2015年05月の記事一覧

「慊堂日暦」より南湖や梅沢の記述をめぐって

先日、原正興「玉匣両温泉路記」中に見える、箱根の温泉宿から外輪山を越えて大雄山最乗寺へと往復した際の道筋について触れた際に、同じ道筋を辿ったと思われる他の例の1つとして、松崎慊堂(こうどう)の「慊堂日暦(にちれき)」を引用しました。この「日暦」中で箱根を経由したり宿泊したりした際の記録に目を通していて、幾つか興味を引く記述が見つかったので、メモ代わりにここに書き出しておきます。

A portrait of Matsuzaki Kohdoh 松崎慊堂像.jpg
渡辺崋山による松崎慊堂像
("A portrait of
Matsuzaki Kohdoh 松崎慊堂像
"
by 渡辺崋山
- 図録「渡辺崋山・
椿椿山が描く人物画」
田原市博物館 2005.
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パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.)
松崎慊堂は江戸時代後期の漢学者です。東洋文庫版の「慊堂日暦」(平凡社、全6巻、以下「慊堂日暦」引用は全て東洋文庫版より)で訳注を担当した山田琢氏による「解説」(第1巻335〜341ページ)に従えば、慊堂は肥後熊本の生まれで、11歳の頃から同地の真宗寺の小僧に出されたものの、13歳の時に出奔して江戸へ上り、浅草の称念寺の世話で昌平黌に入塾しました。享和2年(1802年)、慊堂32歳の時に掛川藩の藩校の教授に招かれ、藩政の諮問にも応じるなどの活動によって藩主の覚えも厚かった様です。文化12年(1815年)に家督を子孫に譲って隠居するのですが、「慊堂日暦」はその隠居後、現在残っているところでは文政6年(1823)4月頃から慊堂が没する天保15年(1844年)3月までの「日記」です。

「日記」と言っても実際は慊堂の日々の生活上の記録よりも、彼が見聞きしたものの「備忘録」といった性格が強く、例えば文政9年(1826年)9月19日の記述の中には

柿漆(かきしぶ)は蛇毒を治す。桂山、親験す。

雄黄(いおう)を付け、百虫(ぜき)を治す。門蔵、口授す。

(東洋文庫版第2巻 1972年 27ページより)

と、柿渋硫黄の効能についての記述が見えます。恐らくは「桂山」や「門蔵」といった人物から伝え聞いたものをメモしたのでしょう。この時は掛川へ向かう旅の途上で、他にも薬の処方に関する書き込みが多数見られるのは、一行が東海道を西に進む途上の会話で話題になったのでしょうか。

また、同年10月6日の項には単に「◯シイボルト」とだけ記されています。シーボルトがオランダ商館長の江戸参府に同伴したのが同年1月から6月にかけてで、江戸には3月から4月にかけて滞在していましたから、恐らくその間のシーボルトについての評判が数ヶ月遅れで慊堂の耳にも入ったのでしょう。ただ、具体的にどの様なことが話題になったのか、その一切がここには記されていないので、現在となってはシーボルトの往復した日程と照らして推測する以上のことは出来ません。

この様な性格の「日暦」に見られる幾つかの旅の記録では、一般的な道中記や紀行文とは異なり、記述が大変に簡略であるのが特徴となっています。元より他人に読ませる目的で記したものではないため、判じるのが困難な記載も少なくありませんが、それでも簡潔に記された中に興味深い記録が幾つか紛れているのも事実です。

もっとも、今回は「「湯治の道」関係資料調査報告書」(箱根町立郷土資料館編 1997年、以下「報告書」)中で取り上げられた、箱根に滞在したり通過したりした際の記録を中心に確認をしているため、「慊堂日暦」全体に比べるとまだごく一部のみを読んだに過ぎない点は御了承下さい。今後更に読み進めて、他に同種の道行の記録がないか探してみる予定です。

この「報告書」では次の6回を道行を挙げています(同書69〜72ページ)。

  1. 文政7年(1824年)6月21日〜8月9日:「游豆日記〔伊豆遊記〕」
  2. 文政9年(1826年)9月5日〜10月6日:掛川への往復
  3. 天保2年(1831年)5月8日〜22日:箱根湯治
  4. 天保4年(1833年)6月2日〜18日:再び箱根
  5. 天保5年(1834年)3月20日〜4月7日:箱根で主君を待つ
  6. 天保10年(1839年)8月28日〜9月13日:最後の箱根

このうち、初回の文政7年の往路では江戸・金杉から船を使って伊豆半島へと向かっているために東海道を経ていません。復路では東海道を進んでいますが、その間の記述は次の様になっています。

七日 玉沢廟に謁す。夜、湯本に宿す(福住九蔵)。

八日 川を渉り、渓流に沿い、三枚橋に()ず。歩々雲根(うんこん)を踏み、頭々雲葉(うんよう)を生ず。酒川は(ちょう)を報じ、伊泉の舟を覆す。駄行して梅沢に憩う。

昨、湯本に於て数人に遇う。一人は下垂木の少年(多吉、年十九)、一色村(吉名の東)成道寺善応和尚の弟子。山師(年十八)を添え、まさに往きて下総米本長福寺主真牛和尚に参ぜんとす。一人は相良の人治兵衛、同宿す。明日、伊泉渡に於て遇い、終にともに行きて藤沢駅西の伊豆屋に宿す。この日は天晴れ、騎行は熱からぎるも、歩行は頗る苦しく、汗流れて背に(あまね)し。

