2015年07月の記事一覧

【史料集】「新編相模国風土記稿」足柄下郡各村の街道の記述(その1)

前回に続いて、「新編相模国風土記稿」内の各村の街道に関する記述を拾って一覧化する作業を続けています。今回は足柄下郡の各村の記述を拾いました。

東海道の場合、他の街道に比べて記述が厚くなっており、特に宿場や渡場、更には山中の各坂の記述が厚めになっています。そのうち、宿場の継立に関する記述は以前まとめたことがあります。そこで、問屋などに関する記述はそちらに譲り、ここではそれ以外の街道に直接関連する記述のみを拾いました。また、由緒に関する記述や高札場の札書きには興味を惹かれるものも少なくないのですが、分量が多いため大半は割愛せざるを得ませんでした。それでも東海道だけで相当な分量になるので、それ以外の街道の記述は次回に廻すことにしました。

今回東海道分だけになりましたので、ここで名前が登場する各村の大凡の位置をプロットした地図を添えます。出来れば同様の地図を他の街道について準備出来ると良いのですが、道筋をはっきり掴んでいない道も多いので、差し当たっては一部の街道に留まりそうです。

東海道:足柄下郡中の各村の位置
東海道筋の足柄下郡中の各村の位置(概略)
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャし、リサイズ)



