2015年02月の記事一覧

柿について:「新編相模国風土記稿」から(その1補足)

前回の記事に2点ほど簡単に補足を。

足柄上郡柳川村の検地帳ですが、これは引用に利用した「神奈川県史」の他、「秦野市史2 近世史料 1」にも同じものが掲載され、また「通史2」の中でも解説されています。この検地帳の存在は比較的早い時期から研究者の間で知られて研究されており、当初は検地帳の表書きに後年記された「永正4年」という年代がそのまま採用されて小田原北条氏の手によるものと解されることが多かったた様です。「秦野市史 通史2」ではこの点を踏まえ、その年代の特定について以下の様に解説しています。

さて本帳の年代であるが、「卯年」であること、田畑の等級、地積の規模が記載されていること、一反=三〇〇歩であることから、永正四年という小田原北条氏の時期でなく、太閤検地以後の近世のものであることが、戦後の数多い検地研究の成果に照らして、推測された。そこで「卯年」を小田原藩の検地年代に適用すると、天正十九年(卯年)・慶長十六、七年(亥・子年)・寛永十七、八年(辰・巳年)・万治一〜三年(戌・亥・子)の内、天正十九年に比定できること、さらに名請人の主水の活動期を、熊沢家の過去帳から推測して、天正十九年の検地帳に外ならないことが実証できた(内田「柳川村の検地帳について」『さがみの』第一号所収)。

(同書39ページ)


検地を行う上では、長さや面積の基準が領地内で統一されていなければ公平なものになりません。太閤検地に際してはその基準を周知した上で行ったのですが、その単位が上記の引用の通り小田原北条氏の時代のものと太閤検地で異なっており、柳川村の検地帳は後者に則っていることを指摘している訳です。

ただ、畔の作物が記されていることについては、この解説の中では同時期の検地帳間に表記の不統一があることを指摘するに留まっており、委細については触れられていませんでした。各地で検地を実施した担当者によって、その手順が統一出来ていなかった可能性があるのは理解できるものの、比較的狭い地域の村々相互に齟齬が起きている点をどう理解したら良いかは、引き続き課題として残っている様です。



私自身中世以前の歴史にはそれほど明るくないこともあり、この柳川村の検地帳につながる景観がいつ頃どの様にして生まれてきたのか、知識が殆ど無いのが実情です。そんな中、「現代思想」誌2015年2月臨時増刊号「総特集・網野善彦」所収の「『百姓』のフォークロア 塩・柿・蚕」(畑中章宏著、148〜158ページ)中に、その辺りを考える上で手掛かりになりそうな文章がありましたので、こちらに覚書として引用させていただきます。

…田畠などの四至を示す目標に、しばしば柿木が見られるだけでなく、仁安二(一一六七)年の「厳島神社文書」に安芸国三田郷では、田畠、栗林、桑とともに柿があげられている。また紀伊国阿弖河(あてがわ)上荘の建久四年(一一九三)九月の検注目録にも、田・畠・在家、そして栗林とともに柿五九八本、桑一八九〇本、漆三二本が検注され、同下荘では柿七〇〇本に対して柿七〇連が賦課されている。さらに荘園公領制の形づくられる過程で、橘園(山城・摂津・播磨)、香園(近江)、椿園・梨園・棗園(伊勢)、生栗園(尾張)といった果樹・樹木の園地が、荘園と同質の単位になっていくことがしばしば見られる。なかでも柿御園については、美濃国に天皇家領、近江国に摂関家領、尾張国に伊勢神宮領が確保、設定されている。阿弖河下荘で柿一〇本について一連、徴収された柿は干柿と推測されるが、支配者が柿を公的に掌握しようとした理由の一つは、柿の果実の収取であつたと考えられる。

(同誌153ページより)


ここに掲げられている一連の史料からは、平安時代末期の荘園形成の頃に早くも柿がその構成要素の中にあり、柿の実がその貢税の1つとして重視される実情があったと言えそうです。

無論、平安末期から鎌倉時代初期の史料では柳川村の検地帳とは400年ほども隔たりがあり、また近畿〜西国の荘園の景観が当初から東国の荘園にもあったと考えられるのか、それとも戦国時代末期までに何らかの曲折を経て伝播してきたものかは、更に史料を探し出して間を埋めなければわからない部分ではあると思います。しかし、柳川村に見られたであろう農地の景観が、恐らくはこれら平安末期から鎌倉時代初期の荘園のそれに、何らかの形で根ざしていた可能性は、かなり高そうです。

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柿について:「新編相模国風土記稿」から(その1)

「新編相模国風土記稿」に記された産物一覧から、今回から柿を取り上げます。

  • 山川編(卷之三):

    ◯柿足柄上郡中、金手・金子・松田惣領・町屋・神山・神繩・世附・八澤八村より出ず、中に就て金手村なるを金手丸と稱して殊に佳品なり、又同下郡久野村よりも產す、又干柿は足柄上郡皆瀨川・都夫良野二村にて製す、

  • 足柄上郡図説(卷之十二 足柄上郡卷之一):

    ◯柿金手・金子・松田惣領・神山・神繩・世附・八澤七村より出す、中に就て金手村なるをば、金手丸と稱して殊に佳品なり、

    ◯串柿皆瀨川・都夫良野兩村にて製す、

  • 足柄下郡図説(卷之二十二 足柄下郡卷之一):

    ◯柿、久野村の產、

(以下「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)


「風土記稿」上で柿の産地として名の挙がった村々
「風土記稿」で柿の産地として挙げられた村々
赤点は柿、青点は串柿(干柿)
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)
足柄上郡図説では「七村」と記しているのに対して、山川編では「町屋村」を加えて「八村」と書いています。しかし、「風土記稿」中に記録された足柄上郡の村の中には「町屋村」は含まれていません。敢えて探せば松田惣領の項(卷之十五 足柄上郡卷之四)に「町屋」という小名があり、「元祿の國圖に、松田惣領の内町屋村と別載す、」と注記があることから、「山川編」ではこれを取り違えてダブルカウントしたと考えられるでしょう。従って、実質的に山川編両郡図説の記述相互には齟齬はないものと言えます。


