2016年03月の記事一覧

短信:国立国会図書館近代デジタルライブラリーの終了について

国立国会図書館デジタルコレクション」のトップページに、「近代デジタルライブラリー」を終了して「デジタルコレクション」と統合する件のアナウンスがリンクされているのについ最近まで気が付いていませんでした。終了期日は今年の5月末日を予定しているとのことです。アナウンスは昨年の7月21日付けで出されており、私も半年以上気付いていなかったことになりますが、他の方のブログで「近代デジタルライブラリー」を使われている方を見掛け、もしかするとあまり気付いていない方が多いかも知れないと感じたため、頭出しをしておきます。

もっとも、「近代デジタルライブラリー」と「デジタルコレクション」は実質的に同一のシステムで、コンテンツの質によって使い分けられていただけのものですから、むしろ統合されることによってわかりやすくなると言って良いでしょう。「近代デジタルライブラリー」へのリンクも当面は「デジタルコレクション」にリダイレクトされるということなので、急いで切り替えを進めなければならないという程のものではない様です。リンクのURLも「http://kindai.ndl.go.jp/」から「http://dl.ndl.go.jp/」に変更される以外はサブディレクトリ以下がそのまま引き継がれるという、大変わかりやすい仕様になっており、かなり単純な作業で移行を進めることが出来る様に配慮されています。


当面はリダイレクトされるとは言え将来的には廃止される可能性が高いため、リンクの切り替えが要請されています。私のブログでも「近代デジタルライブラリー」へのリンクが幾つかありますが(大半が「和漢三才図会」へのリンクですが)、順次切り替えを進めています。
スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その6)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回も前回に引き続き、愛甲郡の炭焼について、特に家康の由緒に関してもう少し掘り下げてみます。

前回は三増村の「御炭山」の位置が「三増峠」の東にあることを示したところで終わりました。「風土記稿」に引用された「甲陽軍鑑」の記述によれば、この辺りは小田原北条氏の頃には芝山になっていたとしており、その後国境の峠の見通しが良いのは軍略上は拙いとする徳川家康の指摘に従い、雑木林にするべく植樹されたとする「大三川志」や古老の言い伝えを引用しています。実際は三増峠は「風土記稿」にある通り愛甲郡と津久井県の間にあり、甲相国境にある訳ではないので、この点は家康が位置関係の誤認を前提にして指示を出したことになりますが、何れにせよ家康の命によって一帯が林になったという訳です。

「風土記稿」で引用されている「甲陽軍鑑」は口述を主体としていることから、細部の記述を史料として扱う場合に問題があることが良く指摘されています。また、「大三川志」も家康没後100年以上経った後の編纂で、「甲陽軍鑑」を参照し得る位置付けにあることが気になります。「徳川実紀」にも

甲相の境なる三增峠といふ所は。そのかみ武田信玄小田原へ攻入し後は。たゞ童山にてありしを御覽じ。北條家末になりて武畧疎きをもて。かゝる山を荒廢せし め。武田が爲に責入られしなり。樹木の茂らんには信玄いかで押入べき。この後は山に木を植そへて林にせよと命ぜられしなり。(常山記談。)

(東照宮御實紀附錄卷五、「J-TEXTS 日本文学電子図書館」より引用)

と記されているものの、この「常山記談」もまた後年の編であり、史料としては「大三川志」と大差ない位置付けということになります。

三増峠と中原付近の放鷹地の位置関係
三増峠と中原付近の放鷹地の位置関係
中原道は後年の道筋で
天正18年時点のものと同一と言えるかは不詳
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
「大三川志」は家康が天正18年(1590年)7月29日に鷹狩をしながら三増峠を見たとしていますが、これは家康が小田原を陥れた後に江戸へと移動中のことであったことになります。この時の家康の移動ルートの詳細は不詳ですが、後に家康が好んで鷹狩を行うのは中原周辺の豊田から田村の渡しにかけての地域で、この時もその道すがらで鷹を放ったと仮定しても、この辺りから三増峠までは20km以上も離れています。三増峠の現在の標高は約320mあり、標高10m程度の中原周辺から見た時に、その間には三増峠の眺望を阻害しそうな標高の山はなさそうなので、地形上は見えてもおかしくはないと言えます。もっとも、夏の湿度の高い盛りに江戸に向けて移動している点からは、よほど視界良好でないと見えなかったのではないかという懸念もあります。

ただ、家康がこれだけの遠方から三増峠を見通せたとするのが事実ならば、遠目でも峠の位置が視認出来る程度に、かなり広範囲にわたって柴山になっていたことになるでしょう。その場合、後に「御炭山」となる三増峠の東側も、位置関係から見てこの頃はまだ柴山であったことになり、とても炭を出せる状態ではなかったことになります。因みに、「甲陽軍鑑」の記述通りであれば「三増峠の戦い」が起った永禄12年(1569年)には既に一帯が柴山と化していたことになり、家康が同地を目撃したとする天正18年時点でも引き続き森林にはなっていなかったとするところから、20年以上同地が柴山として使い続けられていたことになります。つまり、これらの書物の記述の通りなら、前回見た煤ヶ谷村の例ともども、これも小田原北条氏の治政下でかなり広範囲にわたって森林資源に強い負荷がかけられていたことを裏付ける景観ということになるのかも知れません。

また、この記述の通りなら、この地が「御炭山」として使われる様になるには柴山が雑木林になってからということになりますので、相応に年月を経てからということになりますが、慶長年間(1596〜1615年)には炭の産出が可能な状態になっていたとすれば、10年程度で炭焼用の炭材を出せるだけの雑木林への転換を果たしたことになります。これは戦国時代末期に既にそれだけの造林技術を家康一行が持っていたことを意味するのですが、上記の様に史料としての位置付けに課題があることから、更に裏付けとなる史料を探す必要があると思います。「風土記稿」に引用された一連の文献は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての、「御炭山」を含む相模国の山林の変遷を考える上では非常に気掛かりな記述であることは確かです。



さて、「風土記稿」の三増村の項では、「又左衞門、三郎左衞門、市右衞門」という3人の農民を家康の旧領から連れてきてこの地に住まわせて炭を納めさせたとしており、その子孫に伝わる文書が掲載されています。家康は関東へ転封される以前には三河や駿河、遠江などを所領としていましたが、以下で取り上げる文書の記述からは三河国の農民であった可能性が高そうです。では、何故彼ら3人をこの地へ移住させる必要があったのでしょうか。

「御炭山」に指定された5ケ村は、戦国時代に炭の産地であった煤ヶ谷村からさほど隔たっている訳ではありません。戦国時代に炭焼の実績が多々あった煤ヶ谷村からも、江戸時代初期には江戸城に御用炭を納めていました。例えば同地には寛文元年(1661年)12月の請書が次の様に伝えられています。これによれば、明暦元年(1655年)から3ケ年で合計330俵の御用炭を江戸城が確かに受け取ったと証されています。

請取申上納炭之事

合三百三拾俵   但壱俵三歩入

右是明暦元未之歳ゟ酉之年迄三ケ年分、前々ゟ煤ヶ谷村ゟ引付ニ而上納仕由、当丑年請取御本丸御用遣申者也、仍如件、

御賄勘定役人

寛文元年十二月十日

木村藤左衛門(印)

(他4名連署略)

坪井次(右)衛門殿   長谷川藤右衛門(畏守)(印)

(「神奈川県史 資料編6 近世3」529ページより、変体仮名は下付字とし適宜漢字に置き換え)


しかし、煤ヶ谷村には5ヶ村の様には諸役御免の特権は与えられませんでしたし、「風土記稿」もこの「御用炭」については何も触れていません。これに対して5ケ村には敢えて旧領から人を連れて来て炭を焼かせ、その炭に対して特権を与える格差が存在したことになります。

これについては、相模国内での炭焼に何かしらの不足を感じ取ったために、それを補わせる役目をこの3人に担わせた、と考えるのが妥当なところでしょう。当時の相模国の炭焼技術について具体的に記述した史料が見当たらないので、実際にどの様な技術がこの時に伝えられたのか、またそれまで同様の技術が相模国になかったのかは明らかになりません。飽くまでも史料上に伝わる人の動きから技術の動きを類推する以上のことは出来ませんが、武士が帰農したのではなく農民をわざわざ連れてきたと記すことからも、そこに特定の技術導入の目的があったと見るのが自然な流れです。

そして、この炭が茶の湯の席で使われたことと考え合わせると、やはり茶道の「炭点前(てまえ)」に耐えられる炭を焼く技術を持ち合わせた人間を連れて来たと見るのが一番筋が通りそうです。茶の湯において当時から炭の形・質・組み方・火相などが観賞の対象となっていたことは、最初に「日本木炭史」を引いて紹介しました。上記の三増峠の件と併せて見た時には、山林の資源管理技術を持った人間を入植させた線も考えられるのですが、それであればこの3名が炭に特化して名が伝えられることもないと思いますので、やはり炭の質に関しての技術を導入する方に主眼があったのだろうと思われます。

