2014年12月の記事一覧

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【小ネタ】「お年玉強請るの、禁止!」

年の瀬に因んで、もう1件正月に関連した文書を紹介して今年の締めにすることにしました。年末で図書館が閉まってしまったので、今手元に借り出している資料以外見られず、ごく簡単な紹介しか出来ませんが。

幕末の嘉永6年(1853年)の正月早々に、津久井県の村々にこんな御触が廻りました。

近来正月之内村〻おいて小児共寄集居、往還泥縄等引張往来之もの迷惑為致、銭ねたり取、飴・菓子抔買喰致を能事心得追〻増長、中ニ者右銭を元手致賭事携候族も有之候哉相聞、物貰同様之所業以之外成儀候、右畢竟親〻共養育方不宜ゟ起候事付、重右躰之儀いたす間敷旨、小児共急度申聞、村役人おいても精〻差止可申、此上廻村先ニ而右様之儀及見聞候得無用捨召捕、夫〻厳重取計致候条心得違之もの無之様、組合村〻小前末〻迄無洩落念入可申聞候、以上、

(嘉永六年)正月

関東御取締出役

以廻状申達候、別紙之趣早〻組合村〻へ致通達、高札場村役人宅前認張出し置、無違失相守可申、村名下令請印順達、留ゟ可相返候、以上、

正月六日

関東御取締出役

相州津久井県

日連村

中野村

右寄場役人

大惣代中

右之通り被仰渡候間、則篤を以申入候間、早〻通達可被成候、以上、

正月九日

右中野村

与頭

元右衛門

太井

小倉

葉山島

上下川尻村

三井

三ヶ木

青野原

右村〻

御名主中

(「神奈川県史 資料編7 近世(4)」513〜514ページより、変体仮名は適宜小字に置き換え)



相模原市緑区三井の位置
この史料は津久井県三井村(現:相模原市緑区三井)に伝わる「御用留」、つまりお上からの通達などを後々のために書き留めておいた「手控え」の中に転記されていたものです。こうした御触は一旦中野村(現:相模原市緑区中野)や日連村(現:相模原市緑区日連)に届いた後、それらの村を拠点にして各々の組合村へと回覧されており、そのうち中野村が筆頭となっていた組合村の名が8つ記され(但し上川尻村・下川尻村は1村の様に記されているので実質7村)、ここに各村が印を捺して回覧されたことを確認する仕来りでした。この触書を高札場や村役人の家の前に掲げて周知する様に指示されていますね。差し出したのが「関東御取締出役」とありますから、恐らくは関東の方々の村々に向けて同様のルートを経て回覧されていると思います。因みにこの役人は、関東の村々の博徒などを取り締まる目的で江戸時代後期に創設された、言わば移動警察隊と言うべき存在でした。

東海道分間絵図より牡丹餅茶屋付近
「東海道分間絵図」より牡丹餅茶屋付近(再掲)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
東海道の茅ヶ崎や吉原で子供たちが宙返りなどをして見せて小遣いをせびっていた例を、以前何度か紹介しました。
江の島辺りでは少々煩わしい程に纏わり付いてくる例もあった様ですが、全体としてはさほど咎められている様子もなく、こうした状況が江戸時代の長期にわたって常態化していたのは確かな様です。ただ、この触書にある様な街道に縄を張って道行く人を引っ掛ける様な悪戯までは流石にしていなかったでしょう。


「近来正月之内」とあることから、恐らくは年明けの「お年玉」稼ぎなのでしょう。無理矢理にでも往来の足を留めさせても銭をせびる様になっていたとあっては「強請(ゆす)り」に近く、その挙句そのお金で買い食いをするだけに留まらず、賭け事(といっても子供同士のものでしょうが)にまで使う様になっていた、という事態が役人の耳に入った様です。賭け事の件は「相聞」とありますから、飽くまでも役人が聞いた限りではということでしょうが、何れにせよここまでエスカレートしては流石に見て見ぬ振りは出来ないということで、「もっときちんと躾をしろ」という御触が廻ったという訳です。

1853Yokohama 01.jpg
黒船来航を描いたアメリカのリソグラフ
("1853Yokohama 01"
by Lithograph by Sarony & Co., 1855,
after W. Heine - Library of Congress.
Licensed under パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.)
嘉永6年、1853年と言えば、ペリー率いる黒船船団が浦賀に入港した年です。またこの2年前には「天保の改革」で一旦廃止された問屋・株仲間が再興されるなど、経済の混乱振りが際立つ様になっていました。この様な時期に出された御触ということもあり、こうした子供たちの素行に当時の世相の混乱ぶりが現れていたのかも知れません。もっとも、「関東御取締出役」という役人の立場故に殊更に事を大きく捉えている可能性もあり、こうした悪事が本当に子供たちの間で横行していたと考えて良いかどうかは、もう少し他の史料と重ね合わせて見る必要があります。

この様な御触が出てしまったとなると、東海道筋で長年子供たちが続けてきた宙返りの稼ぎなども、併せて禁止とされてもおかしくはありませんが、実際の所はどうだったのかも気になるところです。機会があれば、またこれらの裏付けとなる様な史料を漁ってみたいと考えています。



今年の更新は以上です。多大なアクセスをいただきまして誠にありがとうございました。皆様どうぞ良いお年をお迎えください。
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【小ネタ】小田原藩の正月飾りの年貢免除について

「漆」の話の続きがまだ上手くまとまらないこともあって、年の瀬に因んだ話題を取り上げることにしました。まぁ、このの慌ただしい時期にあまり重い内容のものを書くのもどうかということもありますし…。