他方、各村の記述では
  • 金手村(卷之十三 足柄上郡卷之二):

    當村柿實を產す 金手丸と唱へて佳品とす、

  • 八澤村(卷之十七 足柄上郡卷之六):

    烟草を作り、又柿樹土地に應ずるを以て多く植え、其實を鬻けり、

  • 久野村(卷之三十四 足柄下郡卷之十三):

    產物には柿實・梨子・柴胡・蕨の類多し、

以上の3村については柿について記述があるものの、これ以外の村々については記載がありません。

とは言え、「風土記稿」の以上の記述中には10ヶ村の名が挙がっており、これは「風土記稿」で取り上げられた産物のうち、果実類の中で最多です。そのことを裏打ちする様に、江戸時代の相模国の史料には、柿について記されたものが多数見つかります。今回はこれらを順次紹介することになりますが、その前にまず、本草学の書物に記された柿について見ておきます。

「本草綱目啓蒙」では、

カキ和名鈔

品類多し、和產二百餘種あり集解に載する所は少し蘇頌の説の紅柹はゴシヨガキ、一名コ()リガキ、大和ガキ、元來和州五所と云地より出る者名産なり故に五所ガキとも大和ガキとも云ふ今は地名を改て五瀬と云其柹形扁く大にして、四つに筋ありて四角に見ゆ、蒂も四角なり、故に一名方柹事物紺珠方蒂柹汝南圃史と云此柹核少し上品とす、

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、名称以外のカタカナはひらがなに置き換え、…は中略、ルビはブログ主)

と、品種の点数が極めて多いことを紹介し、上記引用で最上品として名の挙がった「御所柿又は木練柿・大和柿」に続いて各地の柿の品種を多数挙げて解説しています。「大和本草」でも

柿 其類尤多し其形方あり圓あり長あり(ひらき)あり大あり小あり本草所載諸品與本邦所在不同不可牽合本邦には木練あり木(サハシ)あり澁柿あり椑あり諸州に奇品多し京都の木練(コ子リ)を爲上品大和の御所の邑より多出つ故に御處柿と云是亦木練の佳品なり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、扱いは上記に準ず、返り点類は省略、ルビは原文に従う)

と、やはり品種が極めて多いことを記しています。「(もっとも)」という字が用いられているのは、貝原益軒としては果実類の中では最も品種が多いと考えていたということでしょうか。

本草綱目草稿巻3pp56-57部分
「本草綱目草稿」より「柿」の項のページ
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
一部を切り出し補注追加)
本草綱目草稿冊3p54-55間紙片
「本草綱目草稿」に挿入されている
柿の品種を書き並べた紙片
他にも柿に関する記述のある紙片が
数片挿入されている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

以前紹介した「本草綱目草稿」の「柿」に対応する箇所を探してみました。この箇所も黒や赤でビッシリ書き込まれたメモが散乱しており、判読するのは極めて困難です。見開きの左端に「柿」の項があり、その手前に「林檎」の項があるのですが、良く見るとその「林檎」の項の更に右側にも「方柿水柿佛爪柿山紅柿」等々柿の品種を書き連ねたと思われる記述が見えています。更にこの箇所でも袋綴じを切り開いて裏面にも「方頂柹」などの書き込みが見えますし、この前後のページには柿の品種などを書き連ねた紙片が数枚挟み込まれています。このうち、上に掲げた紙片の筆跡は明らかに「草稿」本体の細かな書き込みのそれとは異なるもので、あるいは小野蘭山以外の人が書き出したものを、蘭山が受け取ってここに差し挟んだものかも知れません。何れにせよ、蘭山がこれらの品種を限られた紙面にあらん限りで記録し続けていたことが窺えます。因みに、「本草綱目啓蒙」でも「柿」の文量は「林檎」のそれと比較して遥かに増えていますし、更に「国立国会図書館デジタルコレクション」で公開されているものには手書きで柿の品種が数点追記されています。それだけ柿は豊富な品種が江戸時代に全国的に栽培されていたこと、また小野蘭山がその情報を少しでも収集しようとした経緯が「草稿」から窺えます。

なお、「本草綱目啓蒙」「大和本草」「本草綱目草稿」何れでも、柿の産地として挙げられた地名の中に「相州」ないし相模国内の地名を見出すことは出来ません。「草稿」は判読困難な部分も多いので、その中に相模国の地名が埋もれているかも知れませんが、私が読めた範囲では見つけることは出来ませんでした。また、「本朝食鑑」でも相模国の名はなく、甲駿より東の柿については味が良くないと評しています。

とは言え、柿は相模国でも比較的早期から栽培されていたと思われます。そのことを裏付けると考えられる史料の1つとして、先日紹介した天正19年(1591年)の足柄上郡柳川村の検地帳を改めて取り上げます。

柳川村は「風土記稿」で柿の産地の1つとして挙げられた八澤村の北東に位置していますが、天正19年の検地帳では全324筆中47筆に「柿」の表記がありました。柳川村の田畑の15%ほどが、畔に柿のある景観であったことになります。その全部を書き出すことは出来ないので、ここでは柿の記載のある畑のうちから最初の8例を書き出してみます。
同所
拾三間
拾壱間半
桑・漆三方有、柿木十五本有之、
壱反大九拾八歩
助十
拾弐間三尺
桑・漆三方有、柿十五本有、
壱反小四拾壱歩
せいふ峯
拾八間
拾壱間
桑二方有、柿三本有之、
弐反半四拾弐歩
寺領
宗円
かいと
拾壱間
八間半
栗・柿十五本有之、
壱反七拾四歩
同所
拾六間半
桑よこ一方有之、栗・柿十三本有之、
壱反七拾弐歩
同所
拾三間
八間半三尺
桑立一方有、栗・柿三本有之、
壱反半五歩
同所

