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【旧東海道】その10 平塚宿と大磯宿の「近さ」(その1)

なかなか定期更新に戻ることが出来ませんが、差し当たり準備中だったものの「予告編」的なものだけアップします。続きはなるべく早めにアップできればと思うのですが…。


旧東海道:平塚宿高札場前→大磯宿高札場前
平塚宿から大磯宿までの地図
(「地理院地図」に「ルートラボ」で作成したルートを
取り込み加工したものをスクリーンキャプチャ)
旧東海道編はこのところ、「相模川旧橋脚」「馬入の渡しと馬入橋」と平塚近隣の話題が続きました。今回またしても平塚を取り上げることになるのですが、今度は平塚宿から西隣の大磯宿までを取り上げます。

以前、保土ヶ谷宿のことを取り上げた際にも、隣の神奈川宿との近さを俎上に載せましたが、あちらは両宿間の距離が1里9町(約5km)程でした。平塚〜大磯間はそれより更に短く、27町(約3km)しかありません。1里を切ってしまっていました。

実際、平塚の当時の宿内に立つと、西に大磯宿との間にある高麗山(こまやま)が大きく見えていて、その独特の山の形は歌川広重が保永堂(ほうえいどう)版「東海道五十三次」をはじめ、平塚宿の風景を描く際に幾度となく画題に取り上げたほどです。あの山の麓を進んで化粧坂のごく緩い上りに差し掛かれば程なく大磯宿の江戸方見附、今に残る松並木をじっくり堪能しながらゆっくり歩いても、小一時間もあれば着いてしまいます。

東海道五十三次 (浮世絵) 〜平塚宿(保永堂版)- Wikipedia
歌川広重「東海道五十三次」平塚宿(保永堂版)
高麗山が釣鐘状に強調されて描かれている
("Tokaido07 Hiratsuka" by 歌川広重
- The Fifty-three Stations of the Tokaido.
Licensed under パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.)

江戸時代にはこんな位置関係を逆手に取って、平塚宿の宿屋の客引きが何も知らない旅人に「この先あの山を越えなきゃならないんだから今晩はここで泊まっていけ」などと嘘を言って旅人を呼び込んでいた、というエピソードがまことしやかに言い伝えられています。

また、宝永7年(1710年)の助郷村の実情を調査した「大磯宿助郷村々高書上帳」に、

平塚・大磯両宿之間道程近有之付、助郷(より)人馬集候節両宿助郷相勤、一宿宛ニ而人馬可継立之、尤助郷之儀も可准之

(「二宮町史 資料編1 原始 古代 中世 近世」723ページより、強調、ルビはブログ主)

と記されている通り、助郷を必要とする大通行の場合には(公儀の場合を除き)平塚宿と大磯宿は実質的に1宿として機能していました。この場合、京へ上る荷物は平塚で継いで小田原へ、江戸へ下る荷は大磯で継立てて藤沢へと継ぎ通すことになります。こうした継立の運用は「片継」等と呼ばれ、東海道中では2宿間の距離が最短の御油—赤坂宿で行われていましたが、平塚—大磯間でも部分的に同様の運用が行われていたということは、それだけ両宿間の距離の短さが当時の宿場関係者間でも意識されていたことになります。

このアンバランス感は、更に両隣の宿場との距離と比較すると一層引き立ちます。藤沢宿から平塚宿までは、間に馬入の渡しを挟んで3里半(約14km)と比較的長い区間になっていました。以前この区間について触れた際には菱沼の牡丹餅について触れましたが、立場(たてば)の規模は茅ヶ崎・南湖(なんご)の方が大きく、しばしば茅ヶ崎村の分村と見做される程に栄えていました。

他方、大磯宿から小田原宿に至っては4里(約16km)もあり、ほぼその中間に位置する梅沢の立場には「本陣」があり、参勤交代の際にも使われる程に利用度の高い休憩場となっていました。梅沢は山西村の一部ですが、「東海道名所図会」の「川勾神社」の項では「梅沢村」と記され、やはり分村と見做される事例があった様です。この4里というのは東海道の中では小田原〜箱根間の4里8町に次ぐ長さで、小田原宿から見るとどちらに向かうのにも次の宿が遠い上に、京方には「箱根八里」という東海道中最大の難所が待ち構えるという、特に継立にとっては東海道の中で最も負担が大きい宿場でした。事実、元禄16年(1703年)6月付の「相州小田原宿書付」には、次の様な文言が見えます。

