【旧東海道】その10 平塚宿と大磯宿の「近さ」(その4)

前回は大磯宿の古代から中世にかけての歴史を検討しました。今回は平塚宿の歴史を検討します。

平塚市史9 通史編 古代・中世・近世」(以下、「平塚市史 通史編」)によると、平塚の名前が史料に登場する最初期のものは「吾妻鏡」です。建久3年(1192年)妻の北条政子の安産祈願を、源頼朝が相模国内を中心に多数の寺社に神馬を贈って依頼したことが記されていますが、その多数の寺社の中に、平塚の「範隆寺」と「黒部宮」が含まれています。

建久三年八月九日条:

九日 己酉 天晴れ風静かなり。早旦以後、御台所御産の気あり。御加持は宮法眼、験者は義慶坊・大学房等なり。鶴岡、相模国の神社仏寺に神馬を奉り、誦経を修せらる。いわゆる、

  • 福田寺酒匂
  • 平等寺豊田
  • 範隆寺平塚

  • 宗元寺三浦
  • 常蘇寺城所
  • 王福寺坂本

  • 新楽寺
  • 高麗寺大磯
  • 国分寺一宮下

  • 弥勒寺波多野
  • 五大堂八幡、号大会御堂
  • 寺務寺
  • 観音寺金目
  • 大山寺
  • 霊山寺日向

  • 大箱根
  • 惣社柳田
  • 一宮佐河大明神

  • 二宮河勾大明神
  • 三宮冠大明神
  • 四宮前取大明神

  • 八幡宮
  • 天満宮
  • 五頭宮

  • 黒部宮平塚
  • 賀茂柳下
  • 新日吉柳田

まづ、鶴岡に神馬二疋上下。千葉平次兵衛尉、三浦太郎等これを相具す。そのほかの寺社は、在所の地頭これを請け取る。景季、義村等奉行たり。巳の剋、男子御産なり。

(「大磯町史1 資料編 古代・中世・近世⑴」より引用、強調はブログ主)


ここにはお膝元の鶴岡八幡宮だけではなく、いわゆる相模国六社や箱根権現、そして大磯の高麗寺など、当時の相模国内の神社や権現社等が全部で28社も含まれています。その全てに神馬を贈り、鶴岡八幡宮には2頭贈っていることから考えると、他の寺社にも2頭贈った可能性もあることから、都合30頭以上、場合によっては50頭以上もの馬をこの祈願のために供出した可能性もあります。頼朝自身の勝利祈願でもこれ程までに多数の寺社に手を広げたりはしていませんから、如何に彼が跡継ぎの生誕に心を砕いていたかが良くわかりますが、それは今はさて置くとしましょう。

平塚市史 通史編」では、ここに現在の平塚市域やその近隣に属する寺院が多数含まれていることに着目し、次の様に指摘しています。

その他「平等寺豊田 常蘇寺城所 新楽寺小磯 高麗寺大磯 五大堂八幡号大会御堂(四之宮) 観音寺金目 二宮河勾大明神 四宮前鳥大明神 八幡宮」などが祈願を命じられた。寺社の集中した地域であることが注目される。これらのうち平等寺・常蘇寺・新楽寺・高麗寺・五大堂(大会寺)・観音堂(金目観音堂)は観音を本尊としており、観音信仰が流布していることが知られる。高麗寺の観音は大磯海岸、金目観音は小磯海岸、鎌倉の長谷観音は相模川河口で、そのほか平塚市内の教善寺・清雲寺では平塚の海岸で得たという伝説をもっている。これは河や海が清浄の地であると信じられていることの他に、渡来人との交易や売買ということを投影したものと考えられる(『平塚市文化財調査報告書』第2集)。高麗山周辺には古代に高麗人が住んでいたということを思えば、寺院が多いこともこうした渡来系住民の影響が考えられよう。

(同書 92ページより)


