2015年10月の記事一覧

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アーネスト・サトウ「明治日本旅行案内」鎌倉の記述から

先日浦賀の水飴を取り上げた際に、アーネスト・メイスン・サトウ(Ernest Mason Satow)らの編纂した「A Handbook for Travellers in Central and Northern Japan(邦題;『明治日本旅行案内』、1884年)」を少し引用しました。今回はこの本から、以前書いた記事との関係で、鎌倉の景観についての記述の中で少し気になる箇所をメモ書き程度に取り上げます。

YoungSatow.jpg
1869年パリで撮影された
アーネスト・サトウのポートレート
この頃一旦日本を離れているが
すぐに再来日して長期間滞在した
("YoungSatow".
Licensed under パブリック・ドメイン
via Wikimedia Commons.)
この本は来日した外国人向けのガイドブックとして企画されたもので、初版の時点では原題に示されている通り日本の中央部と東北が取り上げられていました。その後の改訂で他の地域の観光ルートも追加され、最終的にはほぼ全国を網羅するまでに拡大されています。

この本の初版は、横浜で外国人向けの辞書などを出版販売していた「Kelly & Co.」から明治14年(1881年)に上梓されました。今回引用に使用した東洋文庫版の「東京近郊編」が底本としたのはその3年後の明治17年の改訂版です。本書の解説によれば、アーネスト・サトウが日本に滞在した期間は幕末の文久2年(1862年)からと、かなり長期にわたっています。実際に日本国内を周遊する様になったのは明治3年(1870年)頃からである様ですが、それでも初版の出版年までは11年、改訂版の出版までは14年の隔たりがあります。特にこの十数年は道路や景観の事情が大きく変わり始めた時期で、実際わずか3年で改訂版が出版されたのは、そうした変化に少しでも追随する意図であったことが初版の序文から読み取れます。ただ、この本では各地域を何時訪れたかについての記述は省かれているため、その間の変化を追う必要がある場合には、この本の記述だけでは十分ではないということになります。


A Handbook for Travellers in Central and Northern Japan
改訂版扉ページ
(Googleブックスより)
「浦賀の水飴」の場合は事業の継続が確認出来れば良かったので、基本的には出版年を確認出来ればそれほどの問題はありませんでした。しかし、ある時期の事象の変化を追いたい場合には出版年ではなく、その事象を確認した時期が問題になります。その点では、文中で確認した時期が明記されない書物は、その時期をどう考えるべきか迷うことになります。

例えば、鎌倉宮(大塔宮)については

鎌倉に至る直前で道は右に折れ野原を横切って、十二年前大塔宮(おおとうのみや)を祀って建立された神社へと通じる。

(「明治日本旅行案内 東京近郊編」庄田元男訳 2008年 平凡社東洋文庫776 167ページより、強調はブログ主、以下同じ)

と書いています。明治天皇の命によって鎌倉宮が造成されたのが明治2年、それから12年ということは、初版の出版年である明治14年を意識してこの箇所を記述していることになります。言い方を変えると、彼らが現地で見てきたのが何年のことかについて、ここでは意図的に捨象されているということです。ちなみに、石上の渡しが山本橋に切り替えられたのは明治6年のことですが、サトウは

江ノ島から片瀬を経て東海道沿いの藤沢へは距離にして一里九町ある。大磯に向かう場合には、中ほどにある川に架かる山本橋で左に分岐する小道に入ると、藤沢のかなり西側の東海道に出て一マイルは充分に短縮できる。

(192ページより)

とこの橋の名前を記していますので、少なくとも鎌倉・江の島の一帯に訪れたのはそれ以降ということになります。ただ、これだけではまだ以下の話では時期の特定には十分ではありません。

鎌倉の農地の様子については、以前取り上げた明治9年の「鎌倉紀行」(平野栄著)で、小麦やスイカが栽培されていたことを記していました。これに対して、「明治日本旅行案内」では長谷観音からの景観として

御堂の前面にある舞台からは、海岸線を三崎方面に向かう風景と鎌倉平野にひろがるとうもろこし畑を見晴らすことができる。

(183ページより)

と書いています。この「とうもろこし畑」が果たして「鎌倉紀行」と近い時期のことかどうかで解釈が変わってしまいます。比較的古い時期にこの様子を見ていたのであれば、トウモロコシが麦やスイカと一緒に輪作されていたと見ることになるでしょう。それに対して、明治10年から出版年の14年までの間のことであれば、「鎌倉紀行」以降に作物がトウモロコシへと切り替えられた、という解釈も出来ます。

また、七里ヶ浜の様子については明治23年(1890年)のラフカディオ・ハーン「江の島行脚」を以前紹介し、この頃には人力車が通れる道が崖下に切り開かれ、砂浜を行く江戸時代の様子とは異なる景観になっていたことを指摘しました。他方で「鎌倉紀行」ではまだ江戸時代同様に砂浜を行く道筋であったことを、前年の明治8年の「武甲相州回歴日誌」(織田完之著)と共に紹介しています。

これらに対して、「明治日本旅行案内」では

極楽寺坂の頂部の左手に位置するこの御堂にはいくつか興味深い古物が蔵されており、その中には頼朝自身が彫ったといわれている彼の木像がある。また文覚(もんがく)が自ら大包丁で彫った雑な自分の像、竹の繊維で編んだぼろぼろで色あせた平家の赤い(のぼり)、頼朝の刺繍入りの「陣羽織」、盛装した八幡が描かれた紗[弘法大師の作というのは誤り]などが見られる。極楽寺は元来塔屋、鐘楼、転輪蔵等を有する大きな寺で十三世紀に創設された。その奥に北条時政の屋敷があった。「本堂」の本尊は釈迦で、寺の蔵する宝物の中には三つの頭を持つ大黒、小さな不動がある。これは紅玉髄でできているといわれるが、実のところは朱の漆が塗られた大変古い木像だ。精巧な真鍮製の鈴一つと五鈷が二つ、義貞の陣太鼓、彼の側近の一人が使用していた鞍などがあり、また十二世紀の作である黒と赤の漆塗りの木製能面が二つある。

二〇〇ヤード先で道は砂浜に出る。「俥」は使えないが波が低いときは徒歩が気持ちよい。このあたりで富士が江ノ島のこんもりとした森の背後に唐突に姿をあらわす。ここの砂浜は七里ヶ浜と呼ばれ、昔は一里は六町あるとされていた〔つまり七里は四二町となるのだが、この長さは現在の一里、すなわち三六町を少々上まわる距離でしかないという意味〕。