その際に気になるのが、小田原には一時的にせよ、千利休の高弟である山上(やまのうえ)宗二が来ていたことです。豊臣秀吉の怒りに触れて高野山経由で逃れてきた宗二が身を寄せた先が小田原であり、その著書「山上宗二記」にも炭の点前に使う「炭斗(すみとり)」が記されていることからも、彼が小田原の北条氏政・氏直親子の前で茶を点ててみせていれば、炭点前について知らせる機会はあったものと思います。

Hondō of Sōun-ji.jpg

箱根・早雲寺本堂
この地で惨殺された山上宗二の追善碑がある
(By 立花左近 - 投稿者自身による作品,
CC 表示-継承 3.0, via Wikimedia Commons
ただ、宗二が高野山に逃れてきたのが天正16年(1588年)頃、小田原に入るのはそれ以降で、翌々年の天正18年には小田原包囲に際して箱根湯本の早雲寺で秀吉と再び面会するも、改めて秀吉の怒りを買って惨殺されてしまいますから、宗二が小田原にいたのは僅か2年足らずのことです。それでなくても小田原は秀吉との応対に追われている頃であり、茶の湯炭のために新たな炭焼技術を導入する様な余裕は、時間の面でも労力的な面でも到底なかったでしょう。少なくとも、家康が改めて炭焼技術を導入しようとしていることからは、それ以前に宗二をはじめ小田原を訪れたであろう茶人たちが炭点前に耐えられる炭焼をもたらした可能性は薄いことになりそうです。

ところで、「御炭山」5ケ村の由緒の委細について、「神奈川県史 資料編9 近世(6)」所収の史料番号125「愛甲郡下荻野村炭山由緒村方先規仕来書上帳」の冒頭に次の様に書き記されています。因みにこの文書は、天保5年(1834年)に下荻野村で御炭山の支配について争議が起きた際に山中役所に提出されたものですが、5ケ村ではこうした争議などが起きる度に「御炭山」の由緒について繰り返し書き記して関係する役所に都度報告してきたことがわかります。

御炭山御由緒之義、乍恐

権現様三河国ゟ御入国之節、又左衛門・三郎右衛門・市右衛門申者御供仕、三増郷住居仕、三河国御吉例ヲ以、三増郷最寄三増村・上川入村・荻野村三ケ村ニ而山見立、御茶湯炭焼立、右三ケ村ニ而炭六百俵

御本丸御上納仕候御由緒ヲ以、慶長八卯年八月伊丹利右衛門(勝重)様・木部藤左衛門(直方)様ゟ黒印の御書附、三増郷千石之処、御鷹飼之廻り大、惣別諸役御免之御書附被下置候、

御炭山焼場之義、 三増村又左衛門・上川入村三郎右衛門・下荻野村市右衛門焼場由御座候、然ル処、三増村・上川入村・下荻野村右三ケ村共、文(禄)元年辰五月ゟ中原御代官成瀬五左衛門(重能カ)様御支配相成、慶長八卯二月御検地御縄入相成申候、

(上記書856〜857ページより、、変体仮名は下付字とし適宜漢字に置き換え)



これによれば、「御炭山」で焼かれた炭600俵は「御本丸」へと送られたとしていますから、主な送付先は江戸であったことになります。基本的には江戸城での茶の湯の席でこれらの炭が用いられたことになるでしょう。


豊田本郷・清雲寺の位置
「新編相模国風土記稿」卷之43大住郡豊田本郷村清雲寺銚子杯之図
「風土記稿」卷之四十三 大住郡卷之二
豊田本郷の項より清雲寺・銚子杯之図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
該当箇所を切り抜き)

他方で、家康が相模国で鷹狩を楽しむ際は中原御殿を使うことが多かったのですが、御殿の造営前は豊田本郷の清雲寺が宿泊に用いられていました。中原御殿造営後もこの清雲寺に鷹狩後に立ち寄って茶を点てていた様です。「風土記稿」では造営後の由緒の方が記されていますが、地元の名主家に伝わる文書からは、それ以前から利用されていたものの様です。

◯淸雲寺 豊年山と號す、臨濟宗、鎌倉壽福寺末、開山樂林妓、文明十三年七月十一日卒、本尊釋迦、慶長四年二月十日、東照宮中原御殿御逗留ありて、此邊御放鷹の時、當寺へ入御あり、境内の井水、淸冷なりとて御茶の水に召上られ、是より當寺を御茶屋寺と稱せり、其時寺領十石の御朱印を賜はり、旦銚子杯を賜りて、今に寺寶とす、其圖左の如し、

(卷之四十三 大住郡卷之二 雄山閣版より)


中原周辺は水田地帯で林が少ない景観ですから、点前に必要な炭は多少なりとも山間から取り寄せるしかなかったでしょう。後に御殿周辺で御林が多数造営される様になったものの、これらは何れも建材として利用する目的の松林で炭焼用の雑木林ではありませんでした。「御炭山」の属する各村が後に中原代官の所領となった際に檢地を行ったことが上記の文書に記されていますが、恐らくは中原での家康の茶の席で用いる炭もこの「御炭山」から供給されたのではないかと思われます。

後に「佐倉炭」が相模国の炭焼に学び、江戸時代の東の茶の湯炭としての地歩を固めていくのも、恐らくはこの「御炭山」の系統の炭焼技術だったのでしょう。残念ながら、この「佐倉炭」にしても、「木炭の博物誌」によれば現在では「技術を失った」(117ページなど)とされていますので、当時の技術の実態を明らかにすることは困難になっている様です。

なお、上記文書で見られる様に中原代官であった成瀬家の預かる地となったこの5ケ村については、その後中原代官が廃止されると元禄年間から越智清武(上野館林藩)や牧野成貞(下総関宿藩)の所領となり、その後も所領が転々と交替します。「御炭山」からの炭の貢上が廃止されて代永銭を領主に納める様になったのは、幕領から私領に切り替えられて以降の元禄11年(1698年)の頃からで、直接的には幕領ではなくなったことが代永への切り替えの理由とされています。

しかし、「日本木炭史」に見られる様に、この頃には江戸での炭の消費が既に飛躍的に伸びていたことから、幕府でも増大する炭の需要を確保することに腐心しており、元禄の頃には既に「天城炭」を始め関東各地の炭が流入する状況になっていました。そうした中では相模国の「御炭山」から産出される炭の地位も相対的に下がってしまい、幕府の「御用炭」としての役目を終えてしまったことも、代永への切り替えの背景にはある様に思えます。

その一方で、炭貢上による助郷や鷹飼人足などの諸役御免はそれ以降も幕末まで堅持されました。「厚木市史 近世資料編(5)」には、これらの村々が享保年間以降に免除された諸役の一覧が挙げられていますが(422ページ)、周辺各村が助郷の負担に苦しむ中で一貫して人足や役金の負担を免れていたことが窺え、「御炭山」を擁する各村に齎した恩恵は小さなものではなかったと言えるでしょう。



さて、「風土記稿」の中荻野村と下荻野村の項では、この「御炭山」に「東照宮」を祀っていたことが記されています。神格化された家康が現地で祀られていた訳ですね。中荻野村に2体、下荻野村に1体の石祠であったとしていますが、このうち下荻野村の1体については天保5年(1834年)5月の日付を持つ「下荻野村公所・子合持御炭山東照宮絵図」という文書が伝えられています(「厚木市史 近世資料編(5)」423ページ所収)。ここには寛政12年(1800年)4月に奉納された「権現様石宮」の正面図が描かれ、「惣丈弐尺三分」(約69cm)間口「壱尺」(約30cm)奥行「壱尺七寸」(約51cm)その他屋根部などの細部の寸法が記されています。そして、名主、組頭、百姓代2名の名前が刻まれていたことが記されています。この絵図には更に木製の鳥居・石灯籠2体(それぞれ文化2年と文政11年の奉納日が刻まれる)、そして他の社地に設置された石碑等の正面図が併せて記され、この東照宮がかなり手厚く、また長期にわたって祀られてきていることがわかります。因みに、この文書が作成された天保5年は上記の下荻野村の争議の年に当たっており、この絵図は恐らくその争議に際して下荻野村の「御炭山」の由緒を代官宛てに明らかにする一環で記されたのでしょう。


