2015年01月の記事一覧

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

第1回内国勧業博覧会に出品された、絹布プリント写真

方円舎清親「内国勧業博覧会之図」から
方円舎清親
「内国勧業博覧会之図」から(部分)
上野公園の一角に会場が設けられた
その手前に並んでいるのは売店
(「国立国会図書館
デジタルコレクション
」から)

第3代歌川広重「内国勧業博覧会美術館之図」から
第3代歌川広重
「内国勧業博覧会美術館之図」から
(部分)
写真類の展示がこの館に
まとめられたか否かは
委細確認出来ず
(「国立国会図書館
デジタルコレクション
」から)
以前紹介した明治10年(1877年)「第1回内国勧業博覧会」の出品物から、今回は出品された「写真」の中にあった興味深い事例を紹介します。


この博覧会には以前から全国各地で生産されていた産物とともに、近代に入って新たに生産される様になった産品も多数出品されたことは言うまでもありません。それらの中には「写真」に関するものも含まれていました。「写真入」「写真挟」「写真帖」等の関連製品の出品も、それぞれの材質等に応じて各分野に散らばって見られますが(東京府・第2区第5類同第9類同第10類など)、写真自体は第3区「美術」中に第4類「写真術」として独立した分野を設けられて出品物が集められました。日本の写真の開祖とされる下岡蓮杖が横浜で開業したのが文久2年(1862)年ですから、それから15年後のこの博覧会で既に1つの分野を成すに至った訳です。


「出品目録」から出品者数を数えてみると、


全県とまでは行かないものの、意外に全国に点在していることがわかります。この「出品目録」は出品者単位でまとめられている関係で、他の分野にもう少し紛れ込んでいる可能性もあるのですが、そちらまでは確認し切れていないため、実際の人数はもう少し増えるかも知れません。但し、静岡県の追加の1件は「静岡県庁」からの出品であったり、広島県の2名のうちの1件は兵庫県の写真家によるものであるなど、職業写真家が同地に存在した人数としてカウントする場合にはもう少し精査する必要があります。一方、各人1点ずつの出品ではなく、人によっては10件前後とかなりの点数を出品しているため、最終的に集まった写真の点数は50点を超えています。撮影対象は一部に人物も含まれているものの、風景を写したものの方が多く、当時の写真家の活動の傾向が窺い知れます。

このうち、神奈川県から出品されたのは次の2名でした。

  • 仝町(横浜本町) 鈴木眞一:

    額 (一)寫眞外國人物無彩色紫檀塗緣横濱本町 (二)仝日本人物彩色黑柿緣 (三)仝色桑ノ椽 (四)仝富士山ノ景色虫喰木緣内金 (五)仝色外緣杉正目内緣黑柿 (六)仝朝ノ景彩色梭櫚ノ緣 (七)仝夕景彩色竹ノ緣
    ◯掛物(八)仝地畵絹人物彩色印籠形銀造風鎭附 (九)仝富士山ノ景 (一〇)仝彩色

  • 仝村(五日市村) 萩原理平:

    寫眞 (一)五日市市塲ノ体武藏國多摩郡五日市村

「出品目録」第2分冊より、出品者表記を出品物の前に表記、適宜改行・スペース追加)



この横浜の「鈴木眞一」は、先ほど名前の出た下岡蓮杖と同郷の下田の人であると同時に蓮杖の弟子となった人です。後に蓮杖の許可を得て横浜で写真店を構える様になるのですが、蓮杖の方は「内国勧業博覧会」には出品しませんでした。

後年、やはりこの内国勧業博覧会に出品した高村光雲の「幕末維新懐古談 初めて博覧会の開かれた当時のことなど」(昭和4年・1929年)では、師匠(高村東雲)からの勧めで仏像を出品して竜紋賞を得たことが記されています。この伝でいくと、あるいは蓮杖も弟子の眞一に出品を促したのかも知れません。

鈴木眞一の出品は全部で10点に及んでいるものの、良く見ると同じ写真に対して彩色と無彩色の2種類を出したり、縁を取り替えたりしてバリエーションを増やしていることがわかります。出品に当たって担当官からどの様に趣旨説明を受けていたのかはわかりませんが、あるいは写真そのものだけではなく、その展示手法なども審査の対象となることを知らされていたのかも知れません。

果たして、この鈴木眞一の出品のうち、「掛物」の方が表彰されることになります。

花紋 影畵 彩色大綱山夕景ノ圖及ヒ皇族ノ肖像 武藏國久良岐郡横濱本町六丁目 鈴木 眞一

影畵ヲ絹布ニ撮寫シテ設色巧佳本邦ノ罕ニ觀ル所トス

(「明治十年内国勧業博覧会審査評語. 2」より、強調はブログ主)


出品目録の方に「絹」とあるのが何を指すのか分かり難いのですが、こちらの表彰理由には写真を絹布に焼き付けたものであることが明記されています。

日本カメラ財団「幕末明治の写真師列伝」によれば、

また、この頃から真一は自分の写真や子供たちの写真を使って、皿や陶板などのその写真を焼き付ける実験を行って、試行錯誤の後、陶磁器に写真を焼き付ける技術を開発した。真一はこの技術を応用して風景、風俗写真を陶磁器に焼き付けて、それを外国人向けの商品として販売、大成功を収めたのであった。

(「幕末明治の写真師列伝 第三十三回 鈴木真一 その四」森重和雄 著作年不詳より、リンク先はPDF)

と、写真を紙以外のものに焼き付ける手法を確立していくことになるのですが、その手法の模索は既にこの頃から始めていたことになるでしょう。博覧会で表彰を受けたこともその後の技術開発の後押しになったのかも知れません。因みに、上記の「幕末維新懐古談」によれば、表彰者には一定の補助金が出たことが記されていますが、鈴木眞一がこの表彰に際してどれほどの金額を受け取ったのかは定かではありません。

博覧会の出品規則では、博覧会閉会後に出品者が出品物を1ヶ月以内に撤去することが定められているため、基本的には出品物は各出品者の手元に返った筈ですが、この時の受賞作品が現存するのかどうかはわかりません。当時は「アルビューメンプリント」と呼ばれる卵白を使った印画紙を焼付けに使っていたので、基本的にはそれを絹に塗ってということになるのでしょうが、布地は紙とは様子の異なる面が多いですから、その辺りに彼なりのノウハウがあったのでしょう。具体的にどの様な工夫が施されたのか、記録が残っていれば見てみたいものです。

