【旧東海道】その11 大磯〜梅沢の地形と立場(その1)

旧東海道:大磯宿高札場→国府津
大磯宿から国府津までの旧東海道のルート
(「地理院地図」に「ルートラボ」で作成したルートを取り込み
加工したものをスクリーンキャプチャ
数値地図25000(土地条件)」と「色別標高図」を合成)
前回まで、平塚宿と大磯宿の間が、その両隣と比較して妙に近いことを、歴史的な経緯から説明出来るかどうかを試みてきました。

この大磯宿に差し掛かる手前、花水川(現:金目川)を渡って高麗山(こまやま)の麓を進む区間に入ると、周囲は相模平野の開けた風景から左手に丘陵の迫る風景へと変化します。特に高麗山の姿は、「その10」を始める際にも広重の浮世絵を引いてその独特の山容に触れましたが、当時の人にとっても余程強い印象を与える山であった様で、

大磯へ鼻を出してる高麗寺

(「川柳旅日記 その1 東海道見付宿まで」山本光正著 2011年 同成社より引用)

などという川柳が残っているほどです。街道周囲に平野が大きく広がるのは、国府津(こうづ)を過ぎて足柄平野に入る辺りまでお預けです。それまで暫くの間は、左手の山々が東海道に付かず離れずの位置で続きます。高麗山は、そんな平野部が終わって景色が変わる地点にある、象徴的な存在とも言えるでしょう。
大磯丘陵地質図
大磯丘陵地質図
(「小田原市史 別編 自然」53ページ、
 図2-20に一部加筆)
この、高麗山から吾妻山に連なる山々は「大磯丘陵」と呼ばれる丘陵地帯の南辺に当たります。大磯丘陵について、「大磯町史9 別編 自然」では次の様に解説しています。

大磯町が含まれる大磯丘陵は、丹沢山地の南方に秦野盆地を隔てて広がっており、大磯町、小田原市国府津、松田町、秦野市、大磯町をこの順に結んでできる地域である。大磯丘陵はほぼ平行四辺形をなし、西縁は国府津—松田断層崖を経て足柄平野に接し、北辺は渋沢断層によって境されて秦野盆地に続いている。南の縁には数段の新しい海岸段丘が細長く発達している。この海岸段丘の上には砂丘が発達している。丘陵の内部には、海岸段丘に連続する河岸段丘があり、この段丘面より高位の段丘面もいくつか観察できる。

(同書15ページ、強調はブログ主)


旧東海道との関連で注目したいのは、丘陵南縁に発達した海岸段丘で、これについて同書では更に次の様に詳説します。

⑵ 押切面

…海抜高度は数mから10m程度である。二宮町押切川の河口付近に模式的に発達している…。

大磯町内では、鴫立沢から東の、東海道の1号線以南の部分に発達している。…

⑶ 前川面

…小田原市前川において模式的に発達している…。10m位の標高がある。しかし、分布は狭く、大磯町内では、高麗山の南麓から東海道1号線までの間の狭い範囲に限られている。ここは比較的古くから集落の発達が見られたところである。

⑷ 中村原面

…押切面、前川面のいずれよりも面積が広い。海抜高度は20mを超え、大磯町台町から葛川の河口を経て二宮町押切川の河口まで連続して伸びている。大磯町西小磯や国府新宿においては、海岸から北方の丘陵の麓にまで達し、広い面積を占めている。また、不動川に沿って、寺坂を経、平塚市吉沢にまで伸びている。海岸に沿うところでは砂丘が発達しているため、高度がいくぶん高まっている。一般には極めて平坦で、よい住宅地、農耕地となっている。

この面は縄文時代の中期(今から5,000〜6,000年前)の高海水準面時代に形成された下原貝層の堆積面である。

(同書17〜21ページ、…は省略)


大磯丘陵の完新世段丘面分布図
大磯丘陵の段丘分布
(「小田原市史 別編 自然」60ページ、図2-24)
海岸から大磯丘陵までの幅はそれほど広い訳ではないのですが、その間にこの様に複数の海岸段丘が出来ており、部分的には更にその上に砂丘が被って標高が増しているため、海岸沿いを進む旧東海道にとっては実に都合の良い、程々の標高の平坦地を提供してくれている訳です。もしもこの段丘がなければ、東海道は高潮を気にしながら波打ち際を進む道になったか、大磯丘陵の中を上り下りする、何れの場合ももっと道行く人の負担になる道筋になっていた筈です。特に、中村原面の広がる、東海道では大磯宿の京方見付付近から梅沢に至る区間では標高がコンスタントに20mを越え、海からの災害という点ではかなり安心して歩ける区間だったと言って良いでしょう。

こうした海岸段丘の形成には、この一帯の大きな地殻変動が関与していることは間違いないでしょう。

大磯町を含めた大磯丘陵南部一帯は、地殻運動の激しいところとして知られている。関東大地震の時は、大磯町から二宮町にかけての沿岸一帯が、1.4mも隆起したことが地震後の測量によって明らかにされた。中村原面の高度は約20mで、中村原面の形成が縄文時代中期に始まったと考えられるので、この間海面の変動がなかったものとして平均隆起量を求めると、