厚木市上荻野・荻野神社(ストリートビュー
これらの「東照宮」が現在に伝えられているか、「厚木市文化財調査報告書第42集 厚木の小祠・小堂」(厚木市教育委員会 2003年)の荻野地区の小祠の一覧を確認したところ、1体だけ「東照宮」と呼称されている小祠が現存することが記されていました(222ページ)。それによると、現在は荻野神社の境内に安置されており、総高81cmと石祠としては比較的大形のものです。右側面に「中荻野/馬場中」、左側面に「元和八年(1622年)壬戌建立/嘉永四年(1851年)辛亥再建」と刻まれており、徳川家康が亡くなった元和2年から6年後には祀られる様になり、その後恐らくは幾度かの更新を経てきたその最後の石祠ということになるでしょう。ただ、掲載されている平成12年撮影の写真などから窺える限りでは、これが「東照宮」であることが確認出来るものが付属していない模様で、この石祠については荻野神社を訪れた方々のネット上の訪問記でも話題にされていない様です。荻野神社はかつては「石神社」と呼ばれ、上荻野・中荻野・下荻野3村の鎮守であったことから、この「東照宮」をかつての「御炭山」から遷すことになった際に荻野神社の境内が選ばれたのでしょう。

「厚木の小祠・小堂」では、荻野地区の「東照宮」と記された石祠が1体しか記載されていないため、残りの2体の行方については明らかに出来ませんでした。ただ何れにせよ、これもかつての「御炭山」の存在を現在に伝える史蹟と言えそうです。

次回は、かつての宮ケ瀬周辺で大量に発掘された江戸時代の炭窯跡を取り上げる予定です。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その5)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回から愛甲郡図説に取り上げられた村々の由緒を確認します。

愛甲郡図説で炭の産地として挙げられた村々
愛甲郡図説で炭の産地として挙げられた村々(再掲)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
山川編でのみ取り上げられた足柄上郡・下郡の各村のうち、各村の記述で炭焼について触れられていたのは宮城野村と土肥吉浜村のみでしたが、愛甲郡の6村については一転してどの村も記述が厚めになっています。結論を先に書いてしまえば、愛甲郡の村々が炭の産地として「風土記稿」に取り上げられたのは、各村に伝えられる「由緒」の故であることが、山川編や愛甲郡図説の文面に既に見えています。その点で、この6村は他の郡の炭焼とは一線を画す存在と言えます。

この由緒は、煤ヶ谷(すすがや)村(現:清川村煤ヶ谷)と、それ以外の三増(みませ)・角田・田代(以上、現:愛川町)・中荻野・下荻野(以上、現:厚木市)の5村の2種類に分けて見ることが出来ます。まずは戦国時代末期の由緒を伝える煤ヶ谷村から先に見てみましょう。ここでの「風土記稿」の記述は由緒を示す文書の引用が特に長くなっていますが、今回は敢えてその部分も可能な限り含めます。なお、一部の文書で村名が「すゝがき」と記される例がある点についても「風土記稿」中で別記されていますが、ここでは省略します。

北條氏分國の頃は

  • 板倉修理亮 【役帳】曰、板倉修理亮十五貫文、中郡煤ヶ谷領家方下古澤共、大普請時半役六十三貫三百八十文、同所癸卯檢地增分、此役重而惣檢地上改可被仰付以上、七十八貫三百八十文、
  • 井上加賀守 六十五貫七百五十文、煤ヶ谷井上加賀守地所吉澤共、此内九貫四十七貫七百五十文、癸卯檢地增分、
  • 同雅樂助 十二貫七百五十文、煤ヶ谷地方井上雅樂助、此内九貫七百五十文、癸卯檢地增分

等知行す、其頃村民炭を燒て每年十二月小田原に貢ぜし事、

  • 元龜二年十二月 名主傳兵衞所藏文書曰、傳馬八匹無相違可出之、御臨時之炭自煤ヶ谷參分被召寄、御用可除一里一錢也、仍如件、未十二月二日自厚木小田原迄、宿中幸田奉之、
  • 天正元年十二月 傳馬十二匹可出之每年相定すゝがき炭五十俵被召寄御用也、仍如件、癸酉十二月すゝがより小田原迄江雪奉之、
  • 五年十二月 傳馬八匹可出之すゝがき炭届用可除一里一錢者也、仍如件、丑十二月十六日すゝがやより小田原迄宿中、
  • 十三年十二月 傳馬十二匹可出之每年被召寄、すゝがき炭五十俵被召寄、御用也、仍如件、酉十二月すゝがきより小田原迄宿中江雪奉之、以上數通の文書、皆北條氏の傳馬朱印を押す、

の文書に見えたり、今も土人農隙に是を燒活計となせり、白炭と呼り、又此地良材に富るを以て小田原に運致せし事、

  • 天正七年五月 御備曲輪御座鋪幷塀材木…以上貳百卅三丁、木數以上貳百七拾七人、山造口養四貫七百九文、坂間鄕寅歳年貢秩父前より可出、以上五百五十四人、人足、以上右來六月晦日を限而必可爲出来、然者材木之寸方少も無相違樣堅可申付候、若於妄之儀者奉行人可處巖科者也、仍如件、天正七年己卯五月二十六日山奉行、板倉代井上代安藤豐前奉虎朱印あり、按ずるに、文中地名を載ざれど、板倉井上は其頃の地頭なれば、當所の山より出せしは論なし、
  • 十六年七月 三間梁百間之御藏材木、煤谷へ申付分二百八十本、柱長九尺五寸方五寸、山造九十三人、人足五百六十人、五十丁、棟木土臺長二間方四寸、六寸、同廿五人、同百人、六十丁、棟木長二間方五寸、同三十人、同百二十人、百丁、短柱長二間方五寸、同五十人、百丁、小貫立長八尺五寸方四寸、此代二貫文、以上百九十八人、山造口養三貫三百六十六問、以上九百八十人、人足、倩賃、十九貫六百文、以上二十六貫九百六十六文、右八月廿日可爲出來、此日限至于蹈越可被懸巖科者也、仍如件、天正十六年戊子七月十三日、板倉殿安藤豐前奉、虎朱印、

の文書に所見あり、

◯舊家傳兵衛 世々里正を勤む、北條氏より炭材木等の事に依て出せし文書七通其分前に出す及豐太閤の制札を藏す 先祖は井上氏なりしが按ずるに、【役帳】に當所の地頭井上加賀守、同雅樂助とあり、是等の支族なる歟、御打入の頃氏を改て山田千阿彌宗利と號し、當村に在て豆州金山より出す材木及炭等の御用を奉りし人に附屬して其事を辨ぜしとなり、夫より子孫連綿して今に至る、

(卷之五十八 愛甲郡卷之五 以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より、扱いも以下同じ、適宜リスト化して整形、…は中略)



愛甲郡清川村煤ヶ谷の位置(Googleマップ
「日本木炭史」では、この4件の文書について「新編相州古文書」という文献から引用していますが(91〜93ページ)、この「新編相州古文書」は元来が「風土記稿」の編纂に当たって各村から収集した文書を書き写した史料集です。「日本木炭史」に載っている他の史料を勘案しても、恐らくこれらの文書が、相模国での炭焼の行われていた具体的な地名が確認出来る最も古い記録ということになるでしょう。勿論炭焼自体はそれ以前から相模国内でも各所で行われていたに違いありませんが、元亀2年(1571年)以前については今のところ裏付けを取ることは出来ないことになります。年代的には小田原北条氏の4代目氏政から5代目氏直の頃に当たります。

煤ヶ谷から小田原までの道筋(概念図)
煤ヶ谷から小田原までの道筋(概念図)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
これらの4通の記録によれば、煤ヶ谷で焼かれた炭は伝馬によって小田原まで運ばれたことになります。当時の継立場がどの村に配置されていたかなど、具体的な経営実態は不詳ですが、煤ヶ谷からは伊勢原まで下って矢倉沢道へと出て(この間約2里半)、ここから更に関本を経て小田原までは7里程にもなりますから、かなりの長距離を陸送したことになりそうです。輸送量や積み荷へのダメージを考えると、あるいは煤ヶ谷から玉川沿いに岡田へ向かい、そこから相模川の水運に載せて小田原まで運んだ方が、多少遠回りでも利があったのではないかとも思えますが、少なくともこれらの文書からは、水運を部分的にでも活用したことを窺う事は出来ません。


また、この地は良材の産出にも長けたとしており、小田原からの求めに応じて伐り出した木材を運び出していたことを明かす文書が2通掲載されています。その際に併せて莫大な数の人足を求められており、この村にかけられた負担がかなり大きなものであったことが窺い知れます。更に、運び出す前に狂い無く採寸することが求められており、角材などの形にしてから出荷していたことがわかりますが、煤ヶ谷から小田原までの距離を考えると、折角製材しても運送中に傷が付くなどの影響などはなかったのかが気になります。もっとも、そもそも陸路しかない地から丸太のままで木材を運び出すこと自体が極めて困難であることを考えれば、予め多少なりとも製材して細分化しないことには搬出出来ないという事情が優先されたのかも知れません。因みに、一旦製材した後は水気に曝してしまうと寸法に影響が出てしまいますから、この状態にしたものを運ぶ以上は水を被りかねない海路を行く訳に行かず、やはり陸路を考えていたことになりそうです。

