2016年04月の記事一覧

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【史料集】「新編相模国風土記稿」津久井県各村の街道の記述(その3)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」の津久井県の各村の街道の記述をまとめます。今回は、各村の項に記されながら津久井県図説には記されなかった道について取り上げます。

まず、甲州街道よりも北側に位置する沢井村と佐野川村の項には「甲州街道の間道」などと称する道が記されています。武州八王子から和田峠を経て相模国に入り、佐野川村と沢井村を経て小淵村で甲州街道に合流する道筋です。一般には「佐野川往還」「甲州裏街道」などと呼ばれていますが、この道は佐野川村の途中で分岐して倉子峠を経て甲州上野原宿へと向かう道筋も知られています。佐野川村の項では関連する地名を含む記述も拾ってみましたが、この中では佐野川〜上野原間の道筋については特に触れられていません。


案下の口留番所跡碑(ストリートビュー
因みに、甲州街道の関所はかつては小仏峠上にあり、後に駒木野に移されましたが、八王子から佐野川往還を経由して上野原方面に向かった場合は、途中の案下の口留番所を経由することになります。この口留番所については「新編武蔵風土記稿」や「武蔵名勝図会」(リンク先は何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」の該当箇所)にも記述があり、村方の持ち分として村民が管理している番所であることを記しているものの、その具体的な運用については記していません。村民が管理する番所では役人が運用する関所と同様の管理は難しいと考えられることと、津久井県内の口留番所が何れも村民以外の通行を原則認めない運用をしていたことを考え合わせると、恐らくは同様に遠方からの通行者を通さない運用であったと思われますが、委細未確認です。

佐野川村の項には、江戸時代以前には同村で継立が行われていたことを証す古文書が存在していたことを記しています。とすると、かつてはより遠方への往来がこの道を通っていたのかも知れませんが、江戸時代には遠方への通行者は甲州街道に集中され、佐野川往還を含むそれ以外の街道は飽くまでも近隣の通行に特化していったことになりそうです。

佐野川往還:津久井県内の各村の位置
佐野川往還:津久井県内の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

残りの道筋は何れも甲州街道よりも南に位置します。まず、青山村の北の端で西へと分岐して甲州道志村まで向かう道について、途上で経由する青野原村と青根村の項に記載があります。この道の名称についてはどちらの項にも記されていませんが、現在の国道413号線にほぼ並行していた道で、一般的には「道志道」と称されることが多いため、ここでも仮にその名称を記しています。この途上にも青野原村に口留番所がありました。

道志道:津久井県内の各村の位置
道志道:津久井県内の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

もう1本は、高座郡側から下川尻・上川尻の市場を通り、太井の荒川番所の辺りで相模川を越えて三ケ木村へと向かい、他の街道と合流する道筋です。「風土記稿」上の各村の記述では「津久井道」などと呼ばれており、他の道筋との区別を付け難いのですが、ここでは便宜上、この道の途上、相洋中学校脇の道標に見られた「久保沢道」の呼称を仮に使用します。この上川尻村の久保沢と、下川尻村の原宿が津久井県内の主要な市として高座郡からも顧客を集める地であり、この道筋はこれらの市へ向かう道筋であったと言えるでしょう。また、かつては中野村の川和が市場として賑わっていたものの、その後この市は廃止されてしまったことが「風土記稿」に記されていますが、恐らくは川和の市は久保沢や原宿に取って代わられたのでしょう。

この道筋には中野村から直接三ケ木村に入る道と、中野村から又野村を経て三ケ木村に入る岐路が存在した様です。三ケ木村内には信玄道が南北に通っていましたので、村内の南と北でそれぞれの道が合流する様な道筋であったと思われます。途上には荒川の渡しの脇に番所がありましたが、ここは相模川水運に対して五分一銭の徴収を行う番所で人改めの機能は持っていませんでした。この道から甲州街道方面に抜けた場合は鼠坂関で、道志道方面に向かった場合は青野原の口留番所で人改めを受けることになります。

久保沢道:津久井県内の各村の位置
久保沢道:津久井県内の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

また、青野原村の記述には村内で鳥屋村方面に分岐する道が存在することが記されています。この道については鳥屋村の項には特に何も記されていませんが、隣接する愛甲郡の記述には煤ヶ谷村や宮ケ瀬村を経由して鳥屋村へと入ってくる「甲州道」が存在したことが記されています。この箇所は愛甲郡の記述との摺り合わせがあまり上手く出来なかったと言えます。

なお、この道は現在の神奈川県道54号に相当する道ですが、明治29年の地形図を現在の地形図と見比べると青野原や鳥屋の分岐点が大分異なることが窺えます。当時の道のうち、特に鳥屋側は既に廃道となっている様で現在の地形図に全く反映されていないため、ここでは「今昔マップ on the web」で該当箇所を示すに留めます。


鳥屋村〜青野原村間の「甲州道」(「今昔マップ on the web」)

津久井県:その他の村道・間道が記された村々
その他の村道・間道が記された村々
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
その他、津久井県の記述には村道レベル、もしくは精々隣村への連絡道として使われていたと思われる道についても記された村が比較的多く見られます。また、相模川の渡船場についても記述が多く見られ、下記一覧にもその記述を拾いましたが、これらについては解説は省略します。

以上の各村の記述の中には、比較的主要な道筋であっても「隣村への通行」と記す記述も見られ、こうした傾向からは、八王子千人同心が津久井県の街道についてまとめるに当たっては、各村から上がってきた報告を基本的にそのまま採録し、より広域的な交通を担っていたと思われる道をその中から選抜して各村の記述に手を入れる、といった作業はあまりなされなかった様に見受けられます。その点では当時の津久井県内の交通について委細を判断する際には注意が必要ですが、こうした記述が比較的多く残ったことで、当時の街道について少しでも情報を得るという点では他の郡に比べて有意義な一面もあるのも事実です。

今回の地図も何れも明治29年頃の地形図に見られる道路を参考に線を引いています。出来るだけ江戸時代当時に近いと思われる道筋を選んでいますが、判断が付き難い区間は現道に従う様にしています。また、ダムの建設に伴って水没したり、道が廃止されたと思われる区間については凡その線を引かざるを得ませんでした。


街道「風土記稿」の説明
*甲州街道の間道︵佐野川往還︶小淵(おぶち)百十九(四)◯小名 △小淵 △上小淵 △藤野 △上澤井 △關野宿正保・元祿の改に、小淵村の内、關野村と記せり、

※関野宿の西辺りでこの間道が甲州街道から分岐していた筈だが、関連する記述は見当たらない。

澤井村百十八(三)甲州より武州へ往來の間道南北に亘れり、南方小淵村より來り西北の方佐野川村に達す道幅凡六七尺
佐野川村百十九(四)一條の徑路高低盤囘して往來をなせり、甲斐國より武藏國への間道あり南、小淵村より來り、北、國界の峠に達す、是峠の頂上にて、武相經界をなせり、仍て兩國各接する所の地名によりて、頂上より已西は和田峠と呼び、頂上より已東は案下峠と呼べり、御分國已前も往來にて、繼場などもありし事と見へて、今に傳馬屋敷と呼べる遺名あり、里正が所持する古水帳に傳馬屋敷と記せるあり、傳へ言ふ、貢税繇役を免除せられしが、寛文の頃より或は民の宅地となり、或は田畠となりければ、是よりして貢税を上納せしことになりぬ、
◯小名 △和田元祿の改に佐田川村の内和田村と記す、其後村名を省て小名となる △下岩正保の改に佐野川の内岩村と唱しが、其後村名を省て上岩・下岩と分て小名とす、 △鎌澤 △遠里 △橋詰 △御靈 △上川原 △上岩
◯倉子山地名の起審ならず下岩にあり、山上に天神祠を祀る神社部に出す麓より頂まで五町程是より稍高く、曲徑を登ること廿八町、蠶山に至る、◯蠶山古也麻或は神山と書し或は古山と書す、 三國峠に至る中腹にあり、地形頗平坦、石楯尾神社を祀て前社と稱す事蹟神社の條に辨ず、 ◯三國峠正保・元祿の改に三國嶽と書す、今は峠と書す、三國往來の間道あり、武相甲三國接壤の峻嶺なり、蠶山より稍高く、攀登ること廿餘町 頂上に一祠あり、大同年中の造營なりと云ふ、今は小石祠なり事蹟神社の部に辨ず、 …◯和田峠 武相經界の峠なり、陟降二十町許縣内にては和田峠と呼ぶ、多磨郡恩方にては案下峠と呼ぶ、兩國各接する所の地に因て呼べり、武藏國より甲斐國へ間道の一條是に由る道幅三四尺より五六尺に逮べり
*道志道靑山村百二十一(六)一條の道係れり、東方上長竹村より來り、乾方三ケ木村に達す、村内に係る事凡三十町路幅八九尺より二間に逮べり、村の中程より岐して坤の方へ一條係る道幅凡前に同じ、是は鳥屋村に達す皆隣村への通路なり、

