2014年11月の記事一覧

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津久井県北部の柏皮:「新編相模国風土記稿」から(その3)

前回に引き続いて、再度「柏皮」について取り上げます。

前回取り上げた「神奈川自然誌資料 2」(1981年 神奈川県立博物館)所収の「人為の歴史をとおしてみた県北のカシワ林の消長とシジミチョウ」(原聖樹著)は、この柏の皮や葉などを取るために維持されてきたカシワ林が、この葉を食草とする数種類のシジミチョウの生息地の分布に影響を及ぼしていることを示すことを目的で書かれており、藤野町の古老への聞き取りもそうしたカシワ林がどの様に維持されてきたのかを明らかにする目的で行われています。


この聞き取りで、このカシワ林の維持については次の様に語られています。

⑴保護・育成

カシワは“無駄のない木”だ。樹皮のタンニンが漁網の染料になる。なめし皮、製皮用にも使える。皮をはいだ中味(樹幹)は炭になる。葉は食物を包むのに利用できる。

当地のカシワは植えたものではない。自生していたものを保護・育成して人工林に仕立て上げた。カシワは雑木の中では最も弱く枯れやすい。1升の実をまいても2〜3本しか発芽しない。コナラ・クヌギ等が侵入すると、これらの木に負けるのでこれらを取り除く。ヤブがひどくなったり、フジヅルがからむとカシワは枯れやすく、この点でもコナラ・クヌギよりも弱い。もっとも、クヌギでさえ“大名の気質”であるから、下木になると枯れるので下草刈りはおこたれない。

カシワは昭和の初期には現在よりもずっと多かったが、戦争中に一部が伐採されて畑にされた。残った林は、手入れをせずに放置している。

(上記書5ページより、強調はブログ主)


この様な聞き取りと生息域の観察を踏まえて、この論文ではカシワの生息環境について次の様に考察されています。

カシワは陽地を好み、幼樹は日陰には弱い。火山灰地・砂地・湿原がかった所など荒涼とした環境に多いところから、他種と競合しにくい樹種といえるかもしれない。ただ、イメージ的にはやや乾燥ぎみの立地に多い。樹皮が厚く火に強いため、山火事跡地に純林をつくることがあるという。意外にも順応性も強いらしく、谷間や急斜面・尾根あるいは平坦値にも見られる。

県北地域においてカシワ林は沢岸の傾斜地や部落周辺に多く残存しているが、山腹や尾根にもある。大場達之氏によれば、「県北のカシワは八ヶ岳方面から酸性土壌伝いに分布がのびてきたものであろう」とのこと。カシワ本来の性質を考慮すると、この木に人がめをつけ、これを保護・育成する以前の時代には、極盛相の発達しにくい沢筋や急傾斜地、山腹・尾根等に自然状態で生じた崩壊地や倒木地、あるいは山火事などにともなって形成された裸地に分布していたのではないかと推定される。

山火事跡地を別とすれば、樹林を構成するほどの勢力はなかっただろう。せいぜい数本単位で点々と、極盛相の破壊地やその切れ目に生育していた可能性が強い。

(上記書6ページより)


つまり、他の草木との競合には弱い面を持つ反面、そうした「ライバル」が入って来られない環境下ではしぶとい面を併せ持っているということになります。

ここで時代をもう一度江戸時代に戻します。江戸時代初期に足柄上郡の村々から出荷されていた「柏皮」が、小田原藩への上納が止んだ後も採取され続けられていたかどうか、その後の記録が無いためにわからないと前々回に記しました。

その後の動向が気になるのは、宝永4年(1707年)の富士山の大噴火が丹沢山地の植生にも影響を及ぼした可能性が高いからです。後日「漆」についてまとめる際に取り上げますが、この噴火による降灰は丹沢山地の漆の生産に壊滅的な打撃を与えたことが、同地に残る数々の文書で明らかです。宝永噴火の降灰分布を見ると、丹沢山地周辺では凡そ30〜60cmほどの厚みになったことが窺え、漆はこの降灰を被った影響で丹沢山地南部を中心にほぼ全滅状態になりました。こうした経緯を考えると、丹沢山地で採取できる他の作物にも何らかの影響が及んだ可能性を考えたくなります。

ただ、カシワに限って見れば、上記の論文に見られる通り降灰によって植生が相対的に後退する環境をむしろ好むことになりますから、そういう中ではカシワは少なくとも減少した可能性は低いということになります。寧ろ降灰によってダメージを負った植物が後退し、それによって出来た空間に新たに芽吹くチャンスさえあったことになってきます。現在は宝永噴火からは既に300年以上が経過していますので、一旦後退した植生も再び戻って久しいと思われますが、「神奈川県植物誌 2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)の分布図(559ページ)でも丹沢山地南部でもカシワの標本が確認されていることから考えても、丹沢山地のカシワは富士山の降灰を掻い潜って生き延びてきた可能性が高そうです。

もっとも、そうして生えてきたであろうカシワを、引き続き皮を取るために伐っていたかどうかは別の問題です。足柄上郡の各村が柏皮の採集を継続出来る環境はあったとは言えるものの、実際に続けていたのかは引き続き不明のままであり、同地の史料を更に漁る必要があります。



ところで、上記原氏論文では、秦野が柏の葉の集散地になっていたという、興味深い記事を紹介しています。論文で紹介されている参考文献から該当する箇所を引用してみます。

餅を包むカシハの葉は東京近郊でも多く採集されるが相州大山々麓の秦野は近在での集散地とされる。この葉は塩漬とするのではなく陰干として乾かし50枚1束、1万枚単位で各地に送られる。上質なのは信州もの、そのわけは大さは手頃で品質も硬軟中庸最も適当している。価格は最高で他の二流ものの二倍もする。信州ものの外東京には相州もの、房州もの、茨城、北海道からも入るが何れも並ものである。大きすぎるもの、硬いものは場違ひである。

(「樹木大図説(1)」上原敬二著 1977年 有原書房 760ページより)


郷土誌の文献ではなく、植物図鑑の記述であることから、秦野がいつ頃からこうした集散業務を行う様になったかなどの記述がないのは止むを得ないところではあります。とは言え、引用元などの指示がないので裏を取り難いのが辛いところです。原氏論文でもこの箇所を引用した上で、果たして秦野近郊でカシワが採集出来たのか、それとも秦野は柏葉の集散地としてのみ機能していたのかという疑問を表明されています。今回「秦野市史」や「神奈川県史」に関連する記述がないか探してみましたが、残念ながら見つかりませんでした。

ただ、柏の葉が世に大々的に出回るのは当然のことながら端午の節句直前の限られた時期であり、流通という面では季節変動が極めて大きいのが特徴です。その点では柏の葉の流通ルートが独自に存在したとは考え難く、より大きく、かつ年間を通じて安定した流通量のある他の産物のルートに乗っていた可能性が高いのではないかと思います。

その点で、秦野は以前も紹介した通り江戸時代から続く煙草の産地です。明治時代に入ってその生産量が飛躍的に伸び、明治31年(1898年)の葉煙草専売法成立に伴って国の管理下での生産に切り替えられていきますが、それによって生産から流通に至る制度が大々的に整備されていくことになります。「秦野市史 別巻 たばこ」に掲載された「横浜貿易新報」大正2年(1913年)7月13日の「秦野専売支局の奨励授与式」の記事の終わりに、次の様に当時の秦野の煙草生産の状況がまとめて紹介されています。

