2016年05月の記事一覧

「七湯の枝折」の「米つつじ」

昨年の5月頃に、「七湯の枝折」に掲載された産物の一覧から「釣鐘つゝじ」を取り上げました。今回は同じ「七湯の枝折」に掲載されたもう1つのつつじである「米つつじ」を取り上げます。

米[酋阝]躅 明ばん山ニ多く生ス

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 70ページより、字母を拾えない文字については[ ]内にその旁を示す)


「つつじ」の表記がここでは妙なことになっていますが、箱根町教育委員会のこの本の注では「躑躅(つゝじ)」とのみ記していますので、ほぼ誤記と見做して良いと考えているのでしょう。今回は、和名の「ハコネコメツツジ」以外は「米つつじ」とひらがなに展開して表記することにします。

「箱根七湯図絵」芦のゆ
歌川広重「箱根七湯図会」より「芦のゆ」
南から北を見る構図になっており
「明礬山」はこの絵の左上から右手中程にかけての
稜線の膨らんだ辺りに位置することになる
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
画像を正位置に回転)
「明ばん山」については以前も何度か登場しましたが、箱根七湯のうち最も標高の高い芦ノ湯の北寄りに位置する「山」で、当時この地で明礬の精製を行っていたことからこの名があります。「米つつじ」はこの様な所に生息していたと記すものの、この植物についての具体的な特徴については何も記載がなく、また絵図も添えられていません。

「釣鐘つゝじ」の時にも当時の本草学や花譜などの書物に、この種に該当する記述が見られるかどうか探してみましたが、結局の所見当たりませんでした。今回の「米つつじ」の場合も「釣鐘つゝじ」で確認した書物をひととおりあたってみたものの、残念ながらこちらもそれらしき記述を見つけることが出来ませんでした。このため、当時の人がこの植物をどの様に見ていたのか、手掛かりが乏しいのが実情です。「七湯の枝折」と並んで箱根の当時の地誌とも言える「東雲草」(雲州亭橘才著 文政13年・1830年)にも、「米つつじ」に関する記述は見られませんし、更には「七湯の枝折」を参照しつつ更に独自の調査を書き加えようとしていたと見られる幕末の「箱根七湯志」(間宮永好著)でも、産物の項に「米つつじ」はありません。「七湯の枝折」の記述も詳細とは言えませんし、「米つつじ」は地元で存在は知られていてもさほど注目されてはいなかった、というところなのかも知れません。

「米つつじ」の存在がより広く認知される様になったのは、明治時代に入ってこの植物の研究が始められてからです。「神奈川県植物誌2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)ではその研究の経緯について次の様に記されています。


ハコネコメツツジ  Rhododendron tsusiophyllum Sugim.; Tsusiophyllum tanakae Maxim., Rhodod. As. Or.12, t.3, f.1-8(1870)の基準産地は箱根

落葉または半常緑の低木で、茎は倒伏して地面をはうようにして、多数分枝し、高さ60cmに達する。葉は楕円形または倒卵状楕円形、小型で長さ4〜12mm、やや質厚く、密に互生する。表面は伏せた毛があり、裏面の脈上および縁辺に褐色の毛がある。花は6〜7月、花冠は白色、筒状鐘型で外面に毛がある。雄しべは5本、花冠から突き出ない。葯は縦裂し、花糸に毛がある。本種はコメツツジあるいは同一系統の祖先より火山裸地に適応、分化した種と考えられ、箱根に分布の中心がある。北は秩父山地から南は御蔵島まで分布し、ブナ帯の風当りの強い岩場に生える富士火山帯の特産種、フォッサマグナ要素の代表種である。1870年にロシアのマキシモウィッチが、花が筒型で葯が縦裂する形質を重視して、新属新種Tsusiophyllum tanakae Maxim.として記載した。のち大井次三郎(1953)は葯の縦裂はツツジ属中の異端種にすぎないと考え、ツツジ属に併合する学名R. tanakae (Maxim.) Ohwiをつくった。しかし、杉本順一(1956 植研31:63-64)はこの学名が台湾のアリサンシャクナゲR. tanakai Hayataに使われていることを指摘し、R. tsusiophyllumを提唱した。また最近、高橋・勝山ら(1992、1998)はハコネコメツツジとオオシマツツジの雑種とされたコウズシマヤマツツジについて研究し、それを裏付ける成果を発表した。本誌ではツツジ属に含める説を支持する学名を採用した。なお「植物の世界63:92」に、永田芳男は本州産でハコネコメツツジとヤマツツジの自然雑種を見出し、カラー写真で紹介している。ハコネコメツツジは箱根町のシンボルとして、天然記念物に指定し保護している。

(上記書1099〜1100ページより、強調はブログ主)


箱根温泉道:足柄下郡中の各村の位置
箱根温泉道:足柄下郡中の各村の位置(再掲
この植物の標本が箱根から持ち帰られたこともあって、以降の和名では「ハコネコメツツジ」と箱根の名を冠する様になりました。論文が発表された1870年は西暦で書かれているとあまり違和感がありませんが、和暦に直せば明治2年から3年、これほど早い時期に箱根でもあまり記録が見られなかった植物の研究が海外で公表されているとなると、この外国人が一体どういう経緯で「米つつじ」の標本を手に入れたのかが気になってきます。「米つつじ」が「明礬山」で見られると「七湯の枝折」が記していることと考え合わせると、これまで紹介してきたハコネサンショウウオ石長生の様な例とは異なり、江戸時代にも外国人の往来があり得た東海道筋からはかなり隔たっていますから、たまたま通りすがった道すがらに見出すといった経緯では標本を入手出来なかった筈です。今回はこの経緯をもう少し掘り下げてみます。

神奈川県植物誌2001」上では「マキシモウィッチ」と表記されていますが、一般にはドイツ語風に「w」を「v」の発音に読んで「マキシモヴィッチ」と表記されていることが多い様です。カール・ヨハン・マキシモヴィッチはロシア国籍のバルト・ドイツ人の植物学者で、幕末に日本が開国されたことを知ってその植物調査のために来日、滞在しています。彼と箱根の関わりについては、北海道大学総合博物館の2010年の企画展示の図録に解説されていました。

1861年 1月末に横浜に向けて箱館を出港したマキシモヴィッチと長之助は12月1日に横浜に着く。横浜周辺で若干の採集をした後、すぐ12月末に長 崎に向けて出港、翌1862年1月初めに長崎に着いた。長崎周辺で採集をし、この時に2回目の来日をしていたシーボルトに会ったとされる(井上 1996)。 しかしこの年3月末には早くも長崎を出港し、1862年4月初めには江戸に到着し、再び長崎に向けて出港する12月中旬まで江戸周辺や箱根、富士山で採集している。この年1862年の12月21日には再び長崎に舞い戻り、翌年1863年の12月末まで長崎に滞在し、採集は九重山、阿蘇山、熊本、島原などに及んでいる(井上 1996)。これら1862年の関東地方、1863年の九州では、物情騒然としている時期でもあり、長之助を派遣して採集させたことが多かったようである(ファインシュタイン 2000)。1863年12月末に長崎を出港して翌1864年1月9日に江戸に到着した。ヨーロッパへ旅立つのはその年の2月1日なので、1ヶ月余りで標本等の整理を行い、さく葉標本72箱を持ち帰ったという(井上 1996、須田 2010)。

(「マキシモヴィッチと長之助、宮部の出会いと別れ」高橋英樹著、「マキシモヴィッチ・長之助・宮部:北海道大学総合博物館企画展示「花の日露交流史—幕末の箱館山を見た男」図録」8ページより、強調はブログ主)


ここで登場する「長之助」とは須川長之助のことで、陸中の出身だった彼はちょうど函館に渡ってきたマキシモヴィッチと知り合って彼の助手として活動する様になります。従って、マキシモヴィッチは勿論、長之助も箱根をはじめとする関東はこの時に初めて訪れており、必ずしも一帯の地理に長けていたとは考え難い状況だったことになります。