「風土記稿」の説明
東海道羽根尾村三十七
(十六)
東海道巽方に係る、幅五間、
◯塔臺川 西境に在、幅五間許、土橋を架す、長七間、古は板橋なりしと云、當村・川勾兩村の持、
※羽根尾村の位置関係から考えると、塔台川はむしろ東境になっている区間の方が長いが、恐らくは東海道の掛かっている飛地の位置関係で見られているものと思われる。なお、羽根尾村の飛地と前川村の間に淘綾郡川勾村飛地が挟まっているが、上記では川勾村が淘綾郡の属であることが書き漏らされている。
前川村三十七
(十六)
東海道村南を貫けり、幅五間、
◯小名 △車坂海道中にて、西に下れる一町許の坂あり、按ずるに、太田道灌の平安紀行に、車坂の里と見えしは此處なり、曰、車坂と云里にて、夕立頻に降きそへば、鳴神の聲も頻に車坂轟し降る夕立の空、又韓使來聘の時は、此地の路傍に、休憩の茶屋を建るを例とす、其間口百三十間餘と云う、
◯塔臺川 東に在、幅三四間、當村に手は羽根尾川と呼、羽根尾は上流の村名なり、當村にて海に沃ぐ、◯西川 西に在、幅六尺、村内民家の背後より出、水末直に海に入、土橋一あり、西橋と呼、 ◯澤三 西谷津橋幅七間半、下流は櫻川と唱ふ、土橋を架す、長五間、櫻橋と云う、 東澤幅五間、下流を關ノ下川と唱ふ、以上二流は東海道を横切海に入、…等の名あり、
國府津村三十七
(十六)
東海道南に係る、幅五間、
◯小名 △市場東海道中の西、親木橋詰を云、驛家たりし遺名なるべし、今は市あるに非ず、
◯森戸川 村西を流れ、幅三間半、直に海に入、東海道の通ずる所土橋を架す、古は板橋にて高欄有しといふ、親木橋と唱ふ、長十二間四尺、幅二間半、橋上にて西望するに富嶽まほに見ゆ、因て此邊にては、富士見川とも呼ぶ、◯逆川佐加左可波 酒勾堰の末流なり、幅三間半、親木橋邊にて森戸川に合す、…
小八幡村三十六
(十五)
東海道村の巽方を貫く、幅五間、路の左右に松の並木あり、此地立場なり、上は小田原宿、下は淘綾郡山西村小名梅澤立場まで、各一里、
◯一里塚 東海道中の東にあり、左右相對せり、高二間、鋪六七間、塚上に松樹あり、上は小田原宿入口一里塚、下は淘綾郡山西村小名梅澤の一里塚に續けり、
酒勾村三十六
(十五)
民戸百十八、東海道側に連住す、……東海道村の東西に貫く、幅五間、當村川越の役を勤むるを以て、小田原宿の助鄕は免除せらる、
◯小名 △はんべ東海道の通衢にて、西の方長一町餘の所を云、…
◯酒勾川 西界を流て直に海に入、◯川越場 酒勾川にあり、東海道の係れる所なり、當村及び對岸網一色村山王原村の三村にて、歩行人夫を出し、其役を勤む、人夫は三百十九人を定額とし、數内當村百六十四人、網一色村六十二人、山王原村九十三人、日々二十人東西涯各十人、河涯に出、赤體行人を肩して渡せり、又輦臺越をもなす、人夫四人にて舁り、輦臺壹挺の價は、人夫二人の雇錢に換ふ、輦臺の數、三村にて凡七十五挺を定額とし、又高欄を附たる輦臺三挺あり、こは諸家の通行に備ふる所なり、往來繁劇の時は、定額の人歩を悉出し、尙足ざれば、河涯の村々に課して人歩を出さしむ、網一色村舊家四郎左衛門家藏文書曰、兩村にて不叶と見及たる時は、中島・町田・今井三ヶ村之人足も加、往還衆遅々なき樣に川越可仕と、急度手形取置可有之候 以上、巳九月二十六日、高松與三右衛門殿、小野甚太夫殿、藤井惣右衛門殿、町田六右衛門殿、御勘定所、此配符一色村四郎右衛門所に御置候樣に御渡し可被成候云々、按ずるに、寛永中稻葉丹後守正勝所領の頃なるべし、人歩の定價は、一人にて平水水中深さ一尺八寸を云、三十五文、水增せば水の深さ二尺三四寸を云、四十八文を定とせしに、彼三村水火の兩災に罹り、人民困厄せしをもて、文政元年十月官に願ひ、五年の間增錢を許可ありしより、平水四十六文、增水六十二文を定額とせられし後は、期年に至り又許可ありて今に然り、凡水の深さ三尺三四寸に至れば三合水と云、往來を留む、川明の差も是に倣ふ、山村に川瀨踏を司どる夫二人ありて、水の淺深を試み、往來を通ず、但川留川明の時々宿繼を以て道中奉行に達す、十月五日より明年三月五日に至るの際は、土橋を設け往來を便す、土橋の費用は、領主より與へ、造作の人夫は、近村に課す、… △高札場 川越の掟を示す所なり 高札凡四枚あり、其一曰、… △川會所 高札場の向にあり、間口七間、奥行四間、川越の事を司どるもの名主・組頭・川頭・岡居役・小頭の五等なり、日々爰に出て、其指揮をなせり、對岸網一色村にも、亦川會所あり、
◯菊川 西方を流れ、村南にて海に入、幅四五間、末は十間餘に至る、東海道の通ずる所に土橋を架す、長十二間、横二間半、傳ヶ橋と呼ぶ、此橋邊、【盛衰記】に見えし…
網一色村三十三
(十二)
民戸五十三、東海道往還の兩側に住す、…東海道村南に係る、長六町四十三間、幅五間、古は海濱を通せしと云、當村は酒勾川越の役を勤む、故に諸役免除せらる、舊家四郎右衛門藏、元和中磯部源五郎・上村忠左衛門等の下知狀に、寛永中の文書に、其鄕中河越仕候に付、諸役可爲赦免者也とあり、又寛永四年、御代官八木次郎右衛門重明の下知狀に、あみ一色之村、酒勾川越に付諸役不仕候由、前々之御地頭衆、御代官衆より之任證文、私等も指置申候云々と載す、
◯高札場一 酒勾川越の掟を示す、事は酒勾村に詳なり、
◯川會所 酒勾川越の事を指揮する所にて、山王原村と組合持なり、間口五間、奥行六間、川越の事を進退する事は酒勾村に辨ず、
◯酒勾川 東堺を流る、幅五町二十間、海道中渡場あり、對岸酒勾村、及隣村山王原村と組合て、川越の役を勤む、事は酒勾村に辨ぜり、
◯橋二 東海道中用水堀に架す、千貫橋と唱ふ、長二間、横二間半、欄干あり、古は板橋なりしを延寶七年石橋となす、其費千貫目に及り、故に名とす、一は埋橋なり、長二間、横二間、共に領主より修理せり、
山王原村三十三
(十二)
民戸百一、東海道側に連住す、…村の艮方より坤方へ貫ける一條は東海道なり、長六町十九間、幅五間、古は海濱を通じ、小田原古新宿町へ達せしと云、今此道同所新宿町へ達せり、村民酒勾川越の役を勤むるを以て諸役を免除せらる、網一色村名主四郎左衛門家藏、元和寛永中の文書に、其免除の事見えたり、
◯蘆子川 西を流る、久野川の下流にして、村内に入初て蘆子川と唱ふ、幅二十間、村の巽方にて海に入、…
◯山王橋 東海道中蘆子川に架す、板橋なり、長十八間、幅三間、山王社に近ければ、かく名づく、領主の修理なり、
小田原宿二十四
(三)
郡の南方海岸に傍て平衍の地なり、東海道五十三驛の一、江戸日本橋より行程二十里十町三十八間、小淘綾里と唱ふ、當宿の地形、小田原城の東南を擁せり、城下町都て十九町の内、東海道の大路に値れる所を通町と稱す、其長東西二十町五十六間、道幅五間、其町々は新宿・萬・高梨・宮ノ前・本・中宿・欄干橋・筋違橋・山角の九町なり、
…かく繁榮の地なれど、市廛皆茅屋なりしを、天正十七年、北條美濃守氏規上洛の時、洛中の町作り皆板葺なるを見て、歸國の後、其由氏直に聞えあげしかば、やがて命じて當所大路の比屋に板庇をかく、【北條五代記】曰、…今は市中瓦屋もあれど、多くは板屋なり、其製他に異なり、是を小田原葺と唱ふ、
…宿内本陣四宮ノ前町、欄干橋町各一宇、本町二宇、建坪二百二十九坪半より二百九十七坪半に至る、脇本陣四宮ノ前町、中宿町各一宇、本町二宇、建坪、八十四坪半より百八坪に至る、旅籠屋九十五凡三等、上十六宇、中二十三宇、下五十六宇、且茶肆市廛軒を連ね、繁富の地なり、されど田圃なく農事の稼なければ、行旅の休泊に活計をなし、海濱の漁業をもて生產を資く、故に今は宿高はなく、地子錢を領主に貢ずとなり、元祿の改には、高五百七十一石二斗七合、小田原府内と載す、今も府内谷津村は、別に村高あり、又竹花町に少許の持添地あり、
◯一里塚 江戸口の外 南側にあり、高六尺五寸、幅五間許、塚上榎樹ありしが、中古枯れ、今は松の小樹を植ゆ、古は雙堠なりしに、今隻堠となれり、盖海道の革まりし頃、一堠は海中に入しならん、此より東は小八幡村、西は風祭村の里堠に續けり、
◯新宿町江戸口の内にあり、當町より以下山角町に至るまで次第に西行して東海道の大路に連れり、
◯蹴上ヶ坂 東海道中にあり、僅のなだれなり、
◯高梨町大路より北に折るゝ横町は、甲州道の岐路なり、
◯宮前町◯舊家金左衛門 本陣なり、淸水を氏とす、…慶長中町大名主或は町代官とも稱す、を勤む、夫より今の金左衛門が父の時迄、町年寄名主役を勤めしとなり、
◯本町◯舊家甚四郎 久保田氏なり、…寛永の頃より町年寄役或は名主役を勤む、今は本陣にて宿老を兼ぬ、
※戦国時代以前の由緒に関する記述は基本的に省略したが、江戸時代時点の景観に関するものは史料の引用箇所を外した上で残した。
板橋村二十六
(五)
今も府内の西に續き、東海道側長五町餘、に民戸連住す、…東海道東西に貫けり、幅四間餘、
◯山二 村の西北にあり、御塔山於多布也麻、名義は妙福寺の條に出す、…と唱ふ、 ◯御塔坂 西方東海道にあり、御塔山の麓なり、登三十間、降五十間許、
風祭村二十六
(五)
東海道村中を貫けり、道幅二間、或は三間、當場は立場なり、東方小田原札ノ辻より二十六町、西方湯本茶屋へ一里、
◯一里塚 東海道側に雙堠あり、高各一丈、塚上に榎樹あり、圍各八九尺、東方小田原宿、西方湯本茶屋の里堠に續けり、
入生田村二十六
(五)
東海道東西に通ず、道幅二間より三間半に至る、
◯駒留橋 東海道中湯本村界の淸水に架す、石橋なり、長三尺、幅二間、兩村の持、橋上に賴朝卿馬蹄の跡と云あり、旅人此橋に足痛の立願す、此餘二の小石橋あり、宮澤橋淸水橋と稱す、皆海道中の淸水に架す、
湯本村二十七
(六)
東海道村の中程を貫く、幅二間、…又海道中小名中宿より北へ下り、二町餘にて當村溫泉へ至る道幅六尺、あり、
◯小名 △駒留入生田村境の小流に架せる駒留橋の邊なれば、この名あり、 △山崎 △三馬橋 △下宿 △藪ノ内 △中宿 △早雲寺前 △堂ノ前地藏堂前を云、以上東海道中にあり、
◯土橋 三枚橋と呼ぶ、東海道中早川に架す、長二十二間幅一丈餘、元は板橋なりしと云、領主の修理なり、此所より西折溫泉場への岐路ありて、橋邊茶鋪軒を連ねり、湯本細工及米饅頭を鬻げり、橋を過れば、道次第に崎嶇往來甚艱めり、路の左右峯巒層見疊出、加之早川の流噴迫して水聲琅然、頗る山中の勝地なり、
湯本茶屋二十七
(六)
東海道の往還係れり、幅四間、當所立場にて、下は風祭村立場、上は畑宿立場へ各一里、休憩の茶鋪あれば、村名となれり、古は湯本村の内なり、元祿の改には、湯本村内湯本茶屋と載す、里俗に臺の茶屋と呼は、湯本村より坂を登り、地勢漸く高險なればなり、
◯觀音坂 海道の西方に在、登り二町許、此邊を字古堂と唱ふ、古觀音堂ありし故の名と云、板橋村の傳には、村内地藏堂、昔當所にあり、故に古堂の名ありと云、 ◯葛原坂 是も海道中、須雲川村堺に在、登り一町許、
◯一里塚 海道の西邊左右に並べり、高さ五尺餘、塚上に榎樹あり、圍六尺五寸許、当方は風祭村西方畑宿の一里塚に續けり、
◯ 一盃水 海道にあり、山間涌出の淸水なり久旱と雖ども涸ることなし、往來の旅人嶮岨艱難の路を經、爰に至て一杯の水を掬し渴を凌ぐべし、故に此名あり、
◯土橋 海道中の小流に架す、猿澤橋と名づく、長二間、幅八尺、
◯鎗突石 往還西の方に在、大さ一間餘、石上に曾我五郎鎗にて突しと云痕あり、
須雲川村二十七
(六)
村の中程を東海道貫く、幅四間、
◯女轉シ坂 海道中の西方にあり、登り一町許、昔婦人驛馬に乗り、此にて落馬す、故に此名ありと云、 ◯割石坂 是も海道中にて畑宿の境にあり、登り一町許、路傍に一巨石あり、長四尺、横三尺、厚さ五寸許、相傳ふ曾我五郎時致、富士野に參り向ふ時、此坂にて佩刀の利鈍を試んとて斫割れる石なり、其の半片は溪間に落しとなり、
◯須雲川 女轉シ坂の下にて海道を横ぎり、北方城山の麓を流る幅十間、水上には山生魚生ず、
◯土橋二 一は須雲川に架す、須雲橋と云、長六間、幅二間半、元板橋にて欄干あり、今假に土橋とす、一は村東の溪川に架す、二ノ塔橋と呼、長三間半、幅二間半
畑宿二十七
(六)
此地は東海道中の立場にて湯本茶屋へ一里、箱根宿へ一里八町、民戸連住し宿驛の如し、…東海道東西へ貫けり、幅二間餘、宿の上下入口二所に、海道を挾み石垣を築き、宿内長二町餘の界を定む、高八尺、長二間、幅九尺、正徳元年新築す、
◯小名 …△大平於伊多比羅◯二子山麓なり、危磴數所を攀躋り、此地に至て地勢稍平夷なり、故に此の名あり、爰に醴を鬻げる茅店五あり、土俗甘酒茶屋と云、凡山中所々にて是を鬻げり、
◯割石坂和利伊之佐加 須雲川村の界にあり、登り三町程、 ◯大澤坂 大澤川の邊にあり、登り三町餘、 ◯西海子坂佐伊加知佐加 宿外西の方にあり、以下次第して箱根宿に至、登り二町許、路傍に一巨石あり、沓掛石と云、方九尺、來由詳ならず、此坂山中第一の峗[山虗]にして、壁立するが如く、岩角を攀緣して陟るべし、一歩も謹ざれば、千仭の岩底に陷れり、◯橿木坂加志濃起佐加 登り五町許、峭崖に橿樹あり、故に此の名を得、… ◯猿滑坂佐留須部里佐加 登一町許、殊に危嶮、猿猴と雖どもたやすく登り得ず、よりて名とす、… ◯追込坂布都古美佐加 登二町半餘、 ◯於玉坂於佗磨佐加 登二町半餘、 ◯白水坂志呂美都佐加 登十二間餘、 ◯天ヶ石坂天無加伊志佐加 登七間餘、坂側に一巨石あり、方八尺餘、天ヶ石と云、天蓋石の訛なり、其形天蓋に似たればなり、此所箱根宿界にて、山中海道の最高頂なり、爰より次第に下れり、
※坂に関する由緒を記した部分は割愛。
◯千鳥橋 大澤川に架す、長幅各二間、古は土橋なり、寛政十年石橋となす、欄干あり、領主の修理なり、
◯一里塚 西海子坂の下海道の左右にあり、各高一丈五尺、東は湯本茶屋、西は箱根宿の一里塚に續けり、
◯施行所 割石坂に在、文政七年江戸吳服町の商人加瀨屋友七なるもの、人夫驛馬嶮路跋陟の勞苦を憩しめんが爲に、施行所を此地に建んことを願上しかば、許可せられ、三百四十坪間口十七間、奥行二十間、の地を恩借せらる、よりて爰に施行所を建、間口六間に奥行四間、屋後別に小座敷あり、年每に金五十兩を出し其費に宛つと云、
元箱根 下二十九
(八)
賽ノ河原 湖水の東岸にて、東海道の係れる所なり、此處の敷地は小田原領の内にて、堂塔等は皆金剛王院の指揮に屬す、こは元文四年定らるゝ所なり、
箱根宿二十七
(六)
東海道五十三驛の一なり、正保及元祿の國圖、幷に箱根町と記す、相傳ふ此地宿驛を置れしは、元和以後の事なり、關西の諸侯朝觀往還の時、箱根山の嶮峻にして、且郵驛路遠く、仰を奉り山野を闢き、三島豆州の屬、・小田原兩驛の民を遷され、此地に新驛を置る、是を以て今宿内に三島町・小田原町の二名あり、 此時三嶋御代官八木二郎右衛門重明、小田原御代官中川勘助安孫等より、宿内驛馬の役を勤る輩に、夫食米三全俵を賑給ありしとなり、…民家百九十八、數内、本陣六軒、脇本陣一軒、驛舎三十九軒あり、田圃なく、無高の地なれば、地子は古より免除せらる、…東海道は東西に貫く、道幅四間、
◯小名 △三島町 △小田原町 △蘆川町 △新町 △新谷町志無夜末知◯以上宿内の小名なり、 △吉原久保 △三ッ谷 △賽ノ河原地は當宿に隷し、所在の堂塔及民家の如きは、皆元箱根の指揮に係る、故に彼條に詳載す、
◯權現坂 海道中東の方にて、箱根權現社地の前にあり、一に八町坂と云、畑宿界天ヶ石より西へ降る坂にて、長八町あり、故に名づく、此坂を降り盡て賽ノ河原に出づ、此所新道なり、昔は權現横大門の鳥居を入社地をすぎ、大鳥居を出て今の道に合せしとなり、 ◯向坂 蘆川町の西にあり、爰より次第に西行して挾石坂に至る、坂路頗る峻嶮にて老杉左右に駢列し、晴陰をいはず、常に烟霧多く、咫尺を辨ぜざる時あり、 ◯赤石坂 ◯風越坂加左古志左加 ◯挾石坂波左美伊志左加 此坂を陟り盡して、地勢漸く開く、傍示杭二本あり、一は豆相二州の分界を標し、一は御料と小田原領を分てる傍示なり、
◯一里塚 小名吉原久保の路傍左右にあり、高五尺八寸、幅二丈二尺、上に檀樹生ず、東は畑宿、西は山中新田豆州の屬、の一里塚に續けり、
◯蘆川 蘆川町の西にあり、鞍掛山より出、是も湖中に入、幅二間餘、石橋を架す、蘆川橋と云、…
◯箱根御關所 宿の東方にあり、世々小田原領主の預り警衛する所にして、【寛永譜】曰、…今大久保加賀守忠眞奉り、家士若干を置て守らしむ、此地は西面の要害にして、譏察尤嚴なり、建置の始を詳にせず、或は元和四年、箱根新驛開けし頃の事なるべしといへり、安國殿御家譜には、慶長十五年頃の事となす、
◯時鐘所 小田原町の東屋背にあり、鐘は寛保三年七月新鑄する所なり、小田原領主の置所にて、關門開閉の爲、時を報ずる所なり、