製造所の現況 大正元年九月従来の担当製造を直営製造となし本年六月秦野製造所を支局と合併して秦野専売支局製造課となり改正に改正を加へたが由来煙草製造は毎年他県より二千三万貫の葉煙草を輸入し之れに二十万貫の秦野煙草と調合して盛んに白梅、さつき、あやめ、はぎ、なでしこ等一ヶ年卅万貫を製造して此価格は二百八十四万円に達し、大坂、静岡、神奈川県、愛知県、東京府、北海道等へ移出し、残る秦野煙草五十八万一千九百十九貫八十匁は葉煙草の儘で東京其他各処の製造所へ運送するので秦野二ノ宮間の日々の運搬も強かな者である二宮へ停車場を設けたのも之れが為め、湘南軽便鉄道開通も多くは之れが為め、秦野電気会社の電力の過半は製造工場で引用して居るやうな訳で同支局より直接間接に散出する一ヶ年の金額は実に四百万円の多きに達し、右金額は夫々各方面に活動して居るが之れに依ってすら秦野町村は他町村に比して如何の概況を推測する事が出来る、而して今後益々秦野の発展を計らんには煙草の発達に俟たねばならぬ、煙草発達は秦野の発展、秦野は煙草で持つ所以である。

(上記書861ページ上段より、強調はブログ主)



かつての専売局秦野事業所
(旧:日本たばこ産業秦野工場)は
現在「ジョイフルタウン秦野」となり
ショッピングセンターなどに代わっている
湘南軽便鉄道が営業していた頃は
この敷地内まで引き込み線が敷かれていた
付近のNTT辺りがかつての軽便鉄道秦野駅
ストリートビュー
つまり、秦野は単に煙草を栽培する地としてだけではなく、他の地域で生産された葉煙草を集めて加工し、消費地や他の生産地に向けて出荷するという事業地に変わっていた訳です。柏の葉が秦野で取り扱われていたのも、あるいはこの煙草の流通ルートに相乗りする格好で、比較的倉庫の空いてくる春先の言わば余業として行われていたのではないかと個人的には想像しています。柏の葉が陰干しした状態で流通していたというのも、葉煙草の流通と同じ倉庫が利用出来るという点で利点があったのかも知れません。

もしその類推が正しいのであれば、当時の専売局(後の日本専売公社を経て現在の日本たばこ産業株式会社)関連統計に柏の葉の流通状況に関する記録が残っているのかも知れませんが…。今回はその様な資料を見出すところまで行けなかったので、今後の課題ということになります。もしかしたら、それらの統計の中で「相州」産の柏の葉の具体的な産地名が明らかになるかも知れず、その中で足柄上郡の地名が見出だせれば、同地の柏の産出が江戸時代から途切れることなく続いていたことが明らかに出来るのかも知れません。



時代が大分下ってしまいましたが、「新編相模国風土記稿」の「柏皮」の記述が津久井県に関してのみになっていて足柄上郡側の記述がないのが、果たして当時の実情を正しく反映したものと言えるかどうかは、その様な訳で今ひとつ判然としないところがあります。仮に足柄上郡で生産が継続されていたのであれば、「新編相模」では同地に関する記載が漏れてしまったことになりますが、こうした扱いの差が生じた事情が気になります。

前回引用した「武蔵名勝図会」は、植田孟縉が文政6年(1823年)に書き上げて昌平坂学問所に納めた絵図入りの多磨郡地誌です。この人は八王子千人同心の組頭であり、「新編武蔵風土記稿」の多磨郡・高麗郡・秩父郡の編纂に携わったひとりですが、「武蔵名勝図会」の成立する前年には「新編武蔵」の多磨郡の部を完成させていますから、「武蔵名勝図会」は言わばその補足版と言っても良い存在になっています。内容的にも「新編武蔵」では記述されなかった項目が一部含まれています。

そして、この植田孟縉は以前も紹介した通り「新編相模」の津久井県の編纂にも携わっています。こうした編集の経緯から見て、「柏皮」の記述が「新編相模」に現れるのは植田孟縉の影響下にある故と考えられます。


甲州道中と甲州裏街道の分岐点に
現在も残る道標(ストリートビュー
八王子千人町はこの西側の地域
江戸時代に八王子千人同心が住まっていた地域は現在の「八王子市千人町」にありました。ここは五街道の1つである甲州道中と、甲州裏街道の分岐点の西側の地域に当たります。恩方村は、この甲州裏街道をわずかに進んだ先に位置し、千人同心にとっては言わば「隣村」と言って良い存在でした。「新編武蔵」の「上恩方村」の項に

村名の起りは傳へざれど、村内の小名に案下と云所あり、近鄕のもの案下村と呼なせるも、案下峠などありて其地名の廣きよりのことなるべし、されど元より私に唱ふることなれば、公には用ゐず、

(卷之百四 多磨郡之十六、雄山閣版より)

とある通り、この村や下恩方村は私的に「案下(あんげ)」と呼ばれており、甲州裏街道の異名の1つである「案下道」もここに由来するのですが、「武蔵名勝図会」でも

恩方と呼ては知らぬ者もあれど案下と呼吋は児女子迄も其名を知れり

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

と記す辺りに、この地が千人同心にとっても「親密な」地域であったことが窺える様に思います。

また、甲州裏街道と隣接する地域に八王子千人同心が住まっていたということは、当然ながらこの街道を運ばれてくる荷物の数々についても目の当たりにする場所にいたことになります。上恩方村の人々との交流も「新編武蔵」「新編相模」の両風土記稿の編纂事業に携わる以前からあった可能性が極めて高く、同地の「柏皮」の流通については地誌探索を行う以前から承知していたとしても不思議ではありません。

その点では、「新編相模」に「柏皮」の記述が入ったのは、八王子千人同心にとっての上恩方村や佐野川村・澤井村との「距離感」故のことであった、という可能性も少なくないと思います。足柄上郡については千人同心ではなく、昌平坂学問所が担当しましたから、そういう予断を持たずに現地を廻っている筈であり、その分「柏皮」の様な産物には目が行き届かなかったのかも知れません。

最後は少々取り留めなくなってしまいましたが、「柏皮」に関する話はひとまずここまでとします。

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津久井県北部の柏皮:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回に引き続いて、津久井県佐野川・澤井村で産出した「柏皮」を取り上げます。

旧上恩方村の位置
武蔵国多磨郡上恩方村の位置
Googleマップのスクリーンショットに加筆)
さて、佐野川村から和田峠を経て佐野川往還を東へ向かうと、相模国津久井県から武蔵国多磨郡へと入ります。そこは「上恩方村」という地で、北浅川を中心とした複数の渓谷が八王子宿に向けて下っていく地です。

武蔵国に入った訳ですから、この村の村誌は「新編武蔵風土記稿」の方に含まれることになりますが、こちらには上恩方村の産物については何も記されていません。しかし、「武蔵名勝図会」(植田孟縉著 文政6年・1823年)の「恩方村」の項には産物として「炭」「烟草」の他に「柏木皮」と「柏の葉」が挙げられています。

産物

  • 柏木皮 上恩方村より出す又小佛邊よりも出 多くは相州津久井(ママ)内より案下へ送り出す
  • 柏の葉 右に同じ

(「武蔵名勝図会」多摩郡之部巻第7ノ下、小林幸次郎翻刻・編集、史料刊行会版より、「国立国会図書館デジタルコレクション」より)


この記述によれば、上恩方村だけではなく、隣の佐野川村で産出した柏皮や柏の葉も、和田峠を越えて上恩方村へと送り込まれていたことになります。これは前回の江戸時代前期の澤井村の記述とも合っています。また、江戸時代後期には柏餅での用途が増えたからか、ここでは「柏木皮」と共に「柏の葉」が挙げられています。