彼らが箱根を訪れた1862年は文久2年に当たりますが、この年の旧暦8月21日にあの「生麦事件」が起きていることを考えれば、外国人が安易に地方へと入っていける世情ではなかったことは容易に察しがつきます。長之助を派遣することが多かったというのはそういう世情を考慮すれば理解できるところで、箱根へ向かったのは長之助だけであった様です。上記で引用した企画展示の図録には、この時に長之助が採集したというハコネコメツツジのタイプ標本の写真が掲載されています(同書35ページ、PDFでは40ページ)。なお、この頃は幕府が外国人が自由に旅行できる地域を制限しており、箱根はその地域に入っていませんでしたが、マキシモヴィッチの場合は植物調査という名目がありましたから、許可さえ得られれば彼も箱根まで入っていくこと自体は可能だった筈です。

上記の通り箱根に入っていった須川長之助もこの土地には不慣れであったでしょうし、元より外部の人間が村落に入っていくことには慎重な時代である上に、幕末のきな臭い世情も重なっていることを考えれば、当然地元の人々の案内なしに箱根で植物調査を行うことは不可能だった筈です。

とすれば、この「米つつじ」の存在について長之助が気付いた背景には、地元の人の手引きがあった可能性が少なくないと思います。具体的に誰が彼を案内したのか、そしてその案内者が「七湯の枝折」に「米つつじ」が記されていることを意識していたかは不明ですが、明礬山に長之助を手引きして「米つつじ」を紹介した人がいたのだろうと思います。


「Rhododendrae Asiae Orientalis」の該当箇所(Googleブックスより)
因みに、マキシモヴィッチがハコネコメツツジについて最初に紹介したのは「Rhododendreae Asiae Orientalis(東アジアのツツジ属)」という論文中でした。当時の慣習に従ってこの論文もラテン語で記されており、私もGoogleの翻訳サイトで概略の意味を掴むのがやっとですが、流石に「Hakone」などの日本語が記されている箇所は理解できます。

マキシモヴィッチが提唱したハコネコメツツジの学名には「Tsusiophyllum tanakae」と「田中」の名前が記されており、この論文でも日本の田中という植物学者の協力があったことを記しています。当時の植物学者として田中姓ということであれば田中芳男を最初に挙げることが出来ますが、実際に田中芳男を標本採集者と記している論文(リンク先PDF)も見つけました。これは北海道大学総合博物館の指摘と上手く噛み合いませんし、田中芳男の「富士紀行」で富士山や箱根を訪れたのは明治4年(1871年)、それ以前に関東各地に遠征しているのは慶応2年(1866年)にパリ万国博覧会に出展する昆虫の採集であったことから考えると、田中芳男が標本採集に直接関与したのかは良くわかりません。ただ、マキシモヴィッチが関東に滞在していた当時には幕府の参与であった田中芳男が、「ハコネコメツツジ」をマキシモヴィッチが発表するまでの間に何らかの形でマキシモヴィッチに協力していたことは確かです。例えばその役職からは、長之助が箱根に植物採集に出掛ける際に、往来に支障がないように手形を出すなどの支援をしていた、といったことも可能性として考えられると思います。

何れにせよ、マキシモヴィッチが「ハコネコメツツジ」を発表するまでの経緯は、それまでケンペル、トゥーンベリ、シーボルトらが持ち帰っていた植物とはやや異なる形でヨーロッパに持ち帰られ、新たに研究される様になったという点で、その標本採集の転換期にあったことを象徴する植物の1つであったと言うことが出来そうです。

マキシモヴィッチも上記の論文でこの植物が希少(planta rara)であることを既に記していますが、現在はハコネコメツツジは国のレッドデータブックでも、更には神奈川県のレッドデータブックでも「絶滅危惧Ⅱ類」に指定されています。また、県のレッドデータブック2006年版ではハコネコメツツジ群落についても取り上げられています。

ハコネコメツツジ  Rhododendron tsusiophyllum Sugim.(ツツジ科)

県カテゴリー:絶滅危惧Ⅱ類(旧判定:希少種)国カテゴリー:絶滅危惧Ⅱ類

判定理由:箱根と丹沢の標高1000m以上の風衝地岩場に生え、総個体数は1000株未満と推定され、定量的要件Dより絶滅危惧Ⅱ類と判定される。

生育環境と生育型:ブナ帯の風衝地岩場に生える常緑低木

生育地の現状:変化なし

存続を脅かす要因:園芸採取

保護の現状:国立公園、国定公園

県内分布:(箱根町、秦野市、松田町、南足柄市、相模原市緑区、山北町)

国内分布:北は秩父山地から南は御蔵島まで

文献:神植誌2001 pp. 1099-1101.

特記事項:Tsusiophyllum tanakae Maxim. Rhodod. As. Or.12, t.3, f.1-8 (1870) の基準産地は箱根

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編 2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 114ページより、県内分布は記号で羅列されているものを市町名に置き換え)


ハコネコメツツジ群落 Rhododendron tsusiophyllum community (16044)

判定理由:国RDB(神奈川)、RD植物、原記載地、既報告、複合構成

存続を脅かす要因:園芸採取

県内の分布:丹沢・箱根のブナ帯の風当たりの強い岩角地に分布する。

特記事項:植物社会学的な植生単位(群集)としてはオノエラン—ハコネコメツツジ群集が報告されている。オノエラン—ハコネコメツツジ群集は箱根で記載された植生単位で(『箱根・真鶴』)、その原記載地としても重要である。種としては絶滅危惧Ⅱ類とされる。箱根の植分としては田中(1994)による現況報告がある。

(同書186ページより)

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中原御殿にまつわる「醋」と「雲雀」:「新編相模国風土記稿」から(その3)

前回に引き続き、今回も「新編相模国風土記稿」の山川編にのみ中原御殿にまつわる産物のうち、「雲雀」について見ていきます。

では、雲雀は鷹狩の獲物としてはどの様な位置づけにあったのでしょうか。今回はあまり深入り出来ませんが、江戸時代の鷹狩では、御鷹の献上やその獲物の下賜といった、贈与の秩序に意味がありました。この課題を考える上で、今回は江戸時代の鷹狩に付いて書かれた諸物を幾つか参考にしました。
  • 鷹場史料の読み方・調べ方」村上 直・根崎 光男著 1985年 雄山閣出版
  • 鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」岡崎 寛徳著 2009年 講談社選書メチエ
前者は鷹狩に関する文書が影印とともに多数収められており、文書の読解演習に使う教科書という側面もある本です。その点では若干敷居が高い面もありますが、鷹狩についてどの様な文献が現存するかについて俯瞰出来る良書です。後者はむしろ一般的な読者に向けて書かれた本で読みやすく、しかし史料の紹介も多いので江戸時代の鷹狩について理解する最初の段階で読むのに適しています。

まず、将軍の鷹狩で得られる獲物を下賜する際のランク付けを記した文書を紹介しているものを引用します。

いずれにせよ、細部にわたる検討は必要であるが、鷹狩による獲物の分配を通して、一定の秩序が存在したことは事実である。実際、「柳営秘鑑」には「御鷹の鳥巣鷹等拝領之次第」と題するものがある。

一御鷹之鶴拝領、御三家、松平加賀守被下之、御三家上使、両御番頭、加賀守江者、御使番被遣、松平陸奥守、松平大隅守、在府之節、享保十四年初拝領被仰付、其外在国之国持衆、壱年弐三人程宛、有次第以宿次被下之

一御鷹之雁、雲雀、御家門、国家之(主カ)面々、准国主四品以上、在府之時節により、右両品之内、壱通り被下之、四品以下之外様之大名も、家に寄拝領之、南部修理大夫被下之、御譜代衆雖小身、城主以上被下之、何も上使御使番勤之

一右雁、雲雀、老中松平右京大夫、石川近江守、若年寄衆、有馬兵庫頭、加納遠江守、何も於御座之間被下之、御奏者番、寺社奉行、詰衆、於殿中拝領之、老中被伝之、京都諸司代、宿次を以被下之

一御三家、御在国之時、招家来、於殿中鶴被遣之

このように、格式に応じて拝領する鳥の種類も違ってくるのであり、その差は拝領に伴う使者にまで及んでいる。同様な事情は「青標紙」のなかの「御鷹之鳥来歴之事」にも述べられている。

(「鷹場史料の読み方・調べ方」178〜179ページより、強調はブログ主)


ここで「御鷹之鳥」「御鷹之鶴」などと記されているのは、将軍の所有する鷹が捕えた獲物を指しています。この文書に従えば、徳川御三家などに下賜される最上位の品とされていたのは鶴、次いで雁で、雲雀はその次に位置づけられる獲物であったことになります。