元禄2年(1689年)11月7日、小田原藩から村々に対してこんな触書が廻されました。

一蜜柑・柚子・大和柿・小渋柿、年貢

一正月御飾道具品々

右之分、

前々ゟ納来候といへとも、以御慈悲今年ゟ御赦免被仰出候間難有可奉存候、自今以後ハ猶以随分(精)を出シ毎年植木仕立可申候、若疎略いたし候ハヽ可為不届候

右之通、小百姓・無田之者迄可為申聞者也

元禄弐年十一月七日

河村新介(判)

戸田与兵衛(判)

郡八郎右衛門(判)

右本御書出シ成田村勘介御預ケ置被為遊候

(「山北町史 史料編 近世」466ページより、強調はブログ主)


ODAWARA-CASTLE.JPG
小田原城復元天守
("ODAWARA-CASTLE"
by pyzhou - 投稿者自身による作品.
Licensed under CC 表示-継承 3.0
via ウィキメディア・コモンズ.)
この年の小田原藩の藩主は大久保忠朝、それまで稲葉氏が治めていた小田原藩に加増の上で国替えされたのが3年前の貞享3年(1686年)で、その年に村々から明細帳を提出させて年貢などの実情を把握していました。その実情を吟味した上で、村の貢税の中からこの触書に記されたものについては元禄2年から免除と相成った訳ですね。これらのうち蜜柑や柿については「新編相模国風土記稿」の産物一覧にも登場する品目ですので後日改めて取り上げるとして、今回は2番めの項の正月飾りに絞って話を進めます。

そもそも各村が正月飾りをどの様に世話していたのか、集められた村明細帳を見て判断された訳ですから、実際その旨について書かれた明細帳は多数伝わっています。今回は「神奈川県史 資料編5 近世(1)」に掲載された村明細帳から、該当箇所を抜書きしてみます。

  • 足柄下郡宮上村(現:足柄下郡湯河原町宮上):寛文十二年八月明細帳

    一正月御かさりいも御かさり道具御江戸へ積(送)申候、運賃御礼銭共毎年出し申候、

    (同書449ページより、以下変体仮名は適宜小字にて表記)

  • 足柄上郡高尾村(現:足柄上郡大井町高尾):貞享三年四月明細帳(田畑指出し帳)

    一正月御(かざり)道具(者カ)御用次第納申候、

    一同御餝道具江戸廻舟賃、御礼銭銀八分五リン納申候、

    (同書453ページより、傍注は同書に従う、読みがなはブログ主)

  • 足柄上郡金手村(現:足柄上郡大井町金手):貞享三年四月明細帳(指出帳)

    一正月御餝道具江戸廻り舟賃(以下脱文カ)

    一殿様へ正月御礼三筋ゟ惣代名主壱人宛江戸へ罷越候、指上ヶ物組合之村ニ而出し申候、

    (同書460ページより)

  • 足柄上郡西大井村(現:足柄上郡大井町西大井):貞享三年四月明細帳(差出帳)

    一正月御餝藁・牛房壱束半出シ申候、

    一正月御餝道具江戸廻り舟賃出申候、

    一殿様正月御礼三筋ゟ名主壱人ツヽ、惣名代江戸へ罷越指上物割苻次第出申候、

    (同書467ページより)

  • 足柄上郡苅野本郷村(現:南足柄市狩野):貞享三年四月明細帳(指出帳)

    一殿様正月御餝道具・藁・門松・杭木・牛房江戸廻り(運)賃・御礼銭・名主番路銭共出申候、但高下有之候、

    (同書476ページより)

  • 足柄上郡苅野一色村(現:南足柄市苅野):貞享三年四月明細帳(村指出シ)

    一正月御餝道具・御門松・杭木・牛房御配苻次第納申候、但シ御門松之儀、毎年御林ニ而山御奉行様御指図伐納申候、江戸廻り舟賃・御礼銭・名主路銭差出シ申候、但シ年ゟ高下御座候、

    (同書482ページより)

  • 足柄上郡皆瀬川村(現:足柄上郡山北町皆瀬川):貞享三年四月明細帳(指出帳)

    一正月御飾道具門ぐい・鬼打木・炭弐表、但シ江戸廻シ運賃高割ニ而納申候、

    (同書487ページより)

  • 足柄上郡山北村(現:足柄上郡山北町山北):貞享三年四月明細帳(差出帳)

    一正月御餝藁・松竹、御林ゟ伐納申候、牛房・土芋・ひいらき・藪紺子(ママ)・大豆柄・串柿出し申候、

    一正月御餝道具江戸廻舟賃出し申候、

    一殿様江戸御礼三筋ゟ名主壱人宛惣名代江戸へ罷越、差上ヶ物御割苻次第銭出し申候、

    (同書493ページより)

  • 足柄上郡都夫良野村(現:足柄上郡山北町都夫良野):貞享三年四月明細帳

    一正月御餝道具門ぐい・鬼打木毎年納申候、

    (同書499ページより)

…いい加減キリがなくなってきたので以下は引用を省略します。「神奈川県史 資料編5」では、この後貞享3年付の村明細帳が
と9ヶ町村分が掲載されているのですが、このうち正月飾りに関する記述が「なかった」のが箱根小田原町のみで、あとは全部何らかの形で正月飾りの献上を行っていたことが記されています。もっとも、箱根宿の成立した経緯を考え合わせると、そもそも献上できる品を一切生産出来ない特殊な町であったためにこれらの献上を免れていたと言えます。従って、実質的にその様な制約のない全ての村が正月飾りの献上や名主の参上を行っていたと言って良いでしょう。村明細帳が伝わっていない小田原藩領の村々も同様であった可能性が高そうです。

