【旧東海道】その10余録:「化粧坂」について

さて、「(その3)」で大磯宿の歴史について説明した際に、当初高麗寺の門前町として始まった宿場がやがて海沿いへと移転したのではないか、そしてそれが、和歌などによって名勝地として知られたが故のことではないか、という見解を披露致しました。これについて、もう少し考えを深める上での材料がないかと「新編相模国風土記稿」を見返していて、その国府本郷村の項に、こんな記述があるのに気付きました。

◯化粧塚 西北の方、生澤村堺にあり、由來詳ならず、此所は三ノ宮明神の休息所と云、

(卷之四十 淘綾郡卷之二 雄山閣版より引用、強調はブログ主)



国府本郷の一里塚の位置
大磯・国府本郷一里塚のガイド
国府本郷一里塚のガイド

相模国の国府は平安時代末期には淘綾郡にあったと考えられているのですが、国府本郷村はその名称からその当時の国府があった場所と見られています。但し、今までの該当地域内の発掘調査では、具体的に国府の跡と考えられるものは出てきていません。大磯宿からは東海道筋を西に進み、小磯村を過ぎて切通しを抜けた先からの地域に当たります。東海道歩きをしていると、国府本郷の一里塚跡でその名を目にしている人が多いのではないかと思います。

そんな村に、大磯の化粧坂(けわいざか)化粧井戸(けわいいど)との関連を思わせる地名があるというのです。そう言えば「化粧」の名を冠した地名が他にもなかったかと思い付いて、一先ず「化粧坂」でネット上を検索したところ、冒頭に出てきたのはWikipediaの「化粧坂」の記事でした。こちらは鎌倉の七坂の一つですが、その由来について諸説紹介する中に次の様な一節が書かれています。

「化粧」を「ケショウ」と読むとそれは現在の意味の通りに「白粉でお化粧」の意味であるが、古くは「ケワイ」とも読み、その場合は「身だしなみを整える」と言う意味に使われる。

その意味からは「都市」=「ハレの場」に入る境で「身だしなみを整える」と言う意味で「ケワイ(化粧)坂」、つまりは「鎌倉中」への境界である坂との意味と考えるのが自然であると言う説がある。(「中世都市鎌倉の実像と境界」p178 五味文彦)

鎌倉以外にも「化粧坂」という地名は各地にみられ、多くは中世の国府や守護所などの近葉に見られる。その伝承の中にも境界で「身だしなみを整える」と解釈出来るものがあり、「境界の場の呼称」として「化粧坂」と通称されていたそのひとつとも考えられる

(コピー&ペースト後、明らかな漢字の誤変換は適宜訂正しました)


この最後の段落の一文が頭の中で引っ掛かりました。とすれば、あの大磯の化粧坂や国府本郷の化粧塚も、元は相模国府への入り口の場ということになるのでしょうか。

更に理解を深めるために、このWikipedia記事で指摘されている「中世都市鎌倉の実像と境界」の該当箇所を読んでみることにしました。該当箇所にはこう書かれています。

③化粧坂と極楽寺坂

石井氏は化粧坂について、境界の場の呼称として各地域に残っていることを民族的な事例を引きながら指摘した。その点から考えると、鎌倉の化粧坂は亀谷から入ったところにあるが、極楽寺坂も化粧坂といわれていた可能性があることを次の史料が教えてくれる。それは後深草院二条の日記『とはずがたり』正応二年(一二八九)条の、「明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りて見れば、僧のふるまひ都に違はず。なつかしくおぼえて見つつ、化粧坂といふ山を越えて鎌倉の方を見れば」という記事である。

その鎌倉入りの道順に沿ってゆくと、極楽寺から鎌倉に入ったとあるので、本来はそこが化粧坂と呼ばれていた可能性があることになる。鎌倉に西から入る場合は、多くは稲村崎・極楽寺から入っており、政子も稲瀬川のほとりに泊まって鎌倉に入っている。そうすると、極楽寺(注:「坂」落ちか)もかつて化粧坂といわれていた可能性は大いにあろう。

やがてその坂の近くに極楽寺が建てられ、坂の周辺が発展するにおよんで極楽寺坂といわれるようになったのであるが、この二つの坂からは、坂を場として活動する坂住人の存在も認められている。

(2001年 高志書院、「総括 鎌倉の中心性と境界性」中の一節)


この文中の「石井氏」は石井進氏のことで、この論文では同氏の著書を2つほど掲げて鎌倉の境界性についてまとめています。このうち、「中世のかたち」(「日本の中世1」網野善彦・石井進編 2002年 中央公論新社)の方を紐解くと、鎌倉の化粧坂が幕府公認の市の立つ場の一つであったことを紹介した部分の次に、次の様な核心に触れる一節が見つかります。