これらのうち、鶴や雁はその性質上1回に獲れる数が限られるのに対し、雲雀は一度に多数の猟果を得ることが可能であったことが、次の例でも明らかです。

しかし、甲府・館林および御三家と、他の徳川一門の間には、下賜の待遇に違いがあった。その例として、正保元年(一六四四)七月二十日における下賜を取り上げよう。この日は御三家・越前福井藩主松平忠昌・金沢藩主前田光高の五人に「御鷹之雲雀」(将軍の「御鷹」による鷹狩で捕獲した雲雀)が下賜された。その雲雀の数は、御三家が五十羽、忠昌・光高は三十羽である。また、それぞれの使者に立った者の役職は、御三家が書院番頭であるのに対し、忠昌・光高は使番がつとめた。

つまり、同じ日に同じ種類の鳥を下賜されているのだが、鳥の数と使者の役職が異なっている。これは、下賜される者の格の違いによるもので、同じ将軍家の一門であっても、御三家などは上格に位置づけられていたのであった。

(「鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」41ページより)


将軍から下賜される雲雀の数が、各家とも数十羽の単位であることから、この5家に下賜された分だけでも210羽の雲雀が狩られていることになります。実際はこの下賜に先立ってもっと多数の雲雀が狩られ、将軍家側で食された分などもあるでしょう。また、鷹が捕えた雲雀のうちの一部は、次の引用にも見られる通り、「くはせ」と呼ばれて鷹の餌になりました。

そして、次の例ではもう少し時代が下って享保年間の鷹匠(たかじょう)同心の日記が解説されていますが、ここでは将軍の御鷹を扱う鷹匠が関東各地へ遠征して多数の雲雀を狩っています。この時はその大半を江戸へと送っていますが、一部は狩りをした鷹に与えていることがわかります。

享保期の鷹匠同心に、中山善大夫という人物がいる。中山は職務に関する日記を書き残しており、その写本が宮内庁書陵部に伝来する。将軍所有の「御鷹」を預かり、江戸近郊で鷹狩を行うなど、専門技術者としての活動を知ることができる。本節では、この日記から鷹匠同心と将軍「御鷹」の動向を追っていくことにしよう。

享保八年(一七二三)…中山は七月一日に「渋山御(はいたか)」(注:鷹の名前)を受け取った。同月十一日から二十九日まで、「野先」を巡ったが、この時は上総の茂原村に達している。その往復、「渋山」は雲雀の捕獲を繰り返し、その数は四十二羽に上った。

中山善大夫の動きは、享保九年(一七二四)になると、より慌ただしくなっている。

同年五月二十八日、中山は「檜皮水山御鷂」を預かった。早速、六月十一日の夕刻から「野先」へ出立し、一ヵ月後の七月十二日に江戸へ舞い戻っている。

向かった先は武蔵の西部で、六カ所で宿泊している。最初に逗留した①小金井村では、光明院を宿とした。六月十五日には②芝崎(柴崎)村に至り、組頭の次郎兵衛宅に泊まっている。二十一日には③八王子町、二十四日には④木曾村に到着した。二十九日には⑤磯部村に「宿替」し、源左衛門方に宿泊した。さらに、七月三日から⑥小山村に逗留し、五日に再び②芝崎村の次郎兵衛宅を宿とし、十二日にそこから江戸への帰路を取った。現在の市域でいうと、東京都の①小金井市・②立川市・③八王子市・④町田市、神奈川県の⑤相模原市・⑥横浜市緑区にあった村々である。

そうした村々を拠点として、中山は鷹狩をほぼ毎日行った。しかも、雲雀を数多く捕獲し、その総数は三百八十二羽に及んだ。

享保十年四月十七日から五月五日にかけて、中山は再び相模へと向かった。川崎領鶴見村、神奈川領下野川村、相州藤沢町、神奈川町、神奈川領西寺尾村を回るルートである。

享保十一年(一七二六)…六月十八日に「六厩」の鷂を受け取った中山は、七月十五日から下総・上総方面を巡った。江戸に戻ったのは八月六日なので、この時も、およそ一ヵ月間の巡回であった。

下総の馬加(まくわり)(幕張、現千葉市)村から千葉村を経て上総に入り、久保田村(現袖ヶ浦市)や皿木村(現長生郡長柄町)などを「宿替」して、七月二十九日には東上総の茂原村に至った。そこから西へ向かい、潤井戸(うるいど)村(現市原市)や検見川(けみがわ)村(現千葉市)を通り、小岩田村(現江戸川区)から八月六日に江戸へ帰った。

その間に捕獲した雲雀の総数は、二百三羽に及んだ。この中から、「上鳥」と「くわセ」に分けられ、前者は江戸城へ運ばれ、後者は鷹の餌となった。

(「鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」172〜181ページより、一部ルビと注をブログ主が追記、…は中略)


かなり飛び飛びの引用になりましたが、雲雀の捕獲数が何れも数百羽に及んでいるのが目につきます。これらは各地の鷹場を巡りながらの猟果ですから1箇所でのものではないとは言え、それでも相当な数の雲雀が例年捕獲されていたことになります。無論、これだけの数の雲雀を全て将軍だけが食するとは考えられませんし、大奥でもこれらを振る舞いつつ、上記の様な例に倣って適宜下賜されていたのでしょう。

また、ここで登場する地名の中には、高座郡小山村、藤沢宿、あるいは上記の引用からは外しましたが高座郡鶴間村(現:相模原市南区)・大庭村(現:藤沢市)・下町屋村・矢畑村(以上現:茅ヶ崎市)や三浦郡秋谷村(現:横須賀市)・下宮田村(現:三浦市)、鎌倉郡下倉田村(現:横浜市戸塚区)といった地名が見られます。相模国でも比較的江戸から離れた土地まで足を伸ばして鷹狩が度々行われ、その獲物の中に雲雀も入っていたことが窺えます。


藤沢市・境川の「鷹匠橋」(ストリートビュー

こうした例を見ると、雲雀は鶴や雁鴨に比べると位置付けが低く見做されていたものの、より多数の獲物を下賜する必要がある局面ではむしろ最上位に位置づけられていた、と考えることも出来そうです。そして、将軍の御鷹を携えた鷹匠が関東一円に出張して狩っていた鳥の1つが雲雀であり、その点では家康の鷹狩時の宿泊施設であった中原御殿が「雲雀野の御殿」と称されるのも、あながち故無いこととは言えません。

ただ、残念ながら今のところ、中原に来た家康が鷹狩で仕留めた獲物として書き記されたものの中に、雲雀の名前を見出す事は出来ません。「徳川実紀」には辛うじて

御鷹野の折。雲雀の空たかくまひあがるを見そなはして。
のほるとも雲に宿らし夕雲雀遂には草の枕もやせん
とよませ給ひしが。その雲雀俄に地に落しとなん。

(東照宮御実紀附録巻二十二、J-texts版より)

という、鷹狩中に家康が詠んだとされる短歌が収められているものの、どの鷹場で詠まれたかは不明です。未見の史料に家康の狩った雲雀の記載がある可能性はありますが、家康の鷹狩での猟果では鶴など特に重要なものが書き留められる傾向はあったので、雲雀の様に大量に捕獲される鳥については必ずしも記録の対象とならなかったのかも知れません。

また、上記の中山善大夫の様に関東各地の幕領で将軍の御鷹を使って鷹狩に巡回していた鷹匠が、かつての家康の御鷹場の1つであった中原まで足を伸ばして雲雀を狩っていたという記録も、今のところ私は未見です。無論、私がまだ見つけ損ねているだけの可能性も高いですし、特に家康の鷹狩の記録という点では、やはり鶴などより上位に位置づけられる獲物の記録の方が優先されがちということで、記録になくても実際は雲雀も狩っていた可能性も高いでしょう。しかし、「風土記稿」が「雲雀野の御殿」の名称については地元の人がその様に呼んでいるという記述をしているところを見ると、あるいは昌平坂学問所でも中原での雲雀の猟果を具体的に確認していた訳ではなく、単に地元の呼称をそのまま記しただけだったのかも知れません。その点で、「風土記稿」山川編の産物に「雲雀」が書き加えられたのは、飽くまでも中原御殿の由緒に結び付いているというその1点に留まっており、雲雀が産物として記される上で考えるべき具体的な用途面の裏付けは今のところ乏しいということになるでしょう。

