2015年06月の記事一覧

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【江島道】撤去されていた「江の島弁財天道標」が復旧されたそうです

以前「江島道見取絵図」について取り上げた際に、藤沢宿付近の白山社の南で現在の国道467号線とかつての江島道が接する辺りに、「江の島弁財天道標」が保存されていることを紹介し、その箇所の状態をストリートビューを使って表示させていました。


2010年11月時点のストリートビュー

2014年3月時点のストリートビュー

その後ストリートビューが更新されたことによって、この地点「江の島弁財天道標」が表示されなくなっていたため、位置を補正しようとした際にこの道標がなくなっていることに気付いたのでした。ちょうどこの付近に新たな道路を通して交差点の形状を変更する必要があったために、この道標を撤去したものの様ですが、何処で撤去した道標を保存しているのか、またその後の予定がどうなっているのかなど、一切の情報がなく、懸念していたところでした。

因みにストリートビューも現在の完全版の機能を使えば過去の状態を表示させることが出来ることに気付いたので、今回同地点の2010年と2014年のストリートビューを並べてみました。閲覧環境によっては少々重いかも知れませんが御了承下さい。左の2010年の場所にあった道標がなくなっているのがわかると思います。

今年になってこの地点に通される道路工事が竣工しましたが、全部假的さんのブログでこの道標が元の場所に近い位置に復旧されたことを知りました。

復活!遊行ロータリー交差点江の島弁財天道標 #藤沢キュン : 全部假的


竣工後の周辺の様子については、今回は全部假的さんのブログにお任せすることにします。後日私も訪れる機会があれば現地で確認したいと思いますが、今のところ戻されたのは道標本体のみで、以前傍らに立てられていた「江の島弁財天道標」などと記されていた案内標は戻されなかった様です。これだけでは事情を知らない人には不案内に過ぎますが、後日改めてガイドなどが設けられるのでしょうか。最近は藤沢市もかつての藤沢宿に残る建築物などの保全に動き出している様ですので、こういう所でもきめ細かい配慮を望みたいところです。

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短信:「ルートラボ」の地図を「地理院地図」上で作図したものに貼り替えます

まだ史料収集が充分に進んでいないので、過去記事のメンテナンス作業を。

ここ数回の記事で「地理院地図」上の作図を色々と試してきて、ある程度の感触を掴みました。特に、「ルートラボ」上で作成したルートをKMLファイルで書き出すことで、「地理院地図」に取り込んで追加情報を書き足す方が、理解してもらいやすい図になるのではないかと思います。それで、過去の記事で使った「ルートラボ」の地図を、「地理院地図」で加工した地図に貼り替えることにしました。

これは一面では、未だに「ルートラボ」が「Silverlight」対策を進めていない様に見えることへの自衛策の一環でもあります。最悪でも各記事から地図が抜け落ちてしまう状態になるのだけは避けたいので、それであればブログ内に画像として図を保存しておきたいということです。


ルートラボ」の地図を画像として貼ったもの

自住軒一器子「鎌倉紀」の鎌倉内での足取り
上の地図を「地理院地図」に取り込んで加工したもの

今回は自住軒一器子の「鎌倉紀」の記事のうち、「(その2)」に使った3枚の「ルートラボ」の地図を置き換えました。特に1枚目の地図はルートが長くなったこともあってかなり酷く簡略化されてしまっていましたが、「地理院地図」上の図ではそれが解消でき、更に一器子一行の主だった訪問先を図にプロットしたことで、もう少し意図したものが伝わりやすくなったのではないかと思います。

石上の渡しから旧東海道・車田への抜け道
また、3枚めの地図では現在の境川の流路と江戸時代の流路の位置の違いがわかる様に、右の様に「明治期の低湿地」の地図を重ねました。こうした地図が活用できるのも「地理院地図」を利用する利点の1つです。

出来れば「地理院地図」上で作図した状態のものを直接共有できれば良いのですが、現状では作図したものをファイルとしてパソコン上に保存出来るに留まっていますので、当分はスクリーンキャプチャをお見せすることになると思います。作図した結果は「geoJson」というファイル形式で保存することが出来るので、将来に備えてこの形式で保存することにしました。

もっとも、マーカーとテキストを連携させて配置することが現状では出来ないので、ある特定の倍率で作図したものは拡大したり縮小したりするとテキストやマーカーが重なり合ったり離れ過ぎたりしてしまうのが難点です。また、「ルートラボ」から出力したKMLファイルには線の色や太さの情報を持っているものの、これを書き換えても「地理院地図」に取り込んだ時に反映することが出来ないという現象が出ており、複数のルートを1つの地図で色を変えて表示させることが今のところ出来ずにいます。これが「地理院地図」の仕様かどうかはわかりませんが、問題が解消出来る様であればそうした作図にも活用したいと思います。

作業量はそれほど大きくはないと思いますが、これまでかなりの箇所で「ルートラボ」を使ってきているため、全ての地図を貼り替えるのはかなり時間がかかりそうです。特にマーカーなどを書き加えた方が良さそうな地図から優先的に置き換えていこうと考えています。
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「玉匣両温泉路記」より箱根からの帰路(その4)