まだ日本の写真の黎明期と言って良い時期に、早くもこうした意欲的な技法の開発に取り組む人物がいたという記録の1つと言えると思います。
スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

津久井県の「漆」:「新編相模国風土記稿」から(その7、まとめ)

これまで6回にわたって、江戸時代の相模国の漆の生産や利用状況について、集められる史料を可能な限りで紹介してあらましを追ってきました。今回はそのまとめとして、幕末以降の相模国の漆の生産状況を見てみます。

神奈川県史 資料編9 近世(6)」にまとめられた漆関連の文書の中に、幕末も押し迫った慶応元年(1865年)12月と翌慶応2年8月の日付を持つ2つの文書が収録されています(966〜970ページ)。どちらも津久井郡郷土資料館(「神奈川県史」編纂当時、現・相模原市津久井郷土資料室)の所蔵するもので、表紙にはそれぞれ「白蘭(博覧)会行/漆直段書/丑十二月三日/御役所上ヶ置候也」、「博覧会被遣候品之内/生漆製漆三ツタ油代金仕出帳」と記されています。内容はどちらも生漆や朱漆等の製漆の1桶当たりの重量と値段が列記されたものです。2冊めの慶応2年の文書の終わりには、

請取申金子之事

合金百四拾弐両弐分ト永弐百六文弐分

博覧会被遣候御品〻御買上ヶ被仰付、代金書面之通請取申候処、実正御座候、仍如件、

慶応二年八月

漆屋藤

佐藤四郎兵衛

戸田次郎

今井一郎左衛門殿

加藤次三郎殿

成瀬為三郎殿

斉藤音三郎殿

前書之通相違無御座候、以上、

(同書969ページより)

と、これらの売却代金としてかなりの金額を受け取っていることが記され、その後ろには各種漆や椿・菜種等の各種油の上級品・中級品・下級品等の等級毎の主な産地が列記されています。

Exposition universelle de 1867.png
1867年パリ万国博覧会会場鳥瞰図
漆はこの会場へ持ち込まれたものか?
("Exposition universelle de 1867" by Bourrichon
- scan d'une gravure issu du guide
Paris-Diamant, Alfred Joanne,
Collection des guides Joanne,
Hachette, Paris, 1867..
Licensed under CC 表示-継承 3.0
via Wikimedia Commons.)
ここで名前の挙がる「博覧会」が具体的にどの催し物を指すのかがはっきりしません。日本が初めて万国博覧会に出品したのは慶応3年(1867年)のパリ博覧会のことですが、この2つの文書の「博覧会」がこのパリ万博のことであるとすると、2年前からその準備に向けて幕府が動いていたことになります。パリ万博に漆の液が出品されたかどうかは確認出来ませんでしたが、

出品されたのは、陶磁器、漆器、刀剣、屏風、浮世絵などの美術工芸品のほかに、人形、提灯、扇子、布、和紙、さらには農機具や木材などの日用品や原材料も含まれており、かなりの数にのぼった。

(「ウィーンのジャポニスム(前編)1873年ウィーン万国博覧会」西川智之 2006年 「言語文化論集」第XXVII巻第2号所収 176〜177ページより)

原材料が出品の中に含まれていたということであれば、その中に漆が含まれていた可能性も出て来ます。ただ、慶応2年の文書で購入されたものは「瀬〆漆」「立木漆」「塗立漆」「朱合漆」「三ツタ(密陀)油」で、何れも特別に丈夫に誂えた4貫(15kg)入りの桶で納められていますから、万国博覧会の出展用にしては少々量が多過ぎるとも思えます。

他方で、慶応2年の文書の末尾に産地の一覧がわざわざ記されていることから判断すると、日本国内の局所的な地名は当時の海外ではまだ殆ど馴染みが無く、その様な地名を挙げて産地を解説するのは不自然であることから、この「博覧会」は国内で催された、より小規模なものである可能性も考えられます。この辺りは他の地域から「博覧会」出品のための産品が買い求められたことを示す史料と照合しないと、委細が明らかになりそうにありません。

何れにせよ、慶応元年の文書の表記が「白蘭会」と当て字になっていることから、この文書を書いた当人たちには「博覧会」がまだ馴染みがない言葉であったことが窺えますが、海外への新たな貿易品として漆やその他の産品に目を付け、これらを展示する会を開催したということなのでしょうか。

この慶応の2つの文書が示す「博覧会」の成果がどうだったのかは、その様な訳で全く不明ですが、慶応3年には大政奉還が行われて江戸幕府が倒れるという時期ですから、この「博覧会」出品が、幕藩体制下で相模国内で行われた漆の産業振興策としては最後のものであったと言って良いでしょう。



翌慶応4年に元号が明治へと代わり、その10年後に以前も紹介した「第1回内国勧業博覧会」が開催されて国中の各種産物が集められて展示されます。その「出品目録」によれば、相模国の漆の出品は足柄上郡苅野村(現:南足柄市苅野)と八沢村(現:秦野市八沢、炭等と共に柳川村が出品)のみで、慶応年間に「博覧会」に出品された津久井郡からは、この「内国勧業博覧会」へは出品されなかった様です。因みに、八沢村の漆を柳川村が出品していることから、「(その3)」や「(その4)」で取り上げた柳川村の漆の仲買商人が明治に入っても活動を続けていたことがわかります。

この足柄上郡の2つの村の漆は、どちらも「褒状」を受ける好成績を収めました。その表彰文には次の様に記されています。

褒狀 漆

相模國足柄上郡(ママ)野村   磯崎 庄右衛門

品位上等ニシテ價亦廉ナリ該地方漆樹ヲ植ル歳尚淺シ然ルニ既ニ一個ノ物產トナセシハ全ク其業ヲ勉メ意ヲ注クノ深キニ因ルト云フヘシ

仝 炭、漆、及其他數品

柳川村   熊澤保

櫟炭ハ稍尋常品ニ優ルト雖トモ早漆ノ質ハ良好ニシテ需要ニ便ナルハ該地ノ名產タルヲ証シ職業ノ勉勵ヲ見ルニ足ル又烟葉ノ如キ培養ノ勞ヲ見ル

(「国立国会図書館デジタルライブラリー」より、強調はブログ主)

