【旧東海道】その10 平塚宿と大磯宿の「近さ」(まとめ)

平塚・柳町付近の旧東海道越しに高麗山を望む
平塚・柳町付近の旧東海道越しに
高麗山を望む
前回までかけて、大磯宿や平塚宿の歴史をひと通り見てきました。改めて記事の一覧を掲げます。



大磯が古来から和歌などに詠み込まれ、その名を広く知られた宿場であったのに比べれば、平塚はどちらかと言えば後発に属する宿場であったと言って良いでしょう。「平塚市史 通史編」の記述には疑問がありつつも、同地が当初は宿場以外の役割を担って開発された可能性もあることについて、私なりに考えてみたつもりです。

もっとも、当初に触れた通り、この2つの宿場が妙に近かった理由については、やはり確定的なことは言い難いのが実情です。何よりも、江戸時代より前の両宿の状況を窺い知ることが出来る史料があまり多いとは言えず、特に平塚宿については道中での記録さえ多くありません。宿場での継立や宿泊など、その機能に具体的に立ち入った史料となると更に少なく、僅かに戦国時代の後北条氏が伝馬を命じたものが大磯宿に関して数点残っている程度です。勿論、当時1日当たりどの位の宿泊客があったのかといった情報に繋がる史料は皆無です。そういう中では、まだ推測によって多くを補わなければならないのが実情ということでしょう。


今回は特に大磯より平塚の方でその難しさを多く感じる結果となりました。そのせいか、一通りまとめてみても、どうも当時の平塚の立ち位置の相対的な弱さだけが強調される結果になってしまった嫌いがあると感じています。これでは江戸時代の初期に平塚が大磯と共に伝馬朱印状を渡された理由が見え難いままになってしまいそうです。もう少し、特に中世後期の平塚の交通網上の位置付けがわかる史料があると良いのですが、どうも軍記物で軍の通過地として登場するケースが目立つので、伝馬朱印状配布前夜の立ち位置が語れなかったのは大きく影響していると思います。

その上、大磯宿にしても平塚宿にしても、時代を江戸時代以前まで遡った時にはその立地が異なっていた可能性があることも含めると、その移動した時期も含めて両宿の成立の経緯を考える必要があることになり、今のところその場所や時期については不明な点も多いので、更にこの問題を解きにくいものにしていると思います。平塚宿の鎮守である黒部宮の立地が春日社共々、相模川ではなく金目川(花水川)に程近かった点はヒントの1つになりそうではありますが、大磯宿などの立地との兼ね合いで何か説明出来そうな意味付けを見出すことは今回は出来ませんでした。

ただ、後世の目からは不自然に見える社会的な仕組みの背景には、それらが起こってきた「経緯」が大抵存在しています。今回見てきた宿場間の距離の偏りや、大磯宿が内陸方面への継立の権限を平塚宿を通り越して握っていた件などは、まさしくその様な事例だろうと思います。

こうした「経緯」は一般化して語ることが難しく、都度個別の事例を追ってみることによってしか、明らかに出来ないものだろうと思います。実際、神奈川宿と保土ヶ谷宿の場合は神奈川湊や帷子川を結節点に両者の間柄を考えることが出来たのですが、平塚宿と大磯宿の場合は、今のところその様な結節点を見出せませんでした。平塚〜大磯間の方が神奈川〜保土ヶ谷間よりも短距離であるにも拘らず、です。つまり、結局前回とは同じ手法では語り切れていないことは否めません。この様に、他の区間での事例を安易に援用出来ないのも、この問題を解き難いものにしていると思います。

とは言え、今回平塚宿や大磯宿の歴史を一通り辿ったことで、これまでの理解とはまた違った両宿の側面に気付くことが出来た点は有意義だったとも感じています。また、至近に位置する2つの宿場が、元は別々の役割を担った街であったという見立ては、現時点では裏付けに乏しいもののあり得る方向性であることを、一応は示すことが出来たのではないかと思います。今回の平塚宿〜大磯宿間の距離の偏りの問題については中途半端ながら一旦ここで一区切りとしますが、また何か新しい発見があったら再び考えてみたいと思います。



これだけで終わるのもどうかと思いますので、最後に平塚周辺の地形について簡単に御紹介します。

平塚付近の微地形分類図
平塚付近の微地形分類図
「大いなる神奈川の地盤」図-2.18より
相模川の西岸には、かなり内陸部から海岸線に並行する形で砂丘が並んでいます。これは「横列砂丘」と呼ばれています。「その4」でも引用した一帯の微地形分類図(「大いなる神奈川の地盤」50ページ:図-2.18)を見ると、相模川の西岸に堤間凹地を挟んだ砂州・砂丘帯が広がっているのが良くわかります。

この砂丘・砂州地形についても、「平塚市博物館」のWebサイト上でかなり詳しく解説されています。この砂丘の委細についてはそちらをご覧なった方が良いでしょう。記事数が多いので、その全てをここで御紹介出来ませんが、差し当たって東海道周辺(黒部宮周辺)と、中原御殿周辺の記事を見繕ってリンクを列挙します。


平塚・医王寺の墓地の砂丘
医王寺の墓地。
南側は東海道線の相模貨物駅の
敷地のために削られているが、
全体が砂丘の上にある。
平塚宿周辺はあまり高低差がはっきりと見えませんが、少し南側に逸れてみると、宿場付近に比べて幾らか窪地になった場所があるのが民家の塀の裾に感じられる場所があり、東海道線沿いに残る医王寺の墓地などに砂丘の名残が見られます。この位の微小な地形になると、少しでも周辺より標高を稼ぐことが重要になるのでしょう。勿論、戦後の街区整備で多少の高低差が均された箇所も多々あると思います。

また、上記平塚市博物館の記事でも触れられている様に、かつての黒部宮の辺りには一際目立つ砂丘があり、かつての宿場がこの辺りにあったという平塚宿の「地誌取調書上帳」での指摘も、あるいは黒部丘の方が「平塚」の地名の由来であるという説も、この地形を見ると確かにそうであった可能性は少なくないと思えてきます。仮に元から現在地に平塚の集落があったとしても、砂丘の作り出した微地形を利用して集落が形成され、そこから地名が起きたことには変わりはなさそうです。


他方、宿場の北側に位置する中原御殿や、周辺の関連施設も、これらの砂丘地形を巧みに使って設置されていることが窺えます。一時的にせよ将軍が屢々訪れ、地方行政を取り仕切る中原代官の陣屋が置かれたことは、この中原の地にも、そしてその周辺の村々にも、少なからぬ恩恵を齎したのでしょう。

平塚宿に差し出された伝馬の朱印状も、そうした「恩恵」のうちに入っているのはどうやら間違いなさそうです。




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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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