江戸名所図会より「元旦諸侯登城之図」
長谷川雪旦画「江戸名所図会」
(初版天保5~7年・1834~36年)より
「元旦諸侯登城之図」
(「国立国会図書館デジタルライブラリー」より)
これらの正月飾りの運び込まれる先は小田原城下だけではなく、江戸屋敷が含まれています。江戸屋敷までは舟で運び込まれ、その舟賃も各村の負担になっていました。先代の稲葉氏は老中など幕府の重役を務める地位にあったため、相応の格式を対外的に示す目的で、かなり派手に門松などを江戸屋敷に飾り付けていた可能性が高そうではありますが、それにしてもこれほど多数の村々が参画する程のものだったのか、「毎年」という記述がしばしば見えるので各村とも例年年の瀬にこれを行っていたのでしょうか。村によっては「御配苻次第」と記されているので、割り当てが必ずしも毎年ある村ばかりではなかった様ですが、それにしても藩内の村の数を考えると、それ程多数の村が正月飾りの類を出していたというのは少々不思議な感じがします。

また、単に正月飾りを献上していたのみではなく、村の名主のうち「三筋ゟ名主壱人宛」、つまり小田原藩の東筋・中筋・西筋それぞれから1名ずつ「総名代」がわざわざ江戸まで正月の「お礼参り」に参上していたことも併せて記されています。そのために道中必要となる諸経費も名主が負担していた様です。ということは、これらの飾りも言わば「お歳暮」と呼ぶべき品々であったのかも知れません。ご祝儀という面もあったためか、「高割」つまり割増になっていた点も併せると、相当な負担を村々が負っていたことになります。


それらの品物の中に「牛房」という記述が複数箇所で見られるのはお節料理用でしょうか。確かに江戸時代には煮染めの牛房がお節の一品として定着していた様ではありますが。他に「いも」「串柿」といったやはりお節に使われそうな品目の名も含まれています。上記では引用を省略しましたが、新井村からは「海老」も献上されていたことが記されています。また、こういう用途であれば公儀ということで藩の御林の竹木を伐って使っていたことも窺えます。

それにしても、例年村々にこの様な対応を続けさせていたのは、その分量から考えるに、実際に必要があってのことと言うよりは、寧ろ大名などから将軍に対して行われていた「献上品」と同じ傾向が見て取れる様に思えます。何時頃からこの様なことが行われる様になったのかは詳らかではありませんが、上記村明細帳に1点寛文12年(1672年)のものが含まれていることから、少なくとも稲葉氏が治めていた時代には継続されていた可能性が高そうです。これらの品々を受け取った江戸屋敷が正月にどの様な状況になっていたのかがわかる史料がないか、また小田原藩以外の、特に親藩譜代など格が高いとされていた藩の正月飾りにどれだけ領内の村々が関わっていたのか、機会があれば探してみたいものです。

元禄2年の小田原藩の触書は、こうした実情を把握した上で村々の負担を考慮して廃止の判断を下したものなのでしょう。11月ということであればそろそろまた年明けに向けて手筈が動き出す頃で、その直前にストップを掛けたものと言えそうです。
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津久井県の「漆」:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回に続き、「新編相模国風土記稿」の山川編津久井県図説で紹介された漆について取り上げます。今回は津久井県以外の相模国内の産地について見ていきます。

これまでも延々と見てきた通り、江戸時代の産物に関する史料は、全般的に多くを期待出来ないのが実情ではあります。ただ、漆の場合は前回の津久井県以外でも貢税の対象となっていた村が多く、各村の村明細帳などの文書に記録が残る機会が比較的多かった様です。相模国内の全ての明細帳を調べ上げるところまでは出来ていませんが、まずは私が見出せた範囲で「神奈川県史」や各市町史に収録された村明細帳から、特に江戸時代初期のものを並べてみます。それでも文量が相当に多くなってしまったので、文字を縮小して右脇に表示させました。

江戸時代初期(元禄頃まで)の村明細帳に見える漆貢税:

  • 足柄上郡:
    • 山北村(現:足柄上郡山北町山北):貞享三年(1686年)四月十一日 差出帳

      一漆五貫七百九拾壱文、是ハ先年漆百目付永七拾五文御年貢御次被下候得共、納漆三割御引捨被遊、残漆其以後浮役被仰付候

      (「山北町史 史料編 近世」189ページより、以下同書の引用分は全て返り点類は省略)

    • ■都夫良野村(現:足柄上郡山北町都夫良野):寛文十二年(1672年)八月 書上帳

      一漆四百九拾五匁毎年納申候

      (「山北町史 史料編 近世」219ページより)

    • ■川西村(現:足柄上郡山北町川西):貞享三年(1686年)四月 指出帳

      一漆壱貫五百五拾四匁上納、先規ハ漆百匁付永七拾五文御年貢御次被下候ヘ共、納漆三割御用捨被遊、残漆其以後浮役被仰付候

      (「山北町史 史料編 近世」243ページより)

    • 神縄村(現:足柄上郡山北町神縄):貞享三年(1686年)四月(指出帳:表紙記載がないため仮題)

      一漆弐百六拾弐(匁)上納、先規ハ漆百目付永七拾五文御年貢御次被下候ヘ共、漆三割御引捨被遊、残漆を以後浮役被仰付候

      (「山北町史 史料編 近世」252ページより)

    • 平山村(現:足柄上郡山北町平山):寛文十二年(1672年)七月二十五日 村鏡之書上ヶ之帳

      一漆三百八拾三束毎年納□□□□

      (「山北町史 史料編 近世」273ページより)

    • ■谷ヶ村(現:足柄上郡山北町谷ケ):貞享三年(1686年)四月九日 指出帳

      一漆三百六拾三匁  かすごし(滓漉カ)仕、上納仕候

      (「山北町史 史料編 近世」278ページより)

    • 塚原村(現:南足柄市塚原):寛文十二年(1672年)九月 明細帳(村鏡)