この書物の記述の存在に気付いたのはネット上で「八王子市郷土資料館だより Vol.92(リンク先PDF)」を見つけたからですが、同書では、やや時代が下って明治10年(1887年)の「第1回内国勧業博覧会(リンク先は国立国会図書館電子展示会のページ)」に出品された品々の中に、「柏皮」が含まれていたことを紹介しています。この博覧会については以前戸川村の砥石を取り上げた際にも出て来ました。この時も近隣地域での消費に留まっているとされていた砥石が博覧会に出品されていることから、流通量には斟酌せずに幅広く出品を募った可能性について触れました。八王子や周辺の各村から出品された品々にも同様の傾向があり、「柏皮」も博覧会主催者たる政府役人の要請に応じて出品されたものであることが解説されています。

この中で、この「柏皮」がどの様に生産されているかを記した文書が紹介されています。

上恩方町の尾崎家で所蔵されている文書に、塚本弥源太が出品した柏皮に関する文書が残っています。塚本家は、川井野にあり、江戸時代に上恩方村の上組の名主を勤めた旧家です。文書は、東京の博覧会物品取扱所宛の「博覧会用物品送り状」と柏皮についての説明を綴ったものです。説明書によると、柏皮の産地は、上恩方村字川井野の山の痩地で、実生から 15 年経った木を 3 月から 5 月ごろに伐る。木には、特に肥料を与えたりはせず、雑木山に生えている木を伐り取る。1 尺1 寸 ( 約 33cm) ずつに切った後に皮を剥ぎ、乾かして縄で束ね6束を1駄とする。1 年間の生産高の総計は 240 駄で代金は約 300 円になるとあります。「所用并効能」の欄には、「海漁の網に用ゆ」とあります。柏の木の皮には、タンニンが多く含まれていて、魚網の染料に使われました。江戸時代の後期に書かれた『武蔵名勝図会』には、小津村の特産品として手斧の柄を、上恩方村の特産品として柏皮を挙げています。明治時代も変わらず村の重要な特産物であったのです。

(同書PDF5ページより、注は省略)

柏の木を伐って皮を剥いだ状態のものを束ねて出荷し、使用する段になってこれを煎じてタンニンを煮出すことになるのでしょう。

「新編相模国風土記稿」、そしてこの塚本家の文書の何れも、「柏皮」の用途としては「漁網の染料」のみを掲げ、それ以外の用途を紹介してません。前回触れた通り本草学の各書でもこうした用途に触れていないことから見ても、恐らく「大和本草」が成立した宝永7年(1709年)頃までには、「柏皮」の用途が漁網のみに「縮退」してしまったのではないかと思われます。

Quercus dentata3.jpg
カシワの幹
皮の厚みが裂け目から見える
("Quercus dentata3"
by KENPEI - KENPEI's photo.
Licensed under
CC 表示-継承 3.0
via Wikimedia Commons.)
以下は飽くまでも個人的な推論ですが、この塚本家の文書に記された「柏皮」の採取方法自体にその縮退の原因が見て取れる気がします。柏の皮を取るには、柏の木を伐ってしまわなければなりません。15年ものということは、毎年「柏皮」を出荷するためには出荷量の15倍以上の柏が山にないと応じられないことになりますが、前回見た通りカシワの分布量は丹沢・小仏山地でも多い訳ではありません。そして勿論、一度伐ってしまったら次の木が生えてくるのを待つしかないのですから、生産効率が非常に悪いことは明白です。これでは産出量を増やすのは非常に難しいと言わざるを得ないでしょう。

一方、「八王子市郷土資料館だより」が記す様に「柏皮」の染料の成分はタンニンですが、同様にタンニンを含んだ江戸時代の染料としては「柿渋」を挙げることが出来ます。こちらは古代から近世にかけて漆器の下塗りをはじめ、唐傘などの防水塗料など幅広く用いられたことが知られています。主に渋柿の未熟な実に多量に含まれるタンニンを絞り出して作るので、柿の木が実を付ける様になれば毎年、それも木の寿命が尽きるまで長期間にわたって収穫が可能です。庭先や田畑の畦に植えておくことが出来ることから江戸時代には飢饉対策の食料としても盛んに植えられていましたから、その本数は柏の比ではありません。勿論、柿渋用と食用それぞれに充分な量が供給できなければなりませんが、それでも「柏皮」に比べれば遥かに増産に耐えられることは明らかでしょう。そして、漆器の下塗りなどに使われていたことなどからも、その需要は江戸時代を通じて増えていたことは確かです。


小田原藩が貢税の品目の1つとして「柏皮」を取り立てていた頃には、漁網の染料以外にも恐らく用途が多々あったのだろうと思います。しかし、その頃から既に増産に耐えられないために、「柿渋」でも対応出来る用途から次第に「柏皮」が追いやられ、江戸時代中期には既に漁網の染料だけになってしまったのではないか、というのが今のところの私の推論です。

では何故漁網の染料の用途が「柏皮」に残されたのかが課題ですが、「ものと人間の文化史115 柿渋」(今井敬潤著 2003年 法政大学出版局)では漁網の染料について全国的に聞き取り調査を行った結果を掲げており(20〜40ページ)、これによれば漁網や釣り糸の染料でも柏皮とともに柿渋が用いられていた実態が見えて来ます。このうち房総半島の数ヶ所の事例によれば、

(ア) 浦安  昔は、綿糸でつくられた小型の網は、柏の樹皮の煮汁で染めていたが、大正に入ってからは、カッチという熱帯樹木から得たタンニン染料を用いた。一方、大型網はそのままカシワで染めていたが、これは、カッチの値段が高かったことによる。柿渋染めは、投網に限って行なわれ、一般の網には用いられなかった。これは柿渋染めは網を固くしすぎることによるようである。

(ウ) 館山(相の浜)  一般的な網は、昭和四年頃からカッチ染めになったが、それまではカシワの樹皮の煮汁が用いられていた。柿渋は、延縄の道糸、釣りの道糸を染めるのに使われた。柿渋を使うと糸が固くなり、あたりがよくわかるという利点がある

(上記書31ページより、…は中略、強調はブログ主)

つまり、柿渋の「糸を固くする」という性質が漁法によって利点にも欠点にもなるため、柏皮と柿渋が使い分けられていたことがわかります。こうした「使い分け」が望める用途では「柏皮」が生き残り、「柿渋」と用途上の優劣の少ないものは柿渋への置換えが進んだということではないでしょうか。同書では、青森県では先に柏皮で染め、更にその上から柿渋で染めることによって、漁網腐食の効果を長持ちさせるという使い方もなされていたという事例も記されています(37〜38ページ)。因みに、九十九里浜では漁網の染料に柏皮が多く用いられ、「カシワの皮は秩父・八王子の産を上品とし、野州・上州が之に次ぐとされてゐた。(同書34ページ)」とされていることから考えると、恐らくは房総半島の他の地域の柏皮も八王子、つまり恩方村や佐野川・澤井村の柏皮が重用されていたのでしょう。

現在は漁網自体が合成繊維を使用する様になったため、天然素材の様な腐食の心配がなくなり、柏皮で腐食防止を行う必要性も消えました。また、房総半島で大正時代から「カッチ」という熱帯樹木を用いる様になったとしており、この頃から既に国内産の需要が低下していた様です。

「神奈川自然誌資料 2」(1981年 神奈川県立博物館)所収の「人為の歴史をとおしてみた県北のカシワ林の消長とシジミチョウ」(原聖樹著)では、藤野町(地域は不明)在住の2名の古老の話をまとめて次の様に記しています。

(2) シブ

樹皮をはぐ仕事をシブ取りという。これは5〜6月の男の仕事だ。カシワの葉・小枝などはゴミになるため、その場で捨て、これを燃料にはもちいない。たき木にはコナラや他の雑木を使った。

