2016年02月の記事一覧

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【史料集】「新編相模国風土記稿」鎌倉郡各村の街道の記述(その5)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」中の鎌倉郡の各村の街道の記述を一覧化しています。今回は、鎌倉郡図説で「鎌倉道」として取り上げられた道の最後の1本と、鎌倉郡図説では取り上げられなかった「鎌倉道」を確認します。

5本目の「鎌倉道」は武州金沢から雪下へ入る「金沢道」または「六浦道」と呼ばれる道です。峠村から朝比奈切通を越え、鎌倉の域内に入って「風土記稿」の記す「谷合四ケ村(やつあひしかむら)」のうち西御門村(現:鎌倉市西御門の大部分)以外の3村を経て雪下に至ります。この道筋については「風土記稿」の記述で特に問題となる箇所は見当たらない様です。ただ、この道についての由緒などは主に峠村の項に集中して記されています。

六浦道:鎌倉郡中の各村の位置
六浦道:鎌倉郡中の各村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

鎌倉道㈣に記された脇道の各村の位置と戸塚—金澤の道
鎌倉道㈣に記された脇道の各村の位置と
戸塚—金澤の道(「地理院地図」上で
作図したものをスクリーンキャプチャ)
なお、鎌倉郡図説の鎌倉道㈣の記述には、

此道筋、笠間村より分れ、巽方公田村に達し、鍛冶谷村、上之村等にて岐路となり、末は武州久良岐郡日野・峯・氷取澤・鎌利屋四村に達する小徑あり、

という付記がありました。ところが、この記述の中に出て来る村名を地図上でプロットすると右の様になり、この記述がどの道筋を指しているのか上手く特定が出来ません。上之村や中之村の記述には「金澤道」と称する道が見られるものの、実際は「戸塚から金澤への道」とされており、鎌倉郡図説の道筋の一部を指し示すのみと見られます。右の地図では「迅速測図」上でこの道筋に近いと思われるものを拾って仮に線を引いたものですが、特に笠間村内で戸塚からの道筋と接続する部分には主要道であることを示す表示を施された道筋が釜利谷への道と繋がっておらず、多分に推定を含んでいることを御了承下さい。以下の一覧では「金澤道㈡」として、中之村と上之村のこの道に関する記述を収めました。因みに、上之村の記述に見える「久良岐郡宿村」は釜利谷郷の一村で、明治時代に入ってすぐ他の釜利谷郷の村と合併して釜利谷村となりました。図説の記述はこの道筋以外も含んで記されているものと思われますが、それがどの道に当たるのかは判断出来ませんでした。

さて、鎌倉郡図説に取り上げられたのは以上5本の道ですが、鎌倉郡の各村の記述の中には、この何れにも当てはまらない「鎌倉古道」が幾つかの村に記されています。これらを拾い上げ整理してみると、概ね2本ないし3本の道筋に分かれる様です。まず、山崎村の項には元弘3年(1333年)新田義貞が鎌倉に攻め入った折に、山之内へ攻め入る際に通った道筋として「太平記」に紹介されていることが記されています。この村の他に、上町谷村と梶原村の記述が、概ねこの記述に沿って該当する道筋を辿っている様です。ここでは「風土記稿」の記述に合いそうな場所を地形図や「旧鎌倉街道・探索の道—上道編」に掲載された地図を手掛かりに概略で線を引いてみましたが、あまり精度は高くありません。飽くまでも参考程度に御覧下さい。


鎌倉古道㈠の概略の道筋と各村の位置
鎌倉古道㈠の概略の道筋と各村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャし、リサイズ)

他方、柄沢村や城廻村には武州多磨郡木曽町(現:東京都町田市木曽)へ通じる「鎌倉古道」の存在について記しています。渡内村に記されている「鎌倉古道」もこれらの道に繋がるものと思われます。ただ、この3つの村の位置関係からは、1つの道に繋がるものではない可能性がありそうです。これも「旧鎌倉街道・探索の道—上道編」に掲載された地図を参考に、該当しそうな道筋を大筋で拾ってみました。

鎌倉古道㈡の概略の道筋と各村の位置
鎌倉古道㈡の概略の道筋と各村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

どちらの「鎌倉古道」も、「風土記稿」が編纂された天保年間時点で残っていた道筋や地元からの報告を頼りに、「太平記」などの古典と照合して見出した道筋ということになります。彼らの判断した道筋が実際に鎌倉時代のそれと正確に合致すると言えるかは難しいところですが、少なくとも昌平坂学問所が鎌倉時代の古道に少なからず興味を抱いていたのは確かであり、「風土記稿」にもその片鱗が反映したということになるでしょう。



街道「風土記稿」の説明
鎌倉道㈤ ※六浦道峠村九十八
(三十)
往還一條あり村の中程を西東に達す巾六尺許武州より鎌倉への路なり、
◯朝比奈切通 鎌倉七口の一なり、孔道大小二あり、十二所村界にあるを大切通と云ふ道巾四間許、大切通より一町程を隔て東方村内にあるものを小切通と呼ぶ道巾二間許、共に鎌倉より六浦への往還に値れり、仁治元年十一月始て道路を開かんことを議定あり【東鑑】曰、…… ◯峠坂 村中より大切通に達する坂なり、延寶の比淨譽向入と云ふ道心者坂路を修造し往還の諸人艱苦を免ると云此僧延寶三年十月十五日死、坂側に立る地藏の石像に、此年月を刻せしと【鎌倉志】に見ゆれど、今文字剝落す、
◯鼻缼地藏 金澤往還の北側なる、岩腹に鐫たる像を云長一丈許是より東方纔に一間許を隔て武相の國界なり、故に【鎌倉志】にも界地藏と唱ふと記せり、又【志】に此像の鼻缼損せし如くなれば鼻缼地藏と呼とあり、土俗は傳へて古此像を信ずる者多く香花を供すること絕えざりし故、花立地藏と云つるを後訛りて鼻缼とは唱へしなりと云、◯上總介墓 金澤往還南陸田間にあり、所在を字して塔島と呼り、土俗傳て北條高時滅亡の時當所にて討死せし上總介某の墓なりと云ふ、【鎌倉志】には上總介廣常が事歟と記せど、今碑の樣を見るに當今の物とも思はれず、固より文字を鐫されば其詳なることを知るべからず、
十二所村九十三
(二十五)
◯太刀洗水 【鎌倉志】には梶原が太刀を洗し所と記し、里俗は朝比奈と言傳ふ、
◯地藏堂二 一は金澤道の側にあり、石像を置く長三尺、鹽嘗地藏と號す里俗の傳に、何れの頃にや、六浦の鹽賣、鎌倉に出る每に商の最花にて、鹽を此石地藏に供せし事あり、故に名づくと云ふ、光觸寺持、

