2015年11月の記事一覧

大住郡の野菜・穀類について:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」の産物の一覧から、今回は大住郡の産物に取り上げられた野菜・穀類をまとめて取り上げます。

  • 山川編(卷之三):

    ◯西瓜大住郡平塚宿、上下大槻村に產す、

    ◯越瓜和名、志呂宇里◯大住郡小稻葉・平塚・上下大槻四村より出づ、

    ◯甘藷俗にさつまいもと稱す、大住郡八幡・平塚・上下大槻・中原上宿・南原等の村々より產するを佳品とす、

    ◯葱大住郡小稻葉村に產す、

    ◯戮豇和名、佐々計◯大住郡南原村より出づ、

  • 大住郡図説(卷之四十二 大住郡卷之一):

    ◯大麥上下大槻二村に播殖するを、最佳品とす、

    ◯戮豇佐々計◯南原村產、

    ◯葱小稻葉村產、

    ◯甘藷八幡・平塚・上下大槻・中原上宿・南原等の村々の產を佳品とす、

    ◯越瓜志呂宇里◯小稻葉・平塚・上下大槻四村產、

    ◯西瓜平塚宿、上下大槻村產、

(以下、「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より、適宜改行を挿入)


「風土記稿」大住郡の野菜・穀類の産地として登場する村
上記に登場する町村の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
山川編」と「大住郡図説」の記述では、「大麦」が「大住郡図説」にのみ記述されていて「山川編」にはないという違いはあるものの、それ以外の内容は実質的に同一のものとなっています。

正直なところ、これらの産品に関してはどう取り扱うべきか、「風土記稿」の産物を調べ始めた頃から私の中では頭の痛い課題の1つになっていました。当時何処でも作られていたと思われるこれらの産物が、相模国を代表する産物として「風土記稿」に取り上げられた理由が見つけられずにいるからです。多少地質面で産地が限られてくるものも含まれているとは言え、少なくとも、この地から産するこれらの産物が当時の世に広く知られる存在だったということではない様ですし、それ以外の観点から相模国の代表的な産物として賞賛される様な存在だったことを裏付ける史料も、これといって見当たらないのも事実です。

しかし、調べを進めていくうちに、どうやらこれらの産物についてはある共通の課題がある様に思えてきました。そこで、今回はまず個別にこれらの産物の江戸時代当時の実情がどうであったかを確認した上で、この課題についてまとめて考えてみたいと思います。

その前に、「風土記稿」のこの記述中に数回登場する「平塚」については少々解説が必要かも知れません。勿論これは、東海道の宿場町の1つであった平塚宿のことですが、そこがこれらの農産物の産地の1つに挙げられている点に多少違和感を感じる人もいるのではないかと思います。

「風土記稿」では平塚宿の範囲について

宿の廣袤、新宿を合て東西十九町五間餘、南北二十四町餘東、馬入村、巽、須賀村、南、海、西、淘綾郡高麗寺村、及大磯宿、乾、花水川に限、山下村、及郡内徳延村、北、中原上下宿、南原村、艮、八幡村、

(卷之四十八 大住郡卷之七より)

と書いています。隣接する村の数を見ても、意外に広い地域が平塚宿の範囲内にあり、南は海に面し、ほぼ東西に進む東海道に沿って宿場が伸びていたにも拘らず、むしろ南北の方が長い地域になっていたことがわかります。

江戸時代の平塚宿の領域
江戸時代の平塚宿の領域(概要)
青線は旧東海道
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャし、リサイズ
数値地図25000(土地条件)」を合成)
そこで、この範囲を大筋で「地理院地図」上で示してみたのが右の図です。平塚市博物館サイト内の「平塚・石仏めぐり-旧市内編- (4・旧平塚宿):旧平塚宿」に記されている