シブ取りは大正10年前後まで盛んだった。この頃から他の染料が市場に出廻るようになって次第にシブの用途は衰退。昭和の初めには樹皮の出荷はほとんど途絶えてしまった。

(同書5ページより、強調はブログ主)

この「他の染料が市場に出廻るようになって」という証言は、房総半島でカッチが用いられ始めたとする点と合致します。まずは海外産に圧される様になっていったということになりそうです。

以前紹介した茨城県の昭和25年の試験結果が存在することを考えると、実際は戦後まで需要は完全に途絶えた訳ではなかったのではないかと思いますが、それにしても結局は漁網が合成繊維に置き換えられるまでのことではあったでしょう。


何れにせよ、柏皮の染料としての用途は漁網への利用がなくなったことによって完全に廃れてしまったと言って良いでしょう。「柿渋」の方は現在その長所が見直される動きもある様ですが、「柏皮」の方は上記の様な生産の困難さを考えると、そうした動きに結び付く可能性は残念ながら極めて低そうです。

当初は2回でまとめる予定だったのですが、予想以上に内容が膨れ上がってしまったので、次回もう1回「柏皮」を取り上げます。

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津久井県北部の柏皮:「新編相模国風土記稿」から(その1)

新編相模国風土記稿」の産物の一覧から、今回は「柏皮」を取り上げます。

  • 山川編(卷之三):

    ◯栢皮津久井縣澤井・佐野川兩村邊の山に產す、漁夫漁網を染るに佳とす

  • 津久井縣図説(卷之百十六 津久井縣卷之一):

    ◯柏皮澤井村、佐野川村邊の山に産す、海邊の漁夫、漁網を染る是を佳とす

(以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)


旧佐野川村と旧澤井村の位置
佐野川村・澤井村の位置
Googleマップのスクリーンショットに加筆)
山川編・津久井県図説共に澤井村や佐野川村の山中で産出することを記していますが、両村の記述には関連するものは見当たりません。佐野川村は相模国の、そして現在でも神奈川県の最北端に位置する地域ですが、東側の和田峠を経る脇往還が「佐野川往還」と呼ばれるのはこの地域に由来します。その南に隣接する澤井村とともに、小仏山地の一角を占め、集落は澤井川や甲州との国境に当たる境川沿いの僅かな平地に出来ていました。


この「柏皮」については、各郡の産物山川編の産物をまとめた際にもごく軽く触れましたか、その後もう少し勉強が進んだ所で改めてまとめてみることにしました。

本草図譜巻六十六「大葉櫟」
「本草図譜」では「檞實」の項に複数種が描かれ
その1種の「大葉櫟」に「かしは」の訓が充てられている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
カシワはブナ科の高木で主に山地の尾根筋などに生えます。日本国内ではほぼ全国的に見られるものの、分布域は比較的限定されている様です。神奈川県内の分布については

県内では丘陵地から山地ブナ帯までに広く見られるが少ない。

(「神奈川県植物誌 2001神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊 559ページより)

としており、同書分布図では丹沢・箱根・小仏各山地の他、秦野市南部、大磯町、藤沢市北部、茅ヶ崎市北部、座間市南部、横浜市の栄区、保土ケ谷区、緑区などで標本が確認されています。何れも本数は少ないのでしょうが、思ったよりも平野部での出現例がある様です。

「本草綱目啓蒙」では

槲實

[ハビロガシハ ホソノキ越前

ハゝソノミ ハゝソ今ホウソと呼ぶ。以下木の名

ナラ ホソ和州 ホウ同上 [ナラシバ]

ホウソガシハ カシハ[能登] モチガシハ

カシハギ佐州 マキ雲州 [ナラガシハ]

ゴウゴウシバ備前 [カシハマキ備前 カサバ同上

(「国立国会図書館デジタルコレクション」よりブログ主翻刻、カタカナを適宜ひらがなに置き換え、手書きの部分については[]に記載)

と、地域によって非常に様々に呼ばれていることを記しています。手書きの書き込みはこの蔵書の持ち主であった小野蘭山の弟子によるものと考えられることから、蘭山から口伝されたものを追記した可能性があるので含めたものですが、それだけ各地で古くから利用されてきたことを反映しているのでしょうか。因みに現在日本では一般的にカシワに対して「柏」の字を用いますが、「跡見群芳譜」によれば

漢名を柏(ハク,bai)という樹は、コノテガシワなどヒノキ科の常緑樹を指す。したがって、日本でカシワに柏の字を当てるのは誤り。

(上記サイトより)

であり、「本草綱目啓蒙」の記す「槲」の字が本来カシワに対して用いられるべき字であるとのことです。また、「本草図譜」が用いている「檞」の字も「跡見群芳譜」は「槲と字形が似ていることからきた誤読。檞の本義は松脂(まつやに)。」と解説しています。しかし、「風土記稿」はじめ多くの史料でも「柏」や「栢」の字が用いられており、既に「柏=カシワ」が一般化している現状もありますので、以下では「柏」の表記で統一します。

柏の用途として現在最も良く知られているのは何と言っても「柏餅」でしょう。「本草綱目啓蒙」でも「端午に糕を兩葉はさみて かしはもちと云」と記しています。今は柏の葉1枚を二つ折りにして間に餅を挟みますが、当時は柏の葉を2枚使っていたということになる様です。古代には柏の大きな葉を調理に用いたり飯を盛るのに用いたことが「伊勢物語」にも記されているとのことですが、柏餅が作られる様になったのは江戸時代中期頃まで時代が下ります。ただ、元は江戸で端午の節句に柏餅を食べる習慣が生まれたものの、全国的に広まるのは意外に早かった様です。以前、旧東海道の梅沢の茶屋本陣の大名への献上品に含まれる茶菓を一覧化したものを掲げましたが、その中にも「柏餅」の名が含まれていました。

柏餅の用途が広まったのが比較的後世になってからのことだったからか、「風土記稿」で記されているのは柏の葉の方ではなく、皮の方です。この皮から取れるタンニン染料を、「風土記稿」では漁網の腐食防止に使っているとする訳ですが、実際の用途は少なくとも江戸時代初期にはもう少し幅広かったのではないかと思います。

まず、「神奈川県史 通史編2 近世(1)」(1981年)では、「第五章 近世村落の成立/第三節 市と町/四 近世前期の商品流通/柏皮と炭薪の流通」という1節を設け、澤井村に伝わる史料を検討して江戸時代初期の柏皮の販売にまつわる事情を掘り下げています。

…沢井村には六郎兵衛・源左衛門という二人の名主がいた(相名主)。寛文検地以後、この村では検地帳の所持をめぐって二人の名主が対立し、出入が不断に行われていた。六郎兵衛が書いた元禄五年(一六九二)三月の文書が残っているが、これは、六郎兵衛の反論である。この十三か条にわたる長文の反論の中には、柏皮の取扱いについての部分が一か条ある。この部分の書出しは「一 当村柏木の皮、五年以前より我等買留仕候由、偽申上候」であり、これが主文である。買留の意味ははっきりしないが、全体の文意からすると、これは、六郎兵衛が村民より柏皮を買い集め、それを荒川番所に届けず、勝手に販売した、ということらしい。もちろん、六郎兵衛は、「そんなことはしていない」と主張している。柏皮は、八王子や須賀(平塚市)に売られており、沢井村の者は「何れも自分自分に八王子に出 売」している。しかし、その場合でも、名主が柏皮を改めて、それを帳面に記し判をおさせるという規定になっていた。六郎兵衛はかつて、柏皮を名主に届けず隠し売りした村民を摘発して荒川番所に訴えたことがあり、その者は縄をかけられた、という。こういうこともあったほどであるから、自分が買留めしているなどは、もってのほかだと六郎兵衛は主張したのである。集荷された柏皮は、まず名主の改めをうけ、名主が帳面に記し、それを一括して荒川番所が改める(運上をとったのであろう)という規定になっていたようである。

