかったのでしょう。その点では同じく重量があっても鉄路の上を走る馬車鉄道や電車の方が、橋にはまだ「優しかった」ことになります。

創業当時の富士屋自働車の貸自動車 - Wikipedia
創業当時の富士屋自働車の貸自動車
Wikipediaより)
元より箱根では明治維新後から新規の交通手段への志向が強く、馬車鉄道を国府津から箱根湯本まで引いたのもその表れですが、今度は自動車が有望と見るや早い時期から自動車事業に乗り出しています。大正元年(1912年)にはエム・エフ商会が、翌大正2年には小田原電気鉄道が小規模ながら貸自動車業を開業させています。そこに箱根の旅館富士屋が大正3年に「富士屋自働車」を設立して貸自動車事業に参入、元よりライバル関係にあった小田原電気鉄道と激しい事業競争を繰り広げることになります(社史「箱根登山鉄道のあゆみ」参照。因みに富士屋自働車は後に箱根登山鉄道と合併してその競争の歴史に終止符を打ちます)。なお、大正8年には富士屋自働車が乗合自動車業をスタートさせ、12人乗りのバスが国府津と富士屋ホテルのある宮ノ下の間を往復し始め、更には横浜までの長距離バスの運行も始めます。当然車両が大型化しますから、路面に掛かる負荷もそれに連れて増大することになります。

酒匂橋は言わばこの2社の自動車事業競争の煽りを受けた格好で、当初の見込みよりも早く架替を進めざるを得なくなったのでした。丁度国会で新たな道路法の制定に向けた動きがあった頃でもあり、予算の上程には以前ほどの支障はなくなっていましたが、富士屋自働車と小田原電気鉄道間の競争の激しさは県担当者の目論見の更に上を行っていた様です。

…茲に大正七年末の縣會に之が改修費の要求案を提出し工費拾九萬八千圓を以て總延長二百五間、幅員四間參分參厘、徑間五間の鐵筋混凝土(コンクリート)桁橋を架設すべく計畫し、直ちに實施設計に着手すると同時に國庫の補助を申請したが幸いに本縣の計畫を是認せられ大正九年三月工費に對する貮分の壹の補助指令に接したが此の間道路法の新に制定せらるゝあり、且つ交通狀態は愈々變異し自動車の交通頻繁を極め、前設計にては、尙ほ不十分なりと認めらるゝ點尠くなからず、再び設計を變更して工事費を貮拾參萬八千圓に增額し、大正九年九月の臨時縣會の議決を經更に國庫の補助を申請したが、大正十年三月工費に對する參分の貮を補助せらるゝことゝなつて、漸く本橋の改修に對する根本計劃を確立するに至り、…

(上記同論文116ページ、ルビ、強調はブログ主)

少しでも早く工事を進めたいと予算申請を急いだのに、恐らくは上記のバス運行のスタートは当初の想定に入っていなかったのでしょう。設計見直しが必要になって予算上程のやり直し、当初は国庫補助が半分だったところが道路法の制定のお陰か再上程では3分の2に増え、大正10年7月に工事に着手します。完成は同12年7月1日、着工からは丸2年の歳月が必要でした。

先代の酒匂橋が明治45年の完成と馬入橋より4年後だったのに、コンクリート化は馬入橋を差し置いて先に進められたのも、明らかにこの箱根の自動車事業の展開が他に先んじていたからですね。それだけ当時の箱根が絶大な集客力を持っていたからという側面もあるでしょう。勿論箱根以外の地域でも自動車事業の展開は同時期に少しずつ見られる様になっており、また上記の様に横浜までの路線も開業していたということは当然このバスが馬入橋も経由していた訳ですから、引き続いて馬入橋が架け替えられることになったのも同じ理由でしょう。酒匂橋の橋面には当時まだ珍しかったアスファルト舗装が施されたことが「酒匂橋架換工事報告」に記されていますが、これも自動車による橋面摩耗への対策であることは言うまでもありません。

他方、この架橋に際して、それまでかつての渡し場以来の上流側に寄ったルートに合わせて架けられていた酒匂橋を、今の国道1号線とほぼ同じルートに変更しています。「酒匂橋架換工事報告」によれば、既存の橋を仮橋として活用することで工費抑制の意図があったと記しています。また、当論文では橋脚の本数を減らして径間長を拡げることで少しでも増水時の阻害要因を少なくする様に配慮したこと、橋脚はコストを考えて一体型とせず3本柱としたことなどが報告されています。


酒匂歴史散歩 第一集」には、平岡吟舟という酒匂の料亭の主人がこの架橋に際して即興で作ったという「祝酒匂橋開通式、水産試験所開所式」という歌が紹介されています。この中から酒匂橋にまつわる前半部分を引用します。

酒匂橋が、できたかえ、できたとも、

 長さは二百と十余間、

こちゃ東海一の名橋さ、

 どうだい立派だろう。

「ソラ、ピーヤわね、

 鉄筋コンクリートで、四角で丈夫で、

上はアスファウトで、見事に塗り上た。」

(同書2—131ページより引用)