旧平塚宿というのは、現在の平塚一丁目・二丁目・三丁目・四丁目・五丁目、中里、桜ヶ丘、上平塚、達上ヶ丘、諏訪町、富士見町、豊原町、唐ヶ原、撫子原、黒部丘、花水台、虹ヶ浜、董平、桃浜町、龍上ヶ丘全域と立野町、追分、大原、見附町、錦町、八重咲町、松風町、袖ヶ浜のそれぞれの一部の範囲です。

という記述と同ページの地図を頼りに概要を描いただけですので、必ずしも正確なものはありませんが、概ねこの地域が平塚宿の領域であったと考えて下さい。平塚宿は公儀の継立を勤めるに当たって1万坪(約3.3ha)分の地子を免除されていましたが、それはこの領域の中から、ということになります。

平塚宿付近の迅速測図
東海道の南北に、松林に挟まれて畑が散在している
(「今昔マップ on the web」より)
また、先ほどの図では「土地条件図」を重ね合わせてみましたが、平塚宿の領域のかなりの範囲を「砂丘」が占めていることが良くわかります。これは後ほど同宿が産出していたとする各産物の性質を考える上では重要なポイントになると思います。こうした砂丘の多くは「御林」として松林にされている地域が多かったものの、全てが林に覆われていた訳ではなく、東西に伸びる砂丘に沿って御林の間に畑があったことが、明治初期の「迅速測図」でも確認出来ます。

江戸時代の平塚宿を描いた浮世絵は、専ら京方の縄手道の向こうに見える高麗山(歌川広重:「東海道五十三次」保永堂版など)か、馬入の渡し(同:狂歌入東海道など)を描くものばかりでしたから、東海道の南や北に展開する御林や畑のイメージがあまりありませんが、実際はその領域の内部に少なからず林や畑を抱えていたことは、念頭に置いておいた方が良いでしょう。

1.大麦


「大麦」については「山川編」に唯一取り上げられませんでしたが、ここで名前の上がった上大槻村・下大槻村(現:秦野市上大槻・下大槻)の記述には含まれています。

  • 上大槻村(卷之四十九 大住郡卷之八):

    當村に播殖する大麥は、他に勝れて佳品なり、

  • 下大槻村(同上):

    當村の大麥も佳品なり、



上大槻・下大槻の位置(「地理院地図」より)
この2村は金目川と支流の水無川などが合流して秦野盆地から流出する「切れ目」の谷間に位置しており、上流側が上大槻、下流側が下大槻という位置関係になっています。

その2村で産出する大麦の質が良かったとしている訳ですが、大麦自体は当時どこの村でも作付けるものでした。江戸時代初期の農書である「農業全書」では次の様な表現で、稲作の終わった後に植えて田植えの前に収穫できる大麦を、稲の次に重点的に作付けるべき穀物と評していました。つまり、大麦は稲について「主食」と位置付けられる穀物であった訳です。

麦ハ秋うへて夏熟す。四時(しいし)しき>の気をうく。旧穀<こぞめのこめ>のつくる時いできて、民の食をたすけつぎ、新穀の出来る時に至る。されば稲に次で、五穀の中にて貴き物なり。此ゆへに、聖人是を重んじ、春秋にも稲と麦との損毛をバ書させ給へり。実に近世静謐にて、人民多くなりぬ、麦作のつとめ疎かならバ、食物乏しかるべきに、都鄙是を作る事専なるゆへ、麦の多きこと甚いにしへに勝れり。されバ今民のやしなひの助となる事、是に続く物なし。実にめでたき穀物なり。

(「日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 151〜152ページより、ルビ・注は一部を除き省略)


本草図譜巻四十「大麦」
「本草図譜」より大麦
複数の品種が描き分けられている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
梅園草木花譜夏之部巻2「大麦」
「梅園草木花譜」より「大麦」(右)
訓は「ふとむぎ」と記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