この事実を示すものが宝永六年(一七〇九)三月、六郎兵衛が作った「柏皮改帳」である。これによると、柏皮を売るために持ち寄った十二名の名と、それぞれの柏皮の数(束で表示される)が記され、それについて矢口茂兵衛なる人物が改印をおしている。矢口は多分荒川番所の役人であろう。これらの柏皮は須賀へ出されている。これらからわかることは、柏皮の流通が、村や荒川番所の規制下に置かれていた、ということである。一見すると八王子や須賀に自由に売出されているようであるが、事実は、村や番所の枠の中にはめこまれての流通であった。

(上記書584〜585ページより)


こうした事情から、柏皮は比較的早くから採取され、相模川の水運に載せられて相模湾まで運ばれ、あるいは八王子の市へと出荷されて売り捌かれていた実情が窺えます。「神奈川県史」のこの節では、江戸時代初期にはこうした流通が政治的な枠組みの範囲内での商いであったことを明らかにすることを主眼に置いた記述になっていますが、そうした制約がありつつも柏皮が積極的に外販されていたという事実は、柏皮が用途の限られた存在ではなかったことを窺わせます。

また、足柄上郡の村明細帳の中に、「柏皮」を小田原藩に献上していたことを記しているものが複数現在に伝えられています。
  • 貞享三年四月 皆瀬川村指出帳:

    柏かわ、三年以前、丹後守様御代御赦免被遊候

  • 貞享三年四月 川西村指出帳:

    一山のいも・柏皮・御竹藪くね結人足山北村堰普請人足、右四ヶ五三年以前ゟ御免被成候

  • 貞享三年四月 (神縄村指出帳):

    一山ノいも柏ノ彼岸村御竹藪くね結人足山北村堰普請仕候人足右四邑三年以前ゟ御免被成候

(「山北町史 史料編 近世」204、245、254ページより、一部誤記と思われる表記が混じるが原文ママ、強調はブログ主)


旧皆瀬川村・旧川西村・旧神縄村の位置
皆瀬川村・川西村・神縄村の位置
Googleマップのスクリーンショットに加筆)
これらの村々は何れも丹沢山地の南部、酒匂川の北側に位置しています。貞享3年は西暦で1686年、その3年前(1683年)は天和3年に当たります。「丹後守」はこれらの年度から当時の小田原藩当主であった稲葉正往を指すことがわかりますが、天和3年はちょうどその正往が家督を継いで当主となった年に当たっています。その就任に際して領内の各村々から収められる貢税を見直したのでしょう。それ以降上納しなくても良くなった品々や労役が列記されている訳で、その中に「柏皮」が含まれているということは、天和3年以前には「柏皮」も貢税として上納していたことを意味しています。上納された柏皮を藩がどう扱っていたのかは良くわかりませんが、先程の澤井村の事例と併せて考えると、上納された分も城下町を経て市場へと下げ渡すことで藩財政の足しにしていた可能性が高いのではないかと思われます。

ただ、これらの村明細帳にある通り、この柏皮上納はここで終わってしまったため、その後も引き続き柏皮の採集がこれらの村で行われていたかどうかは記録を見出すことが出来ません。「神奈川県史」は柏皮の用途として「魚網のほか皮をなめすにも用いられたようである。」と記しているものの、本草学の書物ではこうした用途を積極的に記したものが意外になく、「本草綱目啓蒙」でも「樹皮を藥用とす赤龍皮と云」とするものの、染料などとしての用途には「大和本草」「和漢三才図会」などでも見出すことが出来ませんでした。

この辺りの事情も含め、次回もう少し柏皮の話を続けます。

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箱根の老杉と「逆さ杉」:「新編相模国風土記稿」から

「新編相模国風土記稿」に記された産物の一覧から、今回は「老杉」を取り上げます。

  • 山川編(卷之三):

    ◯老杉神代杉と稱す、足柄下郡仙石原村より出づ、

  • 仙石原村(卷之二十一 足柄上郡卷之十):

    農間には木履を造り、或は蘆湖元箱根の屬、の邊萱野を穿て、神代杉元口八九尺、長五間許あり、を得、箱根山中湯本の邊に鬻で、挽物細工の料に宛つ、

(以下「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)


旧東海道:畑宿の「桂神代」
畑宿の家並みの前に飾られていた
「桂神代」(再掲)
山川編に指摘されている足柄上郡仙石原村の記述には「神代杉」を掘っていることが記述されていますが、足柄上郡図説の産物の一覧には「老杉」は含まれていません。なお、「杉」と言っているものの、実際には必ずしも杉ではなく、杉以外の樹種が地中で変性したものも「老杉」「神代杉」の名前で一括して呼ばれています。以降では江戸時代の史料に出てくるものを以外は基本的に「神代木」で統一します。

これも箱根の産物のひとつということで、「七湯の枝折」にも

一神代杉  千石原より多く出る杉戸ニ用ゆ杢細密にて見事なり巾五六尺迄あり

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 71ページより)

と神代杉のことが記述されています。こちらでは「巾」と言っているのが太さに当たるでしょうが、「風土記稿」の方は「八九尺」、つまり約2.7mにもなる巨木の神代木があったことを書いているのに比べると、「五六尺」と若干抑えた数字になっています。それでも約1.8mもの太さというのはかなりのサイズということになります。また、「風土記稿」の方はいわゆる箱根細工に用いることを記しているのに対し、「七湯の枝折」は杉戸にするとしています。

ところで、箱根の神代木という点では、ケンペルも「江戸参府旅行日記」(元禄4年・1691年)の中で次の様なことを書いていました。

…山の一番高い所の路傍に境界を示す長い石の標柱が見えた。これは小田原藩領の始まりを示し、同時に伊豆と相模の国境である。ここからわれわれは方向を変えて再び苦労して山を下り、約一〇町すなわち一時間後に峠村(とうげむら)に着いたが、一般には山の名をとって箱根と呼ばれている。…けれどもこの湖は、ほかの険しい山々に取囲まれているので、氾濫(はんらん)することも、流れ出ることもない(山々の間になおひときわ高くそびえ立つ富士の山が、ここからは西北西よりは少し北寄りに見えた)。この湖の広さは東から西まで約半里、南から北まではたっぷり一里はある。…この湖の成因は確かに地震によるもので、そのために昔この土地が陥没したのである。その証拠として、人々は数え切れない杉の木のことを挙げている。深い湖底には珍しいほどの太さの木が生えていて、藩主の指示や意見で潜水して引きあげ運び出される。そのうえ日本ではこの種の木が〔この箱根ほど〕丈が高く、まっすぐで、見事に、そしてこんなにたくさんある所はほかにない。

(「江戸参府旅行日記」斉藤信訳 1977年 平凡社東洋文庫303 161〜162ページより、ルビも同書に従う、…は中略)


旧東海道:箱根関所遠見番所跡より芦ノ湖遠望
箱根関所の遠見番所跡より芦ノ湖遠望(2007年)
現在は遊覧船の航行の障害となるため
逆さ杉は上部を伐採され
かつての様には水面下の逆さ杉が
見えなくなっている
ケンペルが言っているのは芦ノ湖の湖底に沈んだ「逆さ杉」のことです。彼によればこちらの湖底の杉も小田原藩の求めに応じて伐出していたことになります。