ともあれ、煤ヶ谷から小田原までのこの距離を考えると、確かに優良な森林資源の供給地ではあったのでしょうが、それにしてももっと近隣にも供給地があった筈ではないかと考えたくなります。江戸時代になって、足柄上郡での炭の産地が多々記録されている状況から見ても、距離的にはこれらの地の方が近傍にあるのですから、炭の供給の主力になりそうなのは戦国時代にあっても足柄上郡・下郡域の方が先であってもおかしくはありません。しかし、江戸時代の消費量に比べれば煤ヶ谷の4通の文書に記された炭の量は決して多いとは言えませんが、煤ヶ谷村に同様の文書が複数残っている状況からは、この遠隔地からの炭の供給が常態化していたことがわかります。

戦国期の類似の文書が相模国内の他の地に伝わっていませんので、当時の相模国の炭や他の森林資源の供給状況の全貌はわかりません。しかしながら、小田原からこれほど離れた地に対して多大な負担を強いて炭や木材を供給させていることからは、あるいは小田原に近い山の木々がかなり伐り尽されてしまっていて、遠隔地にまで手を広げないことには小田原の求めに応じられない程になっていたのかも知れません。無論、その背景には氏政の頃に小田原北条氏の勢力が関東一円に拡大していたため、その戦力に必要となる武具の生産が更に必要であったこと、小田原の町も相応に人が集まり、都市化が進んでいたこと、武田氏による小田原包囲時の城下への放火による建物への損耗などの影響があったと考えられるでしょう。

「風土記稿」では、江戸時代に入ってからも煤ヶ谷村が炭焼を行って農間渡世をしていることを書いていますが、同村の延享元年(1744年)12月の村明細帳でも

一男耕作之間ニ者白炭・鍛冶炭・真木・薪勝手次第山稼仕、厚木町市場道法弐里余附出シ売代替渡世送り申候、

(「神奈川県史 資料編7 近世(4)」541ページより)

と記し、白炭や鍛冶炭を焼いていたことを記しています。この時の主な搬出先は厚木までの2里あまりとされており、この距離であれば当時の炭の搬出距離としては比較的近傍であったと言えるでしょう。厚木の町で消費される分に留まったのか、それとも厚木から更に相模川の水運に載せられて江戸まで送られていたのかはわかりません。

他方、三増・角田・田代・中荻野・下荻野の5村の由緒は何れも徳川家康の東国入り後の動きに関するものです。以下、長くなりますが「風土記稿」から関連事項も含めて一通り書き出します。
  • 中荻野村(卷之五十七 愛甲郡卷之四):
    • 御打入の頃より年每に炭を貢せしを以て、諸課役を免除せらる炭百二十三俵を貢せしが、元祿十一年より炭代永を納む、詳なる事は三增村の條に出す、
    • ◯御炭山 西方上荻野村を隔て、角田村に跨れり高十八町峯を界とす、是も下荻野村と入會なり、御打入後此山にて御茶事に用ゐられし炭を燒て貢す當村及三增・角田・田代・下荻野五村より六百俵を貢す、詳なる事は三增村の條に出す、故に此名あり、山中に東照宮を勸請し奉る石の御祠三所二は當村一は下荻野村持、
  • 下荻野村(同上):
    • 當村も前村と同く炭を貢せしを以て諸課役を免除せらる炭六十九俵を貢せしが、元祿十一年より炭代永を收む、
    • ◯御炭山 同[西]方上荻野・中荻野二村を隔てあり、是も前[西山]と同く中村と入會なり山中に東照宮を勸請し奉れる事、旣に前村に云へる如し、
  • 角田村(卷之五十八 愛甲郡卷之五):
    • ◯御炭山 南にあり登十三町程、 中下荻野二村持の御炭山に續き峰を界とす、一に鹽河山志與久可宇也末と云、御打入の後此山にて御茶事の炭を燒て貢ず、故に村民傳馬夫役を免除せられて今に然り當村炭數百二十俵元祿十一年より代永を領主地頭に收む、猶三增村條に詳載す、
  • 田代村(同上):
    • 御打入の頃より炭を貢ずるを以て諸の課役を除かる三增村條に詳載す
    • ◯御炭山 三所にあり、中下荻野・角田・三增等の村々と同く公に炭を燒し所なり當村六十俵を貢ず、後年永錢を地頭に收む、詳なる事は三增村條に辨ず、按ずるに永祿十二年十月三增合戰の時、北條衆當所の山に敗走せしこと、【關八州古戰錄】に見えたるは曰、…以上山々の内なるべし、
  • 三增村(同上):
    • …[天正]十八年小田原陣の時五月豊太閤制札を與へ見まし村と記せり六月東照宮よりも亦賜はれり本多中務少輔忠勝、平岩七之助親吉、戸田三郎右衛門尉忠次、鳥居彦右衞門尉元忠等奉て連署す、御打入の後諸の課役を免除せらる、是每年炭を貢ずる故なり詳なる事は御炭山の條に出す、
    • ◯御炭山 北方にあり登五町程御打入の時三州より從ひ奉りし農氏三人又左衞門、三郎左衞門、市右衞門と云、子孫今村民にあリ、彼地の舊例に據て當村の山十八町、及角田田代中荻野五村(ママ)の山にて御茶事の料に充らるゝ炭を燒て、年每に六百俵を貢ず當村二百二十八俵據て慶長中諸課役を除かる村民又七所藏文書曰、先日者大儀候然者御茶之湯炭御やき候に付て、見ませ千石之所、御鷹之え之上り犬惣別萬諸役引申候間、其分御心得可有之候爲其如斯狀進し候以上、猶々上り上り犬惣別之諸役引申候間每年其分御心得可有候以上、卯九月十日みませの鄕又左衞門殿、九郎右衛門殿、參木部藤左衛門華押、伊丹理右衞門華押 按ずるに、又七小野澤を氏とし、祖又七は天文十二年八月十日死し、今に連綿すと云、享保十三年にも伊奈半左衞門忠達承り改て免除の下知あり相州愛甲郡三增村・角田村・田代村・中荻野村・下荻野村右五ケ村、此度人馬相免候儀者、先年權現様御入國之節三河國より又左衞門、三郎左衞門、市右衞門御供仕、其上御茶之湯炭御吉例として六百六十俵宛御本丸江每年御上納仕候譯に付、朝鮮人琉球人數度之來朝之節、人馬御免幷御鷹御用何に而も御免被下候趣願出候に付、願書留置相免者也、享保十三年申二月 加藤武治右衛門栗田彌藤治池田文八郎今本書は失ひて冩を藏、 元祿十一年より炭代として、永錢を領主に納む、今も山中に炭竃あり、
    • ◯三增峠 乾の方志田山御炭山の中間、長竹村津久井縣に屬に跨り、峯を界とす登凡五町、道幅二間、永祿十二年合戰ありしは此麓なり、其頃は芝山なりしを【甲陽軍鑑】大全曰、此時は皆柴山なり、今は大形木立なり云々、 天正十八年七月東照宮關東へ遷らせ給ふの時、此峠を御遠見あらせられ、安藤彦兵衛直次、彦坂小刑部元正或は直道に作る、小栗忠左衞門久次等に命ぜられ、樹木を植しめらる、【大三川志】曰、天正十八年七月廿九日神祖小田原を發し放鷹し給ふ、甲相の境三增峠を望み、永祿中の戰場を遙に望み給ひ、此山森々と茂らざるに依て、永祿中武田信玄備を壘て押通り、北條の兵を敗る、此地敵國の境なれば備有る可き處也北條家武装衰へ此地の見透く如くしたるに依て敗軍す、今より雜木を植茂らせば、敵の軍備も容易には成難しと、安藤彦兵衞直次、彦坂小刑部直道、小栗忠左衞門久次に此山を茂林になす可しと命じ給ふ、又故老諸談其餘の書にも此事見ゆ、其傳異同あれど、意同ければ略す、故に今雜木繁茂せり、

(前文を受けて「同」等と表記したり、表記が欠落している箇所については、その意味する所を[ ]に表記)


5村では何れも、家康が東国入りを果たした後、茶の湯用の炭を焼かせるために「御炭山」を設け、年に5村合わせて600俵余りを貢ずる様になったこと、その見返りに諸役を免ぜられていたこと、そして元禄11年(1698年)から炭ではなく代永銭を領主に納める様になったことを書き記しています。

中荻野・下荻野・角田の御炭山の位置(推定)
中荻野・下荻野・角田の「御炭山」
角田村の「御炭山」については推定地
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
今回はまず、ここで記されている「御炭山」の位置を可能な限りで示します。名前は同一ですが、実際は複数の山が「御炭山」と呼ばれていました。御用地であることを知らしめる意を強く含んでいた地名と言って良いでしょう。

