「吾妻鏡」頼朝の出産祈願の記事を巡って

【旧東海道】その10 平塚宿と大磯宿の「近さ」(その4)」で、源頼朝が建久3年(1192年)に北条政子の出産祈願のために相模国内の計28社に神馬を奉納した吾妻鏡の記事を紹介しました。その時ふと気になったことをメモします。

まず、その吾妻鏡からの引用を改めてここに転記します。

建久三年八月九日条:

九日 己酉 天晴れ風静かなり。早旦以後、御台所御産の気あり。御加持は宮法眼、験者は義慶坊・大学房等なり。鶴岡、相模国の神社仏寺に神馬を奉り、誦経を修せらる。いわゆる、

  • 福田寺酒匂
  • 平等寺豊田
  • 範隆寺平塚

  • 宗元寺三浦
  • 常蘇寺城所
  • 王福寺坂本

  • 新楽寺
  • 高麗寺大磯
  • 国分寺一宮下

  • 弥勒寺波多野
  • 五大堂八幡、号大会御堂
  • 寺務寺
  • 観音寺金目
  • 大山寺
  • 霊山寺日向

  • 大箱根
  • 惣社柳田
  • 一宮佐河大明神

  • 二宮河勾大明神
  • 三宮冠大明神
  • 四宮前取大明神

  • 八幡宮
  • 天満宮
  • 五頭宮

  • 黒部宮平塚
  • 賀茂柳下
  • 新日吉柳田

まづ、鶴岡に神馬二疋上下。千葉平次兵衛尉、三浦太郎等これを相具す。そのほかの寺社は、在所の地頭これを請け取る。景季、義村等奉行たり。巳の剋、男子御産なり。

(「大磯町史1 資料編 古代・中世・近世⑴」より引用、強調はブログ主)


この28社が何処に当たるかは大半がほぼ解明されています(廃寺含む)。こちらのサイトではその一覧がまとめられていますが、未確定なのは「八幡宮」(現在の平塚八幡宮)の次に記された「天満宮」のみになっています。

しかし、私がこの一覧を見ていておや?と思ったのは、

国分寺一宮下

と記されていることでした。相模国分寺が「一宮下」にある様に記されています。これは何を意味するのでしょうか。

相模国分寺跡上空写真(再掲)
以前も取り上げましたが、相模国の国分寺は律令時代に現在の海老名市域内に建立されました。平安時代末期になって朝廷の権力が弱体化するにつれ、各国の国分寺も衰退を免れなかった様で、源頼朝も荒廃した国分寺の再興に尽力したことが吾妻鏡に次の様に記されています。

(文治二年(1186年)五月)廿九日 …また神社佛寺興行の事、二品(頼朝)日來思しめし立つの由、かつは京都に申さるるところなり。かつは東海道においては、守護人等に仰せて、その國の惣社(そうじゃ)ならびに國分寺の破壊、および同じく靈寺顚倒の事等を注さる。これ重ねて奏聞を經られ、事の(てい)に随ひて修造を加へられんがためなり。

(読み下しは「全譯 吾妻鏡」貴志 正造訳注 新人物往来社 1976年による。ルビも同書に従う。…は中略)

(建久五年(1194年)十一月)廿七日 … 近國一ノ宮ならびに國分寺、破壊を修復すべきの旨、仰せ下さる。

(読み下し同上)


北条政子の出産祈願は、この2つの国分寺修復に纏わる記事の間に来ますので、建久3年当時の相模国分寺は最初の修築を受けている可能性が高いものの、ここに相模国の一宮である寒川神社が含まれていたかどうかは定かではありません。相模国の総社は六所宮(現在の大磯・六所神社)ですから、そちらの方が修築の対象になったのかも知れませんし、荒廃が確認されなければその時には修築は行われていない可能性もあります。

この寒川神社から律令時代の国分寺跡までは、直線距離で8km以上も隔たっています。国分寺は鎌倉時代以降も再び荒廃し、現在の国分寺は律令時代の国分寺の南東の丘の上にあった薬師堂跡に移されていますが(時期は不詳ですが、戦国時代に焼け残った薬師堂を現在の丘陵上に移して再興したとされています)、移動距離は200mほどと取るに足りませんので、寒川神社からは同様に大きく隔たっていることになります。

その様な地が「一宮下」と呼ばれていたというのは、この距離を考えるとどうも不自然です。このため、鎌倉時代には寒川神社の近くに国分寺が移築されていた、という説もあります。

…かく見てくると、寺社の下の漢字はいずれも地名を現わしていること確かである。従って国分寺の下の「一の宮下」も国分寺の所在を示すものと考えて差支えない。(…)一ノ宮が寒川にあることが明白であることから考えると、国分寺はこの付近にあったということがいえると思われる。正に相模国の国分寺の所在を明示した文献は実にここに至って初めてであるということが出来る。

(「鎌倉期における相模国分寺」池田 正一郎、「えびなの歴史 海老名市史研究 第9号」海老名市史編集委員会 1997年11月 32ページより引用、…は中略)