九日 晴、熱。歩いて戸塚駅に至り、山中を騎行す。処々に(むしろ)を張り日を覆い、茶をすすむる女の粉黛緑白(ふんたいりょくはく)は、風気の化を観るべし。一走して金川(かながわ)港にいたり、すさみや長右衛門に宿す。飲薦(いんせん)はほぼ美(この間、ならぶところの台店に頼れり)。

騎行して生麦を過ぐ。本年は梨□極めて佳。大森□に憩い小飲し、泥鰌(どじょう)(あつもの)を食す。油を沸して泥鰌を殺し、須臾(しゅゆ)にして即熟し、豆豉(みそ)を下す。味は久しく煮るものに(まさ)る。昏暮に山荘に帰る。諸子と小酌し、枕に就く。

(第1巻 1970年 139ページより、ルビも同書に従う、…は中略、強調はブログ主、以下同様)


箱根の湯本から三枚橋に出る辺りで「雲根」(雲の生じる場所の意で、高山などの比喩に使う言葉)と書いているのは、この辺りの標高がさほどでないことを考えると些か誇張した表現の様にも思えますが、相当に霧が深かったということでしょうか。湯本で一緒になった若者数人との帰路になった様ですが、暑い最中を汗だくになりながらの帰路になったのは、まだ残暑の続く折だったということになるでしょうか。梅沢で小休止し、藤沢と神奈川で宿泊したことが記されていますが、神奈川が「港」と記されているのは往路では舟で寄港したことが念頭にあったのでしょう。生麦では梨の出来の良さを記していますが、あるいはここでも一休みして梨を口にしたのかも知れません。大森の茶屋で食べたという泥鰌の羹について作り方が記されているのも興味深い点です。


この時には梅沢では小休止した以上の記録がなく、また次の文政9年の際の往復ではこうした立場の茶屋に休んだことについての記録がほとんど見えません。これに対し、その次の天保2年5月の箱根行きでは、この梅沢での宿泊を巡って次の様に記されています。

十日 晴、早冷。境木站を過ぎて行けば、地を焼餅坂と曰う。…藤沢駅(藤屋)にて午飯し、南湖站に憩う。南湖は蓋し南郷の訛なり。この站と海との間には、随所に汙池多し。平塚駅より騎行し、まさに梅沢站に宿せんとせしに、站は近歳逆旅(げきりょ)の事を以ての故に、大磯駅と争訟し、宿すべからず。遂に行きて国府津(梅屋)に宿す。この日、午暑。

(第3巻 1973年 164ページより)


大磯〜小田原間茶屋・渡し場図
大磯〜小田原間の茶屋・渡し場の位置関係
青線は江戸時代の東海道
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
梅沢で宿泊する腹積もりであったところが、大磯宿からの訴えによって梅沢で宿泊することが出来なくなっており、已む無く国府津まで進んで宿泊した、としています。この梅沢と大磯の間の宿泊を巡る争いについては以前まとめた通りですが、慊堂の場合は梅沢で宿泊できなくなった代替地が小田原ではなく国府津という点が興味深いところです。既に梅沢まで来ていて宿泊できないからといって、おめおめ大磯まで2里もの距離を戻る訳にも行かなかったのでしょう。既に国府津が梅沢の代替として使われていたことがわかります。

更にその次の天保4年6月の往路では、

三日 早に発す。朝霞は四散し、或いは雨兆ならんかと疑う。境木にいたれば、津和奈の東覲にて、輿馬は絡駅如(らくえきじょ)たり、十余万石侯なり。戸塚駅にいたり朝飧を食す。游行寺に入り、出でて橋南の青柳店にて小飲す。藤沢にて竹輿に乗り、南郷にて小飯す。輿夫継ぎ大磯にいたる、輿夫の勇吉は(たけ)六尺、郷藩の陸尺(りくしゃく)の亡命してここに在る者(竹田の産)なり。また継いで梅沢にいたる。夜、小八幡の農家(権次郎)に宿す。箱嶺の烟雲は騰々たり、枕上に雨を聴く。

(第3巻 331ページより)


梅沢まで駕籠に乗ったと記しているところから見ると、この時も改めて宿泊できるかどうかを確認しているのかも知れません。まだ諍いのほとぼりが覚めないと見るや、今度は更に歩を進めて小八幡で農家に泊めてもらったとしています。国府津では宿の空きが見つからなかったのでしょうか。早めに大磯で宿を探さなかったのは、朝方の雨の予感があったために酒匂川の渡しが渡れなくならないうちに先を急ぎたかったのかも知れません。

ところで、藤沢と平塚の間の南湖については「南郷の訛りだろう」としてしばしば「南郷」の表記を使っていますが、慊堂はここを良く使っていた様です。その南湖について、天保5年4月の復路に大変興味深い記録を残しています。

六日 大晴。駕に従って発して酒匂川(さかわがわ)にいたれば、天はすでに明けたり。酒匂川の水夫は二人にて一人を渡す。深き時の渉銭は六十二文、浅き時は四十六文。大磯駅にて憩い、石窓と歩行して南湖店にて華臍魚(あんこう)を食す、なお佳し。戸塚駅の伊勢屋にて食す。夜、君は宴を賜い、城竪(じょうじゅ)の宗甫・善甫・春斎、今一人はその名を忘れたり、及び轍外これに(あずか)る。別に金三方を賜う。

(第4巻 1978年 88ページより)