20m/5,000年=4m/1,000年

という結果が得られる。

この値は地殻変動が非常に激しいといわれる日本の中でも超一級の値である。

(同書22〜23ページ)

大磯丘陵の上には波食台地の痕跡も見つかっています。恐らくは、波の下で洗われて形成された平坦地が隆起によって水面上に現れ、今度はその平坦地の崖を削り…ということを幾度も繰り返して出来たのでしょう。

東日本大震災以後津波への関心が高まったため、最近は海岸付近の地域ではその地点の標高を電柱などに掲示してあるのを良く見かける様になりました。このため、こうした地域で街道歩きや町歩きをする際に、かなり仔細に標高を確認しながら歩くことが出来ます。大磯から二宮にかけては旧東海道はほぼ現在の国道1号線沿いに進みますが、大磯宿の京方見付の辺りで20m前後の数字を示すと、それ以西では梅沢の立場跡までほぼこの標高が維持されています。途中で血洗川、不動川、梅沢川を渡り、その辺りで現在の国道を離れて幾分内陸寄りを進むと同時に標高も若干下がりますが、これは川までの標高差を迂回によって多少宥める意図がある様です。


大磯ロングビーチの北を東へと向かう葛川
また、二宮付近で渡る葛川は、その下流は大磯ロングビーチ付近の小高い砂丘に遮られて大きく東へと振られ、隣の不動川と河口を共有しています。この不自然な流路を見ていると、これもあるいは周辺の地殻変動が影響した結果だろうか、とも考えたくなってきます。

なお、梅沢を出て更に西に進むと、前川付近(現在の橘インターチェンジ付近)で再び標高20m程まで登ってきますが、その先では一段低い、標高10数m程度の高さを進む様になります。上記の段丘面の解説と併せて考えると、この標高差の感覚が分かるのではないでしょうか。文政8年(1825年)に地元の梅沢山等覚院東光寺(藤巻寺)の住持であった実応が著した「楳澤志(うめざわし)」という地誌には

里人口碑(いいつたえ)すらく、昔しは梅澤の神明下を通りて田島へ出、倉上道(くらかみみち)川匂(かわわ)へと行きて前川(まえかわ)へ行くを本街道なるよし。今の官道(かいどう)は慶長以後の新道なるよし。

(「馬蹄(ばてい)石」の項より、2008年 二宮古文書会刊 私家本より、ルビも原則同書に従う)

と、この付近は江戸時代以前はもっと内陸側を進むルートであったことが記されています。具体的にどの道筋であったかは定かではありませんが、あるいは当時は多少起伏があってももう少し標高を稼げる場所を進んでいたのかも知れません。


大磯・八坂神社
東海道より一段高い砂丘の上にある
小磯・八坂神社

八坂神社の位置
また、この区間は海岸が近いと言いながらも、東海道筋から海が見える箇所が殆どありません。大磯宿から現在の大磯ロングビーチ辺りまでは、街道沿いより更に一段高い砂丘が海側にあり、海への視界を完全に遮っています。小磯の八坂神社は街道の南側、海側の砂丘の斜面に位置し、拝殿からは街道を見下ろす位置になります。この区間では海からの潮風をある程度砂丘が遮ってくれているということでもあります。梅沢に近づく辺りでは海側とほぼ同じ標高の段丘上を進みますが、この辺りでは海側の建物に視界が遮られ、やはり海までの眺望は望めません。もっとも、標高と街道からの距離を考えると、仮に建物がなかったとしても果たして水平線が見えるかどうか…という程度だと思います。寛政9年(1797年)に儒学者であった頼山陽が安芸国から江戸へ向かう道すがらを記した「東遊漫録」にも、

(注:四月)九日 小田原城下を発し、酒匂川をこへ、海浜を通り江戸迄の道海は見へねども皆海浜也。箱根より東は山なし。一望大野なり。藤沢に到り宿。

(「藤沢市史料集(三十一)旅人がみた藤沢⑴—紀行文・旅日記抄—」22ページ、原文は「山陽東遊漫録」三樹書房より)

と、大分大雑把な表現ながら、海沿い道の割に海の風景を見ないことを書き記しています。


「川勾神社入口」交差点の位置
梅沢の立場跡に差し掛かる「川勾神社入口」交差点には国道1号線を跨ぐ歩道橋が架かっていますが、この上から眺めると民家越しに海を見通すことが出来ます。街道筋を外れて今は住宅地化している中を100mほど海辺に向かうと、やがて急傾斜に切られた階段の上から海を見られる場所に出ます。良い眺望と言いたい所なのですが、東海道筋とこれだけ高低差があると、いわゆる「こゆるぎの浜」を愛でながらの道中と言うには、ちょっと勝手が違ってしまうというのも事実です。

因みに、西湘バイパスはこの海岸段丘の下を走っていますので、段丘の上からは全くその姿が見えません。西湘バイパスのこの区間を走っている最中に万一大地震に遭遇したら、一刻も早く車を降りて山側の階段を駆け上がらないといけませんね。

次回はこの梅沢の立場についてもう少し考えてみたいと思います。



追記(2015/07/27):「ルートラボ」の地図を「地理院地図」で作成したものに置き換えました。その際、横幅を大幅に大きくしたため、レイアウトを一部見直しました。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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