2014年10月の記事一覧

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国立国会図書館 電子展示会「描かれた動物・植物 江戸時代の博物誌」

「新編相模国風土記稿」の各郡図説に掲げられた産物山川編の産物について、個々に調べて記事をまとめるということを続けてきました。こうしたものの当時の実情について知ろうとすると、地元の史料を漁るだけではなく、そもそも江戸時代にはこれらの品々がどの様に意識されていたのかについて調べる必要が否が応でも出て来ますし、併せて現在はどうなったかについても確認しなければなりません。知っていたつもりのことでも改めて調べてみると違っているなどということも多々出て来ます。

最近は国立国会図書館で所蔵している文献などがデジタル画像化され、著作権の問題がないものから順にネット上でも公開されていますので、こういう調べ物をするのが随分と楽になったと思います。その分、更に手広く史料を見ていく姿勢が求められる様になってきているとも言えるのですが、とは言え江戸時代にどの様なものが著されたのか、ある程度の予備知識がないとなかなか取っ付きにくいのも事実です。

その様な配慮もあってか、国立国会図書館のサイト内には「電子展示会」と称したガイドが十数本まとめられており、その中に
と題したガイドが用意されています。江戸時代に書かれた書物の中から、動物や植物についてまとめられたものを簡潔に解説して紹介しています。

国立国会図書館デジタルコレクション」を有する図書館だけに、各章で紹介されている書物の多くがこのデジタルコレクションの該当ページへのリンクを有しており、解説付きのリンク集としても利用することが出来ると思います。2005年公開から既に9年が経過していますので、その間に追加されて公開されたものについては含まれなかったり、一部画像にリンク切れを起こしているものもありますが、その場合でも解説を手掛かりに史料を探索する手掛かりとして引き続き有効に活用できるでしょう。このブログの右側のリンク集にもこの「電子展示会」へのリンクを追加しておきました。

章立てについてはこちらのサイトマップから辿る方がわかりやすいかも知れません。主軸になっているのは第一章から第三章までですが、豊富に追加されたコラムなどの記事も、こうした江戸時代の書物をどの様に読むべきか、またこうした書物が書かれた背景などについての知識を得るのに役立ちます。

「コレクション紹介」では3つの文庫・蔵書について解説しています。こうした書物がどの様な経路で図書館の蔵書に収まったかを明らかにするものですが、特に「小野家旧蔵書」は「本草綱目啓蒙」などを著した小野蘭山の子孫から寄贈された資料が重要と思います。こうした経路が確実に記録されることによって、伝わってきた史料の由緒を確乎としたものにすることになるので案外重要なのですが、普段あまりこういう部分に触れられる機会が少ないために一般にはあまり認識されていないと思います。

内容については屋上屋を架すことになるので多くは触れませんが、「本草綱目」の(みん)からの伝来による本草学への関心の高まり、江戸時代の出版文化の拡がり、園芸の発展や貝集めなどの民衆の趣味の発展といった動きが、こうした書物が江戸時代に多数生まれる背景にあったことを、手際良く紹介していると思います。

これらの書物には図画を含んだものも多く、中には絵画としての鑑賞に耐える水準のものも少なくないと思います。こうした図譜の出版文化が、後にシーボルトが長崎で複数の絵師に植物の絵を多数描かせ、それを元に構成された「日本植物誌」の標本図へと繋がっている訳ですね。崩し字を読み解くのは難しくても、差し当たってこうした絵図を眺めていくだけでも得るものは多いと思います。植物や野鳥などがお好きな方は、ここに掲げられた各種の画譜から「デジタルコレクション」へと移動し、中を閲覧してみるのがお勧めです。

他方、小野蘭山関係資料からは蘭山の肖像画や書簡の下書き、木内石亭と並んで名を知られた木村蒹葭堂が小蘭山に差し出した誓約書など12点が展示されています。個人的にはこの中で、「本草綱目草稿」に目を引かれました。

本草綱目草稿冊3p180-181
「本草綱目草稿」巻3より「灌木類:桑」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

ここでは内容がもう少しわかりやすい様に、別の箇所を「国立国会図書館デジタルコレクション」から引いてきました。元は「本草綱目」の筆写本なのでしょうが、余白が黒や赤のメモ書きでビッシリと埋まっています。実はこれでも足らず、更にメモ書きを挟み込んでいたり、果ては袋綴じになっている部分を切り開いてその裏面にまでメモが書き込まれた箇所が多数あります。「デジタルコレクション」ではこれらを個別に撮影した上で、傍らに注記を記すことで相互の序列がわかる様にしていますが、上に掲げた「p180-181」の間に挟まれていた紙片を全て示すのに「デジタルコレクション」上では更に13ページが必要になっており、続く「p182-183」では袋綴じの裏面に記された書き込みが、裏写りした文字の間に多数記されています。書き付けられたメモの筆跡は何れも蘭山のものでしょうが、恐らくは異なる時期に幾度も書き込みが行われたことを示すかの様に、墨の色や筆の太さなどがメモによって異なっているのが観察出来ます。

