2015年08月の記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【史料集】「新編相模国風土記稿」大住郡各村の街道の記述(その4)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」中の大住郡の各村の街道の記述を一覧化しています。今回は、大住郡図説で取り上げられた街道のうちの残りの3本、すなわち5本目の大山道と、波多野道、そして厚木八王子道を取り上げます。

5本目の大山道は、足柄上郡図説中で「六本松通大山道」と呼んでいることから、ここでもそれに従って呼ぶことにしました。「キャーッ!大山街道!!」(中平龍二郎著 2011年 風人社)の概略図でも同じ名称が用いられています。但し、この道は以前湘南軽便鉄道を紹介した際に登場した別の大山道と淘綾郡井ノ口村で合流しており、こちらは「波多野道」とも呼ばれていました。もっとも、各村の記述では出発点としては小田原が意識されることが多く、二宮へと向かうことを意識した呼称は少なくとも「風土記稿」では採録されなかったことがわかります。

この大山道についても、前回の「八王子通り大山道」や「蓑毛通り大山道」と同様に、「迅速測図」などを手掛かりに該当する道筋を探し出しました。寺山から尾根筋を越えて子安〜坂本へと降りる道については、「迅速測図」の道筋と比較的重なる区間の長い山路を現在の地形図上から探し出し、大筋でその線に沿う様に線を引きましたが、一部の道筋は失われているものと思います。

厚木八王子道(平塚道)については既に一度取り上げた際に各村の記述を拾い出しましたので、内容的には重複しますが、今回は他の街道の記述などと共に再掲しました。地図もここまでの記述との関連がわかりやすい様に、交差する街道を重ね合わせてみました。

厄介なのが図説で「波多野道」として紹介されている道で、こちらは高麗寺村で東海道から分岐する道であることが淘綾郡図説に記されています。これを手掛かりに、「迅速測図」や大正10年頃の地形図上で比較的主要な道筋として描かれている道筋を追って線を引いてみましたが、幾つか疑問点が残る結果になりました。

例えば、大住郡図説で「淘綾郡出繩・寺坂二村の堺より」と記す箇所については、「迅速測図」上では該当する道筋を見出だせず、出縄村から直接下吉沢村に入る道筋が太めに描かれていて、こちらが主要な道筋であったことを示しています。

また、下吉沢村から曾屋村に至るまでに「四村を経」としていることや、上吉沢村の記述で「金目道」が記されていることから、図説の記述に該当するのは以下の地図の道であろうと推測したものの、その金目道の通る南金目村の記述にも「波多野道」があり、やはり曾屋へと向かっている道があります。この南金目を通る道では通過する村の数が合わないことから、今回は大住郡図説が指摘する道ではないと判断したのですが、上吉沢から土屋へと向かう道筋では迅速測図の「鷺坂」辺りの道が細く描かれており(大正10年の地形図では主要道として描かれている)、字「台吉沢」からこの「鷺坂」までの道筋が迅速測図と大正10年地形図で少なからず食い違うなど、「迅速測図」の描き方からはこの道筋が本当に江戸時代から受け継いだ往還であるとは確実には言えないのも事実です。従って、現時点では南金目村経由の道が該当する可能性がないと言い切れるか、引き続き検証が必要な段階と思います。

ただ、この道筋であれば、東海道筋から曾屋に向かう際に、上吉沢から土屋にかけて多少丘陵地帯の上り下りがあるものの、その先は秦野盆地に金目川の右岸段丘上を進むことになるので、曾屋に着くまで小規模な沢の横断だけで済む点が利点と言えそうです。

さて、大住郡図説で取り上げられた街道についての記述を拾うだけで随分と回数をかけてしまいましたが、これでようやく、これらの何れにも属さない道筋についての記述を洗い出すことが出来ます。それらをひと通り書き上げた上で、どの道筋のことを指しているのかをこれからまとめることになるのですが、流石に時間が掛かりそうなので、数回別の話題の記事を間に挟むことにします。

六本松通り大山道:大住郡中の各村の位置(北半分)
六本松通り大山道:大住郡中の各村の位置(北半分)(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

六本松通り大山道:大住郡中の各村の位置(南半分)
六本松通り大山道:大住郡中の各村の位置(南半分)(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

高麗寺波多野道:大住郡中の各村の位置
波多野道:大住郡中の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

厚木八王子道:大住郡中の各村と交差する街道の位置
厚木八王子道:大住郡中の各村と交差する街道の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


街道「風土記稿」の説明
大山道㈤ ※六本松通り大竹村五十三(十二)此村正保後尾尻村より分村せし事、彼村の條に辨ずる如し、故に地境錯雜して分別し難ければ、四隣町數往還の如きは尾尻村條に合載す、合せ見るべし、
尾尻村五十三(十二)隣村大竹はもと當村より分れたる村なり、正保國圖には大竹村を載せず、元祿圖に至て始て兩村を載たれば正保後分村せしなり、されど元文の頃土人は猶一村とし村高も分たず、都て當村の名主の指揮たりしが、四年小田原宿助鄕の事に依て既に分村せし事を知り、官に訴へ村高を分ちて全く二村とす、されば境界錯雜して各村に辨じ難し依て二村を合載す、…小田原道係る幅九尺、

※現在の住居表示上で確認する限り、大筋で足柄上郡井ノ口村から大竹村に入り、尾尻村へと移る筋であった様である。なお、尾尻村の中心地は新住居表示に伴って「大秦町」と町名を変えている。

(上大槻村)四十九(八)波多野道村の中程に係る幅一丈、

※現在の住居表示上で確認する限り、この道は尾尻村と上大槻村の村境を進む区間があった筈だが、上記の「村の中程」という特徴とは合致しない。少なくとも六本松通りの記述ではないと考えられる。

曾屋村五十二(十一)矢倉澤往來村の中程を通ぜり幅二間下同、人馬の繼立をなす千村へ一里八町、善波村へ一里、足柄上郡井ノ口村へ一里足柄下郡前川村へ三里餘、本郡南矢名村へ一里繼送れり、又南方より大山道入る是も繼立をなせり子安村へ二里餘 蓑毛村へ一里、富士道は西方に在、平塚道は村の中程に在矢倉澤道と十字をなす、
◯金目川 中程を流る幅十二間、板橋四を架す共に長四五間、

※4本のうちの1本がこの道のものである可能性が高い。

落合村五十二(十一)小田原道幅九尺、村の中程に在、伊勢原道幅六尺、東界に在、
◯坂 北方にて小田原道にあり、上松坂と唱ふ登二町許、 …◯金目川 西南の村境を流る幅九尺より十二間に至る、長五間、を架す、
(名古木村)五十二(十一)矢倉澤道幅二間、村の南端に係る、大山道幅一間、西境に在り、

※現在の住居表示では、秦野市名古木の西境の辺りを県道70号が通り、曾屋から蓑毛へと向かう主要道となっている。この道筋を六本松通りと判じた書物もあるが、「迅速測図」を見る限り、この位置に該当すると思われる道筋は落合村を経由する道筋よりも細く描かれており、こちらが六本松通りの主要道であったとは判じ難い。但し、「風土記稿」のこの記述から考えると、あるいは名古木村を抜ける道筋が六本松通りの抜け道として機能していた可能性はあるかも知れない。

寺山村五十二(十一)大山道坂本道共に幅九尺、係れり、

※この道の分岐は寺山村域にあるが、坂本道が坂本村へ向かう道を指すことから、大山道は蓑毛に向かう道を指していることになる。

蓑毛村五十二(十一)往還二條あり、一は富士道幅九尺下同じ、一は小田原道と唱へ村内にて合し、大山に通ず、

※実際は寺山から坂本へと向かう尾根道は蓑毛村との境に位置しているが、ここではその点に触れられていない。

上子安村五十(九)上下二村の地域犬牙して、廣袤四隣、小名山川徑路の如きは各村に辨じ難し、故に二村を爰に合載す、…小田原道幅九尺、大山道幅二間、の二條係れり、大山道は人馬の繼立をなす東は伊勢原村、西は大山へ繼送る共に一里、

