【旧東海道】その11 大磯〜梅沢の地形と立場(その2)

前回は大磯丘陵下の地形を見ながら梅沢まで来ました。平塚と大磯の距離の近さを取り上げた際にも、この立場(たてば)の賑わいについて軽く触れましたが、今回はその辺りをもう少し掘り下げてみたいと思います。


梅沢の立場から川勾神社へのルート
川勾神社鳥居(Wikipediaより)
川勾神社鳥居
("Kawawa jinja Gate" by ChiefHira
- 投稿者自身による作品.
Licensed under GFDL
via ウィキメディア・コモンズ.)

前回見た通り、この梅沢の立場は相模国の二ノ宮である川勾(かわわ)神社への分岐点に当たっています。ここから川勾神社までは1kmほどの道のり、往復すると30分は優に掛かりますので、街道歩きの最中にここまで訪れる人はなかなかいない様ですが、周囲を畑地と杉林に囲まれた、落ち着いた古社の佇まいがなかなか魅力的な神社です(今回は写真が準備できなかったのでWikipediaの写真を添えておきます)。


吾妻権現(現在の吾妻神社)の位置
二宮・吾妻神社一の鳥居
吾妻神社(旧吾妻権現)の
東海道沿いの鳥居

また、その東側の吾妻山の上には吾妻権現が祀られています。日本武尊の弟橘媛の入水の伝説との関連で語られる社で、明治以降は神仏分離の影響で神社化しましたが、江戸時代には権現社のひとつであり、世田谷区立郷土資料館編の「伊勢道中記資料」によれば、同地の伊勢詣での講中では伊勢への途上に決まってこの吾妻権現に詣でていたことが確認出来ます。箱根権現にも必ず参詣するルートが固定していたことから考えると、この頃は権現社同士で何らかの関連を持っていたことを窺わせます。

こちらは川勾神社よりは幾らか東海道に近いとは言え、神社が山の上にあるだけに、こちらも街道歩きの最中に立ち寄ろうという人は少ないかも知れません。

こうした寺社を抱える梅沢の地ですから、古くからそれらの門前町として栄えていたのではないかと考えたくなるのは自然なことです。「東海木曽両道中懐宝図鑑」(渓斎英泉編、「広重の東海道五拾三次旅景色 天保山懐宝道中図で辿る」1997年 人文社所収)では、「あづまごんげんのとりゐ(吾妻権現の鳥居)」の下に「元梅沢」と記しており、元は吾妻権現との所縁が強かったことも窺えます。しかし、梅沢が具体的に何時頃から東海道筋の茶屋街として成立したのかははっきりしていません。江戸初期の紀行文では、万治年間(1658〜61年)に出版されたと考えられている「東海道名所記」(浅井了意著)に、既に梅沢について1つ項目が設けられています。この項の全文は次の通りです。

梅澤 茶やあり。入口に(あづま)の明神とて高き山あり。町の中に橋あり、長さ十二間。男いふやう、いざや御房、茶やにやすみ給へとて、立より、あぶりどうふ、もちゐ、さけをとゝのへ、ふるまひけり。男はさかなのため、鰹のあぶりものを買てくへども、樂阿彌はさすがにえくはず、かくぞよみける。

口の内に津こそはたまれ梅澤の茶やの(さかな)は我もすきゆへ

此哥にめでゝ、くはせければ、腹ふくるゝほどくひけり。男うちわらひて、

梅澤やなむあみ引てとる鰹彌陀の理(けん)でさしみにぞする

(「日本古典全集」日本古典全集刊行会発行 1931年、現代思潮社復刻版 1978年より引用)

「東海道名所記」は江戸初期の東海道のガイド本ですから、ここにこの様に記されているということは、軒数は不明ですがこの頃には既に梅沢で営まれている茶屋が一般に認知されていたと言って良いでしょう。因みに、ここで出て来る「東の明神」が吾妻権現を指しています。町の中の橋とは梅沢川に架かる橋のことでしょうから、既にそこそこの大きさの集落になっていたのかも知れません。因みにこの紀行文は俄か僧侶と大坂から出てきた若い手代の二人連れで東海道を京へ向かうという設定で書かれており、この二人が梅沢川の橋を渡った辺りで茶屋に入ってカツオを肴に一献…とは言え、連れの僧侶「樂阿彌」にとっては殺生は一応御法度なので、こんな狂歌のやり取りになっている訳ですね。


もう1つ、元禄3年(1690年)に出版された「東海道分間絵図」の梅沢付近を見ると(リンク先の右端辺りに「梅沢」が小判形に囲まれて記載されている)、下の方に「ちや屋かずかず/さかな有」と記されており、この頃には既に茶屋「街」として認知され、「東海道名所記」の記述共々茶屋街が魚を供していたことがわかります。また、元禄16年(1703年)11月の大地震(元禄地震)の際に、江戸から京への帰途上にたまたま戸塚宿に宿泊していた梨木祐之という人の記した「祐之地震道記」に