前回に引き続き、今回も「玉匣両温泉路記」の復路の足取りを追います。今回は、鎌倉の宿を出る所から江戸に帰り着くまでの道筋を見ます。

前の晩に鶴岡八幡宮から帰ったあと、夕月が沈み、雪の下の通りの静まった頃には寝入った様ですが、やはり江の島や鎌倉の寺社を隈なく巡って疲れが溜まっていたのでしょうか。翌5月7日(グレゴリオ暦6月17日)の朝は幾らか寝坊した様です。

夏のよ(夜)のふ(臥)すかとすれば、暁のかねに驚き、起出て朝がれ飯(餉)たべ、案内のをとこをたのみて、「きのふ見残したるかた(たづね)ん」と別をつげて出。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 210ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、以下「玉匣両温泉路記」引用の扱いについても同様)


前日には江の島で案内の人を頼んでいますが、鎌倉では段葛に来たところで「さと人に、光明寺の道きゝてたどり行(203ページ)」と最初に光明寺に行く道を地元の人に訪ねていますから、ここでは案内は頼んでいないのでしょう。それに対して、この日は見残した寺を巡るのに宿で案内を頼んでいますから、この日の訪問先はこの案内を頼まれた人が選んだということになるでしょう。

「玉匣両温泉路気」五月七日の鎌倉での訪問先
五月七日の訪問先。括弧は前を通過したのみ
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

ただ、書き出されている訪問先を見ると、大筋で最初に鎌倉西北の扇ガ谷、源氏山、山ノ内の寺社を巡ってから、再び鶴岡八幡宮の境内を抜けて鎌倉東北の二階堂の寺院を見ていますから、恐らくこの後金沢へ向かうことに配慮して巡る順番を考えているのではないかと思われます。もっとも、前日の記述でも訪れた順番の記述に混乱があったのですが、この日の記述でも例えば次の箇所には細かい順序関係に混乱がある様です。

海蔵寺へ行て、弘法の加持の水、十六の井と云を見るに、これも矢蔵の内に五升入の鍋埋(なべうめ)たるごとく、(よつ)づゝ四ッ並べたる。「浅き溜り水なれども、早魃(かんばつ)のとしにても(つく)ることなし」と云。藤ヶ谷(ふぢがやつ)の網引地蔵の前より五丁程山へのばれば、為相(ためすけ)卿のみ墓あり。この卿は冷泉(れいぜい)為家卿の御子なれば、哥読人(うたよむひと)はたづねをがむと(こそ)きゝしか。み墓のちりもはらひて有。をがみて又来りし坂を下り、山の間の細道をゆけば、長寿山(長寿寺)と額打たる寺あり。尊氏将軍のみ像有といへば、浅茅(あさぢ)の露払つゝ入てぬかづき奉る。この寺久しく僧はすまで、狐狸(こり)などの(すみ)けん、軒端も床も(あれ)にあれて物淋し。寺の裏にこの君のみ墓也と云五輪の塔あれども、都にて世をさり給ひたれば、爰に(ある)べきやうなし。みしるしまでに立たるものか。

新居の間魔堂をみて、円覚寺へ行に…

(「江戸温泉紀行」211〜212ページより)


この順序では、冷泉為相の墓を訪れたあと、山道を抜けて長寿寺へ出たことになっていますが、この区間の道の存在が怪しい上に、その次に出て来る円応寺(新居の閻魔)と円覚寺との位置関係で考えると、この区間を行ったり来たりしたことになります。やはり円応寺を見てから長寿寺へ訪れたと考える方が道順としては自然である様です。

他にも、宝戒寺を訪れた順番も荏柄天神社と大塔宮(鎌倉宮)の間に来ているのは、やはり位置関係の点で少々不自然です。正興は途中「小帒坂(巨福呂坂)」の茶屋で休憩した際に、鎌倉の絵図を買い求めている(214ページ)ので、後で位置関係については確認する手段があった筈ですが…。

他方、宿を出て最初に

辰巳(たつみ)の荒神のみ社をがみ、刀作りて世になりたる正宗の家の()と処を過、亀谷山寿福寺に行て、実朝卿の御廟所(ごべうしょ)の前にぬかづき奉る。

(「江戸温泉紀行」210ページより)

と、巽神社の前を過ぎた辺り、寿福寺の手前に正宗の工房があったとする点については、現在も鎌倉で続いている正宗の店の位置とは順序関係が合わない様に見えるものの、そのホームページには先々代の頃に現在地に移転してきたことが記されています。実際、寛政11年(1799年)2月の「鎌倉惣図江之島金澤遠景」(石渡八十右衛門、「鎌倉市図書館デジタルアーカイブ」へのリンク、リンク先PDF)では、「立山第三/壽福寺」と「辰巳荒神」の間に「マサム子ヤシキ」が記されており、この位置関係が正しいことがわかります。


あるいはもう少し鎌倉に留まって十二社辺りのの寺社まで見て廻るつもりだったのかも知れませんが、大塔宮まで来たところで天気が崩れて雨が降り出したので、鎌倉見物はここで打ち切って金沢への道を急ぎます。

あした(朝)より空くもり、「ふらまし」とおもひしに、北風さと吹て雨ふりきぬ。案内のをとこはこゝより戻し、をしへたる道をいそぎ行に、小川ありて橋をわたせり。道行人(ゆくひと)にとへば、「滑川(なめりがは)なり」と云。青砥(あをと)(藤綱)ぬしのふるごとおもひ出し、このあたり見まほしくおもへども、雨風強ければ、只いそぎに急ぎ行に、朝比奈(あさひな)の切通しにいたる。