確かに寺社の集中には高麗人の移民の影響もあったと思われます。一方で、大住郡には一時期相模国府があったと考えられていて、前鳥神社のある四之宮で古代の役所跡と思しき遺跡が出土しており、相模国府の跡地の有力候補とされていることを考え合わせれば、この一帯が相模国の地方政治の中枢として機能していたことも、寺社の集中傾向を一層強める結果になったと考えることが出来るでしょう。何れにせよ、以前武相国境のまとめでも触れた通り、相模川下流部が古代から積極的に開発されてきたことの表れ、と言うことが出来るかも知れません。

さて、ここでその名が登場する「黒部宮」は、後に「春日神社」となり、その地を移したことが「新編相模国風土記稿」の平塚宿の項に記されています。また、同じく後に「広蔵寺」と名を変えた範隆寺が黒部宮の別当であったことにも触れられています(広蔵寺の方はその後廃寺となりました。春日神社の境内に毘沙門天など広蔵寺で祀られていたものが再興されているのがその名残です)。春日社が平塚宿の鎭守であるというのも、両者の関係の深さ、歴史の長さを感じさせます。

◯春日社 宿の鎭守なり、神躰木像長一尺六寸行基作、往古は黑部宮と號す、…三年八月賴朝夫人、平産の祈願として神馬を納めらる【東鑑】曰、八月九日御臺所御産氣、相模國神社佛寺、奉神馬、被修誦經、云々、黑部宮、平塚、範隆寺平塚、按ずるに、範隆寺は別當寺の舊號なり慶安二年八月社領六石、舊に依て寄附せられ、御朱印を給ふ、例祭六月十五日隔年に神興を海邊に渡し、舊社地にて神事あり古は社地東海道往還より六七町海岸の方、字十軒坂にあり、後今の地に移れり舊地に稻荷の小祠あり、…△別當廣藏寺 平塚山延命院と號す古義眞言宗淘綾郡大磯宿地福寺末古は範隆寺と號す、建久三年八月賴朝夫人安産の爲誦經を命ぜし事【東鑑】に見ゆ其文本社の條に載す、今の寺號に改めし、年代詳ならず、本尊地藏、

(雄山閣版より引用、…は省略、強調はブログ主)



平塚・黒部宮
現在の黒部宮
平塚・春日神社
現在の春日神社


旧社地・黒部宮の位置

現在の春日神社の位置

ここで問題になるのが、この旧社地の場所です。「風土記稿」に記されている通り、現在の春日神社の南方、600〜700m程の場所に位置するこの地は現在でも「黒部丘」という地名が示す通り、周囲より一段高い、標高10m弱の砂丘の一角に当たります。ここから西を流れる花水川(現・金目川)へは坂を下る格好になり、「字十軒坂」の位置は不明ながら如何にもその様な坂がありそうな地形です。

加えて、上記の「風土記稿」の記述では採用されなかったのですが、「風土記稿」編纂に当たって平塚宿から提出された文政8年(1825年)の「地誌取調上帳」では、黒部宮が現在の春日神社の位置に移された理由を

春日大明神

右春日宮之義前々黒部宮唱、別当広蔵寺之義範隆寺号候節宿方ゟ六、七町海辺之方宿並御座候処、高浪打入難渋仕候間当時宿並引申候、…

(「平塚市史 2 資料編 近世⑴」73〜88ページから引用、強調はブログ主)

としています。つまり、かつての平塚の宿場はもっと南寄り、黒部丘の辺りにあり、街道もこちらを通っていたが「高浪」を被ってしまったので現在の位置に動いてきた、ということを主張しているのですが、この部分は「風土記稿」の編集者が何等かの判断から採用しませんでした。恐らく、他の記録などによって裏を取ることが出来なかったのと、「平塚の塚」の由緒との矛盾が出る点を考えてペンディングとしたのでしょうが、かと言って明確に否定した訳でもなく(同書では偽説もその旨指摘した上で掲載するケースが割と多い)時期は未詳ながら平塚宿が一度移転を経験した可能性は残しておいて良いのではないかと思います。少なくとも、この「地誌取調上帳」をまとめた江戸時代の平塚宿の役人一同が、平塚宿が昔はもっと南寄りにあったと信じていたことは確かでしょう。