七間三尺
桑よこ一方有、柿五本有之、
大九拾歩
同所
拾壱間半
柿木二本有之、
半三拾四歩

(「神奈川県史 資料編4 近世(1)」516、518ページより、強調はブログ主)


「天正19年足柄上郡柳川村検地帳」に含まれる柿の本数
1 本11 筆
2 本7 筆
3 本11 筆
4 本8 筆
5 本5 筆
6 本1 筆
13 本1 筆
15 本3 筆
合計47 筆
この検地帳では、桑や漆の場合は「方」という表現で田畑の縦横の辺のうち何本に植えられているか、という表現になっているのに対し、柿や栗の場合はその本数を記載する表記になっています。全47筆の柿の木の本数の分布は右の表の様になっており、一部の畑で13~15本と比較的多数の木が植えられている以外は1〜6本と比較的少数に留められています(「柿・栗」と併記されているものについては、内訳不明のため記載されている本数をそのままカウントしています)。13本以上の柿や栗が植えられている畑は何れも1反(約0.1ha)以上の比較的まとまった広さがあり、これだけの本数を畔に植えるためにはその分だけ畔にも余裕が必要だったことが窺えます。

これが何を意味するのかは、この検地帳自体が同時期の周辺地域のものにはない異例のものとなっているだけに、解釈が難しいところです。一つの可能性としては、比較的高木になりやすい柿や栗は田畑の日陰にならない様に四隅などに控えめに植える必要があったのに対し、特に桑の場合は枝を取る関係で樹高が比較的低くなるので、四辺を使って植えていた、というものです。しかし、漆はそれほど低木という訳でもない上に、戦国時代末期まで遡った時に桑の木が低くなるほど枝を取る栽培法であったかどうかによっては、この説明は多少苦しい面があると思います。

もう1つ考えられる説明としては、検地帳の記録であることからここに記された作物も貢税の対象となっており、その課税単位が桑・漆と柿・栗で異なっていた、という可能性です。特に桑の場合、

桑の木に課せられる税は、桑代といわれていた。寛喜三年(一二三一)四月の、幕府(執権泰時)の沙汰のなかでは、桑代の徴収について記されている。また『庭訓往来』「三月状往」のなかでも、畠の作物に課す税金について述べ、さらに桑代を課すべし、と記してある。『庭訓往来註』では、「桑ハ百姓畑山畠ノ畔ニ必ス桑ヲ(ウエ)ル、其代ヲモ取ラルベキナリ」と説明している。畑の畔に植えてある桑の木ごとに税をかけるとは、かなりこまかい徴税の仕組みであったと思われる。藩によっては、桑一本につき真綿一匁五分という現物納もあった(『近世農民生活史』児玉幸多)。

この、「畑山畠ノ畔ニ必ス桑ヲ種ル」であるが、桑を畑の全面に植えるということは、まだ一般的ではなかったように思われる。広い領有地ならいざ知らず、一般の農家では、桑を畑全面に植えるだけの余裕はなく、家の周囲や畔に桑を植えていたと思われる。後年の江戸期にも、桑は畑の畔に植えるように、と書いた農書がいくつもある。

(「ものと人間の文化史 68-Ⅰ・絹Ⅰ」伊藤智夫著 1992年 法政大学出版局 179~180ページより)

と、中世の比較的早い時期から桑への課税が検討され、またその桑は古くから畑の畔を利用して栽培されていたことから、徳川家康が関東に乗り込んできて最初に行ったこの検地帳にもそれまでの小田原北条氏の貢税の事情が反映した、という説明も出来そうに思えます。ただ、それであれば同じ時期の近隣の村々の検地帳に同様の記載がなされなかった点が不自然になってきます。

また、柳川村の検地帳だけがこれらの作物について記しているだけに、田畑の畔に桑・漆・柿・栗を植えるのが戦国時代末期の小田原北条氏領においてどの程度普遍的なものであったと言えるのかについても、この検地帳だけでは一概に言えないところです。可能であれば同時期の他の史料でこれらの作物の生産事情が裏付けられると良いのですが、私も今のところはそこまで掘り下げることが出来ていません。

しかし、田畑の周囲の畔を使って柿や桑などを生産する農業環境が、小田原北条氏の頃から多少なりとも相模国に既にあった可能性を、この検地帳は示唆していると言って良いでしょう。江戸時代の相模国の柿栽培もその点で、小田原北条氏の時代からの延長線上にあると言えるのかも知れません。

次回は江戸時代初期の柿の貢税について見る予定です。

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梨について:「新編相模国風土記稿」から

「新編相模国風土記稿」に記された産物一覧から、今回取り上げるのは「梨」です。
神縄・世附・久野の位置
神縄・世附・久野の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ)

  • 山川編(卷之三):

    ◯梨子足柄上郡神繩・世附二村、同下郡久野村の產、古風土記殘本にも、當國及足輕郡の產とす、

  • 足柄上郡図説(卷之十二 足柄上郡卷之一):

    ◯梨子神繩・世附二村の產、

  • 足柄下郡図説(卷之二十二 足柄下郡卷之一):

    ◯梨子、久野村の產、

(以下「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)


山川編各郡図説の記述は整合性が取れています。ここでも「」の時と同様に「古風土記残本」が引用されていますが、その取り扱いについては以前触れた通りです。他方、各村の記述のうち、足柄上郡の神縄村(現:足柄上郡山北町神縄)と世附村(現:足柄上郡山北町世附)には記述がありませんが、足柄下郡の久野村(現:小田原市久野)には
  • 久野村(卷之三十四 足柄下郡卷之十三):