切通(きりどほし)は、極楽寺・小袋坂とは違ひ、十町あまり登り、同じほど下る。登り(つめ)たる処にはふせ家あれども、麓の里より昼(ばかり)来り物うる家にて、雨風の強ければとく帰りさりしと見えて人も居ず。休むべきやうなく、杖を(ひき)つゝ、かたみ(互)にものもいはず。

(やうやう)金沢の里近く来り、をりには家もあれども、門の戸さして音もなし。(六浦藩主)米倉殿の御陣屋の前を左にして行。追手は岩山に作り道して、十杖あまりものぼりて門をかまへ、枝しげりたる松生立(おひたち)て、見こみはいとよろし。又五六丁ゆきて帆かげみゆれば、「この里の入海ならん」といよいよいそげば、道の右に海をうしろにして作りたるよき家あり。かごのをとこの来るにとへば、「こなたは千代本、つぎなるは扇屋」と云。「東屋まではいか程あり」といへば、「左の家こそ東屋なれ」と、いひ捨てゆく。

(「江戸温泉紀行」219〜220ページより)


「玉匣両温泉路記」鎌倉→金沢の道筋
鎌倉→金沢の道筋
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ)

朝比奈切通の頂上付近には茶屋があったものの、昼間だけ麓から人が上がってきて営業している所だった様で、雨で店じまいしていて休憩することも出来なかった様です。お互いに会話もなく金沢まで降りてきて、六浦藩の陣屋の角を左に折れて町屋まで辿り着いても、そこでもどの家も門を閉ざしてしまっていて、通りすがりの駕籠かきに「東屋」の場所を尋ねると「その左の家だ」と言って去ってしまった、という訳です。

Kanazawa8 Hirakata.jpg
歌川広重「金沢八景」より「平潟落雁」
当時の金沢はこうした干潟が多数存在する内海だった
("Kanazawa8 Hirakata" by 歌川広重.
Licensed under パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.)
六浦藩の陣屋の辺りは現在は住宅街となってしまい、その一角に米倉家の子孫の方が今でも暮らしているとのことです。図ではポイントがやや北寄りになってしまいまいましたが、ここから六浦道の曲がり角辺りまでが大筋で陣屋の敷地だったと考えて良いでしょう。「東屋」は時代が下って後に明治憲法の起草作業が行われた場所ですが、現在残されている石碑に東屋の位置を「金沢八景駅から100m」と刻まれている点をヒントに、「道の右に海をうしろにして作りたるよき家」という正興の記述を手掛かりにポイントしてみました。現在は金沢付近は大きく埋め立てられて当時とは全く様子が異なりますので、当時の海岸付近の地形のヒントに「明治の低湿地」の地図を重ねてあります。肌色になっている場所は干潟(一部塩田)で、当時は現在の国道16号の脇まで遠浅の海であったことがわかります。東屋はその海を背にして建っていたことになります。

正興が何故「東屋」の名を出したのかはわかりませんが、後で「てうりも江戸にまされるとて、それがためにとひ来る人多しときけば、(221ページ)」と書いているところを見ると、前々から評判を聞き知っていたということでしょうか。ともあれ、この東屋で雨宿りすべく門を叩きます。

雨風()つよく、この家も戸ざして(ある)を、おどろかせば、はしための三たり四人出きたり、

「さぞかしなづみ給ひつらん。雨衣ぬぎ、藁沓とりて上り給へ」

(たち)さわぎ、清らかに作りたるひとまへ案内したり。ぬれたる衣ぬぎ捨、茶たう(食)べたれば、すこしこゝち(心地)は直りたれども、

「このとこやみ(常闇)をば、いかにせん。おのれ、手力(たぢから)を(男)のおほみ神にならひ、岩戸引明(ひきあけ)ん」

とたわぶれつゝ、戸少し明て見れば、弐杖斗はなれて大川ながれ、板橋ふたつわたせり。継橋ともいふべきさま也。橋の下は波高く(ながれ)早し。この流を見て水上を考るに、程ケ谷、戸塚の間を流るべきやうにおもへども、

「さきにかの(うまや)通りたるころ、かほどの大川(あり)とはおもはざりし」といへば、光興ぬしの、「我思ふも同じことなり」とて、通ひに出たるをとめにとへば、

「川にはあらず。橋のこなたも同じ入海にて、今引汐(ひきしほ)なれば、あなたへ流行(ながれゆく)也。あげ汐の時を見給へ、あのごとく、こなたへ流れ来る」と云。

「けふは朝より時こそしらね。何どきならん」といへば、

「まだ(ひつじ)の下り(午後三時)なれども、このさきは山道なれば、かごならでは(こえ)がたし。其かごだに、けふはなければ、早くとも泊り給ひて、雨やまば所の八景見て、明日とく程ケ谷へ越給へ」といふ。

「何さま、(かはき)たる衣又くたし、しらぬ山道、夜をこめてまよひゆかんより、爰に宿からまし」と、こゝろさだめぬ。

(「江戸温泉紀行」220〜221ページより)


この「東屋」に入って茶を啜ったところで多少落ち着いたところで、多少部屋が暗かったので光を入れようと障子を開けてみれば、窓の下に大きな川が流れている様に見え、保土ヶ谷宿を貫流する帷子川や戸塚宿と並行して流れる柏尾川の下流だろうかと考えた訳ですね。しかし、ここまでの道すがら、これほどの大きな川が流れる土地ではなかったことから、その疑問を宿に問いてみたところ、「川ではなく、引き潮の入海です」という答えが返ってきた、という流れです。