廿七日…梅沢と云所は、茶店さのみ傾損の体もみえず、わづかに六七軒程つぶれたり。

(「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」1985年 吉川弘文館 146ページより引用、…は中略)

とある所から判断すると、この頃には既に「6〜7軒」を「わづかに」と表現出来る程度の規模の大きな街場に成長していたと考えられます。

因みに、「二宮町史 通史編」では梅沢に松屋本陣など宿場同然の機能が揃う時期を、同地の茶屋本陣松屋に残る「御小休帳」が宝永5年(1708年)までしか遡らないことなどを根拠に、元禄年間以降と推測しています(492ページ)が、上記の各史料の示す年代を重ねて考えると、松屋本陣自体はさておき、それ以外の機能はもう少し時代を遡ると判断して差し支えないのではないか、と個人的には考えています。何れにせよ、この点は江戸時代、特に初期に同地のことを書いた紀行文や旅日記の掘り起こしが進むと、もう少し具体的なことがわかるかも知れません。

ただ、当時のこの村は農産物では恵まれていないという認識を持っていた様です。前回も引用した、梅沢山等覚院東光寺(藤巻寺)の実応が著した「楳澤志」(文政8年、1825年)では、この村の土地の痩せ加減を、次の様な文章で紹介しています。この土地の地質面の特徴も良く伝わる文章なので、少々長いですが該当項目を全文引用します。

土産(さんぶつ)

此里田畠(すくなく)して民家多き故、(こく)(いたって)(とうとく)して他村より購需(かいもとめ)日用とす故、魚販賃負の(たぐい)多く坐賈(ざこ)(ともがら)少なし。山嵬(さんかい)けわしくして林樹生育(あしく)海業すれども捕魚()れに邂逅(かいこう)得ると言えども東朝(えど)の魚店に送て磯賈(いそあきない)禁ぜらる故、得料賤(りえきすくなく)、魚稀なれば益(すくなく)、田畠山の(はざま)少しくあれども、土地元来低昂(ていこう)、平坦ならず官道(かいどう)以北豊穣(こえたとち)あれども(こいし)又土くれ多く地浅し。官道以南は平坦なれども砂地にして至暑(なつ)の作毛炎枯(ひがれ)すること常なり。竹木水ともに(とぼ)しくして一品冨饒(ふじょう)なる物なし。是故に往昔(むかし)より冨家豪財者の居住せしを聞かず。実に貧しき里なれども官道程(かいどうわき)なれば石高(こくだか)不相応に家(なら)ぶも泰平の余澤(よたく)()らる。

(2008年 二宮古文書会刊 私家本より、ルビも原則同書に従う)

東海道の北側は砂礫を含んだ層が多いというのは、この大磯丘陵が堆積物が隆起して出来上がったことを物語っています。対して南部が砂地なのは段丘に溜まった砂丘のせいですね。何れも前回紹介した大磯丘陵下の地質分布の特徴と良く合致します。実応が収穫量について多少悲観的な側面を強調する嫌いはある様ですが、地質面の見立てはそこそこ妥当なのではないかと思います。何れにせよ非常に痩せた土地の貧乏な集落の筈が、今の梅沢に立派な茶店が並ぶ様になったのは世の中が安泰でゆとりがあるからだ、と言っている訳です。

因みに大半の農産物が梅沢では上手く実らないことを、個々の農産品毎に指摘していく中で、「越瓜(しろうり)」と共に梅沢の名産として実応が名を挙げているのが、この地の名の由来になった梅でした。同じく「楳澤志」では次の様に紹介されています。

菓樹(かじゅ) 梅核(うめのみ)外諸菓結実(みの)らず。(たちばな) (ゆづ) 桃 梨 (かき)等無し

砂地故に地肥(つづ)かず。諸樹空虚となりて枯る、これに因り村中松樹両三株の外老樹(まれ)

梅樹核(うめのみ) 村中大都(おおむね)白梅なり。(はたけ)(あぜ)(うね)後園前庭林として晩冬より春までは荘観たり。(うら)むべし、詩歌文人の往来すれども(とな)えず。只道興(どうこう)王の御詠あるのみ。(歌名所部に出)核塩(うめぼし)或は酒粕醤(さけかすつけ)旅客に(うる)又は他邦へも(うる)。肉(やわらかく)且厚く、他邦に非類(じつ)に当村の名産なり。

(引用元等上に同じ)


道興准后の歌は、その「廻国雑記」(文明19年、1487年)に「梅沢の里を過ぎ侍るとて、」と題して詠まれた

「旅衣我れも春待頃なれば聞もなつかし梅澤の里」

のことを指しています。これ以外にこれと言って詠まれた歌が見当たらないのを「恨むべし」と言っている訳ですが、今では偽書であることがほぼ確定的と言われる伝太田道灌の「平安紀行」に記された

