【武相国境】境川(その4)

その3」から少々間が開いてしまいました。前回は古代の境川周辺、特に相模原台地側の状況を見て来ました。今回はもう少し時代が下った頃の、今度は多摩丘陵側の状況を見ていきます。

古代の多摩郡が特に開発が進まない地で、渡来人を幾度と無く開拓目的で送り込んでいた地であったことは前回までに紹介しましたが、やがてこの地は武蔵国の他の地域とともに、馬の放牧に使われる様になっていきました。「延喜式」の「左右馬寮」の巻に次の様に、「御牧」、すなわち朝廷の勅旨牧があったことが記されています。

御牧。

甲斐國。…

武藏國。石川牧、小川牧、由比牧、立野牧

信濃國。…

上野國。…

凡年貢御馬者、甲斐國六十疋、真衣野、柏前兩牧卅疋、穗坂牧卅疋。武藏國五十疋、諸牧卅疋、立野牧廿疋。信濃國八十疋、諸牧六十疋、望月牧廿疋。上野國五十疋。

(卷第卌八「馬寮」、…は中略、強調はブログ主)

ここに記されている通り、武蔵国には「延喜式」が成立した平安時代中期(延長5年(927年)完成)には4つの勅旨牧があり、そのうち、「立野牧」が単体で20匹、残りの3箇所の牧が合わせて30匹という配分になっていたことから、「立野牧」が武蔵国の中では最も大きかったことがわかります。なお、武蔵国内の勅旨牧はその後「小野牧」と「秩父牧」の2箇所が編入されています。

この勅旨牧の所在地について、「町田市史」では諸説ありとして「新編武蔵風土記稿」や「日本地理志料」「荘園志料」「大日本地名辞書」の各説を紹介した後、次の様に続けています。

以上のように由比牧と秩父牧の所在地はほぼ確かめられるが、小川牧以下の四つの牧については、まさに諸説紛紛である。しかし、小川・立野・小野の三牧についていずれも町田市内に牧地を想定する説があるのは、注目してよい。そもそも牧の語源はムマキすなわち馬を飼うために(かき)をめぐらした(その)という意味であって、古代の牧は、一定の土地を区切ってウマセすなわち馬柵杙(ませぐい)をたてめぐらし外側に(ほり)を掘ったりして、家畜の逸出(いっしゅつ)を防ぐとともに家畜を外部の危害から守る繋飼場の設備をそなえていた(西岡虎之助前掲書)。したがって、一望千里の曠野よりも、山や丘陵にかこまれた凹地が適していて、袋状の谷戸(やと)の中に牛馬を追い込み、袋の口にあたる部分に馬柵(ませ)棒をかえば、牛馬が逃げられなくなる。いまも各地に残っている馬込(まごめ)・駒込・牛込というような地名は、このような牧の設備を意味した。勅旨牧が武蔵・上野の山寄り地帯・丘陵地帯で信濃・甲斐の山間部に設定されたのもそのためであるし、多摩丘陵地帯にも七〜八世紀ごろからこうした馬の牧養が発達していたことは、前章に述べた市内能ヶ谷・川崎市早野などの横穴古墳の線形壁画や、市内鶴川遺跡に発見された角柱列の遺構からも推測される。

(「町田市史 上巻」1979年 317〜318ページ、ルビも原文通り)


町田市馬駈交差点
交差点に残る「馬駈」の地名
やや長く引用しましたが、当時の馬の放牧に当たっては谷戸地形の方が好まれており、多摩丘陵の様な細谷戸が多い地形は最適だったということでしょう。無論、その背景として水田耕作には向かない土地で開発が難航していたという事情も関与していたことは充分考えられると思います。それだけ人口密度が低く、開発が難航していた土地があったからこそ、放牧地へと姿を変えていったのでしょう。

そのことを裏付けるかの様に、前回紹介した小山田周辺には「馬駈(まがけ)」「牧畠」「馬場窪」「鶴牧(多摩市)」といった、馬の放牧が行われていたことと関係しそうな地名が見られるのです。ここが果たして上記の勅旨牧のうちの1つに比定出来るかどうかはさておくとしても、広大な放牧地として使われていたことは充分考えられるでしょう。

町田市史上巻338ページ図
さて、この勅旨牧を管理していた在郷勢力や土着した国司が力を蓄え、勢力を伸ばして武士化していく、ということが平安末期に起こってきます。それに伴って勅旨牧は衰退していきますが、代わって在郷勢力による私営の牧が発達し、荘園と同様に有力な貴族や寺社への寄進によって基盤を固めていきます。そうした勢力の中で、秩父牧の別当から武蔵国最大の武士団となった秩父一門から分かれた諸氏が、関東平野南部に勢力を伸ばしていきます。「町田市史 上巻」からその拡散する様を描いた図を引用しますが、小山田氏はこの秩父氏から分かれて今の町田市や川崎市北部に進出して当地の馬牧を掌握します。小山田氏の祖である小山田有重は「小山田別当」と称していましたが、「別当」は元々勅旨牧の管理者を意味していましたから、まさしく馬牧の管理者として当地に君臨していたことになります。