また、この「高浪」が何を指すのか、個人的には黒部丘の標高と海岸からの距離を考えると恐らくは高潮よりは津波の可能性の方が高いだろうと思うものの、それであれば当時の記録と照合して移転の時期を検討出来ないかとも思います(例えば仁治2年(1241年)四月の地震では、鎌倉で津波によって由比ヶ浜の大鳥居内の拝殿が流失する被害が出ています。時期的・規模的に見てこの辺りの地震が候補の1つに挙げられそうです)。もっとも、相模湾岸のこの付近は地殻変動によって隆起する傾向が強く、嘗てはもっと標高が低かったとすれば、高浪が台風などによる高潮であった可能性も強まり、そうなると時期特定は困難です。


旧東海道:旧相模川橋脚解説模型から
旧相模川橋脚は現在の国道とは違う方角を向いていた
(橋脚傍らの解説模型から:再掲)
更に、鎌倉時代に黒部宮の辺りに宿場があったとすれば、あの「旧相模川橋脚」が何故江戸時代の道筋に対して斜に位置しているのかがこれによって説明出来るかも知れません。つまり、相模川を江戸時代よりも南で渡河して黒部宮付近の宿場に向かっていたのであれば、旧相模川橋脚の辺りから当時の渡河地点へ南へ向かう道筋であったことになります。もっとも、当時の相模川左岸の今の微地形を考えると不自然な面も多いので、当時の地形がどうであったかも配慮しながら妥当かどうかを判断しなければならない点が若干苦しいところです。

「大いなる神奈川の地盤」図2-18より
平塚付近の微地形分布。複数の砂丘列が並ぶ。
大磯から四之宮へは、この複数の砂丘列を
横断しなければならない。
(「大いなる神奈川の地盤」図2-18に加筆)
他方、古代にはこの付近を街道が通っていたとして、これが相模国の国府があった頃に合うのであれば、その街道は国府があった可能性が高い四之宮の方へ向かっていたでしょう。しかし、黒部丘から四之宮は北東方向になります。現在は大半が削平されたので現地に面影が殆ど残っていませんが、この相模川西岸一帯は砂丘列が東西に数本並んでいました。ここを直線的に進もうとすると、これらの砂丘を斜めに突っ切ることになってしまいます。実際はその砂丘列の間の窪地に低湿地が出来やすかったりするため、これらを避けて進むとジグザグの道筋が出来ます。実際、江戸時代の中原街道も、中原から田村にかけてはその様なジグザグの道を進んでいました。古代の駅路は比較的直線的な区間が多かったと説明されることが多いのですが、こういう砂丘列の並ぶ地形を当時どの様に突っ切って行ったのか、当時の土木技術の傾向なども併せて考えてみなければならないところです。勿論、その後四之宮を経なくなったのが何時頃で、それがどういう理由によるものなのか、また黒部宮が北に移る時期とはどの様な順序になるのか、といった問題も出てきます。

この様に、黒部宮の付近をかつての街道が通っていたという説については、まだまだ色々と調べてみなければならない疑問が多々残ります。ただ、かつての街道が平塚付近でもっと海沿いを進んでいた可能性があること、それが高浪の影響で内陸に移ってきたらしいというこの説は、大磯の中心地が黒部丘より更に標高の高い場所に位置するだけに、少しでも裏を取りたい誘惑に駆られるのも事実ではあります。今はこういう説もあるということだけ紹介して、次回もう少し時代を下ってみたいと思います。




以下、やや余談になるのですが。


唐ヶ原の位置
黒部丘から西へ、金目川沿いに降りた辺りの対岸一帯は、現在は「唐ヶ原(とうがはら)」という地名になっています。

この「唐が原」は、「更級日記」等に登場する「もろこしが原」の候補地の一つです。徳川光圀が編纂した「新編鎌倉記」では「唐原 …片瀨川の東の原を云ふ(同書卷之六)」としており、この説に従った近世の紀行文・旅日記も多いのですが、「新編相模国風土記稿」ではこの説を否定して次の様に記しています。