注:

※何れも雄山閣版より。字母を拾えなかったものについては[]内にその字の旁を示した。

※巻数中、括弧内は足柄下郡中の巻数。

※本文中、…は中略。大半は中世以前の由緒についての文献の引用。

※村の配列は、「足柄下郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がない場合でも街道筋にあることが判明しているものは可能な限り含めたが、遺漏の可能性なしとしない。


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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【史料集】「新編相模国風土記稿」足柄上郡各村の街道の記述

以前、「新編相模国風土記稿」の各郡の街道の記述を一覧表にまとめたことがありました。今回はそれに続いて、各村の街道の記述を一覧にまとめておくことにしました。

「風土記稿」中の順序に従って、今回は足柄上郡をまとめたのですが、いざ拾い上げてみると「足柄上郡図説」の名称とは異なっているものが思いの外多々ありました。名称が異なるものでも各街道の位置関係と照合して分類を進めましたが、特に「小田原道」と記されたもののうち西大井村から鬼柳村の道筋は、図説中のどの道にも該当するものがないらしいことがわかったため、やむを得ず「小田原道」の後ろに収めました。遠藤村の「小田原道」も該当する道が今のところ不明で、この辺は多少記述が混乱していると考えた方が良さそうです。

また、今回は「川村御関所道」としてまとめた「小田原道(奥山家道)」も、駿河への通路という性格よりも南丹沢の村々の間の連絡道としての趣が強そうで、そのことを反映して途中から各村々への分岐の記述が増えてきます。このため、この道筋の序列も必ずしもこの通りとは言えない側面があります。本当はこれらの結果を元に道筋を地図上に描き起こすべきでしょうが、それは後日の課題としたいと思います。

矢倉澤村の記述はかなりの分量が古代の東海道であった頃の史料の引用が占めていますが、一覧に含めるには量が多過ぎるので割愛せざるを得ませんでした。また、街道に関連する橋や坂などは現時点では明記されているもののみ一覧に含めましたが、今後街道に関する施設であることがわかり次第この表に追加していく予定です。



「風土記稿」の説明
甲州道沼田村十八(七)甲州道村東にありて南北に貫く、幅二間、南隣足柄下郡北ノ久保村に達す、
岩原村十八(七)甲州道南北に貫く、幅二間餘、
塚原村十八(七)甲州道南北に貫く、幅二間、當村夫馬の繼立をなせり、北方關本迄三十一町二十間、南方小田原迄二里、
◯一里塚 甲州道の北側にあり、高二尺、南方は足柄下郡多古村、北方は福泉村の里堠につゞけり、塚上に松一株を栽、
◯狩川 南北に貫きて村の中央を流る、幅十八間、…甲州道に板橋を架せり、長十四間、
◯大刀洗川 西南の方、字たゝらど山より出る淸水一條、…甲州道を貫きて狩川に合す、幅四間、
駒形新宿十八(七)甲州道、村の中程南北に貫く、幅二間、
和田河原村十九(八)甲州道幅二間、、村南より西に達す、
弘西寺村枝鄕→下記弘西寺村参照
關本村二十(九)甲州道村の中程を歷て、東西に貫く、幅五間許、甲州の外、駿信二州の往來となり、殊に六七月の頃は、大山より最乗寺に詣で、富士登山の緇素多し、當村人馬の繼立をなせり、西方矢倉澤村へ、一里十八町、東方塚原村迄、二十八町、是は安永五年十一月より定まれり、其先は東方小田原宿まで、二里十八町、西方は駿州駿東郡竹ノ下村まで、四里十六町を繼送りしと云、又松田惣領まで、二里を送る、この道は和田河原村に至て、甲州道より分る、是矢倉澤道なり、

※その他、関本村の由緒に古来東海道の駅郵を勤めたことなど関連する記述多数

雨坪村二十(九)村の北境に、甲州道係れり、幅二間、
◯一里塚 甲州道南側にあり、今は塚の形もなく、榎樹も枯失せて名のみ殘れり、西、矢倉澤村、東、塚原村の里堠に續けり、
福泉村二十(九)甲州道村の南境に係る、幅二間、
弘西寺村二十(九)甲州道係れり、幅二間、本村の南堺及枝鄕の南方を貫けり、

※枝郷の位置は和田河原村と関本村の間に来る。

苅野岩村二十(九)甲州道村の中程を貫く、幅八尺より二間に至る、當村人馬の繼立をなせり、東、關本へ十九町五十二間、西、駿州駿東郡竹下村へ三里半餘繼送る、但三村組合にて每月上十五日は矢倉澤村、中十日は當村、下五日苅野一色村にて繼送る、按ずるに、村内矢倉明神社地の西北に、流鏑馬の馬場と唱へ、兩側に老松列立せし所長一町許、又南方に古松七株並たる小徑、裏大門と云、共に足柄古道の遺蹟にて、往昔矢倉澤町の古道に、續きたる路次と覺ゆ、又村南にも、松並木二所あり、是彼古道の殘れるならん、
苅野一色村二十(九)甲州道村の東西に貫く、幅二間餘、當村人馬の繼立をなせり、西、駿州駿東郡竹ノ下村迄三里十一町、東、關本村迄廿九町許、但當村も三村組合て繼送る事は、前村[苅野岩村]に詳なり、
矢倉澤村二十一(十)東西に亘りて甲州道通ず、幅二間餘、足柄峠を踰て、駿州駿東郡竹ノ下村に達す、此道卽往古の足柄官道なり、今は甲州及び駿信二州への通路となる、當村人馬の繼立をなせり、東方關本村迄一里八町、西方駿州駿東郡竹ノ下村迄二里廿九町を送る、但し苅野一色・苅野岩二村と組合なり、月每に上十五日は當村、下十五日は、十日は苅野岩村、五日苅野一色村、
◯足柄峠 西方足柄山にありて駿州駿東郡に跨れり、彼郡内竹下村まで、二里二十九町二十間の里程なり、登一里二十九町二十間、降一里、幅六七尺、…※以下古事記等古代の史料の引用が長く続く
◯御關所 小名關場にあり、惣構二十間許、領主大久保加賀守忠眞預りて番士を置く、番頭一人、常番二人、先手足輕一人、中間一人、總て五人を置て守らしむ 往来繁き時は番頭一人、先手足輕一人を加ふ、建置の始詳ならざれど、土人の傳によれば、大庭又五郎と云もの、天正小田原落去の後、始て常番人となると云、村内江月院の鬼簿に、又五郎の法名を錄して、慶長十五年八月死すと見ゆ、其子又五郎慶長十九年、小田原御城番近藤石見守秀用の手に屬し、寶曆の頃に至り、子孫大久保氏の藩士となりしとぞ、全く御入國の時、始て置れし所と見ゆ、小名本村西方の山道に、裏番所あり、常番一人を置く、又足輕一人、本番所より兼勤す、
◯足柄古關 足柄峠の頂上より此方に字明神といふ處あり、其邊其舊址ならんと云ど、未慥かなる證を得ず、…※以下将門記等古代〜中世の史料の引用多数
矢倉澤道(篠窪村)十五(四)村南字榎本にて、西方に[小田原道より]岐路を分つ、矢倉澤道なり、幅九尺許、
◯坂(雄山閣版では「板」になっているが誤植)二 …一は西方矢倉澤道にあり、長二町餘幅九尺、長坂と云ふ、

