2015年09月の記事一覧

【史料集】「新編相模国風土記稿」足柄上郡各村の街道上の位置(その3)・足柄下郡(その1)

前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」に記録された足柄上郡の各道の地図を紹介します。今回取り上げるのは、「曾我道」、「酒匂道」と「富士道」ですが、何れの道も足柄上郡域内での区間が短く、また3本とも足柄下郡から入ってくる道筋であるため、今回の地図は足柄下郡側の道筋と併せて紹介することにしました。

以下の図では何れも赤い点で足柄上郡の、青い点で足柄下郡の各村の位置を示します。また、今回の3本の道についても、基本的には「迅速測図」や明治29年の地形図から読み取れる道筋を基本に該当する道筋を推定していますので、必ずしも「風土記稿」当時の道筋と一致するとは限りません。実際、以下で述べる様に様々疑問点が見つかります。

曾我道(足柄上郡足柄下郡)については、足柄上郡図説の記述が上大井村から南へ下る順序で記述されていたのに対して、足柄下郡図説の記述は逆に国府津村から北へ上る順序の記述になっていました。両郡各村の記述もそれぞれの図説の順に並べましたので、通しで見た時には順序が逆転することになります。

なお、足柄下郡の一覧で曾我別所村の記述が抜けていましたので追加しました。また、高田村の「国府津道」を当初曾我道のうちと判断して一覧に加えていましたが、街道筋には掛かっていないことがわかりましたので、注記を修正の上で一覧の下に移動しました。あるいは他の道の一部を成す可能性もありますが、その点が判明した際に改めて然るべき位置に移動します。

基本的にはこの道は、大磯丘陵西側の麓を進み、古くは「曾我里」と呼ばれた6つの村々を結んでいたことが窺えます。但し江戸時代以前から存在する古道であるかどうかは定かではなく、「風土記稿」でもこの道についてはその歴史については言及していません。

曾我道:足柄上郡・足柄下郡中の各村の位置
曾我道の各村の位置(「地理院地図」)上で作図したものをスクリーンキャプチャ


酒匂道(足柄上郡足柄下郡)については、足柄下郡図説の記述や各村の記述に「酒匂堰」の名前が見えるため、途上の道筋の特定は比較的容易に出来ます。西大友・東大友の境から南下して矢作村に至るまでの間はほぼ酒匂堰の西岸を進む道が、迅速測図でも、明治29年の地形図でも確認出来ます。現在はこの用水や周辺の耕地が多少区画整理されましたので、厳密な位置は多少動いていると思われますが、大筋の経由地では問題は少ないと思います。

ただ、足柄上郡下大井村の項に「すのこ橋の下にて、東南に通ずる岐路あり、酒匂道と云、」と記されている点については、今回は「すのこ橋」や岐路の位置を特定出来なかったので、この付近では差し当たり「迅速測図」から比較的主要な道として描かれている箇所に線を引いています。この付近の道筋については引き続き見当の余地があります。また、ここで接続する筈の「小田原道」についてもこの地図では省略しています。

酒匂道:足柄上郡・足柄下郡中の各村の位置
酒匂道の各村の位置(「地理院地図」)上で作図したものをスクリーンキャプチャ



地形図上に表示された「富士道橋」
(「地理院地図」より)
富士道(足柄上郡足柄下郡)についても、かつての道筋に近い場所で酒匂川を渡る橋に「富士道橋」と銘打たれており、これを手掛かりに該当する道筋を「迅速測図」などで特定することで、大筋を追うことは出来ます。この道筋は上記の酒匂道と矢作村で直交する関係にあるので、参考までに地図中にその位置を示しました。

ただ、この道でも足柄上郡岩原村の項に「富士道北境にあり足柄下郡小臺村より入字坂下にて甲州道に合す、」とある特徴に合致しそうな道筋を明治29年の地形図では見出すことが出来ません。「迅速測図」の方はこの小台村の辺りから西は作成されていない模様で、肝心の区間の古い道筋を確認することが出来なくなっています。この明治29年の地形図を見る限りでは、小台村から北上して現在の伊豆箱根鉄道大雄山線の塚原駅北側の道が甲州道へ出る道としては主要であった様に描かれているのですが、これが道の付け替えによる結果なのか、それとも「風土記稿」の記述に何らかの問題があるのかは判然としません。差し当たり下の地図では、岩原村の北端をかすめて甲州道に合流する、現在の大雄山線岩原駅北側の道に線を引いているのですが、この場合要定川を渡る箇所が現存しないことになります。