◯唐ヶ原或は諸越とも書せり、 大磯宿海邊より、高麗寺村、及び大住郡の海邊にかつて此名あり、正保國圖には、大住郡平塚宿の海瀨に、唐ヶ原と記せり、古は廣く他郡にわたりて、此名ありしと見え、【更科日記】に、もろこしが原と云所も、すなこいみじう白きを二三日ゆく、夏は大和撫子の、濃く薄く、錦をひけるやうになん咲たる、云々と記せり、【鎌倉志】には、片瀨川の東の原を云と記すれど、恐くは非ならん、名義は、往古、東國七州に、高麗人散居せり、本州も其一なり、【續日本紀】靈龜二年の條に見ゆ、高麗寺村併せ見るべし、此邊、其居住の地なりし故、此名起りしならん、又近き磯邊を、唐ヶ濱豆州走湯山緣紀に見え、海の條に引用す、とも云しとぞ、是等同じ因なり。…

(同書卷之三十九 淘綾郡卷之一より 雄山閣版より引用、強調はブログ主)


上記「平塚市史」も指摘する、古代の高麗人の移民の地であることが根拠ということになりますが、これによれば、現在の住居表示に残っている「唐が原」の範囲を大きく超えて、広く平塚から大磯にかけての海岸線を指していた、ということになります。

この「更科日記」の記述自体、50歳代になった菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が、幼い頃の記憶だけを頼りに書き起こしたものである点が厄介です。つまり、記憶違いによると思われる道中の各地名の登場順序の混乱など、記述を字義通りに解釈すべきでない箇所が散見されるので、この箇所についても果たしてどの程度の精度がある話なのか、慎重に見ないといけなくなっています。「新編鎌倉志」の記述も、その点を勘案しての片瀬川東岸説である訳ですが、ここでは一先ず「風土記稿」の大住郡〜淘綾郡海岸説に従っておきます。

平塚・金目川:下花水橋の下流から大磯丘陵を望む
金目川のほとりから大磯丘陵を望む。
写真中央の橋は下花水橋。菅原孝標女が
渡河したのはこの辺りか。
現在はカワラナデシコが生えるのに適した
砂地は殆ど残っていない
そうなると、菅原孝標女が記した「夏は大和撫子の、濃く薄く、錦をひけるやうになん咲たる」も果たして本当に見た通りだったのかという疑念は残るのですが、ここは一先ず彼女が見たままを記述したとしましょう。ここでの「大和撫子」が種名としては「カワラナデシコ」に相当するのだとすると、この多年草は草原環境や海岸の様に開けた所を好みますので、その点では砂丘地帯である平塚〜大磯一帯は確かに生息環境の条件としては良く合います。黒部宮もその条件に合う中にあるものの、平塚付近では砂丘地帯が内陸まで続いていますので、これだけでは場所の特定には不足が大き過ぎます。とは言え、「すなこいみじう白き」と砂の白さが印象に残る様な道中だったのであれば、この一行はやはり多少海に近い黒部宮を通る道を進んでいたのか、と想像したくなってきます。もっとも、そうなると黒部宮から大磯宿までの道がわざわざ北寄りの高麗寺前を迂回したとは考え難いので、今は失われた道筋が大磯宿まで伸びていたと考えないと不自然ですが。


それにしても、この区間の突破に二三日かけたとなると、距離的なことを考えてもあまり捗りの良くない道中だったということになりそうです。足元が砂地のままであったために歩き難かったのか、途中相模川の渡河に時間がかかったのか、はたまた途上大磯辺りで宿泊したために足掛けで2日を要したのか、その辺りの実情はこの文章からだけでは何とも言えません。ただ、撫子の色味を堪能するだけのゆとりがあったことを考え合わせると、そこまで難儀な道行きであったとも思えず(この風景描写も後付けのものである可能性も捨て切れませんが)、果たしてどの様な道中だったのか、確かに謎の多い文章ではあります。




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