この芦ノ湖の「逆さ杉」については、比較的詳細にまとめた本が刊行されており、今回はこちらを適宜使用しながら話を進めます。

ガイド・ブック 箱根の逆さ杉」 大木 靖衛・袴田 和夫・伊藤 博共著 1988年 神奈川新聞社かなしん出版


奥付を見ると企画者として「箱根町立郷土資料館」の名が記されており、「箱根叢書」シリーズの1冊として箱根町が企画立案して編まれたものであることがわかります。表題は「逆さ杉」となっていますが、仙石原や周辺地域の神代木についての記述も含まれており、今のところこの本が箱根の逆さ杉や神代木について俯瞰するのに最も手頃と言って良いでしょう。タイトルには「ガイド・ブック」と付されていて一般向けにも読みやすい様に工夫されているものの、巻末に並んだ参考文献には学術論文と言うべきものが多く、その点では多少専門家向けの内容になっている箇所もあると言えそうです。


箱根山の中央火口丘に当たる神山が
水蒸気爆発によって崩壊した際には
北方の仙石原方面に土砂が流入した
(「地理院地図」地形図に色別標高図重ねあわせ)
基本的には、逆さ杉にしても神代木にしても、元は箱根に生えていた森林であったという点では共通しています。ただ、時代的に見ると神代木の方が古く、「三千百年前の神山大水蒸気爆発で崩壊した神山山体は、岩屑流(がんせつりゅう)となって流れ下り、山腹に生えていた樹木を巻き込んで堆積した。このようにして、樹木は神代木と呼ばれる化石になった。(ガイド・ブック117ページ)」と、縄文期に埋没した木が炭化して出来上がったものです(但し、新しいものでは850年ほど前に埋没したものもあり、神代木の中にはこの水蒸気爆発以外にもそれ以降の地震などによる地滑りによって埋没したものも含まれている様です)。現在の芦ノ湖の形成もこの時の岩屑流によるものと考えられています。これに対して、逆さ杉の方は意外に新しく、平均して1,600年前前後の木立が水没して保存されたものです。


「ガイド・ブック」ではこの逆さ杉の炭素14測定による年代特定の経緯から、それよりも古い時代に出来た芦ノ湖にどうしてこんなに「新しい」木立が水没したのか、またどうして湖の中でこれらの木立が直立して残っているのか、その謎を解き明かしていく経緯が綴られています。地震によって発生した山津波によって木や建物が立ったまま移動する事例を積み重ねることで、芦の湖畔の西側斜面の林が立ったまま芦ノ湖に滑り落ちて「逆さ杉」となったというその経緯を綴った章には、当時NHK大河ドラマなどで繰り返し映像化され、当たりを取っていた山本周五郎の歴史小説「樅ノ木は残った」をもじって「モミの木は滑った」というタイトルが与えられています。


とは言え、芦ノ湖に沈んだこれらの木々が、沿岸で修行のために住み着いた箱根権現の修験者にも目撃され、様々な由緒を生み出したものであることは確かな様です。「風土記稿」足柄下郡図説の「蘆ノ湖」の項には、箱根権現の由緒などを多々引用して「逆さ杉」について記述しています。

○蘆ノ湖 …又湖中に五名木あり、

  • 錫杖木白河津の邊にあり、形似を以て名とす、安永中巨波の爲に岸にうち寄せらる、故に取て寶庫に納置、白檀に似て香あり、
  • 目代木計計良記と訓ふ、錫杖木の西北湖心に立り、丸き木にて、切口の徑二尺五寸、此木のある所、古は三國の界域なりしと云、緣起曰熟觀四境風致、地跨伊駿相三州、因分其域、而良材立波心、號名目代木、按ずるに【古今集】甲斐歌に、甲斐ヵ嶺をさやにも見しかけゝれなく云々、顯注にけゝれなくは、心なくと云心なり、或はけゝらなくとも云、らとれと五音同きなり、甲斐國の風俗とも申、それも五音にかなひ侍るにや、定家卿云、けゝれなくは、心なくなりとあり、是によれば、けゝら木とは、こゝろ木と云事なり、總て物の眞中を心と云、池の心など云如く、此木の立てる所、湖水の心なる故、心木と名づけしならん、且當所は甲斐國と接近の地なれば、其方言此邊まで及びて、けゝら木と唱へ來りしなるべし、別當寺に實朝卿此木を詠ぜられしと云和歌あり、足柄や箱根の海に目代木あり三國を分て立は白浪、是は下に載る【金槐集】の歌を誤傳へしならん、目代の文字を用ゐる事詳ならず、目印などの義にや、
  • 栴檀訶羅木勢牟太牟加良保久と訓ず、目代木の西波心に立り、是も丸き木にて、切口の徑一尺二三寸、緣起曰、西汀有毒龍、人民多不免損害、萬卷臨彼深潭、築石臺而令禱、爾毒龍改形、棒寶珠并錫杖水瓶、乞要受降、即咒而繫之以鐵鏁、號其幹名栴檀訶羅木、厥形九頭毒龍也、臺石未磷、巍然于波間、
  • 故杉古須紀と訓ず、西の方湖水の落口どうこ淵と唱ふる水中に立り、切口の徑四間程、中は空口となり宛も桶の如し、
  • 影向杉夜宇加宇須紀と訓ず、白川津の涯にあり、大さ一圍許、萬卷上人毒龍降伏の時、神の影向せし古木なりと云、按ずるに此餘湖水の南漕入山に、矢立杉及別當院内にある浦島櫻を合て、箱根の七名木と稱す、矢立杉の古木は枯し故、三百年許前、豆州山中邊より彼木の實生を移し植たり、元文中の境論に、此地箱根宿の内に入れりと云、
と呼べり、…慶長十四年五月、上総介忠輝卿湖中に遊泳し給し事あり、【柳營尊胤錄】曰慶長十四年五月上總介忠輝主、箱根の湖水に入給ふ、是は忠輝水練の達人に依てなり、今年十八、【東武實談】曰、…或書曰、湖底に靈妖ありとて、人の入ものなきに忠輝主泳で水底に入、暫して出、水中には枯木多きのみと仰られしとなり、按ずるに此事を慶長八年となすものあるは非なり、

(卷之二十二 足柄下郡卷之一、「五名木」については適宜一覧化、「東武実談」の引用は省略)


かつてはこの逆さ杉のうちの1つが伊豆・駿河と相模の国境を示していたという記述も見えますが、その信憑性についてはここではさて置くとして、他にも芦ノ湖に棲む龍が形を変えて守っているとか、岸辺に打ち上げられた逆さ杉の1つが宝物として祀られている等々、この「逆さ杉」はむしろ同地で崇拝の対象になっていたことを示す記述が多いのが目につきます。


そうなってくると、ケンペルが言う様にこれらの逆さ杉が適宜用材として用いられていたという記述は不自然に見えて来ます。湖中にわざわざ潜って伐り出して用材として使っているものを、打ち上げられたものについては宝物として崇めるというのは、今ひとつ筋が通らない様に見えます。以前取り上げた様にケンペルと通詞の間の意思疎通に問題があったと思われる事例が幾つか挙げられることを考えると、ケンペルのこの箇所の記述も「逆さ杉」と「神代木」の話が混線してケンペルに伝わった可能性が高そうです。