※二階堂村の項で周辺の村についても合わせて記されている関係で、ここではこの道について直接言及はされていない。道脇の「太刀洗水」について参考までに書き出したが、「朝比奈切通」の名がない。

淨妙寺村九十四
(二十六)
◯座禪川 報國寺門前を流る滑川の下流なり、寺門入口に橋あり渡月橋と呼ぶ、◯胡桃川 胡桃谷の山間より出、公方屋鋪の傍を流れ座禪川に合す、往還の係る所小橋を架す、胡桃橋と名づく、

※二階堂村の項で周辺の村についても合わせて記されている関係で、ここではこの道についての直接の言及はなく、往還に架かる橋についてのみ触れられている。

二階堂村九十
(二十二)
當村並に西御門・淨妙寺・十二所四村の地は南北の二方、大藏の谷々にして其中間平坦の地に田圃を開きし村落なるが故、中古以來は四村を槩して谷合四ケ村也都安比之加牟良と闔稱し、全く一村の如し、正保・元祿改定の國圖には正しく四村に分載したれば夫より已後の所爲なるべし、今に至りては四村の目も自然小名を呼が如くになれり、故に四隣廣袤等の事爰に括載して各村に分記せず、…武州金澤道四ヶ村の南方を通ず幅二間、
◯座禪川 村南を流る幅二間より三間に至る、十二所村、滑川の下流なり、此餘村内所々谷間より出る淸水一條の小川となり、金澤道を横切て座禪川に合す、往還の係る所橋を架す長三間、歌ノ橋と呼ぶ、鎌倉十橋の一なり古傳に、澁川六郎兼守と云ふ者、死刑に處せらるべきを、十首の詠歌を、荏柄天神社に法樂しかば、遂に其刑を免かる、後報賽のため、此橋を架す、是より此號ありと云へり、
雪下村八十二
(十四)
民戸百四十五此内四十戸は、鶴岡社人を勤む、街衢に連住し、旅店を開き生業の資とする家多し、往還五條あり、人馬繼立をなす一は北方戸塚宿へ二里九町、一は西方藤澤宿へ二里餘、一は南方、三浦郡小坪村へ一里餘、一は西方、江ノ島へ二里餘、一は東方武州金澤へ二里餘
◯小名 …△横小路 古は横大路と稱す、鶴岡赤橋の前より東折して寶戒寺に到る通衢を云、…
◯筋替橋 須智賀江橋とも書す、横小路より大藏町に到る、街角の小流に架す石橋長二間、にて鎌倉十橋の一なり、…
*金澤道㈡ 戸塚

金澤
中之村
(三十二)
前村[上之村]と地形錯雜するを以て廣袤四隣は彼村に闔載す、…戸塚宿より金澤への往還巽方に係れり幅凡三尺許、
上之(かみの)
(三十二)
本郷六村當村及中之村・鍛冶ヶ谷・小菅ヶ谷・桂・公田の六村を云、故に今皆本鄕と唱ふの一なり、…此地は鄕中の東、上の方にあるを以て今の村名を負せしと云、されど其地域は犬牙せり、就中中之村とは最も錯雜して四隣廣袤各村に辨別しがたし、…金澤道係れり幅六尺、東方武州久良岐郡宿村に通ず、
◯坂三 猿田坂武州久良岐郡金井村に達す、登三町許、白坂・梅澤坂共に武州金澤道なり登同上等の名あり、

※現在は新番地表記が進んだこともあり、この辺りのかつての村域を現地名から推し量ることは殆ど不可能になっている。差し当たり、この村が一番東にあるという点から最も金沢寄りにあったと判断し、後ろに置いた。

*鎌倉古道㈠(宮ノ前村)百三
(三十五)

※山崎村の項に宮前村の名前が見えるが、本項には関連する記述は見当たらない。

上町谷村百五
(三十七)
鎌倉古道村内にあり、
◯小名 △天神下鎌倉古道の係る所なり、 △根田 △谷戸 △三田町 △橋場 △うたう坂 △梅田 △上吉目 △山王ヶ谷
◯戸部川 西堺を流る幅六間、板橋を架す長八間、町谷橋と呼ぶ
山崎村九十八
(三十)
鎌倉の古道、村南山上にあり村岡鄕宮前より、上町谷を經當村十三坊塚邊より梶原村に至り、六本松より化粧坂に登れり、これ【太平記】に載する所、義貞の官軍山之内に欄入せし路なるべし、
◯小名 △熱海 △湯之本 △神代 △禰宜崎 △寶積寺谷 △大谷 △柿原 △西谷 △十三坊塚 △大下 △稻荷山 △池ノ谷 △藥師堂免
梶原村百五
(三十七)
鎌倉道坤方より東方に貫く幅三尺より五尺に至る古道は東方山上にあり路傍に塚あり、道中塚と唱ふ、是當時の遺名なるべし、

※この「鎌倉道」がどの道を指すかは不明。藤沢〜長谷の道が域内に係っていたとは考え難い。

扇ヶ谷村八十九
(二十一)
◯假粧坂 或は氣生又形勢に作る、相傳ふ古平家の大將の首討取て假粧し實檢に備へしより此名起ると云ひ、一說に昔遊女の居住せし地なれば此名を負せしとも云り【相山日記】曰、……坂上に松樹あり、紅掛松と呼ぶ來由詳ならず

※鎌倉古道の存在については直接言及されていないが、山崎村の項でこの坂の存在に言及されているため、ここで取り上げた。なお、由緒には「相山日記」の他、「太平記」「鎌倉大草紙」「回国雑記」が引用されている。

*鎌倉古道㈡柄澤村百四
(三十六)
建久四年四月右大將賴朝武州入間野に狩せし路次當所を歷て武州關戸宿に到りし事【重須本曾我物語】に見えたり曰、…今も武州多磨郡木曾町邊へ通ぜしといふ、鎌倉古道村内に係れり、盖し此道なるべし
城廻村百四
(三十六)
鎌倉道村内に係れり幅二間餘西方にある古道は鎌倉より武甲二州及び木曾への往還なりしと云ふ南方村岡鄕五村の地より、西方山谷新田に係り、東海道を横切東俣野村に至り、高座郡に達せしと云へり、
渡内村百四
(三十六)
鎌倉道村の西北に係る幅七尺より二間に至る古道は中程にあり、

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は鎌倉郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「鎌倉郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。