※この2路の記述はどちらも道志道には該当しない。青山村の北辺あたりで信玄道から分岐していた筈。

靑野原村百二十一(六)一條の路係れり、高座郡邊より甲州への間道なり、東方靑山村より來り、西方靑根村に達す、村内に亘る事凡一里半、此往來に口留の關所あり、關より已東三町許にして路兩岐す、巽行すれば鳥屋村に至る、
◯小名 △西之野 △靑野原 △長野 △梶野 △前戸 △燒山嶽 △靑根村鳥屋村及び當村接壤の境上にあるが故に各村の條に載す、
◯口留番所小名靑野原にあり 高座郡邊及び縣内より甲州都留郡道志村への往來なり、近鄕の木こり・草刈・耕作人の外は不通の番所なり、村民代るがはる是を守る、
靑根村百二十(五)一條の通路係れり西方甲州都留郡道志村より來り、東方靑野原村に達す、當村に亘ること一里半餘、道幅四五尺より六尺に餘れり、
◯板橋二 共に道志川に架す、其一は宮澤橋長六間幅六尺其一は湯口橋長八間幅六尺

※牧野村の項で指摘する南北の道筋に連なるものと思われるが、この橋を渡ってきた道が道志道と接続する筈の区間については記されていない。

*久保沢道下川尻村百二十三(八)村内に(ママ)條の道あり道幅凡二間、東方高座郡上相原村より來り、村内を經る事九町許にして上川尻村に達す、茲に原宿と云へるは村の東偏にて一區をなし編戸の民相對して軒を並ぶる事、四十四戸、往古より市を立て米穀及び庶物を賣買すること久保澤と相對抗して每月七の日を定日として市を立てり頗る賑はへり、縣中の村落この兩地の如くなるはあらす、人物も亦西偏山村の風俗とは同じからず、
◯小名 △原宿 △本鄕 △砂 △町屋 △小松 △雨降 △穴川 △風間 △瀧尻
上川尻村百二十三(八)村内に一條の道津久井往還にて、甲州への通路なり東西に亘れり、東方下川尻村より來り、村内を經ること廿四町にして西方中澤村に達す道幅凡二間、小名久保澤の一區には民戸相對して軒を並る事五十、是所には古ヘより市を立て米穀及び庶物を賣買す每月三の日を定日とす是故に近隣の村々より群聚していと賑はへり、縣の東偏に在て頗る打開けたる村からなり、人物も亦西偏、山村の風俗とは異なり、
◯小名 △畑久保 △尻無澤 △谷ヶ原 △向原 △久保澤 △小松 △町谷 △雨降阿女夫良之
◯相模川 村の南界を流る、西方中澤村より來り、東方高座郡大島村に達す、水路凡廿五町川幅五十間程渡船場あり、明王坂下より小倉村に渡す、是を小倉の渡と呼ぶ、卽小倉村の持なり、

※小倉の渡しは津久井往還に含まれるものではないが、小倉村側の記述との整合性があるため、ここに書き出した。

上中澤村・下中澤村百二十三(八)上下に分て二村となるといへども、田園山林及び民家共に駁雜して聢と經界を分ち難ければ、上下二村をすべて茲に綴るもの一村の如くす…一條の路係れり、東方上川尻村より來り西方太井村に達す、村内に亘ること十三町道幅凡二間、是は津久井街道にして甲州への通路なり、
◯相模川 村の南界を流る、西方太井村より漑ぎ來り、東方上川尻村に達す、村内を經る水路凡十三町川幅凡四十間、渡船場あり、荒川の渡と云、是は太井村、當村と二村の持なり、旣に太井村の條下に辨ぜり、又此川に架する土橋も亦當村と太井村二村の持なり、是亦太井村の條下に辨ぜり、

※太井村の記述から考えて、土橋は冬季の仮橋のことか。

太井(おおい)百二十三(八)一條の路係れり、東方中澤村より來り、西方中野村に達す、村内を經ること十町許道幅二間程、是は津久井街道にて甲州への通路なり、
◯小名 △小網組 △荒川組正保の圖に、太井村の側に、荒川村と別村に出せり、今は小名に屬す、 △北根小屋組
◯相模川 西方より北東を流て村界をなす、西方中野村より來り、東に斜に巽に至り小倉村に達す、水路屈曲して一里四町程、渡船場一所、荒川より中澤村に達す、是を荒川の渡と呼ぶ此渡船、當村、及び中村澤(ママ)の持なり 冬より春までの間は土橋を架す、長六十間、幅九尺、此橋の用具は、根小屋村・長竹村・靑山村・鳥屋村・靑野原村・靑根村・中野村・三ケ木村・寸澤嵐村・若柳村・三井村・又野村・上川尻村・下川尻村、十四ケ村より出せり 津久井街道にして甲州への通路なり、此渡船場に通船二艘あり、當國須賀浦に達す當村より須賀浦まで水路八里半
◯荒川番所 五分一運上取立の番所なり六畝廿一歩の地を除す相模川に臨て立てり、凡材木炭薪船筏ともに五分一の貢賦を此所にて收む、御代官手代一人、下役二人こゝに居て其事を掌どる、
中野村百二十一(六)一條の街道東西に係れり、甲州への往來なり 東太井村より來り、西、三ケ木村に達す、村内に亘る事十六町三十間道幅九尺街道の東寄りの小名を川和と呼ぶ、此所は民家相對して軒を並ぶ事八十二戸、往昔は每月六度の市を立て、世に所謂川和縞其外庶物を交易して土地も賑はひしが、延享年中より市廢して今は寂寥たる村落なり、

※この後に「川和絹」の記述が続くが省略。

◯小名 △森戸 △川和 △上之山 △奈良井觀音堂にある古記に、上奈良谷とあるは、此地なるべし、 △大澤 △川坂 △不津倉
又野村百二十一(六)一條の道係れり東方中野村より來たり西方三ケ木村に達す、村内に亘ること十町餘道幅二間程、卽是津久井街道にて甲州への通路なり
◯小名 △坊海戸 △麻加土萬賀止 △西海戸 △中原 △下向 △上向
三ケ木(みかぎ)百二十一(六)當村には縱横に數條の道係れり、凡縣内四方の往來津久井街道と唱へ、甲州への通路なり、皆此里に由らざるものは寡し、先其槪を謂はゞ南北に亘る大路は南方靑山村より來たり、村北に至て東西の一條に合す、村内を經る事十七町許道幅二間程、即其東西の一條亘り九町程、も皆隣里への往來なり東方は又野村に達し、西方は道志川を渡て、寸澤嵐村に達す、
*甲州道鳥屋(とや)百二十一(六)村田に坂峠はなけれども、縱横往來する所の通路、高低曲折不平の土地なり、

※街道についての明記はないが、愛甲郡図説に従えば南方から宮ケ瀬村を経由してきた「甲州道」が入ってくる筈。この道はそのまま北へ抜けて青野原村に入り、道志道に合流する。

靑野原村→上記道志道の同村の項参照
※その他の村道

間道
牧野村百二十(五)二條の通路係れり、其一は西方甲州都留郡より東方寸澤嵐村に達す、村内を經る事二里餘道幅四、五尺(ママ)より六尺に餘る其一は北方日連村より南方靑根村・靑(野)原村に達す、村内を經る事二里十町餘道幅三四尺より五六尺程、

※雄山閣版では冒頭の「二條」の2字が欠落。鳥跡蟹行社版を参照して補充。

◯道志川 西方甲州都留郡、秋山村より沃ぎ來り、東方寸澤嵐村に達す、村内を流るゝこと凡三里許川幅十間より十四五間に及べり…◯橋六 道志川二條の流に架して村間の通路とす、皆木橋なり、其一は長二十間餘幅五尺、其一は長二十間餘幅六尺、其一は長十八間幅五尺、其一は長八間幅五尺、

※南北方向の道筋は南で青根村に入って道志道と交わると思われる。

三井(みい)百二十三(八)◯相模川 村南に緜聯して隣界をなす、西方千木良村より漑ぎ來り、東方中澤村に達す、村内にかゝる水路一里廿二町に餘れり、渡船場あり、川坂の渡と呼ぶ、當村より中澤村への通路の渡なり、又當村に通船二艘あり、大住郡須賀浦に達す、