仙石原には「イタリ」という地名が残る
元は「板里」と書き、神代木を産出したことに
由来するという
同地にゴルフ場や浄水場が建設された際にも
敷地内から神代木が出ている
実際、「ガイド・ブック」によれば、享保16年(1731年)の仙石原村と箱根権現領との境界争いに際して奉行所から出された裁定文によれば「数十年以来、仙石原之者共、埋杉(うもれすぎ)掘出し(かせぎ)致義無紛(いたすぎまぎれなく)(同書113ページ)」とあり、江戸時代初期から仙石原村が神代木を掘り出していたことを奉行所が認定する内容になっています。ケンペルが箱根を通過した元禄4年はこの裁定の40年ほど前に当たり、やはりケンペルが通詞経由で聞いた話には神代木の話が紛れてしまっていたと考える方が筋が合いそうです。

ところで、「風土記稿」ではこの「神代杉」が「挽物細工」のために用いられているとしています。現在でも箱根細工の象徴とも言える寄木細工の模様のうち、黒や褐色の部分にカツラ・ケヤキ・クリの神代木が用いられているのですが、こうした用途に用いる様になったのはいつ頃からのことなのでしょうか。

「風土記稿」では「挽物細工」と呼んでいますが、これはどちらかと言うと同地で江戸時代以前から行われてきた轆轤(ろくろ)によって作られる盆・椀などの盒器を作る方を指します。轆轤で周囲を削ってしまうこうした製法に、希少品である神代木をまるごと使っていたというのは少々考え難いものがあります。

「箱根細工物語」(岩崎宗純著 1988年 神奈川新聞社かなしん出版)では、箱根で寄木細工を行う様になった時期を、シーボルトの「江戸参府紀行」(文政9年・1826年)やフィッセルの「参府紀行」(文政3年・1820年)の記述に「象嵌細工」「寄木細工」といった記述が見えることを根拠に、文化文政時代には行われる様になっていたと推定しています(同書84〜87ページ)。シーボルトの「江戸参府紀行」は以前も引用して紹介しましたが、彼は値段を見て購入するのをあきらめ、駿府で同様のものを求めています。こうした傾向からは、箱根細工がこの頃には装飾性に重きを置く様になっていたと考えられます。

個人的には、こうした傾向から考えて、神代木を箱根細工に使う様になったのも、この文化文政時代に端を発するという寄木細工と同時期か、あるいは多少時代を下った頃ということになるのではないかと思います。文化年間の「七湯の枝折」ではまだそのことが記されておらず、天保年間に成立した「風土記稿」になって初めてそのことが記されているのは、あるいは神代木が寄木細工に使われる様になった時期がその間に来るからなのかも知れません。
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相州土肥郷の「樒」補足:樒花問屋と花松問屋

梅園草木花譜春之部「樒」
「梅園草木花譜春之部 1」樒の図(右)
「大和本草」などの「莽草」の表記が紹介され
「樒」の字は「國俗」と記す
用途については「佛花」「抹香」が挙げられている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
今回は以前取り上げた相州土肥郷の「(しきみ)」の補足です。相州側ではなく江戸側の動きについて、「諸問屋再興調」に見える問屋結成を目論む動きを少し見ておきたいと思います。少々引用文が多くなりますが御容赦を。

「諸問屋再興調」は以前に明礬硫黄を取り上げた際にも紹介しました。「天保の改革」の一環で問屋が解散させられましたが、却って市場が混乱し、本来の目的であった物価上昇の抑制も果たされていないという認識に至り、嘉永4年(1851年)になって問屋が再興させられることになります。「諸問屋再興調」の最初の2巻は幕府内の検討に当たっての資料がまとめられ、3巻目から老中から南町・北町両奉行に次の様に通達されて実務の記録へと変わります。

(朱書)(嘉永四年)三月八日、伊勢守殿(阿部正弘、老中)御直左衞門尉(遠山景元、南町奉行)對馬守(井戸覺弘、北町奉行)御渡、」

町奉行

去ル丑年(天保十二年)中、諸問屋組合停止被仰出候處、其以來、間屋組合商法取締相崩、諸品下直ニも不相成、却不融通之趣も相聞候付、此度問屋組合之儀、文化以前之通再興可被申付候、」左候迚、元十組之もの共冥加金上納等之御沙汰、彌以無之候間、文化以來之商法不流、諸商人共物價引下方之義厚心掛、実意に渡世相営候樣得と申諭、取締方等精〻可被申渡候、

(「大日本近世史料 諸問屋再興調 二」1959年 東京大学出版会 2〜3ページより、」は原文ママで原書の改ページ箇所を示すもの、変体仮名はゟ以外下付きとし、適宜置換え、傍注はルビとし位置を調整、強調はブログ主)


つまり、問屋に関しては文化年間以前から存在していたものを再興すること、但しそれらの問屋から上納されていた冥加金に関しては一切廃止とするので、その分価格の抑制に務める様に、という訳です。これを受けて対象となる問屋について上申を受けた上で内容を精査し、再興相当であるかどうかを確認した記録がこの「諸問屋再興調」ということになる訳です。

その「諸問屋再興調」の中に「樒花問屋」について上申を受け付けた記録が含まれています。その最初の書面は上申を受けた町年寄から奉行所に宛てたものです。

樒花間屋名前帳差出願之義奉伺候書付

町年寄

深川海邊大工町甚藏店佐治平・同人方同居❲宗カ❳兵衞外十五人之者共、年來樒花問屋渡世仕、

両御丸(本丸・西丸)御用樒花相納來候處、今般諸問屋再興被仰付候者、右之者共義も前〻之通規定相立、別御用御差支無之樣相勤度旨を以て、名前書差出候處、先前私共方名前帳無之者共付、一旦相下ケ申候處、去ル文化十一戌年、山方荷物引受之儀付、永田備後守殿(正道、北町奉行)御番所奉願、仲買共心得違」相弁、證文差入、出入内濟仕、同十三子年、規定相破候者共、同御番所奉願、相手方恐入、猶又規定取極内濟仕候旨、右両度濟口證文写差出、彼是御見合被成下、何卒以後名前帳差出、渡世取締仕、御用品納方仕度段相願之申候、

右之通相願候付、猶文化以前之古書物無之哉と相尋候處、右出入之外聢と仕候書留無御座候旨、且又御用納方之義者、間屋之内宗兵衞相勤、荷口船間等之用意外問屋共心掛、其節銘〻持合荷物宗兵衞方」差出候義ニ而、御用之義者御賄方ゟ宗兵衞方被申渡、尤御用高年〻不同御座候得共、凡壹ヶ年金十兩程有之候段申之候、右前斷之通、先例無之、一旦相下ヶ候得共、再()文化度出入濟口之趣申立、且乍聊御用品相納候ものも有之、旁以右名前帳之義、如何取斗可仕候哉、依之、差出候願書井両度濟口写相添、此段奉伺候、以上、

(嘉永四年)六月

舘 市右衞門(江戸町年寄)

喜多村彦右衞門(同上)

樽 藤左衞門(同上)

(上記同書295~296ページより、消去を意味する〃が脇に記された箇所はHTMLのSタグにて対応、以下変体仮名その他扱いは上に準ず)


町年寄の所へ「樒花問屋」を営んでいるという総勢15人の商人の代表2名が名簿を持ち込んで来たものの、町年寄側の持っている問屋の名簿には該当するものがなく、証拠を出せと言ったら内々の掟破りに対して口証文を取り付けたものの写しがあると持って来たが、どうすれば良いか御指示をいただきたく、という訳です。この時点で少々怪しい雰囲気が漂っているのですが、それに対してまず北町奉行所の与力4名の所見が続きます。

