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【武相国境】まとめ

ここまでかなり時間をかけて武相国境を辿って来ました。今回は当座のまとめをします。まず、関連記事をひと通りリストアップしておきます。





大筋として、前半は峠村の例外を除くと武相国境が相模湾と東京湾の分水界をかなり正確に辿っていたということ、その西側の柏尾川や、東側の大岡川の流路に地殻変動の痕跡を見出す話を中心に据えました。境木で武相国境が東海道と交錯することから、鎌倉街道から東海道へと道筋が切り替わる話を地形との兼ね合いで展開してみました。もっとも、この区間については律令時代や戦国時代まで経緯の掘り起こしが充分ではなかったと感じていますので、そこは今後の宿題にしたいと思います。

他方、後半は境川を武相国境が辿る様になった経緯を歴史的に追い掛けてみました。実のところ、文禄3年の検地を契機に国境が定まったとされているものの、それ以前の実情については私も今回まとめてみるまで今ひとつ釈然としない所が多く、今回自分でまとめてみて多少は理解が進んだかな、とは感じています。

もっとも、文禄の時点で良くわからなくなっていた律令時代の国境が、現代から見返して明瞭になるとしたらそれは文禄の時代に見落とされていたものがあったことになるので、それが具体的に見出されない限り、恐らく今後も「律令時代の国境は本当はどちらだったのか」という問いに答えが出ることはないと思います。今となっては「文禄時点で何故あの様な判断に至ったか」という問題を解くのが精々でしょうし、またそうすべきなのだろう、と考えています。



さて、ここまで見てきて、まだ私の中ではあまり上手く解けていない問題が2つ残っていると感じています。一連の記事のまとめの代わりにそれらを記して差し当たりの締めにしたいと思います。

1つ目は「峠村や境川の様な事例があったにも拘わらず、それ以外の区間では何故律令制の時代に引かれた国境が後世まで温存されたのか、あるいは維持されたと考えられているのか」という問題です。少なくとも、多摩丘陵内の国境が律令時代以降に変更されたことを伝える記録はありません。

無論、この区間は比較的明確に分水嶺を辿ることが出来る、という地形上の特徴はあります。それに比べると町田付近では分水「嶺」と呼べる様な明確なピークがなく、歴史的に辿ると小山田荘がその区域で境川筋までを所領としたと考えられることが、同区間の国境の混乱に手を貸したと思われるという説明をしました。しかし、それより西の小山・相原付近では境川の分水嶺は比較的明瞭で、そこが所領の細分化などによって国境に複数説が立つ状況となり、太閤検地を経て境川筋に国境が再定義されたと説明してきた訳ですが、では同様の状況が何故多摩丘陵内では起きなかったのかの説明がないと、片手落ちになってしまいます。

電子国土:武相国境柏尾川付近
柏尾川付近の武相国境。
各河川は国境から離れる方向へ流れる
私としては、これも地形面の特徴の違いから説き起こすことも一応可能だろうとは考えています。相模国内では相沢川よりも東の境川の各支流は大半が武相国境付近に端を発して国境から離れていく方向へ向かっています(北へ向かうほど国境と並行する所が増えますが)。武蔵国内の帷子川・大岡川の本支流についても同様のことが言えます。このため、分水嶺の他に付近に国境として有力な「線」がなかったと言うことが出来ると思います。

電子国土:武相国境相原付近
相原付近。境川と分水嶺が近接する
しかし、小山・相原付近では境川の分水嶺から発する支流が殆ど無く(一応ごく小さな沢はあるものの、現在では大半が暗渠になっています)、分水嶺と境川が比較的近い位置で並行して進むので、境界線たり得る「線」が並行していたことが国境の混乱の背景にあった…という言い方は一応可能だろうと考えています。

ただ、それが歴史上の事象にどう影響したかを具体的に挙げるとなると、事例が乏しいのが実情です。榛谷御厨が二俣川から保土ヶ谷にかけての帷子川流域に展開したらしいというというのが目ぼしい所で、その意味では榛谷御厨と国境を挟んで展開していたと思われる渋谷氏や俣野氏の所領について、あまり詳しいことがわかっていないのが厳しいところです。