こうしてみると、化粧坂には、繁華な商業地域・市場で娼家が並び、遊女のたむろする場であると同時に、刑場であり葬送の場でもあるという、複雑な性格がまつわりついている。遊女たちの化粧と、敵将の首の化粧という二つの地名起源説は、まさにこの複雑な属性に対応したものであった。

中世、「けはう」は化粧する意味で用いられていたので、化粧坂という用字は正しく意味を伝えている。全国各地に化粧坂、化粧池、化粧石、化粧井などの地名が分布し、それぞれおそろしい神のために生けにえに献げられた若い女性がここで最後の化粧をした後、池の中に送られていったという類の美しくも悲しい伝説によって彩られている。

すでに柳田国男(やなぎだくにお)松浦佐用媛(まつらさよひめ)の物語を代表とする伝説について、民俗学的にその内容を見事に分析された。山口昌男(やまぐちまさお)氏はさらにそれを、化粧とは人間が「移行する状態をイメージで定着させること」、すなわち「(しる)すこと」だと表現し、「遊女は化粧をして、それから生け(にえ)になる」、「松浦佐用姫は化粧をして死に向う。生から死へ、陸から水へ移行していく。別の世界へ入っていく……坂を越えるということは、内なる村から外の世界へ入っていくことです。そういう場所に化粧池、化粧坂という名前が残っている」と説明を加えている。鎌倉における化粧坂とは、まさに山口氏の説く以上にあざやかに境界としての特質・属性を物語ってくれる場だったのではないか。

(同書139〜140ページ、ルビも原文ママ)


色々と引用が長くなってしまいましたが、五味氏が紹介した石井氏のもう一つの論文(「都市鎌倉における『地獄』の風景」(『御家人制の研究』御家人制研究会編 1981年 吉川弘文館))では、その脚注で大磯の化粧坂の虎御前伝説にも触れており、同氏がこの一節を書く上で意識した全国の「化粧」地名の中に、この大磯の化粧坂が含まれていたのはほぼ確実でしょう。私自身は、この手の「ハレ・ケ」といった場を自らの感覚で見極めるには余りにも鈍い散文的な性格の持ち主なので、差し当たっては民俗学の先哲の方々の見解を尊重することしか出来ませんが、以下に紹介する様に現在でも祭礼の場でこうした場が維持されている実例を見る限り、大磯や国府本郷にも当て嵌まる可能性はかなり高いのではないかと考えています。

こうした見解に従うならば、大磯の化粧坂の周囲には、元は宿場と言うよりは相模国府の市があり、その境界の守護神として高麗寺が位置付けられていたという関係になると解釈することになりそうです。相模国府の大住郡→淘綾郡の移転の経緯を考えると、高麗寺の創建の方が先になりそうですが、それであれば国府の境界地に相応しい場所としてこの坂の周辺が選定され、門前町の賑わいに辺縁地の市の賑わいが加わり、そこに遊女宿が出来、虎御前登場の舞台が整った…そんな成り立ちを考えることも出来そうに思えてきます。

現在の大磯・化粧坂(2007年撮影)
現在の大磯・化粧坂(2007年撮影)
この坂の途中に一里塚があった
この説の難点は、この化粧坂から国府本郷まで距離があり過ぎることでしょう。何しろ、上記に紹介した様に江戸時代の国府本郷には一里塚がありましたが、大磯宿の江戸方、化粧坂の上にも一里塚がありました。ということは、この化粧坂から国府本郷まで、ほぼ1里(約4km)もの距離があることになります。国府があったと考えられている地まで、身なりを整えてから歩く距離としては、いくら何でも遠過ぎる様です。その間に折角整えた身なりもまた乱れてしまいそうです。

実際、元禄3年(1690年)に出版された「東海道分間絵図」(国立国会図書館デジタルライブラリーで閲覧可能です)の大磯付近に、「化粧坂」や「化粧井戸」の名はありません。また、万治年間(1658〜61年)に出版されたとみられる「東海道名所記」(浅井了意著)の大磯の項目には、「十間坂」の名はありますが、「化粧坂」の名前は見られません。この「十間坂」が後に「化粧坂」と呼ばれる坂を指すのか、それとも別の坂かは判然としませんが、どうも江戸時代初期には「化粧坂」の名は、少なくとも広く世に知られる存在ではなかったのは確かです。「化粧坂」の名が本来別の場所の坂を指す名称だったのがここに持って来られたのか、元からあった名前ではあったものの忘れられかけていたのかは、この2つの史料だけでは断定出来ません。中には、大田南畝の「改元紀行」(享和元年、1801年)の様にかつての化粧坂が現位置より半里(約2km)ほど西へ行った辺りとしている紀行文もありますが、これも他人の伝聞を記していて根拠は不明ですし、それでも国府の所在地と考えられている国府本郷まで、更に2km程も離れていることになります。