※寺山村から尾根を越えて坂を下り始めるまでの区間が子安村の域内にあるものの、ここが上下どちらに属していたかは不詳。曾屋村の記述では、子安村に向けての継立が営まれていることが示唆されているが、当の子安村側にはその様な記述がなされていない。

坂本村五十一(十)往還二條あり共に富士道なり、一は小田原道とも呼ぶ、幅六尺、一は日向越とも呼ぶ、

※2本の大山道(富士道)がそれぞれ「小田原道」「日向越」と別称されていたとなると、田村・柏尾方面からの「大山道」はこの中に含まれないことになる。

◯大山川 大山谿間の淸水、及山中瀧水等落合て一流となり、人家の背後を流る石川なり幅四間、橋十一を架す内二は長六間、二は五間、其餘は小橋なり、

※この橋のうちの1つが、この道の渡る橋と考えられる。

波多野道下吉澤村四十九(八)波多野道或は伊勢原道とも唱ふ、幅九尺、中程を貫く、又東方より入、前路に合する一條あり、是も波多野道と呼ぶ、

※淘綾郡図説では国府新宿〜生沢〜寺坂を経由する道筋が「伊勢原道」と称されていること、出縄村からの道筋が「東方より」とする特徴と一致することから、この記述では後者が該当することになる。

上吉澤村四十九(八)巽より乾に通じて、波多野道係れり、幅九尺下同、此道より分るゝ一路は金目道と唱ふ

※金目道は恐らく南金目村方面に出る道筋。南金目村で曾屋へ向かう道筋と落ち合うことが出来るが、この道が「金目道」と呼ばれていることから、波多野道はそれとは別の道筋を指すことになる。

土屋村四十九(八)波多野道幅九尺、梅澤道幅四尺、曾屋道幅六尺、梅澤道の岐路なり、小田原道幅六尺、の四條係る、

※波多野道、曾屋道の何れもこの道筋を指す可能性を含んでいるが、道幅が上吉沢と一致している点を考慮して前者を当該とした。

◯坂三 鷺坂登三町、關口坂登一町下同、長坂と呼ぶ

※鷺坂はこの道の沿道の小名として大正10年の地形図上で確認出来る。

下大槻村四十九(八)往還二條係る、一は小田原道幅九尺、下同、一は波多野道なり、
上大槻村四十九(八)波多野道村の中程に係る幅一丈、
◯小名 △中里
(尾尻村)五十三(十二)

※迅速測図などから推定した道筋では、波多野道が合流するのは尾尻村を通る六本松通り大山道であるが、尾尻村の街道の記述ではこの大山道を指す「小田原道」が挙げられているのみである。

(曾屋村)五十二(十一)

※大住郡図説では「曾屋村に達す」としているが、実際に合流する地点は尾尻村域であり、曾屋村の街道の記述にも該当するものは見当たらない。

厚木八王子道平塚新宿四十八(七)本宿の東に續けり、此地は慶安四年、八幡村を割きて本宿に加へられ、宿驛の事を勤めしめらる貢税等其地に係る事は、おのづから別にして、本宿には與らず、されば當時は八幡新宿或は新宿村と稱す、今の唱へに改めし、年代詳ならず按ずるに、正保國圖に、八幡新宿、寛文五年の水帳、及元祿國圖は、新宿村と載せ、元祿十六年の割付の書に、始て今の唱を記せり、…東海道は東西に通じ、其左右に民戸百十九内二十四戸は本宿に住す、連住す家並長四町五十七間、脇往還二條あり、一は厚木愛甲郡、八王子武州幅一間下同、一は大山、及曾屋村邊への道八幡社大門より入、字比丘尼御林中にて岐路となり、右は大山、左は曾屋道なり、なり、海道中に市立り、歳首に用ゐる諸物を鬻ぐを以て、餝市と稱す、
◯小名 △西町 △東町
八幡村四十三(二)八王子道幅二間、に係れり、
四ノ宮村四十三(二)八王子道係る、幅二間、此道の左右に一里塚、各高四尺五寸、上は中原上宿に塚あり、下は戸田村邊にありしならん、今廢して詳ならず、あり、
田村四十三(二)大山八王子の二道幅各二間、係る、人馬の繼立をなせり、大山道は、東南、高座郡一ノ宮村へ一里、西北、郡内伊勢原村へ二里、八王子道は西南、淘綾郡、大磯宿へ二里九町、北方、愛甲郡、厚木村へ二里を繼送れり、
◯小名 …△上宿 △下宿 △横宿

※3つの「宿」の小名と街道との位置関係は不詳

◯駒返橋 八王子往來中の石橋長六寸二尺、なり、東照宮此邊御放鷹ありしに、通御の路ありしかば、土人疊莚など鋪くを、御覧ありて、民の煩となる事を思召され、此橋より御馬を返させ給ふ、因て名づくと云、又鷹落シ橋と唱ふるあり、是も同じ御代、御鷹翦て、此橋に落しより名づけしと傳ふ、
大神村四十三(二)往還二條係れり、一は八王子道、一は大山道、共に幅二間、
戸田村四十五(四)大山及駿州富士山への道長後通と唱ふ、幅二間、下同、あり、又東海道平塚宿より武州八王子道も係れり、共に人馬の繼立をなす大山道は東高座郡門澤橋村へ十八町、西、下糟屋村へ一里、八王子道は南、田村へ一里、北、愛甲郡厚木村へ一里を繼送れり、
酒井村四十五(四)矢倉澤・平塚の二道係る共幅二間、
上岡田村・下岡田村四十五(四)矢倉澤道幅二間、藤澤道幅九尺、の二條係れり、

※この道筋は厚木八王子道は矢倉沢道と重複しているが、ここでは矢倉澤道の呼称が優先された形。村域の南端で分かれて平塚道はへと向かう。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は大住郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、該当する箇所を強調表示とした。

※村の配列は、「大住郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。


スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【史料集】「新編相模国風土記稿」大住郡各村の街道の記述(その3)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」中の大住郡の各村の街道の記述を一覧化しています。今回は、大山道として取り上げられた5本の街道のうち、2本目から4本目までを取り上げます。これらは順に「柏尾通り大山道」「八王子通り大山道」「蓑毛通り大山道」などと呼ばれていました。

「柏尾通り大山道」については、前回同様「キャーッ!大山街道!!」(中平龍二郎著 2011年 風人社)を参考にして地図上に街道のルートを引き、沿道の村々を洗い出した上で該当各村の記述を拾い出す方法でまとめました。これに対し、「八王子通り大山道」については同書では他の道の地図上に下糟屋村付近の合流地点の僅かな区間が記されているのみで、残りは相模国内の概略図で主な経由地が提示されているだけなので、これについては別途ネット上で他の方々のレポートなども手掛かりにして、「迅速測図」の道筋を現在の地図に描き出す方法を採りました。「蓑毛通り大山道」についてもやはり同書には概略図上で記されているのみであるため、「八王子通り」と同様の手法で地図を作成しました。

先日矢倉沢往還についてまとめた際には、平沢村で「巡検道」と記されている道が矢倉沢往還であることを見落としていたため、「大山道」と記されている方を矢倉沢往還を指していると考えてしまいましたが、今回「蓑毛通り」の検討中にその点に気付いたため、そちらの記述も併せて修正しています。

柏尾通り大山道:大住郡中の各村の位置(東半分)
柏尾通り大山道:大住郡中の各村の位置(東半分)(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