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【史料集】「新編相模国風土記稿」鎌倉郡各村の街道の記述(その4)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」中の鎌倉郡の各村の街道の記述を一覧化しています。今回は、鎌倉郡図説で「鎌倉道」として取り上げられた道の3本目と4本目です。

3本目の「鎌倉道」は永谷上村から台村へと向かう道筋であるとしています。このうち、小菅ケ谷村から南では次の戸塚からの道筋と合流しており、各村の記述でもこの区間では「戸塚からの道」と記しているため、以下の一覧では小菅ケ谷村までの3村のみを掲げています。この道筋は以前「武相国境」を取り上げた際にも紹介しましたが、北条政子が弘明寺へと参拝する際に使ったとされる古道で、一般には「弘明寺道」と称されることが多いため、ここでもこの別称を付してあります。しかし、永谷上村の記述では「鎌倉古路」と記し、しかも馬洗川に架かる橋を通じていた過去の道筋という扱いになっています。小菅ケ谷村の項では正保の国絵図ではこの道が本道であった様に掛かれているとしているものの、少なくとも鎌倉郡図説に転載された同図ではこの点を識別することは出来ません。

他方、4本目の「鎌倉道」は以前「浦賀道見取絵図」を紹介する際に取り上げた戸塚から鎌倉・雪下へ向かう道筋で、3本目の道とは鼬川を渡る「新橋」の北側で合流するとしています。少なくとも戸塚からこの橋までの区間は江戸時代になって開かれた道筋とされていますので、時代認識としては新橋以南の道を古道の方に結び付けて考えるのは理解出来ます。しかし、鎌倉時代のいわゆる「中道」は小菅ケ谷村の北で分かれて舞岡村へと進む道筋であったと思われ、こちらの道筋については「風土記稿」では特に触れている箇所を見出すことは出来ません。

昌平坂学問所がこの「弘明寺道」を敢えて取り上げて5本の鎌倉道の1つに位置付けた理由は不明です。由緒を重視したということであれば、鎌倉幕府の頃からの道筋として取り上げるべき街道は他にも多数あったと思われます。他方で、現役の街道として「風土記稿」編纂の頃にも盛んに使われていたと考えるには、永谷上村や下野庭村の記述はもっと小規模な村道として使われていたことを思わせる表現になっています。「新編武蔵風土記稿」の久良岐郡別所村(卷之八十 久良岐郡之八)には「また最戸村と當村との堺に古の鎌倉街道といふあり、」と記されていることから、あるいはその道筋の続きが念頭にあってのことだったのかも知れませんが、こちらも「古の」としていることから少なくとも江戸時代には主要な街道としては位置付けられなくなっていたと思われます。前回の「江島道」の例も含め、鎌倉郡図説のこうした「鎌倉道」の取捨選択には疑問点が存在する、ということになるでしょう。

その一方で、戸塚から鎌倉への道筋は江戸時代には東海道を経て鎌倉へ向かう参拝客などによって頻繁に使われました。また「浦賀道見取絵図」がこの区間を含めたのは浦賀奉行の公儀の往復に使った道筋であり、かつ鎌倉へ向かう大名などの利用もあったことが理由として考えられ、「風土記稿」の鎌倉郡図説にこの道が含まれたのは妥当な選択と言えるでしょう。

戸塚—鎌倉道と弘明寺道(北半分)
戸塚—鎌倉道と弘明寺道(北半分)

戸塚—鎌倉道と弘明寺道(南半分)
戸塚—鎌倉道と弘明寺道(南半分)
(以上どちらも「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


街道「風土記稿」の説明
鎌倉道㈢ ※弘明寺道永谷上村百一
(三十三)
◯馬洗川 南北に貫けり幅三間、元祿國圖にも、馬洗川と載す、鎌倉古路係りし頃、此流にて馬を洗ひしより此名ありと傳ふ、橋を架す長三間半有花寺橋といふ、

※鎌倉郡図説で久良岐郡別所村からこの村に入ると記されているにも拘わらず、鎌倉道への直接の言及はない。しかも馬洗川の記述も「鎌倉古路係り頃」と過去の表現になっている。

下野庭村
(三十二)
鎌倉より武州久良岐郡に達する小徑西北を延亘す、
小菅ヶ谷村
(三十二)
鎌倉道西南の方を通ず幅二間より二間半に至る、又古道と稱するあり、南方笠間村界にて、今の道より北に折れ村の中央を貫き、永谷ヶ村に達す、幅六尺より九尺に至る、按ずるに、正保の國圖には、此道を本道とす、
◯鼬川 南界を流る幅四五間兼好法師が折句の詠歌ありし舊蹟と傳ふ【兼好家集】曰…鎌倉管領武州に發向の時鎌倉を立て此河邊にて晝憇をなし、午飯を吃するを例とす【鎌倉年中行事】曰…鎌倉古道の係る所橋を架す長六間、新橋と唱ふ、

※古道が鎌倉道と分岐するのはこの橋の北側だが、この橋の辺りにまつわる古事の記述と合わせて「古道」としたものか。以下鎌倉までの区間は戸塚からの道筋と重なっており、各村の記述も戸塚からの道筋としているため、笠間村以南は「鎌倉道㈣」参照のこと。

鎌倉道㈣ ※戸塚

鎌倉
戸塚宿九十九
(三十一)
東海道東西に貫く幅凡四間許、鎌倉道中小名田宿より東に分れ、上倉田村に達す幅七尺、
◯柏尾川 東界を流る幅五間、鎌倉道の係る所板橋を架す長八間、高島橋と稱呼す、此餘天王橋・西久保橋・第六天橋・坂上橋など名づくる小橋あり、共に東海道中の小渠に架す、總て官の修理なり、
吉田町九十九
(三十一)
東海道東西に通ず幅四間、鎌倉への捷徑あり大橋邊より南に分れ柏尾川堤上を經て、上倉田村に至り、本路に合す、

※この書き方では飽くまでも本路は富塚八幡宮の前で分岐する道で、柏尾川沿いを進む道は「抜け道」的な存在であったことになる。この一覧では仮に合流地点である上倉田村の前に置いた。

◯柏尾川 西北の方矢部町境を流る幅八間、東海道の係る所板橋を架す長十一間大橋と呼べり此橋吉田・矢部兩町に係れり、河涯に隄防あり高一丈、
上倉田村九十九
(三十一)
鎌倉道係れり幅九尺より二間に至る、戸塚宿より東折して、當村に達す、吉田町大橋邊より、南折して、柏尾川堤上を通ずる捷徑も、村内にて此路に合す、
下倉田村九十九
(三十一)
鎌倉道村北に係る幅二間、