(185〜186ページより)

と記しており、まだ七里ヶ浜を人力車で通り抜けるための道は整備されていなかったことになっています。これが明治9年以前であれば単に「鎌倉紀行」などの記述を裏付けているのみということになります。それに対して、明治14年近くに七里ヶ浜を訪れた時にも砂浜を行く道であったとすれば、この区間の道路開発はそれよりも後だったことになってきます。更に、改訂版の明治17年までの間にも再度ここを訪れて確認しているのであれば、明治23年にこの地を人力車で通り抜けたハーンが見た道は、まだ開通してからそれほど年数が経っていなかったことになってきます。


「新田十一人塚」の位置(地図中央の記念碑記号)
(「地理院地図」より)
なお、ここで極楽寺から砂浜まで「200ヤード」、つまり約190mと書いているのは何かを取り違えた可能性が高いと思います。極楽寺の門前からですと稲村ヶ崎までは約1kmもありますので、とても誤差の範囲では収まりません。砂浜から約150m進むと「新田十一人塚」の前に来ますので、あるいはこの距離を取り違えて記しているのかも知れません。


また、ここで「極楽寺坂の頂部の左手に位置するこの御堂」と書いているのは、このガイドが長谷から江の島方面に向かう視点で書かれていることを考え合わせると妙です。極楽寺はこの方向で進んできた場合は、右手に位置することになる筈だからです。文覚像(恐らく荒行像)のことを書いていることと考え合わせると、この記述も極楽寺だけではなく成就院の話が混ざっている様に思われますが、そうすると成就院のある辺りに極楽寺坂の頂上があったことになります。この坂の頂点が「江島道見取絵図」で描かれている位置と現在とでは変わっていることを、以前この見取絵図を追った際に指摘しましたが、サトウがここを訪れた頃にはまだ坂の頂上が見取絵図と同じか、それに近い位置にあったことになってきます。史料として考えるには読み替え操作が必要になるのが弱い点ですが、それでも極楽寺坂の景観の推移を考える上でのヒントの1つにはなりそうです。

アーネスト・サトウの書き残した手記があれば、もう少しこの辺りの問題を絞り込むのに使えるかも知れません。実際、彼の日記の一部が翻訳されて出版されている様ですので、この付近を旅した際の記録がないか、探してみることが出来そうです。その辺りは後日の課題ということで残しておきたいと思います。

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短信:リンク集に1件追加しました

リンク集の「参考資料」に「江戸時代紀行文集/奈良女子大学学術情報センター」を追加しました。

江戸時代の道中記・紀行文の翻刻は、一部の有名なもの以外はあまり多いとは言えず、地誌・郷土史の史料としては各市町史の資料編や「藤沢市史料集」の様な出版物に収められた抜粋の他は、「神奈川県郷土資料集成」に収められた紀行文集(第6・7集)の様な限られた出版物がある程度です。特に地誌の検討に使う場合は出来るだけ多くの点数の紀行文・道中記を確認したいところですが、現状ではあまりその様な出版物が見当たらないのが現状です。その点で、こうした紀行文集がまとめて公開されているサイトは貴重です。

今回見つけた「江戸時代紀行文集」には、現時点で24点の紀行文が収録されています。このうち相模国を通過する経路を経ているのは
  • 「杉田日記」(文化4年・1807年)
  • 「中空日記」(文政元年・1818年)
  • 「白雲日記」(慶応4/明治元年・1868年)
  • 「庚子道の記」(享保5年・1720年)
  • 「富士日記」(寛政二年・1790年)
  • 「ふじ日記」(天保十四年・1843年)
が該当します。掲載されているのは影印が基本ですが、一部は翻刻したテキストが添えられており、比較的容易に対照出来る様に工夫されています。

ちなみに、「白雲日記」は影印のみですが、「国立国会図書館デジタルコレクション」に翻刻本が公開されています。但し、この翻刻本には挿画が含まれていませんので、両者を対照しながら読むのが良いでしょう。また、「杉田日記」は上記の「神奈川県郷土資料集成」第6集にも採録されています。

機会があれば、これらの紀行文について本ブログでも取り上げてみたいと考えています。

P.S. 表からは見え難いところですが、ブログのテンプレートに一部手を入れました。

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浦賀の水飴について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」に記された産物の中から、浦賀の水飴を取り上げます。今回は江戸時代に戻って、史料を数点取り上げます。

江戸時代の飴について、「和漢三才図会」は次の様に記しています。

本綱飴(モヤシ)諸米熬煎シテ而成古-人寒食多食惟以糯-米者入濕飴(シルアメ)ニシテ厚蜜色紫ニシテスルニ琥珀膠飴其乾枯牽白ナル(アメ)

膠飴(ヂワウセン)甘大温 補虛冷氣力腸鳴咽痛吐血脾弱シテ

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、送り仮名を上付き文字で、返り点を下付き文字で表現)


和漢三才図会105巻「飴」
「和漢三才図会」飴の項
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
前半に「麦のモヤシ」とあるのは麦芽のことです。これを蒸した米に加えて水分がなくなるまで煮詰めて作ることを書いています。うるち米から作った飴は薬用となり、食欲増進などに効果があることが後半に書かれています。この後により詳細な製法が記されていますが、その部分は省略しました。

「大和本草」には「飴」に関する項はありませんが、「麥芽」の項にうるち米を飴にする力があることを記しています。「本草綱目啓蒙」の「飴餹」は名称についての記述に留まっていますが、「西国/東国」といった書き方からは、当時水飴の産地が全国的に存在していたことが窺えます。例えば、「慊堂日暦」の天保3年(1832年)6月5日の記述には

水飴(粟水飴と云う)は絶品なり、越後高田春日町高橋氏製、江戸東両国尾上町秩父屋文吉売る。

(「慊堂日暦3」山田 琢 訳注 1973年 平凡社東洋文庫237 257ページより)

と、越後の水飴が江戸に送られて販売されていたことが記されています。

他方、「風土記稿」以外に浦賀の水飴について記したものは乏しく、例えば東浦賀には多数の村明細帳が残っているにも拘らず、それらの中で「水飴」の名を見ることはありません。また、「三浦古尋録」という、西浦賀の加藤山寿が文化9年(1812年)に著した地誌でも、彼にとっては地元である浦賀の項ではその産品については触れた記述がありません。この地誌については以前高円坊村の「鼠大根」を取り上げた際に引用を紹介していますが、三崎の水仙についても僅かながら記述はありましたので、山寿にはその土地の名産については取り上げる意思があったと見られるにも拘らず、浦賀の水飴については素通りしたことになります。