これも、前回同様に「潮汐計算」や「潮汐グラフ - 高精度計算サイト」のページで潮位を計算してみました。どちらも「金沢」という項目がなかったので、比較的至近にある「横須賀」や「横須賀長浦」を選択しています。「潮汐計算」のページでは干潮時刻が15時44分、「潮汐グラフ - 高精度計算サイト」では14時07分と、計算結果がやや大きく開きましたが、基本的には干潮という点では一致していると見て良さそうです。勿論、金沢は江戸時代末期以降大きく埋め立てられたり、付近では長浦で運河が開削されるなど、潮位変化に少なからぬ影響を与える地形の改変が数多く行われていますので、計算結果には少なからず影響があると考えるべきでしょう。

時刻を聞かれて「未の下り」という答えが返ってきましたが、当時は不定時法で時刻を見ますので、夏至に近いこの時期は現在の15時よりはもう少し遅い時間を指していたと見るべきでしょう。その時分になってもまだ引潮であったことになります。

まだ日が高いとは言え、雨の中を歩いてきてようやく落ち着いたこともあって、この先能見堂の辺りの山越えを夜通しで進む気にはならなかったのでしょう。この日はこのまま東屋に泊まり、称名寺の鐘を遠くに聞きながら一献を上げています。翌朝は八景を見て廻っていますが、

「案内なり」とて、「こゝにみゆるは何のけしき、かしこは何」とて、八景をしへたれども、月、(かり)、或は雪など、其をりに見るならば、けしきこと(異)ならましを、青葉しげれる時に「雪よし」といふも、ふさはしからぬ心地す。

(「江戸温泉紀行」223ページより)

確かに、夏至の近い頃に「瀬戸秋月」や、まして「内川暮雪」などと言われても、さっぱり風情が違ってしまってピンと来なかったのは仕方のないところかも知れません。

この後早めの昼食を済ませ、金沢から保土ヶ谷への道を経て東海道に復帰し、川崎で一泊して江戸へと帰り着いています。「浦島寺」に立ち寄ったのはこの日の途上でした。

ひと通り「玉匣両温泉路記」の道筋を追ってみましたが、一部には記憶違いかと思われる順序の混乱なども見られ、著者の素性がはっきりしないことも相まって、他の史料と擦り合わせて検討する必要は少なからずあると言えそうです。しかし、沿道の各地域の記述には興味深い点も少なからず含まれており、引き続き当時の地域史料の1つとして読みたい紀行文であると思います。
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「玉匣両温泉路記」より箱根からの帰路(その3)

前回に続き、「玉匣両温泉路記」の復路の足取りを追います。今回は原正興一行が江の島へと向かう様子から見ていきます。

旧暦天保10年5月6日(グレゴリオ暦1839年6月16日)のこの記述は、一部を「江島道」を取り上げた際に引用しましたが、その部分も含めて昼食の様子までを改めて引用します。

海辺へ出て、波打際をゆくに、色いろの小貝、砂にまじりて(ある)を拾ひつゝ、五丁程ゆけば江嶋なり。むかしはこの嶋、はなれ嶋なりしとかや。いつのころよりか、みぎり(右)左より砂打あげ、岡となりたれば、今はゆきゝのたよりよし。嶋の入口より家ゐ(たち)つゞき、道はゞはいとせばく、居ながら(むかひ)の家へことばかはす程也。花紅葉(そめ)たるのうれん、軒には家の名しるしたるてうちん掛けつらね、共さま江戸の堺丁などのごとし。左のかたなる恵美須屋と(いふ)高楼にのぼり、昼の飯たうべたるに、広もの・狭もの(魚類)いだす。「この嶋は、うを多く、てうり(調理)もよろし」ときゝしにたがはざれば、酒なくてはことた(足)らぬやうにおぼえて、いださせたれども、め(目)あしければ、ひと銚子(てうし)もつくさゞりけり。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 197ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、以下「玉匣両温泉路記」引用の扱いについても同様)



明治20年測図の江の島付近の地形図にも
江の島に続く砂嘴が描かれている
(「今昔マップ on the web」より)
正興の書き方では当時は終日陸続きであった様にも読めます。江の島と対岸を繋ぐ砂嘴は時期によって消長があり、比較的長時間水面上に出ている時期と、水没している時間の方が長い時期があった様です。「新編相模国風土記稿」は「玉匣両温泉路記」の書かれた天保期に編纂されていますが、ここでも

片瀨村の南にあり、彼村落より島口迄十一丁四十間許退潮の頃は徒行して到る【名所方角抄】にも汐干は徒歩にて通ふなり云々とあり潮盈れば船を用ひ【東国紀行】にも鹽滿つれば渡し舟坊より言付られておりたり云々とあり或は背負て渉れり此間一町餘あり里俗負越場と呼ぶ、

(卷之百六 鎌倉郡卷之三十八)

と記していることから、やはり当時も時間帯によって徒歩で島に渡れる時間帯とそうでない時間帯があった可能性が高いと思われます。しかし何れにせよ、正興らが江の島に到着したこの日の昼時には、ちょうど潮も引いて徒歩で問題なく渡ることが出来た様です。