書き込んだ蘭山本人の頭の中では、これらの書き込みは相互に繋がっていたのでしょうが、第三者の目にはもはやカオスに近いメモと言わざるを得ません。これを元に、彼は弟子たちに口頭で講義を行い、それを弟子が書き取って整理したものが、後に「本草綱目啓蒙」として出版されて世に伝えられることになります。

本草綱目啓蒙巻32桑
「本草綱目啓蒙」巻32より「灌木類:桑」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)

比較のために「本草綱目草稿」と同じ場所を「デジタルコレクション」から引いてきました。当然のこととは言え、こちらの刊行本に記されているのは「草稿」の中に詰まった情報のごく一部でしかないことが見て取れます。例えば、「草稿」では「灌木類」と記された下に「灌木」とは何であるかについて「詩経」を引いたりして説明されていますが、「啓蒙」からはこうした解説は取り除かれています。蘭山が講義の際にこうした部分については敢えて含めなかったのかどうかはわかりません。

蘭山の書き残したものを全て整理して理解しやすいものにするだけでも相当に時間を要する作業になるでしょうが、その様な作業は行われているのでしょうか。上記の「本草綱目啓蒙」は全部で48巻の大冊ですが、その背後には更に記されなかった情報が膨大に存在するということを思い知らされるには充分な「草稿」と言えそうです。この「電子展示会」は、そうしたことを教えてくれる場でもありました。
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短信:Googleマップの領域表示について

古いGoogleマップでの表示
古いGoogleマップでは町名検索で
領域が問題なく表示される
新しいGoogleマップでの表示(航空写真)
新しいGoogleマップの航空写真では
領域が表示できなくなっている
以前のGoogleマップ上では都道府県や市町村、あるいは町名で検索した時に、左のように領域が表示される機能があり、これは現在でも有効に作動しています。新しいGoogleマップでも同じ機能があったのですが、最近になってこれが航空写真の表示に限って表示できなくなってしまいました。

これはブログなどに埋め込んだ地図でも同様の現象が出ており、私のブログでも領域を示すために埋め込んだ地図で領域が出ないという間の抜けた状態になってしまっています。

新しいGoogleマップでの表示(地図)
地図表示では赤い点線で領域が表示されるが
見やすいとは言い難い
地図表示に切り替えると赤い点線で領域が表示されるのですが、見やすいものとは言い難く、いわゆる地形図ではないので地形が掴み難い点もあってこれまで航空写真での表示を選んできたのが実情です。

一時的な障害によるものの可能性もあるので、しばらくは静観しますが、復活しない様であれば何らかの方法で地図を置き換えることを考えないといけません。それまではお手数ですが、該当箇所では航空写真を地図に切り替えて御覧下さい。
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「【旧東海道】その15余録 ハコネサンショウウオ」の補足

随分と中途半端なタイトルになってしまいましたが…。

ハコネサンショウウオ表紙
「箱根町の天然記念物 ハコネサンショウウオ」
(大涌谷自然科学館編 1990年)表紙の写真(再掲)
最近、私のブログのアクセス履歴を見ていて、「ハコネサンショウウオ」をキーに検索して私のページにアクセスされた跡が幾つか見つかりました。何れも「【旧東海道】その15余録 ハコネサンショウウオ」のページを見に来られていましたが、この他に「タダミハコネサンショウウオ」というキーワードがあって、何が切っ掛けになったかがわかりました。

  • 「豊かな自然の証し」 タダミハコネサンショウウオ発見(福島民友トピックス) ※リンク先消失
  • サンショウウオ、新種発見 | 河北新報オンラインニュース ※リンク先消失

何れも10月9日の記事で、アクセスもこの日付近に集中していました。

これが切っ掛けになって自分の書いた記事を読み返していたのですが、どうも収まりの良くない箇所を見つけてしまいました。それでもう少し書き足してみようか、というのが今日のタイトルの意図です。

トゥーンベリやシーボルトが江戸への道中の行動を制限される中で、箱根の山中で採集した標本が、ハコネサンショウウオの学名の制定に繋がったことは確かです。しかし、その学名は
  • Lacerta japonica(トゥーンベリの唱えた学名)
  • Salamandra unguiculata(シーボルトが持ち帰った標本を元にシュレーゲル他が唱えた学名)
  • Onychodactylus japonicus(ホッタインが唱えた、現在の学名)
と、何れも「日本の」を意味する言葉は含んでいるものの、「箱根」を意味する言葉を含んでいる訳ではありません。