なお、国府津村と中里村の間では田島村の南境を進んでいたり、前川村の飛地の中を進む区間があるのですが、「風土記稿」の両村の記述では富士道が掛かっていることへの言及はありません。この点は後ほど一覧に追記します。

この富士道は国府津から大雄山最乗寺への参詣に使われる道であることが足柄下郡図説の記述に見えています。東海道を西に進んできた参拝者が甲州道へと向かうバイパス道として使われていたと言えそうです。酒匂川水系の造った旧河道と自然堤防を横切りながら進む道筋に当たるためか、道筋に直進する区間が少ないのが特徴です。

富士道:足柄上郡・足柄下郡中の各村の位置
富士道の各村の位置(「地理院地図」)上で作図したものをスクリーンキャプチャ

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箱根の蕎麦:江戸時代〜大正時代の紀行・観光案内を中心に

以前(玉匣両温泉路記たまくしげふたついでゆみちのき)」(天保10年・1839年)で、著者の原正興とその一行が、箱根の木賀温泉から大雄山最乗寺まで箱根外輪山を越えて往復した部分を取り上げたことがありました。その途上で宮城野村の茶屋に往路と復路の両方で立ち寄っているのですが、その復路の際の記述は次の様になっています。

宮城野の里にきたり、くだものうる家にて又休む。この里の蕎麦(そば)は、信濃(しなの)国の名ある里より出すよりも、(あぢは)ひことなるよし。既にこの家にて、そばもうれども、麦かり田うゑするいそしきころなれば、やすめり。あるじの女の、

「前の谷川に山目と(いふ)うを多くすめば、湯あみにきたまへる都人も、それとらんとて網もてきてなぐさみ給へば、そばもまゐ(進)らする也。わどの(和殿)も日をさだめて来給へかし。そば打てまゐらせん」

と云。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 187〜188ページより、ルビも同書に従う)


「箱根七湯志」宮城野辺・明神嶽図
「箱根七湯志」(間宮永好著)より
宮城野辺〜明神嶽の図(再掲)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
江戸時代の後期には信濃の蕎麦の評判が高かったことは、「本草綱目啓蒙」でも

本經逢原に須北方者良南方者味苦性劣不堪服食と云 本邦にても信州及江州桃井伊吹山を上とす

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、カタカナをひらがなに置き換え)

と記していることでも確認出来ます。この茶屋の主は、宮城野の蕎麦が信州のそれよりも味が良いことを自慢し、当日は麦刈りや田植えで忙しいので用意をしていなかったものの、予約をしてくれれば川でヤマメを獲りがてら(これも湯治客の一連のレクリエーションですが)そこへ蕎麦を打って持参する、と勧めている訳です。もっとも、「玉匣両温泉路記」の以降の記述には、この宮城野の蕎麦は登場しません。


当時の紀行文に現れた箱根の蕎麦についての記述を探すと、例えば「木賀の山踏」(竹節庵千尋著、天保6年・1835年)では

(注:三月)十日、けふは空よく晴て日並よし、卯の半過起出つ。…

けふは宮城野に往んとて横井の息幷妻なるもの、その人にいさなはれ 巳のこくまへより出行ぬ。…

午の半比皆々帰りけり。そはと花菜をつみとり家土産にもて来にけれは

宮城のゝそはにはあらて是は又

みやけのそはといふへかりける

湯の客は道々に着く其中に

はたけの菜さへとうに立けり

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集神奈川県図書館協会編 1969年 405ページより、…は中略)