      一漆五拾三匁宛毎年納申候、

      (「南足柄市史2 資料編近世(1)」134ページより、以下同書の引用分は全て返り点類は省略)

    • 怒田村(現:南足柄市怒田):寛文十二年(1672年)七月 明細帳

      一漆三百三匁宛毎年納申候、

      (「南足柄市史2 資料編近世(1)」266ページより)

    • □菖蒲村(現:秦野市菖蒲):
      • 寛文十三年(延宝一年・1673年)明細帳

        一漆弐貫四百六拾目 毎年上納仕候。

        (「秦野市史 第2巻 近世史料1」156ページより)

      • 貞享三年(1686年)四月 明細帳

        一漆弐貫四百六拾目 浮役

        (同書162ページより)

    • 柳川村(現:秦野市柳川):寛文十二年(1672年)八月 明細帳(村かゝみ)

      一漆(四)百八拾九匁 毎年上納仕候、

      (「神奈川県史 資料編5 近世(2)」445ページより)

    • 高尾村(現:足柄上郡大井町高尾):貞享三年(1686年)四月 明細帳(田畑指出し帳)

      一漆弐百七拾四匁年〃上納仕候、

      (「神奈川県史 資料編5 近世(2)」453ページより)

  • 大住郡:
    • 東田原村(現:秦野市東田原):元禄12年(1699年)明細帳

      一漆弐百七拾匁 代物相場ヲ以差上申候。

      (「秦野市史 第2巻 近世史料1」117ページより、なお、同村は相給の村で、漆が納められていたのは鵜殿領のみ。逸見領からは納められていない。)

年次が比較的近いものが多いのは、その年に藩主の交代(例えば貞享3年に稲葉氏から大久保氏に交代)などがあって、改めて領地の実態を掌握する必要があったために村々から村明細帳を提出させたためです。従って大筋で寛文〜元禄の頃の様子を見ていることになりますが、この頃には少なくとも丹沢山地のかなりの村々が漆の生産を行っていたことが窺えます。前回取り上げた津久井県も含め、丹沢を中心とした山間の村々で少しでも漆が産出できるところには、相応に貢税を課したと言えそうです。

しかしながら、宝永4年(1707年)の富士山の噴火による火山灰は、漆の生産にも大きなダメージを与えたことが、この年以降に作成された村明細帳などに色濃く現れています。上記の一覧の村名の前に「■」を付けた村については、宝永噴火後の村明細帳が残っているため、その前後の状況を比較することが出来ます。以下の一覧でも対応する村名の前に「■」を付しました。

宝永噴火によって漆貢税が免除された村々:

  • ■都夫良野村:
    • 享保六年(1721年)七月 村鑑帳

      一浮役物 漆目四百九拾五匁、亥深砂積漆株枯候付当分

      御料所之内御免

      (「山北町史 史料編 近世」225〜6ページより)

    • 延享三年(1746年) 村鑑帳下書

      一浮役物 漆目四百九拾五匁亥深砂積漆株枯候付御免

      (「山北町史 史料編 近世」229ページより)

  • 湯触村(現:足柄上郡山北町湯触):
    • 宝永五年(1708年)二月 指出帳

      一漆五百四匁納入候ヘ共去亥年御免(〃〃〃〃)

      五年以前申年ゟ御免

      (「山北町史 史料編 近世」232ページより)

    • 享保六年(1721年)三月 村鑑帳下書

      一漆五百四匁           浮役

      是降砂以後枯無御座候付御赦免

      (「山北町史 史料編 近世」234ページより)

    • 元文三年(1738年)二月 村鑑下書

      一浮役物

      漆五百四匁亥深砂積り漆株□□□

      当分(〃〃)御料所之節ゟ段々御免

      (「山北町史 史料編 近世」237ページより)

  • ■川西村:延享三年(1746年)一月 村鑑帳

    一漆壱貫五百五拾四匁 亥深砂積り漆木枯候付御料所之節ゟ御免被遊候

    (「山北町史 史料編 近世」248ページより)

  • ■谷ヶ村:
    • 享保六年(1721年)三月 村鑑下書

      一小物成 漆三百六拾三匁上納仕候得共、亥ノ深砂積、漆株枯候付御免、山銭永壱貫三百四拾七文上納仕候得共、亥ノ降砂前之入会之川西村山(附)村山、未ノ年大地震・亥ノ降砂上道留リ、入会不仕候付御免

      (「山北町史 史料編 近世」282ページより)

    • 元文三年(1738年)二月 村鑑帳

      一漆三百六拾三匁

      是ハ、亥降砂ニ而漆株枯候付、御免除

      (「山北町史 史料編 近世」286ページより)

    • 延享三年(1746年)一月 村鑑帳

      漆三百六拾三匁(〃〃〃〃〃〃〃)

      >是ハ亥降砂ニ而漆株枯(〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃)ニ付、御免除

      (「山北町史 史料編 近世」289ページより)


各村の村明細帳などの文書の残存状況には差がありますので、これらの村だけが宝永噴火の影響を被ったと考えることは出来ず、大凡でここに記載された村を含め近隣の村々でも同様に漆の生産が止まり、貢税を免除せざるを得ない事態に追い込まれたと考えるべきでしょう。実際、後で見る様に山北村(川村山北)も宝永噴火後から貢税を長年免除されていたことが、別の文書で明らかです。また、漆以外の山林の産物については入会地に入る際に領主に払う「山銭」がありましたが、谷ヶ村の項では山西村や世附村(現:足柄上郡山北町世附)の入会地に入るために支払っていた「山銭」も免除されていたことが、享保6年の明細帳の下書きに記されています。