書面樒花問屋名前帳差出し願之義取調候処、文化度出入有之、右濟口問屋・仲買杯と中名目書顯規定取極、猥不相成樣、惣連印之題帳二冊仕立、壹冊宛問屋・仲買之内預り置候趣認有之、一旦仲間取極候姿候得共、天保四巳年正月、別紙之通、町〻世話懸り名主共に被仰渡、十組問屋を始、願濟組合定有之者、先規ゟ規定仕來者格別と有之、樒花問屋者願濟と申も無之、濟口之節取極候規定付、」右被仰渡之内、家業躰寄、仕法取極無之候者、実〻不取締之儀有之分者、自今町年寄申出、差配可受と有之基、共頃町年寄方申出、名前帳差出可然筋之處、其儘打過、今般問屋組合再興被仰出候節至り、名前帳差出度旨申立候者不相當付、右願者不被及御沙汰、彌取極無之候、不取締之義も候ゝ、追別段可願出旨申渡、願書差返候樣、町年寄被仰渡可然哉奉存候、」

亥六月

谷村源左衞門(北町奉行所年番與力)

中島嘉右衞門(同上)

秋山久藏(同上)

磯貝七五郎(同上)

(上記同書297ページより)


書面の体裁は色々と取り繕った様になっているものの、問屋として奉行が設置を認めたものではないと判断しており、取下げさせるのが妥当という意見になっています。更にこれに南町奉行所の与力の意見が付箋に記されているのですが、北町奉行所側の見解を決定付けることが記されています。

亥六月廿七日(朱書、下同ジ)、致鰭付上ル、」

書面樒花問屋名前帳差出度願之義取調候處、此方御番所手形帳之内、明和九辰年、右問屋十壹軒相定度願、別紙書抜之通、願之趣御取上不相成、」訴狀御下ケと有之、御向方類役(北町奉行所)共取調申上候通、町年寄被仰渡可然筋と奉存候、

亥六月

仁杉八右衛門(南町奉行所年番與力)

東條八太夫(同上)

中村治郎八(同上)

東條八太郎(同上)

(上記同書298ページより)


本草図譜巻二十四「莽草」
「本草図譜」莽草(樒)の図
毒草の巻に収められ、実が毒であることを記す
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
明和9年(1772年)にこの樒花問屋の結成のための訴えが退けられていることが、奉行所側の記録から出て来てしまった訳ですね。これでは「文化年間以前」に問屋が存在していたことになりませんから、敢え無く却下という判断にならざるを得なかった訳です。一応北町奉行与力の意見は今回の再興は認められないものの、今後改めて機会があるかも知れないのでその時改めて…という含みのある意見になっていますが、幕末も差し迫った頃のことですから、恐らく江戸時代中にこの問屋は認められることなく終わったのではないかと思います。

商人側としては公認ではなくても実質的に問屋に近い運営がなされていたのだから、この機に何とか認めてもらえないかという思いがあったのかも知れません。とは言え、一度裁きがあって却下されたのであれば、その際に奉行から手渡された裁定書の写しが商人たちの手元にもあった筈ですが、70年ほども前の裁定ということもあって何とかなると考えたのでしょうか。

ところで、この樒花問屋の再興願いには全部で15人の商人の名前が並びました。明和9年の訴えの際の請書の写しが「諸問屋再興調」にも含められていますが、こちらでは商人仲間は9人と記されており、それから6人も増えたことになります。これだけの人数の商人がこうした不利な状況にも拘らず問屋結成を目論んで上申を繰り返していたことになりますから、少なくとも樒の花は江戸で底堅い需要があったことは間違いないでしょう。仏前花や抹香としての利用が主であれば、莫大な消費量を売り捌く様な商いではなかったと思えるのですが、商人の人数が相応に増えていることから見ても、樒の市場も相応に成長していたと見て良いでしょう。

これは、同じ「諸問屋再興調」に収録された「花松問屋」の記録と比較すると状況の違いが際立ってきます。町年寄に提出された名簿に記されていた商人の名前は、何とたった1人になっていました。

一 花松問屋

現在人數壹人

右花松問屋之儀者、御生花師三木松盛方御立(朱書)「松」其外御規定御入用常州鹿島松御用分相納、其餘市中賣捌來、天明八年中、町年寄名前帳差出し、問屋并世話役有之、進退仕、去ル丑年(天保十二年)御改革之砌相止候處、一躰」近來追〻上総・下総邊ゟ切出し地松と唱候品、市中草花屋共に直賣發行仕、鹿島松之儀者、運送相懸り高直付、平日仕入候もの無之、每年十一月頃ゟ正月頃限り卸賣致し候而已ニ而、追〻衰微仕候由、世話役共も離散仕、天保七申年、問屋壹軒相成候分、本鄕三丁目(朱書)「草」花屋惣兵衞と申もの引受、右惣兵衞ゟ四ヶ年以前申年(嘉永五年)、當持主神田仲町壹丁目」重五郎讓受、御用松納方仕、外同業之者無之、御用代之義不同御坐候得共、凡壹ヶ年金七兩余十兩位、松盛方ゟ受取候旨、右重五郎申之候、

右之通御坐候、前〻渡世之者共退轉仕、漸問屋壹軒、是迚も追〻讓替相成候得共、引續御用品相納罷在候付、右之者、今般問屋再興被仰付可被下哉、名前帳之義者兼被仰渡候通、」私共方取置、尤當時壹人渡世付、追加入之者出來候迠、居町名主奥印取之、并代替・讓替共名主差添可願出旨申渡、其刻〻御内寄合ニ而 、則此度名主共書上候名前帳壹冊奉差上候、此段申上候、以上

六月

舘 市右衞門(江戸町年寄)

喜多村彦右衞門(同上)

樽 藤左衞門(同上)

(上記同書368〜369ページより)


花松問屋が扱っていたのは正月の門松などで必要となる松ですが、「天保の改革」で問屋が解散させられてからは商売が立ち行かなくなって撤退してしまった商人が相次ぎ、嘉永の頃になって再興という段になった時に残っていたのは1人だけになってしまった、という訳です。正月用の松飾りなら相応に需要は見込めそうなものですが、常州鹿島の松を上物として取り扱っていたところが、房総半島からの松に押されてしまい値崩れしてしまったということでしょうか。正月用の松飾りが主ということになれば商売の季節変動も特に大きくなりますし、そうした事情に合わせた流通を維持することが出来なくなったのも撤退が相次いだ事情の中にはあるでしょう。


一方、明和9年の樒花問屋の訴状では、「豆州・相州・上総・房州其外所〻ゟ出候樒荷物凡百年余引受商賣致し來候」とあり、相州土肥郷以外にやはり房総半島からの入荷が多かったことが窺えます。仏壇の花や抹香としての用途が主であれば、需要が底堅いと言っても莫大な量を旺盛に売り捌く様な商いではなかったと思えるのですが、それでも問屋の結成が認められない中で花松問屋の様に値崩れせずに済んだのは、関東南部の山地がほぼ樒の生息域の北限に当たっているために、生産地が限定されていたからなのかも知れません。それであればもっと西の方から「下り品」が入っても良さそうではありますが、生花を扱うためにあまり遠方からの運搬に耐えられなかったのでしょうか。江戸に入る船便は全て浦賀に一旦停泊して荷物を改めなければならないのも、鮮度が必要となる品物では江戸近郊地に有利に働いたということになりそうです。

ここで挙げた樒花問屋と花松問屋の他に、花卉類や植木などを扱う問屋の再興の記録がないか、「諸問屋再興調」をまだ全部当たり切れていないのですが、こうして見ていくと江戸時代には現在の生花市場の様なまとまった組織はどうやら存在せず、個々の品目毎に必要に応じて問屋が出来たりしていたのが実情だった様です。そして、樒の場合は江戸近郊の限定された産地の側に有利な条件があり、江戸の商人も何とかそれに対抗すべく問屋仲間を結成しようと動いたものの、どうやら不発に終わってしまったということが、こうした記録から読み取れると言えそうです。
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