    產物には柿實・梨子・柴胡・蕨の類多し、

と記載があります。

和漢三才図会巻87梨
「和漢三才図会」より「梨」
棠梨や桑の木に接木すると
実が早く生ることが記されている
(「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」より)
本草図譜巻六十三「梨」
「本草図譜」より「梨」
「相州(異体字が記されている)神奈川」の字が見えるが
「武州」と取り違えたものか
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

梨は古くから日本で栽培されていました。「大和本草」では次の様に解説しています。

梨 梨の品類亦多し諸州名產多し佳品あり出雲に產するは其莖小く其瓤甚小にして味良し尤爲上品他州に其種子を傳へ植ふ又古賀ナシ靑ナシ水梨等あり靑梨は六七月早熟す冬梨あり霜後味甘し凡梨の好者是亦果の上品なり宋書に梨者百果の宗と云性大寒なり熱を去り渴を止む諸食品の内梨實を尤大寒とす實熱の病人は食ふに宜し虛冷の人禁食之蒸熟したるは性やゝ和なり痰喘氣急に梨を二にわり中子を去小黑豆を内に滿しめぬれ紙にて四五重つゝみ煨し熟して餅として食ふ本草に出たり梨子は寒を畏る煖處にをくへし酒を畏る本草曰蘿蔔の多き内に梨子を納むれは夂しく損せす又梨實の付たる莖を大根にさせは久しく堪ふ

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、名称以外のカタカナはひらがなに置き換え、返り点類は省略)


「大和本草」では出雲の梨を最良としますが、「本草綱目啓蒙」ではそれ以外の産地について次の様に記します。

ナシ アリノミ阿州 京師にては鹿梨をアリノミと云

アリノキ豫州

…一種大塲ナシは雲州の名產なり形圓大にして水多く香あり穰小くして肉多し皮の色黃を帶て微透す越後及び勢州にて マツヲナシと云是れ香水梨なり 一種牛靣(ゴメン)ナシは越後新瀉の產なり形至て大なる故名く又丹後田邉に一升ナシあり一顆に水一升ありと云豫章漫抄に斤九梨の名あり 顆の重さ一斤九兩二百五十錢あるを云此類なるべし

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、扱いは上記に準ず、…は中略)

特に「一升ナシ」といった名称などの記載から、梨は江戸時代当時から水気の多いものが珍重される傾向が既にあったことがわかります。産地の名前としては、欄外などの書き込みに「大和東川(ウノカハ)村に雲泉寺と云梨あり」「美濃に升大と云あり」などの追記が見えますが、「相州」を意味する地名は見当たりません。「本朝食鑑」でも産地として名が挙がっているのは「江州」「奥州」「甲州山中、武州八王子、伊豆、駿河、京畿、江南、海西」で、やはり「相模国」に関連する地名は入っていません。

「風土記稿」に名の挙がった足柄上郡神縄村、世附村、そして足柄下郡久野村に関する江戸時代の文書を「神奈川県史」「小田原市史」「山北町史」で探してみた限りでは、梨の生産に関する記述が含まれるものは見当たりませんでした。「第1回内国勧業博覧会」でも、相模国の地域からの梨の出品はなく、神奈川県域からは橘樹郡大師河原村からの出品があったのみでした。

「風土記稿」の産物についてこれまで見て来た中にも、他に史料を見出せず、江戸時代の事情について委細を明らかにすることが困難なものが幾つかありましたが、梨についても残念ながら同様の傾向ではある様です。因みに、現在「足柄梨」と呼ばれて足柄地区で栽培されているものは、明治40年頃に近代的な品種が導入されて栽培が開始され、第二次大戦による中断があったものの復活して現在に至るもので、その点では江戸時代に相模国で栽培されていた梨とは、少なくとも品種の点では繋がっていないことになります。せめて栽培地の点で繋がりがないか探してみましたが、今のところ両者の関係を示すものを見つけることは出来ていません。



「風土記稿」との繋がりという点ではなかなか見通しの乏しい相模国の梨栽培ですが、「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」(藤沢市文書館編 2007年)に収録された道中記の中に、旅の途上で梨を買い求めた記録があるものが2点ほど見つかりました。1つは天保15年(1844年)に、足柄上郡雨坪村(現:南足柄市雨坪)の人(著者不明)が大山や江の島・鎌倉を巡った際の「大山ヨリ江之嶋鎌倉日記」で、7月17日(グレゴリオ暦8月30日)に平塚から国府津に向かう途上で「一 五十文 なし 三ツ」(同書65ページ)を求めています。道中連れ合いが何人いたのかが引用された部分では記されていませんが、その前後の平塚と国府津では西瓜を食べているのに更に梨を買い求めているのは、やはり夏場の暑い盛りで道中何度も喉を潤そうとしたのでしょう。

もう1つは幕末の嘉永7年(1854年)に、三河国渥美郡牟呂村(現:愛知県豊橋市牟呂町など)の八幡社の神主が東海道を経て東へと旅した際の記録である「御朱印御改道中上り下り在府中署入用手控」で、江の島に到着した8月28日(グレゴリオ暦10月19日)の記録に「一 弐十文 なし」と記されています(同書75ページ)。残念ながら道中のどの辺りで買い求めたのかについては委細が記されておらず、「藤沢市史料集」には前泊地の部分が含まれていないので、範囲が限定し難いのですが、少なくとも小田原〜藤沢間の東海道の途上ではあったでしょう。なお、同じ日には36文で柿を買って食べており、先ほどの道中との季節の違いが感じられます。

どちらの場合も、その様な沿道で販売する目的の梨をわざわざ遠方から持ち込んで来る可能性は低く、この頃東海道に程近い場所で梨が栽培されていた可能性は高いと思います。また、こうした道中の買い求められ方からは、「本草綱目啓蒙」が水分の豊富さを梨の品種の評価の基準にしているのも良くわかります。