特に苅野村の表彰文に「栽培を開始してから日が浅いのに」などという文言が入ったのは、恐らくはこの出品者から漆を植える様になった江戸時代の経緯が審査員に対して説明されたのでしょう。その意味では、かつての小田原藩国産方の永年の振興策が、ここでようやく少し日の目を見たと言えるのかも知れません。

しかしながら、相模国の漆に関する記述は、統計を除くとこの褒状が殆ど最後になってしまいます。「足柄上郡誌」(1923年 足柄上郡教育会編)「足柄下郡史」(1929年 足柄下郡教育会編)といった、比較的早い時期に編纂された地誌・郷土史の文献でも、その産物として漆が記載されることはなくなっています。

この徴候は、実際は「第1回内国勧業博覧会」の頃に既にあったのかも知れません。「神奈川県史 通史編3 近世」には

これらの産物が、県全体の生産物の中でどのような比重を占めていたか、明らかにすることはできない。わずかに推測できる資料が、明治九年(一八七六)の「全国農産表」(第二十八表)であろう。この全国農産表の内から、全国と相模国の部分とを比較してみると、特有農産物の内千人当たりの生産額が全国平均を上まわるものは、繭・生糸・漆汁・葉煙草の四品目であったことが知られる。

(同書381ページより)

第28表「明治9年全国および相模国農産額(特有農産のみ)」
全国相模国
総生産額(円)千人当り
生産額(円)
総生産額(円)千人当り
生産額(円)
5,767,284168110,856298
生糸9,181,511267179,330482
漆汁37,79217092
葉煙草1,074,5463162,144167
※「神奈川県史 通史編3 近世」381ページ表より、本文で指摘された4項目のみ抜粋
として、明治9年の「全国農産表」の抜粋が掲載されています。

幕末から明治に掛けて、日本国内では政治面でも経済面でも多々変動があったことを考えると、この表に示された各産物の産出額の示す比率が、そのまま江戸時代にまで遡っても当て嵌まると見立てることは必ずしも出来ないと思います。が、確実に言えることとしては、明治9年の時点では、この相模国(「全国農産表」自体が府県単位ではなく旧国域単位で集計されている)の主要産物として挙げられた4品目の中で、漆の生産額は他の産品より2桁も3桁も小さな金額に留まっており、これは全国で見てもその傾向は変わっていないということです。つまり、漆は絹関連製品や葉煙草などの産品に比べ、随分と「見劣り」のする産物であることが、統計によって顕になってしまっていました。

明治9〜15年の漆産量の推移
全国相模国
数量(斤)kg換算価格(円)数量(斤)kg換算価格(円)
明治9年60,65636,393.637,792.0971,649989.4709.045
明治11年66,63939 983.449,179.5821,135681 261.05
明治15年65,51739,310.281,699.6991,6761,005.61,712.872
明治9〜15年の「全国農産表」より編集。
記載年次以外では漆の生産量は調査されていない。
明治11年と15年では1斤当たりの単価が示されているため、価格は産出量と掛け合わせて求めた。
年次のリンク先は何れも「近代デジタルライブラリー」。
「近代デジタルライブラリー」には明治9年から15年までの「全国農産表」が掲載されており、各品目の産出量と価格が記されていますが、これを見て行くと漆の生産量は全国レベルでも、相模国レベルでも伸びておらず、また相模国の明治11年の産出量が極端に下がっているなど、産出が必ずしも充分に安定していなかったことがわかります。漆器は日本の工芸品として欧米への輸出にも力が注がれる様になったこともあって、明治時代にも産量は伸びているのですが、その需要に漆の生産が追い付かなくなったことで、やがて中国をはじめとする輸入漆が使用される比率が高くなっていきます。統計では輸入漆が使われる様になるのが明治20年ですが、実際にはその数年前には既に利用が始まっていた様です。そして、明治30年頃には輸入漆の量が国産漆を凌駕する状況へと変わっていくのです(「清末における中国漆の日本輸出について」馮赫陽著 2011年、リンク先はPDF)。

恐らくはこうした事情が、漆の生産のその後に大きく影響したのでしょう。明治32年(1899年)の「輸出重要品要覧」の「漆器」の部の表紙には「附漆汁」と記されているものの、その内容は何れも海外産の漆の景況分析であり、国産の漆の振興には全く触れられていません。

神奈川県の産物としては漆はかなり早い時期から顧みられなくなっていた様ではあるものの、神奈川県の漆の生産自体は第2次大戦後まで細々とは続けられていました。

昭和31年の総産額は3,511貫であるが、同年百貫以上を産した県は青森、岩手、秋田、山形、福島、栃木、神奈川、新潟、石川、岡山、広島の11県で岩手の869貫が他を引き離して最高であった。全国総生産高は近年減少の傾向が著しく、昭和18年までは、とにかく8千貫を越していたものが19年に激減し、26年には6,687貫となり、それ以後更に減少を続けて今日に至っている。

(「漆の需給と生産」西川五郎 「熱帯農業」Vol. 3 (1959-1960)所収 80ページ、強調はブログ主)

と、この時点でもまだ産地の1つとして「神奈川」の名前が挙げられてはいるものの、100貫が375kgであることから見れば、この時点で既にどの産地もその様な小さな単位でしか産出量を見られなくなっていたことがわかります。そうした中では、神奈川の漆もどちらかと言えば江戸時代から受け継いできたものを何とか維持しようという動きであったのでしょう。それも平成に入る頃にはほぼ潰えてしまった様です。数年前から相模国の漆掻きを復活させようと活動されている方がいらっしゃる様であり、その成果が期待されるところです。



さて、全7回にわたって相模国内の漆の生産や流通・利用状況について見て来ました。前回までの一連の記事を改めて並べてみます。



この記事のタイトルは「新編相模国風土記稿」の産物として記された津久井県を表に立てる形としましたが、実際は江戸時代において相模国の漆は小田原藩や韮山代官所の領地で広く生産が奨励されて栽培されており、その点では「風土記稿」が記す様に津久井県の産物とするのはやや違和感があります。では、「風土記稿」は何故その産地を津久井県に限ったのでしょうか。

