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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【旧東海道】その13 酒匂川の渡しと酒匂橋(その2)

前回は酒匂川の地形上の特徴を見ました。今回は江戸時代以前の酒匂川と渡し場との関係を見ていきます。

酒匂川の江戸時代には、六郷川(多摩川)馬入川(相模川)にはなかった影響が加わってきます。この川の場合、江戸時代初期に大幅な瀬替えが行われていることと、江戸時代中期以降非常に長きにわたって自然災害に悩まされ続けるということが起きます。まずはそこから話を始めます。

「足柄歴史新聞 富士山と酒匂川」中世の流路
酒匂川の中世の流路
(「足柄歴史新聞 富士山と酒匂川」より)
「足柄歴史新聞 富士山と酒匂川」近世の流路
近世の流路(同左)


松田付近の土地条件図(「地理院地図」より)
酒匂川と並行して複数の旧河道が描かれている
この2枚の図は「足柄歴史新聞 富士山と酒匂川」(足柄歴史再発見クラブ 18ページ)より引用しましたが、酒匂川は中世末期には現在よりも足柄平野の西寄り、平野の中央付近を複数の分流となって流れていた様です。現在でもかつての流路付近に旧河道や自然堤防などの微地形を確認することが出来ます。これが、徳川家康の江戸入りに際して小田原城に封ぜられた大久保忠世(ただよ)忠隣(ただちか)親子によって大規模な瀬替え工事が行われ、それまでよりも東寄りの、ほぼ現在の流路へと付け変えられたのです。河口付近の位置はあまり動いてはいませんが、その間の流路はそれまでよりも幾らか標高の高い場所を流れる様になりました。こうする事によって、酒匂川の流路を整理して広い耕地を作り、併せて高所に配置した川から灌漑用水がより広範囲に行き渡る様にした訳です。

こうした大規模な瀬替え工事は、江戸時代の初期に大河川、例えば大井川や富士川などで行われていたものと同質のものでした。長い戦国時代が終わり、戦乱で荒廃した農地を一刻も早く復興し、更には新たな農地を大幅に開拓して経済を活性化させたい…これは、この時期の領主が誰でも考えたことでしょうから、大規模な農地開拓の意図を持った河川の大掛かりな瀬替えがこの時期に集中したのは、単なる偶然ではなかったでしょう。出来ればこの開発の歴史も深く追ってみたいところではあるのですが、そちらが長くなると渡し場の話に戻って来られなくなりますので、今回はその紹介だけに留めます。より詳しいことが知りたい方は「小田原市史 通史編 近世」の「第2章第1節 大久保氏の領国経営/寺社保護政策と酒匂川の築堤」(76〜80ページ)か、上記の「足柄歴史新聞 富士山と酒匂川」を御覧になるのが良いでしょう。特に後者は子供向けにまとめられたものですが、図版も多いので大筋を理解するにはこちらの方が良いかも知れません。

ここで酒匂川の渡しの話に関して気になるのは、瀬替えが酒匂川の渡しに与えた影響の度合いですが、恐らくは限定的なものに留まったであろうとは考えられるものの、それを実際の記録などから推し量ることは難しくなっています。何故なら、その後のとある自然災害の方が、渡し場に遥かに大きな影響を与えたので、それ以前の影響を見極めることが出来なくなっているからです。とある自然災害、それは富士山の宝永大噴火(宝永4年・1707年)でした。噴火の影響は相模川付近でもなかった訳ではありませんが、流域がまともに富士山麓にあり、噴出物が一番多く降り注いだのが酒匂川流域ですから、その影響の大きさは相模川流域の比ではありませんでした。

大久保親子による瀬替え自体も、この噴火後に酒匂川が流してきた大量のスコリア(富士山由来の玄武岩質の火山噴出物)によって瀬が埋まり、堤防を決壊させて旧流路へと川筋が戻ってしまうなど、非常に大きなダメージを受けました。ただでさえ流量の多く、流れの急な川が埋まったのですから影響が深刻になるのは必定で、その後半世紀以上にわたって一帯はその復旧に苦しめられ続けることになりますが、これも今回の話の流れの中では割愛せざるを得ません。これについても上記書に委細が記されています(「小田原市史 通史編 近世」では、第6章全体がほぼこの災害に関する記述に割かれています)。