最初に中荻野村と下荻野村の「御炭山」は、何れも上荻野村の北側にある飛地に位置していました。Googleマップ上で厚木市下荻野中荻野の範囲を表示させると、どちらも南側の本村に対して北側にかなり広い飛地が点在していたことが観察出来ます。「厚木市文化財調査報告書 第36集 厚木の地名」(1996年 厚木市教育委員会)によれば、これらの地は明治時代に入っても「炭山」という小字として存続していましたが、中荻野の方はその後「狐平」という小字と合併されました。右の地図ではこの「厚木の地名」の付図から場所を特定しています。現在はこれらの地はゴルフコースになっている様です。

次に角田村の「御炭山」については、「愛川町文化財調査報告書 第15集 あいかわの地名—高峰地区—」(愛川町教育委員会 1985年)では「今回の調査にあらわれなかったもの」として「風土記稿」の引用を掲載(72ページ)しているものの、場所については記載がありません。ただ、中荻野や下荻野の「御炭山」と峰を隔てて接している場所にあったとしていますので、上記の地図ではこの記述を頼りに凡その場所を指し示しています。位置関係としてはこの3村の「御炭山」が相互に近接していたことになるものの、角田村の「御炭山」は中津川渓谷のかなり急な赦免に面しており、また炭窯の設置場所として南面が好まれる中でやや北向き加減なのが気になります。



愛川町田代の位置(Googleマップ

三増の御炭山の位置(推定)
三増の御炭山の位置(推定)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
田代村については「御炭山」が3箇所にあったと「風土記稿」は記していますが、「愛川町文化財調査報告書 第18集 あいかわの地名—田代地区—」(愛川町教育委員会 1989年)では「その所在ははっきりしない。」(9ページ)と書いており、「風土記稿」にもその場所を推定すべき手掛かりとなるものが見えないため、現在の愛川町田代の町域内の何れかということ以上は不明です。田代村の中間を中津川が流れ、両岸に山が連なる地形であるため、この両岸に分散していた可能性は高そうですが、これも推測の域を出ません。

そして三増村の「御炭山」ですが、これについても上記の「あいかわの地名—高峰地区—」では角田村の「御炭山」同様、「風土記稿」の引用を提示するのみで、その場所については記していません(71〜72ページ)。ただ、「風土記稿」の村の北にあったとする記述と、「三増峠」が「志田山」と「御炭山」の間にあったとする記述から、三増峠の西にある志田山に対し、御炭山が三増峠の東に位置していたことがわかります。右の地図ではこの記述を頼りに凡その位置を示してみました。

ここまでで大分長くなりましたので、この5ケ村の「御炭山」については、次回もう少し掘り下げて検討します。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その4)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回も前回に続き、足柄上郡や足柄下郡の炭の生産の実情を確認し、「風土記稿」山川編の記述の問題点を取り上げます。

前回は現在の山北町域に属する村々の状況を、同町の町史で確認しました。これらの村々は「西山家(やまが)」に属することになりますが、「東山家」に属する現在の松田町域の炭焼については、同町が発行した「まつだの歴史」に次の様に記されています。

貞享三年(一六八六)「稲葉家引継書」に「松田村の内くぬき林を立置、毎年一念炭焼申し候、炭竃損い候えば、軽奉行これを遣し修覆仕り候、竃数壱口、炭焼八郎右衛門、才兵衛・理右衛門・太郎兵衛・小右衛門」とあり、小田原藩領内でも相当の産地であったことがうかがわれる。

万延二年(一八六一)の史料をみると、小田原領二十四ヶ村の農間稼炭買主の中に、弥勒寺村の市郎兵衛と中山村の源之丞の二名の名前が見える。この者たちは農間稼ぎに炭を仕入れて江戸に扶ちているのである。

松田は炭の生産が盛んだったようで、貞享三年(一六八六)の金手村・山北村・堀之内村(現小田原市)・宮の台村(現開成町)などの村鑑(むらかがみ)を見ると「松田惣領村炭釜手伝人足御用次第出し申候」とあり、炭焼きが盛んであったことがわかる。また大寺村・虫沢村なども炭焼きが盛んに行われていたようである。

一金拾五両也

右は友八炭山仕入金(たし)かに受取り申候、もっとも来る十月中に急度(きっと)五百俵相渡し申すべく候、念のためにかくのごとくに御座候

以上

(文化・文政年間か)九月廿二日

相州大寺村

中津川銀左衛門(印)

白子屋清五郎殿

これは、友八(大寺村の者)の炭山仕入金を確かに受け取った。十月中に必ず五百俵の炭を小田原宿の旅籠である白子屋に納めるというものである。

(上記書137〜138ページより)



松田惣領の位置(「Googleマップ」)
松田惣領は東山家と呼ばれた村々の南に位置し、村内を矢倉沢往還が通じ、継立場としての色合いの濃い村ですが、江戸時代初期には稲葉氏の代の小田原藩の主要な炭焼場であったことが史料に見えています。しかし、史料の日付を良く見ると、惣領での炭焼が盛んであったのは江戸時代初期で、その後は北側の東山家の村々へと炭焼が移っていった様に見えます。あるいはこの地域でも、当初は比較的交通の至便な場所で炭を焼いていたものが、前回見た様な山資源の問題で山奥へと炭焼場が移っていったのかも知れません。実際、前回の引用文中にあった、虫沢村の村民が隣の皆瀬川村にまで入り込んで炭を焼いていた事件も、入会地の炭材の不足が背景にあったと考えられ、炭材の確保が次第に難しい状況に陥っていったことが窺えます。

大寺村〜小田原宿の炭の搬送ルート(推定)
大寺村〜小田原宿の炭の搬送ルート(推定)
青線は甲州道、紫は矢倉沢道、赤は東海道
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
ここで掲載されている大寺村の文書の宛先に小田原宿の旅籠である「白子屋」の名前が登場しますが、この旅籠は十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の中でも、小田原に着いた弥次郎兵衛の台詞の中で「おいらァ小淸水(こしみず)白子屋(しらこや)に、とまるつもりだ」という形で紹介されています。この旅籠について他の記録を見ることは出来ませんでしたが、脇本陣であった「小清水」と共に名前が挙がっている訳ですから、それに匹敵するだけの格式を持っていた、比較的大きな旅籠ということにはなるでしょう。この旅籠が発注した500俵の炭は、恐らく旅籠の業務で使う分が主と考えられます。これが1年分と仮定すると1日当たり平均1俵と1/3程度の炭を1つの旅籠で消費する計算になります。1俵当たりの重さが記されていませんので総重量は計算出来ませんが、仮に小さな4貫(15kg)入りの俵としても500俵で7.5トンになり、1日平均20kg程度を消費する計算です。かなりの量である様に見えますが、宿泊客に出す料理の熱源の他、冬場の暖房に火鉢に入れる分など、旅籠で必要となる局面が意外に多いこと、旅籠に宿泊する客の多さを含めて考えると、これでも年間分としてはギリギリということになるのかも知れません。

これは炭の送付先に江戸以外の宛先が具体的に記された史料としては興味深い一例と思います。大寺村からですと、麓の松田惣領まで運び出せば(この間も中津川沿いに2里以上の距離がありますが)、そこから小田原までは矢倉沢道で一旦関本へ向かい、更に甲州道を南下する経路の継立で運び込めるでしょう。とは言え、1俵の重さ次第で馬1匹に積める俵の数も変わりますが、全体で500俵分となると、何れにせよ延べでかなりの回数馬が往復する必要があるでしょうから、その輸送費だけでも馬鹿になりません。また、9月下旬に受注して10月中に500俵納品完了というスケジュールですから、1ヶ月あまりで全ての業務を完了するにはそれなりに人を雇う必要もある筈です。予め相当額の仕入れ金が支払われているのは、そうした必要経費を充当しないことには、これだけの量の炭焼に対応出来ないから、ということになります。


山川編で炭の産地として挙げられた足柄上・下郡のその他の村々
山川編で炭の産地として挙げられた
足柄上・下郡のその他の村々(再掲)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
さて、「風土記稿」山川編に取り上げられた炭焼の村々のうち、東西山家の全16村については、各村の記述の中では炭焼に触れられていませんでした。これに対し、箱根山中に当たる宮城野村については、「風土記稿」の同村の記述にも

農隙には男は炭を燒、女は蓑衣を製して活計を資く、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十 以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)