Fujisawa on the Tokaido LACMA 16.14.12.jpg
歌川広重「五十三次名所図会」より
「藤沢」に描かれた南湖の左富士
南湖の茶屋はこの手前に位置していた
("Fujisawa on the Tokaido LACMA 16.14.12"
by Utagawa Hiroshige (Japan, Edo, 1797-1858)
- Image: LACMA Gallery:
http://collections.lacma.org/node/189374.
Licensed under
パブリック・ドメイン
via Wikimedia Commons.)
鮟鱇と言えば当時は梅沢の茶屋の名物でしたが、以前この鮟鱇について紹介した際には、南湖ではおはぎを「あんこう」と称して供していたことを書き添えました。何かと南湖が梅沢にあやかろうとしていたことが窺える旨書き添えましたが、慊堂によればその南湖で鮟鱇を食べたとしています。

既に4月(因みにここまでの日付は全て旧暦です)のことですから、鮟鱇の水揚げがそろそろ止まる時期で、春先で味が落ちるとされている鮟鱇を、それでも梅沢の鮟鱇の名声にあやかるべく供していたことになるのでしょうか。慊堂もこの時期が鮟鱇の味が落ちる時期であることを知ってか知らずか、「なお佳し」と高く評価しています。梅沢が何月頃まで鮟鱇を供していたかは不明ですが、こうした記録を踏まえ、同様の記録が他にないか、更に探してみる必要がありそうです。また、大磯で昼食を食べ、戸塚で夕餉と宴になっていますから、南湖の鮟鱇はそれほど多量に食べたとは思えず、どの様に料理されて出て来たのかも気になります。

因みに、天保10年8月の往路では

二十九日 晴朗。午、南郷店にて鯉膾(こいなます)(一朱)を食す。勉強して行き、昏後に小田原小清水に宿す。夜雨。

(第5巻 1980年 298ページより)

と、南湖では鯉膾を食べています。流石に8月では鮟鱇が出る季節ではなく、夏場ということもあって涼し気な洗いにしたのでしょう。もっとも、この年の箱根の湯治では早々に体調を崩してしまっています。鯉膾を食べてから多少時間が空いているので、これが中ったためではないとは思うのですが…。

「慊堂日暦」については、他に興味深い記述が見つかったら改めて取り上げたいと思います。

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2種類の蘿蔔について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

本草図譜巻46「萊菔」
「本草図譜」より「萊菔」の図
この後複数の品種の図が複数描かれている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)


秦野市西田原の位置
東隣の東田原に飛地が多数存在する


大珠山香雲寺の位置
秦野盆地北辺の山裾に当たる
前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」に記された2種類の「蘿蔔」について見ていきます。今回は「波多野大根」について、その記録を探ってみます。

前回掲載した「風土記稿」大住郡の図説では「西田原村香雲寺藏、天文中の文書に、當所萊菔の事見えたり、」と記しており、「山川編」の記述でもこの件に触れています。西田原村(現:秦野市西田原)の記述では産物についての記述は見えませんが、同地の香雲寺の項に「天文中の文書」が掲載されています。

◯香雲寺 大珠山春窓院と號す、曹洞宗 下總國葛飾郡國府臺總寧寺末、…又大藤小太郎某、當寺修理の事を沙汰せし文書あり曰、先日之御返札、披見申候、宗樹長老、豆州御越之由承候、本寺を御取立候得者、一段目出度候、貴老先々其元に御座候得者、心易存候、然者先日之金子にて、早々破損之所計建立可被成候、總而葺直之事は、秋中に可被成候、先日に□□□御指金子あり次第に、今來月之中に、御普請可被成候、其内又便も候はゞ可申入候家數多御座候間、大方に被入御念に者、罷成間敷候、人足の義は、何も用次第、かし可申也、申越候間十ヶ市へ仰可被越候、便も候者、又普請樣子能々可承候、又爰元珍敷候、大根給候、賞翫申候、恐々二月十六日、太小太貞□華押、猶以此者に委敷申越候能々御念被入、御普請可被成候、大方に被成候而者、罷成間敷、我等も夏中罷下申候、さきへ飛脚可申候孫市内藏助所より珍敷大根給候、辱候由賴入候、以上、

(卷之五十二 大住郡卷之十一より、…は中略、強調はブログ主)


天文年間(1532〜1555年)としか記されていないものの、香雲寺の再興は永禄7年(1564年)のこととされていますから、この文書はそれよりも前、従って再興される前の荒れた寺の修理の相談をしていることになります。その文中で、当地の珍しい大根を賞味あれと言っている訳です。この頃は恐らくまだ栽培を行っていなかったのでしょう。

実際、「和漢三才図会」の「相摸國土產」の項に「大根(ダイコン) 秦野自然生」と記しており、正徳2年(1712年)に同書が成立する頃にはまだこの大根が自生種と認識されていたことが窺えます。また、同書の「蘿蔔」の項では

攝州天滿前相州波多野共細長者二尺許周(ハカリ)一寸半而本末(ヒトシク)(ヒモニ)糟糖香物宮前者脆/波多野硬

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、小字中の改行は/に置き換え)

と、「波多野大根」を「宮前大根」と並べて紹介しています。形状はほぼ同一で細長く、白い紐になぞらえている訳ですね。どちらも糟漬にして香物にするとしていますが、「宮前大根」の方が柔らかかった様です。因みに、この摂州天満宮の「宮前大根」が現在「守口大根」と呼ばれているものに当たります。