柏尾通り大山道:大住郡中の各村の位置(西半分)
柏尾通り大山道:大住郡中の各村の位置(西半分)(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

八王子通り大山道:大住郡中の各村の位置
八王子通り大山道:大住郡中の各村の位置(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

蓑毛通り大山道:大住郡中の各村の位置(北半分)
蓑毛通り大山道:大住郡中の各村の位置(北半分)(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

蓑毛通り大山道:大住郡中の各村の位置(南半分)
蓑毛通り大山道:大住郡中の各村の位置(南半分)(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)



「風土記稿」の説明
大山道㈡ ※柏尾通り戸田村四十五(四)大山及駿州富士山への道長後通と唱ふ、幅二間、下同、あり、又東海道平塚宿より武州八王子道も係れり、共に人馬の繼立をなす大山道は東高座郡門澤橋村へ十八町、西、下糟屋村へ一里、八王子道は南、田村へ一里、北、愛甲郡厚木村へ一里を繼送れり、
◯渡船場 相模川にあり、大山道の係る所なり、戸田渡と呼ぶ渡幅一町許、當村及對岸高座郡門澤橋村二村にて進退す、
下津古久(しもつこく)四十五(四)大山道、村の南境にかゝれり幅二間、
長沼村四十五(四)大山道係れり柏尾道と唱ふ、幅二間、
◯玉川 西堺にあり幅六間、板橋を架す長十二間、

※現在は「玉川緑道」となっている。厚木市内に同じ名前の川があるが別の川。

上落合村四十五(四)大山道東南にあり幅二間、

※南の長沼村との境を通る。

下落合村四十五(四)大山道かゝれり長後道と唱ふ、幅二間、
◯玉川 東堺にあり幅六間、板橋を架す長十二間、

※長沼村の板橋と同じものを指していると考えられる。

見附島村四十五(四)大山道係れり、幅二間、

※かつての道筋が南端を少しかすめる。

下糟屋村四十四(三)脇往來四條係れり、大山道幅二間下同、矢倉澤道・伊勢原道・田村道等なり、人馬繼立をなす、矢倉澤道は、北、愛甲郡愛甲村へ一里、南、郡中伊勢原村へ十八町、大山道は、西、上糟屋村へ一里、東、戸田村へ一里を繼送る、

※現在の住居表示と比較する限りでは、咳止め地蔵の辻で大山への道と分岐する所までほぼ下糟屋村域内に収まっている。

粟久保村四十四(三)村内に矢倉澤道・大山道・八王子道の三條係れり、共に幅八尺、

※この区間の柏尾通りは矢倉沢往還と重なっている。粟久保村域南端僅かな距離を掠める道を矢倉澤道と称していたのだとすると、大山道はその抜け道を指していることになる。ただ、この抜け道は飽くまでも矢倉澤道の抜け道なので、南端を掠める道の方を大山道と呼ぶ意図であった可能性もある。この2本の道以外に大山道とも呼ばれる道が村域内にあったか否かは今のところ不明。

田中村四十六(五)往還二條通ず一は矢倉澤道、幅二間 一は日向藥師道、幅八尺、此外村界に大山道二條あれど、當村の地にあらず、

※「当村の地ではない」大山道のうちの1本は北端の柏尾通りを指すと思われる。現在の住居表示では、該当する道筋の南側は伊勢原市田中。

上糟屋村四十四(三)往還五條を通ず、其二は大山道、一は田村通と唱ふ、幅二間、一は長後通と云、小名石藏にて田村通に合す、幅一丈、一は八王子武州、道、幅一丈、一は荻野愛甲郡、道、幅八尺、下同一は藥師日向村、道と唱ふ、
◯小名 △石藏 …△峯岸 …△臺 △久保

※地形図上では柏尾通りの途上に「台久保」という地名があるのが確認出来る。

大山道㈢ ※八王子道(東富岡村)四十四(三)脇往還三あり、一は大山道二は八王子道なり、共に幅八尺、

※大住郡図説では、八王子通りは愛甲郡岡津古久(おかつこく)村から西富岡村に入るとしており、この点は愛甲郡図説の記述とも整合性が取れている。しかし、現在の住居表示で見る限り、旧道は伊勢原市総合運動公園の辺りから先で東富岡の北西を抜けており、津古久峠も東富岡との境に位置している。西富岡村域から直接岡津古久村域へ入る道筋は迅速測図には見当たらず(現在の県道63号は明治期の開通)、図説の執筆時に東西を取り違えたのではないかと考えられる。その場合、2本の八王子道の1つが八王子通り大山道を指すと思われる。

西富岡村四十四(三)往還四條あり、一は津久井縣道、幅九尺下同、一は荻野道、一は日向道、一は大山より荻野への道なり、

※荻野道、大山より荻野への道のどちらもこの道を指す可能性があるが、上粕屋の石倉から山麓を経て西富岡村域内に入る道(現在の県道603号に一部重複する道)が迅速測図上でも確認出来、あるいはこの道が後者に当たると思われる。よって、ここでは前者を八王子通り大山道に該当する道と判断した。

上糟屋村四十四(三)往還五條を通ず、其二は大山道、一は田村通と唱ふ、幅二間、一は長後通と云、小名石藏にて田村通に合す、幅一丈、一は八王子武州、道、幅一丈、一は荻野愛甲郡、道、幅八尺、下同一は藥師日向村、道と唱ふ、

※八王子道、荻野道のどちらもこの道を指す可能性があるが、荻野を経由するこの道の特徴を考えると、後者を八王子通り大山道の意で呼んだ可能性が高い。但し、その場合八王子道がどの道を指すかが現時点で不明。

◯澁田川 北方、澁田山の麓より流出し、西富岡村に入、又當村に來る、上流幅四尺、下流三間、源は、弓張川善波太郎此川水にて、弓弦を潤して張りしより名づくと云、と唱へ、再び村内に入て澁田川の名あり、橋六を架す、共に長五間、

※うち1本がこの街道中にあると考えられる。

大山道㈣ ※蓑毛道澁澤村五十三(十二)往來二條一は小田原道一は道共に幅一丈、係れり、

※足柄上郡図説で渋沢村から篠窪村へ抜ける道が「小田原道」と記されているため、恐らく蓑毛通り大山道を意図しているものと思われる。

◯小名 △峠土人は峠村と唱へて枝鄕の如くせり、

※蓑毛通りはこの谷間に展開する集落を迂回する様に尾根筋を進む。

(千村)五十三(十二)

※蓑毛通りの道筋を仔細に見ると、一部渋沢村と千村の境を進む区間があるが、千村の記述には矢倉沢往還のみが現れ、蓑毛通りについては記載が見当たらない。

堀齋藤村五十三(十二)隣村堀沼城は、當村の分村年代詳ならず、にして其地の境界錯雜して廣袤四隣、山川小名道路の如き各村に分別し難し、故に二村を合て爰に記す、…巽方に大山道係る幅二間、
堀沼城村五十三(十二)此村堀齋藤村より別れし地なれば境界悉く錯雜し、町數四隣、其餘小名川往還等に至る迄分ち記し難し故に彼村の條に合載す、

※明治時代に入って堀齋藤村と堀沼城村は合併して堀西村となり、現在の番地表記でもこの「堀西」の表記が維持されている(一部新番地表記に伴って町名が変更されている)。現在残る2地区の「堀西」のうち、東側を蓑毛通り大山道が通過する点では記述に合うが、この地がかつての2つの村のどちらに属していたかは不明。迅速測図から判断して村の中心地は西側にあり、街道はそこから離れた畑地の只中を進んでいたと考えられるため、堀齋藤村の「字大道ノ庭」は大山道を指すものではないと思われる。