※「村北に」はこの道筋の位置関係から考えると実情を表している様に見えない。あるいは「南北に」の誤記か。

長沼村九十九
(三十一)
鎌倉道係る幅八九尺
飯島村百二
(三十四)
鎌倉道村内を貫けり幅二間、
小菅ヶ谷村
(三十二)
鎌倉道西南の方を通ず幅二間より二間半に至る、又古道と稱するあり、南方笠間村界にて、今の道より北に折れ村の中央を貫き、永谷ヶ村に達す、幅六尺より九尺に至る、按ずるに、正保の國圖には、此道を本道とす、
◯鼬川 南界を流る幅四五間兼好法師が折句の詠歌ありし舊蹟と傳ふ【兼好家集】曰…鎌倉管領武州に發向の時鎌倉を立て此河邊にて晝憇をなし、午飯を吃するを例とす【鎌倉年中行事】曰…鎌倉古道の係る所橋を架す長六間、新橋と唱ふ、

※鎌倉道㈢参照。

笠間村九十九
(三十一)
戸塚宿より鎌倉鶴岡への路村内に係る幅二間、
◯新橋川 村の東北を延亘し戸部川に合す幅六間餘、源は、上之村より出づ、本鄕川とも唱ふ、此水を村内の用水とす、河涯に小堤を設く高五尺許土橋を架す長七間餘、小袋谷と組合持、

※「鼬川」を指すと考えられるが、小菅ケ谷村の記述とは名称が合っていない。また、ここで記す「橋」は、位置から考えて笠間村と小菅谷村との間に架かっていた鎌倉道の「新橋」であると考えられるが、何故か位置関係からは関係がないと思われる「小袋谷村」と協同で普請しているとされている。取り違えによる誤記の可能性もないとは言えないが、記載の通りであれば何故普請に小袋谷村が参画していたのか、不詳。

岩瀨村九十九
(三十一)
戸塚宿より鎌倉への路村の西南界にかゝれり幅二間、
◯砂押川 南方を流る幅二間許此水を延て水田に灌漑す、板橋二を架す、一は切通シ橋、一は離山橋と云ふ、各小橋なり、

※大船村との境に架かっている橋であると考えると、このうちの1つが大船村の記述と同じ橋を指していると考えたくなるものの、ここで示された橋の名前はどちらも大船村の「砂押橋」と異なる。従って岩瀬村の2つの橋はどちらもこの街道のものではないとも考えられる。但し、同じ橋の呼称が両岸で異なる例がないとは言えない上に、「離山」「切通」ともにこの道筋に因んだ名称に見える点が疑問点。

大船村九十八
(三十)
戸塚宿よりの鎌倉道村内を通ず幅二間、
◯離山波奈禮也麻 鎌倉道の南側にあり、八町餘の間に三山並び立り、高各二十間より三十間許に至る中央に在を長山形狀を以て名く、北方を腰山山腹に洞井あり、徑三尺許、井中隧あり其深測るべからず、土俗梶原平三景時が邸跡なりと云ど、景時が宅蹟は、此地にあらず、南方を地藏山山上に地藏の石像を置古塚十三あり、高一丈より六尺に至る、來由を傳へず、と名づけ、槪して離山と稱す、これ山足連續せるを以なり皆芝山にて樹木を生せず、
◯砂押川 北界を流れ戸部川に合す幅二間、板橋を架す、砂押橋と呼ぶ長二間餘此の水を引て水田に灌漑す、

※橋の名称については岩瀬村の項参照のこと。なお、「浦賀道見取絵図」でもこの橋は「砂押橋」と記されている。

小袋谷村九十八
(三十)
戸塚より鎌倉への道、村の中央を通ず幅二間、
臺村九十八
(三十)
藤澤より鎌倉への往還村の北方を通ず巾二間より四間に至る戸塚より鎌倉への路、小袋谷村より入り巾六尺、村界にて前路に合す、
◯戸部川 西界を流る中十二間橋を架す、戸部橋と唱ふ長八間餘古は宮の修理に係る、今は當村・岡本・小袋谷三村の持なり、東隣山之内村より來たる一流小袋谷村界を流れ幅一間より三間に至る西方にて此川に注ぐ、

※小袋谷川に「水堰橋」が架かっていた筈だが、当村にも小袋谷村にも記述がない。

山之内村七十八
(十)
往還一條、村の中央を貫く幅三間餘
◯川 東南の方、建長寺の境内より出て西方に流る幅九尺 ◯十王堂橋 往還に架す長二間餘鎌倉十橋の一なり【鎌倉志】に云、…
雪下村八十二
(十四)
民戸百四十五此内四十戸は、鶴岡社人を勤む、街衢に連住し、旅店を開き生業の資とする家多し、往還五條あり、人馬繼立をなす一は北方戸塚宿へ二里九町、一は西方藤澤宿へ二里餘、一は南方、三浦郡小坪村へ一里餘、一は西方、江ノ島へ二里餘、一は東方武州金澤へ二里餘
◯小名 △置石町 鶴岡赤橋より南由比ヶ濱に到る迄の直道を呼ぶ、此道の中央に八幡宮の置石壽永元年三日、源賴朝の新造する所にて古は千度小路或は千度壇などと稱せり、詳なる事は、鶴岡八幡宮條にあり、あれば則地名とす、古は若宮大路と唱ふ、古書に往々見えたり、…

※「置石町」については「東鑑」から引用されている箇所が多い。他「東鑑脱漏」「本朝鍛冶考」。

△若宮小路 鶴岡赤橋前西の横街を云へり、…△小袋坂町 小袋坂に到る道を云ふ、
◯小袋坂 古は巨福呂、或は巨福路とも書せり、鎌倉七口の一にして、山之内村に通ず登三町程嶺頭を、村堺とせり、…

※「小袋坂」に関連して引用されている文献は「東鑑」「一遍上人六條縁起」「太平記」「神明鏡」「鎌倉志」「異本太平記」「鎌倉九代記」「鶴岡社務職次第」。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は鎌倉郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「鎌倉郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。


5本目の「鎌倉道」については次回取り上げます。

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【史料集】「新編相模国風土記稿」鎌倉郡各村の街道の記述(その3)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」中の鎌倉郡の各村の街道の記述を一覧化しています。今回まとめるのは、鎌倉郡図説で「鎌倉道」として取り上げられた道の2本目です。

2本目の「鎌倉道」は基本的には藤沢から江の島へと向かう道筋を指していますが、これについては以前「江島道見取絵図」を取り上げた際にも、「風土記稿」の示す「江島道」との道筋や名称の違いを指摘しました。今回は「風土記稿」の一連の記述を中心にして、「見取絵図」との相違を確認します。