と記されています。ただ、この村の炭焼の実情については他に史料を見出せなかったため、詳細は不明です。なお、西隣の仙石原村は山奥に位置することと間に仙石原関所がある関係で、通常は炭焼は行っていませんでしたが、弘化2年(1845年)には凶作によって村が困窮する事態となったため、関所に十分一銭を納める条件で一時的に炭焼を行う許可を求めた文書が「神奈川県史 資料編9 近世(6)」に掲載されています(860〜861ページ)。この文書では文化10年(1813年)から3年間炭焼を許可されて困窮時の救いとなったことが記されており、一時的な稼ぎとしてのみ認められていたことがわかります。

もう1箇所、足柄下郡の「土肥山辺」で炭焼を行っていたことが山川編に記されていますが、こちらは「風土記稿」の土肥吉浜村の項に次の様に記されています。

◯土產 △石 △炭土肥鄕中多く燒出せり、都下にて、眞鶴炭と云是なり、

(卷之三十二 足柄下郡卷之十一、…は中略、強調はブログ主)


ここで「真鶴炭」という名称が登場しますが、「風土記稿」の真鶴村の項には

◯湊 東西百十五間、南北二百五間、深二丈餘、 東方を港口とす、港とは稱すれど、他國の廻船入津するに非ず、但風浪に逢ひ蹔し港中に泊するのみなり、當今小廻船八艘、石・薪炭 樒、又湯ヶ原温湯等を、都下に運漕す、魚艇五艘俗に生魚船と唱ふ、漁魚を都下に運致するものなり、を置て運漕に便す、海路の里程、江戸へ三十七里、三崎へ十八里、浦賀へ二十三里、下田へ二十六里、網代へ五里、按ずるに、港名古記に見えず、正保國圖に湊と載す、

(卷之三十二 足柄下郡卷之十一、強調はブログ主)

とあり、真鶴村の湊が保有する小さな廻船が地元で産出する石の他に、近隣で産出する(しきみ)、湯河原温泉の湯とともに、薪や炭を運んでいたことを記しています。

真鶴村については以前足柄下郡の各村から産出する「石」の産地の1つとして取り上げました。安山岩質の溶岩ドームが海中に突出した形になっている真鶴半島に位置するこの村には、当時は小田原藩主が植えさせた黒松林がありました。今は遷移が進んで広葉樹林になりつつありますが、黒松林は積極的に炭材にするものではなく、「風土記稿」の真鶴村の項でも「林 巽方にあり領主の林なり、」(卷之三十二 足柄下郡卷之十一)とこの黒松林の存在以外には記していませんので、炭材を供給出来る林がなかったのが当時の実態でしょう。従って、土肥吉浜村の記す「真鶴炭」は、飽くまでも積み出し港としてその名が冠されていたことになります。

山川編の

足柄上郡東西山家及宮城野村、同下郡土肥山邊にて多く燒、是を眞鶴炭と云、

という書き方では「是を」が指す範囲がその前に登場する村々全てに係る様にも読めてしまうのですが、位置関係から見てもこれは現実的ではなく、土肥吉浜村の記述との整合性からも「土肥山辺」のみを指すと捉えるべきでしょう。とは言え、土肥吉浜村の項の書き方では「真鶴炭」の呼称が江戸で流布していた様に読めますが、実態はどうだったのでしょうか。

この「真鶴炭」の名称が他の文献などに登場する例がないか、可能な限りで探してみましたが、見付けることは出来ませんでした。「湯河原町史 第三巻 通史編」では同町域の炭焼について、地元に伝わる史料を元に6ページほどに渡って記していますが(276〜281ページ)、「風土記稿」に記された「真鶴炭」の名称については触れられていません。同書では文化6年(1809年)の「御用留」の記録を元に、6箇所で全部で27の炭窯を構築し、約10,000俵もの炭を焼いて、山代金120両を入会山のある吉浜・鍛冶屋村に支払ったことが紹介されています。この年には相応の生産規模を誇ったことが窺えますが、実際は炭焼を行う際に根府川関所への願書が必要であったことから、「湯河原町史」では同地の炭焼は断続的に行われていたものと考えられており、その様な状況下では特定の地名が流通時に広く流布する状況はなかなか考え難いところです。

また、最初に紹介した3冊の参考文献のうち、「日本木炭史」では莫大な史料を収集して著されていますが、近世の炭の名称(193ページ)には「相模炭」の名前は書き上げられているものの、「真鶴炭」の名はありません。「木炭の博物誌」には相模国域で産出する炭の名称として「煤ヶ谷炭」「三保炭」が挙げられているものの(214ページ)、やはり「真鶴炭」の名前は出て来ません。無論、まだ探していない書物に登場例があるかも知れませんが、特に「日本木炭史」の様に史料の網羅性の高い文献にすら登場しないとなれば、やはり「真鶴炭」の名が人口に膾炙していた時期が存在したとは極めて考え難いでしょう。

ただ、土肥郷は伊豆に隣接する地ですから、同地の「天城炭」の知名度に対して思うところがあって、それに抗して自分たちの炭を売り込む目的で、石材で著名な積み出し港の名前を炭に冠することを思い付いたのかも知れません。

以上、ここまで津久井県や足柄上郡・下郡などの炭焼の実情を見て来ましたが、これを改めて「風土記稿」の山川編の記述と照して見てみましょう。山川編では足柄上郡の東西山家と宮城野村、足柄下郡の土肥郷の山辺を産地として挙げていましたが、その生産の実情は険しい地形の中から長距離を運び出さざるを得ない制約や、関所の存在などに縛りを受けながら、それでも幕末に向けて次第に生産量が増えていく状況であったことは史料から窺えました。しかしながら、それらの事情の中で産出される炭が、相模国の他の地域、特に前々回に確認した津久井県から産出される炭を差し置いて、相模国の代表的な産物として特記されるだけの特徴を持っていたことを裏付けられる記述には出会わなかったと思います。「山北町史」で一覧化された村明細帳の記述の中には、「白炭」と「鍛冶炭」の名前が見られますので、求めに応じて炭を焼き分けるだけの技量をこの地方も備えていたことは確かでしょう。けれども、そうして出来上がった炭が他の地方から送られてくる炭と比較して特段に優秀であったことを評価する様な記述も見つかりませんでした。

それどころか、足柄上郡・下郡よりも内陸に当たる筈の津久井県の方が、相模川を使った水運を手近に使える分だけ、炭に悪影響を与える陸運の距離を短縮出来ることから、水運が使えない足柄上郡よりも有利な立ち位置にあったとさえ言えます。荒川番所の取り分が5分の1だったのに対し、川村関所の取り分が10分の1と荒川番所の半分だったのも、それだけ山から陸運で運び出すのが困難だったことを領主側も認識しており、こうした事情に配慮していたことを示しています。

足柄上郡や足柄下郡の図説では産物に「炭」が入らなかったにも拘わらず、山川編で改めてこれらの郡の村々が追加されたのは何故なのか、津久井県が産地として取りあげられなかった理由同様に不明です。一連の史料を見る限り、この記述をそのまま当時の相模国の炭の産地の分布として捉えてしまうことには、問題があると言わざるを得ないでしょう。

強いて想像を逞しくするならば、山川編で取り上げられた村々が何れも小田原藩領であったことから、国産方役所の影響を考えてみることは出来るかも知れません。「風土記稿」の編纂に当たっては小田原藩が少なからず協力したと思われること、その結果として産物の記述に少なからず影響が表れたのではないかという見解を以前披露しました。前回見た様に国産方役所は領内の炭の産出についても関与していたことが幾つかの文書に見えていますから、恐らく昌平坂学問所に渡されたであろう領内の産物の一覧には「炭」も入っていただろうと思われます。特に、東西山家の炭の産出については各村の記述にも見えないことから、これらの地の炭焼については国産方役所の様な外部の部署からの情報がなければ、書き加えられることがなかったのではないかと思えます。宮城野村の炭焼や土肥吉浜村の「真鶴炭」も、その過程で山川編で改めて取り上げ直されたのでしょう。

一方、津久井県の村々については幕領として韮山代官所が治めていた期間が長く、文政11年(1828年)に県内の11村が小田原藩領となったものの、太井村(この村は一部が藩領となった)にある荒川番所は引き続き韮山代官所の管轄でした。従って、荒川番所が取り立てていた炭の五分一銭はその後も幕府に納められたことになり、小田原藩は県内の炭の産地を多く所領に得ながらも、国産方役所としては実質的に権限を持ち得なかったことになります。あるいはそのことが国産方から昌平坂学問所へ伝えられた炭の産地の一覧に影響し、結果として津久井県が炭の産地から抜け落ちてしまったのではないか、というシナリオは考えてみることが出来そうです。

さて、ここまで愛甲郡の各村については敢えて触れずに来ましたが、次回はこの村々の炭焼の由緒について見る予定です。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

「新編相模国風土記稿」産物に記された「炭」(その3)