本草図譜巻46「はだのだいこん」
「本草図譜」より「はだのだいこん」の図
「宮の前だいこん」など数種の名前が併記されている
産地に何故か「相州鎌倉」と記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」)
「波多野大根」については他に「本朝食鑑」にも「和漢三才図会」とほぼ同等の記述が見え、更には「本草図譜」でも右の様に、細長い大根の図の脇に「宮の前だいこん」など数種の名前とともに「はだのだいこん」の名が記されています。産地の表記が何故か「相州鎌倉」とされる点は疑問点ではあるものの、恐らく「波多野大根」の姿を図に描いたものとしては数少ない一例ということになると思います。こうして見ると、「波多野大根」は江戸時代中期には比較的知名度があった大根の1つということが言えそうです。

因みに、「農業全書」の引用を前回掲載しましたが、その中には「はだ菜あり。」と記されていました。「日本農書全集 第13巻」の注では、これを「波多野大根」のことであるとしていますが、これについて秦野市史編さん委員を務めた石塚利雄氏は、「秦野だいこん雑談」(「秦野市史研究 第5号」1985年 所収)の中で、「はだな」の用例として「神前で嫁は波多奈を二本出し」「干大根はだなの前も恥づかしい」等数点の川柳を検討し、更に複数の辞典の記述を列記した上で、次の様に見解を提示されています。

以上の如く辞典の解釈もいろいろだが、Dの江戸語の辞典(注:前田 勇編 講談社刊)はすこし毛色の変った辞典である。同辞典は、寛政の頃の遊里を書いた好色本のなかに、「淫楽な娼婦がでてきて、はだなだいこの名代を出すだろう」とある大根の水分の多いことをからませた語句を参照しているが、どうも、これは当時の川柳に多くある相模下女を連想され、この相模下女と同じ相模国の波多野の呼称がはだなに類似するので、はだな大根は波多野大根とされたのではなかろうか。もっとも、面白おかしい(ママ)落や話は人々に受けるもので、呼称は類似しており、背景に相模下女のあることから、はだなを相模国の波多野に結びつける要素は多分にあると思う。

(同書39ページ下段)

その点では、「はだなだいこん」が「波多野大根」の異名として用いられた可能性はありそうですが、こうした用法は主に江戸市中を中心に広まったもので、当の生産地では用いられなかった様です。

その地元の当時の文書に記された例を他に探すと、西田原村の東隣の東田原村の元禄12年(1699年)の明細帳に次の様に複数箇所にその名が見えます。

一御年頭江戸え名主壱人宛参候。為御年玉当所柿壱束づゝ、百姓御年玉て波多野大根壱抱差上申候。路銭之義は、名主手前て請申候。送馬壱疋、年玉付馬壱疋村中より請申候。

一波多野大根壱駄づゝ霜月に御地頭様え差上申候。

一波多野大根八束指上 但壱年置、此御扶持方米壱升、五合・大豆弐升五合被下候

一波多野大根壱束     但三尺廻り納来り申候

(「秦野市史 第2巻 近世史料1」115、117、119ページより、…は中略)

この村は当時「逸見領」と「鵜殿領」の相給の村であったため、記述も複数に割れているのですが、それにしても領主に波多野大根を献上する機会が多かったことが窺え、当時はそれだけ地元の産物としてもてはやされていたのでしょう。「秦野だいこん雑談」では、この頃には自生するものを採集するだけでは献上に足りないと考えられることから栽培する様になっていたのではないかと考察されています。

しかし、「風土記稿」の記すところでは、同書が編纂された天保の頃には作らなくなっていたとしています。これに対して、意外なことに箱根の「七湯の枝折」に「波多野大根」の名前が登場しており、この関係をどう見るかが課題です。「七湯の枝折」にはこう記されています。

一秦の大根 秦野といふ野に生ス此大根種をまかすして自ら生ス世ニはたな大こんといふハ是なり

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 71ページより)


「七湯の枝折」の産物に記された品目は、この「秦の大根」以外は何れも箱根の山中で産出するものが並べられています。勿論、箱根の外でも産するものも多数含まれており、例えば「山椒魚」の場合は大山付近で穫れるものも混ざっていたことを既に紹介しました。しかし、箱根の外から来た山椒魚が「旅魚」と称されて地元で穫れたものより値が下がることを書いていた様に、飽くまでも基本は箱根の中で産出するものがメインであったという点には変わりなかったと言えるでしょう。

そうした中で、箱根では産出しない「波多野大根」だけが敢えてこの一覧に含められたのは何故か、がまず疑問点として浮かんできます。「世ニはたな大こんといふハ是なり」と記す様に、箱根山の外から運び入れてくる食品類の中では特に当時の知名度が高かったが故に、敢えてその名を記したのかも知れませんが、ならば他にもこの一覧に記されていても良さそうな品目がある様にも思えます。勿論、「七湯の枝折」にこの様に記されていることから考えると、やはり箱根の温泉宿の膳に「波多野大根」の香物が添えられることがしばしばあったということになるのでしょう。

また、「七湯の枝折」が成立したのは文化8年(1811年)、「風土記稿」が成立するのは天保12年(1841年)でその間に30年の隔たりがあります。大住郡の稿の成立はその前年の天保11年で、「風土記稿」の中では終盤に編纂が終わっていますので、何れにせよ「七湯の枝折」からは多少時間が経っているのは確かです。とは言え、双方の記述が共に正しいとすれば、「波多野大根」の栽培はこの30年の間に急激に縮退したことになります。先述の「秦野だいこん雑談」では、「波多野大根」の生産が終了した理由を煙草の栽培の抬頭に見出していますが、比較的知名度のあった野菜の栽培を中止する程の作付の急激な切り替えがあったかどうかは、そのことを裏付けられる史料の登場を待って検討するより他はなさそうです。