と、春先の山菜や蕎麦を摘んで帰って来たことが記されています。この「木賀の山踏」では別の日に底倉で蕎麦を食べたことも記録されています(同書409ページ)。

更に、松崎慊堂(こうどう)の「慊堂日暦(にちれき)」でも天保2年(1831年)の箱根逗留に際して

(注:五月)十六日 …西北して山に上り、宮城野村にいたる。村は五六十戸、山間の頗る平寛なる処にて、一家あり蕎麦条を売る、頗る精なり。村酒を(すす)めて帰れば、すなわち昏なり。

慊堂日暦3」山田 琢 訳注 1978年 平凡社東洋文庫337 166ページより、ルビも同書に従う、…は中略)

と、蕎麦にかなり力を入れている家があったことを記しています。

「箱根絵図」嘉永7年 蔦屋平左衛門より-右部分
蔦屋平左衛門「箱根絵図」より右部分
「ミヤギノ」「ソバ名物」の文字が見える
(「国立国会図書館デジタルコレクション」の
画像より抜粋し、矢印加筆)
もう少し時代が下って、幕末期の嘉永7年(年)「箱根絵図」(蔦屋平左衛門版)にも、図右端の「ミヤギノ」の隣に「ソバ名物」と記されており、こうした記録からは江戸時代の少なくとも後期には、同地が蕎麦を売り物にしていたことが窺い知れます。

何時もですと、こうした紀行文や道中記などの記録よりも先に「新編相模国風土記稿」の記述を紹介するところです。その宮城野村の項には確かに

村内狗脊・蕨・薯蕷・獨活・蕎麥の類を產す、就中狗脊は多く產して、其味他に優ると云、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十 雄山閣版より、強調はブログ主)

と記されてはいます。しかし、ここに挙げられている他の産物、つまり「狗脊」「蕨」「薯蕷」「獨活」については足柄上郡図説山川編でも取り上げられているにも拘らず、唯一蕎麦だけは図説や山川編では取り上げられていません。更に、この「風土記稿」の編纂に当たって参考にされたと思われる「七湯の枝折」でも、その産物の一覧に「蕎麦」の二文字はありません。

そもそも、江戸時代には蕎麦は救荒食物の1つとして何処でも栽培されているものでした。「大和本草」では

…凡蕎麥夏穀既に終り立秋前後下九月に既實り十月に收刈り其あとに復麥を栽れは凡一年二三度穀類を收取る(すり)て爲搗餠爲粉餌糧食飢饉故農の利用多し是亦佳穀也

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、漢文調の箇所の送り仮名を除き、基本的にカタカナをひらがなに置き換え、送り仮名を上付き、返り点を下付きにて表現)

と、麦などの耕作の合間に短期間で収穫出来る点が農民に重宝されているとしています。

ですから、そうした中でも敢えて産物として取り上げられるとすれば、それは他の地域に比べて何らかの特徴があった、つまり品質面や由緒などの点で特筆すべきことがあったということになるだろうと思われますが、「風土記稿」を編纂した昌平坂学問所には、宮城野村の蕎麦に関してはその様な産物ではないと看做されていた節があるということになります。

また、かなり些細なものまで産物に挙げていた「七湯の枝折」にも取り上げられていないことからは、あるいは宮城野の蕎麦栽培が始まったのが「七湯の枝折」の編纂よりも後であった可能性があります。実際、上記の紀行文などは何れも、文化8年(1811年)に著された「七湯の枝折」よりも後に書かれています。「玉匣両温泉路記」がこの茶屋を「くだもの売る家」と書いているのも、あるいはこの家が元は果実を主に出す茶屋で、信濃名物に肖って蕎麦を始めたのが比較的新しいことであったことを象徴しているのかも知れません。ただ、この辺りはもう少し史料が出てきたところで改めて検証する必要がありそうです。

もう少し時代が下った頃の様子はどうだったでしょうか。幕末には既にあった筈の宮城野村の蕎麦ですが、文久元年(1861年)に著された間宮永好「箱根七湯志」でも、宮城野の蕎麦についての記述を見出すことは出来ません。また、例によって明治10年(1877年)の「第1回内国勧業博覧会」では、蕎麦は6件の出品を確認出来るものの、その中には箱根の出品者は含まれていません。以前、箱根の出品の多くは板橋村の内野勘兵衛が取りまとめており、その多くは「七湯の枝折」を参照した節が窺えることを指摘しましたが、そうであれば「七湯の枝折」に収録されなかった蕎麦が出品から漏れたのも理解出来ます。とは言え、出品者を幅広く募っていたこの博覧会のことですから、その気になれば宮城野村から別途蕎麦を出品していてもおかしくなかった様にも思えます。