ここで「恵美須屋(現:恵比寿屋)」に入って昼食を取るのですが、評判に違わぬ料理に、目(というより恐らくは高血圧)に障らない様に気を遣いながらも銚子を付けさせています。

その後、一行は「下之坊」、「上之坊」(と記しているのですが、「下宮」「上宮」のことでしょう)を順に詣で、稚児ヶ淵を経て「奥の院」のある岩屋へと向かいます。

この岩岸を少し廻れば、岩屋の宮居也。われもひともをがむ。宮居の脇より岩穴に入。これを奥の院と云。案内の男、松明(たいまつ)ともして先に立行(たちゆく)。穴のうち、腰かゞめてゆく処もあり、手(のば)して岩に付ほどの処もあり。清水(しみづ)したゝる処多し。板橋渡したる処(ある)は、清水の溜りたる也。火の光りに見れば、岩に彫付たる神のみ像、石にて(つくり)たる仏など、多く有。行留りまで弐丁あまりと云。穴の口へ戻りきたれば夜明のごとし。俎岩(まないたいは)の辺には、くだものなどうる也。又、破籠(わりご)など(もた)せきたりてゑ(酔)ゝうたふもあり。若き海士(あま)の「海に入て(あはび)取来らん」と云。銭出せば、波をかづきて入、たちまちに蚫取来る也。

「水底の岩の間に、蚫を(かご)に入て隠しおき、銭出す多き少きにて取きたる」

とかたる人の(あり)しが、()(ある)べし。又、海士の子の、波をかづき、波にうかみて、銭を乞ふ。其さま、()と云鳥のごとし。

(「江戸温泉紀行」198ページより)


Hiroshige Pilgrimage to the Cave Shrine of Benzaiten.jpg
歌川広重「相州江の島 弁才天開帳詣 本宮岩屋の図」
左下で裸の子供が海に飛び込む様子は
海人の子供の様を描いたものとも取れる
("Hiroshige Pilgrimage to the Cave Shrine of Benzaiten"
by 歌川広重 - here..
Licensed under パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.)
ここに来るまでの間にも貝細工などを売る店が幾つかあったことを正興は記しているのですが、稚児ヶ淵付近にも果物を商う人がいたことが記されており、海人の鮑取りの実演には、海中の仕込みで早業に見せかけていたのではないかという説を唱える人がいて、正興もその意見に賛成だった様ですが、真偽の程は定かではありません。何れにせよ、江の島がこうした参拝客相手の稼業で成り立っていたことは確かでしょう。

最後に海人の子供たちが、海に潜ってみせたりして小遣い稼ぎをしていたことが書かれています。以前江の島に向かう道筋でも子供たちが旅人にまとわり付いて小遣いをせびっていた例をいくつか紹介しましたが、この海人の子供たちにもそれらと通底するものがある様です。どのくらいの金額を撒いていたのか、もう少し時代が下った安政5年(1858年)の道中記「江之島鎌倉金沢之旅行日記」では、5人の一行が江島道で撒いた金額を

百文    江之嶋道/子供幷ほどこし/とも

(「相模国紀行文集:神奈川県郷土資料集成 第6集神奈川県図書館協会編 1969年 157ページより、改行を「/」で置き換え)

と記録しています。この時はひとり当たり20文程度を撒いたことになるでしょうか。もう少し他の例を見てみたいところですが、正興らも海に潜ってみせる子供たち相手にその程度の投げ銭を施したのかも知れません。

江の島の他では茅ヶ崎や吉原付近の「宙返り」の例も以前に取り上げましたが、江戸時代にこうした例が他にどの地域に残っているのか、もう少し掘り下げて調べてみたいところです。

稚児ヶ淵の上で少し休んだ所で恵美須屋へと戻り、置いてきた荷物を受け取って江の島を出ます。恵美須屋の主人が「嶋の入口まで送りきぬ。(「江戸温泉紀行」199ページ)」と記しているところから見ると、その時分にもまだ歩いて島を出ることが出来た様です。江の島を出た時刻については記されていませんが、これから説明する通りこの日はこの後日没までに鎌倉の寺社をかなりの数巡っていますから、そのために必要な時間から逆算して、あまり江の島に長い時間留まってはいなかったと考えられます。

試しに1839年6月16日の江の島の潮位変化を、「潮汐計算」のページで計算してみました。これによると、この日は小潮で干潮時刻は14時06分、その時の潮位は33cmと、それほど大きな潮位変化のある日ではなかったものの、確かに昼時には潮が引いていたことがわかります。


江の島付近はその後関東大震災の際に大きく隆起したことが知られている上、現代に入って砂嘴に人工的な改変が加えられるなど、江の島付近の地形が天保の頃とは少なからず変わっているため、具体的に砂嘴が水面上に出ていた時刻を計算することは殆ど不可能に近いと言って良いでしょう。しかし、正興らが正午ごろに江の島に入った時分には既に砂嘴の上を歩くことが出来た訳ですから、その後2時間ほどで干潮のピークが来ているのであれば、確かに復路でも問題なく砂嘴を歩いて島を出ることが出来たと見て良さそうです。