※街道に関する記述は特になく、隣村へ渡るだけの渡と思われるが、念のために書き出した。

小倉(おぐら)百二十三(八)村内に一條の道係れり、北上川尻村より來り、西根小屋村に達す、村内を經る事、凡十町道幅六尺
◯相模川 村の北端を流る、西方根小屋村より來り、村に係ること凡一里川幅四十間、東南に流て葉山島村に達す、渡船場あり、上川尻村に達す、是を小倉の渡と呼、卽ち小倉村の持なり、按ずるに相模川の渡津多しと云へども小倉の渡の如きは寡し、いと打開けたる場所にて北岸には明王阪及び明王瀧の佳境あり、南岸には小倉の里及び小倉山の地形を眺み、爾して中流の一水渺々として素練を牽が如く、數十里の間に緜遽たり 岸に繫げる舟も渡舟の外或は通船厚木及び須賀浦に達す或は材木筏などこゝかしこ往來に漂漾せり、
葉山島村百二十三(八)唯小徑一條三增村に達するの外佗の往來なし、西方に接する小倉村境の如きは亘嶺嶮岨或は盤巖重疊して行路難し、或は巖に架し、或は谷を鑿し、墻屋接聯せり、
◯相模川 村東の界を漑ぐ、乾方小倉村より來り巽の方愛甲郡角田村に達す、村界を流るゝ事廿五町に餘れり、渡船場二所あり、其一は下倉渡と呼、高座郡大島村に渡す或は神澤渡と呼ぶ其一は下河原渡と呼、高座郡田名村へ渡す共に當村の持なり、

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は津久井県中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「津久井県図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。


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【史料集】「新編相模国風土記稿」津久井県各村の街道の記述(その2)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」の津久井県の各村の街道の記述をまとめます。今回は、津久井県図説に記された残りの2本の街道について検討します。

図説の記述をまとめた際にも、この残りの2本の道筋が一部区間で重複している様に見えることを指摘しました。各村の記述を拾いながら該当するものを探していくと、この図説の記述に合わせて2つの道筋を特定するのがかなり難しいことが見えてきます。

まず、津久井県図説の一覧にも書き足した通り、2本目の道の記述に「都留郡小淵村」という明らかな誤記があり、これをどう解釈するかが問題です。どちらかと言えば「小淵村」の方を正と考えて「都留郡」が誤りと判断するのが良さそうに見えますが、その場合は次の「信玄道」と大半の道筋が重なっていることになる点が若干不自然です。今回は差し当たりこちらと解釈しましたが、他方で、「都留郡」の方を正と考えて「小淵村」の方を他の村と取り違えた可能性も考えられなくもありません。その場合は、例えば道志村方面への道を指したと解釈することも可能ですが、志田峠からの道筋を道志村方面と結び付けて見るのが適切かどうかという課題があります。


志田峠と三増峠の位置(「地理院地図」より)
何れにしても、2本目の道には「志田峠」、3本目の道には「三增峠」の名前が見えていますが、この2つの峠の間は1km少々しか離れておらず、2つの峠を越えてきた道は長竹村の中で合流しているのは確かです。それにも拘わらず、これらの道を共に津久井県図説で主要な街道の1つとして取り上げた意図は今一つ見えないところがあります。

一方、3本目の「信玄道」では経由する村の名前が書き連ねてあることから、この道筋を特定するのは比較的容易です。しかし、日連村の次に名倉村の名前が記され、そこで相模川を渡って甲州街道の上野原宿へと向かうとしている点は、長竹村の項で日連村からは吉野宿へ向かうとしている点と噛み合いません。この「信玄道」の名前は永禄12年(1569年)の武田信玄の相州侵攻時の進軍ルートになったことに由来しており、「風土記稿」中でも幾度となく「甲陽軍鑑」の名前や引用が顔を出します。特に長竹村の「三増峠」の項にはここで起こった戦いの一部始終が長々と引用されているのですが、首実検を行った反畑(そりはた)から先の道筋については触れられていません。ただ、当時の主要な道筋と考えられているのは丹田前の渡しを経て吉野宿へ渡る、長竹村の項に記されている道の方です。

天保六年津久井県地誌捜索廻村経路
天保6年の千人同心の
津久井県地誌捜索経路(再掲)
(「八王子千人同心の地域調査」所収)
この問題を考えるために、津久井県を担当した八王子千人同心が、その取材の過程で書き残したものに手掛かりを求めることにしました。天保6年(1835年)に津久井県内を巡回した折の記録である「築井鑑」を元に模式的に起こしたルート図は以前(あゆ)」の表記を巡って津久井県の部の成立の経緯を見た際に紹介しました。この図に記された日付に見られる様に、一行は各村を極めて手際よく巡回し、1日に1〜2村を訪れていますから、当然ながら当時の津久井県内の道筋を念頭に全ての村を訪れる順番を予め決めて出発したに違いありません。言い換えれば、この千人同心が進んだルートには多少なりとも使える道が存在した筈です。

ここで、千人同心一行が3月5日から7日にかけて辿ったルートを見ると、佐野川村から小淵村へと降りて来た一行は、甲州街道を関野宿から藤野へと東へ向かい、そこから相模川を越えて名倉村に入って一泊しています。そして、翌日には葛原を経て日連村へと歩を進めています。津久井県図説で「信玄道」として記された道筋はこのルートに当たります。あるいは、図説を記す際にこの時の記憶が念頭にあってこちらを「信玄道」と記したのかも知れませんが、少なくとも名倉村の項には対岸との渡しについては記述があっても、この村を経由する街道についての記述はありません。

ここで考えるべきなのは、それぞれの記述がどの道を指しているかを同定しつつ、「風土記稿」編纂当時の各街道の様子が実際はどうであったかを洗い出すことなのですが、今回は「風土記稿」以外の史料をあまり確認出来ていないため、飽くまでも暫定的に過去の地形図などを頼りに該当しそうな道を選び出して並べたものと考えて下さい。今回の検討では、実質的に図説のこの2つの街道は大半が同じ道筋を指しており、通過する村はほぼ同一ということになりました。名倉村と対岸の小淵村についても末尾に追記しましたが、名倉村には関連する記述がなく、該当する土橋の項にも隣村への通路という表現がなされていて、村側としてはこの道を遠方へ向かうための街道とは見做していなかった模様です。また、青山村にも同様の記述が見られ、村によって道筋に対する見方が異なっていたことが窺えます。

津久井道・信玄道:津久井県内の各村の位置-2
津久井道・信玄道:津久井県内の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

今回のこの地図は、「今昔マップ on the web」上で明治29年の地形図を参照して該当しそうな道筋を推定して作成しました。一部相模湖や津久井湖の影響で水没した区間があり、更に明治29年時点でも既に道を付け替えたかと思われる箇所もあり、飽くまでも凡そのものであることを御了承下さい。

街道「風土記稿」の説明
﹇津久井道﹈

信玄道
長竹村百二十二(七)一は巽方志田峠より西方靑山村に達す、村内を經る事凡三十町道幅二間程、其一は同く巽方より來る一條、石ヶ澤にて兩岐し、乾の方に亘り北方の根通りを經て根小屋・靑山兩村の間に達す、村内を經る事三十三、路幅狹小にして通行難し、是を古街道と唱へ或は信玄道と呼ぶ信玄道は當村より西方靑山村・又野村・三ケ木村に至り、道志川を渡り、寸澤嵐村若柳村反畑鼠坂の關に係り、夫より日連村を經て、吉野宿に至る、永祿十二年十月武田信玄諸軍を引率して小田原城を攻敗り凱陣する時、小田原方の諸將二萬餘兵三增峠に出張して合戰に及べり、其時甲軍大に勝利を得て、三千二百六十九級を獲て是路よりして西向し、寸澤嵐村反畑に於て首實檢を執行ひ、甲陽に凱陣する是其古道なり、
◯小名 △二郎根仁呂宇禰【甲陽軍鑑】韮尾根に作る、 △稻生伊奈布 △沼 △石ヶ澤 △喜登宇豆久
◯志田峠 御林山なり反別六十七町六反陟降凡七八町許愛甲郡厚木荻野邊より縣内往還の峠なり、道幅凡二間、 ◯三增峠 是峠志田峠より東方に續き同じく御林山なり陟降前に同じ志田峠三增峠の間に小徑あり、中の峠と云ふ此邊おしなべて志田山と唱へ、長松茂生し嶮岨崔嵬萬木灌叢せり、其間凡一里許、三增峠は當村と愛甲郡三增村の間に接したる境上の峠なり、三增村は峠已東二十町許にあり、是邊はおしなべて永祿十二年十月武田信玄の諸軍、北條氏康が麾下の諸將と合戰せし所にて世に所謂三增合戰の古戰場これなり按ずるに【武德編年集成】に曰、…