ともあれ、明治10年の「第1回内国勧業博覧会」には、秦野の村々から大根に関する出品があった形跡は見当たりません。「風土記稿」の記す通りであれば、遅くともこの頃までには秦野の産物としての認識が薄れてしまっていた可能性がかなり高そうです。明治時代に入ると、その土壌の特性を活かして落花生等の近代的な作物の作付も行われる様になったため、ますます「波多野大根」が追いやられる状況に陥っていった、ということになるのでしょう。

この大根が元より自生していたということであれば、適切な生育環境を残した山野があればもしかすると生き延びている可能性もないとは言えませんが、こうした山野の多くが別の土地利用に切り替えられていることを考えると、現在の「波多野大根」の自生種を見出すのもかなり難しいと言わざるを得ないでしょう。実際、複数の研究者が現存する自生種を探索したものの、確実にこれと言えるものは見つかっていない様です(例えば「恵泉・野菜の文化史(1) ダイコン」藤田 智(園芸文化研究所)、リンク先PDF)。

因みに、小田急小田原線の「東海大学前駅」は、昭和62年(1987年)に現名称に改称する前は「大根(おおね)駅」と称していました。同地に明治22年(1889年)から昭和30年(1955年)まで存在した村名が「大根村」であったことに由来するのですが、その漢字表記からはつい「波多野大根」と関係があるのではないかと思いたくなります。しかし、これについて「秦野だいこん雑談」では次の様なエピソードを紹介しています。

秦野は煙草の産地として有名だったが、実は、ろくな調査もしないのに、煙草の前にはだいこんが有名だったと話したことがあった。そのとき、「それで秦野にはだいこん(大根)と同じ文字のおおね(大根)という地名があるんですね」といわれ、すこし面くらったことがある。

というのは、大昔はだいこんのことを「おおね」と呼称していたが、当地にある大根(おおね)という地名の起因は、だいこんとは関係がなく、地形からと推察していたからである。

(上記書36ページより)


実際、江戸時代から明治初期までは同地に「大根」の名を冠する村名はなく、周辺の村が合併して新たな村を結成する際に、「大山の根」に位置するという意味で「大根」と称する様になったとされています。その頃には既に下火になっていた「波多野大根」との類似は「偶然の一致」ということになるのでしょう。



その様な訳で、三浦の「鼠大根/高円坊大根」と秦野の「波多野大根」では、同じ様に「風土記稿」に取り上げられていながらその後の経緯は随分と違うものになってしまったと言えます。しかし、他方でこの2種の大根には2点ほど共通項を見出すことが出来ると思います。

1つは生育環境です。「農業全書」では大根の栽培に適した土地について、

○うゆる地の事。大根細軟沙(さいなんしや)〈こまくやハらかのすな〉の地に宜しとて、和らかなる深き細沙地を第一好むものなり。河の辺ごミ砂の地、又ハ黒土赤土の肥たる細沙まじり、凡かやうの所大根の性よき物なり。

日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 216ページより、ルビは一部を除き省略

と記しています。

現在も大根の栽培が盛んに行われている三浦半島南部の台地は、「黒ボク土」と呼ばれる箱根・富士山由来の火山灰土が覆う土地で水捌けが良いのが特徴です。他方、秦野盆地の土壌も砂礫層の上に厚く堆積した火山灰土で、双方の土壌は良く似通っています。双方の大根の品種は特徴が大きく異なるとは言え、基本的には大根が生育するのに適した土地であったと言えるでしょう。実際には大根の適作地は火山灰土に限らず、例えば平塚の砂丘地帯で第二次大戦前に大根の栽培が行われていたことが「神奈川県園芸発達史」(富樫常治著 1944年)にも記されています。しかし、「風土記稿」に記された2つの大根の産地が共に火山灰土の土壌を特徴としていることはなかなか興味深い事実です。

もう1点は「風土記稿」がこの2種類の大根をその土地の産物として取り上げた理由です。「波多野大根」の場合は江戸でも知名度が高かったこともさることながら、香雲寺の文書がその由緒を語る根拠として重視されていることが、その記述から窺えます。他方、「高円坊大根」については前回記した通り、「三崎誌」や「三浦古尋録」に記述されていることを紹介しました。これらの先行する地誌を「風土記稿」の編纂に当たって昌平坂学問所が参照していたとする明確な裏付けは今のところ見出せていませんが、「七湯の枝折」に見られた参照関係の例から見ても、箱根以外の地域でも同様に既存の地誌を参照していた可能性は考えて良いでしょう。そして、そうであるとすれば、三浦郡の産品を挙げるに当たって、これらの地誌に紹介されていることが1つの目安として考慮された可能性は少なくないと思えるのです。

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2種類の蘿蔔について:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」に記された産物の一覧から、今回取り上げるのは蘿蔔(すずしろ)、つまり大根です。


  • 山川編:(卷之三):

    ◯蘿蔔大住郡波多野庄中に產するを波多野大根と唱え佳品なれど、今は絕て播殖せず、同郡西田原村西田原村香雲寺藏、天文中の文書に、當所萊菔の事見えたり、又三浦郡中に多く播殖す、高圓坊村より出るを殊に上品とす、俗に鼠大根と云ふ、其根の形鼠尾に似たり、【本朝土產略】にも當國の產物とす、

  • 大住郡図説(卷之四十二 大住郡卷之一):