この宝永噴火の影響はどの程度の範囲に及んだのでしょうか。足柄上郡菖蒲村の元文元年(1736年)7月の村明細帳によれば、

一浮役物 漆弐貫四百六拾匁 御料所へ上納

一享保三戌年小田原宿新助郷被仰付候得共、亥ノ降砂故大変困窮場御座候付、願之上助郷役御免被下置候

一当村之儀田形黒土・真土、畠方野土て御座候処、亥ノ降砂て砂地罷成、田畑共年々旱損仕候。寒暑之儀江戸御表より寒御座候。

(「秦野市史 第2巻 近世史料1」167、170ページより、…は中略)

菖蒲村も降灰の影響を受けた地域のうちにあって田畑の土が砂地になってしまい、それによって村が困窮している事情を斟酌して小田原宿の継立役を免除されていることが記されています。しかしながら、その同じ明細帳上に記された漆の貢税については、上記の寛文13年の明細帳(一覧上で「□」を村名の前に記しました)と変わらぬ量を納めていることが記されています。宝永噴火から30年程が経過していることから、噴火直後の事情については定かではありませんし、また貢税が生産実績を反映しない定額となっていたことから、漆の生産に全く影響がなかったとまでは断言出来ないものの、少なくとも菖蒲村の漆は貢税が減免される程の減産には至らなかったか、あるいは比較的早く富士山噴火前の状態に復帰したことが窺えます。

また、津久井県太井村の享保19年(1734年)6月の村明細帳(村鑑)でも

一永弐貫九百七拾五文弐分           漆納

此漆四貫弐百五拾目三分四リン 但漆壱貫目付永七百文ツヽ御年貢御引被下候、

一永七貫九百七拾三文五分           漆代永上納

但漆壱桶付金七両弐分ツヽ之代金納仕候、

一永弐貫三百七拾九文八分           漆

去丑年ゟ未年迄七ヶ年御免、

(「神奈川県史 資料編7 近世(4)」529〜530ページより)

比較となる宝永噴火前の明細帳がないので、減免の有無までは断定出来ませんが、漆の生産自体は問題なく行われていた様です。因みに、前回取り上げた「控帳」上の太井村の貢税よりも、この享保19年の貢税の方が多くなっています。

宝永噴火後の漆貢税の免除の有無
宝永噴火後の漆貢税の免除の有無
Googleマップのスクリーンショットに加筆)
宝永噴火時の降灰分布(富士山ハザードマップ検討委員会中間報告資料)
宝永噴火時の降灰分布
富士山ハザードマップ検討委員会中間報告資料
これらの村々を地図上でプロットしてみると、漆の貢税を免除された地域はほぼ丹沢山地の南部に集中していることがわかります。この図に未見の史料を更に追加した時に同様の傾向が維持されるかどうかは未知数ですが、この分布と、宝永噴火時の富士山の降灰分布(内閣府防災担当「富士山ハザードマップ検討委員会中間報告資料」より)を比較すると、富士山に特に近く、降灰量が比較的多い、大筋で64cmの線の範囲内に漆貢税が免除された村が位置している様に見受けられます。菖蒲村や太井村は富士山から比較的離れており、特に太井村は北方に離れた場所にありますので、降灰量が比較的少ない場所に位置していたために、漆の減産を免れたと言えそうです。

前回取り上げた日付のない「津久井県 上下組合村〃正漆納・代永納仕分控」も、もしこれが宝永噴火の後に記されたものであるとするならば、漆の貢税がなかったり少なかったりした村々のうち、少なくとも足柄上郡に近い南の青根村・鳥屋村・青野原村といった村については、やはり火山灰の影響が現れた地域であったと判断することも可能かも知れません。そういう意味でも、この「控帳」が作成された日時をある程度でも絞り込むことが重要になってくる訳です。もっとも、仮にこの文書が宝永噴火後に作成されたものであったとしても、津久井県の東側の村々の貢税がなかったり少なかったりする点については、位置関係から見て同様に火山灰の影響があったとは考え難いので、他の要因からの説明も併せて考える必要はあります。

では、この宝永噴火の影響は何時頃まで続いたのでしょうか。上記の村明細帳でも、延亨3年、つまり宝永噴火から40年近くが経った頃になってもなお漆の貢税が免除されていることが確認出来ます。更に時代が下って、安永4年(1775年)5月になって川村山北が漆枯絶について漆年貢免除を願い出た際の文書が現地に伝えられています。

乍恐以書付奉願上候御事

一当村之儀宝永四亥年之降砂、余村違、吹込之場所御座候故別深砂罷成候処、翌子年ゟ田畑掘返開発仕候内、皆瀬川ゟ夥敷砂押出、砂地五六尺ゟ壱丈弐三尺迄之深砂罷成候付、其節迄有来候漆株不残枯絶申候、依之伊奈半左衛門様御代官所之節、漆御年貢皆無御用捨被仰付、御慈悲之御隣愍を以、是迄御用捨被成下置難有仕合奉存候、然ル処、当未年ゟ漆御年貢御上納仕候様被仰付奉畏候、前書奉申上候通、漆株枯絶候付、其已後度々植申候得共、深砂之上御座候故、就一向植附不申候、漆株無御座候付、先達御用捨之義奉願上候所、右御願書御下被下置候付、其段小前御百姓共申聞候得共、又候私共迄申出候、漆株一向無御座候漆御上納仕候義難儀至極奉存候間、何分奉願上呉候様再応申候付、不奉得止事奉願上候ハ、何卒御(慈カ)悲を以、村形御見分之上只今迄之通、漆御上納之義御用捨被成下置候様奉願上候様奉願上候、右奉願上候通、被仰付被下置候ヽ、難有可奉存候、以上

安永四乙未年五月   河村山北

弥太右衛門(印)

治兵衛(印)

治左衛門(印)

蔵(印)

孫右衛門(印)

六左衛門(印)

百姓代庄右衛門(印)