ただ、河口に流れ着いた大量のスコリアはそこでも瀬を埋めてしまったため、酒匂川の渡しは渡しの方法自体を変更せざるを得なくなります。

酒匂川徒渉の創始については明確ではないが「伝馬衆十三人・河越舟方四人可残置事」と『相州文書』には見え、伝馬業者・渡人足と問屋との関係が推察でき、すでに天正の段階で伝馬制の形成とともに渡船制が採用されていたものと思われる。徒渉を実施したのは比較的早期で、渡船・徒渉の併立という方法がとられていたのであろうと推察する。しかし、全面的に徒渉に移行したのは

酒匂川越立之儀、往古船越立之儀、往古船越ニ仕候処、川瀬相変シ船入不申候節ハ歩行越モ間々仕候処、去宝永四亥年、富士山焼砂降リ積、川瀬格別ニ変化、何分船入不申候ニ付、渡船相止候

とあって、宝永四(一七〇七)年の富士山の大噴火による降灰で渡船不能を決定的にしたものと理解できる

注:

  • ⑷『相州古文書』第一巻 貫達人編
  • ⑸「往古船渡相止歩行越相成候」(『酒匂川旧記』有信会文庫)以下記載のない文書はすべて『酒匂川旧記』史料である
  • ⑹同右

(「近世における徒渉制について—酒匂川徒渉を中心に」宇佐美ミサ子 「交通史研究 第六号」昭和56年3月 42ページより引用、強調はブログ主)


東海道五十三次 (浮世絵) ~小田原宿(保永堂版)- Wikipedia
歌川広重「東海道五十三次」小田原宿
(保永堂版)(Wikipediaより・再掲)
今では江戸時代の酒匂川の渡しは徒渉だったと一般的には理解されており、歌川広重が描く「東海道五十三次」の小田原の絵では、前回見た通り有名な保永堂版をはじめ一貫して酒匂川の徒渉の図を描いていたりしますので、あの渡し場がかつては部分的にせよ舟渡しだったとは気付いていない人も多いのではないかと思います。実際は、富士山が大量に降らせた火山灰によって川が埋まってくるまで、基本は舟を使い、浅瀬だけ徒渡という併用によって渡っていたことが、この論文中に引用された史料から窺えます。


「箱根八里-小田原宿の景観」小田原城下図屏風から
小田原城下図屏風から右側
(「箱根八里-小田原宿の景観」より引用)
酒匂川の位置に舟が描かれている
また、江戸時代初期(17世紀前半頃か)の景観を描いたと考えられている「小田原城下図屏風」(「箱根八里—小田原宿の景観—」小田原市郷土文化館 所収)にも、酒匂川の舟渡しの様子が描かれており、かつての様子を僅かながら窺うことが出来ます。

もっとも、かつては舟と徒渉が併用だったということは、1本の瀬でそれ程の水深の差が出来ているというのも不自然ですから、恐らくはその頃も大小複数の瀬に分かれており、舟が必要になる深い大きな瀬と、舟が入れられない浅い瀬によって渡し方を変えていたのでしょう。舟なら少ない人数で多数の通行客を渡すことが出来るので、本当ならば全区間を舟渡しとするのが理想の筈ですが、こういう併用の場合、舟渡しの人足と徒渡りの人足が別々に要るでしょうから、かなり負担の厳しい渡し場運用だったのではないかと想像します。因みに、徒渉のみの渡しになった後の運用の実態が、「新編相模国風土記稿」の「酒勾村」の項に記されています。それによると、渡し場の人夫は定員319人、これを左岸の酒勾村164人、右岸の網一色村62人、山王原村93人でそれぞれ受け持ち、平常は毎日両岸各10人ずつの計20人が交代で勤め、大名行列などの大通行の際は319人総出で、それでも足りなければ酒匂川沿岸の村々に助郷を頼む、といった状況で、舟渡しと比べて桁違いに人足を必要とする運用であったことは明らかです。舟渡し併用の時代はその分徒渡りの人足が担当する区間が短かったことになるので、幾らか少ない人数であった可能性は少なからずあると考えられます。但し、酒匂川の渡し全体で必要だった人足數の変遷がどの様なものであったかはわかりません。