更に、明治期の博物学者として活躍した田中芳男が、明治4年に富士や箱根地域の植物調査旅行を行った際の紀行である「富士紀行」では、乙女峠を越えて仙石原村に入り、宮城野村へ到達しています。そして、この両村で栽培されていた作物についても記録していますが、仙石原村の名主や木賀温泉の旅宿の主にも話を聞いているにも拘らず、記録された作物の中に「蕎麦」の名は見えません。

こうした傾向からは、少なくとも宮城野村の蕎麦栽培が量的な面ではあまり拡がりを見せなかったことが窺えます。「本草綱目啓蒙」にあった様に、箱根の蕎麦が上出来だったのは、信濃と同様に山上の冷涼な気候が合ったのに違いありませんが、信濃の様に盆地を広く使える土地柄と違い、箱根はカルデラ内部の僅かな平地にしか畑を開く余地がありませんから、その点では増産を図るのは難しい面があったことは想像に難くありません。

しかし、その一方で明治時代の旅行案内書の中に「宮城野蕎麦」を取り上げたものが幾つか見られます。明治26年(1893年)の「箱根温泉志」(「国立国会図書館デジタルコレクション」では著作者未記入、奥付によれば「編集兼発行人」として高橋省三 学齢館版)には次の様に記されています。

宮城野 早川に沿ひて五六丁上れば宮城野に出づ此地は戸数三四十戸あり、山間の平地にして田圃廣く開け穀類菜蔬(さいそ)の類を出すかゝる山上にかゝるところあるべしとは思ひよらざる事なれば此處に至る人一驚(いつけう)せざるはなし路傍流れに臨み蕎麥屋あり宮城野蕎麥とて名物なり、客の至るを待てそれより新に打ちはじめて出すものにて眞の所謂(いはゆる)生蕎麥(きそば)なり、其美なること譬へん方なし蕎麥通の腹を抉るに足れり、宮の下底倉に遊ぶ者は散歩して此處に來り數椀(すわん)を味ふこと可なり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、ルビは一部を除き省略)


原正興の「玉匣両温泉路記」の記述と併せて考えると、この蕎麦屋は江戸時代から客の注文を受けて蕎麦を打ち始めるスタイルを維持していたのでしょう。江戸時代には山菜やヤマメを獲りがてらであったものが、この頃になるとそうしたレクリエーションはなくなってしまったため、単に周辺を散策して時間を潰すという方向に変わっていった様です。

因みに翌明治27年刊の「箱根温泉案内」(森田富太郎著 森田商店)にも「宮城野蕎麦」の紹介が見られますが、前年の「箱根温泉志」と文面が極めて酷似しており、あるいは前者を参照して記述したものかも知れません。もっとも、この「森田商店」は底倉の業者であることから、流石に隣村の実情について不案内のままこの文章を書いたということはないでしょう。

更に、明治42年(1909年)の「大筥根山」(井土経重 著 丸山舎書籍部)では

是(注:木賀温泉のこと)から先へ行くと宮城野村である。今から七年程前にはこの村は七十餘戸であつたさうだが、今は寄留(きりゆう)を加へて百三十戸程になつて居る、(しか)し田十町に畑二十五町しかないから食料は他の供給を仰がねばなるまい、風致を添へて居る大なる巖石(がんせき)を石材に割り又楓樹(ふうじゅ)を薪にして賣つても生活は樂ではなささうだ、この村へ行かうとする早川の手前に洗心亭(せんしんてい)といふがある、之れは箱根で名代(なだい)の蕎麥屋である、箱根に來て退屈して居る人は運動がてら一度は必らず行つて風味を試す所である、

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、ルビは一部を除き省略)