ただ、「化粧坂」が本来どの坂を指していたかを問わず、「化粧坂」の名称は元々は虎御前とは無関係で、「曾我物語」の知名度を借りる形で換骨奪胎して今に伝わっている、という可能性もかなり高そうです。そうなると、「化粧坂」の名は長い歴史の中でその時代毎の意義を纏って受け継がれたことになり、その結果生じた変化そのものを面白いと思うのです。勿論その背景には、国府が時代が下るにつれて弱体化し、室町時代には完全に衰退してしまったという歴史があるのは間違いありません。それによって「化粧坂」の当初の意味も忘れ去られていかざるを得なかったということでしょう。

では、当初の高麗寺の門前町がやがて海辺へと移ったという説との関連はどうなるでしょうか。これは「化粧坂」の名称が当初から今の坂を指していたか否かで解釈が変わってしまいます。別の坂を指していたならば、その坂の頂上付近に当初の市が存在し、それがそのまま廃れてしまったか、今の場所へと移転したことになるでしょう。その場合、頂上付近に国府の「結界」を守護する寺院が高麗寺とは別にあって、場合によっては廃寺にならずに今に伝わる寺院の中に該当するものがあるのかも知れません。しかし何れにせよ、化粧坂の元の場所が特定されなければ、これ以上の推測は不可能です。

一方、もし「化粧坂」が当初から今の坂を指していたとするならば(この場合、淘綾郡の相模国府の所在地自体が今の想定とは異なっている可能性が大きくなります)、国府の境界地に設けられた市が、その後宿場に変じ、やがて海の風景を求めて西寄りに移転していったと解釈することになるでしょう。しかし他方、淘綾郡の相模国府の開設時期や衰退時期との兼ね合いによっては、この地にあった市が国府の盛衰と同調して衰退しただけで、元々小磯との境界付近に別の宿があった、と考えることも出来そうです。

この辺りを更に考えるには、淘綾郡の相模国府の正確な位置やその規模、更には当時の国府周辺の関連施設などの位置関係、そして何より、「化粧坂」の名称が古くはどの坂を指していたかが、将来の発掘調査や、更なる史料の発見によって明らかになる日を待つしかなさそうです。

ところで、国府本郷村の化粧塚の方ですが、これは具体的には何処にあったのでしょうか。「新編相模国風土記稿」の「生澤(いくさわ)村堺」という記述も併せて考えると、これは現在「国府(こう)(のまち)神揃山(かみそろいやま)祭場」として伝わる地点かとも思えるのですが、神揃山については風土記稿に別途

◯神揃山 西北の方、生澤村堺にあり、高二十間許、山上平衍の所、方四十間許、五月五日近鄕五社の神輿、集會する故名とす、事は六所明神社の條に載す、

(卷之四十 淘綾郡卷之二 雄山閣版より引用、強調はブログ主)

とあるので、化粧塚の方はその近辺ということになりそうです。


神揃山の位置
この神揃山(大磯町の該当ページにリンク)には神事の際に神の降り立つ神体石が6体設置されているのですが、この中で三ノ宮の分が他の5体より幾らか北寄りに離れて設置されており、その傍らから国府本郷と生沢の境に沿って走る尾根筋道への昇り口が付いています。三ノ宮は他の五社に比べて北に位置しますので、神輿がこの尾根筋を進んでくる途上に、この化粧塚がありそうです。

国府祭では、各神社の神輿が神揃山に揃う前に、化粧塚でその着物を整えるという、まさに上記「けわい」の意義に沿った作法で祭りが進行します。その割に「風土記稿」が化粧塚の由緒を「つまびらかならず」とするのが不思議ではありますが。相模国府があった頃は、国府への入り口で身支度ということだったのでしょうか。

比々多神社 拝殿:ファイル:Hibita jinja Haiden.jpg - Wikipedia
比々多神社 拝殿
("Hibita jinja Haiden" by ChiefHira
- 投稿者自身による作品.
Licensed under GFDL
via ウィキメディア・コモンズ.)
また、相模三ノ宮である比々多神社の近くには別の「化粧塚」があります。ここで神輿を担ぐ氏子衆が国府祭に出立する前に身なりを整えるのも一緒です。かつての国府との関連が強い神社がこうした仕来りを強く持ち続けている辺りに、その意義の深さを感じることが出来る様にも思います。因みに、比々多神社のWebサイトではこれを「けしょうづか」とルビを振っていますが、上記の説に倣えば、これも過去には「けわいづか」と読んでいたのかも知れません。

何れの場合でも、こうした古くからの神事と共に、「化粧塚」が本来意味する所が現在まで伝えられ続けていることには変わりありません。そして、この一帯がそういう地であることから見ても、「化粧坂」の地名が今とは違う坂に付けられていた可能性はあるにしても、江戸時代になって全く新たに出現した地名などではなく、相応に古い歴史を有する地名であったとしても決して不自然なことではない、と言えそうです。






追記(2015/01/04):Wikimedia Commonsのライセンス表記を追加しました。

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