理由の1つとしては、これまでも他の産物で時折見られた様に、「風土記稿」の津久井県の項が八王子千人同心の手によって編纂されたことが挙げられるでしょう。「(その1)」で取り上げた津久井県の「控帳」や、「(その3)」で紹介した文化9年の韮山代官所の触書でも、武州多摩郡は相州津久井県と共に漆の産地であるだけでなく、代官所からの指示も双方の地域が共同で受けていた節があります。こうした事情を、「新編武蔵風土記稿」の編纂で既に多磨郡の地誌を取材していた千人同心らが、津久井県の地誌探索に出掛ける前に知っていた可能性は高く、それが津久井県の産物一覧作成時に影響した可能性は考えられます。

他方で、津久井県と並んで漆の産地だった足柄上郡の丹沢山地南部の村々は、「(その2)」で見た通り富士山の宝永大噴火の影響をまともに受けて漆が壊滅状態となり、その後も長きにわたってその生産が戻らない事態に陥っていました。小田原藩や韮山代官所が後に領内の漆の増産に力を入れる様になるとは言え、こうした印象もあって特に小田原藩は漆を郡の産物として取り上げるには「未だし」という印象を強く持っていたのかも知れません。それが、昌平坂学問所が同地で地誌探索を行った際の報告として現れ、漆の産地として津久井県以外の郡の名を書き連ねるのを躊躇わせたのかも知れません。

これまで取り上げてきた「風土記稿」の各種産物に比べ、漆に関しては関連する史料が比較的多く残されているのは事実であり、殊に小田原藩や韮山代官所といった役所が貢税などの形で関与したものが非常に多いのが特徴です。相模国の漆は、日本国内では必ずしも際立った存在ではありませんでしたが、少なくとも、漆は藩領・幕領問わず領主の期待を担う産物で一貫してあり続けたことは確かなのです。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

津久井県の「漆」:「新編相模国風土記稿」から(その6)

これまで、専ら文献史料に基づいて江戸時代の漆の生産・利用状況を見て来ました。今回は少し趣向を変えて、宮ケ瀬遺跡群の江戸時代と推定される地層面から発掘された漆に関する出土品について考えてみたいと思います。これも前回に続いて相模国における漆の利用状況を考えることに繋がりますが、出土品と文献史料との間を繋ぐものが乏しいため、今回は推定の部分が多くなると思います。


明治31年(1898年)発行地形図の宮ヶ瀬馬場集落
(「今昔マップ」より)
宮ケ瀬遺跡が発掘されたのは、同地が宮ヶ瀬ダムの建設に伴って水没することが確定したためです。「神奈川県史」の編纂に際して同地が調査された折に、宮ヶ瀬をはじめとする水没地にも遺跡が多数存在する可能性が確認されていたため、昭和60年(1985年)から全15地点で発掘調査が行われたものです。

発掘調査結果は「かながわ考古学財団」の手によって全18巻(一部が更に2分冊となっており、書物としては全19冊、1990〜1999年)の膨大な報告書にまとめ上げられています。ここで出土した漆器類については、その塗膜分析の委託を受けて調査を行った四柳嘉章氏が、その分析結果を報告書に寄稿していますが(ⅩⅢ巻第2分冊357〜366ページ、付編Ⅴ「宮ヶ瀬遺跡群出土漆器の塗膜分析」、以下「付編」)、その概略が同氏の「ものと人間の文化史131 漆Ⅱ」(2006年 法政大学出版局)で紹介されています(同書332〜335ページ、以下「ものと人間」と省略)。今回はこれらの著書に基づいて記事を組み立てています。

漆に関する出土品が出たのは、宮ヶ瀬の中心集落であった「馬場集落」にあった「表の屋敷跡」及び隣の「北原集落」に位置していた「長福寺」の江戸時代の地層からです。そこでまず、同地のこの時代の記述を「新編相模国風土記稿」から拾ってみます。同地は昭和31年(1956年)に隣の煤ヶ谷村と合併して清川村となるまで「宮ヶ瀬村」として存続していました。

◯宮ケ瀨村美也加勢牟良 正保の改に宮河瀨村と書せり、江戸より十八里餘、応永の頃矢口信吉と云者、開墾の地と云事蹟詳ならず、屋敷蹟の條并見るべし、東西二里半餘南北一里餘東、半原村、西、丹澤山、南、煤ヶ谷村、北、鳥屋川を隔津久井縣鳥屋・靑山二村、民戸八十三、甲州道係る幅九尺、

(以下「風土記稿」引用は何れも卷之五十八 愛甲郡卷之五、雄山閣版より)


「新編相模国風土記稿」卷之五十四 愛甲郡卷之一「正保改定図」より
「風土記稿」卷之五十四「正保改定図」
「宮河瀨」と記されている
「新編相模国風土記稿」卷之五十四 愛甲郡卷之一「元禄改定図」より
同「元禄改定図」
「宮ヶ瀨村」とある
そして、「小名」の1つとして「馬場」が記され、当時からこの集落が「馬場」と呼ばれていたことが確認出来ます。なお、「風土記稿」に掲載された愛甲郡の国絵図では、「正保改定図」では「宮河瀬」と記しているものの、「元禄改定図」では「宮ヶ瀬村」と記しており、この間に表記が変わったことが窺えます。


宮ヶ瀬馬場集落付近の1974〜78年頃の空中写真
現行の地形図を薄く重ねて:西側に水没地の移転先の1つである宮の平が見えている
中央部に西から沢が流れ込んで河岸段丘を分断しており、
「表の屋敷」はこの沢の南側、「長福寺」は北側の畔にあった
※「情報>選択中の情報」から空中写真の表示・非表示を切り替えたり、透過率を変更したり出来ます。
(「地理院地図」より)

この馬場集落と北原集落は、中津川とその支流の川弟川の合流地点下流左岸に形成された河岸段丘のうち、高位段丘面(宮ヶ瀬Ⅰ面群)と中位段丘面(宮ヶ瀬Ⅱ面群)に位置していました。この河岸段丘のほぼ中央の、特に標高の高い場所に、「表の屋敷」と呼ばれる屋敷跡と「長福寺」が位置していました。

「風土記稿」には「矢口信吉」という人物が宮ケ瀬の開拓者であると伝えられていることが記されていますが、この開拓者伝説とは別に、「表の屋敷」にはやはり宮ヶ瀬の開拓者と目される井上氏が住んでいました。調査報告書では次の様に解説しています。