    ◯萊菔 水蘿蔔の類にて、根細長なり、波多野大根と唱へ、波多野庄中に產するを佳品とせり、されど、今は絕て播殖せず、西田原村香雲寺藏、天文中の文書に、當所萊菔の事見えたり、

  • 三浦郡図説(卷之百七 三浦郡卷之一):

    ◯蘿蔔郡中多く播殖す、俗に鼠大根と云、其形蕪菁に似て根の様鼠尾に似たり、高圓坊村より出るを殊に上品とす、【本朝土產略】當國の物產に鼠大根を載す

(以下、「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)


梅園草木花譜夏之部巻2「蘿蔔」
「梅園草木花譜夏之部」より「蘿蔔」
「大和本草」をはじめ各種の本草学等の書物での
表記が図の左に列記されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
山川編」の記述と大住郡・三浦郡の「図説」の記述の間の整合性は取れています。「風土記稿」の表記では「大根」「蘿蔔(らふく)」の他に「萊菔(らいふく)」も用いられていますが、意味によって使い分けられているものとは言えなさそうです。大住郡の「波多野大根」と三浦郡の「鼠大根」は相互にかなり特徴の異なる品種の様ですが、「山川編」が1つにまとめて取り上げていることもあり、一緒に取り上げることにしました。

今では栽培されている大根の大半が「青首大根」になりましたが、それでも「守口大根」「聖護院大根」「桜島大根」の様に地名を冠する品種が数多く残っており、その地の特産物となっているものも少なくないと思います。こうした品種の多さについては、江戸時代初期の代表的な農書である「農業全書」でも
山海愛度図会「あつくしたい」
一勇斎国芳「山海愛度図会」
(嘉永5年)より「あつくしたい」
肥後大根の収穫風景が左上に描かれる
各地の名産としての大根を
取り上げた一例
(「国立国会図書館
デジタルコレクション
」より)

○其種子色々多しといへども、尾張、山城、京、大坂にて作る、勝れたるたねを求てうゆべし。根ふとく本末なりあひて長く、皮うすく、水外く甘く、中実〈うつけず〉して脆く、茎付細く葉柔かなるをゑらびて作るべし。根短く末細にして皮厚く、茎付の所ふとく葉もあらく苦きハ、是よからぬたねなり。

○又宮の前大根とて、大坂守口のかうの物にする、細長き牙脆き物あり。又餅大根とて、秋蒔て春に至り根甚ふとく、葉もよくさかへ味からき物あり。三月大根あり。はだ菜あり。又夏大根色々あり。又播州津賀野大根とて、彼地の名物なり。此外蕎麦切に入、甚からきをももとめつくるべし。

(「日本農書全集 第13巻」農山漁村文化協会 215ページより、ルビは省略)

と、近畿に産するものを優れているとしながらも、他に多彩な品種が存在することを記しています。また、「大和本草」でも

◯凡大根に種類多し大大根あり是一時種蒔之力と土地の肥壌によれり又種子も別にあり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、カタカナはひらがなに置き換え)

と記して複数の品種を紹介し、土壌の質もその多様さの一助となっていることを指摘しています。


三浦市初声町高円坊の位置
三浦半島南部中央の台地に位置している
現在でも畑の広がる地域
今回は先に三浦郡の「鼠大根」の方から見ていきます。「山川編」や「三浦郡図説」では「高圓坊村」(現:三浦市初声町高円坊)の名が挙がっていますが、同村の「風土記稿」の記述にも

此地蘿蔔に應ずるを以多播殖す里人高圓坊大根と呼ぶ

(卷之百十 三浦郡卷之四)

とあり、こちらでは「鼠大根」ではなく「高圓坊大根」の名が記されています。


この大根については、三崎の江戸時代中期の地誌である「三崎誌」(宝暦5年・1755年編)では

鼠大根  鎌倉の産にもあり。此所を最上とす。

(「古書に読む三崎」より)

と「鼠大根」の名の方を記しており、同種が鎌倉でも作られているとしています。他方、江戸時代後期の三浦郡の地誌である「三浦古尋録」(文化9年・1812年、加藤 山寿(さんじゅ)著)では

◯此村ニ生ツ大根ハ本短ク葉大ナリ味ヒ至テ美ナリ是ヲ三浦ノ鼠大根ト云テ名産ナリ近来近鄰村ニテモ作ルカ一名ヲ高円坊大根ト云

(「校訂 三浦古尋録」菊池武・小林弘明・高橋恭一校訂 横須賀市図書館 149ページ 高円坊村の項より、傍注に一部異本の表記の差異について注記あるが、文意に差異を生じるものではないと判断し省略)

と、こちらは「高圓坊大根」の名が記されています。どちらにせよ、この大根が江戸時代の初期から栽培されていたことが窺えます。

「風土記稿」はその形について「其形蕪菁(かぶら)に似て根の様鼠尾に似たり」と書いています。現在も「鼠大根」を栽培している地域が長野県坂城町にありますが、そちらの写真を見ると蕪よりはもう少し長い姿をしています。ただ、三浦郡の「鼠大根」がこれに近かったかどうか、現物を確認出来なかったのでわかりません。

この高円坊村の大根は、時代が下って明治10年(1877年)の「第1回内国勧業博覧会」にも高円坊村から「蘿蔔種」が出品され、更に明治29年(1896年)の「三浦郡及神奈川県地誌」(三浦郡教育会 編 横浜製紙分社)でも

農產物には、穀類、蘿蔔(ダイコン)菜蔬(サイソ)等あり、

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種名以外のカタカナをひらがなに置き換え)