一惣人足都合五万千七百六拾八人   上り下り

此訳ヶ

御朱印/御証文四百三拾人      上り三嶋迄

此増人足六百七拾六人

此増人足之義小田原より三嶋迄八里難所之宿次御座候付、人足増加相勤申候。又御荷物附ヶ候馬脇附ヶ人足附ヶ申義御座候。其外枝突挑灯燈等相勤申候。

御朱印/御証文五百七拾六人     下り大磯迄

此増人足弐千五百九拾壱人

此増人足之義宿次遠御座候付、人足増加相勤申候。御荷物附ヶ候馬脇附ヶ人足附ヶ申候儀御座候。其外枝突挑灯燈等相勤申候。

一 賃人足壱万弐千百七拾□人   下り大磯迄

此増人足壱万千九百四拾弐人

此増人足之儀宿次遠御座候付、増加人足相勤申候。御用之御荷物附候馬之脇附ヶ人足相勤申候義御座候。其外枝突挑灯燈等相勤申候。

 (「小田原市史 史料編 近世Ⅱ 藩領1」107〜108ページより、…は中略)

三島方面も箱根越えの難所のために人足が大幅に増えていますが、それを遥かに凌ぐ増員が大磯方で発生しており、更にこちらは追加で雇い入れている人足も12,000人にも及んでいる、というのです。そこに書き連ねられた理由は何れも大磯宿まで遠いことを挙げています。この宿次で宿場の財政が潤うのであれば、この数字は吉兆ということになるのですが、この頃には公儀の負担は既に宿場だけでは抱え切れなくなり、周辺の村々から助郷によって人馬の調達を受ける様になっていましたから、隣の宿場までの距離は少なくとも小田原宿には既に大きく負担としてのし掛かっていた、と解釈すべきでしょう。


更に、大磯〜小田原4里の小田原寄りには酒匂川の渡しが挟まっており、川留めになろうものなら遥々大磯宿までへ引き返すのも大変だったことになります。

梅沢と大磯・小田原の位置関係
梅沢の位置。大磯と小田原のほぼ中間に位置する。
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
こうした状況を見るにつけ、例えば梅沢を宿場化する要望が、特に小田原宿などから幕府に呼び掛けられていたとしてもおかしくなかったのではないか、という気さえします。品川宿と神奈川宿の間が遠過ぎるために川崎宿が、保土ヶ谷宿と藤沢宿の間もまた遠過ぎるという声が出て戸塚宿が遅れて設置されましたが、元のこれらの宿場間の距離はそれぞれ4里半、4里9町と、大磯〜小田原間に比べて極端に長かった訳ではありません。それなら「この区間にもう1つ宿場を」という運動が当時もし起きていれば、それが幕府に聞き届けられた可能性は少なくはなかったのではないか、という気がします。

またそれだけに、両側の宿場だけがこれ程までに遠いのにも拘らず、何故こんなに近い平塚と大磯には共に朱印状が渡されたのか、どちらか一方ということにならなかった理由は何なのだろうか、という疑問は一層大きくなってきます。

今のところ、関連する書籍などを当たってみた限りでは、こうした疑問に一定の見解が出ている訳ではなさそうです。その点は、神奈川宿と保土ヶ谷宿間をはじめ、他の宿場間の近い区間でも、その理由は良くわかっていない点で共通している様です。

勿論、私がその様な状況に対して全く新たな見解を持ち込める様な史料を発見したりしている訳では無いのですが、ここでは可能な限り過去の史料などからヒントになりそうなものを並べて、私なりにこの問題を考えてみたいと思います。



追記(2015/01/04):Wikimedia Commonsのライセンス表記を追加しました。
(2015/07/25):「ルートラボ」の地図を「地理院地図」上で作図したものと差し替えました。その際、以前のものよりサムネイルのサイズが若干大きくなりました。また、梅沢の位置関係を示す地図も「地理院地図」で置き換えました。

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