東海道分間延絵図:酒匂川仮橋
「東海道分間延絵図」に描かれた
酒匂川の3本の「仮土橋」
こういう川は自然状態でも洪水の度に瀬が変わったりしやすいので、都度渡し場の位置を微調整しながら運営していたのではないかと想像します。その傾向自体は宝永大噴火後もさほど変わっていなかった様で、徒渉化後は冬場の渇水期、具体的には10月5日から3月5日の間(「新編相模国風土記稿」による。史料によって日付に若干ばらつきがあります)には仮橋を架けていましたが、瀬が複数あるためにその数だけ橋が架かっていました。幕末の時点では3本の仮橋を架けていたことが「東海道分間延絵図」にも描かれており、これがその後明治維新を迎えて常時架橋運用される際に引き継がれることになります。

因みに、馬入川の場合には川を上下する水運が大規模に発達していましたが、酒匂川の場合、江戸時代に水運を営みたい旨の請願が流域の数村から提出された記録が残っています。しかし、この請願には別の村々から反対意見が寄せられるなど、最終的に聞き届けられて実際に水運が運用されたかどうかについては定かではありません。また、その認可の条件も酒匂川の渡しの上流の河岸までとし、渡し場に影響がない様にする旨の制限が付いていました。従って、馬入川の場合と違って、酒匂川の水運が渡し場に影響する可能性はほぼ皆無だったと考えて良いでしょう。もっとも、仮に舟運を実現できていたとしても浅瀬の多い急流の川では、高瀬舟を使っても効率の良い運行が出来たとは考え難く、あまり大規模化することは出来なかっただろうとは思います。

さて、六郷川や馬入川を取り上げた際には、道役善兵衛の「砂川」というキーワードを盛んに取り上げました。川底が砂であることによって橋杭が根掘れ、つまり洗掘(せんくつ)が進んでしまうことに耐えさせる手法を持っていなかったことが、当時の架橋技術上の制約になっていたのではないか、という話だった訳ですが、酒匂川の場合はどうだったのでしょうか。


F・ベアト「酒匂川の浅瀬」
F・ベアト「酒匂川の浅瀬」慶応3年(1867年)か
(「F.ベアト写真集2」(明石書店)より引用)
河原に礫が目立つ
宝永大噴火によってスコリアが大量に川底に入った、という状況から考えると、一見川底が砂地化していた様に思えます。実際、上記に引用した史料でも「焼砂」という表現が使われており、川に砂が入って来たという認識を当時の人も持っていたことがわかります。しかし、幕末にF・ベアトなどによって撮影された酒匂川の渡しの写真数点を見る限り、河原は比較的大きな礫で埋まっている様であり、「砂川」と呼ぶ様な川底ではなかった様に見えます。


恐らくこれには、前回取り上げた酒匂川の急流振りが関係しているのでしょう。川の流れが急だということは、それだけ川の土砂の運搬能力も高まり、より大きな礫が下流へと流れやすくなります。しかも、酒匂川は山を出てから河口に辿り着くまでの距離が比較的短いので、流下する礫が削られて小さくなる前に河口に流れ着くことになります。宝永大噴火後には、確かに大量のスコリアが大量に流下する様になったものの、一緒に流れてくる礫も相応に多く、全体としては川底の様子をそれほど変えなかったのではないかと思います。

旧東海道:現在の酒匂川の渡し付近の様子
現在の酒匂川の渡し付近の様子(小田原側から)
高水敷は草で広く覆われる様になっている
出来ればこの辺りを現在の景観から探れれば良いのですが、酒匂川も他の河川同様、大正時代から高度成長時代にかけて大量の砂や礫が土木工事の骨材として採取され(現在は禁止されています)、更に三保ダム建設をはじめとする近年の治水工事の影響も多々ありますので、果たして何処まで江戸時代頃の状況と同じと言えるか、難しくなってしまっています。ただ、現在の酒匂川橋の下の水中を覗き込むと礫が勝っているのを観察することが出来、恐らくは当時の河原もあの様な感じの箇所が多かったのだろうと思えます。

これらの点を念頭に置きつつ、次回から明治維新後の架橋の歴史を追います。




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