また、律令時代の国境が近世に変更された事例を、武相国境以外から拾ってその変更の原因を比較してみることも重要と思います。

例えば良く知られている所では、江戸の街の拡張と利根川下流域の大規模な改修事業の進展に伴って、江戸時代初期に下総国の葛飾郡の一部が武蔵国に編入された事例があります。これなどは、元は武蔵と下総の辺境の地に過ぎなかった江戸の発展史を考える上では興味深い事例ではありますが、国境の変更という観点で考えると、江戸の拡張によって国境が変更に至った様な事例は他に類を見ないのではないかという気がします(私が不案内なだけかも知れませんが)。幕府の所在地でなければこの様なことは起こらなかったのではないか、ということです。

それ以外の事例としては、「境川(その6)」では「領域支配の展開と近世」(杉本史子著 山川出版社)にある児島湾の事例を紹介しましたが、こうした事例毎に原因を洗い出して整理することで、近世まで受け継がれた律令時代の国境がどの様な意味合いを持っていたのかを解き明かす切っ掛けに出来るのではないか、と思います。もっとも、私自身が他の地域の事例に不案内なので、現時点ではとてもそこまで手が出せませんが。



もう1つの問題は「そもそも、何故武相国境は相模湾と東京湾の分水嶺を綺麗に辿っていたのか」という問題です。今回の一連の記事で紹介した様に微視的に見れば、なるほど確かにこの筋に従って国境があったとしても不思議ではない様に思えてきます。律令時代にあっては口分田が集落の構成の重要なバックボーンになっており、それらが国郡制という枠組みの中でまとまっていく上では、灌漑などの関係で流域内の上流と下流の集落が関係を深めていくということは充分に考えられ、それが結果として流域単位のまとまりを生み出した…と解説が出来れば実に収まりの良い綺麗な説明が成立します。


甲相国境と相模川の交差する付近


道志川と国境の交差する辺り
しかし、実際は相模国内でさえ、国境は必ずしも流域界とイコールではない箇所があります。例えば、相模川の本流は甲斐と相模の境でその名を変え、その上流では「桂川」と称します。その名を変える地点に合流する川の名前は「境川」、甲相国境はこの合流地点から暫くの間、この境川を辿っています。


他にも、相模川の支流にも道志川をはじめ甲相国境と交差するものが複数あります。道志川では月夜野付近で川筋を国境が進む区間もあります。


相駿国境と鮎沢川の交差する付近
また、その南では山北町内の世附(よづく)に端を発する世附川の流域界を国境が走り、甲相駿の国境が交わる所に「三国山」があるのですが、その世附川が現在の丹沢湖を経て合流する酒匂川(鮎沢川)は駿河国内、富士山麓に端を発し、現在の御殿場線駿河小山駅の東側で国境を越えています。この様な地形があるため、古くから箱根山を迂回するのにこの川筋が使われ、「矢倉沢往還」として今に伝わる訳です。勿論、旧東海道線である御殿場線もまた東名高速道路も、この地形を利用して箱根を迂回するルートを採った訳ですね。


武蔵国と上野国境付近。利根川筋を進む
山深い地域の国境を武相国境の様な洪積台地の比較の対象にするのは相応しくないでしょうか。ということであれば、隣の武蔵国で比較しても良いでしょう。武相国境を別にすると、上記でも触れた様に下総国との境は東京湾に河口を持っていた利根川(現中川)でした。江戸時代に上記の様に国境が変わりましたが、国境の変遷先も江戸川(旧江戸川)ですし、今でも多くの区間で利根川の本流や分流を国境が走っていた痕跡を埼玉県境に見出すことが出来ます。関東平野ではむしろ利根川の様な大きな河川の畔の方が辺境化する傾向が強かったとさえ言えるかも知れません。

そして、改めて武相国境を眺めてみると、その両側に相模川と多摩川という、利根川ほどではないにしても比較的大きな河川が2本あり、特に多摩川の方は明治時代に至って東京府と神奈川県の境として使われる様になりました。つまり、近隣に国境になってもおかしくない規模の川があったのに、律令時代には相模川も多摩川も精々郡境となるに留まり、国境になったのはその間の丘陵地帯だった、ということになります。