こうした東海道沿いの梨の栽培や販売の情景は、長崎から江戸へ往参したオランダ商館長に随行した外国人によってもしばしば目撃されています。安永5年(1776年)に往参したトゥーンベリの「江戸参府随行記」では、池鯉鮒から吉田までを進んだ4月18日の記録の中で、沿道から見えた数種類の果樹の中に、梨を数え上げています。ちょうどこれらの果樹が花を咲かせる時期であったことも、トゥーンベリに果樹栽培に気付かせる良い目印となった様です。

村々では、たいそう多くの場所にハタンキョウ Amygdalus communis やモモノキ Amygdalus persica、そしてアンズ Prunus armeniaca が栽培されていた。そのすべてが今月、まだ葉が芽生えていない枝に花を咲かせていた。多数の花々が木をすっぽり覆い、遠くからもその真っ白な花弁が輝いているのは、いとも美しい光景に映った。これらの木々や、スモモ Prunus domestica、サクラ Prunus Cerasus、リンゴ Pyrus malusナシ Pyrus cydonia の木は、一重または二重の花を付けていた。日本人は、盆栽などの木々と同じようにこのような果樹を特別に大事にしていた。

(「江戸参府随行記」高橋文訳 1994年 平凡社東洋文庫583 145〜146ページより、学名は現行とは異なるものが含まれているが原文ママ、強調はブログ主)


また、文政9年(1826年)に往参したシーボルトは、その帰路で梨が販売されているのに気付きます。

五月一九日〔旧四月一三日〕すばらしい晴天に恵まれて、われわれは六時過ぎ川崎をあとにし、入江と新緑の萌える近郊の美しい景色にみとれる。鶴見や生麦の村々では、去年のナシの実をうまく保存して売っていた。ナシの木はここでは、机の形をした格子垣にはわせた独特の方法でつくられている。われわれは昼は金沢で休み、五時ごろフシミ(Fusimi)〔藤沢か〕につく。コメは少し前に播き、田圃はいま田植の準備にかかっていた。

(「江戸参府紀行」斎藤 信訳注 1967年 平凡社東洋文庫87 220ページより、「金沢」は道筋から考えて「神奈川」の誤りと思われるが原文ママ、強調はブログ主)


江戸名所図会より「梨園」の図
「江戸名所図会」より
八幡村(現:千葉県市川市)の「梨園」の図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
鶴見や生麦でということであれば、これらの梨は大師河原などで栽培されたものだったのでしょうか。「梨棚」を使う栽培法はシーボルトの目には珍しいものと映った様です。しかし、右の「江戸名所図会」の「梨園(なしぞの)」の図にも描かれている通り、江戸時代後期には既に梨棚は梨の栽培の一般的な風景となっていた様です。

また、前の年に穫れた梨を翌年まで保管して販売していることについて、江戸時代の最も一般的だった農書である「農業全書」(宮崎安貞著 元禄10年・1697年)にその手法が説明されています。恐らくはこれが当時幅広く用いられている保存法であったのでしょう。

◯又梨子をおさめをく事。屋かげに穴を深く掘、穴の底少もうるほひなき様にして、枯葉を下に敷、さて梨子を木より取時、少も(きず)付痛ぬ様にし、穴の中にならべ置、水のつかざる様に覆ひを置べし。来夏までも損ぬる事なし 地高き屋しきなど、湿気のなき所ならでハこたへず。又大根と梨子と穴の中に交てならべ置たるもよし。又梨子の蔕をそぎ、竹を以て大根に小き穴をつき、大根の上に、梨子をさして、それを穴におさめ置たるも、夏までも損ぬる事なしと云なり。此穴ハ日かげにて極めて水湿もなき所を撰ぶべし。

(「日本農業全集13」1978年 農山漁村文化協会 136〜137ページより、ルビは一部を除き省略)


「風土記稿」が何故上記の3村の名を記すに至ったのかは不明ではあるものの、あるいはこれらの村々の梨も、街道を行き交う人々に向けて販売する目的で作付られていたのかも知れません。特に久野村は小田原宿から至近であるだけに、穫れた梨が東海道筋に運ばれていた可能性がかなり高いのではないかという気がします。
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鹿梨について:「新編相模国風土記稿」から

「新編相模国風土記稿」に記された産物一覧から、今回取り上げるのは「鹿梨」です。


畑宿の位置(「地理院地図」より)
  • 山川編(卷之三):

    ◯鹿梨和名、夜末奈之、◯足柄下郡畑宿に產す、

  • 足柄下郡図説(卷之二十二 足柄下郡卷之一):

    ◯鹿梨、夜末奈之◯畑宿の產、

  • 畑宿(卷之二十七 足柄下郡卷之六):

    土地の產物は山生魚・山梨子等なり、

(何れも雄山閣版より、強調はブログ主)


山川編各郡図説、そして畑宿の記述には整合性はありますが、その委細については全く触れられていません。


漢字で「鹿梨」と記されているものの、訓には「夜末奈之」つまり「やまなし」と記されています。「本草綱目啓蒙」には「鹿梨」の項があり、次の様に解説しています。

鹿梨

ヤマナシ和名鈔 アリノミ イヌナシ濃州

ユデナシ雲州[越前] 檖尓雅 蘿同上 赤蘿毛詩疏

〔一名〕兒梨典籍便覽 牛嬭梨藥性纂要 梌木[事]物紺珠 山檎品字

京師にては市中に栽えず八瀬大原邉の民家に多し木高大にして梨樹に異ならず葉も形同して枝に刺あり春未だ葉を生せざる已前に白花を開くこと梨花と同じ實は桃實より小にして冬に至て熟し食ふべし夫より已前は煠せざれば食はれず京師にては中元の佛供とすその木に文理ありて羅の如し格古要論に倭欏草欏の名あり事物紺珠に欏色白理黄紋粗曰倭欏稍堅理直細曰草欏俗呼梌木と云り元の周公謹が增補武林舊事に翠寒堂宋高宗以日本羅木建と云ふ