宮城野付近の明治29年の地形図
早川沿いに田があったことが見える
(「今昔マップ on the web」より)
この蕎麦屋の名前が登場します。今のところこの蕎麦屋の名前を記しているのを見掛けたのはこの文章だけでした。現在の住宅地図で宮城野付近を探してみましたが、この名を受け継ぐ蕎麦屋は現存しない様です。

「宮城野蕎麦」の名前は、大正11年(1922年)の「四五日の旅 : 名所囘遊」(松川二郎 著 裳文閣)でも確認出来ます。強羅から早雲山に登るケーブルカーの紹介が直前に見えていますが、これは大正8年(1919年)に箱根登山鉄道の鉄道線が強羅までの区間を開業した後、2年後の大正10年に開業したものです。これと前後して、同社と富士屋自働車が自動車事業でしのぎを削る様になったことは以前取り上げた通りです。その結果、箱根に自動車で訪れる人を見込んで「神奈川県自動車案内」(大正10年・1921年 現代之車社 編)の様な案内書も出版され、この中でも「宮城野蕎麦」の名前を見出すことが出来ます。少なくともこの頃までは、この蕎麦屋が孤軍奮闘して評判を取っていたと言えそうです。

しかし、こうした交通の転換はやがて箱根の地を「日帰り旅行」の出来る観光地へと急速に変貌させていくことになります。昭和10年(1935年)に書かれた寺田寅彦の随筆「箱根熱海バス紀行」(リンク先は青空文庫)では、同年4月の日曜日に、思い立って家族で連れ立って箱根と熱海に鉄道とバスで周遊してきた1日の様子が記されています。その締め括りでは

今日は朝の九時半頃家を出て箱根で昼飯を食って二時には熱海へ来た。そうして熱海ホテルでお茶を飲んで七時にはもう(うち)へ帰って夕食を食っていた。九歳の時に人力車で三日かかって吉浜まで来たことを考え合わせてみると、現代のわれわれは昔の人に比べて五倍も十倍も永生きをするのと同等だという勘定になるかもしれない。

(青空文庫より)

という感想を記しています。因みに、この日の一行は箱根町(旧宿場町)のホテルの食堂で昼食を摂っています。

旅程と費用概算. 昭和9年度版」(ジヤパン・ツーリスト・ビユーロー 編)には、東京を発って箱根へ日帰り旅行する場合の旅程や費用が複数紹介されています。そして、この一連の旅程の中では「仙石原」の名を見出すことは出来るものの、「宮城野」の名前は見つかりません。

仙石原には江戸時代に既に温泉はあったのですが、同地に関所が設けられたこともあっていわゆる「箱根七湯」のうちには数えられていませんでした。関所が廃止された明治時代になっても上記の森田富太郎著「箱根温泉案内」では

此地は春間駿州駿東郡邊の農夫村婦の來浴する所なれば浴舎鄙野にして他の温泉の比にあらず且通路は稍險隘(けんあい)にして都人士等の滯溜するもの少し

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、扱いは上に準ず)

と評されており、湯治客向けに開発が進むにはもう少し時代を下る必要があった様です。とは言え、「旅程と費用概算. 昭和9年度版」にも「仙石原温泉」の名が紹介されていることから、その後観光客向けに整備されていったことは確かで、結果的には自動車交通が入ってくる頃になって温泉を持っていたことは有利に働いたと言えそうです。

他方で宮城野はこの時点ではまだ温泉を持っていませんでした(宮城野温泉の開業は第二次大戦後の昭和35年・1960年)。そのためか自動車交通による周遊ルートの中では「通過点」になってしまった様で、日帰り客に素通りされることになったのでしょう。「宮城野蕎麦」がいつ頃まで経営を続けていたのかは定かではありませんが、私見ではこうした箱根の変貌が影を落とした可能性は少なくない様に見受けられます。寺田寅彦が書いた様に、朝と晩は自宅で食事をして出掛けてくる行楽客には、現地での食事の機会が1回しかありません。現地に宿泊しながらであればこの機会がもう少し増え、そのうちの1回は宿泊先以外で摂ってくれるのであれば、宮城野の様な地でも客が来てくれる可能性があったでしょう。その機会が激減してしまった上に、その僅かな食事の機会がバス旅行の中継地に限定されてしまうとあっては、通過点になってしまった地の蕎麦屋には商いの機会がなくなってしまったとしても不思議ではありません。日帰りで手軽にやって来る行楽客相手には、訪れてから蕎麦を打ち始めるという時間の掛かるスタイルは通じ難い面もあったでしょう。更に、元より蕎麦の生産に使える畑が少なく、生産量に多くを望めなかった点も、こうした環境の変化ではマイナスに作用したのかも知れません。