江の島を出た正興一行は続いて腰越の「万(満)福寺」に立ち寄り、義経の腰越状を見ています。万福寺を出た一行は七里ヶ浜を鎌倉へと向かいます。

里はなれより七里が浜也。これは六丁壱里のつもりにて、六七、四十弐丁あり。今の道、壱里六丁也。汀の波の行たる跡をゆけば砂かたく、ふみこむことなし。波をおそれて遠くゆけば、砂乾て藁沓(わらぐつ)の間に入、跡(後)戻りしてあゆみがたし。左は二十杖或は三十杖ほどづゝはなれて芝山也。二十(はた)とせ程前に、この浜通りし人の、「牛にのりて行しが、ゆたかなるもの也」とかたりしこと思ひいだし、里人に「牛はいかに」ととへば、「此ころ()ひとまれなれば、多くはこの浜へもきたらず」と云。汀の茶・くだものうる家にていこふ。こゝを出てゆくに、道の左に枝ふ(古)りたる松ひと木(たて)り。日蓮のけさかけ松と云。こゝよりは、まもなく極楽寺にきたる。寺の門入て見るに、住僧もなく荒たり。観世音の堂前に桜木多し。この寺の前の坂を、極楽寺の切通しと云。越れば稲村が崎也。

(「江戸温泉紀行」200〜201ページより)


以前江島道について取り上げた際にも紀行文・道中記の引用を数点出しました。正興によれば、こうした波打ち際を進むには波が掛かるのを恐れず、砂が湿ったところを歩く方が良いとしています。砂が乾いた所を歩くと足下がしっかりしないために却って歩き難いから、という訳です。こうした知恵は当時の人達に共有されていたということでしょうか。

正興は20年ほど前に、ここを牛に乗って行く人のことを人伝に聞いたことを思い出して、地元の人に「牛はいないのか」と訪ねています。「江戸温泉紀行」の注ではこの部分について、「東海道名所図会」巻六の「七里浜」の項の

此浜砂道にして、歩する事煩し。農家の牛に乗りて往来する旅人もあり

(「江戸温泉紀行」295ページより)

という記述を紹介しています。「東海道名所図会」は寛政9年(1797年)の刊行ですから、「玉匣両温泉路記」よりは40年ほど前の様子を書いていることになります。実際、「東海道名所図会」の編者である斎藤幸雄が同じ寛政9年に記した「江島紀行」にも

それより藤沢のすくにしれる人の此ほどよりまち居けるよしなればいそぎ行に其里に牛翁といへる老人あり 常に牛を愛しつゝみづから行ことあるときは此うしに乗てあゆむにぞ おのづから牛のおきなといへるよし

(「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)藤沢市文書館編 20ページより)

とあり、江の島や鎌倉ではこの「牛翁」と道中を共にしています。「東海道名所図会」の記述はこの時の経験が元になっている訳です。また、同じ頃に玉川舟調の描いた「新板相州江嶌之図」にも、七里ヶ浜を人を乗せて歩く牛の姿が描かれています。しかし、天保の頃にはこうして牛を飼う人もいなくなってしまった、ということでしょう。

日蓮の袈裟掛けの松を過ぎて、極楽寺を覗いてみたものの、この時には無住の寺になって荒れていたとしています。ここから一行は鎌倉内の寺社を順に巡っていくのですが、この日のうちに巡った寺院や経由した橋などの位置を地図上でプロットしてみました。

「玉匣両温泉路記」5月6日に訪れた鎌倉の寺社
「玉匣両温泉路記」5月6日に訪れた鎌倉の寺社、経由した橋などと共に
「常楽寺(「胡麻粉寺」と記されている)」は前を通ったのみのため、括弧に収めた
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ後、リサイズ)

江の島で奥の院まで往復してから七里ヶ浜を経て鎌倉入りしていますから、極楽寺に着いた時点で既に昼下がりになっていたと思われるにしては、かなりの軒数の寺を精力的に巡ったことが窺えます。流石に鶴岡八幡宮には日が落ちて「大沢屋」という宿にこの日の宿りを求め、入浴と晩餐を済ませた後に出かけているのですが、それ以外の寺院には日没前に訪れています。旧暦では5月が夏至の時期ですから、日が長い分だけ時間に余裕があるとは言え、事前に訪れる腹積もりを決めていなければ、これだけの寺を短時間に廻り切るのはかなり難しそうです。日程に余裕が出来た分、少しでも多くの寺を廻ろうと考えたのか、それとも湯治の出発前から帰路には数多くの寺社を巡ろうと決めていたのかは定かではありません。因みに、この間で駕籠などを利用したことについては記されていません。

鶴岡八幡宮を訪れた正興は、「近きころ火の災ありて、改て公より作り給ひにしことなれば、まばゆきほどにて(206ページ)」と書き記しています。鶴岡八幡宮は文政4年(1821年)正月の雪の下の大火で上宮はじめ多くの建物が焼失し、文政11年(1828年)に幕府の援助を得て再建を果たしています。正興が訪れた時には竣工後10年以上が経過している筈ですが、まだ充分に新しく見えたということでしょう。

次回、金沢を経て江戸へ帰り着くまでの区間を見たいと思います。

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「玉匣両温泉路記」より箱根からの帰路(その2)