※篠窪村域には「矢倉沢往還」は通っていない。この記述は村域から西隣の神山村へ降り、そこで「矢倉沢往還」の道筋に合流する間道を指しているものと推察され、実際「迅速測図」上でもこの道筋が確認出来る。

神山村十五(四)矢倉澤道、乾方より小名淸水の中程を貫きて、西南に達す、幅二間、…當村人馬の繼立をなせり、坤の方關本村へ二里、乾の方大住郡西田原村へ二里半、
◯河音川 村北より西境を流る、幅五十間より七十間に及ぶ、㵎川なり、里俗是を四十八瀨と呼ぶ、其流矩曲して、川瀨多きが故に此稱あり、平水の時は人馬此河原を通ず、故に彼曲流に數所板を架して往來に便す、
松田惣領十五(四)矢倉澤道東西に貫く、幅七尺、他村にて富士道と唱ふる是なり、當村人馬の繼立をなせり、西は關本村へ二里、東は大住郡千村へ一里十四町、同郡曾屋村へ三里、又東方同郡西田原村へ三里を送る、是は大山往來なり、
◯酒匂川 西南村境にあり、幅百五十間より二百間に至る、…◯川音川 東西に貫き流る、幅六十間より七十間餘に至東境にて、菖蒲川合してより四十八瀨と云、平水の時は、此河原を往來す、神山村の條合せ見るべし、西南の方酒匂川に合す、此所を十文字渡しと云、…土橋七を架せり、各長五間餘、
◯渡船場 十文字渡と云、往古は川音川、酒匂川を衝て奔流し、其勢十字の形を成せしよりかく唱へしと云、今は酒匂川に壓却せられて、纔に丁字をなすのみ、平常土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して人馬を通ず、洪水の時は渡船あり、此邊頗る勝地なり、南は足柄山・狩野山・平山等近く聳え、富嶽其間に突出し、飛瀑平山瀧、其下に澎湃たり、稍西北は川村岸・皆瀨川・松田諸村の林巒高低環抱せり、其他最乘の深樹、吉田島の村落一瞬して盡すべし、水路の如きは、風雨に變遷して、景狀定まらずと云、
吉田島村十三(二)矢倉澤道東方より西南に係れり、幅九尺許、
◯酒匂川 東北村境を流る、幅百四十間許、
◯渡船場 十文字渡と唱ふ、富士道係れり、平常は土橋三一は長三十間、一は六間半、一は六間、を架して、人馬を通ず、洪水の時は、橋悉く落る故、船にて往來す、其地形勢名義濫觴は、對岸松田惣領の條に辨じたれば、併せ見るべし、
牛島村十九(八)村の中央を貫きて矢倉澤道係れり、幅九尺許、
宮ノ臺村十九(八)村の中程、東西に貫きて、矢倉澤道係れり、幅一丈許、
竹松村十九(八)村内に矢倉澤道係れり、幅二間、
◯洞川 西南二方の村境を流る、幅三間半餘、矢倉澤道の係る所、板橋を架せり、長六間、
和田河原村十九(八)矢倉澤道幅七尺許、村北より西方に達し、甲州道に合す、


村御關所道
弘西寺村
(枝鄕)
二十(九)又谷ヶ村・川村兩御關所道通ず、幅同上[甲州道と同じく二間]、枝鄕の東和田河原村の界にて、甲州道より分る、
怒田(ぬだ)十九(八)東北の方、谷ヶ村・川村兩御關所道係れり、村北にて二條となり、一は西行し、是谷ヶ村御關所道なり、…幅各二間、
◯一里塚 谷村・川村兩御關所道の古道今畑にて字原と云、にあり左右共今崩れて其形を失ひ、榎一樹圍一丈、存す、小田原高札場より三里の塚なりしと云、
内山村二十一(十)東南より北に達して、谷ヶ御關所道係れり、幅九尺許、
平山村二十一(十)東西に亘りて、谷ヶ御關所道係れり、幅八尺許、
谷ヶ村二十一(十)東南より西に亘りて往還あり、幅八尺許、是小田原より村内御關所を歷て、駿州御厨邊に到る裏道なり、西方駿州駿東郡小山村に達す、
◯御關所 東南にあり、構内方十間、o大久保加賀守忠眞預かれり番頭一人、常番二人、輕卒壱人を置て警衛す、
川村御關所道弘西寺村
(枝鄕)
二十(九)又谷ヶ村・川村兩御關所道通ず、幅同上[甲州道と同じく二間]、枝鄕の東和田河原村の界にて、甲州道より分る、
怒田(ぬだ)十九(八)東北の方、谷ヶ村・川村兩御關所道係れり、村北にて二條となり、…一は北行す、是川村御關所道なり、幅各二間、
◯一里塚 谷村・川村兩御關所道の古道今畑にて字原と云、にあり左右共今崩れて其形を失ひ、榎一樹圍一丈、存す、小田原高札場より三里の塚なりしと云、
小市村二十一(十)川村御關所道、西南怒田村境に係れり、
班目(まだらめ)十九(八)南境より西北の方、文明堤を歷て、川村御關所道係れり、
◯酒匂川 西北村境を流る、幅二百廿間許、川村御關所道の係る所、土橋長三十間、を架せり、
川村岸十六(五)村の中程に川村御關所道係れり、幅二間、
川村山北十六(五)東南より西に亘りて、川村御關所道或は奥山家道とも云ふ、係れり、
◯御關所 西方にあり、川村御關所と云、奥山家及び駿州への往來なり、小田原領主の預るところにして、警衛の士番頭一人、定番二人、足輕二人、を置けり、建置の年代詳ならず、
(皆瀨川村)十六(五)村南に川村御關所道係れり、幅六尺、

※現在の山北町皆瀬川の域内に、かつての川村御関所道とされる道筋は掛かっていない。当時は別の道筋であった可能性も否定は出来ないが、その場合は南隣の都夫良野村の記述に「村南」とある点が整合しなくなる。

都夫良野村十六(五)村南に奥山家道係當村にては小田原道と云、れり、幅四尺、
湯觸村十六(五)北境より東境に達して、小田原道係れり、
川西村十六(五)村の東より西方駿州駿東郡生土村に通ず、に達する往還あり、幅五尺許川村御關所道と唱ふ、
仙石原御關所道宮城野村二十一(十)村の西方に一路を通ず、幅五尺許、足柄下郡底倉村より入、小田原より仙石原御關所を歷て、駿州御厨に到る往還なり、此道村南にて岐路を分つ、蘆ノ湯足柄下郡の屬、道と云、幅三尺、西行して足柄下郡底倉村に達す、
◯臼井峠 駿州道にあり、
仙石原村二十一(十)御厨駿州の屬、路村北を通ず、
◯御厨峠 或はうとふ峠と云、登二十一町、駿州駿東郡御厨道にて、同郡深澤村に達す、
◯御關所 東方にあり、𤄃一段一畝二十九歩、小田原領主より番士を置き、非常を警しむ、起立の年代詳ならざれど、元和年中と傳ふ、始は御番所と唱へしが、寛永三年御上洛の時此所駿・甲二州に通ずる間道たる由、縣令八木次郎右衛門重明言上に及びしかば、卽台命ありて、更に嚴を加へ、御關所と定められしと云、
曾我道上大井村十三(二)又東方より此道[小田原道]に合する一徑あり、曾我道なり、幅各九尺、
曾我大澤二十一(十)東南に亘りて往還あり、幅二間、曾我道と云、
上曾我村二十一(十)村西より東南に通ずる一徑あり、曾我道と云、幅二間、足柄下郡曾我岸村に達す、
酒匂道下大井村十三(二)すのこ橋の下にて、東南に通ずる[小田原道からの]岐路あり、酒匂道と云、幅各九尺、[小田原道と]共に足柄下郡西大友村に入
富士道岩原村十八(七)富士道北境にあり足柄下郡小臺村より入字坂下にて甲州道に合す、
六本松通大山道田中村十四(三)東南の方坤方より東に亘りて大山道足柄下郡曾我別所村より入、係れり、幅二間、
◯山 一は南西にあり、六本松山と云、登十二三町許、往昔松樹六株ありし故此名ありと云、今一株を有す、山巓を郡界とす、隣村足柄下郡曾我別所村にて山彦山と云ひ、字して六本松と云是なり、山頂を曾我山峠と唱ふ、登十八町、曾我別所村迄凡て一里餘、故に土俗是を打越一里と云、此山越大山道なり、曾我別所村にて往昔是を中村通と唱ふ、是當鄕に達するが故此名ありと云、今は唱えず、此名目古書に徒々見ゆ、委は彼村の條に注せり、
遠藤村十四(三)西北に小田原道…係れり、幅[大山道共に]各二間