※以下「甲陽軍鑑」等から三增峠の合戦に関する引用が特に長く続き、関連する小名との照合が仔細に行われているが省略。

根小屋(ねこや)百二十二(七)一條の道係れり、南愛甲郡三增村境より北方太井村境に達す、村内に亘る事一里十一町路幅五六尺より一條に餘れり、小田原より甲州への通路なり、

※現在の町名では三増峠と直接接しているのは相模原市緑区根小屋だが、当時は志田峠や三増峠が御林山として長竹村の属とされていた。ここで記されている道筋は部分的に信玄道とされている道筋と重なっているが、途中から太井村への道と分岐することになる。

靑山村百二十一(六)一條の道係れり、東方上長竹村より來り、乾方三ケ木村に達す、村内に係る事凡三十町路幅八九尺より二間に逮べり、村の中程より岐して坤の方へ一條係る道幅凡前に同じ、是は鳥屋村に達す皆隣村への通路なり、
三ケ木(みかぎ)百二十一(六)當村には縱横に數條の道係れり、凡縣内四方の往來津久井街道と唱へ、甲州への通路なり、皆此里に由らざるものは寡し、先其槪を謂はゞ南北に亘る大路は南方靑山村より來たり、村北に至て東西の一條に合す、村内を經る事十七町許道幅二間程、即其東西の一條亘り九町程、も皆隣里への往來なり東方は又野村に達し、西方は道志川を渡て、寸澤嵐村に達す、
◯小名 △野尼 △原替戸 △二本木 △新宿
◯道志川 村の西界を流る、西南間靑山村より來たり水路三十町許にして相模川に入る川幅十間より十二間に至る渡船場津久井街道西行して甲州に至るあり、落合の渡と呼ぶ或は沼本の渡と云ふ、寸澤嵐村に渡す、當村及び寸澤嵐村の持、

※現在の町名「三ケ木」は「みかげ」と読むが、「風土記稿」ではこの村の読みを「美加岐牟良」と記しているところから、左の読みもこちらに合わせた。

寸澤嵐(すあらし)百十七(二)當村もと若柳村と一村にして其後いつの頃にか分村せり【小田原役帳】に、若柳を載せて、當村を闕く、されば村の起立は若柳村と同じき事知るべし、山林田野及び民家共に兩村駁雜せり、是故に里務は總て一體にすと云、…村の方量、及び四境共に若柳村の條に辨ず、
◯小名 △鼠坂禰牟佐加 △山口 △沼本 △道志 △增原 △關口 △舘 △南畑 △新戸
◯道志川 村の東界を漑ぐこと一里半許、南靑野原村より來り東流して村内落合川原にて相模川に入…渡船場一所道志川落合にて渡す、當國厚木通り、吉野宿へかゝり、甲州への往來なり、冬より春の間は、假橋にて渡す、長二十間、幅五六尺、 ◯反畑 街道の南傍にあり、一區の麥田なり、其間に首塚三あり、一は周匝七八間高一丈餘、上に淺間祠を祀る、松及び雜木叢生す、其二は周匝二三間、高七八尺【甲陽軍鑑】反畑を曾利畠に作、武田信玄小田原の諸將と三增峠の戰に勝利を得て、討取所の首級を此處に於て實檢に備ふと云傳ふ【甲陽軍鑑】に云、…

※現在の町名は「すわらし」と読むが、左の村名の読みは「風土記稿」の「須阿良志」の表記に合わせた。街道に関する直接の記述はないが、表記からは若柳村の項参照の意で略したものと考えられる。道志川の記述には鮎漁についての解説が長いため、その部分は省略した。

若柳村百十七(二)當國小原邊より甲州への往來の街道一條係れり、東寸澤嵐村の内、沼本より西寸澤嵐・若柳兩村駁雜の地、鼠坂川原まで一里半餘 道幅凡二間程、按ずるに、永祿十二年、武田信玄、三增峠の合戰に勝利を得て、是路にかゝり、凱旋すと云ふ、
◯小名 △若柳 △奥畑 △阿津 △鼠坂當村と、寸澤嵐村に駁雜すれば兩村の條に載す、
◯鼠坂關【名寄帳】には、口留番所と記す、當村と寸澤嵐村の民代る代る是を守る、村民芻蕘の外、他の往來を許さず、 ◯人改所是は鼠坂關の脇、相模川の水路に據て設たり、甲州及び縣内、總て西方より積み出す、賣買荷船、或は筏、上は乘のもの、往還するを改む、里正是を管せり、 ◯相模川 北方村界を流ること一里二十町に餘れり、西方日連村より來り、東方寸澤嵐村に達す川幅凡二十四五間
日連(ひづれ)百二十(五)◯小名 △杉 △勝瀨 △靑田 △新倉 △日連
◯相模川 村の北界を屈曲して東流す、西方名倉村より來り、東方寸澤嵐村に達す、村内に亘ること三十二町、渡船場二所、其一は勝瀨渡と呼、與瀨宿に渡す、其一は丹田前渡と呼、吉野宿に渡す勝瀨より以西五町許、丹前の渡あり、彼と是と二瀨越と呼、甲州街道の捷徑、間道なり、

※津久井道・信玄道に関する記述は見られない。

吉野宿百十八(三)◯相模川 村の南端を流る、西方小淵村より來り東方與瀨村に達す、村内を經る水路十五町、渡船場一所、當宿より日連村に渡す、是を丹田前渡と呼ぶ甲州街道の捷徑なり 旣に總說に載す、

※津久井道・信玄道がこの渡船場を経由してくることに関する記述はない。

名倉村百十九(四)◯相模川 村の北界を東流すること三十町餘、西方甲州都留郡鶴村より來り、東方日連村に達す川幅凡四十間餘、 ◯秋川 水源は甲州都留郡秋山村より漑ぎ來り、南方牧野村と當村の境を經ること三十二町餘川幅廣狹ありて凡十間餘、 ◯土橋二 各秋川に架す各長六間幅三尺、一は牧野村に達し、一は日連村に達する通路なり、

※街道に関する直接の記述は見られない。また、相模川の渡し場についても記述がない。

小淵村百十九(四)◯相模川 村の南界を東流すること二十丁餘川幅三十間餘、渡船場あり、押尾渡と云名倉村へ達す、當村の持なり、

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は津久井県中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、該当する箇所を強調表示とした。「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「津久井県図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。



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【史料集】「新編相模国風土記稿」津久井県各村の街道の記述(その1)

「新編相模国風土記稿」中の各村の街道の記述をまとめる作業、今回から津久井県の分に取り掛かります。

「風土記稿」の津久井県の部を担当したのは昌平坂学問所ではなく八王子千人同心で、この部は天保7年(1836年)に成立しました。残りの郡のうち高座郡と三浦郡の部は一旦天保3年と5年に成立しているものの、この2郡の部は後に天保11年に改訂を受けますので、津久井県の部は同じ天保7年に成立した足柄下郡の部と共に「風土記稿」の中では実質的に最初期に成立したことになります。このため、津久井県の部の記述は他の郡の記述とは若干文体や構成に違いが見られることを「凡例」に記しています。

津久井県の街道の記述では、他の郡の記述に比べると叙述的な傾向が強まり、また比較的詳細な記述がなされている項が増えています。また、街道の景観についても「攢峰繚繞(さんぽうりょうじょう)」といった、漢詩の様な表現によって記されている箇所が幾つかありますが、実際にこの「風土記稿」の編纂に際して県内各地を巡回したひとりである塩野適斉が、その道中で見た景観を「津久井県紀行詩集」という漢詩集(天保6年・1835年)にして昌平坂学問所に提出しています。「風土記稿」の記述にも、こうした千人同心の文学的側面が顔を出したと言えるかも知れません。

記述が他の郡に比べて多少長いため、今回は「甲州街道」の分のみを取り上げます。御存知の通り、江戸時代の所謂「五街道」の1本ですが、幕府の道中奉行が作成した「甲州道中分間延絵図」や「甲州道中宿村大概帳」をはじめ、江戸時代には「甲州道中」と記されることが多かった中で、津久井県図説では「街道」という表記を用いており、各村の記述でも「道中」ではなく「街道」という表記が使われています。「津久井県紀行詩集」でもやはり「甲州街道」という表記が見られることから、千人同心の間では一般にこちらの表記を用いていた様です。この文中では以降も「風土記稿」に合わせて「甲州街道」と表記します。因みに、「風土記稿」中の昌平坂学問所が担当した箇所では結果的にこの街道について触れる箇所が存在しないため、学問所としてはこの道をどの様に表記していたかは「風土記稿」からは判断出来ません。