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、名称以外のカタカナはひらがなに置き換え、返り点類は省略、一部手書きによる後筆は[]にて記す、[事]は字母を拾えなかったが、漢籍を示しており、本文中にも「事」と記されていることからこちらの字で代用した)


一方、「本草綱目啓蒙」では次の「棠梨」にも同じ「ヤマナシ」の訓が見えており、こちらでは次の様に記します。

棠梨

コリンゴ ヤマナシ ヤブリンゴ

カラツポウ豫州

〔一名〕加冬梨閩書南產志 杜梨典籍便覽 楟㴝山西通志

山中に多し高さ一二丈又小木にても花實あり春新葉を生する時花開く白色五瓣林檎花に似て小し多く簇り生す花實を結ぶ形櫻の實に似たり秋に至て紅熟す葉も林檎葉に似て白毛あり又三叉にして牽牛(あさがほ)葉の如くなるもあり五岐にして山査葉の如くなるもあり又七岐なるもあり皆一枝の中に變葉多く雜れり秋深て葉落つ甲州には小木小葉にして黄實を結ぶものあり方言ズミ 一種花淡紅色なるものありカタナシ北國と云一名コナシ飛州亦山中に生す實は大にして山査子の形の如し是を紅棠梨天台山方外志と云一名山海棠同上山梨紅訓䝉字會日光山中には深紅花なる棠梨あり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、扱いは上記に準ず)

この書き方では、「梨」と言いつつもむしろ林檎に近い様に見えます。「ズミ」の名は「本草綱目啓蒙」では「方言」とされていますが、現在はむしろこちらの名で一般的に呼ばれています。

また「大和本草」でも、その「鹿梨」の項で「アリノミ山梨也…又棠梨あり是亦山梨の類也」(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)と記し、「鹿梨」と「棠梨」が共に「山梨」と呼ばれているとしています。

「七湯の枝折」より山梨の図
「七湯の枝折」山梨の図
(沢田秀三郎釈注本より、原図は彩色)
畑宿の「やまなし」が果たして本当に「鹿梨」で良いのか、それとも「棠梨」と判断すべきものかは、現在の畑宿では作られていないのか目にすることがない様なので、今ひとつ判断し難いものがあります。因みに、「七湯の枝折」では

山梨 筥根山の産なり

是を塩ニつけて貯ふニよく酒毒魚毒ヲ解ス或ハ硯ぶたの取合ニつみて面白きもの也

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 70ページより)

と「山梨」の字が宛てられ、図が添えられているものの、その実の付き方が上向きに描かれており、これは「ヤマナシ」にも「ズミ」にも見られないものです。一方、1箇所から複数の長い柄が伸びて実が生る様は「ズミ」にも「ヤマナシ」にもあります。「ヤマナシ」も「ズミ」も箱根で現在も自生しているため、やはりどちらも可能性があります。

和漢三才図会巻87鹿梨・棠梨
「和漢三才図会」鹿梨・棠梨
この2つの図では「棠梨」の描き方が
「七湯の枝折」に似ているが、
「棠梨」に「ヤマナシ」の訓は記されていない
(「国立国会図書館近代デジタルライブラリー」より)
本草図譜巻六十三「棠梨」
「本草図譜」棠梨
前のページに「鹿梨」があるが、実だけが描かれている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

Pyrus pyrifolia 4.JPG
ヤマナシの実と幸水の大きさの比較
("Pyrus pyrifolia 4" by Qwert1234 - Qwert1234's file.
Licensed under CC 表示-継承 3.0
via ウィキメディア・コモンズ.)
Malus sieboldii C.jpg
ズミの実
("Malus sieboldii C" by Wouter Hagens
- 投稿者自身による作品.
Licensed under パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.)

「和漢三才図会」や「本草図譜」の描き方では、「棠梨」の描き方が「七湯の枝折」に近く、その限りでは「ズミ」の方が可能性があるかも知れません。ズミやヤマナシの実の写真の観察でも、ズミの方が似ている様に思えます。もっとも、絵図の観察だけで判断するのは非常に危ういのも事実ですから、飽くまでも個人的な見解に過ぎません。

畑宿の「やまなし」がヤマナシとズミのどちらであったのかがはっきりしないため、これが植栽されていたのか、それとも山に自生しているものの実を採集していたのかについても、判断の拠り所が乏しいところです。ただ何れにせよ、畑宿ではこの実を塩漬けにしたものを食していたという訳です。「酒毒魚毒ヲ解ス」という書き方からは、梅干に近い食され方であった様にも見えます。しかし、「東雲草」「箱根七湯志」といった箱根の江戸時代の地誌では「やまなし」に関する記事が見られず、また箱根を通過したり滞在したりした道中記・紀行文でも畑宿の「やまなし」が登場するものを見いだせませんでした。今のところ畑宿の「やまなし」について記録しているのは「七湯の枝折」と「風土記稿」だけですが、「風土記稿」が「七湯の枝折」を参照している可能性があるため、事実上「七湯の枝折」が唯一の典拠ということになりそうです。

明治時代以降の記録にも可能な限りで当たってみましたが、明治20年(1887年)の「箱根温泉誌」(清水市次郎 編 尚古堂)に見られたのが唯一でした。しかも、産品として挙げられているものや絵図が明らかに「七湯の枝折」を見て描き写していることが見て取れることから、果たしてこの本を編纂する際に現物の存在を確認した上で記載したものか、甚だ心許ないものがあります。内野勘兵衛が箱根の物産を可能な限り集めて出品していた「第1回内国勧業博覧会」でも、「やまなし」が出品された記録は見当たりませんでした。

「七湯の枝折」に敢えてこの様に記されているのであれば、箱根に湯治で滞在した人々の目に触れたり口に入ったりした記録がもう少しあっても良さそうなものですが、何故これ程までに記録に乏しいのか、あるいは逆に何故これが「七湯の枝折」に記録されることになったのか、釈然としないのが正直なところです。引き続き何かしらの記録が出て来ないものか、折に触れて探る腹積もりではあるのですが…。