※この小田原道が恐らくは六本松通大山道を指すと思われるが、村域が細かく分散している中で「西北」と判断した根拠は不詳。

久所(ぐぞ)十四(三)西南より東北に亘りて大山道係れり、幅九尺、

※難読度が高いため村名にルビを振ったが、これは現在の読み方。「風土記稿」では「具之與牟良」と読みが記されており、これに従えば「ぐじょ」と読んでいた可能性がある。

藤澤村十四(三)村南より北方に亘りて大山道係れり、幅二間、
井ノ口村十五(四)西方より北に達して、小田原道係れり、大住郡大竹村に達す幅[大山道(波多野道)共]各二間、

※この道は「小田原道」と記されているが、その経路から「六本松通大山道」に続くものであることがわかる。

羽根尾道大山道遠藤村十四(三)東の方南北に亘りて大山道南方足柄下郡小竹村より入、係れり、幅[小田原道共]各二間
北田村十四(三)南方より北に亘りて大山道係れり、幅二間、
◯御塔坂於多布左加 大山道にあり、小坂なり是は傍に古き五輪塔あり、凡三基許、皆頽廃して全からず、何人の墳たるを識らず、土人尊敬して御塔塚と稱す、故に此稱あり、
◯一里塚 大山道にあり、雙堠なり、一は高四尺、一は高一尺五寸、塚上に榎樹あり、
久所村十四(三)又南方より入一條あり、東北に達して前路[六本松通大山道]に合す、
大山道井ノ口村十五(四)又南隣淘綾郡一色村より入道あり、字宮ノ前にて前路[「小田原道」と記す大山道]に合す、幅[「小田原道」と記す大山道共]各二間

※この道は一名「波多野道」とも称されていることが淘綾郡図説に記されている。

小田原道㈠栃窪村十五(四)小田原道村の中程を貫く、幅九尺、東大住郡平澤村より入、西同郡澁澤村に達す、

※この道は篠窪から渋沢を経て北へ向かう道筋からは外れており、枝道と考えられる。但し、平沢村から直接栃窪村へ入る道筋は確認出来ていない。

篠窪村十五(四)北方より南方に亘りて、小田原道係れり、幅二間、大住郡澁澤村より入、
山田村十三(二)小田原道北方より東南に達す、幅二間、
◯坂 西南の方小田原道にあり、赤坂と云、登二町半餘、
(金子村)十三(二)

※同村の「小田原道西南を通ず、」は、その位置関係からは「蓑毛通り大山道」を指すとは思えない。一方、同村の東側、山田村との境をこの道が進んでいたと考えられる。

上大井村十三(二)小田原道、村北より南に達す、…幅各九尺、
下大井村十三(二)小田原道村北より通ず、幅七尺許、[酒匂道と]共に足柄下郡西大友村に入
◯石橋 小田原道用水渠に架せり、長四尺許の小橋なり、すのこ橋と云、傍に石を立て、其名を標し、延亨元年子八月吉日と刻す、名義傳はらず、
*小田原道㈡金子村十三(二)小田原道西南を通ず、
西大井村十三(二)小田原道、南北に亘りて、村の中程を貫く、幅九尺、

※この道は「足柄上郡図説」で「小田原道」として紹介されている道筋とは別の道で、南で鬼柳村へと抜ける道筋と考えられる。

鬼柳村十三(二)村の中程南北に貫きて、小田原道係れり、幅九尺、足柄下郡桑原村に達す、

※この道は「足柄上郡図説」で「小田原道」として紹介されている道筋とは別の道で、北の西大井村から続いているものと思われる。

*奥山家道川西村十六(五)…此道[川村御関所道]より小名大藏野にて、岐路を分つ、奥山家道幅六尺許、と云、
山市場村十六(五)村の中央を貫き、西山家より小田原へ出る道係れり、幅五尺、
神繩村十六(五)新山三ヶ村世附・中川・玄倉より通ずる、小田原道三條係れり、幅各五六尺許、
世附村十六(五)南方に小田原道通ず、幅三尺許、
(中川村)十六(五)

※神縄村の項に、同村から世附・中川・玄倉の3村に向けて道が分岐することが記されているが、世附村以外の項にはこの道に関する記述がない。

(玄倉村)十六(五)

注:

※何れも雄山閣版より

※街道名のリンクは地図へ。

※街道名に「*」を付したものは足柄上郡図説には現れない街道。

※巻数中、括弧内は足柄上郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「足柄上郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。従って、実際は街道に関連するものであっても明記がないものはここに含まれていない。



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短信:「ルートラボ」→「地理院地図」の貼り替え作業について

引き続き、「ルートラボ」の地図を「地理院地図」上で作図したもので置き換えていっているのですが、意外に手間が掛かるために思う様に進んでいません。また、「ルートラボ」の地図を前提に記事を書いた箇所もあるので、新たに作る地図をどうするか、といったことも考え直さなければならず、それも時間を要する原因になっています。

一例として、今日置き換えた「【旧東海道】その7 藤沢〜茅ヶ崎の砂丘と東海道」の「ルートラボ」の地図はこの様になりました。


元の「ルートラボ」上の地図

旧東海道:遊行寺橋→小出川
置き換え後の地図

「ルートラボ」で埋め込み地図を作成する際に「地形図」表記を選択すると、主だった路線以外の表示が極力減らされているためにむしろルートが際立って見やすくなるメリットがあります。「地理院地図」で置き換えるに際しては、地形図の混みいった表記が邪魔になることもあり(大縮尺ではある程度表示が間引かれるのですが)、「色別標高図」を重ねることで地形図の表示を目立たなくする効果を狙っています。完全に隠してしまうと却って場所がわかり難くなる側面もありますので、その点は透過率を調整して工夫しています。勿論、標高差の大きな場所では地形を概観する点でも有効ですが、「地理院地図」の「色別標高図」は標高差が10m単位で表現されているため、上の例の平野部の様に10m未満の起伏が重要な所ではあまり意味を成しません。

しかし、この記事の主旨を考えると、重ねる地図は「色別標高図」の他にも候補がありました。

旧東海道:遊行寺橋→小出川-2
「色別標高図」の代わりに「数値地図25000(土地条件)」を重ねたもの

ここでは、旧東海道が砂丘の上を進んでいることを紹介することが目的だったので、その点では「土地条件図」はこの点を明確に示してくれます。この図を見ても、藤沢から千ノ川を渡るまでの区間が、砂丘の地域の最北端を進んでいることが一目瞭然でわかります。

旧東海道:遊行寺橋→小出川-3
「土地条件図」に「明治期の低湿地」を重ね合わせたもの

更に、この「土地条件図」では「盛土地・埋立地」として表示されている千ノ川や小出川の周辺のかつての土地利用を明らかにするには、ここに「明治期の低湿地」を重ねるということも出来ます。「土地条件図」と使われている色合いが似ているのが難点ですが、「盛土地・埋立地」が明治時代初期には水田であったことが浮かび上がってきます。

このどちらかにすることも考えたのですが、この時の記事では後半に別途地形分布図を引用したりして砂丘地帯の分布について解説しているため、冒頭に置く地図にそこまで表示させて内容を重複させてしまうよりは、この地図では取り敢えずルートを提示する方を優先することにしました。この記事を書いた時点で「地理院地図」の機能がここまで充実していたら、恐らく記事の書き方や図の選定も多少変えていたと思います。

無論、今から改めて記事を書き直すほどの労力は掛けたくありませんので、飽くまでも既存の記事を活かす方を優先して作図することになるのですが、もう少し手軽な作業で済むだろうという当初の目論見が大分外れていたことになるので、ちょっと頭の痛いところです。
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相模国の山菜について:「新編相模国風土記稿」から(その3)

前回に続いて、「新編相模国風土記稿」に記された「蕨」「薇」「独活」「薯蕷」について見ていきます。今回は、神奈川県内に伝わる民話から、これらの植物が登場するものを探し出してみました。

現在は相模原市緑区の一部になった相模湖町に伝わる話として、「ワラビの恩」と題された話があります。「神奈川のむかし話」(相模民俗学会編 1977年 日本標準)では、小林梅次氏の再話で子供向けに筋立てをいくらか膨らませた形で紹介されています。

むかし、冬じゅう土の中にとじこもっていたヘビが、穴からはい出して、日だまりでよい気もちになって、ねていた。

すると土の中から、これも冬ごもりからさめたチガヤが、芽を出してきた。

ところがいつもなら、しもどけのやわらかい土から、たやすく芽を出せたのに、どうしたわけか土がかたくて芽が出せない。チガヤは上の上にヘビがいい気もちでねているとは知らないで、

「なんとか早く芽を出さないと、なかまにおくれてしまう。」

と、むりに力を入れて芽を出した。

チガヤの芽は先がとがっているのでヘビのからだに少しずつくいこんでいった。ヘビが目をさまして気がついたときは、チガヤの芽がなん本もからだにつきささり、身動きができない。