東海道についてはあらかじめ各宿場の継立についての記述を別途まとめた経緯もあったため、各郡の街道の記述をまとめる際にはそれ以外の記述をまとめる格好になりました。甲州街道の各宿場の記述でも継立についての記述が長くなっていますが、今回はそれらを分離せずにまとめてあります。因みに、小原宿は本来与瀬村の内に属していますが、1つの村に2つの宿場が存在するという、相模国内の他の宿場では見られない形態となっているためか、この小原宿の項は与瀬村の項からは独立して記述されています。

「風土記稿」では勝瀬と丹田前の2つの渡しを経由する「二瀬越え」についても、甲州街道の本道ではないとしながらも多くの旅人がこの道筋を利用していることを踏まえ、甲州街道の脇道として記述しています。この道筋については以前「慊堂日暦」を取り上げた際にも紹介しました。ここではこの勝瀬の集落についての記述を含む日連村の項を甲州街道の一覧に含めることにしました。

甲州街道:津久井県の各村・宿場の位置
甲州街道:津久井県の各村・宿場の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

この地図の作成に当たっては、umegoldさんの一連の「甲州街道」の動画を全面的に参考に致しました。沿道の様子についてはこれらの動画で大変仔細に検討されていますのでそちらに委ねます。

なお、現在は相模湖の底に沈んだ勝瀬集落付近の道筋を現在の地形図上に精確に再現するのは非常に困難なため、上記の地図ではごく模式的な線のみを記し、より精確には「今昔マップ」で遡れる明治29年の地形図を見ていただくことにしました。「二瀬越え」は確かに与瀬宿と吉野宿の間を短距離で結ぶ道筋であるため利用者は多かった様です。但し、与瀬の宿場が乗る河岸段丘と相模川の川原の標高差はおよそ70mほどにもなり、吉野宿は与瀬宿より若干標高が低いもののそれでも川原とは50mほどの標高差があり、これらの宿場から川原へ降りる道筋はつづら折りの細道になっています。以下の地形図では小縮尺故にこのつづら折りの道筋が充分に描き出せていない様ですが、渡し場を2ヶ所も通過することになる上にこの急坂を上り下りする区間が大通行に向かないために、主要道である甲州街道の本道としての指定は受けなかったのでしょう。


日連村勝瀬付近の明治29年修正の地形図
吉野駅から東へ向かう道の途上の渡が「丹田前の渡し」、勝瀬から与瀬駅へ向かう道の途上の渡が「勝瀬の渡し」
勝瀬から東南へ向かう道の途上に「鼠坂関」がある
(「今昔マップ on the web」より)


街道「風土記稿」の説明
甲州街道千木良(ちぎら)百十七(二)甲州街道一條係る道程、東、小佛峠より西、板橋まで凡二十二町、道幅六七尺より二間程にも及ぶべし、
◯小名 △赤馬阿古宇麻 △宿村 △中村 △西 △原 △底澤與瀨村と駁雜す、仍て兩村に載す、按ずるに【小田原役帳】に、そく澤と見えたるは、卽此底澤のことなるべし、
◯小佛峠武州多磨郡上長房村の内小佛宿の西偏にあり 武相二州境界の峠なり、甲州街道の一條及び小徑を隔てゝ國界とす、往昔は頂上に關ありしが是を小佛關と呼ぶ、或は富士見關と稱す、夫より少しく北に寄り、景信山と唱て、一區の地あり、北條氏照家臣、横地監物景信が、警備せし構への跡なりと云ふ、或云、八王子城滅亡の後、甲信警備の爲に千人隊も、爰を守りしなど云へる舊說あり、又曰大神君の台慮に、千人衆を以て、是險阨を守ば、千秋萬歳の後、たとひ西軍大敵、寄來ることありとも、三日は支ふべし、其間に東都に注進せば、玉川を渡らすまじと、のたまひしと云ことを、古老の口碑に言傳へり、斯ある故にや、千人隊を八王子に移されて、堡鄣となし玉ふこと、亦宜ならずや、 御入國の後今の駒木野に移せり駒木野は小佛峠を去こと、一里許東方にあり、是所より峠の頂に上る、折坂盤回せり、 此所は甲州口の險阨にして實に一人隘を守れば、萬夫向ふことなしと謂つべき要樞なり、【武德編年集成】に武田家の小人頭、原・萩原・石坂・志村・河野・山本・窪田等に、堪忍分を被下、武州八王子口に住せしめ、甲州境小佛口を拒しめたまふ、今千人頭是なりと見えたり、陟降一里半許、坂路曲折その數を知らず、北は案下山より檜原山、大菩薩峠に連り南は日連牧野の諸山より大室山・足柄山・箱根山のつゞく、其他攢峰層巒査渺乎として聯緜せる體勢は天賦自然關左八州の隔關天下の要樞、それ茲にあらずや、物茂卿が小佛嶺の詩に實景を陳るもの然り、其地形推て知るべし物茂卿が詩に曰、…
小原(おばら)宿百十八(三)與瀨村に屬す、江戸より十六里、往古より分れて一區の宿驛となる正保及元祿の改にも、與瀨村の内、小原村と見えたり、西方與瀨宿を距ること十七町、東方小佛宿を去ること一里廿四町に餘れり、小佛峠の國界に連て一條の往來東西に亘れり道幅二間程、(ママ)六十一、東西廿三町餘南北一里 甲州街道の繼場なり西方吉野宿へ一里十七町を繼ぐ、東行する者をば本村與瀨宿にて繼ぐ、片繼の驛なり、人馬定額、及び加宿鄕、加助鄕のことは、與瀨村の條下に辨ず、因て村高四石九斗四合地子免除せらる、宿驛の所民家相對し軒を並ること廿九、頗る打開けたるやうなれども北の方は小佛峠の嶮岨に續て攢峰繚繞せり、
◯小名 △中野組 △底澤組【役帳】に、一貫二百文、そく澤荒地と見えたるは此地なるべし、 △美女谷舊說に、往昔是處より美女出でければ、遂に地名となると云ふ、今其事實を探るに詳なることを知らず、
◯橋三皆甲州街道の往來に亘せり 其一は板橋にて長七間幅二間當宿と千木良村境の溪流に架す、昔は官造なりしが今は千木良村と當宿にて修造す、其一は小手澤橋長六間幅二間驛西の溪流に架す、其一は樋谷路橋長五間幅九尺驛北の溪流に架す、
與瀨(よせ)百十八(三)甲州街道の一條東西に亘り道幅七尺以上三間に及べり民家相對して軒を並ること八十八、是所を與瀨宿と唱へて繼場なり、西方吉野宿へ、道程一里、東方小原宿へ、道程十八町、小佛宿へ二里五町なり、斯く云る、繼場の順なれども西行する者をば、小原宿より吉野宿に繼ぎ、東行する者をば、與瀨宿より小佛宿へ繼ぐ、一村中に兩驛あれば互に其煩を除くものか、小佛宿は武州多磨郡に屬せり、傳馬屋敷五石一斗九升六合、地子免除せらる、起立は慶長元和の頃より繼立せしと云傳ふ、人馬の數は廿五人、廿五匹を出すを以て定額とす往年千木良・若柳・寸澤嵐の三村は、助鄕、太井・中澤・根小屋・靑山・上川尻・下川尻・三井・長竹・小倉・葉山島・高座郡相原の十一村は、加助鄕なりしが、文政七年より三十年間前に所謂助鄕の三村は、加宿鄕となり、加助鄕の十一村は代助鄕となれり、當宿と小原宿は一村中にて、東行する者をば與瀨宿にて繼ぎ、西行する者をば小原宿にて繼ぎ、片繼の宿驛なれば、人馬定額及び加宿鄕代助鄕の村々は兩驛に及ぼす、
◯小名 △横道組 △橋澤組
吉野宿百十八(三)元祿の改に、吉野村と書せしが、寛政中より吉野宿と書せしと云、…甲州街道の宿驛にして一條の大道、東西に亘り道幅凡二間、民家軒を並べて相對すること三十東、與瀨宿へ繼ぐ、道程一里、西、關野宿へ繼ぐ、道程廿六町傳馬屋鋪三石九斗八升九合、地子免除せらる、いつの頃より繼立せしや、起立の年月を傳へず、人馬の數は廿五人、廿五匹を出すを以て定額とす往年、日連・澤井の二村は、助鄕、中野・三ケ木・靑野原・靑根の四村は、加助鄕なりしが、文政七年より三十年の間、前に所謂助鄕の二村は加宿鄕となり、加助鄕の四村は大助鄕となる、
◯小名 △矢部 △奈良本 △椚々戸久具土 …◯相模川 村の南端を流る、西方小淵村より來り東方與瀨村に達す、村内を經る水路十五町、渡船場一所、當宿より日連村に渡す、是を丹田前渡と呼ぶ甲州街道の捷徑なり 旣に總說に載す、 ◯澤井川 西方澤井村より漑ぎ、甲州街道を横切り坤方に向て相模川に入る當村に係る水路七八町許、◯小猿橋板橋にて、其地形結構、甲州郡内領、猿橋驛の猿橋に殆ど相似たるを以て名くるものなるべし、 前に所謂澤井川に架して甲州街道に跨る長十四間、幅二間、左右欄干附橋上より水際に至る凡五丈八尺、其結構や兩岸に柱を立るの外、其他は一柱を支へず、是橋は元より官の費用にて造營せり、橋邊總て勝槪饒く、金龜岩鶯淵等の名區あり、◯金龜岩 相模川の中流にあり、高五丈許周圍四丈に餘れり、岩上に小松二三株ありて小祠を擁壓す、小祠は近世造立して淺間を祭る是よりして東の方少しく北により鶯淵の名區あり、◯鶯淵或は黃鸝淵と書す 相模川の中流、北岸にあり、方十間許水底量るべからず、