以下、埋草に余談を少々。神奈川には全然関係ない話ですが。

「やまなし」と聞いて、あの宮沢賢治の童話を思い出す人も多いかも知れません。「クラムボンはわらったよ。」という、何とも不思議な感触のあるお話ですね。現在は「青空文庫」でもその全文を読むことが出来ます。

題名にもなった「やまなし」は、その「二、十二月」で「トブン」と音を立てて谷川に落ちてきて、蟹の兄弟をひどく怯えさせます。上記の「本草綱目啓蒙」では「冬に至て熟し食ふべし夫より已前は煠せざれば食はれず」と、熟してからかなり時間が経って冬にならないと食べられる状態にならないとしていますが、その限りでは12月になって熟し切った「やまなし」の実が落ちて来るのは筋が通っている様です。

もっとも、ヤマナシの分布は日本では本州中部以南とされており、東北には分布域を持っていません。宮沢賢治のこの文章は大正12年(1923年)に「岩手毎日新聞」という、発刊地域の限定された新聞で発表されていますから、その読者にとって「やまなし」と聞いて思い浮かべるであろう実はヤマナシのそれではなさそうです。その様なこともあってか、この「やまなし」はズミではないかという見解を持っている方もネット上で見掛けました。確かにズミであれば分布域は日本全国に及んでいますから、その点ではこちらの方が岩手の人にも馴染みがありそうです。また、別の品種の梨を挙げる説もある様です。

ただ、ズミの実はかなり小さい(直径1cm程度)ですから、これが水に落ちた時に「トブン」と音を立てる程になるかな、という気もします。まぁ、サワガニ(とは書いていませんが、カワセミが脅威になりそうな大きさの蟹だとモクズガニでは少し大きいかと思います)の大きさを考えれば、彼らにとってはズミの実でも充分大きいのかも知れませんが、実が落ちて来た時に蟹の子供たちに「かわせみだ」と言わせていることから見ると、やはり賢治はもうちょっと大きな果実を意識したのではないか、と思えます。賢治自身がヤマナシの実を東北以外の何処かで見掛けたか、あるいは図鑑などで目にしたのか、そこはわかりませんが、丁度カワセミの頭の大きさと釣合いそうな、12月頃に熟して落ちそうな果実を探して、目に止まったのがヤマナシだったのかも知れません。
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梅と漆について補足2点

今回は以前書いた記事に対して、その後見つけた史料についての補足を2点ほど取り上げます。

1. 小田原藩領の江戸時代前期の梅貢納について


鎌倉郡玉縄領や小田原の梅については以前3回()にわたって記事をまとめました。基本的には、梅の歴史を遡る上で根拠となる史料に乏しいことを紹介する方向だったと思います。特に梅干に関しては「新編相模国風土記稿」が編纂された天保年間からそれほど遡らないことを示しました。他方、梅の栽培自体に関してもあまり際立った史料を紹介出来ませんでした。

その後「神奈川県史」に掲載された村明細帳を改めて見返していて、寛文12年(1672年)の村明細帳のうち、次の3村に梅の貢納の記述があることに気付きました。
  • 寛文十二年七月(六日) 足柄上郡飯沢村明細帳(411ページ、現:南足柄市飯沢):

    一 御用之大梅・くこ御配苻次第毎年出申候、

  • 寛文十二年八月(三日) 足柄上郡金井嶋村明細帳(417ページ、現:足柄上郡開成町金井島):

    一 御用之梅御配苻次第出シ申候、

  • 寛文十二年六月(十四日) 足柄下郡久野村明細帳(422ページ、現:小田原市久野):

    一 梅御割付次第納申候、

(以上、何れも「神奈川県史 資料編4 近世(1)」より)


本草図譜巻六十一「梅」
「本草図譜」より「梅」
数種が掲載されているが、主に描かれているのは花の方
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
本草図譜巻八十九「枸杞」
「本草図譜」より「枸杞」
実が桜桃に似て長く甘酸っぱいと書く
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

実のところ、その分量や用途について一切記載がなく、また「毎年」としているのが飯沢村だけであることから、残りの2村については年によって割り当てがあったりなかったりだったのかも知れません。従って、これらの梅が小田原藩によって村から徴収された後、どの様に利用されたのかはわかりません。ただ、飯沢村の記述では「大梅」と記していることや、実を利用するクコと一緒に記述されていることから、これらは梅の実を貢納させたと考えるのが自然でしょう。

何れにせよ、これらの村明細帳は、江戸時代初期の時点で小田原藩領内でもある程度の梅が栽培され、藩によって徴用されていたことを示しているのは確かです。梅漬けや梅干といった加工品としての歴史が江戸時代初期にまで遡るとするには足りないまでも、その背景となる梅の栽培を裏付ける史料と言って良いでしょう。

2, 足柄上郡柳川村の天正19年検地帳より


ここまで「新編相模国風土記稿」の産物について調べる上では、「検地帳」については確認の対象に入れていませんでした。これは江戸時代の「検地帳」が田畑や屋敷の規模・土質とその所有者の目録であって、それらの田畑で具体的に何が生産されているかについては記さないのが当時の流儀であると私が認識していたからです。「畑」と記されていても、そこで何が作られていたのかが書かれていないのであれば、今回の目的にはそぐわないと思っていた訳です。


秦野市柳川の位置(「地理院地図」より)
ところが、ふと「神奈川県史 資料編4 近世(1)」に掲載された天正19年(1591年)頃の「検地帳」をパラパラとめくっている時に、「足柄上郡柳川村(現:秦野市柳川)」の検地帳に他とは違うものが記されていることに気付きました。天正19年と言えば、豊臣秀吉と徳川家康が小田原を攻め落として家康が江戸に入った翌年に当たり、その新たな所領の実態を掌握するために各地で大規模に検地を実施した時期です。