前回に引き続き「新編相模国風土記稿」に記された相模国の炭について見ていきます。今回から、足柄上郡や足柄下郡の炭の生産の実情を確認し、「風土記稿」山川編の記述の問題点を取り上げます。

東西山家の村々
東西山家の村々(再掲):赤が東山家、青が西山家
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
「風土記稿」山川編で取り上げられた足柄上郡・足柄下郡の村々の江戸時代の炭焼の歴史について、現代の市町村史の中で比較的仔細に記述しているのは「山北町史 通史編」(以下「通史編」)ということになるでしょうか。その第4編第5章「村むらの稼ぎ」の中で、同町域内の炭焼の実態について伝えられた史料をもとに9ページほど(357〜365ページ)にわたって解説しています。

「通史編」の項ではまず、村明細帳に記された炭焼についての記述をみるところから始めていますが、同書では以下の様にその一覧を示した上で「驚くほど少ない」(357ページ)と評しています。

表4-20 山北町域村むらの炭焼きの記録

村名入会山
皆瀬川

◯正月御飾道具・門ぐい・鬼打木・炭2俵表但し江戸廻し運賃高割りにて納め申し候(貞享3年・1686年)

◯当村の内に釜炭先規より焼き申し候(宝永5年・1708年)

◯男女渡世の儀、耕作の間、男は真木・堅炭・鍛冶炭□□抜山取りつかまつり、女は川村山北へせをいにて下し申し候(元文3年・1738年)

都夫良野

◯当村は山家田畑少なく薪のほか堅炭・鍛冶炭そのほか稼ぎ御座無く候、道法6里小田原宿まで持ち出し代銭替少々ずつにて渡世の足しつかまつり候(享保17年・1732年)

神縄

◯農間稼ぎ方この儀蓑を作り川村辺に持ち出し代に替え渡世のたしにつかまつり候もっとも焼炭もつかまつり候て同断(天保5年・1834年)

谷ヶ

◯当村枝郷(中略)内林先規、稲葉家丹後守様御代まで、焼炭出し申し候えども、その後山伐り尽し出し申さず候、また右の内林木立も御座候に付、先規の通り炭焼き出し申したく候(享保6年・1721年)

◯当村枝郷(中略)銘々所持の内林等焼炭につかまつり渡世送り申し候(元文3年・1738年、延享3年・1746年)

中川

◯農間稼ぎの品、男、炭焼き、女、炭俵わけ(明治4年・1871年)

◯先年、亥の砂降り以前までは角木・才木ならびに雑木・薪川下げ致し渡世につかまつり来り候処、砂降り以後変地まかり成り、売木等中絶つかまつり候、その以後は下駄・木鉢・柝木・炭焼き等渡世につかまつり候事(年不詳)

※「山北町史 通史編」358ページより、年度の後の西暦はブログ主による追記


山北町谷ヶの位置(「Googleマップ」)
現在の山北町域には上記の5村の他に川村向原・川村岸・川村山北・湯触・川西・山市場・世附・玄倉・平山の各村が含まれていますが、この9村のうちで村明細帳が現在まで伝えられているのは川村山北・湯触・川西・平山の4村に留まっており、うち川西村は延享3年の、平山村は寛文12年のものが伝わるのみです。従って、失われてしまった明細帳にも炭焼に関する記述があった可能性は否定出来ませんし、「風土記稿」山川編の記述から考えても炭焼を行っていた村はもう少し多かったと見て良さそうです。

とは言え、残された記述を良く見ると、これらの地域でも江戸時代を通じて常に炭焼が盛んに行われていた訳ではないことが見えてきます。「通史編」で谷ヶ村の例を引いてまとめた次の文章の中に、炭焼の行われなかった時期や要因が幾つか書き上げられています。

谷ヶ村では枝村の畑や三ツ家などで稲葉氏の治世のころから炭を焼いていたが、その後、山の木を伐り尽してしまい、炭が焼けなくなった。さらに宝永四年の富士山噴火による降砂のため炭焼きは完全に中止になった。

その後、村では享保三年(一七一八)十月、炭焼きの再開を代官所に願い出た。炭木の伐採候補地は、退ヶ沢(のけざわ)辰ヶ沢(たつがさわ)大河原(おおがわら)の三か所で、その結果、炭釜一口につき一日あたり八貫目俵で一俵の焼き上げを条件に炭釜三口の再開が許可された。その後、享保二十年からは、七年ごとに小田原藩と谷ヶ村関所に対して、炭焼きの「願継書」を提出するようになった。関所では、この「願継書」をもとに要害山(ようがいやま)での樹本の伐採状況を見分し、要害山として支障がなければ炭焼きを許可していた。また延享四年(一七四七)には、炭釜が三六口に増加された。その後は炭釜数と炭焼き場所が固定され、谷ヶ村関所で炭焼き場所に御定杭を立てて要害山を保護した。

寛延元年(一七四八)八月に、谷ヶ村は炭焼きと諸荷物運搬の許可を求める願いを谷ヶ村関所に提出した。前年の延享四年、富士山噴火後、幕府領になっていた村むらが小田原藩に復帰したが、その際、谷ヶ村農民の稼ぎの中心になっていた炭焼きと諸荷物運搬が谷ヶ村聞所から停止されたため、谷ヶ村では年貢上納に差し支えることを理由に、この停止措置の解除を聞所に願い出た。それに対し関所は七年間に限って、今まで涌りに炭焼きを行ない、炭竃(すみかまど)を三六個以上に増やさないことや関所要害の内や沢前で炭焼きを行なわないこと、山抜けをする者にも気を付けることを条件に炭焼きを許可した(『近世』史料309)。このように支配代官や要害山を管理する関所の許可を得て炭焼きが行なわれていた。

(上記書359〜360ページより、ルビも同書に従う、以下同様)


ここには、山資源の枯渇による炭焼の停止、宝永の富士山噴火による影響、そして谷ヶ村関所の差し止めに伴う中断と、3通りの炭焼中止の要因が記されています。うち、最初の山資源の枯渇に関連して、「通史編」では入会山の炭焼の実情を次の様に紹介しています。

元禄七年(一六九四)、虫沢(むしざわ)村(松田町)の村民が皆瀬川村八丁まで入り込んで炭焼きを行なうという出来事が発覚した。皆瀬川村の北東部、八丁からさらにときん沢を登りつめた辺りに平僧山(へいぞうやま)がある。ここは皆瀬川村・玄倉村・虫沢村の三か村の村境になっている場所で、以前からこの辺りで炭焼きをしていた虫沢村の者が、春ころから八丁近くまで下ってきて勝手に鍛冶炭を焼くようになった。皆瀬川村では、虫沢村の者が自分たちが使わない炭を焼くので、鎌四丁を押収し藩に届け出た(『近世』史料121)。

明和八年(一七七一)三月、川村山北は、八丁奥の皆瀬川村山での炭焼きが原因で水不足が生じているので、山元村である皆瀬川村の同地域での炭焼きの差止めを藩に訴えた。藩からの問い合わせに対して皆瀬川村では、川村山北が申し立てている炭焼き場は、村の苅畑になっているところで小木があるだけである。ここには川村山北だけが入会い、ほかの村の入会場所は別にあり、皆瀬川山の内では、以前からどこでも勝手に炭窯を作り、関所に十分一を納めて炭を焼いて農間の稼ぎにしていた。これまでも炭焼きの停止の話はなかった。近年になり水不足になったからと炭焼きを止められたら、炭焼きのほかに稼ぎもなく生活が苦しくなるので今まで通の炭焼きを続けさせてほしいと回答している。この炭焼き継続の願いは受け入れられなかったため、皆瀬川村では、同年六月になり藩に対し八丁奥での入会地から一里半ばかり山奥に入った地域での炭焼きを願い出ている。

この水不足は炭の焼き出し量の増加にともなう大量の原本伐採が原因で、皆瀬川の水源地の森が荒れたからと考えられる。どこでも勝手に炭を焼いていたことから、入会地の資源の乱伐がその背景にあるといえる。翌九年に両村の間で内済となり、炭焼き停止の区域を八丁奥の東しんなし山、西はからん沢より奥とし、それ以外の山域での炭焼きはそれまで通りとした(『近世』史料334)。

(360〜361ページより)


炭焼以外にも村で使う薪などの伐採の分もあったとは思いますが、炭材自体の枯渇だけではなく、それによる水資源への影響なども配慮しながら、伐採する場所を調整していたことが窺えます。また、炭材が枯渇するにつれて次第に山奥へと炭焼場が移動していく傾向も見て取れます。それは焼けた炭を搬出する距離が更に延びていくことを意味し、それだけ炭の積み出しが困難になることになります。