現在の寒川神社前(ストリートビュー
もっとも、相模国分寺の移転を確実に裏付けるような他の史料や移転先の国分寺跡などは存在しないのが実情ですし、仮に移築されたのが正しいとしても、それが何故戦国時代の頃には再度海老名の地へと戻っていたのかもわかりません。実際のところ、上記の論文では各社の補足を何れも地名であると判じており、その実例として

一ノ宮から四ノ宮までは地名を冠した明神名でやはり前者と同じく宮社の所在を表していると考えられる。…この筆法でいえば三宮の冠大明神の冠も地名たること疑いを入れないと思われるが、該当地がない。

(同書31ページ)

としています。しかしながらこの「冠大明神」は相模国三宮である比々多神社に伝わる由緒によれば天長9年(832年)に淳和天皇より賜ったとされる神号です。従って、飽くまでも地名であるとするこの論文の指摘はやはり必ずしも当たっておらず、「五大堂」に「号大会御堂」と記されるなど、もう少し緩やかな意味をもって各社の名称を補足したものだと解釈する方が妥当でしょう。

そこでもう一度この一覧を良く見ると、各社の並びが妙にバラバラであることに気付きます。一方が他方の別当という関係にあった平塚の範隆寺と黒部宮が、そもそもどうしてこんなに一覧の最初の方と終わりの方に分散して書かれているのか、他にも大磯方面の寺社が最初の方と終わりの方に分かれて出て来るのは何故か、ここをヒントにして何か考えられることがないか、自分なりに検討してみました。

源頼朝自身が建立に尽力したお膝元の鎌倉・鶴岡八幡宮が、この一覧から外れて筆頭に上がっているのはある意味当然でしょう。しかし、その鶴岡八幡宮と対等の地位にあった一宮、寒川神社は六所宮以下の5社とセットになって、この一覧の中ほどより後半に出て来ます。また、頼朝が「二所詣で」を繰り返していた「大箱根」、つまり箱根権現はその直前と、やはり一覧の後半に位置しています。従ってこの一覧は、必ずしも各寺社の序列に従って記されたものではないことがわかります。ただ、当時の主だった(と考えられる)寺社がむしろ後半に出て来るのは、この一覧のひとつの特徴だと言えると思います。

そして、この一覧に載っている総勢28社に神馬を奉納して安産祈願を依頼したとされている訳ですが、それだけの馬を用立てて遠方にまで送り届けるとなれば、物理的にかなりの時間が必要な筈です。「早旦」、つまり朝早くに産気づいて「巳の刻」、すなわち午前中には産まれた訳で、産気づいてから慌ててこれらの各社に馬を送っても、鶴岡八幡宮以外は到底間に合わないでしょう。そもそも懐妊がわかってから出産までそれなりに日数があることを考え合わせると、この一覧に載っている各社に神馬を奉納したのは実際は「建久三年八月九日」よりも前ではなかったでしょうか。

とすれば、この一覧は北条政子の懐妊を知った頼朝が、出産が近づくに連れて次第に募る不安を抑えるべく祈祷の依頼先を増やしていった順番なのかも知れません。実際、出産前月には

(建久三年七月)三日 癸酉 今曉より御臺(政子)所いささか御不例。諸人走り參ず。若宮別當法眼(圓曉)護身に候ぜらると云々。

 … 

八日 戊寅 御臺所御不例の事、すでに復本せしめたまふ。これただ御懐孕(ごくわいよう)の故の由、醫師三條左近將監これを申すと云々。

(読み下し同上)

と政子が体調を崩したりしていますので、頼朝が不安を募らせるだけの状況はあった様です。

そして、これだけの寺社に奉納する馬を用立てるために必要な時間を考えても、相応の日数に分散して奉納が行われたと考える方が自然だと思います。寧ろ一覧の後半に主要な寺社の名前が現れるのは、当初は普通の安産祈願を行うべく比較的社格の低い寺社に頼んでいたところが、増大する不安にやはり主だった寺社にも頼まなければと思い直した結果なのではないか、という気がします。もし全ての寺社に一括して奉納が行われたのであれば、もう少しこの一覧は整理されたものになったと思えるからです。

平塚・黒部宮
現在の黒部宮(再掲)
以上のことを考え合わせて「国分寺」に併記された「一宮下」を解釈するならば、これは当時の国分寺の位置を意味するものではなく、国分寺が当時何らかの形で寒川神社の支配下にあった、ということを意味しているのではないかとも思えます。平安時代末期に荒廃していた国分寺の再建に当たって、何らかの後ろ盾が必要になっていたために、寒川神社の配下に入ったということなのかも知れません。あるいは既に当時荒廃していた国分寺が、一時的に一宮の堂宇の一つを借り受けて「避難」してきていた可能性もあり得ますが、後に元の所在地に戻っていることから考えても、恒久的に移転してきていたのではないのではないかと思います。恒久的な移転だったのであれば、数年後の修築も寒川神社の付近で行われ、その地で国分寺が受け継がれた可能性が高くなるでしょう。

また、比較的早い時期から祈祷の依頼を受けていた平塚範隆寺に対して黒部宮が後から追加される形になっているのも、同様の理由で祈祷の加勢の依頼を本宮が受けたからではないか、という気もするのですが如何でしょうか。




追記(2015/11/24):Yahoo!地図とストリートビューを貼り直しました。
スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

トラックバック

URL :