【旧東海道】その13 酒匂川の渡しと酒匂橋(その4)

旧東海道:酒匂橋より上流を望む
現在の酒匂橋上流の様子
前回は、それまで冬場の仮設だった橋が明治時代初期に常設に切り替えられたこと、及び明治15年に河原も含めて越える橋が最初に架けられたことまでを紹介しました。今回はその続きということになります。

明治20年(1887年)にそれまでの新橋―横浜間から延伸して国府津まで開業した東海道線は、その2年後には箱根山中の急勾配を避けて、かつての足柄路に比較的近いルートで西へと伸びていきました(但し東側は矢倉沢ではなく酒匂川沿いを進むルートになりました)。鉄道に迂回されることになってしまった小田原、箱根、そして熱海では集客が伸び悩み、街の経済が停滞し始めます。明治19年7月に国から東海道線のルートが提示された翌月には、箱根・小田原の戸長・総代が国に対して箱根経由のルートを3案提示し再考を求めますが、敢えなく門前払いになってしまいます(「箱根の近代交通」加藤利之 1995年 かなしん出版による)。このため、これらの地域の有志が、その打開策として打ち出したのが自前の馬車鉄道の開業でした。明治20年11月に東海道上に併用軌道を敷く国府津〜湯本間の申請を神奈川県に出し、翌21年2月に認可が下りました。

一方、前回も引用した「酒匂歴史散歩 第一集」(川瀬速雄氏著、酒匂八区公民館編)によれば、

明治十九年(一八八六)国府津〜小田原間の鉄道馬車敷設を念頭に、強固な橋に掛け替えられた。鉄道馬車は明治二十一年(一八八八)十月、開業された。

(同書2—124ページより引用)

と、まだ馬車鉄道の申請より1年も前、恐らくはその仕様も殆ど固まっていないであろううちから、早々と架け替えを先行させたことが記されています。この日付はもう少し裏付けを探したいところですが、地元の方の記録という点では確度はそれなりにあるのでしょう。

この日付は意外に無視できない問題を孕んでいます。もしもこの通りであれば、いくら例年修理の連続だったとは言え、まだ架橋後4年しか経っていない橋を馬車鉄道の見込みだけで早々と更新したことになります。これ程の短期間ではまだ最初の架橋で負った負債は償還し切れていない筈ですから、それでも敢えてこの様な決断に踏み出せるということは相当の裏付けがなければ出来ないでしょう。恐らく架橋の関係者が馬車鉄道会社設立に直接携わっていたか、設立発起人の方と深い交流を持っていたかのどちらかということになるだろうと思われます。と同時に、この馬車鉄道は意外に早い時期から構想されていたことになりますし(ということは、国に送った東海道線ルート案は最初から採用されまいという見込みがありつつ「ダメ元」で提出したのでしょう。国もそこを見透かしていたのかも知れません)、またそこに期待する人も多かったのでしょう。

とは言え、今まで知られている小田原馬車鉄道の開業の歴史からは、あり得ない訳ではないもののかなり隔たった日付であることも事実です。それだけに、繰り返しになりますがやはりもう少し裏付けになるものの提示が欲しいところです。

馬車鉄道は上記の通り明治20年の認可後直ちに工事が始められ、翌21年には国府津〜小田原〜箱根湯本間の開業に漕ぎ着けました。しかし、これによって既成の「稼ぎ」を奪われることになる人力車業者や馬車業者などから投石・置石などの強硬な妨害に遭い、一時は営業を1ヶ月ほど休止せざるを得ない事態に陥ります。またその後も、人馬にかかる諸経費の高騰などで、当初は経営が安定していませんでした。そこで、明治24年頃には役員が更迭され、経営改善に乗り出します。

他方、明治19年に更新したばかりの酒匂橋も、明治23年頃には老朽化が思った以上に早く進み、橋を更新しなければならない状況に陥ります。翌年の架替に際しての願書中にもそのことが記されています。

本村酒匂川橋梁ニ付テハ、昨廿三年中現今ノ橋梁ハ老朽ニ及、危険(すくな)カラサルニ付、更ニ架設可致旨(いたすべきむね)御論示有之(これあり)、…

神奈川県知事 内海忠勝殿

(「酒匂川橋梁架設願」中副願書より、明治24年7月、「小田原市史 史料編 近代Ⅰ」491ページより引用、…は中略、ルビはブログ主)

この文中に酒匂橋の架け替えについて「更ニ架設可致旨御論示有之」と敬語が使われていることから、指示を出したのはこの副願書の宛先である神奈川県ということになるでしょう。東海道という重要路線の橋だけに、県も基本は地元に任せつつも手放しには出来ず、視察などは行っていた様です。


酒匂橋の老朽化が想定以上に早く進んだ理由について、この請願の最初の方で「新橋ハ良材ヲ用イ」としていることから考えると、関係者間では使用した橋材が良質のものではなかったから、という見立てをしていたことが窺えます。こうした「より良い部材を使っておけば橋はもっと長持ちする筈」という考え方は、以前も見た通り江戸時代からの職人に共通した見立てで、その点でこの見立てそのものを否定することは出来ません。

が、実態は馬車鉄道や馬車による蹄鉄掘れ、人力車や馬車などの轍掘れ、交通の多様化に伴う荷重増加など路面負荷の増加、交通量自体の増大、更に酒匂橋が河口に特に近いことから遡上する海水の影響、酒匂川の流速の影響等々、老朽化促進に繋がりそうな理由は他にも多々考えられるので、仮に良材が入手出来ていたとしても、それだけで果たして想定通りの寿命を維持出来たかは頗る疑問です。