力を入れて動こうとすると、ますますチガヤの芽がからだにくいこんできた。ヘビは苦しくて、

「なんとか、だれかが助けてくれないだろうか。このままでは死んでしまう。」

と、涙を流して悲しがっていた。

ちょうどそのとき、チガヤの芽より、ひとあしおくれて芽を出したワラビが、いつもとそとのようすがちがうので、

「おかしいなあ。土の中から頭を出すと、いつもあたたかい日がさすのに、ことしはどうしたのだろう、」

と思ってみると、なん本ものチガヤの芽に、からだをつきさされたヘビが、頭の上で苦しんでいた。

「これはたいへんだ。かわいそうだ。助けてやろう。」

とワラビは思って、どんどん芽をのばしてヘビのからだをもちあげてやることにした。

さいわいワラむの芽は、赤ちゃんのにぎりこぶしのようになっているので、チガヤの芽のようにヘビのからだにくいこむこともなく、だんだん、だんだんともちあげていった。

チガヤの芽のほうはのびかたが、ワラビよりゆっくりしていたので、とうとうヘビのからだはチガヤからすっかりはなれ、おかげでヘビはやっとじゆうなからだになれた。

ヘビはとても喜んで、

「これもワラビさん。おまえのおかげだ。いつか恩がえしをしたい。」

といった。

そこで人間は、マムシにかまれたとき、このワラビの恩を利用して、

「ナム、チリュウダイゴンゲン。いつぞやのワラビの恩をわすれたか。」

ととなえると、マムシの毒が消えるという。

別な話ではヘビがムカデになっていて、ムカデがカヤにつきさされて苦しんでいる。それをワラビが助けてやる。

ムカデは、

「ワラビに助けてもらった恩をわすれまい。」とちかう。

それを村人が利用して、ムカデにかまれたとき、ワラビをとってきて、やわらかくもんでかまれたところにつけると、どんなに痛いときでもそれがとまるといわれている。

(175〜178ページ、ルビは省略)


この元になった話を「神奈川県昔話集」(神奈川県教育委員会監修 神奈川県弘済会 1967〜68年 2分冊)で探すと、その「第一冊」に2種類の話が掲載されています。

一二 わらびの恩(一)

津久井郡相模湖町若柳

むかでが眠っていると、ちがやがその下からのびて来て、むかでのからだをつきさした。さすがのむかでも困っていると、わらびが頭をもたげて抜いてくれた。

むかではわらびのこの恩を思うから、むかでにかまれた時にわらびをもんでつけると、毒を消すという。

一三 わらびの恩(二)

津久井郡相模湖町若柳

蛇の体の下からちがやが生えてつきさした。そのとき、わらびが頭をもたげて蛇を助けた。それで、まむしにかまれたときに、毒を消すまじないに、

南無チリュウ大権現、いつぞやのわらびの恩を忘れたか

と唱えるのだという。

(上記書16〜17ページより)



相模原市緑区若柳の位置(「地理院地図」より)
この2種類の話を採集したのは地元の津久井郡出身の民俗学者である鈴木重光氏で、大正8年(1919年)に発表された「鳥その外の話」(『土俗と伝説』一巻四号所収)に収められているとのことです。但し、採集地はどちらも津久井郡相模湖町若柳(現:相模原市緑区若柳)になっているものの、この「鳥その外の話」に収められた話について、「神奈川県昔話集」では

採集者 鈴木重光。 話者 採集者自身の記憶によるもので、それは、ことごとく母からの聞きおぼえであるという。母は名をタミといい、愛甲郡半原村(愛川町)久保の新井喜左衛門の二女で、天保十三年三月二十一日の生まれである。なお、採集者は明治二十年二月十四日の誕生。

(上記書2ページより)

と解説していることから、あるいはこれらの「わらびの恩」の話も、母タミが半原村にいる頃に聞き覚えて嫁ぎ先に伝えたものなのかも知れません。その点では、これらの話の採集地についてはもう少し幅広く、丹沢山中の話と捉えておく方が適切かと思います。

2種類の話では一方がむかで、もう一方が蛇と恩義を感じる主体が違っており、更に咬まれた時の対処法がおまじないとわらびの粉という点にも違いがあります。しかし、ちがやがむかでや蛇の体を刺してしまい、それをわらびの芽が伸びてきて外してくれた、という中心の筋立ては共通しています。「日本の民話19:神奈川の民話」(安池正雄編 1959年 未来社)に収録された「わらびの恩」では、悪意に満ちた姑が、気立ての良い嫁を奸計にかけて息子の銃で撃たせてしまうものの、起き抜けに鏡を見ようとしたら罰が当たったのか鏡が額に張り付いてしまい、恥ずかしいので再び寝込んでいるうちにむかでになってしまうという話が前半に付いているものの、その後ちがやに体を貫かれて困っているところをわらびに助けられ、その恩義からむかでに噛まれたらわらびを揉んで付けると癒える様になったとする後半の筋立ては共通です(25〜28ページ)。こちらには出典として「相州内郷村話」としか記されていませんが、これも鈴木重光氏が大正13年(1924年)に出版したもの(炉端叢書 郷土研究社)と思われるので、恐らく同じ採集者によるものでしょう。鈴木氏が地元で複数のバリエーションを伝え聞いていたので、更に別のバージョンをこちらで紹介したことになるでしょうか。


類似の民話が他の地域にないか探してみたところ、まむしの方の話が岩手県に伝わっている様で、こちらはかつてテレビ番組「まんが日本昔ばなし」でも取り上げられたことがある様です。その他、「民話・昔話集内容総覧」(2003年 日外アソシエーツ)と「民話・昔話集内容総覧:県別・国別2003-2012」(2012年 日外アソシエーツ)で「わらび(ワラビ)の恩」の掲載された民話集を探すと、神奈川県以外では青森・岩手・宮城・山形・福島・栃木・群馬・茨城・新潟・長野・岡山(奥津町)の民話集に掲載例が見つかります。また、民話・昔話集作品名総覧(2004年 日外アソシエーツ)では「わらびの恩」の他「わらびに助けられ蛇」「蕨に恩ある蛇の先祖」といった同種の内容の話が掲載された民話集が全部で30冊掲げられています。但し、これらは飽くまでも話の表題のみを掲げているため、それぞれがむかでと蛇のどちらを主人公にしているかは不明です。

まむしに咬まれた時に効くという念仏はさておき、気になるのはむかでのバージョンの方で「わらびを揉んでむかでに咬まれたところにつけると毒が消える」としているところです。「和漢三才図会」「大和本草」「本草綱目啓蒙」といった本草学の書物では、その様な効能を記したものは見つかりませんでした。しかし、徳川光圀が水戸藩の藩医穂積甫庵にまとめさせた「救民妙薬」には
救民妙薬:項14~17
穂積甫庵「救民妙薬」
元禄6年(1693年)茨城多左衛門版より
右から2〜3行目が該当箇所
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

十四 蜈蚣(むかで)咬藥

又 蕨花陰ぼし粉にして、水にてとき付てよし

(「日本衛生文庫. 第5輯」三宅秀、大沢謙二編 大正6-7年 教育新潮研究会 所収、「国立国会図書館デジタルコレクション」より、ルビはブログ主、…は中略)

とあり、民間療法としてこうした処方が伝えられていたことは確かな様です。勿論、現在の観点で薬効を検証した時にどの様な結果が出るかは定かではありませんが、江戸時代にはこうした民間の処方が「救民妙薬」の様な出版物の力もあって根強く普及しており、「わらびの恩」のむかでの方の話もそうした民間療法との絡みで生まれてきた話と見て良いでしょう。

もっとも、こうした民間療法は手近なもので対応が出来なければ意味を成しません。つまり、こうした処方が伝わる地域は言い方を変えればわらびが容易に手に入る地域であり、「わらびの恩」の話が伝わる地域も、その点でわらびの採れる地域であることを裏付けていると言えるでしょう。実際、わらびの名産とされている地域は日本でも東北や三越、北陸など北の地域が多く、上記の民話集の登場事例もこれらの地域が多くなっています。



他のぜんまい、うど、やまのいもが直接タイトルに出たり、主役になるような話は神奈川県の各種の民話集の中には見つからなかったのですが、やまのいも(自然薯)が登場する民話としては次のものがありました。

二 ほととぎすと兄弟(二)

津久井郡藤野町沢井 栃谷

むかし、あるところに、仲のよい兄弟があった。端午の節供が二三日後にせまったので、兄は山へ行って、うまそうな山薬をたくさん堀ってきて、鼠に食われないように、食器戸棚の奥にしまっておいた。

ところが、いよいよ明日はお節供だというので戸棚をあけてみると、山薬は頭としっぽがそこらに散らかっているだけである。兄は、弟が留守中に食ってしまったのだといちずに思いこみ、弟が山仕事から帰るやいなや手ひどくなじった。弟は、見に覚えのないことなので、「知らない」といいはると、兄は「この嘘つき」とどなると同時に出刃庖丁を振りあげ、弟ののどもとにつきたてた。弟はのどからまっかな血を吹いて倒れてしまった。

兄はこれを見て後悔したがまにあわない。それからというもの、兄は、毎日自分の手にかかって死んだ弟のことを歎き悲しんでいたが、とうとう気がふれてしまい、家を出て、行方知れずになってしまった。