まだアスファルトが物珍し過ぎて、呂律の回らぬ単語になっているのが却って新鮮味を感じさせます。モダンで如何にも丈夫そうな橋が地元に架かって、浮かれている様子が良く伝わってきます。

しかし、この酒匂橋は完成から僅か2ヶ月後に関東大震災に遭って崩壊してしまいます。馬入橋の際にも「土木学会附属図書館」のデジタルライブラリーに掲載された「大正12年関東大地震震害調査報告書」を紹介しましたが、今回もこの報告書から酒匂橋の項を見ます。こちらは工事中だった馬入橋と違って完成後間もなかったこと、被害が特に大きかったことから報告も遥かに詳細になっています。長いので橋の構造を具体的に紹介する前半部分をカット、後半部分を引用します。

イ酒勾橋 (寫眞第三十二乃至第三十五及び附図第二十二参照)

…荷重は8(トン)の自動車を滿載したる場合を採りたるものにして鉛直荷重に對しては强大なる耐力を有するものなり、橋梁の方向は北50度東にして震央の方向と略々(ほぼ)直角をなし、架橋地點は小田原國府津間に於て酒勾川の末流に位し地質軟弱にして震央に接近せるを以て震動極めて激烈に上下動も亦强大なりしものと推せらる。

本橋の震害は道路橋中最も甚だしきものにして全橋(ことごと)く墜落し岸上に立ちこれを望めば數10連の橋桁蔘差(しんし)として河床に横はりその慘状馬入川鐵道橋と相匹敵す、(寫眞第三十二参照)橋脚は悉く破折倒伏し橋桁は凡て河床に墜落せるを以てその被害の經路理由等を尋ぬるに由なしと(いえど)要する橋桁の重量極めて大に橋脚の强度これに伴はざりしに依るものにして、先づ激烈なる震動に依りて强大なる水平力を發生し同時に桁支端の移動を起し橋柱に著大なる偏心荷重を作用せしめ從て或は先づ柱の挫折を生じ或は水平連結桁の破折を起し惹て桁の墜落となりこれに因りて更に橋脚の徹底的破滅を來せしものと察せらる、目撃者の言に依れば左岸即ち國府津側より順次に墜落せるものゝ如く即ちある桁の一端先づ墜落しこれに依て他端の橋脚に强大なる衝撃を及ぼしてこれを破壊し次に第二桁の墜落となり遂に全長に亘りしものと推察さる。

而して桁の支端は先づ多大の移動をなし然る後に墜落せる事は橋脚の或者は支點の原位置より5.6尺を隔てたる位置に於て床版を衝き破り路面上に矗立せる狀況によりて略々推測する事を得(寫眞第三十三参照)尙墜落の際衝撃の爲鐵筋混凝土高欄は大破せり(寫眞第三十四参照)橋臺は震害稍々輕く右岸寄りのものは袖石垣との間に大なる龜裂を生じ左岸のものは上部の土留壁破折せるもその主體は何れも多少の傾斜を爲せるのみにして著しき損害なかりき。(寫眞第三十五参照)

(上記報告書第三巻第一編「橋梁」31〜32ページ、…は中略、ルビはブログ主)


「一枚の古い写真」酒匂橋崩壊
絵葉書「酒匂橋崩壊」(「一枚の古い写真」より)
「一枚の古い写真」酒匂橋付近の警戒にあたる騎馬憲兵
酒匂橋付近の警戒にあたる騎馬憲兵(同上)
馬入川の東海道線橋梁が引き合いに出されていますが、どちらも相模湾の震源地に対してほぼ真横から揺すられる格好になったのが被害を大きくする一因となったと考えられている様です。また、コストダウンのために採用した3本柱の橋脚は、その構造の特性で上部の破損を大きくする結果に繋がったと見立てられており、そのためか後に架け直された時には一体型の橋脚へと変更されています。大正2年に架けられた上流の十文字橋では、他の部分は崩壊したもののコンクリート製の橋脚はこの震災を耐えました。震源との距離の差はあるとは言え鉄筋コンクリート製の初期の橋脚が明暗を分けたことで、耐震構造への考え方がこれによって大きく変わったことは間違いないでしょう。

「酒匂橋架換工事報告」では橋脚の設計に際して耐震性を相応に考慮したことが記されているものの、結果的に見れば関東大震災クラスの地震まで配慮したものとは言えなかった様です。もっとも、日本に限らず近代建築がこの様な大規模な震災に遭うこと自体もほぼ初めての体験でしょうし、耐震性についても特に日本での経験値が織り込まれる前のものであってみれば、不十分なものとなったのは仕方のない面もあったでしょう。

なお、同年10月には酒匂橋の仮橋が開通しています。上記の震災報告に添付された写真にも仮橋と思しき橋の姿が背景に写っています。最終的な復旧工事はそれから3年後の大正15年に完成、これが戦後まで使われることになります。これらの日取りも馬入橋とほぼ同じ、復旧後の酒匂橋の形式も馬入橋と同じプレートガーダー橋で、大規模な震災の復旧が同時期に進められたために構造面でも共通化が図られたといって良さそうです。

次回はまとめ…の予定ですが、もう少し時代を下るつもりです。




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