川名村付近の迅速測図
長谷への道筋の方を主要道として描いている
(「今昔マップ on the web」より)
まず、「風土記稿」では大鋸町から川名村へ向かい、そこで長谷への道と分かれて南下して片瀬村へ入る道筋を「江島道」または「鎌倉道」と呼んでいます。川名村の項では道幅が3間(5.4m)とかなり広い道筋であったことを指摘しています。しかし、片瀬村の項には「石上の渡し」の存在が記されており、しかも「往還」がこの渡しを通っているとしています。基本的にはこちらが江島道の主要道であったことは、以前検討した通り、数々の道中記・紀行文の大半がこの渡しを経て大久保町の鳥居を潜っていることを記していること、更には藤沢宿を描いた数々の錦絵でも大久保町の鳥居を描いていることでも明らかであり、「見取絵図」もその観点でこの区間の絵図を作成していると言えます。また、やや時代が下りますが「迅速測図」の川名村付近の道筋の描き方を見ると、東の長谷へと向かう道筋は2本の実線で描かれているのに対し、途中でこの道から分かれて江の島へと南下する道筋は実線と点線で描かれており、長谷への道筋の方を主要道として取り扱っていることがわかります。江の島方面への道を辿ると、やはり「石上の渡し」からの道が主要道であることを示す2本の実線で描かれています。

※片瀬村の記述中で藤沢から江の島に向かう街道が「坤」、つまり南西から入ると書いているのも疑問点です。藤沢を起点と考えるならば村の西寄りを境川に沿って南下することになりますから、その道が南側から入るというのは筋が通りません。


昌平坂学問所がどの様な判断で、川名村を経て江の島へと向かう道の方を藤沢からの江の島への主要な道筋と考えて鎌倉郡図説に記載したのかは良くわかりません。強いて挙げれば図説に転載された2つの国絵図のうち、元禄の国絵図では片瀬村から石上の渡しへ向かう道筋が描かれておらず、川名村への道筋だけが線で描かれているので、あるいはこれに影響された可能性も考えられなくはありません。

ただ、他の多くの史料と照合する限りでは、鎌倉郡図説のこの表記は当時の実情に合っているとは言い難く、何故こうなってしまったのか少なからず疑問を感じるのも事実です。少なくとも、昌平坂学問所が「風土記稿」を編纂するに当たり、道中奉行が編纂した「見取絵図」を参照した形跡が認められないことは確かです。そもそも「江島道見取絵図」をはじめとする「五海道其外分間見取延絵図」を、管轄の奉行所以外の役人などにどの程度閲覧させていたのかという問題もありますが、幕府直轄の学問機関であった「昌平坂学問所」も幕府自身が持つ行政資料の類いはあまり参考にさせてもらえていなかった、ということを意味するのかも知れません。何れにせよ、「風土記稿」成立の過程を考える上で課題になる項目の1つと言えそうです。川名村の「道幅三間」も、あるいは長谷への継立道としてのものか、2つの道が重なっている区間のものとも考えられそうです。

他方、鎌倉郡図説ではこの道筋は江の島までの道として書かれていると同時に、片瀬村の項には鎌倉への道が「小名下ノ谷町」で分岐していたと記されています。この小名は「藤沢の地名」(日本地名研究所編)によれば江ノ島電鉄の江ノ島駅周辺の一帯を指しており(90ページ地図)、この記述からは道印石の立てられていた龍口寺への分岐を指していると見られます。

これに対して「見取絵図」ではそのまま東浜の砂浜まで降り、そこから浜伝いに進んで神戸川を飛び石で渡ってから腰越の集落へと向かう道筋を描いており、その間にあった江の島への渡り口については何も表記していないことは以前も指摘しました。

そして、ここから腰越・津村、極楽寺村、坂之下村、長谷村を経て大町の下馬橋へと至る「江島道」について、「風土記稿」では各村の記述でもその存在を記していますが、図説の表記ではこの区間を含めていません。このため、藤沢から江の島までしか到達せず、鎌倉へは向かわない道筋に「鎌倉道」の名が付されるという関係になってしまっていますが、各村の記述は大筋で「見取絵図」が描いた道を辿っています。但し、極楽寺村から長谷村の間の記述は「浦賀や三崎からの江の島道」という位置付けになっている点が注目されます。この腰越〜大町間の道筋は鎌倉郡図説では触れられていませんが、ここでは「鎌倉道㈡」として一括することにしました。また、以下の地図では基本的に「見取絵図」の示す道筋を青線で示し、川名村を経由する道や龍口寺前を経る道筋を紫で補う形で線を引いています。

江の島が鎌倉と同様に江戸時代に多くの参拝者を集める地であったことから考えれば、ここもどちらかと言えば経由地であるよりも最終目的地であったということになるのでしょう。その意味では「風土記稿」が示す龍口寺への分岐路は、鎌倉方面へ急ぐ場合の「抜け道」であったと言うべきなのかも知れません。


江島道:鎌倉郡中の各村の位置
江島道:鎌倉郡中の各村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャし、リサイズ)

前回も触れた通り、各項とも「東鑑」を始めとする引用の点数が特に多くなっていますが、一覧では何れも省略せざるを得ませんでした。ただ、特に引用の多さが際立つ項目については、引用されている文献の名称を列記して補うことにしました。なお、津村と腰越村についてはその位置関係を明瞭に示すことが困難であるため、以下の地図での位置付けも極めて便宜的なものでしかないことを念頭に置いて御覧下さい。

街道「風土記稿」の説明
鎌倉道㈡ ※江島道大鋸町百三
(三十五)
東海道の驛路南北に貫く幅四間餘又南方にて東に分るゝ岐路あり、鎌倉道と唱ふ、

※ここで指摘する「鎌倉道」が長谷への継立道を指すのであれば、同時に江の島への道であることにもなるが、雪下への道を指しているのであれば、この道に関しての記述はないことになる。

(彌勒寺村)百三
(三十五)

※鎌倉郡図説には大鋸町からこの村に入ってくると明記されている。しかし、当村の記述にも「村岡五ヶ村」についてまとめて載せられている高谷村の記述にも、この道に関して何も記されていない。