地元の史料に期待出来ないとなると、紀行文など別の土地に伝わる史料を探すことになります。ただ、浦賀は金沢の様には風光明媚に惹かれて訪れる客を望める土地でもありませんでしたから、その点でも登場する機会はあまり多くありません。「三浦半島の文化第二号」によれば、美濃国郡上藩士であった山崎正準(治右衛門)の「浦賀日記」(安政3年・1856年)に、浦賀に立ち寄った際に水飴を誂えたことが記されているとのことですが私は未見です(岐阜県図書館による翻刻が存在する様です)。この場合は船で浦賀に入港していますので、どちらかと言うと陸路よりも海路を経た紀行の方が期待が持てそうです。

また、emi(秋田恵美)さんのブログ「今日も星日和 kyomo hoshi biyori」によりますと、「鷹見泉石日記」の文政6年(1823年)2月16日の記述中に、泉石が「雉子橋」から献上された浦賀の水飴の返礼をしたためたことが記されているとのことです。恐らく泉石の仕えていた古河藩の藩主に宛てたものを受け取ったのでしょうが、そうであれば、浦賀の水飴が当時既に相応の評判を得ていたことの裏付けとなる記録と言えそうです。「風土記稿」が三浦郡の産物の1つとして数え上げたのも、その観点からは頷けます。ただ、まだこうした水飴に関する記録の点数も多いとは言えません。

※追記(2015/11/11):emi(秋田恵美)さんに上記ブログに追記戴いたことによれば、曲亭馬琴の日記にも天保年間以降複数回にわたって「浦賀水飴」が登場するとのことです。旅の土産に贈られた例の他、江戸の商人が取り寄せて販売していた例もあり、江戸での販路も見出していた様です。


そうした中、意外なところで「浦賀水飴」の名前を見出したので、今回はこの史料を少し掘り下げてみたいと思います。件の史料は「伊勢原市史 資料編 続大山」の中にありました。大山の信仰に関連する資料だけをまとめた特別編の中に、嘉永5年(1852年)2月の「疱瘡諸事控」という文書が掲載されています(388〜391ページ、以下引用のページ数は何れも同書より)。

この文書の表紙には「直利長女/むら山喜久」と名前が記されています。これは大山御師の家であった村山家に伝わるもので、その長女が水疱瘡に罹った際に、その治癒を祈祷する目的で「疱瘡棚」を設置した折に、その疱瘡棚の設置を執り行った別の御師や見舞いなどを贈ってきた人たちへの返礼の備忘録です。

その書き出しには

二月廿三日ゟ発熱、廿七日瀧淵坊相招疱瘡棚致之、初穂青銅拾疋、白米壱升、法楽相済肴弐つニ而酒出之、小豆飯平皿汁ニ而膳部出之、当年七才ニ相成

(388ページ)

自身も御師の身柄であるとは言え、身内の者のために自ら疱瘡棚の設置を行うのは色々具合が悪かったのでしょう。設置は「瀧淵坊」という御師を招いており、初穂料として青銅の他米などを差し出していることがまず記録されています。水疱瘡に罹った長女「喜久」(多分「きく」と読むのでしょうが)は数え年7つであったとしていますから、満年齢なら誕生日を迎えていれば6歳という辺り、水疱瘡に罹る年頃としては平均的なところでしょうか。この「疱瘡棚」の設置は子供の通過儀礼的な側面も併せ持つものでしたが、今回はその点には深入りしません。

廿七日

一、かしハ餅

市之進

晦日

こま屋

一、かしハ餅

太右衛門

一、浦賀水飴

領大夫

(389ページ、強調はブログ主)

「疱瘡諸事控」には続いて「音物到来覚」と記して、疱瘡棚の設置後に届けられた見舞品の数々が、その贈り主とともに一覧になっています。一覧は疱瘡棚を設置した当日27日から恐らく到着順に書き並べられていますが、「浦賀水飴」は左に示した通り、その30日の項に現れます。

この意味するところを少し掘り下げてみたいと思います。恐らく疱瘡棚の設置が行われた27日に早速そのことが周知されたのでしょう。同日には早くも見舞い品が届けられているものの、流石に同日に品を手配出来たのは柏餅の1名だけで、実質的には翌日以降から品物の点数が増えていきます。浦賀の水飴が届いたのはその周知があってから3日後ということになります。

「音物到来覚」には延べ49人から届けられた品々が並びます。品目としては「干菓子」(15例)「かしハ餅」(8例)「小豆団子」(8例)等々の菓子類と、「手遊」(8例)「人形」(3例)「絵」(2例)等の玩具類に大別されますが、何れも子供の病気に対する祈祷であることを反映した品目になっています。大山の坂本町は参拝客で賑わう門前町で、以前「漆」について検討した際にも見た通り多数の職人や商人を抱えていましたから、恐らくこれらの大半は地元で作られたものなのでしょう。そうした中、「浦賀水飴」だけはこの一覧中で唯一、地名を冠している点が異色です。

浦賀の水飴が定期的に何らかの目的で大山に届けられていたとする記録は今のところ見当たりません。江戸の様な大都市以外では、今の様に遠方の産物が連日行き交う時代ではありませんから、この水飴は恐らく浦賀まで買い求めに行ったと考えるのが妥当でしょう。そこで、その往復の道のりを計算するために、どの様な道筋を使ったかを推定してみました。

大山・坂本町〜浦賀、水飴購入に往復したと推定される経路
領大夫が大山・坂本町から浦賀へと往復するのに使った推定経路
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


藤沢〜長谷間の「かまくらみち」
藤沢と長谷の間の継立が通っていた(「ルートラボ」より)