前回に引き続き、今回も「玉匣両温泉路記」から帰路の足取りを追います。

駒留橋を過ぎた原正興一行は、程なく小田原宿に入ります。

山坂下り終れば、程なく小田原の里也。ひとつの番所を入ば、両側皆、足軽などゝ見えて、(かしら)(おの)が名を札に書て出したる家あまたあり。引つゞきて町家なり。この里も、軒端ごとにかや(茅)さして、菖蒲はなし。(のぼり)かざりたる家もあり。外郎(ういらう)うる家は、この町にては目立てみゆれば、用にはなけれども、立よりてもとめぬ。宮の下よりこの里まで、僅に三里半の道なれども、心の駒のゆくにまかすれば、道はかゆかず、はや(うま)のとき(十二時)に近し。「物く(食)わするよき家もがな」と尋るに、いづこもいづこも出来合たるはなし。せんかたなく、尾張屋とかしるしたる家に入て、(あはび)に(煮)させ、飯くひたり。あるじに、

「この里は海辺なれば、狭もの・広もの(魚類)多かるべしとおもひしに、いかなれば少き」ととへば、

「この浦は網引ても、よきいを(魚)はとれず。ことうら(異浦)より廻り来るうをなれば、をりによりてはなし。されば、ひとのあざけりて、精進うらと云也。けふは節句の祝ひ日なるに、わきて、よきうをすくなく、まゐ(進)らする物なし」といふ。

(「江戸温泉紀行」板坂 耀子編 1987年 平凡社東洋文庫472 193〜194ページより、ルビも同書に従う、くの字点はひらがなに展開、以下「玉匣両温泉路記」引用の扱いについても同様)


東海道名所図会「小田原外郎透頂香」
「東海道名所図会」(龝里籬嶌 編・寛政9年)より
「小田原外郎透頂香」図
独特の屋根の形はここでは小さ目に描かれている
正興はこの屋根が街中で際立っていることを
記している
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
小田原の街に入って、端午の節句の飾りとして菖蒲ではなく「茅」が軒先に差してあったとしています。調べた限りでは西日本にこの様な風習があるという記事を見つけることが出来ました(リンク先PDF)が、同種の風習が小田原をはじめとする相模国域にあったかどうかについては、今のところ、これに類する風習の記録を見つけることが出来ずにいます。この点についてはもう少し調べてみる必要があると考えています。「幟」というのはやはり「鯉のぼり」だったのでしょうか。

外郎の店に立ち寄ったところで昼時となったのは、宮の下からの道程を考えると随分と時間をかけて降りてきたと言って良いでしょう。小田原の様な宿場町を抱える大きな城下町なら、昼餉(ひるげ)の場は容易に見つけられるだろうと正興一行は踏んでいたでしょうが、思いの外適当な店が見つからずに難儀した様です。仕方なく入った「尾張屋」という店で料理させたのがアワビというのが、今では高級品と看做されることが多いこの食材に対する見方の違いがあるのかも知れません。店の主が「この浦では網を引いても良い魚が穫れない」と言っている部分については、後日「風土記稿」の記す海産物を検討する際に改めて取り上げる予定ですが、字義通りに受け取って良いかはもう少し慎重に見る必要があると思います。

「端午の節句なので取り分け良い魚が廻って来なかった」という店の主の説明は、当日が休漁気味だったからなのでしょうか。温泉場を引き上げるのを早めた結果は、ここまではあまり良い方向に出なかった様です。

昼食後、酒匂川を渡り、東海道を東へと進みます。大磯に近付いた辺りで、周囲が祭礼で賑わう様子を書き記しています。

この辺、門の幟はれやかにかざる。又きのふけふは、六所の祭とて、多く幟たて、唐人のねりなど出す所もあり。

大磯を過て、平塚の駅にきたるは(さる)の時(午後四時)なれども、足つかれたれば、山本と(いふ)脇本陣にやどりさだめぬ。都の加茂のみあれのくらべ馬にならひけん、この里の祭も、馬(のる)ことを、はれとする也。其さまは、乗掛馬(のりかけうま)のごとく、色いろの布団(ふとん)つみ重ね、のるもあり。肌背(はだせ)馬にのりて、はしらするもあり。この里人にゆかりある近き里びとは、馬引て来ることを、其家のほまれとするとて、冨たる家などへは、二十(ぴき)も引つどへば、馬いと多し。又遊まれびと女の、常は格子戸(かうしど)の内に並び居て稀人(まれびと)(客)をまてども、きのふけふは、七八人、或は十人ばかりづゝ打つどひて、大路をたわぶれあるくにぞ、夜ふくるまで賑ふ。宿にも、旅人の外に稀人ありて、かしがましく、()・うし(深夜十二時・午前二時)のかねもきゝたり。

(「江戸温泉紀行」195ページより)


東海道と国府祭関連社・神揃山の位置関係
東海道と国府祭関連社・神揃山の位置関係
(「地理院地図」)上で作図したものをスクリーンキャプチャ

拝殿
大磯町・六所神社拝殿
("Rokusho jinja Haiden"
by ChiefHira - 投稿者自身による作品.
Licensed under CC 表示-継承 3.0
via ウィキメディア・コモンズ.)
正興が「六所の祭」と記す「国府祭(こうのまち)」は、現在では新暦の5月5日に催されていますが、これは相模国内の一宮(寒川神社、高座郡)、二宮(川勾神社、淘綾郡)、三宮(比々多神社、大住郡)、四宮(前鳥神社、大住郡)、そして五宮格の平塚八幡宮(大住郡)と総社である六所宮(淘綾郡)が「神揃山(かみそろいやま)」に会して行う祭です。「神揃山」については以前大磯の「化粧坂」を取り上げた際にも出て来ました。

