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【旧東海道】明治時代の土橋→板橋の架替

馬入橋の件についてブログ記事を書くのに手にした本の中に、「神奈川県史料 第2巻」(神奈川県立図書館編 1965年)がありました。明治時代初期に神奈川県と明治政府の間でやり取りされた伺い立てとそれに対する指令が分野毎にまとめられており、「神奈川県史」や県内各市町史でも色々と参照指示の多い本です。明治9年の馬入橋に関するやり取りもこの中に収められていたので、再架橋の際のやり取りが残っていないか探してみたのでした。

残念ながら目的に叶う記事を見つけることは出来なかったのですが、架橋に関する資料には別の意味で色々と興味深いものが幾つか目に止まりました。今回はその中から1本、明治8年の神奈川県と明治政府との間のやり取りを取り上げます。

東海道武州川崎駅ヨリ相州中島村マテノ間ニ架設スルモノハ土橋ナリ人馬車通行破損シ易キヲ以テ東海道一線皆板橋ニ架換タキコトヲ伺タリ

当県管下東海道往還武蔵国川崎駅ヨリ相模国中島村迄従来架渡御座候橋梁ノ内土橋架渡有之時々朽腐損傷仕然ル処方今馬車人力車等通路モ繁敷随テ破損多ニテ其節ニ通路ニモ差支御保方悪敷ハ不俟論且三箇年或ハ五箇年間ヲ以架替致候儀ニ付積年ニ至リ却テ官費モ相嵩ミ村費課出モ同様ノ儀ニ御座候間東海道往還ニ限リ将来架替ノ節ハ土橋ノ分板橋ニ架渡候様仕度此段相伺申候以上

明治八年一月廿七日   神奈川県令中島信行

内務卿大久保利通殿代理

内務大丞林 友幸殿

指令

書面東海道土橋之場所板橋ニ模様替ノ儀ハ掛替ノ節従前土橋入費比較相添伺之上可取計事

内務卿大久保利通代理

明治八年二月八日     内務大丞林 友幸

(「神奈川県史料 第2巻」329~330ページ、強調はブログ主)


ここで言う「土橋」とは、橋脚や橋桁などは木で作った上で、床版に丸木を並べてその上に土を被せた構造のものを言います。こちらのブログに土橋の写真が何点かありましたので、そちらも併せて参照下さい。
この構造の最大の利点は、板橋の様に床版のために板を製材しなくて済むことです。人馬が上を通る訳ですから、板もそれなりの厚みがないとすぐに割れてしまいます。しかし、厚みのある板を取ろうとするとそれなりに成長した、樹齢の高い木を使う必要がありますから、それだけコストが嵩みますし、1本の木から取れる板の枚数にも限りがあります。他方、それほど樹齢が高くない木であっても丸木のまま多数並べればコストが抑えられるものの、これでは表面がデコボコして歩き難くなってしまいます。それで、丸木を並べた上に土を被せて表面を均す訳です。東海道でも比較的小規模な橋、特に村が維持する橋は大半がこの形式でした。

しかし、江戸時代には東海道をはじめとする主要な街道では大八車などの車を通すことは禁止されており、馬も背に荷物を載せて歩かせるのが基本でしたから、この様な仕様の橋でもそれほど傷みが早まることはなかったのですが、明治時代になって人力車や馬車が頻繁に通る様になると、「轍掘れ」の問題が出て来てしまいます。勿論同じ問題は道路自体でも発生していたのですが、土橋では上に載せた土が削れてしまうと下の丸木が露出してしまって通行し難くなってしまいます。かと言って都度都度土を被せ直して廻る訳にも行きませんから、多少コストが上がっても板橋へ転換せざるを得なくなったのです。

ただ、東海道に架かっている橋だけでもかなりの数がありますから、それを全て架け替えるとなれば支出が嵩んでくるのは当然で、その差額の援助を申し出ているのがこの文書の主旨です。それに対しての明治政府の指令はその都度差額の費用について書面にまとめて提出する様にと言っており、「神奈川県史料」にはその後の各橋の架替えの際のやり取りが載っています。例えば引地橋(現藤沢市内、引地川に架かる)の架け替えの際には

書面橋梁変更ノ儀伺ノ通聞届候尤修営費用ハ其県経費金ノ内ヨリ仕払ノ儀ト可相心得事

明治九年二月廿七日    内務卿大久保利通

と、かなり渋った返事を返してきています。元より道路・橋梁の国庫補助には、当時は一部を除いて積極的ではなかったのが、こういう所でも見られる訳ですね。

裏を返せば、江戸時代に街道に荷車を通すことも禁じられていたことには、それなりに理由があったことに気付きます。当時は道や橋の普請は地元の村の労力で担うのが基本で、東海道の場合は掃除役が助郷同様に周辺の村々にまで割り当てられている様な状況でした。そこを荷車が過度に荒らす様な運用を許してしまうと、その修繕の負担は誰が担うべきなのか、見えにくくなってしまうため、敢えて荷車を禁止して公平性を担保していた訳ですね。そうした時代から明治時代になり、道を通過するものが人馬だけではなくなったことで、その維持管理をどうしていくのか、なかなか思う様にならない時期が明治時代を通じて長く続いていたのですが、引用したやり取りは、そうした中で比較的初期に起こってきた課題の1つだった、ということです。
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