そして、この後かなりの紙数を割いて麦の作付に適した地味や播種から収穫までの手順について解説しています。因みに当時は「麦」とだけ書いている場合は基本的に「大麦」のことを指すことが多く、「農業全書」でも「大麦」のことを基本的に「麦」と書いており(但し裸麦についても麦の項で言及しています)、「小麦」については「小麦を種る事。地のこしらへ、其外大麦にかはることなし。(166ページ)」として「大麦」との栽培法の異なる部分を重点的に書き記しており、結果的に「大麦」の数分の1の文量で収まっています。「大和本草」でも大麦については「麦」とだけ記しており、

麥は五穀の中稻につぎて最民食を助く殊に夏の未舊穀の盡る時民の飢を救ふ民用に甚利あり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、カタカナをひらがなに置き換え)

と、「農業全書」とほぼ同様の指摘をしています。

産品全国相模国
大麦 (石)5,035,709.675138,835.277
小麦 (石)1,645,111.56356,350.942
裸麦 (石)2,205,252.1647,318.797
小麦/大麦比 (%)32.6740.59

※「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」より、全国相模国の該当項目を抜粋。

※産品名は現代の表記に置き換え。

※小麦/大麦比は小数点下第3位で四捨五入。

実際、当時の各種文書では大麦が小麦よりも多く栽培されていたことを示すものが多数存在しています。その全貌を俯瞰できるものとしては江戸時代が終わって間もない明治9年(1876年)の「全国農産表」が良いでしょうか。左にその中から全国と相模国の大麦・小麦・裸麦の生産量を書き出してみました。全国では小麦の生産量は大麦はおろか裸麦の生産量にも及んでいなかったことがわかります。相模国では「相州小麦」の名で呼ばれるほどに小麦が名産で、そのことを反映してか小麦の生産量の比率が全国に比して高くなっており、その分特に裸麦の生産が僅かなものになっていますが、それでも小麦の生産量は大麦の生産量の4割程度に留まっています。無論、この比率が江戸時代を通じて不変のものであったという訳ではありませんが、基本的には大麦の生産量が小麦を下回ることはなかったのではないかと考えられます。

これは、大麦は基本的にそのまま炊いて食するのに対して、小麦の方は基本的に製粉などの行程を経て加工する必要があった点が大きい様です。「本草綱目啓蒙」でも「小麦」について「小麥は飯に炊かず只磨して麵となす」と記し、そこに手書きで「能登には飯に炊くなり」と補注が記されているのに対して(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)、大麦については「苗小麥より大にして其米は專ら飯に炊き又麫となすべし」(同上)と、その調理法の違いを書いています。なお、「本草綱目啓蒙」では大麦・小麦それぞれについて、各地の呼称の違いを書き上げていますが、それらの地名の中には「相州」に関するものは含まれていません。

その他、江戸時代に記されたもので相州の大麦に良品があることを明記したものは、探した範囲では見つけることは出来ませんでした。例によって明治10年「第1回内国勧業博覧会」の出品目録で相模国域から出品された大麦を確認すると、鎌倉郡の平戸村(現:横浜市戸塚区平戸)と大町村(現:鎌倉市大町)、足柄下郡小竹村(現:小田原市小竹他)とともに、大住郡からは南矢名村(現:秦野市南矢名)の名前はありますが、上大槻・下大槻村の名前はありません。「秦野市史」でも

『風土記稿』の土産の項にのせるたばこ以外の作物名は上・下大槻村に大麦・甘藷・越瓜・西瓜の名がみえるが、これらは村方に残る史料で確認することはできない。

(「秦野市史 通史3 近代」112ページより)

としており、「風土記稿」がどの様な根拠でこの様な記述に及んだのか、確認する術が今のところ存在しないのが実情です。

これ以外の作物については次回以降に見ていきます。

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寛政3年・江戸←→鎌倉間の「遠馬・遠足」

今回は「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」に収録された、ちょっと毛色の変わった2本の史料を気楽に紹介します(以下、ページ数のみの引用は何れも同書より)。