孫兵衛(印)

中村郷右衛門様

岩崎甚助

(「山北町史 史料編 近世」878ページより)


田畑については積もった火山灰を掘り返して元の肥沃な土壌を掘り出したことが、「翌子年ゟ田畑掘返開発仕候」と書かれていますが、これは「天地返し」と呼ばれ、数十センチの土砂を掘り返した痕跡が河村城跡のみかん畑の発掘調査(リンク先PDF:252〜254ページ)によって確認されています。しかしこの村の場合、皆瀬川が火山灰を流下させてくる影響もあって、火山灰の厚みが「五六尺ゟ壱丈弐三尺迄」、つまり約1.5〜3.6m程にもなってしまっていたとしており、これでは「天地返し」の様な作業も行えず、漆の木が枯絶してしまったことから長年貢税を免除されていた訳です。それから相当に年数が経過したことからそろそろ良いのではないかと考えた領主側が、「当未年」つまりこの文書が書かれた安永4年から漆の貢税を復活させようとしたのですが、相変わらず漆の木が一向に戻って来ていないので、現状を確認の上で漆の貢税については引き続き免除をお願いしたい、というのがこの文書の主旨です。この文書が書かれた時点で宝永噴火からは70年近くが経過しているにも拘らず、漆の栽培は未だに出来ない状況が続いていたということになります。

この点については、「山北町史 通史編」でも

なお安永四年(一七七五)十一月に小田原藩が神縄村に出した「年貢割付状」によれば、同村に対し「漆弐百六拾弐匁 浮役」を半分(一三一匁)ずつに分割して納めるなかで、そのうちの半分については、「亥の年(宝永四年)の砂降り以後、用捨(ようしゃ)(免除)していたところだが」、今後は九年後の「辰年(天明四年〈一七八四年〉から納めよ」とし、また残り半分についても同じく「用捨してきたが、当年から納めよ」としている(神縄 山崎家文書)。また安永七年の「年貢割付状」では、同じく半分を「辰年(天明四年)から納めよとしたが、それを申年(天明八年)からとする」と四年間延期し、他の半分は「去る未年(安永四年)から納めよとしたが、去る酉年(安永六年)より三年免除して、来る子年(安永九年)から納めよ」としている(同家文書)。すなわち漆の納入は実際には延期しているのであり、いい方を代えれば、未だに延期せざるをえない状況だったのである。したがって小田原藩による富士噴火からの「復興」という状況判断への「思惑(おもわく)」は、現実にはなお厳しいものがあったのではないだろうか。

(「山北町史 通史編」456ページより)

と、周辺各村とも引き続き漆の貢税が延期され続けていた実情を説明しています。財政の苦しい小田原藩としては少しでも貢税の復活に望みを繋ぎたいところが、なかなか思う様にならなかった実情が窺えます。

なお、川村山北の文書では富士山から直接降り積もった火山灰の影響だけではなく、皆瀬川が流下させて来る火山灰の影響についても記していることから、漆の活着を妨げる原因を考える上では、富士山からの相対的な距離による降灰量の多寡のみではなく、丹沢山地の地形上による影響も加味して考える必要があるかも知れません。

前回引用した「ものと人間の文化史131 漆」では、ウルシノキの生育条件として「肥沃な砂礫混じりの土壌と十分な日光や炭酸ガスの供給」を挙げていました。富士山の積もらせた火山灰が凡そ肥沃とは言えない砂であったことは間違いなく、だからこそ「天地返し」の様な大変な労力を要する作業を敢えて行っても元の土壌を掘り出す必要があった訳ですが、ウルシノキにとってもそうした土壌が失われた土地ではなかなか生産を再開できる状況にはならなかった、ということになるでしょう。

江戸時代にあっては、博物学への関心が高まっていく機運はあったとは言え、こうした火山の噴火によって植生にどの様な影響が現れたのかを隈なく調査する方向の研究はありませんでしたから、富士山の宝永噴火によって丹沢山中のどの植物が特がダメージを負ったのかを詳らかにすることは出来ません。そうした中にあって、漆については小田原藩をはじめとする代々の領主にとっても財政の一翼を担う産物であったことから、噴火の影響が垣間見える史料が比較的多く残っており、富士山の噴火史を考える上でも重要な記録と言えるのではないかと思います。

今回は特段に引用文書の量が増えてしまったので、記事全体がいつも以上に長くなってしまいました。次回は江戸時代の漆の流通や、江戸時代後期の漆の生産について見ていきます。

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津久井県の「漆」:「新編相模国風土記稿」から(その1)

新編相模国風土記稿」に記された産物一覧から、今回は「漆」を取り上げます。

  • 山川編(卷之三):

    ◯漆津久井縣中村村に產す、年年貢税とす、

  • 津久井県図説(卷之百十六 津久井縣卷之一):

    ◯漆縣中村々に產す年々貢税とす、

(以下、「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)


山川編津久井県の記述はほぼ同一ですが、津久井県内の村々の記述にはこれを補足するものは見当たりません。


御承知の通り、漆はウルシノキから取れる樹液を元に精製される塗料です。「倭名類聚抄」にも記されていることから古代から利用されていたことは確実で、「ものと人間の文化史131 漆」(四柳 嘉章著 2006年 法政大学出版局、2巻本)には縄文時代の北陸・関東以北の漆の利用事例が窺える遺跡の出土事例が紹介されています。その栽培適地については同書では

多く漆液(以下漆と略)が分泌されるためには、葉がたくさん付きやすいように、枝の横への成長が盛んになることが必要である。枝が太いのはそのためだ。そして同化作用が活発になるように、肥沃な砂礫混じりの土壌と十分な日光や炭酸ガスの供給が欠かせない。日陰や湿地に植えられたものは下枝が少なく、成長が不十分で採取量も少ない。適地は家屋の周囲、河岸、山麓、河川の堤防など、十分に枝が張れるところで、土壌条件のよいところである。こうしてみれば、適地を選んで適切な管理をしないと、十分な漆が採取できない手間のかかる樹木であり、縄文時代から管理・栽培が行なわれていた可能性を検討する必要がありそうだ。

(上記書Ⅰ巻4ページより)

と、山地だけではなく民家の周囲でも条件が揃えば栽培が可能であることを指摘しています。実際、「神奈川県植物誌 2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)によれば、

ウルシ属 Rhus L.