堀川村五十三(十二)大山往來幅二間、東南に係れり、
堀山下村五十三(十二)大山より駿州富士山への往來係れり幅二間、
平澤村五十三(十二)大山道幅九尺又富士道とも云、巡檢道幅二間、二條係る、
◯堀 乾方に在、水無川に合す幅七八間或八十間板橋を架す長二十二間餘大山道の係る處なり、

※この「巡検道」が矢倉沢往還を指していることは、天保六年二月の「大住郡渋沢村地誌御調書上帳」(「相模国村明細帳集成 第二巻」所収)で確認が出来る。従って、「大山道」が蓑毛通りを指しているものと判断できる。

曾屋村五十二(十一)矢倉澤往來村の中程を通ぜり幅二間下同、人馬の繼立をなす千村へ一里八町、善波村へ一里、足柄上郡井ノ口村へ一里足柄下郡前川村へ三里餘、本郡南矢名村へ一里繼送れり、又南方より大山道入る是も繼立をなせり子安村へ二里餘 蓑毛村へ一里、富士道は西方に在、平塚道は村の中程に在矢倉澤道と十字をなす、
西田原村五十二(十一)富士道係る幅二間、
東田原村五十二(十一)村の中程に富士大山への通路幅二間、あり、又平塚宿への往來係れり村の中程にて富士道に合す、幅九尺、
蓑毛村五十二(十一)往還二條あり、一は富士道幅九尺下同じ、一は小田原道と唱へ村内にて合し、大山に通ず、
◯坂 村内大日堂より石尊社へ行道にあり登五十三町、
(小蓑毛村)五十二(十一)

※小蓑毛村の村域は蓑毛村の中に挟まる様な形で存在しており、蓑毛通りは東田原村から蓑毛村に入った後、一旦小蓑毛村の域内を通過して再び蓑毛村に入っている。しかし、「風土記稿」では小蓑毛村の項には街道に関する記述がない。

大山五十一(十)男坂を登る事十八町にして不動堂在、堂前樓門の下右に折する山路を日向越と云、又堂の左方に路あり、是を蓑毛越と稱す、

※神仏分離令の発令までは不動尊が現在の下社の位置にあった。現在の大山不動尊(大山寺)は一旦破却され、大正時代により低い位置で再建されたもの。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は大住郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、該当する箇所を強調表示とした。

※村の配列は、「大住郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。


  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【史料集】「新編相模国風土記稿」大住郡各村の街道の記述(その2)

前回の続きで、大住郡の各村の街道の記述を一覧化しています。

前回も書いた通り、当初は各村の記述を拾いながら各街道に割り振るという作業手順を踏んでいたのですが、これだけ記述が混乱しているとなると、この方法では埒が明かないと判断しました。そこで、代わりに別の資料を元に既に道筋が確定している街道について、通過する村々の記述を拾い、それで該当しなかった記述を後から整理するという手順に切り替えることにしました。

幸い、大山道については次の書籍が仔細な部分まで現地調査されていて信頼性が高いため、こちらを中心に各街道の道取りをチェックして沿道の村々を洗い出すことにしました。

  • 「ホントに歩く大山街道」中平龍二郎著 2007年 風人社
  • 「キャーッ!大山街道!!」中平龍二郎著 2011年 風人社

また、ここまでは一覧化する際にその道の記述ではないものを中略する形に整えてきましたが、方針の変更に伴って一覧が細分化されるため、外の街道の記述についても省略せず、必要に応じて該当箇所を強調する形に改めます。これらの記述の中にも、既に大住郡図説では見られない街道の名前が登場することがわかると思います。

今回は矢倉沢往還と田村通り大山道を取り上げます。田村通りは大住郡図説中で取り上げられた5本の大山道では、最初に挙げられていました。これらの街道筋の村々のチェックに使った地図は以下の通りです。念のため、矢倉沢往還については「ホントに歩く大山街道」で指摘されている旧道や抜け道についても図中に表示し、通過する村域を確認しています。

矢倉沢往還:大住郡中の村々の位置(東半分)
矢倉沢往還:大住郡中の村々の位置(東半分)
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

矢倉沢往還:大住郡中の村々の位置(西半分)
矢倉沢往還:大住郡中の村々の位置(西半分)
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

田村通り大山道:大住郡中の村々の位置(東半分)
田村通り大山道:大住郡中の村々の位置(東半分)
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

田村通り大山道:大住郡中の村々の位置(西半分).
田村通り大山道:大住郡中の村々の位置(西半分)
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)


「風土記稿」の説明
矢倉澤往來上岡田村・下岡田村四十五(四)矢倉澤道幅二間、藤澤道幅九尺、の二條係れり、

※この道筋は厚木八王子道と重複しているが、ここでは矢倉澤道の呼称が優先された形。村域の南端で厚木八王子道から分かれて西へと向かう。

酒井村四十五(四)矢倉澤・平塚の二道係る共幅二間、

※北側で岡田村と隣接しており、矢倉澤道はその境を進んだのち、村域に入る。

※ここで愛甲村を経由するため、一旦愛甲郡域に入った後、再び大住郡に戻る。

石田村四十五(四)脇往來二條係る、一は大山道幅二間、一は平塚宿道幅一丈、なり、
高森村四十四(三)村内に矢倉澤道、幅二間、あり、又藤太道と唱ふる小徑あり、幅八尺、是は村内より分れ、愛甲村界迄の道なり、糟屋藤太有季の開きし道と云有季が事は、上糟屋村に見えたり、

※「ホントに歩く大山街道」では、高森村の域内での矢倉澤道が一度付け替えられていることを示唆しているが、どちらも高森村域内に収まっている。

下糟屋村四十四(三)脇往來四條係れり、大山道幅二間下同、矢倉澤道・伊勢原道・田村道等なり、人馬繼立をなす、矢倉澤道は、北、愛甲郡愛甲村へ一里、南、郡中伊勢原村へ十八町、大山道は、西、上糟屋村へ一里、東、戸田村へ一里を繼送る、

※現在の住居表示と比較する限りでは、咳止め地蔵の辻で大山への道と分岐する所までほぼ下糟屋村域内に収まっている。

粟久保村四十四(三)村内に矢倉澤道・大山道・八王子道の三條係れり、共に幅八尺、

※現在の住居表示と比較する限りでは、国道246号線下糟屋交差点西側でごく僅かな距離下糟屋と粟窪の境を進むのみ。但し、抜け道は粟窪神社(江戸時代には第六天社)の北側で村内を通過している。

田中村四十六(五)往還二條通ず一は矢倉澤道、幅二間 一は日向藥師道、幅八尺、此外村界に大山道二條あれど、當村の地にあらず、
伊勢原村四十六(五)往還四條三條は大山道にて、其一は東海道の内、四ツ谷村より入る、一は大磯平塚邊よりの道、一は下糟屋村より來る、此三路は東南の方にて合し、一條となる、幅三間餘、一は金目觀音道なり、幅一丈、係れり、民戸百六、往還の兩側に連住し、時用の物を鬻ぎ或は旅店をなす、每年大山祭禮の頃は殊に賑へり、當村人馬の繼立をなす乾の方、上子安村へ一里、巽の方田村へ二里、艮の方愛甲郡愛甲村へ一里餘、西の方善波村へ一里繼送る、御鷹匠通行の時は田中・沼目・上下平間・大竹・下糟屋等の村々より人夫を出して是を助く、每月三八の日、市を立立始めし年代詳ならず、諸物を貿易す此時近鄕より穀を商ふ者來りて、定價を商議す、十二月二十三・廿八日の兩日は、往來中に假店を張り、歳首に用ゐる諸品を交易せり市場役錢を地頭に納む、