次に、富士山噴火の影響については以前見た通り、漆の木に対して与えたダメージがかなり長期にわたって続いたことが数々の史料で明らかです。一方、炭焼に関しては享保6年に再開を申し出ているということから、富士山噴火の十数年後には影響を脱しつつあった、もしくは比較的影響が限定的であったと見ることが出来そうです。「山北町史 通史編」では更に富士山噴火後3年しか経過していない宝永7年(1710年)に皆瀬川村の農民に炭焼を許可したことを記しています(359ページ)。実際には「砂に埋まった山畑で採れるわずかな竹を利用して炭を焼いて(360ページ)」いた状態であった様ですが、それでも漆貢税を免除された記録のある都夫良野村の北隣に位置するこの村では、残った森林資源を使って炭焼を何とか維持した様です。

これは前回の津久井県鳥屋村の「奥野山稼出し炭・材木等書上」に見た通り、炭焼の対象となる樹種にかなり幅があり、その中には「かしわ木」の様に寧ろ荒廃した環境を好む樹種まで入っていますから、噴火以前の植生には復旧しないまでも、代わりに荒廃した環境に強い樹種を使って炭を焼く環境が戻って来たということではないかと個人的には考えています。前回見た鳥屋村の様な史料がこの地域で残っていれば具体的な比較が出来るのですが、今のところ類似の文書は見つかっていない様です。

一方、谷ヶ村関所が炭焼を差し止めた件は、津久井県の荒川番所が基本的に徴税のための施設であったのに対し、谷ヶ村関所は箱根周辺の他の関所同様、「要害」を守護する役割が主でしたから、支配が幕領から藩領に戻された際に懸念を感じたということかも知れません。もっとも、川村関所では通過する炭に対して「十分一(じゅうぶいち)銭」を納める条件になっていましたから、その点は谷ヶ村関所と機能面の棲み分けが行われていた側面もありそうです。「山北町史 通史編」ではこうした関所の存在が周辺の地域の炭焼が大きく発展せず、小規模な農間稼ぎの範囲に留まる原因になったと見ていますが(362ページ)、これは次の様な関所の運用が影響したものと言えそうです。

一方、谷ヶ村では、酒匂川右岸に位置する谷ヶ村関所が物資の通行を禁止していたため、同じ右岸に位置する同村の人びとは関所を通って直接平山村経由で荷物を通すことができないため、酒匂川を渡って左岸に出なければならなかった。さらに川村関所を通過するためには山間部にある都夫良野村を通る道に出なければならず、そこへ出るための馬道もなく大変な不便を強いられていた。そうして遠回りをして川村関所に出て、そこで荷物の検査を受け、十分一銭を納めていた。

正徳元年(一七一一)九月、領地替えにより関所の管理が幕府の酒匂会所(さかわかいしょ)に移ったのを契機に、谷ヶ村関所の荷物通過ができるように会所に願い出た(『近世』史料251 )。結果は不許可になり、改めて川村関所を通すように代官から申し付けられた。その後も申請を出したものの許可されず、谷ケ村から平山村へは荷物を通すことはできなかった。

(363〜364ページより)



谷ヶ村付近の明治29年の地形図(「今昔マップ on the web」より)
それでなくても、最初に見た様に、炭は陸運では運び出し難い品目と見做されていました。そういう荷物を、都夫良野村の明細にある様に「道法6里小田原宿まで持ち出し」ていた訳ですから、積み荷の炭への影響もそれだけ大きくなってしまいます。谷ヶ村はそこから更に1里程山奥へ入った場所に位置している上に、更に険しい山道を越えなくてはなりません。そこにこの様な関所の運用による制約が重なって遠回りをさせられているとなれば、とても炭を大量に焼いて里へ送る様な稼ぎに注力出来る状況ではなかったでしょう。



山北町中川の位置。大半が丹沢山中を占める
(「Googleマップ」)
因みに、上記一覧中の中川村の年不詳の村明細には、富士山噴火前には「角木・才木ならびに雑木・薪川下げ致し」と、伐り出した木を筏にして流していたことを窺わせる記述があります。江戸時代には基本的には水運がなかったとされる酒匂川の支流で、それも特に急流となる上流で、中川村の「川下げ」がどの様に行われていたのかが気になりますが、噴火後は地形が変わってしまって水運が出来なくなったために「下駄・木鉢・柝木・炭焼き等」に切り替えたとしている訳ですから、筏であれば運び出せた丸太の様な大きなものが運べなくなり、止むなく陸運に耐えられる様な品々に加工する様になったということになります。この中川村に至る道は「奥山家道」と呼ばれていたことは以前紹介しましたが、この道は幅が精々5〜6尺程度、世附村に入る辺りでは僅かに3尺と記されていますから、とても荷馬を使える道ではなく、専ら人が担いで降りる必要があったのでしょう。

こうして見て行くと、これらの村々での炭の生産には制約が多かったことが見えてきますが、それでも小田原藩に国産方役所が設置された頃から、この地域の炭を少しでも多く流通に載せようとする動きが出て来ます。

文政期を過ぎると、当地方の炭は、小田原藩国産方の統制を受け、各地の仲買人や問屋が売買を扱っていた。その多くは江戸に海上輸送されていた。文久二年(一八六二)の将軍家茂(いえもち)の上洛が触出された際に、藩が使用する炭の量が多くなるとの見込みを藩から示され、江戸への出荷が停止になることがあった。そこで炭問屋側は、炭の相場を書類に認めて提出し、その相場価格で必要量の炭を藩に納め、その余りを江戸に送った。しかし、その後三年間、炭値段が据え置かれたため、慶応元年(一八六五)、幕末の諸物価高騰のなか、焼夫の手間賃・縄、俵の値段、駄賃などが高値になり、炭の値上げを願い出た(『南足柄市史3 資料編 近世(2)』)。その後の顛末(てんまつ)は不明だが、藩の財政再建を目論んだ国産方の思惑をみることができる。

江戸への炭の輸送は、小田原から海路で運ばれた。しかし小田原の海岸には港の設備がないため、山間部から運ばれた炭は、海岸で小舟や伝馬船(てんません)に一度積み替えて沖に停泊している廻船(かいせん)に移された。江戸に運ばれた炭は、取引先の問屋に納められた。天保十二年(一八四一)、谷ヶ村の武尾(たけお)家は江戸の炭問屋「桐屋」に、二度に分けて五〇〇俵の炭を送った。一月に北辰丸で二〇〇俵を、四月に天神丸で三〇〇俵を運んだ。代金は二九両ほどになる。このなかから前金で受け取った金額や二回分の運賃・駄賃等を精算してこの年の取り引きは終わる。嘉永三年になると輸送量は一四三〇俵になった。この年は九回に分けて納め、代金は七七両余りになった。

(364〜365ページより)


小田原藩の国産方については漆について見た際にも登場しました。その過程で藩領内の漆以外の産物についても多少なりとも関与していたことがわかります。実際、前回掲出した「神奈川県史 資料編 近世(6)」の炭焼に関連する10件の史料のうち、文書番号127と128は国産方役所宛ての文書になっています。特に文書番号128「駄賃付馬士不法につき足柄上郡内二十四カ村農間炭買主願書」では、足柄上郡内で生産された炭を運搬する駄賃稼ぎの横暴を改めさせる様に郡内の村々が国産方役所宛てに訴え出たものですが、その冒頭には

乍恐以書付御伺奉申上候御事

一私共農間稼炭仕入江戸送り仕来り候処、近年駄賃附馬士共猥相成、炭俵山出し貫目如何様相改候も、浜納家着迄之間途中ニ而目軽相成候勿論、剰届不足等間〻有之、右准し等閑之廉〻多ク、荷主共甚迷惑仕候…

(「神奈川県史 資料編9 近世(6)」862ページより、変体仮名は下付字とし適宜漢字に置き換え)


と、ここにも積み出した炭が海に辿り着くまでに目減りしてしまう状況が記されており、如何に炭の運搬が陸運にとって厄介なものであったかが窺えます。また、ここで「農間稼炭買主」として捺印署名している村々の名前を見ると、
  • 川村山北
  • 川村岸
  • 川村向原
  • 中川村
  • 神縄村
  • 湯触村
  • 川西村
  • 都夫良の(野)村
  • 皆瀬川村
  • 弥勒寺村
  • 中山村
  • 大平村
  • △大平台村
  • 猿山村
  • 雨坪村
  • 苅野岩村
  • 苅野一色村
  • 内山村
  • 平山村
  • 谷ヶ村
  • 矢倉沢村
  • □竹之下村
  • □桑木村
  • □柳嶋村
と、足柄上郡のみではなく足柄下郡(△を付した村)、更には足柄峠の向こうの駿河国駿東郡の村(□を付した村)まで入っており、炭焼の渡世に関わる村が広範囲に広がっていたことがわかります。


今回は「山北町史 通史編」の内容を一通り確認するだけで随分と長くなってしまいました。次回山北町域以外の状況を見て「風土記稿」山川編の記述について触れます。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

NEXT≫