区間街道名距離
大山坂本町〜四ツ谷田村通り大山道約21.6km
四ツ谷〜藤沢宿東海道約3.8km
藤沢宿〜長谷かまくらみち約6.5km
長谷〜鎌倉・下馬江島道約1.1km
鎌倉・下馬〜浦賀浦賀道約24.0km
合計約57.0km
坂本町からはまず「田村通り大山道」を経て四ツ谷で東海道に合流し、そこから藤沢宿へと向かっているでしょう。藤沢宿の手前で江島道へとショートカットする道筋もありますが、最終目的地が浦賀であるという点から多少なりとも「近道」を行った可能性が高そうですから、ここでは藤沢宿と長谷の間の継立で使っていた「かまくらみち」を抜けたと想定してみました。ここは今では大半が県道になって直道化されていますが、基本的な道筋は当時とあまり変わりません。長谷で「江島道」に合流して鎌倉・下馬へ向かい、そこから先は以前検討した「浦賀道」を伝って浦賀に着いたものと思います。

この行程全体の距離を、上の地図で引いた線を元に概算してみます。「ルートラボ」上で現道に従って線を引いた箇所もありますので、当時の道筋とは多少距離が異なる可能性はありますが、それほど大きな誤差にはなっていないと思います。右の表の通り、合計で約57kmという数字になりました。

この水飴を贈った「領大夫」がどういう人物なのかは不明ですが、大山御師であった家での疱瘡棚への見舞いという点からは、同業者であった可能性が高そうです。それであれば、檀家を廻ったりする機会が多い御師にとっては多少の長距離は歩き慣れてはいるでしょう。とは言え、当時1日に街道を歩いた場合に進む距離の目安が10里程度(約40km)ですから、往復約114kmの行程には、よほど無理をしない限りは3日程度は掛かるでしょう。水飴が届けられたのが疱瘡棚設置の3日後というのは、その点で辻褄が合います。

これだけ遠方に位置する浦賀まで、領大夫が敢えて水飴を買い求めに往復したのだとすると、それだけの動機が彼にあったのだろうと考えたくなります。ただ、領大夫と村山家がそれだけの労力を割く程に懇意にしている仲であったのかは、この「疱瘡諸事控」だけでは明らかになりません。彼がわざわざ遠方まで水飴を買いに行ったことに対して、村山家でも返礼の際にその分を「お手盛り」する必要を感じたかも知れません。しかし、この控の後半には返礼に赤飯を一同に配布した記録も付記されており、その中に領大夫の名も含まれていますが、彼に対して特段の手盛りをした痕跡はありません。もっとも、赤飯を余分に貰っても却って困るでしょうから、別の機会に返礼することを考えていたのかも知れません。

但し、領大夫の方でも水飴のためだけに浦賀まで往復したのではない可能性もあります。その往復の途上で何かしら別の用事を済ませていた、例えば別の買い物を序でに済ませたり、沿道の檀家に顔を出したり、ということも勿論考えられます。また、「嘉永五年」という年はペリー来航の前年に当たり、既に世情がかなり喧しくなっている時期ですから、あるいは風の便りに聞こえてくる浦賀の様子を水飴を買い求めがてら覗きに行ったのではないか、などということをつい想像したくなる日付ではあります。勿論、この辺りになると領大夫側で当時のことについて書き記したものが出て来ない限り、実際のことはわからないでしょう。とは言え、当時の通信事情から見て、旅先で知人の娘の疱瘡棚の設置を知って序でに水飴を買い求めて帰ってくる、という行動を取るのは極めて難しい時代ですから、領大夫が坂本町で村山家の疱瘡棚設置の知らせを聞いて、それを機に浦賀に向けて出発したと見るのが自然です。つまり、水飴購入が浦賀行きの主要な動機であったと見て差し支えないと思われます。

また、別の可能性としては、前回引用した「シドモア日本紀行」の記述から、この水飴が単に「浦賀」の名を冠しているだけで、実際はもっと近傍で作られたものであった、ということも考えられなくもありません。上で引用した「和漢三才図会」「本草綱目啓蒙」や「慊堂日暦」の記述でもわかる通り、水飴の製法自体は別に浦賀の「秘法」であった訳ではありませんので、大山に近い町でも水飴の製造が行われていた可能性は十分考えられます。ただ、シドモアが記した様に別の土地の水飴が「浦賀」を騙る様になったのが何時頃からの状況なのかはわかりません。仮にそうであったとしても、「浦賀」の名が水飴と固く結びついて世間に認知されていなければ意味が無いことですから、どちらにしても浦賀の水飴の評判の高さを裏付けるものであることには変わりはないと言えます。

大山御師は以前山椒を取り上げた際にも触れた通り、「治病」を現世利益として最も多く請け負ってきた大山信仰を支える取次役でしたから、彼らも治病や健康に関する当時の知識には精通している職務にあったと言って良いでしょう。そうした彼らが自らの娘のための疱瘡棚の設置に当たって受け取った見舞品の中に、遠方まで買い求めに行ったらしい浦賀の水飴があったという事例からは、この水飴が子供の健康に良いとする前回見た様な評判を、当時の大山御師達も共有していたことを示すものと言えるでしょう。その点で、数多くの見舞品の中でこの水飴だけが唯一地名と共に書き記された「疱瘡諸事控」の「音物到来覚」は、浦賀の水飴の当時の評判を窺い知る貴重な記録と言える気がします。



さて、以下は個人的な推察です。そもそも、なぜ「浦賀で水飴」だったのでしょうか。

前回見た通り浦賀の水飴の原料になっていたのは稲・麦や雑穀ですが、浦賀自体はこうした穀類の生産に適した土地ではありませんでした。入江の手狭な平地には廻船問屋や浦賀奉行所の関連施設がひしめき合っていましたから、耕作に使える畑はごく手狭なものしかありませんでした。もう少し範囲を広げて三浦半島全体で見ても、半島南部の台地の上の畑が近郊野菜の産地として注目される様になるのは「三浦大根」などが開発されてくる大正時代以降で、それ以前は農産地としてはあまり注目される土地ではありませんでした。「新編相模国風土記稿」の三浦郡図説でも

陸田は水田より少しく多し、士地都て天水を仰て耕植すれば旱損を免れず、土性は眞土野土の兩種にして何れも砂交り、沃膄の土にあらざれども農業の他蠶桑及漁獵を專として生產の資とするにより民戸頗る豊饒なり、

(卷之百七 三浦郡卷之一、雄山閣版より)

と記し、農耕よりも養蚕や漁業で成り立っている土地であったことを記しています。水飴が名産であったと言っても流石に大量に作るものではなかったでしょうが、それでも生産量の乏しい穀類をわざわざ水飴の醸造に廻していたとは考え難いものがあります。