青葉の季節になったある日、かつて兄弟が住んでいた家の附近へ、一羽の見なれない鳥が飛んできて、かなしい声で鳴きたてた。その声は、「オトノドキッチョ、オトノドキッチョ」と聞こえるので、村人は、あの兄が鳥になったのだなと察して、はじめて見るこの鳥に、ほととぎすという名をつけた。

(「神奈川県昔話集」3〜4ページより)



沢井・栃谷の位置(「地理院地図」より)
(一)の方もほぼ同じ筋の話ですが、そちらは「わらびの恩」と同じ鈴木氏による採集です。それに対して(二)の方の出典は高畑棟材の『山麓通信』(昭和11年・1936年 昭森社)です。こちらを選んだのは、ここで登場する「山薬」について

*山薬とはジネンジョ(自然薯)のこと。端午の節供に山薬を食べないと、人間がウジムシになるという。(同・二五一頁)

本草綱目啓蒙卷之二十三「薯蕷」
「本草綱目啓蒙」卷之二十三「薯蕷」のページ
(「国立国会図書館デジタルコレクション」画像に
傍線と矢印追記)
と「山薬」について同書に注釈があることが記されているからです。なお、こちらの例を再話した例としては、「神奈川県の民話と伝説 上」(萩坂昇著 1975年 有峰書店)があります(32〜34ページ)。

「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められた「本草綱目啓蒙」の「薯蕷」の項には、恐らく小野蘭山の門下生村松標左衛門によると思われる書き込みで複数の別称が記されており、その中に「山薬」が含まれています。更に本文中にも

又山中自生の者をジ子ンジヤウと云ふ一名ヱグイモ和州救荒本草に野山藥と云ふ一名𡈽山藥廣東新語白鳩蒔同上家山藥より根細くして堅く長し至て長き者は六七尺に至る藥用に良とす頌の説南中一種生山中と云者是なり國により家山藥なくして此品を藥食共に用ゆるあり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、名称以外のカタカナをひらがなに置き換え)

等と記しており、「山薬」という2文字を含んだ呼称が複数見えています。因みに現在の漢方処方では「山薬」はヤマノイモの根を乾燥させて作る生薬を指す様ですが、元はヤマノイモの漢名であり、それが日本で広まる中で薬用としての用途と結び付いて幾つかの派生的な名前を生んだということになる様です。

こうしたやまのいもに対するイメージが背景にあって、体に良いものを食べさせようというところから端午の節句と結び付いたのでしょうが、端午の節句に縁の深い食べ物として現在一般的に思い付くものの中にはやまのいもは入っていない様に思います。ホトトギスの鳴き声の「聞きなし」が弟を想う様に聞こえるとするこの「ホトトギスの兄弟」は全国的にバリエーションがある様で、 上記の「民話・昔話集内容総覧」や「民話・昔話集内容総覧:県別・国別2003-2012」では、神奈川県以外でも本州の大半の地域の民話集に掲載例が見つかりました(地域があまりにも多岐に渡り、煩雑に過ぎるので一覧にするのは断念しました)。また、「民話・昔話集作品名総覧」では「ホトトギス(時鳥)の(と)兄弟」に近い表題の話の掲載例が80冊あまりも見つかります。その多くはやまのいもが話の展開の鍵になっている様です。ただ、それが端午の節句と結び付いた形の話が、沢井・栃谷以外のどこに分布しているかまでは確認出来ませんでした。一応、未来社の「日本の民話」シリーズ(1978〜79年)のうち、神奈川県に近い地域のもので同様の話を当たってみましたが、それらの中に端午の節供と結び付いて語られているものはありませんでした。

一方、神奈川県内の風習で端午の節句にやまのいもを食べるとするものがあるか、県内の民俗についてまとめた資料を当たってみましたが、こちらでもその様な記述を見つけることが殆ど出来ませんでした。「相模原市史 民俗編」で端午の節句に「下溝などでは、この日に長芋を食べると腸が腐らないといった。」(256ページ)と書いているのを見つけたのが現時点ではほぼ唯一です。ただ、まだ十分に関連資料をチェック出来たとは言えないので、今後引き続き探してみたいところです。現時点では、相模国内でもごく限られた地域での端午の節句の風習が、全国的に伝わっている「ホトトギスの兄弟」の話に織り込まれて伝わっている例がある、ということだけ指摘するに留めます。

今回見つけることが出来た民話は2例に留まりましたが、探せば他にもその土地の生産物との結び付きが見えてくるものが他にもあるのかも知れません。まだそれほど多数の民話集を確認した訳ではありませんので、また興味深いものが見つかったら取り上げてみたいと思います。

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相模国の山菜について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回に続いて、今回も「新編相模国風土記稿」に記された「蕨」「薇」「独活」「薯蕷」について見ていきます。

神奈川県史」や県内の市町史で確認した範囲では、これらの作物が村明細帳に現れる例は次の通りです。
  • 塚原村(現:南足柄市塚原):寛文十二年九月 塚原村明細帳(村鏡、[南]131ページ)

    一御厨わらびつけ野寺四郎兵衛殿御使番之御中間衆毎年被参候、(シヲ)わらびつけ桶ノ馬三疋宛出シ関本村付送仕候、下りハわらび樽持人足八九人宛田古村村次仕候、

    一御厨ヨリ御勘定所参候山のいも、御厨御代官衆御配苻次第人足出し、田古村ヘ村次仕候、

  • 飯沢村(現:南足柄市飯沢):寛文十二年七月 飯沢村明細帳([南]455ページ)

    一御用之山ノいも、御配苻次第毎年出申候、

  • 苅野一色村(現:南足柄市苅野):貞享三年四月(九日) 苅野一色村明細帳(村指出シ、[南]668ページ)

    一御用之山之いも、御用次第納申候儀も御座候得共、近年ハ納不申候、

  • 皆瀬川村(現:山北町皆瀬川):貞享三年四月 足柄上郡皆瀬川村明細帳(指出帳、[県五]488ページ)

    一うど拾八九年以前美濃守様御代御赦免被遊候、

    一わらび拾八九年以前美濃守様御代御赦免被遊候、

    一山いも三年以前丹後守様御代御赦免被遊候、

  • 菖蒲村(現:秦野市菖蒲):貞享三年四月菖蒲村明細帳([秦]163ページ)

    一薯蕷御用次第出し。

  • 穴部村(現:小田原市穴部):貞享三年四月(八日) 足柄下郡穴部村明細帳(御指出シ帳、[県五]519ページ)

    一御用之山之芋此以前御配苻ニ而納候儀御座候、近年納不申候、

(出典略号は次の通り:[秦]…「秦野市史 第2巻 近世史料1」、[南]…「南足柄市史2 資料編近世(1)」、[県五]…「神奈川県史 資料編5 近世(2)」、塚原村については薯蕷の差し出しについて上記書134ページにも記載があるが省略)


寛文12年・貞享3年村明細帳に山菜・薯蕷の記述がある村々
上記村明細帳を書いた村々の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
共通しているのは、これらの明細帳が何れも小田原藩の稲葉氏統治下の事情を書き記していることです。稲葉氏が取り立てていた正月飾りについて紹介して以来、寛文12年(1672年)や貞享3年(1686年)の明細帳は各種産物の紹介の折に都度取り上げてきました。それらの稲葉氏の取り立てていた品目の中に、「わらび」「うど」「やまのいも」が含まれていた訳ですね。但し、苅野一色村や皆瀬川村の様に明細帳提出時点では赦免されていたり、菖蒲村の様に必ずしも毎年納めていた訳ではない村も含まれています。

この中でも塚原村はわらびについて具体的なことを書いているのが当時の実情を知る上では貴重な記録です。採ったわらびは「わらび漬け」にして、藩からの使者に応じて馬を3頭立てて関本村に継いでいたとしています。恐らくはそこから更に足柄道の継立によって藩主のもとに届けられていたのでしょう。用の済んだ樽は村へ送り返されており、それを取りに行く人足のことまで書いています。薯蕷については掘ったものをそのまま納入したのでしょうが、これも多古村(現:小田原市多古)へと継送りしていたことを記しています。

こうした貢上がこれらの産品に対して何時頃まで行われていたかは記録に現れるものは見当たりませんが、恐らくは正月飾りなどと同じ頃に実質的に廃止されているのではないかと思われ、その後の明細帳類ではこうした記録がなかなか拾えなくなっています。

他方、前回は取り上げませんでしたが、箱根の「七湯の枝折」でも「蕨」「独活」そして「狗脊」が箱根山中で、とりわけ宮城野村や仙石原村などで豊富に採れたことを、産物の部だけではなく木賀の部でも記しています。
  • 巻ノ七 木賀の部:

    ○一体此木賀ハ湯宿の外に商人屋少ししかれとも湯宿また何によらす貯置ゆへ不自由なる事なく別てこの所ハ宮城野仙石ニノ平へ近けれバ春の比ハ狗脊生推葺蕨独活の類多し四季ともに野菜ハみなかの村々より爰にひさく故にもの事たよりよし

  • 巻ノ十 産物之部:

    一狗脊 筥根一山いつくにても生すといへともわけて宮城野の方より多く出ル味美に和らかし

    一蕨  同じく宮城野辺多し

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 47、71ページより)