鷹狩では大量に狩られることもあった雲雀ですが、鷹場に指定された地域では村民が野鳥を狩ることが禁じられていましたし、「本朝食鑑」の記述も基本的には将軍や大名が珍重していたことを記しています。従って、恐らく、この時代の鷹狩による採集圧が雲雀の生息数に与えた影響はかなり限定的であったのではないかと思います。

一方で、最初に書いた通り、今では鳥獣保護法の規定によってヒバリが狩猟されることはなくなりました。従って、狩猟によってヒバリの生息数が減るということはなくなった筈ですが、神奈川県ではヒバリは「レッドデータブック2006年版」で「減少種」とされています。特に都市化の著しい地域で田畑などヒバリの生息に必要な環境が失われていることが、個体数の減少に繋がっていると見られています。

ヒバリ Alauda arvensis Linnaeus (ヒバリ科)

県カテゴリー:繁殖期・減少種(旧判定:繁殖期・減少種H、非繁殖期・減少種H)

判定理由:県東部の特に都市部で分布域の明らかな減少がみられ、個体数も減少している。

生息環境と生態:留鳥として、広い草地のある河川敷や農耕地、牧場、造成地などに生息する。背の低い草本が優占し、ところどころ地面が露出する程度のまばらな乾いた草原を特に好む。背の高い草本が密生する場所や、湿地ではあまりみられない。繁殖期間は4~7月。イネ科などの植物の株際の地上、あるいは株内の低い位置に巣をつくる。抱卵期間は約10日、ヒナは約10日で巣立つ。オスは空中や地上で盛んにさえずる(陸鳥生態)。非繁殖期は数羽から十数羽の群で行動する。

生息地の現状:広い農耕地や、主として背の低い草本が生息する草原が開発によって減少、分断された。一方で、このような環境が残る地域では、現在も比較的安定した個体数がみられている。

存続を脅かす要因:都市化、草地開発、河川開発、農地改良

県内分布:留鳥として県内全域の平地に生息するが、一部の個体は非繁殖期に南方へ移動し、また北方から渡来する個体もいると思われる。

国内分布:留鳥、あるいは漂鳥として北海道から九州に生息する。南西諸島では冬鳥として生息する。

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編 2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 255ページより)


周辺地域では、東京都では都区部と北多摩、南多摩地域で絶滅危惧種Ⅱ類(西多摩地域で準絶滅危惧種)、千葉県では準絶滅危惧種相当に指定されていますが、これらも原因は同様で、市街化による生息環境の減少が影響していると見られています。

平塚市・豊田付近の一風景
平塚市・豊田付近の一風景
周辺に田畑が拡がり民家がないため
新幹線の軌道に防音壁が設けられておらず
16両(400m)の全編成がほぼ隠れることなく見えている
平塚市・豊田付近での「揚げ雲雀」
豊田付近で見られた「揚げ雲雀」
どちらも2011年5月撮影
(ExifデータにGPS情報あり:
閲覧できる方は場所を確認してみて下さい)


左の写真の撮影場所(「地理院地図」)
但し、かつて家康が鷹狩に訪れた豊田の辺りでは、今でも広い水田や畑が残っているため、ここではまだヒバリの姿を見ることが出来ているのも事実です。上の写真は私が5年ほど前にこの地を訪れて辛うじて撮影したもので、殆ど豆粒の様にしかヒバリの飛翔する姿が写っていませんが、この日は幾度となく「揚げ雲雀」の鳴き声を耳にすることが出来ました。地元の人がこうした雲雀の姿を見て、家康の由緒地をその名で呼んだ理由は、今でも充分確認できる状態にあると言えるでしょう。

そして、「成瀬醋」の方もこの地で産した米を使ったと考えられることを考え合わせると、「風土記稿」に取り上げられた2つの「産物」の共通項は「中原御殿」にのみあった訳ではなく、むしろこの景観の方に強い関係があるのではないかとも思うのです。
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新編相模国風土記稿:各郡の産物

前回「新編相模国風土記稿」で津久井県の産品として「鰷」と表記されたものがあることを取り上げましたが、折角なので相摸国の各郡の産品としてどんなものが取り上げられているのかを、一度まとめて紹介してみようと思い付きました。まぁ、書き出すだけであれば大した作業にならないので、続きが出来るまでの間を繋ぐには丁度良いかという訳ですが、こうして書き出しておけば何らかの折に参考資料として役に立つかとも思います。予想以上に一覧が長くなったので、解説を先に持ってきて一覧表は最後に入れました。

ここでは各郡毎「図説」の「産物」または「土産」等として掲げられているものを拾って一覧表にしてみました。同種の一覧は第3巻の「山川」編中でも「物産」としてまとめられているのですが、そちらは郡の括りを外して品目毎に列挙されています。また、「図説」で取り上げられた品目のうちかなりの分が各村々の項で改めて解説されているのですが、流石に分量が多過ぎますのでここでは割愛します。なお、「鎌倉郡」については「産品」がまとめられていなかったので、「海」の項に「名産」として名が挙げられていたものを代わりに記しましたが、「江島」の「海」の項には他にも魚貝類や海草が挙げられていました。「分類」は私が独断で各品目を海のもの・山のもの・里のものと識別できる目安として加えたもので、勿論これは仕分ける観点次第で別の分類も考えられると思います。中には思う様に分類し難かったものもありますがその点は御容赦を。

今では神奈川県内の産品としては目にすることがなくなったものも多々含まれています。そうした変遷を追う上で江戸時代末期頃の品目を概観できる史料として見ることが出来そうです。但し、中には三浦郡の「柴胡」の様に、文献上では見ることが出来ても江戸時代の時点で既に産出を確認出来なくなっていたものも挙げられています。もっとも、「柴胡」の場合近年の植物事典に掲載されているミシマサイコの写真が何れも三浦半島とされていて生息を確認出来ていますから、飽くまでも江戸時代後期の産品としての一覧として考える必要があるでしょう。

漢字だけを見ると何のことかさっぱりわからないものも多く含まれていますが、大半は説明の冒頭に漢字で仮名を充てられていたり、仮名がないものでも説明を読み進めると何であるかがわかるものが多いと思います。もっとも、津久井県の「柏皮」(「山川」編の「物産」では「栢皮」と表記されていますが基本同じものの様です。ネットを検索すると漢方薬が多数ヒットしますが恐らくここで解説されている物とは違うと思われます)の様に、正体のなかなか分かり難いものも含まれています。

こうして並べてみると、特に海産物は1つに括られていたりいなかったりといった差があることもありますが、郡毎に挙げられた品目の点数に随分と偏りがあることに気付きます。基本的にはその地の「特産品」が対象となっていると思いますが、例えば梅沢の鮟鱇、あるいは相州小麦の様なものが含まれていません。一方で、炭や絹織物の様にここで書き出された以外の地域でも普通に産出されるものの、名品として特に名が知られていたり、文献上の由緒が記されているものについてはここで敢えて取り上げているものもある様です。いわゆる「箱根細工」はここでは「湯本細工」として紹介されていますが、こうした工芸品の類が足柄下郡以外で取り上げられているのは大住郡の「盒器」だけです。この辺りの品目の取捨選択がどの様な判断によって行われたのかも、この各郡の一覧を見る際に考慮すべきポイントとなりそうです。少なくとも、品目が特に少なくなった淘綾郡、高座郡や鎌倉郡について、それだけを以って産品乏しい地域だったとすることは出来ないでしょう。

変わり種としては足柄下郡の山椒魚(ここでは「山生魚」の表記が用いられている)のほかに、三浦郡の「葦鹿」、つまりアシカが挙げられるでしょうか。以前「浦賀道見取絵図」を取り上げた際に浦賀の燈明台付近に「アシカ島」と書かれていることを指摘しましたが、ここにいたアシカを捕らえて食べていたことになりますね。陸上の哺乳動物を基本的には口にしなかったとされる当時の食文化にあって、アシカがその内に含まれていない様に見える点を考慮して、敢えて「海産品?」と区分してみました。因みに現在ではアシカは神奈川県下では絶滅したものとされています(1995年度のレッドデータブックで「絶滅種」に分類されています)。