浦賀道見取絵図:叶神社〜船番所付近
浦賀道見取絵図:叶神社〜船番所付近(再掲
ですが、江戸時代の浦賀には穀類が集まってくる状況ならばありました。享保5年(1720年)に浦賀に奉行所が移され、全ての船がこの湊に立ち寄って荷を改める様に義務付けられたことで、浦賀は多数の廻船問屋がひしめく流通の拠点へと変わっていきました。幕府の政策を背景に浦賀で各種の荷物を取り次ぐ仲買などの業務を行って生計を立てる問屋が増え、街には蔵が立ち並ぶ様になりました。「浦賀道見取絵図」の西浦賀の描写を良く見ると、沿道の建物の中に蔵と見られるものが多数交ざっているのが確認できます。

浦賀の水飴が、この廻船問屋経由で各地から集まってくる穀物を原料としていた可能性はかなりありそうに思えます。浦賀の廻船問屋は難船や防備への備えのために一定量の備蓄を行っていましたが、こうした備蓄も一定期間が経過すれば更新しなければなりません。例えばこうした備蓄の処理の一策として水飴にして販売することが始められたのではないか、ということは想像してみたくなるシナリオです。ただ、米など主要な穀類が単に備蓄食料としての役目のみではなく、貢税の主品目としても扱われた時代にあっては、需給バランスだけで蔵の出入りを考えることが難しく、その点ではこのシナリオはかなり慎重に検討する必要があります。勿論、今のところはこのシナリオを裏打ちできる様な史料は存在しません。「風土記稿」が水飴の生産を天明年間以降と記す点が、唯一年代的な整合性には問題がないことを示しているのみです。

浦賀:西叶神社前の土蔵
西叶神社前の土蔵(再掲)も、
先ごろ姿を消したとのこと
江戸幕府の終焉とともに浦賀奉行所もその歴史を閉じ、廻船が必ず浦賀に立ち寄って荷を改める義務も廃止されました。同時に商用の船舶の寄港地としては横浜が急速に伸びていったことで、浦賀の廻船問屋は次々と転業し、衰退の一途を辿ります。浦賀の地は幕末に設置された船渠を切っ掛けに造船業に活路を模索する様になりますが、少なくとも商業流通の拠点としては明治時代以降の衰えは隠せなかった様です。

浦賀の水飴がやがて衰退していった理由を考える上では、こうした浦賀の置かれた立ち位置の推移を考慮に入れる必要がある様にも思います。そして、尾島氏が自らの水飴を国内外に向けて販路を拡大すべく、数々の博覧会などに出展を繰り返していた理由も、そんな背景と無関係ではない様な気がします。

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浦賀の水飴について:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」の産物について、また少し間が開いてしまいました。先に純粋な農林産物を全て取り上げる予定でしたが、今回は順番を変更して加工品である浦賀の水飴を取り上げたいと思います。

  • 山川編(卷之三):

    ◯水飴三浦郡東西浦賀にて製す、尤上品なり、

  • 三浦郡図説(卷之百七 三浦郡卷之一):

    ◯水飴東西浦賀にて製す、尤上品なり、

  • 東浦賀(卷之百十三 三浦郡卷之七):

    此地撥尾魚…水飴大ヶ谷町にて製す、味美なり、所製の店三戸なり、天明の頃より尤も世に行はる、を產す、

    ◯小名 …△大ヶ谷町以上通衢の名なり、道幅二間半、

  • 西浦賀(卷之百十三 三浦郡卷之七):

    ◯產物 水飴製造の家五戸あり、天明中より專製造す、

(以上、何れも雄山閣版より、…は中略)



「迅速測図」に見える浦賀
細長い入江を挟んで東浦賀・西浦賀に分かれていた
※地図の「不透明度」を100%に切り替えると
明治36年地形図に切り替わる
(「今昔マップ on the web」より)
山川編三浦郡図説の記述はほぼ同一で、東西浦賀の記述とも齟齬はありません。東西浦賀の記述にはもう少し仔細が加えられ、東浦賀で3軒、西浦賀で5軒の合計8軒が水飴を製造していたこと、どちらも天明年間(1781〜1789年)に始められたと明記されています。

ですが、この浦賀の水飴については江戸時代よりも明治時代以降の記録の方が厚めで委細を窺いやすいのが実情です。そこで、今回は先に明治時代以降の記録の方を追って浦賀の水飴についてまとめた上で、次回江戸時代の記録を振り返るという順番で紹介します。

まず、今回も例によって「第1回内国勧業博覧会」の出品目録を確認してみましょう。農加工品などが出品された第五区第六類に、次の様に記されています。

水飴㈠餅米大麥、浦賀町

同町 尾島善四郎

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、正誤表の指示に従い原料を追記)

「国立国会図書館デジタルコレクション」に掲げられた正誤表は判読が極めて困難な状態にありますが、右上の3行目に「水飴/㈠ノ下ニ餅米大麥ヲ加」と記されているのが辛うじて読み取れます。水飴の原料を記したものと見て良いでしょう。因みに出品一覧の2行前には同じ「尾島善四郎」氏の「再製砂糖」が別の人物によって出品されており、尾島氏が当時取り扱っていたものが窺えます。

この博覧会では同一品目が同じ町や村から複数出品される事例もありましたが、この浦賀の水飴については博覧会に出品したのは1人だけだった様です。生憎とこの時には何らかの賞を勝ち得ることは出来なかったのですが、博覧会への出品に何か得るところがあったのか、尾島氏はその後も各種の博覧会などに出品を繰り返し、「第3回内国勧業博覧会」(明治23年・1890年)では「三等有効賞」、「神奈川県農会物産共進会」(明治33年・1900年)でも「三等賞」を受賞しています(「三浦半島の文化第二号」三浦半島の文化を考える会編 1992年 口絵に賞状が掲載されています)。

更に尾島氏は後年海外の博覧会へも水飴を出品しています。明治22年(1889年)の「パリ万国博覧会」には、展示品として水飴上下2品が50斤ずつ買い上げられています(「三浦半島の文化第二号」)。これに力を得たのか、明治25年(1892年)には神奈川県にに次の様な嘆願書が提出されました。

コロンブス世界博覧会出品願

三浦郡浦賀町田中拾五番地商

尾島善四郎

右ハ自分ノ製造ニ係ル水飴、北米合衆国シカゴ府ニ開設スル、コロンブス世界博覧会え出品仕度、依テ別紙出品槪目録相添、此段奉願候也

明治廿五年二月

尾島善四郎(印)