川名村百五
(三十七)
江島道村内を貫けり幅三間、
◯戸部川 村の北界を流れ幅十間餘乾隅にて境川に會す、土橋を架せり長十五間

※この書き方から判断すると、川名村では長谷へ向かう道筋よりも江島への道の方を主要道と見ていたと思われる。

片瀨村百五
(三十七)
藤澤より鎌倉江島への道、坤方より入て村中を貫き、小名下ノ谷町にて二道に分る幅二間、江島に達する處は海中一町餘の際潮落の時砂磧となり徒渉すべし、潮滿れば行人を肩して渉せり、按ずるに古は徒渉の事なしと見ゆ、…鎌倉より大磯驛に達せし古道は海濱にあり高座郡鵠沼村に達す、即古は鎌府より大磯驛に達する中間の郵驛にて【東鑑】建保六年建長四年等の條に、固瀨驛固瀨宿など載す、腰越古驛と相連れり彼村も當寺宿驛なり、今尚民戸頗る聚落をなし、腰越村と接壤す、…
◯小名 △門前町龍口寺門前の人家を云ふ、 △下ノ谷町 △上町 △西方町 △新屋鋪町以上、村落の小名なり △龍ノ口龍口寺所在の總名なり、… △唐ヶ原 △砥上原 △八松原以上三原は皆他郡の名所にて、唐ヶ原は、淘綾郡砥上・八松二原は、隣郡高座の屬なり、【鎌倉志】に當村を附錄せしより土人かく誤り傳へしなるべし、 △塚田 △殿山 △宮畑 △立石谷 △北ノ谷 △鯨骨 △中瀨 △藤ヶ谷 △地藏面
◯片瀨川 境川の下流なり、當村の界を流るゝを以てこの名あり對岸鵠沼村にては尚境川と呼ぶ、郡界を延互して、海に入る幅五六間より二十間に至る、此川名、古書に往々散見せり、…往還に渡船場あり、石上渡石上は對岸鵠沼村の小名、と唱へ當村鵠沼兩村の持とす、河涯に堤防を設く高六尺餘

※ここで引用されているのは「東鑑」「源平盛衰記」「海道記」「北条九代記」「歌枕名寄」「夫木集」「名所方角抄」。

◯橋 藤澤道の小巨に架す、馬鞍渡橋と唱ふ、往昔賴朝通行の時鞍を架して往來を通ぜしが故此遺名ありと傳ふ、又世俗馬殺橋とも云しぞと【海鏡猿田彦】と云ふ書に…
腰越村百五
(三十七)
地形津村と混淆して辨別しがたきが故に四隣廣袤等は總て彼村に括載す當村の地形、北方は小山連續して高く、南は海に瀕して低し、其地に道して、往來を通ぜり、故に山腰を踰越するの義に取れるならん、…古昔は鎌倉大磯中間の驛郵にて【東鑑】文治元年の條に、腰越驛と記す、今も民戸連住して、頗る古のさまを存せり、當所經歷の事蹟古記に散見せり、…鎌倉道村南を通ず幅三間、家數三百五十二鎌倉道の側に連住す、

※「小名」「神戸川」「七里濱」「袂浦」「行合川」「金洗澤」何れも津村の項を参照すべきことが繰り返し記されている。

津村百五
(三十七)
地形は腰越村と交錯して辨別しがたければ四隣廣袤共に爰に括載す…鎌倉道南方海濱を通ず幅三間餘
◯小名 △濱野町 △神戸町 △川向町以上鎌道にて、二村の村落連住す、 △長者窪砂山なり、… △初澤口 △長山 △丹後谷 △室ヶ谷 △馬場 △御所ヶ谷 △藏ヶ谷 △囚ヶ谷 △竹ヶ谷 △猫地 △藤子ヶ谷 △伊勢船山 △矢澤山 △牛ヶ窪以上の小名すべて二村犬牙の地なり、故にこゝに括載す、
◯七里濱 稻村ヶ崎極楽寺村の屬より以西村落に至る迄の海濱を云ふ、其道程關道六町を一里とす、七里あり仍て名とす、…此濱に鐡砂久呂賀禰須奈あり、其色黑漆の如し極て細密にして些も餘の砂を交へず、日に映ずれば光輝ありて銀の如し、厨刀刀子などを磨くに佳なり、又花買い兒女拾得て、作り花にす、故に名づく、或は櫻貝とも云ふ、其色の似たるをもて呼ぶ、と云ふあり、其色艶なれば兒女の翫物となせり、又折刀白骨など往々砂中より得ることあり、これ屢戰場となりし故なるべし、
◯袂浦多茂登能宇良 七里濱の西にて村落に添へる海々を云ふ、濱邊の地形衣袂に似たり故に此名あり、…
◯神戸川 水源二あり、並に兩村の溪間より出、字堀内に至り合して一流となり、小名神戸を流て海に入る、鎌倉道を横ぎる所橋を架せり、神戸橋と呼ぶ、◯行合川 字田鍋ヶ谷の溪間より出七里濱を絕して海に入る、文永八年九月十二日日蓮厄難の時龍口よりの使、鎌府の赦免使と行合ひし舊跡とて此名あり ◯金洗澤 七里濱の内行合川の西方を云ふ、土俗傳て昔黄金を鑿得たり、故に名づくと云へり以上【鎌倉志】所載、
極樂寺村九十七
(二十九)
三浦郡三崎・浦賀よりの江島道幅二間、村内に係れり、
◯極樂寺坂 坂之下村堺にあり登三十間餘、幅四間、往古重山疊嶂なりしを僧忍性疎鑿して一條の路を開きしと云ふ、卽極樂寺切通しと唱ふるは是なり、…
◯針磨橋 往還を横ぎる惡水渠に架せる石橋にて、鎌倉十橋の一なり、此邊に昔針を製せしもの住せしより、名とすと云ふ、
◯日蓮袈裟掛松 往還の北方にあり、日蓮龍ノ口にて難に遭し時袈裟を此松に掛たりと云傳ふ、
◯十一人塚 海濱に出る道の左にあり、石の小碑を立り、里民傳へて新田義貞の勇士十一人討死せしを當所に埋め、十一面觀音堂を建たる蹟なりと云ふ、義貞の勇士十一人と云ふ其徴證を得ざれど古昔戰爭の地なればとにかく英魂を弔せしなるべし按ずるに…
坂之下村九十六
(二十八)
村名の起りを傳へざれど山麓の村落にて隣村極樂寺切通しの坂下は當村の聚落なり、されば村名に起れるなるべし、…三浦郡三崎浦賀よりの往還係れり、江島道と唱ふ幅二間、