19世紀末から20世紀初頭にかけて多くの生息地で漁獲や駆除が行なわれ、日本沿岸の広い地域でアシカの姿は消えていった。明治12年(1879)に三浦市南下浦町松輪の海岸で捕獲されたメスを描いた正確な絵図が『博物館写生図』(東京国立博物館蔵)に残されており、少なくとも明治30年代までは相模湾や東京湾沿岸にも姿を現わしていたと考えられるが、それ以後急速に衰退し、現在のところ生息の情報は得られていない。

(「かながわの自然図鑑③ 哺乳類」2003年 神奈川県生命の星・地球博物館編 92ページより)



産物分類「風土記稿」の説明関連
記事
足柄上郡十二蛤石鉱物矢倉澤村内蛤澤より出る、
白熖焇鉱物中川村より出す、(◯)
柴胡植物虫澤・矢倉澤・三竹山三村に產す、古風土記殘本にも、本郡の產とす、
紫根植物矢倉澤村の產、/
/
烟艸農産物松田惣領・松田庶子・八澤・菖蒲・柳川・虫澤・境・境別所・栃窪等九村の產とす、尤松田惣領にては松田烟草と稱し、菖蒲村にては波多野烟草と稱して、殊に佳とす、
薇󠄁蕨植物宮城野・三竹山兩村の產、//
獨活植物宮城野村の產、//
小梅農産物上曾我村の產、//
農産物狩野・猿山兩村の產、
農産物金手・金子・松田惣領・神山・神繩・世附・八澤七村より出す、中に就て金手村なるをば、金手丸と稱して殊に佳品なり、1/2/3
4/5/6
7/8
串柿農加工品皆瀨川・都夫良野兩村にて製す、1/2/3
4/5/6
7/8
梨子農産物神繩・世附二村の產、
蜜柑農産物三竹山・川村岸二村の產、三竹山村より產するをば、年々寒中、領主より官へ獻納す、//
椎茸中川村の產、/
足柄下郡二十二鉱物根府川石、根府川・米神兩村に產す、◯小松石、岩村小松山に產す、又土肥吉濱村、同門川村にも產せり、◯眞鶴石、眞鶴村の產、鋪石礎石甃石の料にあつ、◯荻野尾石、根府川村荻野尾山より產す、◯磯朴石、同村海岸より產す、◯玄蕃石、江ノ浦村の產、/
石硫黄鉱物元箱根より出す、/
礬石鉱物同上/
湯ノ花鉱物元箱根蘆野湯より出づ、/
柴胡植物久野村の產、古風土記殘本にも、足輕郡の產物とす、/
石長生植物箱根宿の邊に產す、元祿の頃紅毛人江戸に來れる時、當所にて此草をとり、婦󠄁人產前後に用ゐて、殊に効ある由いへり、是より箱根草と呼べり、/
植物久野村邊に產す、//
靑芋植物石橋村の產佳品なり、
梅實農産物小田原宿の產、//
梨子農産物久野村の產、
鹿梨農産物夜末奈之◯畑宿の產、
農産物久野村の產、1/2/3
4/5/6
7/8
蜜柑農産物前川村の產を名品とし、其邊の村々最多し、又石橋・米神・江ノ浦・土肥宮上四村の邊にも產す、//
林産物土肥鍛冶屋、同宮上兩村の山上に多し、
細竹林産物元箱根邊に產す、俗に箱根竹と云是なり、
透頂香小田原宿欄干橋町にて製劑す、
盒器工芸品俗に湯本細工と云物なり、箱根山中往々製造す、
提灯工芸品小田原宿にて製造す、
鱒魚魚介類元箱根蘆湖に產す、
腹赤魚魚介類同上、漢名詳ならず、うぐひなり、
山生魚林産物?左無志也宇々乎◯箱根深山澤中に產す、
鱁鮧水産加工小田原宿にて製す、俗しほからと云、
魚介魚貝類此餘海中に產する魚介多し、就中前川村にて、鮪を漁する事多しと云、
淘綾郡三十九砂利鉱物大磯宿海濱の產、其種類、五色或は中栗、白班、黑小砂利等あり、時々命ありて公に納む、
大住郡四十二柴胡植物東西田原二村に產す、
煙󠄁草農産物波多野庄村々の產を、波多野煙󠄁草と稱し、佳品なり、足柄上郡松田邊の產をも、波多野煙󠄁草の佳稱を負せり、
大麥農産物上下大槻二村に播殖するを、最佳品とす、/
/
戮豇農産物佐々計◯南原村產、
農産物小稻葉村產、
萊菔農産物水蘿蔔の類にて、根細長なり、波多野大根と唱へ、波多野庄中に產するを佳品とせり、されど、今は絕て播殖せず、西田原村香雲寺藏、天文中の文書に、當所萊菔の事見えたり、/
甘藷農産物八幡・平塚・上下大槻・中原上宿・南原等の村々の產を佳品とす、/
/
越瓜農産物志呂宇里◯小稻葉・平塚・上下大槻四村產、
西瓜農産物平塚宿、上下大槻村產、
山椒農産物日向村の產最佳品にて、日向山椒と稱し、大山寺師職より、守札を配る時、此山椒を添へて、贈るを例とす、
盒器工芸品坂本村邊にて多く製す、
愛甲郡五十四香蕈志比多計◯角田・田代・煤ヶ谷・宮ケ瀨等五村の山に產す/
農加工品伎奴◯半原村より出すを上品とす、土俗に半原絹と稱せり、
林産物寸美◯古煤ヶ谷村より年々炭を貢せし事、北条氏の文書に見ゆ、御入國の頃より三增・角田・田代・中下荻野五村にて御茶事の料に充らるゝ炭を燒て、每年六百俵を貢せしに元祿十一年より代永錢を收むる事となれり、近き頃丹澤山にて炭を燒せられし事ありしが、今は廢せり、1/2/3
4/5/6
7/8
年魚魚介類阿由◯中津川に漁す、古は妻田・金田・三田の三村より年每に鹽藏するもの二千、宇留加五升を貢せしに、貞享五年より永錢を領主に收む、角田・棚澤・熊坂・半繩・八菅の五村にても同じ川にて漁するを以、每年永錢を收む、
高座郡五十九柴胡植物龜井野村邊に產す
紫菜󠄁海草乃里今俗海苔の二字を用ゐる、茅ヶ崎村海中乳母嶋邊に多し、
鹿尾菜󠄁海草比須木毛同上
靑頭菌波都多介、鵠沼・辻堂・茅ヶ崎三村の邊に多生す、又松露も此邊に多し、
魚類魚介類此餘海中に產する魚類數品あり、鰺阿遅以和之最も多し鵠沼・辻堂・茅ヶ崎等海濱の村々は魚獵を專とし世產を資く、
鎌倉郡六十九(図説に「産物」の特記なし。但し「海」の項では次の品目を名産として掲げている)
海蝦魚介類【本朝土產略記】曰、海蝦出于鎌倉
魚介類【徒然草】曰、鎌倉の海に、かつをと云ふ魚は、彼さかひに、左右なき物にて、此頃もてなすものなり、それも鎌倉の年寄の申侍しは、此魚おのれらが若かりし世までは、はかばかしき人の前へは、出ること侍らざりき、頭は下部もくはず、きりて捨侍りし物なりと申き、かやうの物も、世の末になれば、上さままでも、入たつかさにこそ侍れ、
三浦郡百七倉鹽製塩林村及浦鄕村にて製す
草綿農加工品毛女牟と稱し木綿の字を用ゆ、されども木綿は波無夜にして和產なし、今諸國栽る所のものは草綿なり、【見聞集】曰、三浦に六十計の翁あり、語りしは大永元年武藏國熊谷の市に西國の者木綿種を賣買す、買取て植ければ生たり、皆人是を見て次の年熊谷の市に買取植ぬれば四五年の中に三浦に木綿多し、三浦木綿と號し國に賞翫す、夫より關東にて諸人木綿を着ると語る云々、又高座郡川口村總持院所藏文書曰、遠路爲御音信代僧殊三浦木綿被指越祝着候云々、壺の御印あり、今も郡中に播殖すれど三浦木綿とて稱美する事は聞えず、/
/
水仙花植物城ヶ島村に生ずるもの重瓣にして莖長く尋常の種に異なり
神馬藻海草奈能利曾◯三崎町海邊に多く生ず、
鹿尾菜󠄁海草比之紀󠄄毛◯西浦賀分鄕及横須賀村の海中に多く生ず、就中寒中に得るを上品とす、世には槪して浦賀鹿尾菜󠄁といへり、
裾帶菜󠄁海草和可女
未滑海藻海草可自女
海薀海草毛都久◯以上横須賀村の海に產するを上品とす、
蘿蔔農産物郡中多く播殖す、俗に鼠大根と云、其形蕪菁に似て根の様鼠尾に似たり、高圓坊村より出るを殊に上品とす、【本朝土產略】當國の物產に鼠大根を載す/
鰹魚魚介類郡中多く漁す、就中三崎及城个島邊にて得るを上品とす
撥尾魚魚介類須波志利◯浦賀及久里濱の海にて多く漁す、其税錢をも貢す、
魚介類以倭志
鯷魚魚介類比志古◯幷長澤村にて多く漁す
章魚魚介類多古◯走水村の海中最多し俗に是を三浦鮹と呼ぶ、
魚介類衣比◯郡中所々にて漁すれど、三崎町の產を美なりとす、
石决明魚介類阿波比◯長井・三崎・久里濱の三所より出るもの最美なり
榮螺魚介類佐々江◯所々に生ずといへども、深田村の海より出るもの別種にして其殻尖角なし、ぞくに角なし榮螺といへり、
葦鹿水産品?阿志加◯西浦賀分鄕の海中海鹿島の邊に多し、此獣冬月尤多くして其肉味殊に美なりと云ふ、
水飴農加工品東西浦賀にて製す、尤上品なり、/
此餘【北条五代記】に近年江戸より仰として醫師來りて城ヶ島へ渡り、鎌倉柴胡是なりとて掘給ひぬ云々、と見ゆれど今郡中產する所なし、
津久井縣百十六林産物縣中村々に產す年々貢税とす、1/2/3
4/5/6
7
川和絹農加工品世に所謂川和縞是なり、中野村の内、川和里の産なるが故に、是名を負へり、比隣の村里是に傚て、多く織出せり、
柏皮林産物澤井村、佐野川村邊の山に産す、海邊の漁夫、漁網を染る是を佳とす//
農産物葉山島村より産するを佳實とす
農産物ところどころの山より多く産す//
香蕈志比多計、靑根村邊の山より多く產す、/
牡丹石鉱物靑野原村に產す本草綱目に井泉石と見へたるは卽是石の類か、
貝石鉱物道志川に產す
魚類魚介類此餘川中に産する魚類◯鰷阿由、相模川及五川より産す、道志川より産するもの一種の佳品にて、其形も亦少しく異にして、上腮頗る長くして曲れり、故に道志川の鼻曲りと呼て、賞美し、歳每に一千七十五を貢獻すと云、按ずるに長衡が西京賦に所謂大口、折鼻などと見えたるは、卽かゝる鰷の形の類を云ふものならんか、◯[魚衆]也麻女最多して且佳なり