※継立の記述から見て、三路の大山道のうちの1本が矢倉澤道を指す可能性は高いが、「此三路は東南の方にて合し」は村域の北西を通過する矢倉澤道の特徴と合わない。

板戸村四十六(五)往還三條一は矢倉澤道幅一丈、一は大山道幅二間、此道側に連住する民三十戸許あり、旅店或は諸物を鬻ぎ、伊勢原村市の日は、殊に賑はへり、一は大山道の岐路にして、小田原への道なり、幅一丈、あり、御鷹匠通行には人馬の繼立をなす善波村へ繼送る、粟窪・東西富岡・上糟屋・白根・三之宮・神戸等都て七村より人馬を出す、是を助村と稱す、
白根村五十(九)村の中程を矢倉澤道幅二間、通ず、又西北の村界を通ずる一條は、武州八王子への道なり、幅九尺、
神戸(ごうど)五十(九)往還四條係る大磯道・矢倉澤道・大山道・伊勢原道等なり、各幅二間此所人馬繼立場にはあらざれど、官事には、善波十八町下同、伊勢原・富岡凡一里、等の村々へ繼送る事あり、
◯鈴川 村の中程を流れ、串橋村へ注ぎ、復村内に入れり幅八間、板橋長八間、一を架す、
串橋村五十(九)村北に矢倉澤道幅九尺、係れり、此道に岐路二條あり、一は大山道幅九尺、一は大磯道幅七尺、なり、
坪之内村五十(九)波多野道幅一丈、東西に通ず、此道中程に岐路あり、小田原道なり、
善波村五十(九)往還一條矢倉澤往來、又波多野道とも唱ふ、幅一間半、御鷹御用通行の時人馬繼立をなす、東方伊勢原村、西方曾屋村へ各一里、神戸村へ十八町繼送れり、坪之内・笠窪・串橋三村より人馬を出して是を助く、此繼立は寛政の末、文化の初の頃より勤むと云
◯善波峠 矢倉澤道の係る所にて、一に切通と呼ぶ登廿町許、道幅一間半、此路次所々に老松多くして人の目標に係れり、 ◯坂六 四は善波峠に至る路次にあり、上ノ坂・下ノ坂・石ナ坂・切通坂等の名あり、一は今井坂、一は樋口坂と呼、
名古木村五十二(十一)矢倉澤道幅二間、村の南端に係る、大山道幅一間、西境に在り、
◯山 東北の方に連れり、東の方矢倉往來の係る所を善波峠と呼り、此峠善波村と當村の境なり登三町十二間許、
曾屋村五十二(十一)矢倉澤往來村の中程を通ぜり幅二間下同、人馬の繼立をなす千村へ一里八町、善波村へ一里、足柄上郡井ノ口村へ一里足柄下郡前川村へ三里餘、本郡南矢名村へ一里繼送れり、又南方より大山道入る是も繼立をなせり子安村へ二里餘 蓑毛村へ一里、富士道は西方に在、平塚道は村の中程に在矢倉澤道と十字をなす、
◯金目川 中程を流る幅十二間、板橋四を架す共に長四五間、

※4本のうちの1本が矢倉澤道のものである可能性が高い。

平澤村五十三(十二)大山道幅九尺又富士道とも云、巡檢道幅二間、二條係る、

※2015/08/26追記:一旦「大山道」を矢倉沢往還と指摘したが撤回。天保六年二月の「大住郡渋沢村地誌御調書上帳」(「相模国村明細帳集成 第二巻」所収)で、平沢村から渋沢村を経て千村へ抜ける道を「巡檢道」と呼んでおり、同村で矢倉沢往還の道筋を当時「巡検道」と呼んでいた可能性が高い。恐らく平沢村でも同様であったと考えられる。

澁澤村五十三(十二)往來二條一は小田原道一は道共に幅一丈、係れり、

※明らかに後者の道の名を書き損じているが、「国立国会図書館デジタルコレクション」で確認出来る鳥跡蟹行社版でも状況は変わらない。足柄上郡図説で渋沢村から篠窪村へ抜ける道が「小田原道」と記されているため、恐らくはこの名称を書き損じた方が矢倉澤道を意図しているものと思われる。

()五十三(十二)矢倉澤往來係る幅二間半人馬繼立をなす西、足柄上郡松田惣領、北本郡曾屋村へ繼送る共に一里八町の里程なり、但近隣十三村より人馬を出し是を助く
◯坂 西に在、矢倉澤往來の係る所なり、屈掛坂と唱ふ登八町餘
大山道㈠ ※田村通り田村四十三(二)大山八王子の二道幅各二間、係る、人馬の繼立をなせり、大山道は、東南、高座郡一ノ宮村へ一里、西北、郡内伊勢原村へ二里、八王子道は西南、淘綾郡、大磯宿へ二里九町、北方、愛甲郡、厚木村へ二里を繼送れり、
◯小名 △横内本村の西にありて、二區をなし、宛も別村の如し、 △上宿 △下宿 △横宿

※横内は現在平塚市横内として町名に残っており、田村通りはこの中を抜けていく。3つの「宿」の小名と街道との位置関係は不詳

◯渡船場 相模川にあり、大山道の係る所なり、當村及高座郡一ノ宮・田端三村の持、船四艘を置、往來に便す、渡頭より雨降・二子山等の山々、及富嶽を眺望し、最佳景なり、
大島村四十六(五)大山道幅一丈二尺、村内を通ず、
◯玉川 村東を流る幅八間、土橋を架す高橋と唱ふ長八間、 ◯澁田川 村の中程を流る幅二間、東方にて玉川に合す、
下谷村四十五(四)往還二條一は大山道、幅一丈餘、一は傳馬往來と呼ぶ、幅二間、係れり、

※小鍋島村との境を進む。

小鍋島村四十六(五)大山幅一丈一尺、中原幅九尺下同、平塚等の道、三條係れり、
上平間村四十六(五)往還二條係る一は大山道、幅二間、一は中原道、幅九尺、

※沼目村との境を進む。

沼目村四十六(五)大山道幅二間下同、中原道・日向道大山道の岐路なり、幅九尺、の三條係れり、
大竹村四十六(五)村内に大山道三條一は田村通幅二間、一は大磯平塚邊よりの道幅一丈、下同、一は伊勢原道なり、及小田原道幅二間、等係れり、

※現在は一部が新番地表記に伴って「桜台」と称しており、田村通りはこの中を抜ける。なお、大住郡中に大竹村が2箇所存在するため、明治時代に入って伊勢原側の大竹村は「東大竹村」と称する様になった。

伊勢原村四十六(五)往還四條三條は大山道にて、其一は東海道の内、四ツ谷村より入る、一は大磯平塚邊よりの道、一は下糟屋村より來る、此三路は東南の方にて合し、一條となる、幅三間餘、一は金目觀音道なり、幅一丈、係れり、民戸百六、往還の兩側に連住し、時用の物を鬻ぎ或は旅店をなす、每年大山祭禮の頃は殊に賑へり、當村人馬の繼立をなす乾の方、上子安村へ一里、巽の方田村へ二里、艮の方愛甲郡愛甲村へ一里餘、西の方善波村へ一里繼送る、御鷹匠通行の時は田中・沼目・上下平間・大竹・下糟屋等の村々より人夫を出して是を助く、每月三八の日、市を立立始めし年代詳ならず、諸物を貿易す此時近鄕より穀を商ふ者來りて、定價を商議す、十二月二十三・廿八日の兩日は、往來中に假店を張り、歳首に用ゐる諸品を交易せり市場役錢を地頭に納む、