※二瀬越えについて「総説に載す」としているのは「渡津」の項の次の記述を指している。

「一は相模川渡と呼一は日連村勝瀨より與瀨宿へ渡す、故に勝瀨渡と呼、以上載する所の丹田前渡と、勝瀨の渡をすべて二瀨越と云、凡此二津の間、水流屈曲すれば、舟渡して經る所の路程甚近し、與瀨宿より吉野宿に至る陸路は、北方山に添て、迂回にして、路程最も遠し、土人水陸の行道曲直遠近の差ひあるを以て、弓と弦に比すれども、中々に弓と弦よりも甚し、是故に甲州への往來の徒、陸行するものの多くは、是二津を越て捷徑便利とす、按ずるに、是二津、其實は本道の渡と云にはあらねども、、往來するもの多くは、此渡にかゝれり、最も人の知る所なれば姑く茲に載す、

小淵(おぶち)百十九(四)甲州街道一條東西に亘り道幅二間程、民家相對して軒を並ぶること廿四戸、是所を關野宿と唱へて繼場なり東方吉野宿へ繼ぐ、廿六丁、西方甲州都留郡上野原宿へ達する、三十四丁、傳馬屋敷、三石五斗三升六合、地子免除せらる、起立は慶長・元和の頃より繼立せしと云傳ふ、人馬の數は、廿五人、廿五匹を出すを以て、定額とす、往年名倉・佐野川兩村は、助鄕、牧野村、又野村、愛甲郡半原村は、 (加脱カ)助鄕なりしが、文政七年より三十年の間前に所謂助鄕の兩村は、加宿鄕となり、加助鄕の三村は、大助鄕となる、
◯小名 △小淵 △上小淵 △藤野 △上澤井 △關野宿正保・元祿の改に、小淵村の内、關野村と記せり、
◯相模川 村の南界を東流すること二十丁餘川幅三十間餘渡船場あり、押尾渡と云名倉村へ達す、當村の持なり、◯境川 甲相二州の界を流る仍て名づく、西北の方佐野川村境より來り、村内にかゝること十丁餘、斜に南流して相模川に入川幅七八尺、 ◯土橋 甲州街道境川に架す長五間幅六尺當村及び甲州都留郡上野原村にて懸く、◯獅子岩 或は搖岩と呼べり高八尺、周匝一丈三尺、甲州街道の傍にあり、◯衣瀧 獅子岩の傍にあり、瀑勢一丈二三尺幅五六尺其形象殆ど衣を翻すが如し、仍て名づくるものか、水源は當村の奥、澤間より沃ぎ來り、下流は南に向て相模川に入、小路凡十丁に餘れり川幅七八尺
日連(ひづれ)百二十(五)◯小名 △杉 △勝瀨 △靑田 △新倉 △日連
◯相模川 村の北界を屈曲して東流す、西方名倉村より來り、東方寸澤嵐村に達す、村内に亘ること三十二町、渡船場二所、其一は勝瀨渡と呼、與瀨宿に渡す、其一は丹田前渡と呼、吉野宿に渡す勝瀨より以西五町許、丹前の渡あり、彼と是と二瀨越と呼、甲州街道の捷徑、間道なり、

※「二瀬越え」についての記載があるため、敢えて甲州街道の項に含めた。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は津久井県中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「津久井県図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。



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島崎藤村「夜明け前」と公郷村と浦賀道

前々回の記事に対して、たんめん老人さんから島崎藤村「夜明け前」に出て来る公郷村についてコメントをいただきました。そこで今回はその補足として、「夜明け前」の題材となった公郷村の名家や浦賀道について少しまとめてみます。

「夜明け前」は幕末から明治にかけての木曽路・馬籠宿の本陣家の当主、青山半蔵を主人公に据えた小説です。藤村自身が馬籠宿の本陣家の末裔であり、半蔵は藤村の父がモデルであるとされていますが、木曽山中の宿場が主な舞台となったこの小説に相州の漁村が登場するのは、この長編小説の中で安政年間を書いた第一部第二章の中です。この本陣家を訪れた山上七郎左衛門という人物が、隣の妻籠宿の本陣に泊まった際にその2つの定紋が自身のものと同じであることに気付いたことから、馬籠・妻籠の青山家の先祖が元は三浦の山上家から分かれてこの地に移ってきたことを知り、半蔵がはるばる公郷の地まで先祖の出身地を訪れる、という筋になっています。

木曽路から江戸を経て東海道を進んだ半蔵一行は金沢まで陸路を進み、そこからは海路で横須賀へと向かい、上陸して程なく公郷村の山上家の屋敷に到着します。小説から当時の景観が参考にされたと思われる箇所を抜き出してみます。

…三人はこんなことを語り合いながら、金沢の港から出る船に移った。

当時の横須賀はまだ漁村である。船から陸を見て行くことも生まれて初めてのような半蔵らには、その辺を他の海岸に比べて言うこともできなかったが、大島小島の多い三浦半島の海岸に沿うて旅を続けていることを(おも)って見ることはできた。ある(みさき)のかげまで行った。海岸の方へ伸びて来ている山のふところに抱かれたような位置に、横須賀の港が隠れていた。

公郷村(くごうむら)とは、船の着いた漁師町(りょうしまち)から物の半道と隔たっていなかった。半蔵らは横須賀まで行って、山上のうわさを耳にした。公郷村に古い屋敷と言えば、土地の漁師にまでよく知られていた。三人がはるばる尋ねて行ったところは、木曾の山の中で想像したとは大違いなところだ。長閑(のどか)なことも想像以上だ。ほのかな鶏の声が聞こえて、漁師たちの住む家々の屋根からは静かに立ちのぼる煙を見るような仙郷だ。

半蔵の前にいる七郎左衞門は、事あるごとに浦賀の番所へ詰めるという人である。この内海へ乗り入れる一切の船舶は一応七郎左衞門のところへ断わりに来るというほど土地の名望を集めている人である。

松林の間に海の見える裏山の茶室に席を移してから、七郎左衞門は浦賀の番所通いの話などを半蔵等の前で始めた。…

夕日は松林の間に満ちて来た。海も光った。いずれこの夕焼けでは翌朝も晴れだろう、一同海岸に出て遊ぼう、網でも引かせよう、ゆっくり三浦に足を休めて行ってくれ、そんなことを言って客をもてなそうとする七郎左衛門が言葉のはしにも古里の人の心がこもっていた。まったく、木曾の山村を開拓した青山家の祖先にとっては、ここが古里なのだ。裏山の(がけ)の下の方には、岸へ押し寄せ押し寄せする潮が全世界をめぐる生命の脈搏(みゃくはく)のように、()をおいては響き砕けていた。半蔵も寿平次もその裏山の上の位置から去りかねて、海を望みながら松林の間に立ちつくした。

(青空文庫版より、…は中略、強調はブログ主)


無論、小説ですから何れも氏名は変えられているのですが、この公郷の名家にもモデルが存在します。島崎家も実際に三浦一族の末裔で、同じ三浦一族の中で永嶋姓を名乗った3代目の正義の弟、正胤が木曽で島崎姓を名乗る様になったという関係にあります。永嶋家については「新編相模国風土記稿」でも