「検地帳」はどれもボリュームのある文書ですから、ここでその全文を引用することは出来ませんが、差し当たってどの様なものが記されているかがわかる様に、「神奈川県史」に掲載されたこの検地帳から、最初の1ページ分を書き出してみることにします。

堀こめ
弐拾四間
拾弐
桑立よこ二方有之、
三反大五拾弐歩
せうふ分
同所
銃五間三尺
拾間半三尺
桑同断
弐反五拾六歩
同分
同所
拾七間半三尺
拾三間半
桑三方有、
三反五拾八歩
寺領
宗円
同所
拾三間
桑三方有之、
壱反拾弐歩
同領
同所
拾弐間半
八間半三尺

壱反小三拾一歩
同領
同所鍛畑
拾七間
桑一方有之、
弐反八拾歩
[  ]
池域窪
拾四間
八間半
漆・桑
壱反半弐拾六歩
助十
同所
三拾三間
拾参
桑よこ立二方有、
五反大拾六歩
同所
拾四間
拾三間
寅不作
弐反小弐拾(八ヵ)
菖蒲分
同所
拾四間
拾壱間三尺

弐反三拾歩
同分
同所

年〻不作
壱反六拾歩
新二
同所
拾弐間
九間三尺
桑三方有之、
壱反小四拾四歩
同所
拾三間
拾壱間半
桑・漆三方有、柿木十五本有之、
壱反大九拾八歩
助十
拾弐間三尺
桑・漆三方有、柿十五本有、
壱反小四拾壱歩
せいふ峯
拾八間
拾壱間
桑二方有、柿三本有之、
弐反半四拾弐歩
寺領
宗円
同所
九間半
六間三尺
桑[   ]壱本有之、
大三拾七歩
同分

(上記書516ページより、以下同じ、虫喰い箇所は[]にて代用、強調はブログ主)


問題なのは、上記で強調表示した「桑よこ立二方有、」などの記載が畑の面積の傍らに示されていることです。「よこ立二方」とは、畑の四辺のうちの2辺の畔に沿って植えられていることを意味しています。つまり、これらの傍記は畑の畔に植えられているものを記している訳です。

神奈川県史 資料編4」に収録された天正19年の検地帳は
  • 足柄上郡井ノロ村検地帳(現:足柄上郡中井町井ノ口)
  • 足柄下郡小竹村検地帳(現:小田原市小竹)
  • 足柄上郡柳川村検地帳
  • 足柄上郡篠窪村検地帳(現:足柄上郡大井町篠窪)
  • 足柄上郡山田村検地帳(現:足柄上郡大井町山田)
  • 足柄上郡金子村検地帳(現:足柄上郡大井町金子)
  • 足柄上郡金手村検地帳(足柄上郡大井町金手)
  • 足柄下郡西大友村検地帳(現:小田原市西大友)
  • 足柄上郡金井嶋村検地帳(現:足柄上郡開成町金井島)
  • 足柄下郡曽我谷津村検地帳(現:小田原市曽我谷津)
以上の10点ですが、この柳川村の検地帳以外では、畔に植えられているものについて記しているものはありません。別の例外としては金子村の検地帳に「麦有」の記載がある程度で、この金子村の検地帳でも畔に植えられていたものについてまでは記載はありません。


天正当時各村で大々的に行われていた検地で、どうしてこの村の記述にだけ他の検地帳にないものが含まれたのかは、引き続き議論の余地として残っている様です。しかしながら、検地帳というのは当時の年貢の算定根拠となる最も重要な書類ですから、その信憑性を維持するのに領主側も農民側も相当に気を遣って扱った筈です。通常の検地帳には見ることが出来ないこの様な記載については、通常の検地手順にないものであることから、時代が下ると更新されなくなり、次第に意味を成さないものに変わってしまった可能性が高いでしょう。とは言え、少なくとも検地時点ではこれらの傍記も相応の手続きを踏んで調査された結果として意味のあるものであったと考えて良いでしょう。

「天正19年足柄上郡柳川村検地帳」に含まれる畔の作物の登場件数
総筆数324 筆
114 筆
32 筆
47 筆
5 筆
作物なし180 筆
柳川村の検地帳に記されている畔の作物としては、上記に見えている桑・漆・柿の他に栗が含まれています。それぞれの筆数を数えてみたのが右の表で、全324筆中の4割強の田畑の畔には何らかの作物が植えられていたことを示しています。なお、水田の畔には何も植えられていない例が圧倒的に多かったものの、一部に桑を植えていた例も見え、田畑の区別だけでこれらの作物を植える是非を判断していた訳ではないことが窺えます。

このうち、漆は全田畑の1割弱の畔に植えられていたことになります。比率としては必ずしも多くありませんが、以前見た通り漆の栽培に適した土地を選ぶ必要があることを考えると、畔が空いているからと言って何処にでも植えられるものではなかったのかも知れません。今回はこれらの田畑の具体的な所在地については確認していませんので、土地の特性との相関性までは見切れていませんが、各地域毎にまとめられた検地帳内でも漆の出現箇所に偏りが出ることから考えても、作付に適した場所を選んだ結果である可能性が高いのではないかと思います。勿論、適地だからと言っても肝心の畑が日陰になっては本末転倒ですから、畑の位置などによる採光上の制約も考慮する必要があったものと考えられ、それが「二方」「三方」といった畑に対する位置の表記になって表れているのでしょう。

それでも、天正19年に家康が江戸に入った頃には既に畑の畔で漆が栽培されていたことを示す史料であることは確かでしょう。勿論、畔だけが漆の栽培地であったということではないでしょうが、後に漆の仲買商人が登場するこの村が、江戸時代よりも前から漆の栽培を続けてきたことが、この少々風変わりな検地帳からは読み取れる訳です。

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