遺跡名の「表の屋敷(おもてのやしき)」は一説に宮ヶ瀬の開拓者とされている井上角之丞(おそらくは、沼田頼輔の著(沼田1931)に見える「宮瀬村は、應永の頃、井上某といふものが、津久井郡青野原村から来て、開墾したものであると傳へられてあった」という記載が、かかる一説の根拠になっているものと思われる。なお、『清川村地名抄』(清川村教育委員会1985)には沼田の著述中に「宮ヶ瀬を開拓せる人、津久井郡青野原村より井上氏なる者来り、邸宅を現在の川瀬孝三氏宅地の所に求め、邸宅の玄関口として、前の畑全部を求めた」とあるとして記載されているものの、同一引用箇所自体は前掲の沼田の著述中には認められないものである)の屋敷があった場所という伝承に基づく同地点の通称を遺跡名として冠したものである。

(調査報告書ⅩⅢ第一分冊9ページより、なお「沼田1931」は参考文献一覧によれば「宮瀬村の傳説と歴史」私家版)

この伝承は、発掘調査によって同地から屋敷址が出て来たことによって、結果的にある程度裏付けのあるものになったと言うことが出来ます。因みに、沼田頼輔氏の名は以前「相模川旧橋脚」を取り上げた際にも出て来ました。


この「表の屋敷」を発掘調査したところ、江戸時代前期〜中期の地層面から屋敷の遺構と全部で8つの墓跡が検出され、それらの遺構から漆器の破片が出て来ました。「ものと人間」ではこれらについて次の様に解説しています。

表の屋敷遺跡からは宮ヶ瀬の開拓者一族の墓跡と方形館が検出された。墓跡は八基から構成され、一八世紀前半〜中頃の一号墓、二号墓、四号墓、五号墓、六号墓、七号墓から漆器(副葬品)が出土した。一号墓・二号墓・四号墓出土漆器は内面赤色で外面黒色の渋下地。五・六・七号墓は上質の漆下地であった。六号墓には二点の漆器が副葬され、一点は皆朱か内面だけ朱漆かは不明だが、地の粉漆下地層に天然の朱、すなわち辰砂の上塗り漆で七号墓より上質。今一つは渋下地だが、朱漆地に錫粉蒔絵による家紋が加飾されており、その細部表現は楊枝状のもので引掻いたものだ(引掻(ひっかき)技法)。副葬漆器は肉限観察では同質とみえたが、塗装工程や加飾からみて、六号墓が最上位、次いで五号墓・七号墓、そして一号墓・二号墓・四号墓の順位が識別できる。漆器の分析から被葬者像にせまる情報が取り出せる好例だ。

方形館の堀(大溝)からは二点が出土した。うち図3-1は皆朱の蓋で、口縁部に布着せ層+地の粉漆下地二層(二辺地)+漆層+黒漆層二層+赤色(朱)漆層の順に塗装された上質品だ。しかも蓋表(摘み内部)には朱漆による「宮河瀬」の銘がある重要品である。これは慶長八(一六〇三)の水帳にもみえ、「宮ケ瀬」に変わるのは享保一七(一七三二)〜元文二(一七三七)であるから、一七世紀以前と判断できる重要な遺物だ。

(上記書332〜333ページ、図は省略)

個人的には、上記の通り「元禄改定図」に既に「宮ヶ瀬村」と記されていることから、「宮河瀬」の表記は元禄よりも前ではないかと思いますが、何れにせよ方形館から出た漆器が17世紀以前のものである点は動かないでしょう。

この地の開拓者として力を持っていたであろう家系の墓に副葬品として納められていたと考えられるだけに、何れも比較的完成度の高い漆器であった様ですが、ここで気になるのは、これら江戸時代初期のものと考えられる漆器が何処で作られたものか、ということです。宮ケ瀬は轆轤細工などの挽物の生産地として知られている土地柄ではなく、また過去にその様な生産地であったことを裏付ける史料もない様です。無論、当時は挽物細工の職工や塗師が宮ヶ瀬にいた可能性もないとは言えませんが、そうであれば何故その技術が同地で途絶えたのかが疑問です。それよりは、近傍のより高い挽物加工技術を持っていた地で作られたものと考える方が辻褄が合いそうです。また、「宮河瀬」などとわざわざ銘を入れたものが複数出土していることから、それほど遠方に発注したものではなさそうです。

調査報告によれば、この屋敷址の主は18世紀中頃には廃絶したものと考えられていますが、伝承以外に関連する史料が伝わらない家系だけに、この漆器に繋がる史料を見出すのは極めて困難でしょう。従って単純に位置関係だけで推定する以外のことは出来そうにありませんが、宮ケ瀬から最も近い挽物の産地としては、大山の挽物細工ということになるでしょう。実際、前回見た通り大山御師が檀家廻りに臨む際に仕入れた荷物の中に黒漆塗りの椀が含まれており、こうした習慣が江戸時代初期まで遡れるものであれば、宮ケ瀬から出土したこれらの漆器も、大山細工の比較的早い時期の作例であった可能性もないとは言えないと思います。無論、この辺りも類似の出土品が事例として出て来ないと、裏付けが乏しいと言わざるを得ませんが。


一方、この「表の屋敷」の敷地の北隣の山麓には「長福寺」という寺がありました。「風土記稿」の記述では

◯長福寺 明星山觀音院と號す、古義眞言宗津久井縣千木良村善勝寺末本尊不動、△天神社 △第六天社 △觀音堂 △十王堂 △鐘樓 元文五年の鑄鐘を掛、

と紹介されています。この境内敷地からは漆を塗る前に夾雑物を取り除くために使った「漉殻(こしがら)」が1点発掘されています。

図3-5は長福寺跡第二面(一八世紀後半~一九世紀代)出土の漆濾し紙で、一〇枚前後の和紙からなっている。上塗りまたは彩漆用の朱漆をえるために夾雑物を除去し調製した証拠品だ。漆濾し紙は上塗り漆の場合は回数を重ねるごとに枚数を増やして用い、表面の紙は渋引か一度漆が染み込んだ丈夫なものを使用する。使用後のものを漉殻(こしがら)とよんでいるが、寺院の什器・常住物生産とのかかわりも含めて検討すべき重要選物だ。同様のものは神奈川県では小田原城三の丸箱根口跡・三号堀(一六世紀末〜一七世紀前半)から二点出土しており[図中6・7]、岩手県二戸市浄法寺町飛鳥台地Ⅰ遺跡(一七世紀)・五庵(ごあん)Ⅱ遺跡(一六世紀後半~一七世紀前半)では堅穴住居跡から出上している[図中8・9]。