「春ならば旅行袖もつらからじ名のみは匂ふ梅沢の里」

という歌については、実応はどう考えていたのでしょうか。また、「新編相模国風土記稿」でも

古此地梅樹多し、故に名すと云、されば、元和八年十二月、内大臣通村、關東より歸洛の路次、此地において梅花の詠あり、【關東海道記】曰、元和八年十二月十六日、江戸を立て登りけるに、十八日大磯のこなた、梅澤と云所にて梅の咲しに、冬かけて咲梅澤の所にて春の隣の近きをぞしる今も猶多く植て、其實を鬻ぐ者許多あり

(卷之四十 淘綾郡卷之二 山西村の項より、強調はブログ主)

という歌も紹介されています。こうした歌に詠み込まれて世にその名が知られれば、梅沢ももう少し名所として認知されることになったのに、ということなのでしょうが、西行の歌が呼び水になって鴫立庵が出来た大磯宿を意識していたのでしょうか。

それはさておき、前回見た様にこの一帯は海岸段丘の上に一部砂丘が出来る様な土地である訳ですが、そのために土地が痩せてしまい根付くものが少なく、辛うじて梅だけが名産になったが、その代わり質は自慢…ということですね。今は二宮町の特産品の中に梅は入っていない様ですが…。茶屋が魚を供していたのも、陸のものではこれといったものを品書に出せないので、どうしても海のものに頼らざるを得なかったのでしょう。

二宮・梅沢等覚院のフジ説明
二宮・梅沢等覚院のフジ解説ガイド
二宮・梅沢等覚院のフジ(2007年)
二宮・梅沢等覚院のフジ(2007年)

結局、街道の立地としては理想的な海岸段丘や砂丘を齎した地形・地質も、農業にはむしろマイナスに働いてしまうので、村はその分だけ街道に恵みを求める方向に流れ、農間渡世としての立場稼業に精を出さずにはいられなかった、という事情もありそうです。「二宮町史 通史編」では梅沢の立場の様子について、次の様に説明しています。

…ここ梅沢の立場も、山西村中でも村の中央より小田原方面へ寄った、押切川に近い村内西端を特に茶屋町と俗に呼び、「松屋」を名乗る茶屋本陣を中心に、茶店や商家が並び、さながら宿場の体をなしていたのである。文久二(一八六二)年十月の山西村「村内軒別坪数書上帳」(山西 宮戸貞夫氏所蔵)によれば、…この松屋を中心に釜成屋・蔦屋・福島屋・福田屋・松本屋・井筒屋・熊沢屋などの茶店(旅籠屋)が並ぶ。このほか、甲州屋・酒屋・米屋・豆腐屋・足袋屋・関野屋・油屋など商人と思われる屋号を持つ家も建ち並んでいた…。…また、村内全体では、大工…・表具屋・桶屋・鍛冶屋など職人とおぼしき屋号、風呂屋と思われる湯屋の屋号、駕籠かきを商売とするであろう「かごや」の屋号、荷物の付け送りを業務とする「荷宿」の屋号、駄賃馬の差配(さしはい)を行っていたと思われる「伝馬」の屋号などがあり、屋号一つとってみても紛れもなく宿場の機能を取り揃えた村であるということができた。

(同書491〜492ページ、…は中略)

少なくとも、この街並みはとても農村のものとは言えず、それだけこの茶屋町に依存した村が出来上がっていた、と言って良いでしょう。

こうして見て行くと、これだけ賑わっていながら、そして大磯〜小田原間があれほど距離が隔たっていて、宿場を担っていても不思議ではない位置にいながら、梅沢が結局立場の地位に留まったのは、少なくとも伝馬朱印状が発給された江戸時代初期には、その役目を負える程の力がこの村にまだなかったことに原因の一端があるのではないかと個人的には考えます。大磯や小田原は東海道だけではなく、内陸に向けての街道の交点にあって、そこを行き交う荷馬を押さえることが出来る立地だった(だからこそ大磯宿は平塚宿に内陸への中継点としての役目を譲らなかった、という面もある訳です)のに対し、その中間に位置する梅沢は秦野への道はあったものの遠方に向かう道筋ではなく、継立の拠点としても弱かったことも、宿場化するには力不足と判断されたのでしょう。

ただ、それであるなら、後に立場が大きくなり、利用客も増えたのであれば、その時に改めて伝馬朱印状発給を検討されていても良さそうなものですが、その頃になると助郷の調達など宿場の負担が過重になり、公的に宿場を担うだけの旨味は無くなっているのが傍からもわかる様になってしまっていました。実際、伝馬朱印状の発給は江戸時代初期に限定されていて、以降は既存の宿場だけで伝馬を運用する様になっていました。また、その頃には既存の宿場の規模が立場程度の集落とは比べ物にならない程に大きくなっていましたから、後発で伝馬朱印状を受け取ってもその規模差を巻き返すには遅過ぎた、という側面もあるでしょう。

とは言え、宿場間の距離の大きなバラツキという矛盾が、そんなことで手付かずのまま運用され続ければ、その「皺寄せ」は何処かしらに出て来るものです。その件については次回に。



追記(2015/01/04):Wikimedia Commonsのライセンス表記を追加しました。

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