◯舊家庄兵衛 里正なり、家號を永島と云ふ、家系一卷を藏す 其略に先祖三浦大田和平六兵衛義[勝]、新田義貞鎌倉を攻るの時先陣を承りて武功を顯す按ずるに、【太平記】に… 後相模次郎時行に從ひ、足利尊氏と戰ひ又楠正成の手に屬す、…義藤の子平太郎義政故ありて家號を永島と改む、…正重後出雲守と稱す、北條氏茂に隨ひ浦奉行を勤、其子庄太郎正氏後出雲守永正十七年家を襲ぎ濱代官海賊役を勤む、永祿七年國府臺合戰に氏綱に隨て軍功あり、天正四年二月死す、其子庄司正朝母は正木兵部大輔が女なり、天文十五年より父と同じく濱代官海賊役を勤む家藏天正十三年七月、北條氏より田津濱代官に與る文書あり、此頃當所の内三十五貫二百五十文の地を與へらる家藏永祿六年癸亥十二月の文書に見ゆ、天正二年正朝左京亮となる同十八年小田原に籠城して討死す、其の子莊吾正資の時より村民となり、今の庄兵衛に至りて八代なり 松平肥後守容衆領分の頃軍船水主差配役を勤め、苗字帶刀を許さる、文政四年松平大和守矩典が領主たりし時も亦舊の如し、所藏古文書十一通あり

(卷之百十四 三浦郡卷之八 雄山閣版より、…は中略、なお[勝]については下記コメント参照のこと)

などと記されており、永年浜代官や水主(かこ)差配役といった、主に海に関係の深い役を代々務めてきた家柄であったことがわかります。上記の引用箇所をはじめ、半蔵に家系図をはじめとする文書を見せるくだりの設定にも、この永嶋家に伝えられているものが多々反映されています。

この永嶋家の屋敷の長屋門が現在も残されており、横須賀市の「風物百選」に指定されています。

永嶋家赤門

江戸時代の総名主・永嶋家の長屋門。朱塗りであることから赤門と呼ばれている。門扉は江戸時代のものと推定されるが、柱や桁などは新しく何度か改修されている。

永嶋家は三浦氏の子孫と伝えられ、戦国時代は小田原北条氏の支配下にあって浜代官を努め、江戸時代には名主を務め代々永嶋庄兵衛を名乗っていた。

島崎藤村の『夜明け前』にもこの永嶋家が「公郷村の古い家」として登場してくる。赤門の脇に文久2年(1862年)の浦賀道を示す円柱形道標があり「右大津浦賀道、左横須賀金沢道」と刻まれている。以前は今と反対側の磯浜の側の聖徳寺坂下にあった。

また今は米が浜で営業している料亭「小松」はこの赤門の前にあった。

横須賀市ホームページより)



永嶋家赤門の現状。手前の石の円柱が道標
ストリートビュー
永嶋家赤門と浦賀道の位置
永嶋家赤門と浦賀道の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
明治期の低湿地」を合成)

この赤門と浦賀道の位置関係を、地形図上で「明治期の低湿地」の主題図を合成して作成しました。主題図の元になった迅速測図は三角点を用いた厳密な測量を行って作図したものではないため、現在の地形図とは精確に重ねることが困難になっており、特に三浦半島域内ではその傾向が強い様でかなり大きなズレを生じています。上記の永嶋家の屋敷があった辺りに海を示す濃い青が重なっているのはその影響ですが、少なくとも永嶋家の屋敷の敷地が直接海に面する場所にあったことが直感的にわかりやすいことから、敢えてこの図を選択しました。ともあれ、この付近の海面は大正年間に安田保善社によって大きく埋め立てられ、その周辺の海面も幾度かにわたって埋立地が拡大されていきました。日の出町、米が浜通といった現在の横須賀の中心街は何れもそれらの埋立地の上に築かれ、国道134号線もこの上にありますので、現在の景観や交通がこうした埋立事業よって大きく変貌したことは確かです。


従って江戸時代当時の景観や交通事情を考える際にはこうした地形の変遷を考慮する必要がありますが、浜代官など海の要職を代々務めたとされる永嶋家の屋敷が、かつては海に面する地に存在したのは当然ではありました。

そして、「夜明け前」の描写では「公郷の古い屋敷」には「裏山」があり、その上の茶室から家主と半蔵が、崖を洗う海を眺望するシーンが描かれています。上記の地形図に重ねた色別標高図でも永嶋家の敷地に接する様にして高い崖地が存在し、門前の道がかなり深い切通を降りてくることが読み取れます。勿論、現在の切通はその後も更に拡幅されてきたものですが、切通脇の聖徳寺の敷地や門前の道の形状から、当初の地形の概略を窺うことが出来ます。

永嶋家の長屋門前に保存されている標柱型の浦賀道道標は文久2年の刻印がありますが、これは浦賀道が安浦の浜筋を通る様に付け替えられた後のものということになります。無論、それまでも永嶋家の屋敷へ通じる道が何処かしらにあった筈ですが、恐らく当初は継立の馬を通すには厳しい細くて急な道だったのでしょう。それでも船の方が至便な交通手段であった彼らにとっては、陸路が脆弱でも大した不便もなかったものと思われます。


米が浜付近の迅速測図
「米ヶ濱」の字の下の海岸に崖地を示す描写が続いているのが確認出来る
(「今昔マップ on the web」)
実際のところ、浦賀道が横須賀から内陸へと入っていく道筋を辿っていたのは、その先の米が浜から安浦にかけて、切り立った海岸段丘が海に張り出していて海沿いを進む道をつけることが出来なかったからです。龍本寺が乗るこの段丘は標高が50mほどあります。この段丘からの眺望の良さは現在もこの段丘上に位置する横須賀中央公園からの眺め(ストリートビュー)で確認出来ますが、眼下には横須賀共済病院の建物の屋根が見えています。この病院の敷地側から崖を眺め(ストリートビュー)ると、段丘崖を補強するコンクリート擁壁が病院の建物に匹敵する高さにまで直立しており、その高さを窺い知ることが出来ます。

陸路の交通量がそれほどではなかった時期には、敢えてこの段丘を削って安浦方面への降り口を付けるだけの動機を得られなかったため、金沢から浦賀へ向かう継立道は横須賀から小矢部の法塔十字路へと迂回していたのでしょう。それが、幕末になって浦賀の役割が増すにつれて、迂回路で時間をとられている訳に行かなくなったことで、浜へ降りる切通をつける動機が生まれてきた訳です。

藤村は実際にこの公郷の永嶋家にも訪れていた様で、その際に屋敷周辺の景観についても一通り把握した上で「夜明け前」のこの箇所の執筆に臨んだことが、引用した箇所の表現にも窺えます。そしてその海岸に屹立した海岸段丘の麓にあった屋敷の景観は、浦賀道の道筋の変遷を考える上でヒントを提供してくれるものである様に思います。

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【史料集】「新編相模国風土記稿」三浦郡各村の街道の記述(その2)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」の三浦郡の各村に記された街道に関する記述をまとめます。今回は残りの2本の街道を取り上げます。

鎌倉から三浦半島西岸に沿って進む三崎道(ここでは仮に「鎌倉・三崎道」と呼称します)は、次に取り上げる「鎌倉・浦賀道」と堀内村までの区間が重なっています。更に、堀内村で分岐して南下する三崎道が文化13年(1816年)に起きた崖崩れで通行不能となったため、一色村へと迂回していたことがこれらの村々の項に記述されています。「葉山町の歴史とくらし」によれば、崩壊したのは「真名瀬の南、柴崎の山側崖」としており、この崖を有する大峰山の南側で崩落を起こした様です。以下の地図では橙色の線でこの一色村からの迂回路を示しています。旧道に復した年代は確認出来ませんでした。

また、その南の秋谷村でも「大崩」という小名で過去に崖崩れがあったことを記しており、総じて崩落しやすい箇所が多く、道筋を維持するのが難しい区間を含んだ道であったと言えます。

下宮田村と菊名村の境で浦賀から来る三崎道と合流しますが、その先の区間は前回既に取り上げましたので、ここでは省略します。

鎌倉・三崎道の各村の位置(北半分)
鎌倉・三崎道の各村の位置(北半分)

鎌倉・三崎道の各村の位置(南半分)
鎌倉・三崎道の各村の位置(南半分)(何れも「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

もう1つの道である「鎌倉・浦賀道」については以前「浦賀道見取絵図」を検討しましたので、詳細についてはそちらに委ねます。ここでも、2本の三崎道との重複区間については省略しました。

「風土記稿」の鎌倉郡の項では以前指摘した通り名越切通の方ではなく、海沿いから披露山へと向かう道筋を本道として取り上げている節がありました。それに対して、こちらでは小坪村の項で海沿いを進む道を「鎌倉道」と称して別記しているところから、ここでは名越切通を経由する道を本道として考えている様です。この辺りの「風土記稿」の見立てにはやはり不整合があったことになるでしょう。

鎌倉・浦賀道の各村の位置
鎌倉・浦賀道の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


街道「風土記稿」の説明
﹇鎌倉

三崎道﹈
久野谷村百九(三)◯名越坂奈古衣左加 名越切通とも唱、鎌倉名越町に通ず登二町、

※域内を通じる街道について直接の記述はない。名越坂の辺りでは、「浦賀道見取絵図」によれば、鎌倉方からまず久野谷村の飛地が現れ、次に小坪村の飛地を挟み、そして久野谷村の域内に入るという順に並んでいる。