神奈川県知事 内海忠勝殿


出品委托願

私儀来ル廿六年米国シカゴ府ニ於テ開会可相成、世界博覧会ヘ出品ノ義出願候処、自身渡航難仕ニ付テハ、会場地ニ於テ出品ヲ調理スヘキ出品総代人ノ費用ニ充ル為メ、出品原価ノ百分ノ一ヲ先以テ出金仕、当会場地ニ於テ売却セシ物品ニ対シ更ニ売価ノ百分ノ十ヲ出金可仕候間、彼地ニ於テ直ニ御徴収の上、会場地ニ於ケル渾テノ調理可然御措置被下度、此段奉願候也

明治廿五年二月

三浦郡浦賀町

尾島善四郎(印)

神奈川県知事 内海忠勝殿

(「新横須賀市史 資料編 近現代Ⅰ」412~413ページより)


The Japanese pavillion Ho-o-den 01, World's Columbian Exposition 1893.jpg
シカゴ万国博覧会の日本館「鳳凰殿」
("The Japanese pavillion Ho-o-den 01, World's Columbian Exposition 1893" by Unknown
- internet. Licensed under Public Domain
via Wikimedia Commons.)
「コロンブス世界博覧会」とは、この出品願いの翌1893年に開催された「シカゴ万国博覧会」を指します。尾島氏としてはここに自身の水飴を出品したいと考えたものの、約5ヶ月にわたって開催された博覧会に出品するとなると、まだ船便しかない時代にアメリカまで水飴を浦賀から高頻度で送る訳に行かず、現地に調理者を派遣して同地での生産を行って、その販売収益を渡航滞在費用の返済のあてとしたい、という内容になっている訳です。実際にこの尾島氏の目論見どおりにことが運んだかどうかは定かではありませんが、彼が海外への販路を求めてかなり大掛かりな施策を打っていたことは確かでしょう。

これと相前後して、アメリカ人人文地理学者の手によって書かれた日本紀行の中で、浦賀の水飴がかなり詳細に紹介されています。エリザ・ルーアマー・シドモア(Eliza Ruhamah Scidmore)の「Jinrikisha Days in Japan(邦題:『シドモア日本紀行』)」の中で、この水飴についてかなり長い紹介文が書かれています。

浦賀へは、横須賀から海岸沿いを蛇行(だこう)しながら走ります。ミズアメ[水飴]、つまり粟蜜(あわみつ)を作っている浦賀の町は、港沖にペリー提督が最初に錨を下ろした所として二重に有名です。まるで絵のように可愛らしく清潔なこの町は、琥珀色(こはくいろ)の甘美な菓子の生産に専念し、店構えの古い老舗(しにせ)が優れた品質の水飴製造を三〇〇年以上も変えずに続けています。まず、米と粟を(しぼ)り、蒸して湯水と麦芽を混ぜ、数時間そのままの状態で放置すると、やがて澄んだ黄の液体が抽出(ちゅうしゅつ)されます。さらに濃いシロップ状や糊状に煮詰めたり、あるいは固い球体状に型取りできるまで煮詰められます。この製品は気象に左右されない日本最高の甘味菓子で、半液状の飴は(はし)に巻き付け四季を通じて()められます。古く褐色の水飴であればあるほど良い品となり、バタースコッチ菓子の究極品、東洋の栄光・タフィ[落花生入りの糖菓]と呼んでもおかしくありません。また、これは健康によく効く食品として勧められ、今では「胃弱や肺病には、特に有効性あり」と日本在住の外人内科医にも認知されているほどです。日本のどこで作られようが、この薬用水飴は浦賀特産です。老舗による長年の研究と秘伝が浦賀のミズアメを産みました。他の産物にたとえれば、コーディアル酒[リキュール]とか、ワイン仲間のグランデ・シャトルーズ酒やシュロス・ジョアンニスベルゲル酒と同等の評判を得ています。大道芸人は小さなパトロン[子供]のために水飴を()ねてペースト状にし、パイプで吹いて無数の幻想的形を創造します。また特筆すべきは、最高級の大宴会はもちろんのこと、天皇の食卓にも登場し、幻想的花となってあらゆる御馳走を華やかに飾り立てていることです。

(「シドモア日本紀行」1902年改訂版 外崎克久訳 2002年 講談社学術文庫 66〜67ページより、ルビも同書に従う)


この紀行文では各地を訪問した年月を具体的に記していないので、明治17年(1884年)に横浜に上陸してから明治24年(1891年)に初版が出版され、更に明治35年に改訂版が出版されるまでの間の何時頃に浦賀を訪れたのかはわかりません。ただ、この箇所はGoogle Bookに見える1891年版にも既にありますので、尾島氏がシカゴの博覧会で水飴を紹介した際にはこの本の読者には評判が先行して伝わっていたことになります。但し、尾島氏が嘆願書を提出した頃にこの本のことを既に知っていたかどうかは定かではありません。

Archive.org」で公開されている改訂版の原著で該当箇所(同書37ページ)を確認すると、「粟蜜」と訳されている箇所は「millet honey」と記されています。この「millet」という単語は単体では厳密に「粟」だけを特定する言葉ではありません。その点では「粟」というよりも「雑穀」と訳した方が適切かも知れません。少なくとも「第1回内国勧業博覧会」の目録に見える「餅米大麦」と併せて考えても、恐らくその時々で入手可能な穀類を適宜利用して醸造していたものと思われます。

「風土記稿」では水飴の製造開始時期を天明年間と記していた訳ですから、1902年の改訂版時点でも120年程度しか経っておらず、「300年」は少々サバを読み過ぎではあるでしょう。その他読んでいてこそばゆくなる様な褒め言葉が列挙されている点は多少割引いて見た方が良いかも知れませんが、水飴を健康食品として認知する医者がいたという点や、飴細工が子供向けの行商だけではなく祝宴でも登場する様になっていたという点は、当時の水飴を巡る状況を考える上では着目すべきでしょう。村井弦斎の「食道楽」(明治36年初出)でも、次の様に子供や老人に良いという書き方になっています。

第二十六 名物

…僕はモー少し猶予があれば片瀬へ寄って竜の口饅頭を買って鎌倉で力餅を買って、浦賀へ廻って日本一の水飴を買って、金沢で藻ズクを買って来ようと思ったがそうは廻り切れなかった」とこの人は諸国の名物を買うのが道楽。