※極楽寺切通について個別に言及した箇所はない。

長谷(はせ)九十六
(二十八)
三浦郡三崎・浦賀等よりの往還二條村内を通ず、一は江ノ島道神明町兵橋脇より左折して坂之下村に至る、幅凡四間より六間許に及ぶ、一は藤澤道なり幅二間半當村人馬の繼立をなせり東方、三浦郡小坪村へ一里、北方、藤澤宿へ二里を送る、
◯小名 △長谷小路入口十字街頭の左に塔あり塔ノ辻と云ふ、右に庚申塔あり △神明町 △新宿已上四所、皆往還中の小名なり、 △甘繩神明社邊より東の方、安達盛長が宅趾に至る迄を云ふ、 △深澤大佛の邊、都て此唱あり、 △桑谷大佛の西にあり、已上三所は、【東鑑】に往々見えて、舊き地名なり、 △愛染堂按ずるに、… △宿屋光則寺境内を云ふ △大谷 △小谷 △入地 △長者ヶ久保
◯稻瀨川 源は御輿ヶ嶽より出て南流し村内にて由井ヶ濱に會す、往古は水無の瀨川と云へり、【萬葉集】に…、此川に石橋を架す、兵ヶ橋と呼、鎌倉十橋の一なり、

※稲瀨川の項は特に引用の点数が多い。「万葉集」の他、「東鑑」「太平記」「梅松論」「夫木集」「東国紀行」「名所方角抄」の名が挙げられている。

大町村八十七
(十九)
◯小名 …△長谷小路下馬橋より、西方長谷村に達するの路次たるが故此唱あり、【東鑑】に武蔵大路と見えしは、卽此舊名なりとぞ、 …◯飢渇畠介加知婆多 西行橋の南路端にあり【鎌倉志】曰、此所昔より刑罰の所にて、今も罪人をさらし、斬戮する地なり、故に耕作をせず、飢渇畠と名づく…◯下馬橋 前[西行橋の下を流れる小流]の下流にて西の方置石道に出る所に架す長九尺、古昔は中下の別稱ありて二橋ありしとなり、今は是のみにて一は所在も詳ならず、…

※「下馬橋」に「中」と「下」があり、うち1つの所在が不明と書いているが、実際は次の雪下村の項に別の「下馬橋」が記されており、こちらが「中の下馬橋」を指す。大町村のうちに2本の「下馬橋」があると考えたために起きた取り違えか。

雪下村八十二
(十四)
民戸百四十五此内四十戸は、鶴岡社人を勤む、街衢に連住し、旅店を開き生業の資とする家多し、往還五條あり、人馬繼立をなす一は北方戸塚宿へ二里九町、一は西方藤澤宿へ二里餘、一は南方、三浦郡小坪村へ一里餘、一は西方、江ノ島へ二里餘、一は東方武州金澤へ二里餘
◯下馬橋 置石町の西の方小流に架す、橋邊に鶴岡の下馬牌あり、…

※「江島道」の道筋が雪下村の内にあったとは言い難いが、継立の起点となっていたことが記されているため、ここに書き加えた。また、雪下村の「下馬橋」は江島道に架かるものではないが、大町村の「下馬橋」の注を補完する意味で参考までにここに加えた。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は鎌倉郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「鎌倉郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。



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【史料集】「新編相模国風土記稿」鎌倉郡各村の街道の記述(その2)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」中の鎌倉郡の各村の街道の記述を一覧化しています。今回から、鎌倉郡図説で「鎌倉道」として取り上げられた道を順次取り上げます。

鎌倉郡図説には全部で5本の「鎌倉道」が記されています。この地にかつて幕府が置かれていた頃からの由緒が伝わる道筋も少なくない土地柄ですから、「風土記稿」の鎌倉道の記述もその裏付けとなる史料の引用がかなり多くなっています。また、江戸時代初期に編纂された「新編鎌倉志」も多々参照されており、こちらも必要に応じて引用されたり言及されたりしています。ただ、鎌倉郡図説に取り上げられた道筋がどの様な判断で選び取られたのかを考える上で、少なくともこうした由緒が最優先という訳ではなかった様です。もっとも、由緒以外にどの様な判断が働いたのかを、各村の記述との対比で明らかにするのはなかなか難しいというのが、各村の記述を一通り書き出して並べてみての感触です。


その「鎌倉道」最初に置かれているのは、藤沢宿の大鋸町から鎌倉・雪下を結ぶ道です。この道の上で継立が営まれていたことは、藤沢宿の継立先の中に「雪下村」の名前が見え、更に雪下村の継立先の記述にも藤沢宿の名前が見えていることで確認出来ます。


他方、藤沢からの継立としては長谷を経由する道がありました。以下の地図ではこの2つの道筋を収めましたが、どちらも大鋸町のかなり近い場所で東海道から分岐することがわかります。「鎌倉郡図説」ではこの道筋については言及していないため、以下の一覧では㈥としてまとめました。各村の記述でも触れていない箇所が多々見られますが、長谷村の継立の記述では藤沢宿が継立先として示されています。一方、藤沢宿の継立先からは長谷村の名前が漏れています。「風土記稿」ではこうした記述にも多少遺漏が見られるため、これも単に書き漏らした可能性が高いと思われますが、雪下も長谷も鎌倉方面への継立であるために見落としたか、より代表的な方面だけを書き記したのかも知れません。もっとも、双方とも途中の道幅が1間または6尺(どちらも約1.8m)と極めて細い箇所があり、これでは継立馬が通過するのもギリギリであったと思われ、すれ違いに難儀する程の交通量ではなかったものと推測されます。

三浦郡小坪方面から鎌倉を経由して藤沢まで、あるいはその逆を行く継立が、雪下と長谷のどちらを経由地として使っていたかはわかりません。ただ、以前江島道のまとめで触れた様に、鎌倉や江の島は江戸時代には参拝に訪れる大名やその奥方、あるいは公家や例幣使なども訪れることが多かったことを含めて考えると、この2つの継立場は経由地としてよりも最終目的地や出発地としての活用が多かったのかも知れません。


城廻付近の明治36年測図の地形図
該当する道は「城廻/城宿」と記した集落の南側を東西に経由する
「相模陣」と記された箇所を通る道(「今昔マップ on the web」より)
道筋についてはどちらも「迅速測図」を基本に、明治36年測図の地形図も参照して推定しています。これらから判断する限り、城廻村(現:鎌倉市城廻など)の「鎌倉道」は藤沢〜雪下の道筋からは北に隔たっており、村内を通過してはいないと思われます。しかしながら、この村の記述では別途「鎌倉古道」(これについては後日取り上げます)を記していることから、この村域に属する道のうちのどれを「鎌倉道」と称したものか、従ってどちらに向かう道筋を念頭に置いていたものか、判断が付かずにいます。このため、便宜上この道の一覧に入れてその旨を追記するに留めました。

以下の一覧や地図では大鋸町から鎌倉方面へ向かった時に先に登場する村の順に並べてありますが、笛田村(現:鎌倉市笛田など)は村域がかなり広く、実際は常盤村(現:鎌倉市常盤など)の南で長谷村と「大仏(おさらぎ)切通」で接しています。一覧や地図ではこうした位置関係については十分に表現出来ていない点は御了承下さい。