では、何故相模川や多摩川は国境にはならなかったのでしょうか。個人的には、「相模川や多摩川は律令時代の土木技術でも何とか手懐けて周辺の土地を利用することが出来たものの、利根川流域はもはや手に追えなかったために律令制の中では辺境化してしまった」という線で説明する方向になるのではないか、と予想はしているものの、これもまた裏付けが乏しいところです。多摩郡が広大な未開の地を抱えていたにも拘わらず、多摩川の段丘上に当たる府中に国府が置かれているなど、多摩川の中流域が重用されていたことが窺える状況はあるものの、利根川流域について私がまだ不案内なので、そこまでの説明がまだ出来ません。寺伝に推古天皇36年(628年)の創建と伝わり、発掘調査でも奈良・平安時代の遺構が出土している浅草寺が武蔵と下総の国境に位置しているなど、反証になりそうな事例も考慮に入れなければなりません。

電子国土:相模国中心部
相模川下流に律令時代の国府・郡衙・寺社が集中する
相模国内の河川の多くは南流する
ただ、相模川に関しては、河口に近い大住郡に一時期国府があったと「和名類聚抄」に記録され(後に余綾郡に移ったと考えられている)、今でも一之宮(寒川神社)や四之宮(前鳥神社)が存在し、最近ではそこからそう遠くない位置に高座郡衙が発掘されるなど、ここが相模国の中心地であった証拠が多数存在します。海老名に相模国の国分寺が存在したことも、こうした「証拠」の1つに入れることが出来ますね。前鳥神社の付近で発掘された遺跡は大住郡に国府があった頃の関連施設と推定されていますし、海老名にも国府が存在したという説も存在しますが、何れにしても相模川本流を近傍に望む位置である点は共通しています。

また、高座郡は境川と相模川の間の台地に沿って南北に大きく伸びた形をしていますが、大住郡や余綾郡は比較的小さな郡にまとまっています。当時は一定の人数の集落を単位にしていましたから、人口密度が高い所ほど郡面積が小さくなる傾向にありました。つまり、律令制制定後の相模国にあっては、この相模川右岸の河口付近が最も人口密度が高かったことを意味しており、これも相模国の中心地であったことの傍証になり得ます。

相模川の西岸やその西側の金目川(花水川)の流域には、今でも水田が広く残っており、この広大な平野に早くから水田が開かれた可能性はかなり高そうです。裏を返せば、それに比べて細谷戸が中心でまとまった水田が出来難い多摩丘陵は、相模国の中心からは「扱い難い」土地と見做されていたのではないか、という気がします。

それでも、境川の下流や引地川、あるいは目久尻川などの相模川の下流で合流する支流は、何れも相模川と並行する様に南流する傾向が強いことから、陽当りが比較的良好でかつ利水に恵まれた土地がまとまっていると言えます。こういう地域が相模国側に属し、それより北側が武蔵国に属しているのは、何やら示唆的な感じもします。後に榛谷御厨を開拓する榛谷氏が牧の経営から身を起こした秩父氏の流れを引いているのも、もしかするとこの帷子川の流域に秩父の牧と地形面での共通点を見出したからなのかも知れません。

無論、これもまだ裏付けが乏しい中での私の想像に過ぎません。しかし、関東平野の南部にあって、周囲とは異なる丘陵内の分水嶺を辿るという武相国境の特徴は、その地形が過去の歴史に与えた影響を色々と考えさせてくれる、良い題材ではあると思うのです。



今回を以って「武相国境」のシリーズはひとまず終わりますが、今後新たに書き留めたいことが出て来た時に、その都度追記していきたいと考えています。最後までお付き合い戴きまして、誠にありがとうございました。

<了>


※このアイコンの付いた地図3点は、何れも 国土地理院の電子国土Webシステムの色別標高図にマーカーや河川名を追加したものを用いました。

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この記事へのコメント

- MorosawA - 2013年03月05日 19:10:20

kanageohis1964さん、こんにちは。

武相国境のシリーズはひとまず終わりということで、お疲れ様です。

あまりにも専門的すぎて私のような門外漢にはうまくコメントもできませんが、何か知りたいことがあったときには教えを請いにお邪魔します。
そのときはよろしくお願いします。

- kanageohis1964 - 2013年03月05日 19:21:03

こんにちは。コメントありがとうございます。

私でお答え出来ることであれば出来る限りお返事差し上げたいと思いますので、またよろしくお願い致します。

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