○浦賀の水飴は西浦賀田中和泉屋にあり。今は盛に外国へ出輸す。

○水飴は半ば有益なる葡萄糖に変化したる糖分六割と糊精一割六分と少量の蛋白質を含み、滋養分甚だ多く、最も小児と老人の食物に適す。西洋にてはマルチエキスとて大に水飴を賞用し、砂糖の代りに牛乳へ交ぜて小児に与う。

○下等の水飴は砂糖を交えて製する故小児に害あり。

(「青空文庫」より、…は中略)


また、「シドモア日本紀行」よりも少し前になりますが、アーネスト・メイスン・サトウ(Ernest Mason Satow)らの編纂した「A Handbook for Travellers in Central and Northern Japan(邦題;『明治日本旅行案内 東京近郊編』)1884年」では

浦賀は「水飴」の生産地として有名である。これは「酒の麹」でつくりたいそう甘く、何となく蜂蜜と味が似ている。

(「明治日本旅行案内 東京近郊編」庄田元男訳 2008年 平凡社東洋文庫776 150ページより)

と記しています。「酒の麹」はGoogle Bookで見られる原著では「sake-malt」と書いていますから、サトウはこれが醸造品であることに気付いたのでしょう。

「浦賀案内」尾嶋商店広告
小川鎌太郎 編「浦賀案内」(明治40年・1907年)中
尾嶋商店の広告(右ページ)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
「浦賀案内」瀧川商店広告
同じく「浦賀案内」中瀧川商店の広告(左ページ)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)


新番地表記に伴って「浦賀町田中」の地名は消え
現在は町内会にその名を残すのみとなっている
東福寺・常福寺を含む一帯
ストリートビュー
こうした評判を背景に、浦賀の水飴は明治から大正年間にかけては国内外向けに根強く販売を続けていた様です。水飴の広告の掲載例は浦賀町の商工案内である「浦賀案内」の他、「横須賀三浦の名所」(大正4年・1915年、奥武之助 編)と「浦賀案内記」(大正4年、尋常高等浦賀小学校職員懇和会 編)に「和泉屋芳春軒」が、また同じく「浦賀案内記」に「瀧川商店」が出稿しているのを確認できました。「和泉屋芳春軒」は番地が「田中拾五番地」となっていて「尾嶋商店」と同じ番地ですが、「三浦半島の文化第二号」によれば尾嶋商店は明治43年頃に破産状態となって廃業したとしていますので、この店はあるいは別の人が尾島家の店を引き継いで経営を続けていたものかも知れません。

大正9年(1920年)には実業家の安田善次郎が大磯の別荘に矢野龍渓(文雄)とその家族を浦賀から呼び寄せた際に、「浦賀には()き水飴あり、それを(もら)ひたし」と土産物の品を指定したことが、矢野氏が執筆した「安田善次郎伝」(大正14年・1925年)に記されています。これなども水飴の評判の高さを裏付けるエピソードと言って良いでしょう。

浦賀の水飴が何時頃廃れてしまったかは良くわかりません。昭和6年(1931年)12月の「中外商業新報」の記事には神奈川県の外人旅行者向けの土産品の1つとして浦賀の水飴が挙げられていますが、この頃には既にかなり衰退傾向にあった様です。

さて、こうした明治時代以降の状況を踏まえた上で、次回は江戸時代の記録を振り返ってみたいと思います。あまり目ぼしい記録はないと最初に書きましたが、その中で1点、少々意外な所でその名を見出しましたので、そちらを中心に解説する予定です。

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松崎慊堂「慊堂日暦」から補遺2題

先日来読み返している松崎慊堂(こうどう)の「慊堂日暦(にちれき)」から、今回は以前の記事の補遺という位置付けで2題ほど取り上げます。

先日まとめた「新編相模国風土記稿」の足柄下郡の街道の中にあった「観音順礼道」について、酒匂川の「廻り越し」の抜け道に使った可能性があるという指摘をしました。「慊堂日暦」の中でも実際に酒匂川の渡しを渡らず、飯泉の渡しを渡ったと記している箇所があります。天保4年(1833年)6月の箱根湯治の往路の記述です。3日の分は以前一度引用していますが、前日の様子を併せて見る必要からその箇所を含めて再掲します。

三日 早に発す。朝霞は四散し、或いは雨兆ならんかと疑う。境木にいたれば、津和奈の東覲にて、輿馬は絡駅如(らくえきじょ)たり、十余万石侯なり。戸塚駅にいたり朝飧を食す。游行寺に入り、出でて橋南の青柳店にて小飲す。藤沢にて竹輿に乗り、南郷にて小飯す。輿夫継ぎ大磯にいたる、輿夫の勇吉は(たけ)六尺、郷藩の陸尺(りくしやく)の亡命してここに在る者(竹田の産)なり。また継いで梅沢にいたる。夜、小八幡の農家(権次郎)に宿す。箱嶺の烟雲は騰々たり、枕上に雨を聴く。

四日 雨晴れ、竹輿にて飯泉を渡る。午、宮下の藤屋勘右衛門に達し、装を東南室に卸す。室には秋七草図(南湖)を掲げたり。

秋草の中にまじりてなぶられな唐なでしこよ余所のものとて

真顔

(「慊堂日暦3」山田 琢 訳注 1973年 平凡社東洋文庫237 331ページより、ルビも同書に従う、強調はブログ主、以下扱い同じ)


3日の天気は下り坂で、朝方の慊堂の予感が当たって夜半には雨が降り出してしまいます。翌朝にはその雨は上がった様ですが、ここで慊堂一行は酒匂川を渡るのに飯泉へと迂回したと書いています。

まずこの日の道筋を推測してみます。前の晩に泊まった小八幡(こやわた)は国府津よりも小田原寄りに位置しており、観音順礼道への岐路は既に行き越しています。その点では酒匂村まで東海道を進んでから酒匂道を経て観音順礼道へと入る道筋も考えることが出来ますが、小八幡村からの道筋として考えると遠回りです。最初から「廻り越し」の意図があったとすれば、多少東海道を引き返すことになっても観音順礼道へ直接向かってしまった方が、トータルでの道のりでは若干有利です。下の地図はその推定で線を引いてみました。

「慊堂日暦」天保4年6月の酒匂川の渡し「廻り越し」推定ルート
「慊堂日暦」天保4年6月の酒匂川の渡しの「廻り越し」推定ルート
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