藤沢〜鎌倉間の2つの継立道:各村の位置
藤沢〜鎌倉間の2つの継立道:各村の位置
青の線が「鎌倉道㈠」(大鋸町〜雪下)、紫が「鎌倉道㈥」(大鋸町〜長谷)
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


街道「風土記稿」の説明
鎌倉道㈠ ※藤沢宿大鋸町

山之内
大鋸町百三
(三十五)
東海道の驛路南北に貫く幅四間餘又南方にて東に分るゝ岐路あり、鎌倉道と唱ふ、

※ここで指摘する「鎌倉道」が、常盤〜長谷の道を指す意図だったのか、それとも玉縄を経由する道を指すのか、どちらもこの記述の特徴に合うので一概には言い難い。

◯小名 △廣小路 △舟久保 △瑞光
柄澤村百四
(三十六)
鎌倉道東西に貫けり、
◯觀音坂 鎌倉道にあり登二町許
渡内村百四
(三十六)
鎌倉道村の西北に係る幅七尺より二間に至る古道は中程にあり、
◯小名 峯加藤三左衛門が采地の闔稱なり、
◯坂二 一は觀音坂本村峯渡内、兩分内にて、鎌倉道に在リ、登一町許幅七尺より二間に至る、一は二傳寺坂峯渡内の分内にて、城廻村に接せり、登幅ともに上に同、と呼べり、
(城廻(しろめぐり)村)百四
(三十六)
鎌倉道村内に係れり幅二間餘西方にある古道は鎌倉より武甲二州及び木曾への往還なりしと云ふ南方村岡鄕五村の地より、西方山谷新田に係り、東海道を横切東俣野村に至り、高座郡に達せしと云へり、

※少なくとも、大鋸町〜雪ノ下の継立道がかつての城廻村の村域を通っていた可能性は薄い。それとは別の「鎌倉道」を指している可能性もあるが、現時点ではどの道を指す意図であったか不明。

植木村百四
(三十六)
藤澤より鎌倉への往還、東西に貫く幅六尺許
岡本村百四
(三十六)
藤澤より鎌倉への道村内を通ず幅八尺より二間餘に至る、
◯小名 △番匠免【小田原役帳】に、… △平戸 △山居佐無幾餘 △飯島 △戸部宿玉繩城ありし頃の宿驛なりと傳ふ、 △戸部表 △東谷戸 △内越 △八段目 △峯ノ下 △土腐 △谷ノ坪
◯戸部川 柏尾川の下流なり、村の東界を流る幅八間より十二間に至る、鎌倉道の係る所なり、板橋を架す長十二間、小袋谷・臺等の村々にて修理す
臺村九十八
(三十)
藤澤より鎌倉への往還村の北方を通ず巾二間より四間に至る又戸塚より鎌倉への路、小袋谷村より入り巾六尺、村界にて前路に合す、
◯戸部川 西界を流る中十二間橋を架す、戸部橋と唱ふ長八間餘古は宮の修理に係る、今は當村・岡本・小袋谷三村の持なり、東隣山之内村より來たる一流小袋谷村界を流れ幅一間より三間に至る西方にて此川に注ぐ、
小袋谷村九十八
(三十)
戸塚より鎌倉への道、村の中央を通ず幅二間、

※以下、雪ノ下までの道は鎌倉道㈣参照。

◯戸部川 村西を流る幅八間餘橋を架す、戸部橋と唱ふ當村・臺・岡本三村の持にて、臺村に詳なり、
*鎌倉道㈥ ※藤沢大鋸町

長谷
大鋸町百三
(三十五)
東海道の驛路南北に貫く幅四間餘又南方にて東に分るゝ岐路あり、鎌倉道と唱ふ、

※鎌倉道㈠の同町の項参照。

◯小名 △廣小路 △舟久保 △瑞光
(彌勒寺村)百三
(三十五)

※村の西方、境川沿いをこの道が抜けている。この村については「村岡五ヶ村」の1つとして高谷村の項に四隣などが合わせて記されているが、当村の記述にも高谷村の記述にも、この道に関する記述は見当たらない。

(川名村)百五
(三十七)
江島道村内を貫けり幅三間、
◯戸部川 村の北界を流れ幅十間餘乾隅にて境川に會す、土橋を架せり長十五間

※この橋で戸部川を渡ったところで「江島道」と分かれて東へ向かう道が長谷への道だった筈だが、関連する記述は見当たらない。

(手廣村)百五
(三十七)

※街道に関する記述はない。

笛田村百五
(三十七)
鎌倉道乾方に係る幅六尺、
◯大佛切通於佐羅義幾利土保志 東方にあり登二十間許、坂上は長谷村の界なり、
常葉(ときは)百五
(三十七)
藤澤より鎌倉への往還村南を通ず大佛切通を經て、鎌倉に達す、幅一間許、
長谷(はせ)九十六
(二十八)
三浦郡三崎・浦賀等よりの往還二條村内を通ず、一は江ノ島道神明町兵橋脇より左折して坂之下村に至る、幅凡四間より六間許に及ぶ、一は藤澤道なり幅二間半當村人馬の繼立をなせり東方、三浦郡小坪村へ一里、北方、藤澤宿へ二里を送る、

※小名及び稻瀨川については鎌倉道㈡の長谷村の項参照のこと。

◯大佛坂 大佛の西にあり登四十五間、此地を大佛切通と唱ふ、

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は鎌倉郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「鎌倉郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。


今回は鎌倉郡図説の5本の「鎌倉道」のうち、実質的に1本しか取り上げていませんが、長くなりそうなので以降は次回に廻します。

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短信:グリフウィキの「筆画による漢字検索」が廃止されていました

以前「旧字体・難読漢字の検索」で紹介した「グリフウィキ」の「筆画による漢字検索」なのですが、今年の1月下旬頃に機能を廃止した様で、トップページからはリンクが消えていました。廃止についての具体的なアナウンスを見付けることは出来ませんでしたが、こちらに1月に機能を廃止したことへの言及があります(2016年1月22日(金) 18:26のkamichi氏のコメント)。現時点では上記の私の記事から張ったURLでは引き続き検索結果が表示されるのですが、恐らく内部の関連データの更新を止めていると考えられ、今後は正確な検索結果を表示しない可能性があるので、混乱を防ぐためにリンクをコメントアウトしました。

代替の機能としては、これも以前紹介しましたが、「字源.net」の「部品検索」がこれに近い機能を提供していると思いますので、今後はこちらを活用するのが良いでしょう。
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