この2本の史料とは、松浦静山の「甲子夜話(かっしやわ)」と、山田桂翁と名乗る著者(正体は不詳)の「宝暦現来集(ほうれきげんらいしゅう)」からのもので、何れも寛政3年(1791年)に行われた「遠馬」ならびに「遠足」のことが記されています。同じ催し物の史料を2本「鎌倉市史」に採録した理由について、巻末の解説では双方に記された人物名に一部齟齬があり、どちらが正であるかを判別できなかったことを挙げています。ただ、どちらかと言うと「甲子夜話」の方が事前の準備のための触書が記されているのに対して「宝暦現来集」の方が結果についての記録が厚めなので、その点でも両者が採録されたことで当時の事情がよりわかりやすくなったと思います。


今「遠足」と書くと、小学校の児童たちがお出かけするイメージですが、この時の「遠馬」「遠足」は勿論その様なお気楽なものではありませんでした。「甲子夜話」では

一亥三月遠足遠馬左之通御鷹匠御鳥見え被仰付五日明七時吹上え相廻り七時半出立。

(215ページより)

と記し、同年の3月5日(グレゴリオ暦4月7日)の明け七時、つまり現在の時刻にして午前4時頃に江戸城内の吹上御苑をスタートしたことが記されています。なお、「宝暦現来集」では出発時刻を「明七ツ時三分」としていますので、現在の時刻にすると4時半頃に出発したことになります。

まず、この遠馬・遠足の距離を確認します。「甲子夜話」はそのルートについて

路程、自江都日本橋相州鶴岡十二里、又自日本橋大城大手御門十五丁、拠之往還二十五里。

(216ページより)

と注記しており、吹上御苑から日本橋に移動し、そこから鎌倉へと向かった様に書いています。復路でも日本橋から大手門を経て戻ったとしていますから、ほぼ同じルートを往復したものと思われます。


参考:大手門前から日本橋までのルート
Googleマップによる:
当時の距離を正確に算出したものではない)
「甲子夜話」は大手門から日本橋までの距離を「十五丁」と記しています。実際、現在の大手門から日本橋までの距離を地図上で測図すると1.5kmほどあり、記述とほぼ合うと考えられます。もっとも、江戸城の西側に位置する吹上御苑までが更に1kmほどもありますから、御苑から日本橋までの往復だけでも5km近くの距離があることになります。

そして東海道を日本橋から戸塚へ進み、そこから鎌倉道を進むことになります。戸塚の鎌倉への分岐は江戸方の吉田大橋の脇と、京方の八坂神社前の2箇所があり、以前紹介した「浦賀道見取絵図」では後者の道筋が描いてありましたが、「甲子夜話」に転記された触書には

東海道:日本橋から戸塚・吉田大橋手前まで
吉田大橋脇から柏尾川沿いの鎌倉道
柏尾川の改修前はもう少し蛇行していた

戸塚・八坂神社前から鎌倉・下馬までの
鎌倉道
左記の10kmはこのルート中から
該当区間を計測

一戸塚宿中有之候板橋際より左え入、鎌倉道御通行に候。戸塚より先き野道横道えは縄張致し置、往来は相通じ可申候事

(217ページより)

という一文が入っていますから、この遠馬・遠足では前者の道筋が採られたことになります。まぁ、この場合は宿場に用がある訳ではないので、わざわざ柏尾川を2度も渡って迂回するコースを採る必要もなかったでしょう。日本橋からこの吉田大橋の手前まで、現道上で測図すると約43km、吉田大橋の分岐から八坂神社からの道が合流するまでが約1.4kmほどあります。

鎌倉道は鎌倉八幡宮の北西の巨福呂坂切通を経て鎌倉入りすることになります。鶴岡八幡宮が折り返し点とされているものの、「甲子夜話」に採録された触書に

一雪之下にて御支度所之儀、御本陣大石平左衛門方え被仰付畏候。尤被召上物之儀は御銘々様より御持参被成侯に付、御末々迄御支度之品差出に不及候旨被仰付一奉畏候。勿論粗末之儀無之様に仕、御買物等所直段を以差出、諸事念を入御宿可仕旨被仰渡畏候事