(上記書334ページ、図指示は[]内に補注)


「ものと人間の文化史131-Ⅱ 漆Ⅱ」333ページ図
「ものと人間」333ページ図3より 漉殻5点

長福寺址から出土した梵鐘鋳造遺構
長福寺址から出土した梵鐘鋳造遺構
中央の円形の台座は約80cmあり
この上に鋳型が載せられて鋳造が行われた
(調査報告書 図版より)
この「第二面」とされる地層面からは、他に梵鐘を鋳造した際の鋳型と溶解炉の遺構、及び鋳造の際に補充する目的で投入されたと思われる多数の銅貨を始めとする銅製品などが検出されています。これは「風土記稿」で元文5年(1740年)に鋳造されたとされる梵鐘のものと考えられており、また、この際に北側や西側の山を切り崩して境内を拡げた痕跡が見られることから、同時期にかなり大掛かりに寺院の普請が行われたことを示すものとされています。四柳氏の報告で指摘される第2面に対応する調査報告書の記述(Ⅲ巻217〜249ページ)には漉殻について書かれていないため、この漉殻の出土箇所や出土状況が詳らかではありませんが、梵鐘鋳造と同時期の地層面から出土したということから、それとほぼ同じ頃に境内で行われた漆塗りの作業に際して使用された後廃棄されたものと考えられる訳です。

私が見た限りの史料では、江戸時代の塗師が住んでいるのはこれまで取り上げた大型の町などが専らで、農村部には少なくとも専業の塗師はいなかった様です。少量の漆を簡易な道具に塗る程度であれば、村の職人が漆を扱うこともあったかも知れませんが、寺社の調度品など仕上がりが重要なものについては、やはり町の専業者に依頼する必要があったのでしょう。小さな仏具であれば塗師の所で仕上げたものを運搬してくることも造作なく出来たでしょうが、須弥壇など寺院内に誂える大型のものに漆を塗る必要が出た時には、流石に完成品を遠路はるばると運搬する訳に行かず、塗師の方が出張してくるケースもあったのでしょう。長福寺は発掘調査結果からは江戸時代の相模国内の平均的な規模の寺院であったと見られており、その様な寺の境内からこの様な塗物作業の痕跡が見つかったということであれば、江戸時代にはこうした塗師の「遠征」は寺社の普請に際して割と普通に行われていたのではないかと思われます。小田原城三の丸から出た「漉殻」も、やはり城内の何らかの調度品に対して漆塗りの作業を行ったものと思われ、その際にも町の塗師が城に赴いて作業を行ったのでしょう。


この地層面に建立された堂宇などは、発掘跡に炭などが見つかっていることから後に火災に遭ったものと考えられ、焼け跡を改めて造成した上で建築し直したと考えられることから、恐らくはこの漉殻が使われた際に漆を塗られたものも、残念ながら一緒に灰燼に帰してしまったものと思われます。そして、長福寺自身も明治初年の神仏分離令の公布に伴って程なく廃寺となりました。しかし、不動明王像や観音菩薩像、十王堂の閻魔大王像などは現在まで受け継がれてきています。


次回、幕末以降の相模国の漆について簡単に触れた上で、これまでのまとめをしたいと思います。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

短信:ストリートビューの埋め込みのデザインが変わりました

何時から切り替えられたのかはわかりませんが、Googleマップのストリートビューをブログなどに埋め込む際のデザインが新しいものに切り替えられました。

それはいいのですが、以前のデザインでは右下に地図を表示できていたものが、新しいデザインでは廃止されてしまいました。これは残しておいて欲しかったところですが…。なお、今のところ「大きな地図で見る」のリンク先では従来通りの表示がされる様です。
ストリートビュー画面変更箇所
「カスタム」という選択肢はあるが、
実際には値を入力出来ない

iframeタグ中のwidthとheightの値を調整することで
引き続きサイズを調整すること自体は可能だが…
ストリートビュー

また、ストリートビューから埋め込み用のHTMLを得る画面では、サイズの選択に「カスタム」が残っているものの、実際には値を入力することが出来なくなっています。得られたHTML上の「iframe」タグ中「width」と「height」の値を変更することでサイズを調整することは可能ではありますが、今後はその様な変更を認めない方向なのでしょうか。既に利用している箇所への影響が気になるところです。

これまでの記事でストリートビューを埋め込んだ箇所については、以上を踏まえて適宜対策を考えます。

追記(2015/01/23):特に地図が必要であるために敢えてストリートビューを縦長に表示させていた箇所については、改めて「地理院地図」等の地図を補って表示させる様に変更を加え始めています。変更完了まではしばらくかかると思いますので暫しお待ち下さい。
(2016/01/25):ストリートビューを貼り直しました。委細は下記関連記事を御覧下さい。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

津久井県の「漆」:「新編相模国風土記稿」から(その5)

前回に引き続き、相模国内での漆の利用事情について見ていきます。

1. 小田原漆器


さて、「新編相模国風土記稿」には記されていないものの、江戸時代以前から存在したと言われている塗物が小田原にあります。小田原市のサイトでは

小田原漆器の起源は、室町時代中期に箱根山系の豊富な木材を使用し、木地挽きされた器物に漆を塗ったのが始まりとされています。

その後、北条氏第3代当主氏康が塗師を城下に招いたことから、小田原漆器は発展し、江戸時代中期には実用漆器として江戸に出荷するなど、漆器づくり技術が確立されました。材料は主に国産ケヤキで、材質が強固で、ゆがみが少なく、木目が美しく、椀・盆などに最適な素材です。

とされており、江戸時代以前からの歴史があるとされているのですが、「小田原市史」での解説では

小田原彫とは別の小田原塗、小田原漆器と呼ばれる漆器類の存在も注目される。小田原塗は、椀・盆・皿などの白木地に漆を塗ったもので、江戸時代になると相模漆の造出とともに漆塗技法の向上が図られ、記事の木目を生かしたすり漆の技法や木地蠟(きじろ)塗など、今日の小田原漆器と呼ばれる漆器が成立した。