※田村道と平塚道が村の東南で合流するという特徴は合っている。

板戸村四十六(五)往還三條一は矢倉澤道幅一丈、一は大山道幅二間、此道側に連住する民三十戸許あり、旅店或は諸物を鬻ぎ、伊勢原村市の日は、殊に賑はへり、一は大山道の岐路にして、小田原への道なり、幅一丈、あり、御鷹匠通行には人馬の繼立をなす善波村へ繼送る、粟窪・東西富岡・上糟屋・白根・三之宮・神戸等都て七村より人馬を出す、是を助村と稱す、
田中村四十六(五)往還二條通ず一は矢倉澤道、幅二間 一は日向藥師道、幅八尺、此外村界に大山道二條あれど、當村の地にあらず、

※「当村の地ではない」大山道のうちの1本は西端の田村通りを指すと思われる。現在の住居表示では、該当する道筋の東側は伊勢原市田中。

(下糟屋村)四十四(三)脇往來四條係れり、大山道幅二間下同、矢倉澤道・伊勢原道・田村道等なり、人馬繼立をなす矢倉澤道は、北、愛甲郡愛甲村へ一里、南、郡中伊勢原村へ十八町、大山道は、西、上糟屋村へ一里、東、戸田村へ一里を繼送る、

※ここでの大山道は柏尾通りを指しており、継立もそちらへ向かっている。現在の住居表示や迅速測図などと照らしても、田村通りは下糟屋村域の西側かなり離れた場所を通過しており、飛地の存在も「風土記稿」中で指摘されていないことから、この記述が田村通りを指すものとは考え難い。あるいは別の田村へ向かう道筋を指していた可能性もあるが、不詳。

上糟屋村四十四(三)往還五條を通ず、其二は大山道、一は田村通と唱ふ、幅二間、一は長後通と云、小名石藏にて田村通に合す、幅一丈、一は八王子武州、道、幅一丈、一は荻野愛甲郡、道、幅八尺、下同一は藥師日向村、道と唱ふ、
◯小名 △子易 △石藏伊之久良 △七五三引之女比喜 △峯岸

※現在は「石倉」「〆引」「峰岸」と表記するが、地形図上で田村通り沿いにこの順で北西から南東にかけて並んでいるのが確認出来る。

上子安村五十(九)上下二村の地域犬牙して、廣袤四隣、小名山川徑路の如きは各村に辨じ難し、故に二村を爰に合載す、…小田原道幅九尺、大山道幅二間、の二條係れり、大山道は人馬の繼立をなす東は伊勢原村、西は大山へ繼送る共に一里、
◯小名 △二ッ橋大山の麓、銅鳥居の前に板二枚を架せる橋あり、其邊を唱ふ、按ずるに、…
◯坂二 諏訪坂・這子坂の名あり、共に大山道の係る所なり、
下子安村五十(九)小名山川往還等は皆上村に合載す、民家五十一大山道に住して旅店をなす、當村も大山道の人馬繼立をなす事、上村に同、

※「風土記稿」の記述が上下合わせてのものになっているため、ここでは「風土記稿」中の順序を維持した。位置関係の点でどちらが伊勢原寄りにあるかは不詳。

坂本村五十一(十)土人は大山町と稱し、村名を唱へず、…家數三百十一内大山寺師職の者、百四十九、皆往來の左右に連住す、…往還二條あり共に富士道なり、一は小田原道とも呼ぶ、幅六尺、一は日向越とも呼ぶ、

※2015/08/27追記:一旦「小田原道」を該当の記述としたが、その後「小田原道」が寺山村方面から降りてくる道であることが明らかとなったため撤回。2本の大山道(富士道)がそれぞれ「小田原道」「日向越」と別称されていたとなると、田村・柏尾方面からの「大山道」はこの中に含まれないことになる。

◯大山川 大山谿間の淸水、及山中瀧水等落合て一流となり、人家の背後を流る石川なり幅四間、橋十一を架す内二は長六間、二は五間、其餘は小橋なり、

※この橋のうちの1つが、大山道の渡る橋と考えられる。

(大山)五十一(十)

※大住郡図説では田村通りについて「大山に達す」と記すものの、実質的に坂本村から先は大山の参道と見られ、「田村通り」としての記述は見当たらない。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は大住郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、該当する箇所を強調表示とした。

※村の配列は、「大住郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。


  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【史料集】「新編相模国風土記稿」大住郡各村の街道の記述(その1)

「新編相模国風土記稿」の各村の記述に現れる街道の記述を、ここまで足柄上郡足柄下郡淘綾郡と一覧にしてきましたが、今回は大住郡の一覧を取り上げます。

足柄下郡では東海道の分だけでもかなりの分量になったので、それ以外の脇往還とは分けて提示しました。大住郡の場合、東海道の通過する距離が相対的に短く、沿道の村が宿場を含めて3つと少ないので、分量的には別立てにする意味はあまりなさそうですが、それ以外の街道の記述が多いこと、更に以下に述べる様な問題があって一覧をまとめるのに時間が掛かりそうなので、敢えて東海道の分だけを先に出してしまうことにしました。

なお、小田原宿の時と同様、平塚宿についても宿場の継立に関する記述は以前まとめたものに譲り、ここではそれ以外の記述に限定しました。

ここで名前が登場する村や宿場の位置関係をプロットしてみました。

東海道:大住郡中の各村の位置
東海道筋の大住郡中の各村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャし、リサイズ)


また、馬入の渡しの記述に登場する助郷の村々の位置関係を示すと次の様になります。定助郷については須賀・柳島以外は必ずしも相模川沿いの村が受け持っていた訳ではないので、飽くまでも人足を出していたのに対して、大通行の際には船が不足することになるので、必要に応じて船を出せる相模川沿いや海岸沿いの村々に応援を頼むことになっていたことがわかります。また、中にはかなり遠方からの出張を強いられることになった村が含まれていたことも窺い知ることが出来ると思います。厚木から馬入の渡しまでで約12km、鎌倉・材木座から浜伝いに馬入の渡しまでは20km近く隔たっています。

馬入の渡し:助郷の村々
馬入の渡しの助郷の村々、青が定助郷、緑は大通行時の加助郷の村々
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャし、合成の上でリサイズ、
「色別標高図」「明治期の低湿地」を合成)