落葉高木または低木、ときにつる性の木本。葉は互生し、奇数羽状または3出複葉。花は雌雄異株または雌雄雑居性。葉腋または頂生の円錐花序を出す。萼、花弁、雄しべは4〜6個。子房は上位1室、花柱3、核果はやや偏平。本属は一般に秋に紅葉する。温帯〜熱帯に150種がある。日本に6種1変種があり、この内1種はウルシで栽培され逸出している。

(2)ウルシ Rhus verniciflua Stokes

高木。葉は奇数羽状複葉、葉柄、葉表、下面脈上に開出毛が密にある。小葉は大きく、3〜6対。雌雄異株。中国〜インド原産。ウルシ採取のため栽植され、丘陵に逸出している

(上記書952、953ページより、強調はブログ主)

としており、同書の分布図によれば川崎市と三浦半島を除く神奈川県全域に標本確認実績のマークが記されています。現在県内では漆の産出は行われなくなっていますが(日本全体でも漆は大半を輸入に頼っているのが現状です)、植生上はまだかつての名残を留めていると言えそうです。

和漢三才図会巻83漆
「和漢三才図会」から「漆」
(「国立国会図書館デジタルライブラリー」より)
「物を䰍りて色潤美(うるはし)の略なり」と
「うるし」の名称の語源が示されている
「䰍」も「うるし」の意だが送り仮名から
「ぬりて」と訓を宛てる意図か
江戸時代の漆の用法について、「本草綱目啓蒙」では

後實を結ぶ圓扁大さ一分餘多く下垂す熟すれば外皮淺黄褐色この實より採蠟をうるし蠟と云はぜ蠟より上品なり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」よりブログ主翻刻、カタカナをひらがなに置き換え)

と、その実からは蝋が採れることも紹介していますが、やはり主な用法は塗料となる漆を採る方でしょう。

漆樹の皮に鋸めを附おけば油脂出るを刮り採者即物をぬる漆なり唐山にては竹管を皮中にさし入おき油脂流れ出るを採と云 本邦と採法異なり奥州羽州野州より出るを せしめ漆と云力強して上品なり物を接に用ゆ日州より出るは小細工に用ゆ和州芳野より出るは力弱し朱漆に用ゆ越前より出るは下品なり

(同上)

ここでは東北から北関東にかけて産する漆を上品とする見解が紹介されていますが、相模国から出る漆についての記載はありません。

「風土記稿」では津久井県の各村が年々産出し、その中から税を納めていると記すのみで、どの村が産出していたか等について委細の明記がありません。ただ、この貢税の実情を書き記した文書が同地に伝わっており、これが「神奈川県史」に収録されていますので、まずはこの史料を分析することから始めたいと思います。

この文書には「津久井県 上下組合村〃正漆納・代永納仕分控」と表紙が付されており、「神奈川県史 資料編9 近世(6)」の970〜975ページに収められています。津久井県の村々から収められる漆の税の内訳(物納分と金納分)を一覧としてまとめ上げたものであり、かつての名倉村(現・相模原市緑区名倉)に伝わる文書です。以下ではこの文書を「控帳」と略することにします。

そこで、この史料に津久井県のどの村が含まれているのかを明らかにするため、これを「新編相模国風土記稿」に記された津久井県の29の村と照合してみることにしました。「控帳」では代永、つまり金納された分についての金額も記されていますが、ここでは対象となった漆の重量の方のみ示します。目安となる様に簡易的にkg換算したものを傍らに添えました。

「新編相模国風土記稿」の津久井県の村々と「津久井県 上下組合村〃正漆納・代永納仕分控」の照合一覧
村名貢税
風土記稿控帳正漆代永
百十七千木良村三貫五拾壱目11.44 kg弐貫八百拾五匁七分10.56 kg
若柳村弐貫目7.5 kg弐貫六百目9.75 kg
寸澤嵐村弐貫八百八拾壱匁六分10.81 kg四貫七百六拾八匁四分17.88 kg
百十八與瀬村八貫九百三拾五匁33.51 kg拾壱貫三百三拾壱匁七分42.49 kg
小原宿
吉野宿四貫目15 kg四貫四百六拾六匁七分16.74 kg
澤井村四貫匁15 kg弐貫八百匁10.5 kg
百十九佐野川村七貫九百九拾九目30.00 kg拾弐貫百七拾七匁七分45.67 kg
小淵村五貫五百拾九匁20.70 kg五貫八百四拾七匁七分21.93 kg
名倉村六貫目22.5 kg五貫五拾六匁七分18.96 kg
百二十日連村五貫六百六拾五匁21.24 kg五貫三百八匁四分19.91 kg
牧野村八貫八百三拾目33.11 kg九貫三百拾三匁三分34.92 kg
靑根村
百二十一鳥屋村
靑野原村百三拾八匁七分 0.52 kg弐百六拾壱匁三分 0.98 kg
中野村弐貫六百三拾六匁三分 9.89 kg三貫九百九拾七匁14.99 kg
靑山村壱貫四百三拾六匁六分 5.39 kg弐貫九拾六匁七分 7.87 kg
三ヶ木村弐貫六百八拾弐匁五分10.06 kg四貫八百匁八分18.00 kg
又野村九百弐拾五匁 3.47 kg壱貫九拾壱匁七分 4.09 kg
百二十二長竹村上長竹村五百七拾五匁壱分 2.16 kg六百七拾四匁九分 2.53 kg
下長竹村五百三拾四匁九分 2.01 kg八百三拾壱匁七分 3.12 kg
根小屋村壱貫拾七匁五分3.82 kg九百八拾弐匁五分 3.68 kg
百二十三太井村弐貫八百六拾七匁五分10.75 kg四貫七百八拾弐匁五分17.93 kg
三井村壱貫五百弐拾六匁三分 5.72 kg弐貫五百九拾匁四分 9.71 kg
上中澤村弐百弐拾八匁 0.86 kg三百弐拾壱匁八分 1.21 kg
下中澤村三百三拾目 1.24 kg五百弐拾匁弐分 1.95 kg
上川尻村
下川尻村百八拾五匁 0.69 kg三百三拾壱匁五分 1.24 kg
小倉村弐貫三拾五匁 7.63 kg三貫百七拾五匁11.91 kg
葉山島村四貫壱目15.00 kg七貫五拾五匁七分26.46 kg
右之寄八拾貫目300 kg百貫目375 kg
  • 村名は「新編相模国風土記稿」上の出現順に並んでいるため、「控帳」の順序とは必ずしも一致しない。
  • 重量の表記は「控帳」に出現する表記をそのまま転記した。その際、冒頭の「漆」表記は除外した。
  • kgへの重量換算はGoogleを使用、小数点第3位を四捨五入した。従ってkg側の合計は必ずしも合致しない。