と記すなど、この大根が明治時代に入っても同地の主要な産品の1つとして認知されていたことがわかります。しかしながら、明治13年(1880年)に三崎に新設された青物市場の2年後の会計報告では、

明治十五年一月ヨリ/十二月マデ合計

一金九百八十八円四拾五銭五厘 売上高

金弐百弐拾三円也

生柿

金百拾七円拾銭

串柿

金弐百九拾壱円九拾五銭

味柑

金五拾弐円三拾銭

黄瓜

金三拾三円弐十五銭三厘

金七拾円五銭七厘

色瓜

金九拾七円三銭五厘

西瓜

金百三円七十六銭

明治十六年六月ヨリ/八月マデ合計

一金五百六拾七円八拾五銭 売上高

金六拾円五銭

黄瓜

金七円三拾銭

白瓜

金四拾円

金百円五拾銭

色瓜

金百弐拾五円

金百拾壱円五十銭

西瓜

金百弐拾三円

南瓜

金五円五拾銭

野菜類

右之通相違無御座候也

(「三崎町史 上巻」79〜80ページ下段より、小字部分の改行は/に置き換え)

まだ市場が立ち上がったばかりで認知度が低く、主に果樹や瓜類が出荷されてきているという特殊性はあるのでしょうが、こうした市場に逸早く大根が出荷されていたのではなかったことがわかります。「神奈川県園芸発達史」(富樫常治著 1944年)の指摘するところによると、当時は近隣の横須賀市の大根の需要も三浦半島内では賄えておらず、房総半島から供給を受けていたとのことです。

こうした実情に対し、明治38年(1905年)に三浦郡農会に赴任した鈴木寿一氏が、東京近郊で当時当たりを取っていた「練馬大根」の栽培を呼び掛けます。これが後に「高円坊大根」と交雑して生じてきた幾つかの系統のうちの優良な一種が、大正14年(1925年)になって「三浦大根」の名を冠して東京に向けて出荷される様になりました。「三崎町史 上巻」では「自然交雑」と記しています(208ページ)ので、この書き方に従えば半ば偶然に出来た品種ということになります。

「目でみる三浦市史」(三浦市史編集委員会 1974年)によれば、大根の船による東京への出荷が始まるのが明治40年(1907年)頃から、更に自動車による東京への出荷が始まるのが大正8年(1919年)頃からとされています(同書130ページ)。やがて「三浦大根」は東京近郊の主要な大根として認知され、昭和45年(1970年)には国の指定野菜となっています。

この「三浦大根」の写真を見ると、長さは一般的な白首大根とほぼ同等ですが、やや下膨れになった姿をしています。坂城町の「鼠大根」の姿に一脈通じるところがあるところから考えると、あるいは「高円坊大根」もその様な姿であったのかも知れません。

「三浦大根」はその後収穫時の労力の多さや潮害などから次第に「青首大根」に切り替えられ、現在ではあまり栽培されなくなっています。とは言え、拘りを持って栽培を続けている一部の農家の方々が、最近では「DASH村」でも紹介されていた様です(残念ながら私は番組を見逃しましたが)。江戸時代初期の地誌に早くも記された大根の子孫は、形を変えつつも現代まで受け継がれていると言えるでしょう。

「波多野大根」については次回取り上げます。

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このブログの移転に対する考え方

まだ次の記事の取材が充分に出来ていない状況もあり、埋草としてこのブログの今後について、現時点で私が考えていることをまとめておこうと思います。多少技術的な話も交えてということになりますが御容赦を。

先日の報道以来、FC2の今後に不安を感じてブログを移行されたり、移行を検討されたりする方が、私が巡回しているブログ管理者の方々の中にも幾らかいらっしゃいます。私もこの点については多少なりとも検討は進めないといけないとは感じています。

しかしながら、私のこのブログの場合は特にGoogleなどの検索エンジンに登録されて、検索されてアクセスされることを重視しています。最近になってようやくGoogle側のインデックスも充実し、検索エンジン経由のアクセスも大分増えてきました。先日は公立図書館のリファレンスサービスからも参考にされるなど、徐々に意図した目的を果たせる様になりつつあると感じています。

そうした中でブログの移行をしてしまうと、折角定着したインデックスを一旦全て失うことになってしまいます。そうなると再び移行先のブログがインデックスされるまで、少なからぬ時間を要することになります。同時に複数箇所に同じ記事が存在すると、Google側がそれを「コピーサイト」と見做して相応のペナルティを課すという情報もあり、Googleのインデックスが現状まで復元してくるのに要する時間は少なくないと見ています。

また、右に書き出した「まとめ」のページをはじめ、このブログ中ではブログ内の記事を相互参照する様に、内部リンクを多数張っているのが特徴です。移行先のブログサービスが移行ツールでこれらの内部リンクを全て自動変換する仕様になっていれば有難いところですが、その様な仕様になっていない場合には、これらの内部リンクを全て張り替える作業が発生します。その作業量を考えると直ちに手掛けられる作業ではありません。

その様なわけで、実際にブログの存続自体が危うくなる状況になれば移行を進めざるを得なくなりますが、まだ推測だけが流布している現状では、移行に伴うデメリットの方が遥かに大きいと判断しています。FC2の今後については情報収集に遅れが出ない様に気をつけていないといけませんが、現状では将来の移行先の候補の選出だけ行うに留めて様子見、というのが私のスタンスです。