「風土記稿」の説明
東海道馬入村四十三(二)東海道往還、村内を東西に貫く、道幅三間餘、爰に一里塚、高六尺、上に榎樹あり、東方は高座郡、茅ヶ崎村、西方は淘綾郡、大磯宿への一里塚なり、あり、又北方に、東海道古往還と稱する小徑あり、幅二間、往古は今の渡馬入渡、より、五町許、川上を渡りて、往來せしと云傳ふ、其頃の海道なり、按ずるに、此地舊くより、海道にして、相模川の係る所なれば、古書に、相模川を渡りしなど記し、或は相模川合戰とあるは、皆當所の事なるべし、故に今爰に載す、
※この「東海道古往還」について、具体的にどの道筋を指すのか、またこの言い伝えの是非等について不詳。
◯相模川 村の中程を流る、幅七十間餘、當村にては馬入【豆相記】馬生に作る、川とも唱ふ、…◯渡船場 相模川にあり、東海道の往還にて、馬入渡と唱ふ、渡幅七十間餘、是平水の時なり、常は船六艘渡船三、平田船二、御召船と稱する一を置、但一艘に水主三人宛なり、是は當村及定助鄕の村より出す 其村々は、高座郡、萩園・下町屋・今宿・松尾村等なり、又郡中須賀村、高座郡、柳嶋村も定掛りにして、獵船二艘を出せり、を置、往來を渡す、蓋通行多き時は、助鄕の村々高座郡、田端・一之宮・門澤橋・中新田・河原口等五村、當郡、戸田・大神・田村三村、愛甲郡、厚木村、鎌倉郡、材木座・坂之下二村等なり、但大神・田村の兩村は、五年づゝ、相替て勤むと云、より、若干の船を出せり、當所渡守へ、二十石の畑七町六畝五歩、地を賜ひ又寛文年中より、船頭等に月俸十口を賜ふ、川會所一宇あり、川年寄と稱し、渡船の事に與る者、爰に在て、其指揮をなす、
平塚新宿四十八(七)本宿の東に續けり、此地は慶安四年、八幡村を割きて本宿に加へられ、宿驛の事を勤めしめらる貢税等其地に係る事は、おのづから別にして、本宿には與らず、されば當時は八幡新宿或は新宿村と稱す、今の唱へに改めし、年代詳ならず按ずるに、正保國圖に、八幡新宿、寛文五年の水帳、及元祿國圖は、新宿村と載せ、元祿十六年の割付の書に、始て今の唱を記せり、…東海道は東西に通じ、其左右に民戸百十九内二十四戸は本宿に住す、連住す家並長四町五十七間、…海道中に市立り、歳首に用ゐる諸物を鬻ぐを以て、餝市と稱す、
◯小名 △西町 △東町
平塚宿四十八(七)東海道宿驛の一にして、江戸日本橋より十五里半、…此地宿驛となりし、始め詳ならざれど、古書に往々所見あれば舊く置れし事論なし、後世正保元祿の頃は平塚村と稱す正保元祿國圖其後宿と改めし年代詳ならず按ずるに、元文中の物に平塚町と記せしあり、…慶安四年當宿困窮なるに依て、平塚新宿を以て宿内に加へられ、役夫傳馬等は勿論、都て宿驛に與る事は本宿と同く勤めしめらる、…東海道往還は東西に貫く幅四間一尺より六間に至る、民戸二百八十九、多くは往還の左右に、連住す宿の家並、九町五間、本陣脇本陣及旅籠屋四十八二等あり、中十五、小三十三、あり、
◯小名 …△二十四軒町新宿の民廿四戸爰に移る、故に此唱あり、 △十八軒町二十四軒町より東方の民戸十八爰に移る、依て名とす、 △柳町 △西仲町 △東仲町
◯花水川 西境を流る幅十三間より十五間に至る、南原村にて新川と稱する川筋なり、宿の乾の方山下淘綾郡の屬、德延村等の境にて、金目川・玉川の兩新川落合ひ、是より花水川の名あり流末海に注す、…但此川もとは今の流より少く南にありしが、水流不便なる故、寶永六年堀改めらる、古の川蹟今に細流幅一二間、あり、古花水川と呼ぶ、末は丸池に入、夫より花水川に沃ぐ、土橋一、古花水川に架す長六間、

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は大住郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「大住郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。


さて、ここまでの一覧を作るに当っては、基本的に各郡図説の街道の記述を参照しながら、各村の記述に見える街道の記述を振り分けていくという手法で作業を進めました。街道内の順序を決める際には、各種地図を参照して位置関係を把握しながら、各村の四隣に現れる村の名称や記述を照合して判断していました。足柄下郡には一部「小田原道」の記述に図説中にない道筋を指すと考えられるものが若干含まれていましたが、それ以外は大筋で照合に問題を感じる点は少なかったと感じています。

これに対し、大住郡の各村の記述はかなり「混乱」している様に見えます。例えば図説中には全部で5本の「大山道」が示唆されていますが、各村の「大山道」の中にはその5本の何れにも当て嵌まらない道筋を指しているものが多数見つかります。また、図説中にはない名称の街道も多数見つかりますが、これらの中には「大山道」と別称されているものも含まれている様でもあり、これが更に照合を難しいものにしています。更に、明らかに村域を通過している筈の街道の記述が抜けているケースも幾つか存在しています。大住郡図説に掲示されている「今考定図」と照合しても、各村に記されている街道が図上には見当たらないものも少なくありません。

このため、大住郡の街道の照合には「風土記稿」以外の資料を参照しながら判断する必要がある箇所が多く、果たしてこれらをどこまで整理し切れるかが課題になってきます。また、ここまで見てきた各郡に対して大住郡の記述が何故この様な状態になっているのかも、「風土記稿」の記述の性格を考える上では重要な手掛かりになるのではないかと考えています。

次回は東海道以外の街道の一覧を掲げる予定ですが、もうしばらく時間が必要になるかも知れません。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

足柄上郡川西村「男女妙薬 食物くい合いろは歌」をめぐって

今回は、江戸時代の民間療法の一端が窺える史料を1点取り上げます。民俗的な風合いの強い点で少々珍しい史料と言えるでしょう。


山北町川西透間の位置
西側で静岡県に接する地域
「山北町史 史料編 近世」に収録されていた、「男女妙薬 食物くい合いろは歌」と表紙書きされたこの史料は、残念ながら日付の記載がなく、「年未詳」とされています。「山北町史」の解説では、山北町川西(江戸時代当時は足柄上郡川西村)の滝本家に伝わるもので、筆者の「滝本茂右衛門」は寺子屋の師匠であったとのことです。この人の生没年がある程度特定されれば、この史料が書かれた年をもう少し絞り込むことが出来そうですが、「山北町史」ではその点については具体的な解説をしていません。ただ、近世の史料集に採録している点から見て江戸時代中のものと判断されている様です。奥付には「相州足柄上郡大井庄 透間(すきま)」と川西村の小名が記されています。

この文書には、全部で48のいろは歌の形で、当時の養生に関する様々な知恵が歌い込まれています。一部だけ取り上げようかとも思いましたが、折角なのでひと通り載せることにしました。中には「字余り」ならぬ「字足らず」になっている歌もあって、あまり形式に拘らずに書き留めるべきことを収める方を優先した様にも見えます。「山北町史」では、「滝本茂右衛門」が何らかの形で流布していたこの48歌を書き留めたものと見ているものの、茂右衛門自らの創作である可能性もあるとしています。また、寺子屋で子供たちに教えるために書いたものかどうかもわからないとのことです。

まむしの守

きたみの伝右衛門子分

あさひさす ちかやとふげの かげわらび むかし春をわすれたか きたみの伊右衛門子分此山に にしきもど□の虫あらば 山あふひめに 取て喰せる

のんど妙薬

しんしや口中へ吹込べし、妙也

  1. 家々に 法はさまざま おほけれど/わけて。くすりと どくのさし合
  2. ろんじあい 物くうことの かけそくは/身のたいせつを しらぬ人々
  3. はぐ()には しをたでのはを くろやきし/たびだび付て よきとしるべし
  4. にらと。ちやを。 おほくしよくする ことあらば/かならずみヽの とふくなるへし
  5. ほふそうの 目に入ときは とうがらし。/こまかにすりて 足うらにはれ
  6. 蛇くいは はながらの花 すり。ぬる()/さては。こせふを つけて妙なり