「風土記稿」上で「長竹村」(現:相模原市緑区長竹)と表記されているところが「控帳」上では「上長竹村」「下長竹村」と2つに分けて表記されていますが、これについては「風土記稿」でも

舊と一村にして後世分て上下二村となる、然れども田園山林及び民家に至ま駁雜して上下の經界を分ちがたし、仍て今茲に上下に村をすべて綴る、

(卷之百二十二 津久井縣卷之七より)

としており、特に2村に分かれた時期を明記していません。津久井県図説に掲載された元禄・正保2種類の国絵図ではどちらも「長竹村」と1村に描いているのに対し、「今考定図」では「上長竹村」「下長竹村」と記しており、扱いが必ずしも一定している様に見えませんが、差し当たって正保国絵図の扱いに合わせたというところでしょうか。

他方、「控帳」に現れなかった4村のうち、「小原宿」(現:相模原市緑区小原)は「風土記稿」上では別に項を設けられているものの、

與瀨村に屬す、江戸より十六里、往古より分れて一區の宿驛となる 正保及元祿の改にも、與瀨村の内、小原村と見えたり、

(卷之百十八 津久井縣卷之三より)

と、村としては与瀬村と1つとして運用していた様です。「控帳」でも恐らくは与瀬村として扱われているということでしょう。

残りの3村のうち、青根村(現:相模原市緑区青根)と鳥屋村(現:相模原市緑区鳥屋)は津久井県の南西部に当たりますが、上川尻村(現:相模原市緑区川尻、久保沢、向原など)は県の東端に当たり、前者が山間の村であるのに対して後者は里地であり、これだけでは貢税がなかった理由、即ち漆が殆ど収穫出来なかった理由を判断することは出来ません。

また、残り25村からは多かれ少なかれ漆の貢税があったことがわかりますが、その量にはかなり大きく隔たりがあることがわかります。村の面積ともある程度関係はありそうですが、比較的広大な面積を持つ青野原村が両方合わせて2kgに満たないなど、必ずしも面積だけの問題ではない様です。

津久井県漆の貢税の少なかった村々
漆の貢税の少なかった村々
Googleマップのスクリーンショットに加筆)
そこで、上記の一覧から正漆納・代永納合わせて10kgに満たない村々をGoogleマップ上でプロットしてみました。津久井県の南西部の丹沢山地の山々と、東側の平野部に近い地域の2箇所が、貢税がない、もしくは少ない地域であったということになりそうです。逆に言うと、県内それ以外の地域では比較的豊富な漆の産出を見込める地域であったということになるでしょう。貢税対象となった全675kgの漆の品質などは不明ですが、当然ながら全生産量はそれ以上にあったことになります。

残念なことに「控帳」には日付の記載がない様で、「神奈川県史」でも年月不明の文書ということで同書の漆に関する一連の史料の最後にこれを掲載しています。「控帳」の他の記載事項でも江戸時代中の何時頃のものであるかの判断材料が乏しいのですが、強いて挙げれば表題に「津久井県」と記していることから、少なくともこの地域が「県」と称される様になった元禄4年(1691年)より前に遡ることはないと言えます。また、この史料には津久井県の村々と共に武蔵国多磨郡の上長房村と上椚田村が書き添えられている点が挙げられるでしょうか。特に上長房村の条には「子ゟ辰迄五ヶ年季」と記載されていることから、この村に対して負わされた貢税が(少なくとも「控帳」作成時点では)一時的なものであったことが窺えますので、同村の文書にこの点を記したものがあれば、「控帳」の年代の判断材料になるでしょう。この多磨郡の2村は津久井県と隣接する場所にあるのは確かですが、「控帳」に含まれているのは津久井県の漆「組合」と何らかの形で繋がりを持っていたことの現れであると言えるでしょう。ただ、今のところその具体的な繋がりを示す史料を他に見ていないので、この点は今後もう少し掘り下げたいと思います。

さて、「風土記稿」では漆の産地として津久井県以外に記す所がありませんが、村明細帳などの記録を追うと相模国内の他の地域でも漆は産出していたことがわかります。次回は津久井県以外の相模国の産出地について見ていきます。


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