※以上、何れも雄山閣版より。記号の適用は原則同書に従ったが、明らかに挿入箇所の誤りと判断できる箇所については訂正を施した(大住郡越瓜の項)。

※字母はなるべく原著に忠実になる様に心掛けた。一部に異体字セレクタの数値文字参照を挿入しているため、ブラウザによっては該当箇所が文字化けとして表示される可能性がある。該当する字母を拾えなかった箇所は[]内にその字のつくりを示した


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新編相模国風土記稿:山川編の産物

新編相模国風土記稿相模国図
「新編相模国風土記稿」卷之三に収録された「相模國圖」
「津久井郡」と記されているが、元図の明記がないので
元図に記されていたものか筆写ミスかは判断不能
前回の補足です。

「新編相模国風土記稿」3巻では、「山川」と題して相模国内の主だった山や川が列挙された後、同国内の「物産」が並べられています。これは基本的には前回紹介した各郡の産物をまとめたものなのですが、中に幾つか各郡の紹介には含まれていないものが入っています。そこで今回は、この「山川」編の一覧の中から、前回の一覧に漏れているものを書き出してみることにしました。思った以上に抜けがあって、「基本的には」と言いながら例外とするには件数が多いので、前回の説明は必ずしも正しいとは言えないかも知れませんね。

なお、項目自体は前回の一覧に含まれているものの、産出地の記述が各郡の紹介に一部含まれていないものもこの一覧に収めましたが、その場合は該当郡の記述を強調してあります。項目自体が各郡の一覧に入っていないものは項目名の方を強調しました。他方、項目名や地名の記述に表記の相違も幾つか見られましたが、こちらは一覧からは省きました。

書き出してみて、特に海産物が各郡の一覧から大々的に漏れているのが良く分かりました。郡にあってこちらの一覧に無いのであれば、統括する上で取捨選択を行ったと解釈できるのですが、この事例では逆になっています。各郡の一覧と山川編の一覧が別々に編まれた可能性が出てきますが、その際にどの様な基準がそれぞれで適用されたのかはわかりません。大住郡・淘綾郡の海産物は重複が多いのでこちらに集めて各郡毎に記すのを止めたのかも知れませんが、必ずしもそれだけでは無いことが一覧から窺えます。滑海藻(アラメ)が漏れたのは未滑海藻(カジメ)と見間違えたのでしょうか。淘綾郡の華臍魚(鮟鱇のこと)がこちらには含まれていますね。

また、足柄上郡の金銀、足柄下郡の小田原石や大住郡の醋(酢)など、かつては産出していたものが途絶えてしまったものが比較的多くこちらの一覧に含まれている様にも見えます。しかし、足柄上郡の蛍や鎌倉郡の刀剣などは当時も産出していたものと思われ(特に鎌倉の正宗は現在も子孫の方が現役で店を構えています)、これも必ずしも双方の一覧の取捨選択を説明する要因にならない様です。あるいは、最後の雲雀(ヒバリ)が同地にあった中原御殿の由緒と共に紹介されている様に、由緒の深いものを優先的に選択していると見ることも出来そうですが、これも一概に言えない面もあります。

いずれにせよ、「風土記稿」に記された相模国の産物については、こちらの一覧と各郡の一覧を併せて見るのが良さそうです。鎌倉郡の「山茶」(椿)や足柄下郡の「蛍」など、当時の江戸市中の風物や当時の博物学面の「言分け」の問題などと併せて考えたい産物もこの中に数々含まれています。

なお、前回良くわからないと書いた「柏(栢)皮」ですが、これは字義通り「柏の皮」ということで良さそうです。実際に漁網に柏の皮から煮出したタンニン染料を使って防腐効果を期待して漁網を染めていた事例がある様で、こちらに茨城県の昭和25年の腐食試験の結果が掲載されています(リンク先はPDF)。この結果を見ると、柏の皮の染料に漬けることで漁網の腐食を1ヶ月程度は抑えることが出来た様です。