小田原彫にしろ、小田原塗にしろ、確実に北条時代までさかのぼる紀年銘のある実作に接し得ないので、これ以上論ずることはできない。ただ、近年小田原城の中世遺構から、椀を主体とした北条時代の漆器が出土しており、今後の検討がまたれるところである。

(「小田原市史 通史編 原始・古代・中世」781〜782ページより)

と記されている程度で、これも委細があまりはっきりしません。

箱根山中の各拠点と小田原・熱海の位置関係
箱根山中の各拠点と小田原・熱海の位置関係(再掲)
(「地理院地図」に拠点を書き込んだ上で
スクリーンショット)
特に、小田原が箱根の山中から至近に位置する町であることから考えると、箱根細工と小田原漆器の間で少なからず相互に影響はあったと思われるのですが、その辺りをきちんと説明している書物等が、探した範囲では見当たりませんでした。現在の小田原漆器が「木地呂塗り」である点は箱根の漆器とも共通する特徴ですが、この技法が江戸時代以前から使われていたとすれば、何故当初白木地の挽物を作っていた箱根が、塗物に仕立てる仕事を小田原ではなく熱海に依頼していたのかも謎です。位置関係から見ても、箱根から荷物を運び出す先としては至近である上に東海道筋や箱根温泉道を下るだけで済む小田原の方が遥かに便が良く、十国峠経由の外輪山越えか小田原経由の大きな遠回りを強いられ、明らかに不利な熱海が敢えて選ばれているだけに、その不利を覆すだけの動機が何処にあったのかが少なからず気になります。

ただ、「小田原地方商工業史」(内田 哲夫・岩崎 宗純著 1989年 夢工房)に引用された貞享3年(1686年)の小田原宿の職人一覧(167ページ)によれば、「塗屋」が12人記されています。彼らが塗っていたのは挽物ばかりではなく、家具類などの指物も塗っていた可能性が高いので、この12人全員が挽物を漆器に仕立てていた訳ではないでしょう。しかし、これだけの人数の職人が活動していたとなれば、かなりの数の塗物が常時生産されていたと考えて良さそうです。何より、これまで見て来た様に小田原藩が領内の村々から貢税として集められていた相当量の漆は、こうした城下の塗師の手によってあらゆる物に塗られることによって藩財政の一翼を担っていた訳ですから、そういう点でも小田原は江戸時代の漆の消費地としては比較的大きな存在であったと言えると思います。

2. 大山細工



大山・かつての坂本町のあった辺り
「風土記稿」にもその名が見られる大山細工については、現在は大山の土産物としての独楽にその名残が見えるものの、江戸時代に作られていたという「盒器」が果たして漆器であったのかどうか、委細を明らかにする史料や当時の製品が残っていないのではっきりしません。現在の大山独楽(こま)も一種の轆轤細工で、かつての盒器生産にも同様の技術が使われていたことを窺わせるものではありますが、彩色はその轆轤を回転させて絵筆で線を入れるという手法が用いられており、少なくとも現在の大山独楽には漆を使用していません。

ただ、大山の麓にあった坂本町(現:伊勢原市大山の山麓部)に伝わる文書の中には、同地に塗師が存在したことが確認出来るものがあります。享保9年(1724年)3月の「御触諸色御改帳」と題されたこの史料は、所謂「享保の改革」の一環で物価抑制が図られた折に、あらゆる物の価格改定をまとめたものです。この中に、塗師の手間賃の記述が含まれているのです。

一、塗師手間 右同断(御用十三日ニ可被下候/山上町共十二日取可申候)

但し、町ぬり物塗賃何連茂

一割五分引ニ可仕候

塗師屋

四郎五郎(印)

津大(印)

次兵(印)

(「伊勢原市史 資料編 続大山」140ページより、「同断」が受けている内容を括弧内に追記、強調はブログ主)


つまり、享保9年時点ではこの大山の麓の町では四郎五郎、津大夫、次兵衛という3人の塗師が活躍していたことになります。

「人倫訓蒙図彙」より塗物師
「人倫訓蒙図彙」より「塗物師」図(右から2番目)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
次のページの解説に「仏塗師鞘塗師別にあり」とある
この地の塗師が塗っていたのは挽物ばかりではなく、家具などの指物も含まれていたでしょう。また、大山御師が檀廻、つまり檀家廻りに出掛ける前に仕入れたものの覚書の中に、「一、黒椀 弐具」などと記したものがあり(「天保八年四月 歳中檀札並仕入物控帳」、「伊勢原市史 資料編 続大山」256及び257ページ)、彼らが漆器を檀家に持ち込んでいたことが窺えることから、こうした檀廻に必要となる漆器の調度も坂本町の塗師が受け持っていたと考えられます。他方で、仏像・仏具を製作・修繕する仏師も漆を扱う職人でしたが、坂本町で塗師と別に仏師が塗物を扱っていたかどうかは確認出来ませんでした。ただ何れにしても、大山が江戸時代を通じて参拝者で賑わったことから、その信仰を支える道具の調達に関わるこうした職人の存在が継続的に必要であったと考えて良さそうです。

当然、これらの挽物・指物・仏具類を塗るために必要な漆を常時仕入れておく必要はあった筈です。その量は定かではありませんが、少なくとも常時ある程度の量の漆を使っていたとは言えそうです。

3. 鎌倉の漆器


そして、漆の消費地としてもう1箇所気になるのが、鎌倉です。

鎌倉に幕府が置かれていた頃には、鎌倉は人口5万とも10万とも見積もられる一大都市であり、かなりの数の職人を抱えていたことは確かです。その中には当然塗師も含まれていたことでしょう。


佐助ヶ谷遺跡の位置:現在の鎌倉税務署の辺り
鎌倉の佐助ヶ谷遺跡からは、鎌倉時代後期に当たる13世紀後半から14世紀と考えられる遺物が出土していますが、この中には1,300点余りという大量の漆器が含まれています。これらの漆器が鎌倉外部で仕立てられて鎌倉域内に持ち込まれていた可能性もないとは言えないものの、当時としては大規模な都市になっていたことを考えると、これらの漆器も鎌倉で製作されていたと考える方が自然でしょう。「ものと人間の文化史131 漆Ⅰ」(四柳 嘉章著 2006年 法政大学出版局)によれば、現地から出土した漆器に見られる「型押」の技法について解説した上で、これらの漆器が鎌倉で生産され、全国に配布されたとしています。