一方、和名の方は「ハコネサンショウウオ」と定められていますが、この和名の制定がトゥーンベリやシーボルトが持ち帰った標本に依存していることを裏付ける記述が、前回の記事では抜けています。その点はもう少し日本国内の文献を漁って、和名制定の経緯をきちんと調べるべきなのでしょうが、そこまでこの問題を追い込むことは出来ていません。

ヒントになりそうな記述が、前回の記事でも引用した「『箱根の文化財』第四号:特集ハコネサンショウウオ」(箱根町教育委員会編 1969年)の中に掲げられています。この「第1節 昭和5年沢田武太郎の“箱根地域動物相(Fauna Hakonensis)について”中の(ハコネサンショウウオ Lacerta japonicaOnychodactylus japonicus)の記事」と少々長い見出しの元に次の様な引用文が掲載されています(29ページ)。

ハコネサンショウウオは古来黒魚として人口に膾炙し、弄花の七湯の栞には其の図説さへあれども、学術的取扱に就ては未だ充分ならず。

安永5年(1776)和蘭貢参府の砌医Carl peter(ママ) Thunberg(春氏)随行して共に箱根を往復せり。其節ハコネサンショウウオを得て其の後之れを西欧にもたらせり。この標品に基き和蘭博物学者Houttuyn氏は(Salamandra japonica)なる名を撰べり。又Thunberg氏は後(Lacerta japonica)と定めたり。其の後Bonaparte氏に依りOnychodactylus japonicaと考定して今日に及べり。又属名(Onychodactylus)とはTchudi氏の創定せし所にして、爪の指と云ふ意味にして雄及幼雌は黒き爪を其の指に有すればなり。(Stejnegerに依る)日本産山椒魚の権威田子勝弥氏(理学界Vol.ⅩⅩⅢ no7, p33 大正14年)によれば未だ此の箱根山椒魚の卵は発見されて学者の研究されたものなく、従て発生に就ては暗黒なり。

分布は特に箱根に限らず本土全土に産するものなるが、和名に就ては箱根を冠し、学術的研究最初の材料となるものは実に彼の蘭医瑞典人Thunbergの箱根に得たる所に係るが故に学術上箱根は

Salamandra japonicaLacerta japonicaOnychodactylus japonicus, Type localityと云ふ(尚箱根とは箱根八里を云ふ意なれども、おそらくは須雲川畑宿辺ならんと想像せらる)

(昭和5年大箱根国立公園協会発行“大箱根国立公園” p49-50)

(強調はブログ主)


幾つか補足をしておきましょう。まず、この文章自体が「大箱根国立公園」という冊子からの引用ですが、日本の国立公園法が制定されるのは翌年の昭和6年(1931年)です。生憎とこちらの冊子は未見ですが、その日付の順から考えると、この冊子は国立公園の指定に向けて地元で発足した協会がその意義を関係方面にアピールするために作成されたものと思われます。なお、「富士箱根国立公園」が指定されたのは昭和11年(1936年)2月のことです(現在は伊豆半島を含んで「富士箱根伊豆国立公園」として指定されている)。

この文章を書いた沢田武太郎という人ですが、箱根・底倉温泉の旅館「蔦屋」を明治時代に経営していた沢田武治の孫に当たる人で、箱根の植物の研究で成果を上げた人です。動物は専門ではなく、恐らくは各方面の指導を仰ぎながらこの文章を書いたものと思われます。そのためかホッタインの定めた筈のOnychodactylus japonicusの学名を別の人物のものとしている辺りに不正確な部分が見受けられます。箱根の国立公園指定に向けて一帯の自然環境の豊かさを訴える必要から植物に限らず動物に関しても幅広く記述したものでしょう。因みに、先日来度々引用している「七湯の枝折」の1つも同家が「蔦屋」を買収するに当たって引き継いだもので、箱根町教育委員会が作成した冊子で釈註を加えた沢田秀三郎は武太郎の弟に当たります。

「日本産山椒魚の権威」として紹介されている田子勝彌トウキョウサンショウウオの学名(Hynobius tokyoensis)などを定めた人ですが、「タゴガエルRana tagoi)」にその名を残す人でもあります。なお、この頃にはまだハコネサンショウウオの卵が発見されておらず、生態が未解明とされていますが、この辺りの研究が進んだのは昭和40年代以降になってからのことです。

この沢田武太郎の記述に従えば、やはり「ハコネサンショウウオ」の名はトゥーンベリやシーボルトが採集した標本に由来することになります。少なくともこの見解が、以前引用した「箱根の文化財 第四巻」の「あとがき」に