初代有重の子のうち、三男重成は有重の所領から稲毛一帯の地を引き継ぎ「稲毛三郎」になりました。後に出家して相模川への架橋を行ったことは、「旧相模川橋脚」の話の中で出て来ましたね。また四男重朝は榛谷(はんがや)御厨に進出して榛谷氏を名乗りました。この御厨の名前も以前保土ヶ谷宿の成り立ちを考える過程で出て来ました。同地の伊勢神宮の所領というのは、榛谷氏の寄進によって成立した荘園であった訳ですね。この様なことから、有重が抱えていた所領が既に相当に大きなものであったことが窺えますが、翻って本家である小山田荘もまた相当な広さを持っていたことは想像に難くありません。

小山田神社:石灯籠の「小山田之荘」の文字
小山田神社に残る石灯籠の
「小山田之荘」の文字
嘉永5年の日付がある
ここで武相国境との関連で注目したいのは、この小山田荘の地域です。「町田市史」ではこの小山田荘の範囲を

現在の市内の小山・相原を除く大部分を含んでいたと思われる。

(上巻364ページ)

としています。しかし、その説の通りであれば、この時期に小山田荘が既に境川沿いまでを含んでいたことになります。小山田荘は武蔵国の所領という認識を持っていたことを考え合わせると、この時には既に境川の北側の地域も武蔵国という認識を持っていたことになってきます。実際はこの時期の小山田荘の境界は確定されている訳ではありません。しかし、やや時代は下りますが戦国時代の「小田原役帳」などを頼りに「小山田庄」に属する地域を見てみると、境川左岸に連なる一連の村々が何れも小山田庄に属しており、小山田氏の所領が境川の分水界を意識していなかった可能性は高そうです。

この辺りをどう解釈するか、今となっては確定的なことは最早不明になってしまっていると言わざるを得ないでしょう。小山田氏が律令時代の国境を無視して南下し、境川沿いまでを荘園のうちに繰り入れてしまったと考えることも出来そうですし、この辺りの国境が曖昧になっていたため、小山田氏が境川沿いまで進出したことを咎める人もいなかったとも考えられます。勿論、実は最初からこの区間は境川沿いに武相国境が走っていたと考えることも出来なくはありません。しかし、いくら荘園の勢力が高まる一方の時代であったとは言え、貴族や寺社への寄進によって自らの地歩を確保するという行為の意味付けから考えると、敢えて国境を侵すような行為を小山田氏がやったと考えるのはなかなか難しい面があると思います。


地理院地図」色別標高図では
標高が10mメッシュで色分けされており
境川の分水界は殆ど浮き上がって来ない


境川分水界付近のストリートビュー
また、武相国境の地形の特徴を考えると、瀬谷北部辺りから町田駅付近を経て下小山田に至る辺りまで、分水嶺が低く分かり難いという一面があることも否定出来ません。例えば、小田急線の町田駅から線路沿いを歩いてみると、駅付近は境川に向けての斜面に繁華街が立地しており坂道が目立ちますが、新宿方面に向けて歩くと平坦地となり、ごく緩やかな起伏が建物の敷地の裾に僅かに認められる程度になります。分水界に当たりそうな場所を探すと、小田急線の掘割の地形などから考えて右のストリートビューに示した辺りということになりそうですが、勿論道路や宅地の整地に際しての削平の影響は確実にあると思われるので、正確な場所を確定することは難しく、この様な場所は人為的に境界が明示されなければ一括して畑などに活用されそうな場所です。なお、この傾向は明治初期の迅速測図で見ても同様です。

もっとも、小山田氏が私牧の経営で力を成し、その主要な牧が袋状の谷戸地形を利用してのものであったとするならば、その様な地形とは異なる境川沿いは小山田氏にとっては単なる辺縁の地でしかなかったことになり、その点では境川沿いは小山田氏にとってはさほど注目される地ではなかったのかも知れません。

この様な経緯を見ていくと、この小山田荘の成立が、意図的に武相国境を無きものとしたとは言えないまでも、境川付近の武相国境の混乱に1つ手を貸した可能性はかなりありそうに思えます。ただ、小山田荘だけが問題と認識されていたならば、西隣の矢部・小山・相原の辺りでは境川の分水嶺を北端とする地域が所領となっており、後に境川沿いに武相国境が移るのは小山田庄内だけで良かった筈とも考えられます。そこで、次回はこの横山党から分かれて所領となったこれらの地域について見て行きたいと思います。

それにしても、広大な平地が広がる相模原台地の方が一見すると放牧に向いている様にも見えますが、それは海外の放牧事例などを知識として持っている現代人ならではの見立てなのかも知れません。平安時代の牧の経営は、谷戸地形の他にも島や中洲など、地形を「天然の柵」として利用できる場所を選んで行われていたというのは、当時の大きな特徴であったと見て良いでしょう。



追記(2013/11/12):「歴史的農業環境閲覧システム」のリンクを張り直しました。
(2015/01/22):ストリートビューのデザインが変わり、図中に地図が表示できなくなったことを受けて、「地理院地図」の色別標高図を補い、レイアウトを調整しました。
(2016/01/08):再びストリートビューを貼り直しました。

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