型押漆絵漆器の出土率は鎌倉が圧倒的で、原体などの発見はないが周辺で制作された可能性は高く、その分布は飛び石的に列島全域にわたっている。太平洋側では宮城県松島町瑞厳寺境内遺跡から二二点の型押漆絵漆器が出土しており、文様からみて全て鎌倉産漆器と判断できる。西は京都、広島県福山市草戸千軒町遺跡、福岡県太宰府市観世音町南門前面地域、日本海側の石川県以北では石川県加賀市佐々木アサバタケ遺跡、同金沢市堅田B遺跡、新潟県柏崎市枇杷島遺跡、山形県東根市小田島城跡、青森県青森市高間遺跡、北海道余市町大川遺跡などの拠点的遺跡から出土している。だがすべて鎌倉産漆器が運ばれたわけではなく、草戸千軒町遺跡では地の粉漆下地の良品に型押漆絵の加飾があるし、京都や太宰府では独自の文様が使用されるなど、各地でも型押漆絵が模倣されている。しかし、鎌倉産漆器は北条得宗家など鎌倉と深いつながりのある所に運ばれたことは確かであり、すぐれて政治的な側面を持った漆器でもある。

(上記同書201ページより)

当然こうした漆器を製作する上でも漆が相当量に必要であり、当時の鎌倉には何処かしらから漆が持ち込まれていたことは間違いないでしょう。

鎌倉幕府滅亡後の鎌倉府が去ったことによって都市としての鎌倉が衰退し、江戸時代には農村風景へと替わっていたものの、鎌倉にはまだ鶴岡八幡宮や鎌倉五山をはじめとする数多くの寺社が存続していました。これらの寺社が必要とする仏像や仏具の生産・修理を行う仏師が鎌倉に在住していたことが、「鎌倉市史」に収録された当時の一連の仏師の史料で明らかです。これらの中では、仏具の生産・修理に必要となる素材を調達した記録の中に「漆」の文字が時折顔を出し、彼らが漆を常時必要としていたことが窺えます。例えば、宝暦9年(1759年)7月の日付のある「鎌倉後藤左近」という仏師の「注文帳」には

註文

三月十日

一不動尊二童子付漆仕立る、台座作直、火ゑんつくろい直

代金四両

大幡

御隠居様

註文

五月日

一薬師如来十弐神再興漆仕上

代金弐両相定申候

瀬〆漆入用次第被下候

六月ゟ御細工仕候

若柳

宝福寺様

(「鎌倉市史 近世史料編 第一」487ページより、…は中略、強調はブログ主)

等々、仏像の仕上げに漆を使用していることが記されています。また、「大幡」(甲斐国都留郡か)や「若柳」(津久井県若柳村、同地に「宝福寺」が現存)といった遠方からも仏像の注文を請けていることが窺い知れます。

この他にも、「近世史料編 第一」にまとめられた仏師に纏わる史料には、(481〜495ページ)例えば「享保二十一年四月 鶴岡八幡宮仏像修繕帳」(481〜484ページ)にも「塗なおし」「塗箔なをし」等の表現が多数見られるなど、仏像の製作・修繕に当たって漆を使っていることが確認出来る表現が多数含まれています。

KamakuraBori.jpg
鎌倉彫
("KamakuraBori"
by Pqks758 - 漆器の文箱より.
Licensed under CC 表示-継承 3.0
via ウィキメディア・コモンズ.)
一方、鎌倉の漆器として名高いのは「鎌倉彫」ですが、これは中世に宋から伝来した漆の彫り物を真似て作り始められたものとされています。ただ、「鎌倉彫」については江戸時代には特に茶道の道具として人気を博していたことが幾つかの文献で確認されてはいるものの、それらの生産を行っていた工房の事情がはっきりしないので、鎌倉彫の生産が鎌倉でどの程度盛んに行われていたのか、今ひとつ推定し難いところです。

また、これも量的には推し量り難いところがありますが、塗物という点では日本刀の「鞘」を挙げることが出来るでしょう。鞘の漆塗りは一般的な塗師とは別に専門の職人が存在していたことが、上記「人倫訓蒙図彙」(元禄3年・1690年)でも紹介されています。鎌倉には現代まで続く刀の名工「正宗」の末裔が幕府の庇護の下で活動していたことが、「風土記稿」の「山川編」産物にも記されていることから、関連する鞘の製作も近傍で行われていたと考えられます。

現在の鎌倉・広町緑地鎌倉市七里ガ浜など)には鎌倉漆器のための漆を取った名残のウルシノキが生えているとのことです。同地は享保13年(1728年)から天保14年(1843年)までは烏山藩の所領でしたが、それ以外は幕領として韮山代官所の支配下にありました。その様な経緯と併せて考えた際に、この広町緑地のウルシノキが同代官所の漆振興策の際に植えられたものの末裔なのか、あるいは更に時代を遡る産地であるのか、俄に判断は出来ません。ただ、仮に中世からの産地であったとしても、鎌倉の近傍だけで同地で必要となる漆を全て賄い切れたと考えるよりは、もう少し遠方からも取り寄せていたと考えた方が辻褄が合いそうです。その場合、鎌倉辺りになると江戸も相応に近くなりますので、鎌倉で必要となる漆は江戸の漆問屋から取り寄せていた可能性も出て来そうです。勿論、小田原に集められた漆の一部が鎌倉に運び込まれていた可能性も否定できません。鎌倉〜戦国時代の漆流通については江戸時代とはまた異なる状況であったとも考えられます。

また、箱根・小田原・大山といった地域の漆についても、具体的に何処から持ち込まれたものであるかを裏付ける史料を見つけることは出来ませんでした。但し、こちらは立地から考えて丹沢山地や小仏山地の漆が使われた可能性が高く、特に小田原や箱根については小田原藩の動向から考えても藩領内から集められた漆が流通していた可能性は高そうではあります。少なくとも、相模国内で産出された漆が送られた先は必ずしも江戸に限定されていたとは言えず、相模国内の多数の塗師たちの手元へも相当量が送り届けられていたことが窺える様に思います。

次回は近世の宮ヶ瀬遺跡の漆関連の出土品について考えてみます。

  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

NEXT≫
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。