小坪村百八(二)鎌倉より浦賀及び三崎に達する往還あり、村内にて人馬の繼立をなす西は鎌倉雪ノ下村、同郡長谷村迄各一里、東は浦賀道郡内下平作村へ三里 三崎道秋谷村へ二里、村内海岸巖腹壁立して高四五丈、上に小徑通ず鎌倉道なり、此所より眺望すれば東方近く杜戸の濱あり、四方鎌倉靈山の崎突出し中央に江島浮び出て又大磯小磯の海濱を望み、遠くは富峰雲際に秀て其美景を賞すべし、
◯坂三 一は村北にあり、名越坂或は名越切通と云ふ、鎌倉郡大町村名越町に達す、故に此名なり、登二町一は廣尾坂村の中程にあり登六町、一は飯島にあり小坂にて切通なり、【元祿國圖】に住吉切通と載する是なり、…此餘山間に孔道四あり、是土民捷徑の爲に穿つ所なり高七八尺長七八間より十五間に至る土俗通矢倉と呼ぶ、…◯田越川 村東櫻山界を流る幅十二間板橋を架す、流末は海に入る、
櫻山村百八(二)西南の方に浦賀及び三崎への往還係れり、
◯田越川太古衣加波 東隣沼間村矢ノ根川の下流村北にて烏川と呼び、逗子村界を流れ、淸水川と稱し小坪村界に至り始て田越の名を得、夫より直に海に入幅二十間【東鑑】に多古江と書し【承久記】は手越に作る、… ◯田越橋太古衣波之 田越川の落口にあり長二十五間、

※田越川については「東鑑」「承久記」の他に「平家物語」「東鑑脱漏」の引用が掲載されている

堀内村百八(二)◯往還一 鎌倉より浦賀三崎に達す濶一間餘、此道元は村内にて兩路に分れ、海濱を過て一色村に出るを三崎道とせしが、文化十三年海岸闕崩れ、往還不便なりしより今の如く一路となれり、當村立場あり、里俗是を葉山茶屋と云、
◯小名 △鐙摺安布數里◯北の方を云ふ、土人の傳に賴朝三浦に遊覧の時山路狭く、乗馬の鐙をすり往來自由ならず、故に此名起ると云ふ、今はさる嶮難の地にあらず、… △三ッ浦海濱なり、元祿國圖堀村内(ママ)之内三ヶ浦村と記す、今は全く村内の小名となれり、 △森戸元杜戸に作る、海面へ突出せる地にて勝景なり、杜戸明神鎭座す、… △眞名瀨之牟奈世 △辻 △東 △木ノ下 △牛ヶ谷 △向原 △塚田 △葉山田 △高砂
◯岩崎坂 浦賀道にあり登十五間 …◯龜井戸川 艮方より西流して海に入る、一名木下川或は森戸川とも唱ふ濶五間落口にては十四間橋三を架す一は木の下橋、一は龜井戸橋共に長五間、一は森戸橋長十四間
一色村百八(二)鎌倉より浦賀三崎に達する往還あり、村内にて兩路に岐す、東は浦賀道南は三崎道なり、三崎道は初堀内村より海濱を通ぜしに海岸崩潰せしより今の道に替る、濶一間餘、
◯瀧ノ坂 浦賀道にあり登一町二十間 ◯古松 浦賀道の側塚上にあり、平松と呼ぶ圍二丈許、枝葉延亘し、東西十一間南北十二間、高三丈四尺、枝埀て地を距こと僅か二尺許、其圖下に出す、

※古松の図については省略。

下山口村百十(四)三崎道海濱を通ず幅一間、
◯川 上山口村より入り北方を流れて海に入る濶四間許板橋二を架す三崎往還なり
秋谷村百十(四)三崎道海濱を通ず濶一間、此地其夫馬繼立場なり其道程は西は小坪村、東は和田村、各相去二里、
◯小名 △子安 △東久留和 △西久留和 △臺 △南町 △新町 △原 △御堂山 △大崩海岸にて古此地の山岳崩れて海に入れり、其山足を三崎道通ず、… △佛塚 △峯山 △中じなし
蘆名村百十(四)三崎道村内を貫く濶一間、
長坂村百十(四)三崎道海邊を通ず、
荻野村百十(四)三崎往還村南に在リ幅一間、路傍に古松あり、圍六尺、一本松と唱ふ、枝葉往還に盤桓す、
大田和村百十(四)村南に鎌倉より三崎への往來係れり、
林村百十(四)海邊に三崎道係る、
◯小名 △黑石此地に黑石と呼ぶ巨石あり、地上に出る所高二尺、大さ壹間程 又塔の石と呼ぶものあり、三崎道を隔て黑石と相對す、高九尺、大さ四間、… △下海道 △芝 △宮ノ下 △芝房
◯川 大田和村堺を流れて直に海に入板橋を架す、大橋と呼ぶ長四間、
本和田村
和田赤羽根村
和田竹之下村
百十(四)今三村槪して和田鄕の唱を冠る、是古は和田の一村なりし故なり正保の改に和田村と載す、慶安中各村となれり、されば地域犬牙して區別することを得ず、故に今括載す、…鎌倉より三崎への往還中程を貫けり濶八尺、此所人馬の繼立場あり北方秋谷村、南方三崎町へ各二里、長井・(ママ)林・須輕谷・高圓坊・下宮田の五村にて助役す、

※この3村は明治8年(1875年)に合併して「和田村」となり、現在も「初声町和田」として町名が引き継がれたた。但し、小字「和田ノ里」「赤羽根」「竹ノ下」は現在の地形図にその位置が記されているため、大筋の位置関係は把握出来る。ここではこの3村の惣鎮守だった白旗神社の位置を当時の村の中心地と仮定して「本和田」として地図上にプロットした。

◯義盛塚 三崎道の東にあり方六間餘和田義盛の墓なりといへど由來は傳へず、又本和田村の屬に殿屋鋪と唱ふる所あり、是義盛の宅跡ならんと云按ずるに、…

※「迅速測図」では、当村域内を南下してきた三崎道は白旗神社の辺りで東に向きを変え、下宮田村と菊名村との境へ尾根筋を登って行く様に描かれている。現在「和田義盛旧里碑」として伝えられる史蹟は国道134号線の西側にあるが、こちらは上記の「殿屋鋪」に該当する地域の一角。「義盛塚」として記されている塚の位置は不詳。

下宮田村→前回金沢・浦賀・三崎道の同村の項参照
菊名村
金田村
小網代村
二町谷村
諸磯村
東岡村
三崎町
﹇鎌倉

浦賀道﹈
久野谷村→上記鎌倉・三崎道の同村の項参照
小坪村
櫻山村
堀内村
一色村
上山口村百十(四)往還一條東西に貫く浦賀より鎌倉への道なり幅六尺許、
◯小金坂 浦賀道にあり登二十間許、
木古庭(きこば)百十四(八)浦賀道村の東西を貫けり、
◯坂二 一は浦賀道にあり、新道仁比美知と云登一町半許、 一は北寄にあり、高祖坂と云登一町許、坂下に高祖井、或は高祖加持水など唱る井あり、是等日蓮の舊跡なるべし
上平作村百十四(八)往還一、東北方三村の接地にあり道幅一間餘、浦賀より鎌倉への往還なり、
◯小名 △臺畑 △鳥井戸 △傳馬場 △竹林 △石井 △中山 △阿部倉 △外田 △湯ノ澤南方にあり、こゝに徑三尺深二尺許の洿池あり、池中硫黄の氣あり、相傳ふ温泉の跡なりと、…
(池上村)百十四(八)

※上平作村の記述に見える通り、村境に浦賀道が掛かっていた筈だが、関連する記述は見えない。

下平作村百十四(八)村内に浦賀より鎌倉への往來を通ず、當所其繼建のことを司れり東方浦賀へ二里、西方小坪村へ三里、助役は木古庭・上平作・池上・金谷・不入斗・佐野・小矢部・森崎の八村にて預れり、
金谷(かねや)百十四(八)浦賀道幅一間餘係る
(大矢部村)百十三(七)鎌倉より浦賀への往還係る幅五尺、

※「浦賀道見取絵図」の記す道筋では、浦賀道は小矢部村の北境付近を通っており、小矢部村の南に位置する大矢部村の域内とは隔たっている。この記述がどの道筋を指しているのかは不明。

小矢部村→前回金沢・浦賀・三崎道の同村の項参照
公鄕村
大津村
東浦賀
西浦賀

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は三浦郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「三浦郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。



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