ここで気になるのが、慊堂が敢えて「廻り越し」をした理由です。慊堂は漢学者として藩主に仕えていた身分ですから、江戸時代には武士の身分として渡し賃を出す必要はなかった筈です。従って渡し賃を懸念しての行為ではあり得ません。

別の理由としては途上の「飯泉観音」詣でも考えられなくはありませんが、「慊堂日暦」には飯泉観音へ詣でたとは書いていません。わざわざ東海道から迂回してこの観音に詣でたのであれば、多少なりともこの観音について記していても良さそうですが、それもないところから見て、その可能性も外して良さそうです。

そうなると理由として一番考えられるのは、前の晩に降った雨による増水で「酒匂川の渡し」が「川止め」になっていることを懸念して、という点でしょう。雨は既に上がっていましたから、「川明け」の可能性に期待して「酒匂川の渡し」まで取り敢えず行ってみるという考え方もあったと思われますが、小八幡村の位置関係からは、そこまで行ってしまってから飯泉に迂回するのであれば、最初からそのつもりで飯泉へ行ってしまった方が良いという判断だったのではないかという気がします。勿論、こうした判断を慊堂が自ら行ったと考えるよりは、小八幡村の方で渡し場の配慮や迂回の道筋を行く駕籠の手配をしたのでしょう。

ただ、そうなると辻褄が合わなくなってくるのが「風土記稿」の「飯泉の渡し」の記述です。以前まとめた一覧に含めた通り、多古村の項には

◯渡船場 酒勾川にあり、對岸飯泉村に達す、故に飯泉渡と唱ふ、五月初旬より九月中旬に至り、渡船二艘を置て、往來を便す、冬春の間は、土橋を架せり、飯泉及當村の持、東海道酒勾川渡船より川上十九町を隔つ、彼渡し留れば、亦此渡しも留む、

(卷之三十四 足柄下郡卷之十三、雄山閣版より、強調はブログ主、なお「東海道酒勾川渡船」は原文ママ)

とあります。つまり、もし「酒匂川の渡し」が「川止め」になっているのであれば、それに応じて「飯泉の渡し」も「川止め」になっていることになっていて、何れにせよ酒匂川を越えることは叶わなかった筈です。勿論、これは「酒匂川の渡し」側が「廻り越し」によって不利な事態にならない様に、近隣の渡し場と取り決めたものです。「風土記稿」の足柄下郡の項の成立は首巻の凡例に記されているところによれば天保7年、慊堂の箱根行きの僅か3年後です。この取り決めは慊堂の箱根行きの時には既にあったと見て良いでしょう。

もっとも、「飯泉の渡し」は舟渡しですから、徒渉の「酒匂川の渡し」よりは多少の水位上昇に対して融通は効きそうです。実際にこの日の酒匂川の渡しが川止めになっていたかどうかは「慊堂日暦」の記述だけでは判然としませんが、あるいは本来の取り決めが必ずしも厳守されず、「酒匂川の渡し」の川止めをよそに「飯泉の渡し」が密かに営業を続けていた状況があったのかも知れません。この辺りはもう少し事例を集めてみたいところです。




もう一題、先日「慊堂日暦」の「雁来紅(はげいとう)」を取り上げましたが、その続きです。

天保10年(1840年)、明和8年(1771年)生まれの慊堂は数え年で70歳になっていました。その年の8月28日に箱根に湯治に出かけ、9月13日に江戸へと戻ってきます。その帰宅した日について次の様に記されています。

十三日 陰。暁、発して大森站に抵れば天始めて暁なり。巳刻、荘に帰る。小雨。児孫門生、出てて謁して各々平安を賀す。窓を開けば、老少年鶏冠花は正に盛んにして、籬菊(りきく)はなお未だ開かず。夜、洞泄(どうせつ)二行。月なし。

(「慊堂日暦5」山田 琢 訳注 1973年 平凡社東洋文庫377 303ページより)


畫本野山草[3] 葉鶏頭
橘保國「畫本野山草」より「葉鶏頭」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
畫本野山草[3] 鶏頭花
同じく「畫本野山草」より「鶏頭花」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

帰り着いて庭を見れば、植えてあったけいとうやはげいとうが花盛りになっていた、という訳です。「籬菊」は垣根の菊のことですから、この文章自体は単に花壇を愛でていると見るべきでしょう。しかし、文政11年(1828年)4月の記述と合わせてみれば、これは食草とする意図を兼ねて植えていたことになりそうです。もっとも、「慊堂日暦」では時に庭に播種した植物についての記録が見えることがありますが、この年の記録では「老少年」や「鶏冠花」を何時蒔いたのかは見当たりませんでした。

既に高齢に達していた慊堂はこの年特に体調が優れなかったことが日記から読み取れます。下痢や熱に悩まされ、終日臥していたという記述が多く見られます。そこに同年の4月に門人であった渡辺崋山が獄に入れられたことを知らされ、崋山の身を案じて消息を様々な人に訪ねて廻ったり、老中水野忠邦に建白書を送ったりしています。その建白書が届けられた際の様子を、当時水野忠邦が領有していた浜松藩の藩校で経誼館の儒官を務めていた小田切藤軒に尋ねた日には、次の様に記されています。

(注:八月)五日 雨未だ止まず。勉強して藤軒に赴く。藤軒は迎えて云う。二十九日に書至り、持して相公〔水野忠邦〕に呈せり。公は従頭一覧し、徹底して云う、風聞は当るあり、当らざるあり、当るところは領略(りょうりゃく)せり。老人がこの事のために焦労小ならずと聞く、云々と。主人は蕎麦を供す。腹候のための故に、多食すること能わず。雨を()いて辞去して荘に帰る。

(「慊堂日暦5」295ページより)

この日も腹痛をおして雨中出向いていた様で、出された蕎麦もあまり食べられなかった様です。

こうしたことから察するに、この年の箱根行きは、恐らくはそうした心身の不調を少しでも和らげたいという意図があったのでしょう。しかし、滞在中も腹痛や感冒に悩まされていたり、上記にも「洞泄」とある通り帰宅早々に再び激しく下すなど、あまり効果のある湯治ではなかった様ではあります。帰宅時に花を付けていたけいとうやはげいとうも、そうした体調の中で12年前に同門から聞かされた植物のことを思い起こして、何かしらの効能を期して植えたものだったのかも知れません。
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