序でなので、私が移行先を検討するに当たって重視しているのは次の2点です。

1. エンコードがUTF-8であること


これは、ブログ内で古文書などのの引用を掲出する際に、Unicodeでしか定義されていない文字を多用していることから必須条件です。EUCやShift-JIS環境のもとにこれらの文字が入った記事をそのまま移すと、いわゆる「文字化け」が生じる虞があるためです。また、ケンペルやトゥーンベリ、シーボルトらのヨーロッパの事情について記す際に、一部ドイツ語のウムラウトやフランス語のアクサンなどを使った箇所もありますので、これもUTF-8以外の環境では正常に表示できない虞があります。

以前はパソコン環境がUnicodeに対応できていなかったこともあり、WindowsやMac等の間での通信に際して、いわゆる「機種依存文字」の問題が根強くありました。私も過去にはこの問題を重視して「機種依存文字」を使わない方を優先して考えていました。しかし、今はどのパソコンも、そしてスマートフォンのOSもUnicodeに対応できる環境が揃っています。WindowsXPでさえ最終バージョンまでには一応の対応を完了させていることから、およそインターネットにアクセスできる環境であれば、いわゆる「ガラケー」の制約付きのネットアクセスを別にすれば、Unicodeの表示できない環境になっているクライアントは殆ど考えられなくなっていると思います。

私のこのブログの場合は過去の文献の表示をどうするかという課題に留まっていますが、人によっては自身の名前が「機種依存文字」に縛られて正確に表示できないという問題で長期間悩まれていた方もいらっしゃいます(私の知人にもそういう方がいました)ので、環境が整ってきた現状ではもっと早急にUTF-8への移行が進められるべきと考えています。が、既存の大手サイトを中心にこうしたインフラの移行には鈍感なのが現状です。その様な観点からも、今後のブログサービスの選択ではUTF-8エンコードであることを最優先事項としています。

2. HTML5タグが記事内に記述されていても問題なく通せること


これは実質的に「ブログ記事内にHTMLタグを記述出来ること」という条件とほぼイコールになるだろうと見ています。

皆様の眼に見える箇所では「<ruby>」タグの扱いが一番大きいところです。詳細な説明は省きますが、フリガナなどで使われる小さな活字を意味する印刷業界用語である「ルビ文字」がそのままHTMLの定義に採用されていることからわかる通り、これは日本語の独自の環境での表記に対応させる目的で定義されたタグです。元はInternet Explorer独自のタグでしたが、HTML5で標準採用されることになり、既にGoogle ChromeやAppleのSafariでは標準でサポートされています。Firefoxでは現時点ではアドオンが必要ですが、何れは標準で対応されるものと思います。

このタグが重要なのは、単にルビ文字を再現できるからというよりも、むしろフリガナとフリガナを振られた文字列の間の関係を明示出来ることにあるというのが私の考えです。システム側から見れば、例えば単に
 蘿蔔(すずしろ)
と記されているだけでは、後ろの括弧内に収められている「すずしろ」という文字列が、その直前の文字列「蘿蔔」のフリガナであるということがわかりません。しかし、
 <ruby>蘿蔔<rp>(</rp><rt>すずしろ</rt><rp>)</rp></ruby>
とタグに記されていれば、システム側には本文とフリガナとの関連性がわかります。これは
 蘿蔔(すずしろ)
の様に、対応しているブラウザであれば、上記は「すずしろ」がルビ文字として表示されている筈ですが、未対応のブラウザでも「蘿蔔」の後ろに括弧付きで「すずしろ」と表示できている筈です。そして、何れこのタグの普及が進んでくれば、検索エンジン側もそれを想定して検索結果の精度を上げるのに使うことが出来る様になるでしょう。個人的には、折角日本語の表示環境を考慮して定義されたタグなのだから、利用が伸びないのは勿体ないと感じています。

同様の目的では、他に「<figure><figcaption>」タグも使ってきています。これも写真や図の下に記したキャプションが本文とは位置づけの違う文字列であることを、システム側に明示できる点が大きいと考えています。現状では<div>タグで囲んでCSSをあてがう程度の効果しかなく、冒頭に図を持って来た時にtwitterなどに表示される要約にも<figcaption>で囲んだ文字列が入ってしまうなど、こちらの記したタグの意図を汲んでもらえる状況にはありませんが、これも将来的には検索エンジンなどのシステムがこれらの文字列を相応に扱ってくれる様になることを期待しています。

こうしたタグを後から記事に組み入れるというのは、その作業量を考えると現実的ではありません。幸い現在のWWWブラウザの仕様では、こうしたタグが先行して入っていても問題なく表示が行える様になっています。それで、私も遠慮なくこれらのタグを使ってきている訳です。

その点で、このブログの移行を考える際にはこれらのタグがふるい落とされたり、移行しても正常に表示できなくなったりすることなく、そのままの状態で移行できることが必要になってきます。この辺りになってくると、ブログサービスによってあまりタグを自由に打たせない仕様になっている所も多いので、選択肢がかなり狭まりそうだという感触を持っています。

これら以外にも、なるべく動作の軽快なブログが良いなどの条件を幾つか考えていますが、ブログの内容に関わる重要な条件という点では上の2点になりそうです。現時点では、こうした条件を前提に、念のための「避難先」として適切そうなブログサービスを物色中、というところです。
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「七湯の枝折」の産物に関連する記事が大分増えたので、「関連記事」の欄を増設してリンク集を作りました。今後更に記事が増えた時には「新編相模国風土記稿」の産物一覧同様の運用とします。また、右の「まとめ記事一覧」にも当該記事へのリンクを追加しました。
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