宮城野のかつての田畑も市街化された今では、同地での蕎麦も潰えてしまったと見て良いでしょう。現在は、「箱根そば」と聞いて、小田急電鉄系列の立食系ファストフードチェーンを思い浮かべる人も沿線には多いのではないかと思います。「小田急五十年史」などの社史で、その店名の由緒について記したものを見つけることは出来ませんでした。高度成長期に立食蕎麦の事業を始めた同社が、果たしてかつて箱根山中の一角で営まれていた蕎麦屋のことを意識していたかどうかは定かではありません。ただ、「螢田駅」の命名の経緯を思い返すと、「箱根そば」についてもその歴史について承知していた可能性もないとは言えない気もします。
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【史料集】「新編相模国風土記稿」足柄上郡各村の街道上の位置(その2)

前回に続き、今回も「新編相模国風土記稿」に記録された足柄上郡の各道の地図を紹介します。今回取り上げるのは、3本の「関所道」、すなわち「谷ケ村御関所道」「川村御関所道」、そして「仙石原御関所道」です。


谷ケ村御関所道については、ほぼ「迅速測図」の作成されたエリアから外れていますので、「今昔マップ on the web」上で明治29年の地形図を参照して、古くから存在する道筋を追いました。更に、特に平山村から西の区間については次の探索レポートも参考にしました。


この探索レポートによれば、この区間の江戸時代の道筋は一部藪に埋もれながらも残っているものの、実質的に廃道状態で、崩落によって失われた区間もある様です。また、このレポートにもある様に、明治29年の地形図で確認出来る道筋は明治時代に入ってから付け替えられたもので、江戸時代のものとは異なることがわかります。ただ、道の規模などから馬車などが入るための道ではなかった様で、飽くまでも上り下りのより少ない道筋を求めての改修であった様です。以下の地図ではこの区間について街道の正確な位置を示しているとは必ずしも言えませんが、この道の通過する村を確認する上ではさほど大きく外れる区間はないと思います。

基本的には、谷ケ村御関所道は酒匂川の南岸を抜けて駿河国へと向かう道筋で、平山村がその酒匂川沿いに進む区間の入口に当たります。その先では途中の集落のある場所では川筋に近い位置まで降りてきますが(谷ケ村関所も谷ケ村集落の入口に位置する)、それ以外の区間では酒匂川の険しい谷筋を避け、山の中腹のもう少し高い場所を進んでいた様です。

谷ケ村御関所道:足柄上郡中の各村の位置(北半分)
谷ケ村御関所道の各村の位置(北半分)(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

谷ケ村御関所道:足柄上郡中の各村の位置(南半分)
谷ケ村御関所道の各村の位置(南半分)(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


川村御関所道についても同様に、「今昔マップ on the web」上で明治29年の地形図を参照しながら古い道筋を探し出しました。この道筋についても、明治に入ってからの改修はあったと考えられ、必ずしも江戸時代の道筋とは合わない箇所があると思います。

そのためか、皆瀬川村の項に村の南を川村御関所道が通過すると書かれているのに対し、現在の「山北町皆瀬川」の区域にはこの道筋は掛かっていない点が気掛かりです。あるいはもう少し北側を進んでいたのかも知れませんが、そこまで北側になってしまうと都夫良野村の記述に「村の南に奥山家道(川村御関所道の別名)が係る」とする点の整合性がなくなってしまいます。皆瀬川村には関所を経由して川村山北へ向かう道が別にあったと考える方が筋が通るのではないかと現時点では考えています。この点は後日一覧表に追記します。