広重「江戸名所百景」より「四ツ谷内藤新宿」
歌川広重「江戸名所百景」
より「四ツ谷内藤新宿」
Wikipediaより)
馬が履いているのが「馬履」

経営再建中だった馬車鉄道の立場としては、地元3村(うち、網一色村と山王原村は小田原町と合併済み)と良好な関係を保つ必要があり、多少の負担をしても酒匂橋の更新に前向きに協力する必要があるという判断に立っていたのでしょう。橋面に負荷を与える「張本人」となっている自覚があればなおのことと思われます。架橋関係者も、これだけ短期に更新を重ねれば、か細い橋銭徴収では負債を償還し切れないのは目に見えており、酒匂橋利用者の中で大口の出資者たり得る馬車会社の一層の協力がなければ、これ以上の更新が先に行かない状況だったのでしょう。

果たして、両者の間で交わされた酒匂橋更新の約定書はこの様になりました。全文を引用すると膨大なものになりますので、出来るだけ要点を絞ってみましたが、それでもまだ長いですね。

第一条 橋梁は小田原馬車鉄道会社に於て工費を負担し、酒匂村山崎助右衛門、鈴木重一外四拾四名より提出したる別紙工事設計書及ひ図面之通り名義を以て架設する事

第二条 新橋開通の日より向ふ満拾ケ年間、大小渾ての修繕を馬車会社に於て負担し、其期限間別紙渡橋賃金表に拠り、渡橋及ひ渡船賃金を馬車会社に於て悉皆領収す、尤も該期満限のときは、仮令収支損益其他如何なる事故ありと雖とも、即日第拾条の通り履行すべき事…

第五条 馬車会社は第二条の権限を収受する為め、酒匂外二ケ部に於て現橋架設に要したる負債の残余償還の内へ、新橋開通の日…金四千百円を贈与すべき事

第六条 新橋は現橋の下流に架設し、其道路敷地に要する民有地は…新橋工事着手の日より第二条・第三条期限内、普通田畑小作料を以て馬車会社へ貸与すべき事

第八条 左に列したるものは無賃渡橋及ひ渡船通行するを得べき事

一酒匂外二ケ部の人民は勿論、其雇人及ひ建築土工等の為め一時使用する人員并に物品

二酒匂外二ケ部人民の所有する荷馬車、牛車、人力車、駕籠及ひ牛馬、其他自家用に属するもの

三酒匂外二ケ部人民にして、売買、交換、譲与、若くは収受する魚類、野菜、土石、竹木、其他一切の物品を車輌及ひ牛馬等に積載し行くもの

四酒匂外二ケ部人民の祝儀及葬儀に関する総ての人員及ひ物品

五酒匂外二ケ部人民の親戚の者にして、三ケ部に所用を弁する為め、三ケ部人民の付添あるもの

第九条 酒匂外二ケ部の住民に限り、左の区別に従ひ、無賃又は賃金を減額し、渡橋及ひ渡船通行するを得べき事…(注:三村の人が旅客・荷物運搬業のために使う際の条件が決められている)

第十条 現橋は開通の日現在の儘無代価にて馬車会社に譲与し、新橋は第二条・第三条満限の翌日現在の儘無代価にて山崎助右衛門、鈴木重一外四拾四名に譲与し、新橋存在中は山崎助右衛門、鈴木重一外四拾四名に於いて修繕の義務を負担し、馬車会社の車馬乗客、其他営業に属するものは総て無賃渡橋せしむ、尤も水火震災、暴風波の為め毀損を生したるときは、双方立会検査の上、其修繕費三分の一を馬車会社より支出すべき事

明治廿四年六月五日

(「小田原馬車鉄道酒匂橋梁架設約定書 明治24年6月」、「小田原市史 史料編 近代Ⅰ」486〜489ページより引用、原文カタカナを平仮名化、…は中略、強調はブログ主)


旧東海道:酒匂橋左岸橋詰の植え込み
現在の酒匂橋左岸の植え込み
このやや不自然なスペースが
架橋の経緯と関連するか否かは今のところ不明
左の標識については目撃事例もあり
諸々の条件を見ると、旧3村にかなり有利な契約になったと言って良いのではないでしょうか。この時点でどの程度負債が残っていたか不明ですが、馬入橋の架橋の際にかかった金額を思い出してみるに、約定書通りに遂行されたならば、この時払い込まれた4,100円という金額は、ほぼ満額に近かったと見て良いでしょう。しかも、馬車会社のお金で新しい橋を架けて3村に無償譲渡(旧橋を馬車会社のものとしたのは、撤去後の部材を枕木などに有効活用する意図があったのでしょうか)、契約期間中の修繕費も馬車会社が持つなど、費用負担のかなりの部分が馬車会社側に付きました。加えて、旧3村の人々は関係者の大半を含めて無賃で橋を渡れる…などなど、良くもこれだけの条件を経営再建中の馬車会社が飲んだと思います。恐らくは、経営が軌道に乗ればそれだけの負担をしてもペイするという見込みを馬車鉄道が持っていたのでしょう。

何れにせよ、これによって資金面に目処が立ったところで直ちに酒匂村会議を通し、引き続き橋銭を徴収する許可を県から取り付けた上で(上記の県宛ての願書はその申請が目的でした)、酒匂橋は無事更新工事に漕ぎ着け、翌明治25年に竣工した様です(「小田原市史 別編 年表」による)。

次回も引き続き、酒匂橋と小田原馬車鉄道、更に小田原電気鉄道との関係を見ていきます。




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