    ◯はながらは ちよぐさ ◯まむしは一名ハミ共申也

  7. 鳥。きのこ。うをにゑいたる ことあらば/紺屋のあいを のみて妙薬
  8. 血どめには きりんけつと みいらば/二いろこにし つけてとまるぞ
  9. りんびやうに 大麦をいり もろこしも/(おなじく)いリて せんじ(もちい)
  10. ぬるきもの あつきもあしゝ とりわけて/茶。のぬるきこそ たんをしやうずる
  11. るいおほく はやり病の する時は/そうじゆつのむか 又はたくべし
  12. あふだんや ちゆうまんなどの 病には/しじめの汁を 朝暮(ちょうぼ)もちいよ
  13. わきがこそ いわろくしやうに 二色(ふたいろ)まぜて/       (四句欠か)これをつけべし
  14. かみがさは 松笠(まつかさ)をとり 黒焼し/ごまのあぶらて ときつけるなり
  15. よこねこそ 桐ノ木焼て みやうばんを/やきかへしつゝ 白湯(さゆ)て用よ
  16. たけのこを おほくしよくせば かならずに/(たい)(そんする) ものとしるべし
  17. 蓮根(れんこん)は 気詰人(きづめのひと)に (もちうれ)ば/目もすこやかに せいこんをます
  18. そこひこそ せんれう。 さいこ さんきらい。/とうき。と四色(よいろ) せんじ用る
  19. つねつねに 女中くわいにん してのちに/四足のものを 喰はたいせつ
  20. ねこ。ねずみ。犬。はち(など)の けがしたる/物をしよくして 悪病をやむ
  21. なまねぎと 山もゝおほく しよくするは/せんきすばくの どくとしるべし
  22. らうさいや 気のつきなどの する人は/こうこうの穴 灸をすへべし
  23. むし()には つばくろのふん。のりにまぜ/丸めてうろへ 入れてよきもの
  24. うなぎこそ しやぜんし(いり)て 子こどもには/つねに用ひて かんの妙薬
  25. ゐちごには。こんぶきんもつ すもゝには/すゞめやさうは どくと知るへし
  26. のちざんの くだりかねたる ことあらば/ゆずの実三つぶ 白湯(さゆ)で。のむべし
  27. おなじくは なすびもおほく しよくすれば/かさをばしようじ 目をもそんずる
  28. くじき身や。打身(うちみ)にふくべ うどんの()二色(ふたいろ)あわせ 酒でのむべし
  29. やけどにも 灸のくずれに むらさきの/絹切(きぬぎれ)やきて つけて妙やく
  30. まくわ瓜 なかをしぼりて くわすべし/さなごはかつけ。目にはどくなり
  31. 下根(げこん)にて いねむりおほく する人は。/さんそうにんを 茶にてのむべし
  32. ふけおこり。ごしつ弐匁(にもんめ) せんじつゝ/おこり()のあさ これを(のむ)べし
  33. 子どもには とうもろこし。や こんにやくは/おほくしよくせば むしのだいどく
  34. えたきして はいたるあとで 水のめば/しやうかちおこる ものとしるべし
  35. でぢいぼぢ 脱肛にさる ほういしに。あをのりまぜて 付て妙なり
  36. あかはらや くだるにくわつ せきすいひして/かんざうくわへ 水てのむべし
  37. 酒のみて じゆくしの柿を しよくすれば/むしをいためて しんつうとなる
  38. きじにそば。とうしょくすれば すんばくの/むしをもとめて 筋をいたむる
  39. ゆだんなく 灸をは四季に すへたまへ/やまいをださぬ ものとしるべし
  40. めんるいの まへには酒を のみてよし/くうてののちは のむはあしきぞ
  41. みもちなる 女中に玉子 くわすれば/其子むまれて。たいどくとなる
  42. しらずして すしと小豆(あずき)と しよくすれば/しやうかちおこる ものとしるべし
  43. ゑひに。かに くうはあしきと こころへよ/たにしにごまも これきんもつ
  44. ひやうそには みゝづの土を よくさりて/黒ざとうまぜ ねりて付べし
  45. もゝおほく しよくしてたんも おこるなり/せきをいだして はらもはるなり
  46. せりを。すで。おほくしよくせば はをそんず/あかきせりこそ 人をころすぞ
  47. すじかつけ 又とおこらぬ 妙やくは。/ういきやうの()を 酒でのむべし
  48. (京)今日迄も 病ひなしとて じまんすな/身養生(みのやうじやう)を 大切にせよ

小便つまりには 雪隠のむし黒焼にして足のうらにはるべし。大妙薬也。是はうじなるべし

しらくもは □□この□□あぶら付て妙也

栂ハしらくもには ふじに[ ]であてて妙也

餅ののどにかゝりたるには(にわとり)ののとさかの血ヲトリロ中へ入れ候へば妙也

一難産には雪隠のふみ板の裏のかびを。こそげてのむべし

一きのこにゑたるには 竹がわせんじのむべし 竹がわなくば竹がわのぞうりをせんじて用めべし 妙也

一切傷又はすりむきの血どめには、やまぶきの花をほし置て付けべし ちとまりてきずも治す

(上記書1360〜1364ページより、ルビは一部省略、くの字点はひらがなに展開、歌中の改行は/に置き換え、和歌はリストに収め、一部傍注追記、イロハはスタイルシートにて表示させているため、ブラウザによって若干表示が異なる可能性があり、出典元の表記とは必ずしも一致しない)


どちらかと言うと、食い合せなど食べ物にまつわるものが多数を占めていると言えそうです。無論、近代以降の医療の知識に照らした際には首を傾げる様なものも少なからず混ざっていますが、当時の養生に対する知識がどの様なものであったか、特に山村部ではどうであったかを見る上では、良いヒントになるのではないかと思います。

以前取り上げた一連の産物との兼ね合いでは、冒頭に置かれている「まむしの守/きたみの伝右衛門子分」で始まる一節がまず目を引きます。この部分は48歌に含まれてはおらず、五七調に近い節でもう少し長く展開しています。先日山菜にまつわる民話の1つとして「わらびの恩」の話を取り上げましたが、蛇に咬まれた時に「わらびの恩を忘れたか」と唱えると毒が消えるという、そのまじないの1つの形が冒頭に掲げられている訳ですね。やはりこの伝承も江戸時代に丹沢山中で広く語られていたことを証すものと言えそうです。「きたみの伝(伊)右衛門子分」云々が何を指すかは不明ですが、効き目を増すための「脅し文句」なのでしょうか。それを、48歌を書き出す前に最初に置いたことになります。

また、蛇に咬まれた時の対処については、他に「ヘ」の項でも対処法が歌われており、この歌だけ傍記でまむしの別名が記されるなど、扱いが幾らか重くなっています。これらの扱い振りを見ると、やはり山中では蛇毒への懸念が特に強かったことが窺えます。

「ソ」の歌に出て来る「さいこ」は「柴胡」のことでしょう。基本的には漢方の処方に則って使われていたと思われる薬草ですが、この歌の中では他に「さんきらい(山帰来)」「とうき(当帰)」の名が見られますし(「せんれう」が何を指すかは今のところわかっていません)、「ケ」の歌には「さんそうにん(酸棗仁)」、「ス」の歌には「ういきやう(茴香)」の名前が見えます。こうした民間療法にあっても漢方の処方についての知識が断片的に(恐らくはかなり不完全な形で)伝わり、実際に用いられていたのでしょう。

もっとも、ミシマサイコについては環境が整えば日本でも自生しているのを(少なくとも当時は)見出すことが出来たとは言え、いざという時に何処でもすぐに入手可能であったかというと多少疑問もあります。「山帰来」に至っては基本的に日本では自生種がないとされていますから、正しいものを手に入れようとすれば江戸経由で購入するしかなかったでしょう。「そこひ」とは眼病のことですから、それほど頻々と罹る日常の病ではなかったでしょうが、とは言え、いざ必要となった時にこれらの薬草が入手困難ということでは、なかなか実際に処方するのは難しいということになってしまいます。但し、「山帰来」の場合はサルトリイバラが代用品として用いられることもあったので、あるいはこうした民間療法では代用品で間に合わされていたのかも知れません。因みに「茴香」は「農業全書」でも栽培法が記されるなど、江戸時代から生産が行われていたことがわかりますが、こうした民間療法に際して国内栽培された茴香がどれ程購入されていたものかはわかりません。

勿論、「ヨ」の歌に見える「みやうばん(明礬)」の場合は、他に代用品もないと思いますので、何らかのルートを経由して購入していたのでしょう。もっとも、この場合も信濃の「土どうす」の様な、純度の若干落ちる品で間に合わせていた可能性もありそうです。

この「男女妙薬 食物くい合いろは歌」については、後日もう1回取り上げる機会があるかと思います。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

NEXT≫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。