(217〜218ページ)

とあることから、実際は雪ノ下の大石本陣まで南下していた様です。八幡宮の前から大石本陣までは270mほど隔たっています。これも現道上で測図すると、大石本陣の前までで約10kmあります。日本橋からの通算では54.4km、往復では108.8kmほどの距離になります。「甲子夜話」の「二十五里」は、その点では寧ろ控え目に見積もられた距離ということになりそうです。

この大石本陣で各人が持参した昼食を摂ってから復路に出発するということですから、本陣で多少一息ついたのでしょう。もっとも、競争相手がいることですからあまりゆっくりとはしていられなかったと思います。

「宝暦現来集」の方には遠馬に参加した8名の御馬方の名前と順位が記されているものの、「甲子夜話」も「宝暦現来集」も、遠馬の帰り着いた時刻については記していません。一方、遠足については双方の史料ともにもう少し仔細な記述が見られ、2人の著者の興味関心の主眼がどちらも遠足の方にあったことが窺えます。もっとも、「甲子夜話」の方は最初に帰り着いた人の名を「御鷹匠頭戸田五助組同心見習」の「戸川喜兵衛」とし、到着時刻を「七半三分」と記すのに対し、「宝暦現来集」は肩書は同じく「御鷹匠戸田五介組」の「市川喜兵衛」、吹上御苑に到着した時刻を「七ツ時七分」としているなど、双方の記述に幾らか食い違いが見えます。何れにせよ、現在の時刻に直すと午後5時過ぎ頃には江戸城に帰り着いたことになります。大石本陣での休憩時間や渡し場での停止時間などを勘案する必要がありますが、トータルで13時間ほどで江戸城←→鎌倉間の100km余りの距離を歩き切ったことになります。

一般的には、江戸日本橋を早朝に発って東海道を進んだ場合、初日の宿が保土ヶ谷か戸塚辺りになるのが当時の一般的な旅程でした。その倍以上の距離を1日で完歩した訳ですから、これはかなりの早足です。単純計算では8km/h弱の平均速度になりますが、これは途中の休憩時間等を除外していませんし、東海道には途中に権太坂や焼餅坂、信濃坂があり、鎌倉道も巨福呂坂切通などの上り下りがありますから、実際は平野部ではもう少し早く歩いていたでしょう。現在の100kmマラソンの記録ではこの倍くらいの速度で完走していますが、無論当時とはあらゆる点で条件が異なりますから、一概な比較は出来ません。

この時の歩行スタイルはあるいはジョギングに近かったのかも知れませんが、どの様なものだったのかはわかりません。ともあれ、最初に到着した喜兵衛について、「宝暦現来集」は

当日吹上御庭へ公方様被成侯に付、吹上へ罷帰、於広芝に道中歩行之体を上覧有之、御小納戸頭取亀井駿河(清容)守殿御達し、元馬場において、御酒肴御湯漬被之。

(219〜220ページより)

と記しており、その歩き振りを帰着後に将軍(家斉)の前で披露してみせたとしています。また、上位の者には褒美として酒や湯漬けを振る舞われたことが記されています。

この時には上記の喜兵衛の他、「宝暦現来集」の記すところでは全部で9人がこの遠足に臨み、うち喜兵衛を含む6名が刻限までに江戸城に帰り着いています。「宝暦現来集」の9人のうち、下位3名については品川宿への到着時刻は記されているものの、江戸城への帰還時刻は「不相知」としていますので、あるいはこの3人は完歩出来なかったのかも知れません。上位5人は年齢的には25〜30歳と「甲子夜話」は記していますが、何れも「御鳥見」や「御鷹匠」で、普段から鷹場などを歩いていて健脚が必要だった役職の人が遠足の参加を命じられた様です。