また、川西村の字大蔵野で分岐する「奥山家道」については、やはり川村御関所道とは別の道筋と捉えた方が良さそうです。この点についても後日一覧を修正します。この道は「奥三保」と呼ばれる玄倉・中川・世附村へと続く道という位置付けであった筈で、実際神縄村の記述に3村の名前が見えますが、この3村のうち「奥山家道」の記述が見えるのは世附村の項だけになっており、残りの2村については記述がありません。

以下の地図では「風土記稿」のこの状態を考慮して世附の中心的な集落までの道を示しましたが、ここは現在三保ダムによって丹沢湖の湖底に沈んでおり、この区間の位置の特定には1970年代中頃の航空写真を使いました。地図でもこの写真を薄く重ねて表示しています。この写真でも既に三保ダム周辺の造成工事が進んでいるため、造成された地域の道筋は特定できなくなっています。それ以外の区間の道筋については、これも明治29年の地形図を参考にしました。

川村御関所道:足柄上郡中の各村の位置
川村御関所道の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

奥山家道:足柄上郡中の各村の位置
奥山家道の各村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ、1974~78頃の空中写真を合成)


仙石原御関所道については、以前「箱根湯治場道見取絵図」について紹介した際に、「ルートラボ」上で作成した地図を添えました。この時の地図は国道139号線上に線を引いていることから、江戸時代当時の道筋からは多少逸れていることは確かです。そこで今回はこの道についても、「今昔マップ on the web」で明治29年の地形図を参考にしながら、それに近い場所の現道に線を引いてみました。この場合も、明治に入ってから多少なりとも道筋が付け替えられた可能性があるため、特に集落間の道筋については必ずしも江戸時代当時の道筋とは一致しない可能性がありますが、この街道が通過する村々を確認出来る程度の精度は保てていると思います。もっとも、この区間に存在した村は2つしかありませんので、その点での問題が出難い道筋と言えます。

基本的には、現在の国道139号線が早川の谷筋に近い所を進んでいるのに対して、当時の道はより傾斜の緩い、街道の道幅を確保しやすい場所を求めてもう少し標高の高い位置を進んでおり、また、深い谷筋を渡るために巻き道を付けていた様です。

仙石原御関所道:足柄上郡中の各村の位置
仙石原御関所道の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

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短信:当ブログの昨晩の障害状況について(追記あり)

昨日(2015/09/19)19:00頃から私のこのブログを含むFC2ブログ全般で、一部のアクセスが失敗する状況が続いていました。復旧した時刻は不明ですが本日1:00頃だった様です(twitter上のTLからの推測)。

今のところFC2から正式な障害報告が発表されていませんが、私の外部からの一連の障害状況の観察では、対象ユーザはFC2ブログでブログを作っている人で、訪問者リストに履歴を残すために常時ログインしている人だった様です。従ってFC2ブログを使っていない人、もしくはFC2ブログの利用者でも常時ログインをしていない人には影響が出ず、ブラウザを「プライベートモード」に切り替えて擬似的にログアウトしても問題なくアクセスが出来ました。スマートフォンからのアクセスにも問題はなかったという報告もTL上で見掛けましたが、これはスマートフォン上では基本的に専用アプリを使用してブログを更新するため、スマートフォンのブラウザ上ではログインしていないためである可能性が高いと思います。

当該時刻にアクセスを試みて失敗された方々には御不便・御迷惑をお掛け致しました。現在は復旧している様です。後日FC2側から正式なアナウンスが出ましたら、この記事に改めて追記します。



追記(2015/09/22):本件についてはFC2にも問い合わせを行っていましたが、本日09:30頃にメールで回答がありました。また、「最新障害情報・メンテナンス情報ブログ」にも報告が上がりましたが、内容はメールの回答とほぼ同文でした。