恐らくは「風土記稿」の宮城野村の記述も、「七湯の枝折」のこうした記述をも参考にして書かれたものでしょう。「七湯の枝折」では2箇所で「狗脊」と書いており、それが他の山菜類と同列に扱われていることからみても、やはりこれは「ぜんまい」の意で書いているものと思われ、「風土記稿」もこの表記にそのまま従ったのでしょう。

そして、こうした山菜類は箱根に湯治で滞在した紀行文などに時折登場してきます。例えば、「木賀の山踏」(竹節庵千尋著、天保6年・1835年)では

(注:天保六年三月)明る廿二日、朝のうち曇りて日影も見す、昼過る比より折おり日の御影見ぬ。小田原の三笠屋のあるし、そか妻なるものをゐて早蕨(さわらひ)なとつみに往んとて連たち往ぬ。予も妻なるものをゐて小地こく山の近きあたりにてせんまい、わらひなととりぬ。この山の裾通萩はらにて、今は立枯しをおし分つゝ爪先登りに往て

立のほる煙り絶へせぬ小地獄の

山の麓にもゆる早蕨

せんまいも蕨もゝえて紫に

秋はさこそと見ゆる萩はら

やいとにはならぬ(よもぎ)も紫の

ちりけのあたりもゆる若草

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集神奈川県図書館協会編 1969年 416〜417ページより、強調はブログ主)

と、宿泊客が小地獄(今の小涌谷)にわらびやぜんまいの採集に出かけていることを記しています。「木賀の山踏」ではこの10日前の12日には「娵菜、たんほ、つくつくし」を摘み取りに出掛けています(同書407ページ)。つまり、湯治客のレクリエーションの一環で山菜採りが行われていた訳ですね。また、山菜採りに来ていたのは湯治客だけではなく、麓の小田原の街からも夫婦揃って山菜採りに出掛けて来ている訳ですね。

無論、無償で採り放題をやっていた訳ではなかった様で、天保15年(1844年)の高座郡辻堂村(現:藤沢市辻堂)の名主茂兵衛の「入湯小遣帳」には、同年の木賀温泉の滞在時の出費の記録の中に

四月朔日

一、弐拾八文          小入用

一、七文            わらび/ふき

二日

一、七文            ふき 八わ

一、十八文           うど

一、四文            わらび 壱わ

三日

一、十弐文           じねんじゃう 壱本

七日

一、六文            ふき 三わ

(「藤沢市史 第2巻 資料編―近世編」995〜996ページより、一部改行を/にて置き換え、…は中略)

とあり、採った分に対して個別に対価を払っていた様です。「じねんじゃう(自然薯)」は「薯蕷」のことと見て良いでしょうが、そうすると箱根の「やまのいも」は栽培したものではなく自生しているものを掘り出したのでしょう。

また、松崎慊堂(こうどう)の「慊堂日暦(にちれき)」では、天保5年(1834年)の3月20日〜4月7日に箱根に滞在した記録が見られるのですが、その中で同行の2名がわらび採りに出掛けたことを書いています。

(注:三月)二十二日 晴、温。午陰。玄章と家児とは、出てて塔沢の渓流を()えて前山(明神岳)に登り(わらび)を採る。蕨は未だ多からず。帰って云う、絶頂にて望むところは極めて(ひろ)しと。また云う、小田原城は目中に在り、封内の人は往来することを得るも、外の人は上るを許さずと。

(「慊堂日暦3」山田 琢 訳注 1978年 平凡社東洋文庫337 79ページより、…は中略、傍注はブログ主)


この年はわらびの出が良くなかったのでしょうか。滞在先の宮の下から明神岳はかなり離れていますが、少々遠出をしないと目ぼしいわらびが見つからなかったのかも知れません。だからなのでしょうか、本来は要害の地として地元の人以外の立ち入りが禁じられている筈の場所にまで立ち入らせてわらびを採りに行った、と記している訳です。無論、素性の確かではない一見さんにまでこの様な「リスク」のある案内は恐らくしなかったでしょうが、この時点で既に幾度と無く箱根を訪れている慊堂の付き添いであれば身元に間違いはあるまいと判断して、宿の主人が特別に案内させたのかも知れません。こうした要害地への湯治客の誘導がどの位の頻度で行われたのかはわかりませんが、少なくともその様な指定を受けた場所であっても、箱根で生活する人々にはこうした産物を見出だせる土地として引き続き認識され続けていたことは確かな様です。

こうして見ると、特に箱根の湯治場にとっては、これらの山菜類は湯治に滞在する客向けの「春の風物」として演出できる格好の産物であったことが窺い知れます。その点では「風土記稿」に記されたこれらの産物のうち、特に宮城野村や仙石原村について記された分については、こうした実情を考慮して記録されたと見ることが出来そうです。
本草図譜巻49「蕨」
「本草図譜」より「蕨」
図上の訓は「けつ」だが
前ページに「わらび」の訓が併記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
本草図譜巻49「薇」
「本草図譜」より「薇」
こちらも図上の訓は「ひ」だが
前ページに「ぜんまい」の訓が併記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

本草図譜巻50「薯蕷」
「本草図譜」より「薯蕷」
「一種 じねんじゃう」と付記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
しかし、基本的には相模国内でも山間であればかなり広範囲で採集出来るものばかりであり、「風土記稿」の記述も津久井県や三竹山・久野村の記述が含まれるなど、相模国内の産地の選定の基準にやや不安定なものを感じます。また、表記にも一部不一致がある上に、「青芋」の時には「里芋」の呼称を俗称として本草学での呼称に拘っているのに、同じく本草学が否定する「狗脊」や「独活」の表記についてはそのまま使用するという点でも不統一が見られる状況に陥っています。

以下は個人的な見解なのですが、恐らくは「風土記稿」を編纂した昌平坂学問所の面々が、これらの産物に対してはあまり明るくなかったことが、こうした混乱の要因なのではないかという気がします。「里芋」であれば、江戸市中でも普通に見かけることが出来る産物だったでしょうから、昌平坂学問所でも「実物」のイメージを持ちながら本草学の指摘を読み解くことが出来たでしょう。これに対し、わらびやぜんまい、うどについては江戸で目にできるとすれば既に漬物や干物になった状態であったでしょう。早蕨が山中でどの様に生えているかを知るには、その時期に山に入らなければ適わないことで、江戸詰めの武家が主体の学問所の面々には意外にそうした経験が少なかったのではないか、と思われます。その結果、地誌探索で村々から上がってくる産物の中に「狗脊」や「独活」の様な表記があっても、それを本草学での表記に合わせて統一的に書き換えることが充分に出来ず、多少混乱した表記のまま残ってしまったのではないでしょうか。

他方、津久井県の項を編纂したのは八王子千人同心ですが、彼らの本拠は八王子にという比較的山間に近い街場にあった上、個々の成員は基本的には周辺の各農村に居住していました。つまりその分だけ、昌平坂学問所よりは山間の産物について元から知識があったと考えられ、わらびについての記述も各村の報告を元に無理なく行えたのでしょう。この津久井県の分は他の郡の編纂に先立って行われて昌平坂学問所に納入されていましたので、あるいは学問所の面々も津久井県の記述に影響される形でわらびなどの山間の産物を積極的に記録する結果になったのではないかとも思います。

但し、「神奈川県植物誌 2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)の記すところでは、
  • ワラビ Pteridium aquilinum (L.) Kuhn var. latiusculum (Desv.) Underw. ex A.Heller

    県内では沖積地から山地まで分布し、日の当たる場所に生育する。(42ページ)

  • ゼンマイ Osmunda japonica Thunb.

    県内では全域に普通にみられる。(30ページ)

  • ウド Aralia cordata Thunb.; A. nutans Franch. & Sav., Enum. Pl. Jap. 2(2): 376-377 (1878) の基準産地は箱根

    県内では低地から山地までの林縁、樹林内の傾斜地、崩壊地などに普通。(1054ページ)

  • ヤマノイモ Dioscorea japonica Thunb.

    県内ではほぼ全域に分布する。シイ・カシ帯〜ブナ帯までの沖積地〜山地の林縁、路傍、畑縁、あきち、公園の植林帯などに普通に生える。(230ページ)

前回取り上げた「本草綱目啓蒙」や「農業全書」の記すところに反して、意外に江戸に近い丘陵地でも見掛けるものなので、その点ではこうした見解は当たらないかも知れません。また、江戸時代後期には立川や吉祥寺の辺りでうど栽培が行われていたので、昌平坂学問所の面々がこうした野菜に疎かったというのも些か腑に落ちない面もあります。この辺りはもう少し視野を広げて、特に江戸近郊の当時の事例を集めて更に検討する必要がありそうです。


因みに、箱根が江戸時代の紀行などに見える様な「山菜採り」を売りにするということは、現在では殆ど見られなくなっています。「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められている明治初期〜中期の箱根の案内本を数点当たってみたものの、「七湯の枝折」を書き写したもの以外はこれらの山菜について記したものを見つけることが出来ませんでした。何時頃から消えたのかはわかりませんが、基本的には箱根に長期にわたって滞在する湯治客向けの「春先のレクリエーション」であったと言えそうですから、滞在期間の短縮や宿泊客の変遷がこうした風物の興亡に影響したのかも知れません。

次回はわらびや薯蕷の関連する民話を取り上げてみる予定です。

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