なお、上記の「甲子夜話」の引用中にも「野道横道えは縄張致し置」とあり、コースオフしてしまわない様に予め策が講じられていたことがわかりますが、それ以外にも沿道の各村々には馬のための水飲み場の用意、遠馬・遠足は右側を通行するため荷駄は左側を通行すること、道や橋の荒れている場所は出来るだけ普請を行い、支障のありそうな箇所では竹に赤紙を付けて目立つようにすることなどが、各村々への触書で指示されています。また、特に気になるのが当時橋がなかった六郷の渡しですが、

一六郷渡場にて船遅滞無之様、宿役人共出居、御渡船随分大切に致可申事

(217ページより)

と、可能な限り遅れのない様に配慮をすることが求められています。こうした触書が、遠馬・遠足の1ヶ月ほど前の2月10日付けで、沿道の各宿場・村々だけではなく、品川の長徳寺・妙国寺・海雲寺、鎌倉の建長寺といった、幕府の御朱印を受けていた沿道の寺にまで回覧されて、それぞれの域内の街道の準備に当たらせていたことがわかります。また、触書を出した翌日には役人が巡回して指示するという周到振りで、この遠馬・遠足がなかなか大掛かりに行われたことが窺えます。


解説によれば、こうした遠馬・遠足は川崎大師辺りまでの間ではしばしば行われていたものの、流石に鎌倉までの長距離のものは珍しかったので、「甲子夜話」や「宝暦現来集」の様な記録が残ったのだろうとしています(600ページ)。日本橋から川崎大師までですと、片道20kmあまりの距離がありますので、往復では現在のマラソンの距離に近いコースでしばしば健脚を競っていたことになるのでしょう。こうした記録が見つかったらまた紹介してみたいと思います。

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「歴史的農業環境閲覧システム」→「今昔マップ on the web」への切り替えについて

前回までの記事にお見舞いのコメントを多数戴きまして誠にありがとうございます。昨日辺りからリハビリがてらに過去の記事のメンテナンス作業を行っていますが、その点に関連してメモを残します。

このブログを書き始めた頃には「歴史的農業環境閲覧システム」による「迅速測図」の公開は始まっていました。このシステムは「迅速測図」上の該当箇所の直リンクを取得することは可能です(画面右下の「Permalink」をクリックするとブラウザのURLに直リンクが反映する)が、Webサイトに埋め込む形で表示することは出来ないので、私のブログでも当初の記事は直リンクを置いておくに留めていました。

その後「今昔マップ on the web」(以下「今昔マップ」)が登場し、やがて地図をWebに埋め込むことが出来る様になりましたが、その時点ではまだ「迅速測図」は表示できる地図の中に入っていませんでした。このため、私のブログでは明治期の中頃から後期にかけての地形図で間に合うものは「今昔マップ」を使い、「迅速測図」が必要な物は「歴史的農業環境閲覧システム」を利用するという使い分けを行う様になりました。

「今昔マップ on the web」地図選択プルダウンメニュー
最近になって「今昔マップ」が「迅速測図」も表示させる様になりました。但し、他の地形図とは扱いが異なり、右の様にGoogleマップなど他のサービスから提供される地図を選択するプルダウンメニューの中に収められていています。これは恐らく、「今昔マップ」が「歴史的農業環境閲覧システム」のAPIを利用していることと、「迅速測図」自体がその後の一連の地形図に比べて簡素な測量に基づいて作図されているために、誤差が比較的大きく、正確に地形図と重ねあわせるのが難しいことによると思います。ただ何れにせよ、これによって「今昔マップ」を使って「迅速測図」をWebサイトに埋め込んで表示させることが出来る様になったので、最近の記事で何度かこの方法で「迅速測図」を記事中に埋め込む、ということを行いました。