産物分類「風土記稿」の説明関連
記事
金銀鉱物永祿の始、足柄上郡三𢌞部村山中、金澤と云地より產せしとぞ、其事蚤く廢せり、事は彼村觀音院の傳に詳なり、
鉱物足柄下郡に出づ、中に就て根府川・米神二村に產するを根府川石と云ふ、岩村、小松田及土肥吉濱、同門川二村に產するを小松石と稱す、眞鶴村の產を眞鶴石と唱ふ、鋪石・礎石・甃石の料にあつ、根府川村荻野尾山より產するを荻野石と名づく、同村海岸より產するを磯朴石と呼び、江ノ浦村の產を玄蕃石と云へり、其餘小田原石と稱し、風祭村より產せしが今廢す、/
砥石鉱物大住郡戸川村の山中に產すれど他に鬻ぐ事なし、霖雨の頃同村中、水無川水勢强くして砥石流れ出ることありと云ふ、
燧石鉱物足柄上郡宮城野村の山より出、黑色なり、
紫根植物足柄上郡矢倉澤村同下郡底倉村等に產す/
/
狗背植物足柄上郡仙石原村邊に多し、//
靑芋植物足柄下郡石橋村の產佳品なり、每年領主より公に獻ず 足柄上郡三竹山・猿山兩村にも產す
薯蕷植物足柄上郡宮城野村に產す、//
滑海藻海草和名、阿良女、◯三浦郡西浦賀分鄕小名久比里及同郡所々の海中に產す、
梅實農産物足柄下郡小田原宿、鎌倉郡玉繩領邊に產す、古風土記殘本にも、當國の產に列す、消󠄁梅實は足柄上郡上曾我村に產す、//
老杉林産物?神代杉と稱す、足柄下郡仙石原村より出づ、
山茶農産物和名、津婆幾、◯鎌倉郡玉繩領邊の花を美とす、土俗鎌倉椿と稱す、
農加工品大住郡中原上宿の民、造釀せしを同所の縣令成瀨五左衞門、年々公に獻ず、故に成瀨醋と稱せしとなり、後年其事廢せり、當所より江戸靑山に通ずる道に御醋街道の名今に存す、//
刀劍工芸品鎌倉郡扇谷村の住、彌右衞門綱廣は正宗より五代、廣正以來當所にに住し、中興より綱廣を通稱とす、御分國以後も御野太刀御鑓御鏃等の製造を命ぜられ、今に其地を給ふ、
鑄器工芸品足柄下郡小田原宿古新宿町の住、次郎右衞門、往古より鑄物師職にて永祿・天正中、北條氏より鐵炮以下、諸品を造らしめし時の文書を藏し今に連綿す、又同町にて此職を業とする者あり、愛甲郡下荻野村にも平十郎と云ふ者、古より同じ業を相續す、其餘國中所々に同職ありしこと、次郎右衞門藏文書に載たり、今小新宿町、下荻野村の外は皆廢す、
林産物足柄上郡東西山家及宮城野村、同下郡土肥山邊にて多く燒、是を眞鶴炭と云、古愛甲郡煤ヶ谷村より年々北條氏に炭を貢せし事、其頃の文書に見ゆ、御入國の頃より三增・角田・田代・中下荻野五村にて御茶事の料に充らるゝ炭を燒て貢せしに、元祿十一年より代永を收む、又近き頃丹澤山にて、燒せられしが今は廢せり、1/2/3
4/5/6
7/8
農産物愛甲郡半原村邊及び津久井縣中野村、高座郡長後村邊にて畜ふ、
足柄下郡甲州道、穴部村邊に多し、
[魚衆]魚介類也麻女、◯津久井縣中の川々に、多く產して佳なりと云ふ、又足柄上郡河内川・彌勒寺川にも產す、
杜父魚魚介類可自加、◯足柄 (上欠ヵ)郡河内川・彌勒寺川に產す、其餘山間の谷水にもあり、
魚介類三浦郡三崎町内城村・久里濱村邊・淘綾・大住・足柄下郡海中にて漁す、北條氏より出せし文書に鯛魚の事見ゆ、大住郡須賀村、足柄下郡小八幡村三浦郡久里濱・公鄕二村の民所藏文書にあり、
方頭魚魚介類和名安未多以、淘綾郡大磯宿にて漁獵す、
比目魚魚介類淘綾・大住・足柄下郡等の海にて漁獲す、
鰹魚魚介類三浦郡中多く漁す、就中三崎及び城ヶ島邊にて得るを上品とす、三崎町よりは每年公に獻ず、鎌倉・高座・大住・淘綾・足柄下の五郡の海にても漁す、鎌倉の海鰹魚の事、兼好が【徒然草】に見えたり、又足柄下・淘綾・大住三郡にて宇豆和と稱し鰹魚の小なるを漁す、
魚介類高座郡鵠沼・辻堂・茅ヶ崎三村にて多く漁す、又大住・淘綾・足柄下三郡の海にても漁す、北條氏、大住郡須賀村へ出せし文書に鰺の事見えたり、
鯖󠄃魚介類高座郡茅ヶ崎村及び足柄下・大住・淘綾の三郡にて多く漁す、
保宇保宇魚魚介類漢名詳かならず、俗、魴鮄魚と書す、足柄下郡米神村邊にて漁す、
魚介類高座郡茅ヶ崎・鵠沼・辻堂三村三浦郡長澤村邊にて多く漁す、又大住郡須賀村にても漁す、
滿久呂魚魚介類鮪の種類なり、足柄下郡の海中にて多く漁す、其中前川村最多し、淘綾・三浦二郡の海中にても漁す、又土人可自幾と唱ふる同種のものを漁せり、
魚介類足柄下・淘綾・大住三郡の邊にて漁獲す、
華臍魚魚介類安武可宇◯淘綾郡海邊にて漁す、
海鼠魚介類三浦郡横須賀村三崎町以下所々にて多く漁す、
石决明魚介類三浦郡長井・三崎・久里濱の三所より出るもの最美なり、走水村よりは永錢を貢す足柄下郡眞鶴村邊、淘綾郡大磯宿邊にても漁す、北條氏の頃命ありて小田原へ出せしこと、久里濱村民所藏文書に見ゆ、又眞鶴浦にて漁したること、此頃のものに載す、
雲雀野鳥大住郡波多野庄邊及び糟屋庄の邊に多し、慶長の頃中原の御殿を、土人雲雀野の御殿とも稱せしと云う、//
此餘【延喜式】及び古風土記殘本に、載たるもの多くあれど、今傳へざるは爰に贄せず、

※以上、雄山閣版卷之三より、仙石原村が「足柄下郡」と表記された箇所があるが原文ママ

※字母はなるべく原著に忠実になる様に心掛けた。一部に異体字セレクタの数値文字参照を挿入しているため、ブラウザによっては該当箇所がが文字化けとして表示される可能性がある。該当する字母を拾えなかった箇所は[]内にその字のつくりを示した



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中原御殿にまつわる「醋」と「雲雀」:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回に続き、「新編相模国風土記稿」の山川編のみに記された中原御殿にまつわる産物を取り上げます。今回取り上げるのは「雲雀(ひばり)」です。



中原御殿蹟(中心十字線の位置)付近の地形図
数値地図25000(土地条件)」を重ねて表示
砂丘地帯の中に設けられたことがわかる
(「地理院地図」)
中原小隣の消防団建物に描かれた「中原御宮記」
中原小隣の消防団建物に描かれた「中原御宮記」(再掲

「風土記稿」の中原上宿・下宿の項では、中原御殿蹟について次の様に記しており、こちらでも中原御殿が「雲雀の御殿」の別称を挙げています。しかし、その別称の由緒について特に記している訳ではありません。無論、雲雀が産物であることを記した箇所も他にありませんので、「風土記稿」で「雲雀」を産物として明記しているのは、実質的に山川編のみということになります。

◯御殿蹟 宿の中程より西の方九十六間を隔てあり、廣七十八間袤五十六間、東を表とす、四方に堀幅六間、あり、是は古御鷹狩等の時、御止宿ありし御旅館蹟なり、慶長年中の御造營按ずるに、村内山王社傳には、元年御造營とあり、北金目村の傳へには、十四年に建させらると云、一決し難し、されど豊田本鄕村、淸雲寺の傳へに、四年二月十日此御殿に御逗留ありといへば、元年と云を得たりとせんか、當所の民、庄右衛門が先祖小川某、此邊の地理に精きを以て、御殿御繩張の時、御案内せしと云傳ふ、中原御殿と稱し、一に雲雀野の御殿とも唱へしなり、東照宮此御旅館に渡御ありし事、諸書に所見あり、…其後廢せられし、年代詳ならず、今は御林となれり、其中に東照宮を勸請し奉る、上下二宿の持、御宮の傍に、老杉一樹圍一丈五尺許、あり、御神木なり、

(卷之四十八、大住郡卷之七、…は中略、強調はブログ主)


百鳥図「ひばり」等
増山雪斎画「百鳥図」より「ひばり」(中央上部)
囀りながら上昇する様子を描いている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
梅園禽譜「雲雀」
毛利梅園「梅園禽譜」
(天保10年・1839序)より「雲雀」
文字の方向に合わせ画像を回転
こちらの絵も揚げ雲雀の姿を描く
(「国立国会図書館
デジタルコレクション
」より)

一般にヒバリは「揚げ雲雀」の季語が示す通り、春先に田畑の中に作られた巣から離れた場所まで歩き、そこから垂直に飛び立ち、周囲に良く通る声で囀りながら天高く上っていく様が良く知られています(リンク先にWikimedia Commons上の音声ファイルがあります)。江戸時代にも松尾芭蕉の「永き日も囀たらぬ雲雀かな」(続虚栗)や小林一茶の「うつくしや雲雀の鳴きし迹の空」(七番日記)など、多数の俳人が雲雀の鳴き様を句に詠んでいますし、「和漢三才図会」をはじめとする江戸時代の本草学の文献でも、「告天子」の別称と共にその鳴き振りを書き記したものが多くあります。以下で引用した「本朝食鑑」では、雲雀を飼育して懐かせることで鳴き声を楽しむことが出来る旨の記述があります(現在は愛玩目的での飼育は禁止されています)。