上の地図に示した通り、梅沢から平塚にかけては、これらのうち総社と二宮、五宮格、そして神揃山が東海道に比較的近い場所に位置しています。また、四宮も神揃山への往復の途上では東海道を経由していた可能性が高そうですし、上の地図では位置を示すことが出来ませんでしたが、四宮の北東に位置する一宮も大磯の辺りでは東海道を経ることになりそうです。つまり、神揃山の北方に位置する三宮以外は多かれ少なかれ東海道を練り歩くことになったのではないかと思われ、この日の東海道周辺が「国府祭」一色になるのも当然のことではあったでしょう。正興の一行は結果的にその只中を歩いてくることになった訳です。

現在の「国府祭」では馬が神事に引き入れられてくる局面はなくなった様ですが、正興の記すところでは当時はかなりの頭数の馬が、鞍や布団を乗せられて参加していた様です。富のある家は馬を多数参加させていると書いていますから、恐らくは大磯宿や平塚宿の本陣家などがその様な役回りになったのでしょう。また、これらの馬がともに東海道を往来することになれば、道幅5間を誇る東海道といえどもこの日は相当な交通量になったのでしょう。箱根から降りてきたとは言えそれ程の距離を歩いた訳ではない正興の一行が、足が疲れたからとまだ日の高いうちに平塚で宿ることにしたのは、あるいはその混雑を避けながら長距離を歩くことになったことも影響したのかも知れません。もっとも、宿場は遊女を連れ込む客で深夜遅くまで祭の余韻が消えなくなっていた様で、正興らも脇本陣をこの日の宿に定めたのはそうした喧騒をある程度念頭に追いたからなのかも知れませんが、それでも深夜なかなか寝付けなくなったのは想定外だったでしょう。

とは言え、江戸時代の「国府祭」の様子を記した文章自体があまり多いとは言えませんから、その点でもこの「玉匣両温泉路記」の記述は貴重です。特に端午の節句の当日にここを通り掛かった江戸時代の道中記・紀行文の類という点では、他になかなか例がなさそうです。



「玉匣両温泉路記」車田→江の島の足取り
車田→江の島の足取り
境川の流路は江戸時代とは異なっているため
「石上の渡し」の位置は旧流路上に記した
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
翌朝、夜明けとともに平塚宿を出て馬入川を渡り、車田から江島道へと逸れていきます。その先で石上の渡しを越えたところで駒立山の鉄砲場について触れている箇所については、以前江島道について紹介した際に「玉匣両温泉路記」を引用しましたが、改めてその箇所を引用します。

片瀬川の上、石亀の(わたし)は、両岸に小舟をつなぎて、舟より舟ヘ板をわたしたるもの也。これをわたりて少しゆけば、駒立山と云。麓に茶うる家あり。立よりて休む。この山は、頼朝公の駒とめ給ひし処なりと云。今、鉄炮丁打(てつはうちゃううち)(射撃練習)の場所也。山の上より片瀬川越え、江嶋のこなたの浜へさげ(うち)にする也。十八丁の見わたしと云。此外、江嶋より南に丁打の場あり。辻堂の浜と云。辻堂村と云ある故に、浜をも(いふ)(こそ)あらめ。おのれも、大筒(おほづつ)丁打の場所は鎌倉とのみ思ひ居たりしに、今きけば鎌倉にはあらず、高座郡(たかくらこほり)のうち也。

(「江戸温泉紀行」196ページより)

途中馬入の渡しがありますので多少余分に時間が掛かっているとはしても、平塚宿から駒立山の麓まで約4里ほどの道程ですから、夏至の近い頃であればまだ朝のうちに茶屋に着いたことになるでしょう。この付近の鉄砲稽古場の当時の実情については、原正興の知識は必ずしも正確ではなかった様ですが、それでも何かしらの情報を持ってはいた様です。彼がどの様な立場でこの様な知識を有していたのかについては、残念ながら原正興について委細が知られていない現状では不明と言わざるを得ません。


「玉匣両温泉路記」からは更に、西行の戻り松洲鼻の江の島に向かう道についての記述を引用しました。江の島へ渡る前に龍口寺にも立ち寄っているのですが、

片瀬村竜口(りゆうこう)寺、寂光山と云。(あれ)たる寺也。日蓮、竜口(たつのくち)にて切られんとして、ゆ(許)りたり。これを竜口の御難と云て、其宗旨のもの、九月十二日に多くきたると也。日蓮を入おきたる牢の跡と云所あり。七面堂は寺より三十杖ほど上の山なり。見はらしよろし。このあたり、てうり(調理)するよき家も見ゆ。

(「江戸温泉紀行」196〜197ページより)

正興が「荒れた寺」と表現しているのは、この時期は参拝者があまり多くはなかったということになるでしょうか。とは言え七面堂の辺りからの眺望が良かったことについては、以前引用した「江ノ島参詣之記書写」でも江の島はもとより大山・箱根・富士・伊豆の山々や大島までの眺望が利くことを書いていました。正興らもそこまで登ってみた様です。

彼らが江の島に着くまでの道筋は基本的に当時の一般的なもので、恐らくは正興らもこの辺りでは基本的に出発前に立ち寄る場所をある程度決めていたでしょう。龍口寺の門前にも料理屋が色々とあった様ですが、彼らはそこではなく、江の島に渡ってこの日の昼食を取っています。その箇所から先は次回改めて取り上げたいと思います。

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