今回のメンテナンスでは、過去の記事中で「歴史的農業環境閲覧システム」へのリンクを置いてあった箇所を、「今昔マップ」を埋め込む地図で置き換える、という作業を行っています。それには「歴史的農業環境閲覧システム」のリンク先に該当する箇所を「今昔マップ」上で探し出さなければなりません。「検索」キーに住所を指定すれば比較的早く該当箇所を見つけられるので、それほど煩雑な作業が必要になる訳ではありませんが、折角「歴史的農業環境閲覧システム」のリンクが既にあるのであれば、多少なりともこれを活用したいところです。あまり需要のある手順だとは思いませんが、こういうやり方もある、というところを書いておきます。労力的には…住所がある程度わかっているのであれば、さほど変わらないと思います(笑)。

  1. 「歴史的農業環境閲覧システム」のリンクを開く
  2. 「今昔マップ」を開き、適切な「データセット」を選択する
  3. 「歴史的農業環境閲覧システム」のURL
    「歴史的農業環境閲覧システム」のURL中から「lat=」パラメータを探し、その数値をコピーする。ここには緯度が入っている
  4. 「今昔マップ-on-the-web」のURL
    「今昔マップ」のURL中の「lat=」パラメータを探し、その数値に3.でコピーした数値をペーストして置き換える
  5. 再び「歴史的農業環境閲覧システム」のURL中から「lon=」パラメータを探し、その数値をコピーする。ここには経度が入っている
  6. 「今昔マップ」のURL中の「lng=」パラメータを探し、その数値に5.でコピーした数値をペーストして置き換え、Enterを押下してアクセスさせる

要するに、「歴史的農業環境閲覧システム」のURL中に含まれている経緯度のパラメータをコピーして「今昔マップ」のURLに反映させれば、同じ場所を表示させることが出来るという訳です。

あとは、上記の地図選択プルダウンメニューから「明治期迅速測図」を選択し、地図の「不透明度」を「0%」に設定すれば、該当箇所の「迅速測図」が表示されます。地図の中心に表示させたい場所が来る様に調整した上で、「共有」ボタンをクリックすると、別画面で「リンクURL」と「埋め込みコード」が表示されます。「標高」(地形のエンボス図がオーバーレイ表示される)の「不透明度」も、「迅速測図」をメインに表示させるのであれば「0%」に設定した方が良いでしょう。

なお、「埋め込みコード」中の「width=」パラメータと「height=」パラメータの数値を変更すれば、埋め込む地図のサイズを変更することが可能ですが、ある程度サイズを絞る場合は表示させたい領域が収まるかどうかを念頭に置いて、ズームや表示位置を決める必要があります。特にブログの場合は記事領域の横幅があまり広くないことが多い(私のブログの場合700ピクセル)ので、どうしても埋め込む地図のサイズは小さくなりがちです。単体で地図を見ている時には画面を目一杯使って見ているため、そこで十分ディテールが見えるズームのまま「埋め込みコード」を取得してしまうと、埋め込む地図ではフレームアウトしてしまうことになります。

埋め込み地図では大きさが充分ではないケースが多いので、私のブログで「今昔マップ」を埋め込む際には、別途同じ地図へのリンクも置いておき、より大きな画面で見たい場合に使える様にしています。上記の地図はこの記事のもので、作業中にスクリーンキャプチャを取得したものです。因みに、今回の修正前の箇所はHTML上でコメント化して除外してありますので、興味のある方はソースを覗いてみて下さい。あまり綺麗なソースではありませんが…。
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短信:体調は大分戻りました

前回私自身の体調の不調をお伝えしましたが、現在は大分戻りました。その間記事執筆の方はあまり捗らなかったので、予告通り本日はお休みとさせて下さい(いつの間にか3日に1回程度の掲載ペースを続けていましたが)。

ご心配をおかけいたしました。お見舞いのコメントを頂いた皆様には感謝致します。
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短信:パソコンは復旧しましたが…

前回の記事のP.S.に書いたパソコンの起動ディスククラッシュは、辛うじてバックアップからの復旧にほぼ成功し、昨晩から再びパソコンを使える状態になりました。皆さんのブログへのアクセスも再開しています。

ただ、機を同じくしてブログ主自身の体調が思わしくなくなってしまいました。次回の記事は多少先になるかも知れません。ご了承下さい。
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