しかし、「風土記稿」に記されている通り、中原御殿は徳川家康が鷹狩に訪れた際の宿泊施設であり、別に雲雀の鳴き声を楽しみに訪れていた訳ではありません。とすれば、その御殿に「雲雀」の名前が別途付いているのも、やはり鷹狩の方に関連があると見た方が良いでしょう。では、雲雀は鷹狩の獲物としてはどの様な位置づけにあったのでしょうか。

現在ではいわゆる「鳥獣保護法」によって、所定の狩猟鳥獣以外は狩猟することが禁じられています。ヒバリは狩猟鳥28種のうちに入っていませんし、ましてヒバリを食べたことがあるという人も殆どいないと思われます。しかしながら、江戸時代には食用とされることがあったことが、「和漢三才図会」に食味について記されていることでわかります。

鳥肥羽老脛弱故捕者多其味甘脆骨軟ニシテ面脚共

(卷第四十二「鷚」、「国立国会図書館デジタルコレクション」より、送り仮名を上付き文字で、返り点を下付き文字で表現、合略仮名はカタカナに展開)


また、貝原益軒の「大和本草」では、「告天子(ヒハリ)」の項で食味については触れていませんが、その末尾に効能を記しており、やはり食用や薬用として用いられることを示しています。

更に、「本朝食鑑」では雲雀についてより詳しく書き記しています。同書では「雲雀」は「原禽類」に分類されていますが、「原禽類」の中には鷄や雉、山鳥といった、比較的食用として多く用いられていた鳥も含まれている点に、人見必大の見解が窺えます。今回も東洋文庫の翻訳版から引用します。

味は甘脆で、(あぶら)は浅く、骨は軟らかく、脛・掌も食べられる。これを上饌に具している。近世(ちかごろ)、官家では、鶴・(がん)に劣らずこれを極めて重く賞しており、江都(えど)の官鷹(幕府の鷹匠の鷹)に()らせて、上都(きょうと)に奉献させている。その他は、品階に従って、順次、列侯に賜う。公家の鷹も、これを()って、全国四方に餽送(おく)っている。各家でも非常に賞美され、樊籠(とりかご)に畜養される場合もある。(ただ)、脛・掌が細弱(ひよわ)(くじ)けやすいのが弱点で、そのため、籠の中に砂を盛り、(もぐさ)()いて防備している。もし羽の中に虫を(わか)すと、砂を浴びさせる。鶉の場合もやはり同様にする。高さ数十尺に作った竹籠の上に、それに応じて長く(つく)った網を張っておくと、雲雀は、能く馴れれば、舞い鳴き、網籠の中を頡頏(とび上がりとび下がり)し、終日(のど)をころがし円亮の声で鳴いて倦まない。それでこれは官中の翫弄となっている。

(「本朝食鑑2」島田勇雄訳注 平凡社東洋文庫312 240ページ、注・ルビも同書にあるものはそれに従い、一部ルビを追加。強調はブログ主、なお、「国立国会図書館デジタルコレクション」所蔵の原書の該当箇所はこちら。以下の本書の引用も同様)


途中から食用の話から囀りを賞翫する話にすり替わっていますが、さておき、前回の「成瀬醋」の時と同様、やはり幕府の事情に触れる機会のあった必大らしく、雲雀が将軍の御鷹によって捕獲され、賞味されていたことが記されています。「本朝食鑑」では更に引き続いて

〔気味〕甘温。無毒。

〔主治〕久泄、虚弱。

〔発明〕今俗で一般に、「雲雀の性は平、肉は浅くて病にあたらないので、病人に食べさせてよい」といわれている。の考えでは、雲雀の翼は強くて軽く、肛は細くて捷く、天まで飛び上り、歩行するときは疾い。しかし必大(わたし)の考えでは、雲雀の翼は強くて軽く、脛は細くて捷く、天まで飛び上り、歩行するときは疾い。これは、体は微小とはいえ、勢いの健やかな(ため)である。そもそも、体が軽く、勢いも健やかなものは陽であって、能く昇るのである。春の気を得て長じ、冬の気に遇って衰えることから、雲雀が昇陽であることが知れるであろう。それで、気を昇提して、能く泄痢の虚極を調えるのである。してみると、気実の病にこれを食べさせると、発熱動血し、知らず知らずのうちに不治の(ながわずらい)を生じるであろう。気虚の病にこれを食べさせると、症に拠って治るであろう。凡そ禽類で、家に馴れ水に遊ぶものは、たとえ有毒とはいっても、烈しくはない。山に棲み、野に宿するものは、有毒ならばいよいよ(さか)んで、人体に害を遺すものである。

腸・肫

〔気味〕いずれも甘温。無毒。近世は腸・(いぶくろ)・脛・掌、および諸骨を(しおづけ)」にして、醢醤(かいしょう)とする。あるいは、麹に和する(麹漬)こともある。どちらも味は甘鹹・香膩(肥えていてかおりがよい)で、その()さは言葉で言い表わせない。世間では珎(珍)肴としている。(けれ)ども、多食すると、温毒の害があるのではなかろうか。

(同上240〜241ページより)

と、肉も内臓も食べられること、特に内臓の塩漬けや麹漬けがとりわけ美味であることを力説しています。

この東洋文庫版の「本朝食鑑」にはかなり詳細に解説が付されており、これによれば、雲雀が宮中で饗宴に供された歴史は平安時代末期まで遡ることが、「兵範記」などの史料の引用を連ねて示されています(同書242〜244ページ)。この中では室町時代末期の料理書である「大草殿より相伝之聞書」からの引用が、江戸時代に比較的近い時期の雲雀の料理や食べる際の作法について詳しく記しています。

ひばりのつばめもり集養の事、めしにてもあれ湯漬にてもあれ、必ず膳の中にあるべし。又二の膳にも三の膳にも中に参るなり。本膳の中にある時は、てごしさいごしうんめいのさいを喰い候て、扨箸を膳にすみちがひに置きて、雲雀の盛物右の手にて取り、左の手を添へ、いかにもかんじて扇を抜き、我が右の方へ少しひらきて竝、其の上に実雀のくはへたる足を取りて、扇の上に置きて、やがて雲雀をば前の所へ置きて、左の手を添へ、右の手にて雲雀の頭をぬきて、台のそばにも又台の下にも置く。扨箸を取りて右の手にて雲雀の身を摘みて食ふ。其の後は箸にて集養ありたきほど食ふ也。又雲雀の足は御酒二へん程参り候て、足結ひたる水引を解きて、水引をば置き、先かた足賞翫して、又片足をば左の手に持ちたるもよし、扇の上に置きたるも苦しからず、さて後に集養有りたるもよし、時宜によるべし。水引は何となく本膳に置きたるも苦しからず。又懐中してもよし。其の後膳のくだり候時も其のまま置くべき事も候。そののちあつかひあるまじく候。

(同上243ページより)

この様な作法が細かく記されていることからは、官家で雲雀が食される機会はこの頃からかなり多かったものと思われます。

また、同じく「本朝食鑑」の解説でも引用されていましたが、以前椎茸を取り上げた際にその料理法を参照した江戸時代初期の「料理物語」では、

〔ひばり〕汁、ころばかし、せんば、こくせう、くしやき、たゝき

(寛文4年・1664年版の翻刻、「雑芸叢書 第一」大正4年・1915年 国書刊行会 編、「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

この様に調理法を列挙しています。今となっては具体的にどの様な料理なのか想像もつかないものもありますが、汁物にしたり串焼にしたりして供していたということになるでしょう。もっとも、ここに挙げられている鳥の多くが、今では食用とされることがないものばかりですから、今となっては具体的な料理をイメージするのが困難になっていると言わざるを得ません。


さて、「本朝食鑑」の記述でも雲雀が官家で供される食材であることが示されていましたが、そうした膳に供する鳥などを捕える江戸時代の鷹狩において、雲雀がどの様な位置付けにあったのか、長くなりそうなので次回はこの話から始めたいと思います。

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