FC2ブログ( http://blog.fc2.com/ )におきまして、障害が発生しておりました。

【障害発生期間】

2015年9月19日 19時30分頃 ~ 24時00分頃

【影響範囲】

FC2ブログ全サーバー

【影響内容】

・管理画面にログインしている時、ブログにつながりにくい

現在、復旧済みでございます。

ご報告が遅くなりましたこととご利用の皆様にはたいへんご不便をおかけし、申し訳ございませんでした。

障害中の操作は、反映されていない場合がございます。

その場合、お手数ですが、再度操作を行ってくださいますようお願い申し上げます。


やはり観察した通りFC2ブログの利用者に限って出る現象でした。また、この記事に戴いたコメントの中に予約投稿が公開されていなかったというお話もありましたが、それも「障害中の操作は、反映されていない場合がございます。」という箇所に関係がありそうです。
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【史料集】「新編相模国風土記稿」足柄上郡各村の街道上の位置(その1)

先日に続いて、足柄上郡の各道の地図を少しずつ作っていきます。今回は、脇往還として挙げられている「甲州道」と「矢倉澤道」の地図です。

甲州道」については郡内の距離が長いので、地図を東西に分けました。もっとも、西側の区間は大半が矢倉澤村の域内に入りますので、双方の地図で被っていない区間はほぼ矢倉澤村の域内ということになります。なお、苅野岩村と苅野一式村は現在どちらも南足柄市苅野に入りますが、江戸時代の集落の位置を正確に特定出来なかったので、これらの村については仮の位置にマーカーを置いてあります。沼田村は飛地が甲州道の東側に掛かっており、向かいは岩原村の域内に当たるのですが、紛らわしいので沼田村の本体側にマーカーを置きました。

この区間では塚原村まで箱根外輪山の山裾を進みますが、駒形新宿に入るところで狩川を渡ると、そこから狩川の北側の段丘に上がり、矢倉澤まで一貫してこの段丘上を進みます。矢倉澤関を越えると尾根を1つ越えて内川の谷筋に入り、地蔵堂の辺りから北川の谷筋を経て足柄峠へと向かいます。

甲州道:足柄上郡中の各村の位置(東半分)
甲州道の各村の位置(東半分)(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

甲州道:足柄上郡中の各村の位置(西半分)
甲州道の各村の位置(西半分)(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


矢倉澤道」については、酒匂川の平野を横切る区間が長いことから、「数値地図25000(土地条件)」を薄く重ねました。出来れば「迅速測図」から作成された「明治期の低湿地」を重ねたかったのですが、「迅速測図」がこの地域の東半分までしかカバーしておらず、西側に重ならないので、旧河道の位置などが参考になればと考えて「土地条件図」を代わりに選択した次第です。

吉田島村から竹松村にかけては、酒匂川の旧河道が幾筋も並ぶ地域で、その間の微高地に出来た集落を辿って進んでいる様子が窺えます。その先で関本へと直進せずに和田河原村へと南下しているのは、関本村が乗る段丘面へより緩やかに登る道筋とするためでしょう。

「新編相模国風土記稿」より十文字渡眺望図
「新編相模国風土記稿」卷之十五
松田惣領の項より「十文字渡眺望図」
(「雄山閣版」より)
なお、「十文字渡」の位置ははっきり特定されていないため、この辺りの線は仮の位置に引いています。この特定のために「新編相模国風土記稿」の「十文字渡眺望図」が使えるかとも思ったのですが、十文字渡の向こうに吉田島村を望む、東から西を見ている構図になっている割には、川音川の向きや手前に描かれた人の向かう方角が妙で、果たしてこれをどの様に解釈すべきか少々考えあぐねています。今回の地図では松田惣領から酒匂川を渡る手前で川音川を渡っている可能性が高いのではないかと考え、この様な線引としました。なお、先日作成した各村の記述の一覧表にはこの渡し場についての記述を含めませんでしたが、後日追記する予定です。

先日この道筋の各村の記述をまとめた際には、篠窪村の記述をそのまま加えてしまったのですが、実際は篠窪村はこの道筋に掛かっていないことに気付きました。確かに篠窪村から神山村へ降りて矢倉澤道に合流する道筋が「迅速測図」でも見えていますので、恐らくはこれを「矢倉澤へ向かう道」の意で「矢倉澤道」と呼んだものと思われます。この点は後日一覧表を修正します。

矢倉澤道:足柄上郡中の各村の位置
矢倉澤道の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

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