しかし、タイプローカリティーとして“ハコネ”の名を持つ動物であり、分類学上永久に箱根に生存させるべき貴重な種の原型として、また古来より箱根の名産物となり、住民の生活にとけこんで現在に至ったゆかりの深い動物として、箱根に於てはぜひ保存しておきたい貴重な動物の一つと思われる。

(上記書47ページより)

と書かれている通り、箱根町の天然記念物制定のバックボーンにあることは確かでしょう。「『箱根の文化財』第四号」は今となってはごく限られた図書館の蔵書(確実なところでは神奈川県立図書館)を頼りにする以外にない冊子ですが、箱根町がこの生物を天然記念物に指定するまでにどの様な経緯を経たのかを理解する上では必要な資料であると思います。

最近日本国内で新たに種名を確定されたハコネサンショウウオの仲間は、「タダミハコネサンショウウオ」の他にも
  • キタオウシュウサンショウウオ Onychodactylus nipponoborealis
  • ツクバハコネサンショウウオ Onychodactylus tsukubaensis
  • シコクハコネサンショウウオ Onychodactylus kinneburi
があります。うち、「キタオウシュウサンショウウオ」以外は何れも「ハコネサンショウウオ」を内包した和名が付けられています。「タダミハコネサンショウウオ」の学名は「Onychodactylus fuscus」、これらの中では学名に和名と同じ地名を含んでいるのは「ツクバハコネサンショウウオ」だけということになりますね。因みに、「シコクハコネサンショウウオ」の「キンネブリ」は石鎚山地における本種の地方名に由来するものだそうです。箱根の山椒魚がそうであった様に、この「キンネブリ」もやはり産地では薬効を信じられていたものの様です。

今後の研究によって、これらの和名も更に整理される可能性もありますが、「Onychodactylus」が「ハコネサンショウウオ属」と訳されていることを考えると、互いに隔たった地名が複数繋がる奇妙な和名になっているのも、これまでの歴史が織り込まれたものであるとも言えるでしょう。こうした和名や学名に見える歴史を辿ってみるのも、また良いかも知れません。
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ケンペル・トゥーンベリ・シーボルトと「梅」(その2)

前回に続き、江戸時代に長崎から江戸へ往参したオランダ商館長に随行した外国人のうちから、今回はシーボルトについて、「梅干」や関連するものがないかを私なりに探してみたものを掲げます。

3.シーボルトの標本図と「梅干」処方箋


Prunus mume SZ11.png
シーボルト「日本植物誌」中の梅の標本図(再掲)
("Prunus mume SZ11"
by Philipp Franz von Siebold
and Joseph Gerhard Zuccarini
- Flora Japonica, Sectio Prima (Tafelband)..
Licensed under Public domain
via Wikimedia Commons.)
シーボルトについては「梅干について:「新編相模国風土記稿」から(その1)」でも掲げた「日本植物誌」中の梅の標本図から話を始めるべきでしょう。梅の学名の「Prunus mume」もこのシーボルトとズッカニーニの命名によるもので、現在までこの学名が維持されています。そのラテン語の表記の中に「むめ」という日本語の古い表記を含むことが、彼らの採取した標本が日本に由来することを示しています。

標本図には白梅と紅梅の2種類の花をつけた枝が示され(紅梅の方は八重に描かれている)、それらとは別に葉と実をつけた枝が描かれています。そして、その実の断面、中の種とその断面までが図示されています。Wikimedia Commonsに掲載されている画像は画質改善処理が施されていて、後背に未彩色の枝がもう1本描かれているのが良く見えませんが、京都大学理学部植物学教室所蔵 『Flora Japonica』の画像では、紅梅の枝の背景に葉を付けた枝が線画でもう1本描かれているのが確認出来ます。

私は未見ですが、これらの絵図は長崎・出島で雇った数名の絵師たちの手による絵が元になっている様です。それを「日本植物誌」の刊行にあたってドイツ人の画家が標本図へとまとめ上げている訳です。同じ木に白梅と紅梅が同時に咲くことは稀ですし、梅の葉が出るのは花が終わってからですから、この標本図に描かれているのは時期の異なる複数の梅の木のものであることになります。梅に関してはかなり豊富に観察を繰り返し、絵師に複数枚の絵を描かせたことが窺えます。それぞれの枝が別々に描かれているのは梅のこうした生態からは正しいと言えますが、紅梅の背景がそれほど広く空いている訳ではないのに、敢えて葉の付いた枝が線画で描かれているところを見ると、ドイツ人の絵師にはそういう梅の生態についてまでは知らされなかったのかも知れません。

シーボルトらが学名を確定したという点は、トゥーンベリが「日本植物誌」にウメを含めなかった点とは辻褄が合います。前回紹介した伊藤舜民の訳本にはシーボルトの書き込みもあり、シーボルトが日本に持って来たこの本を伊藤が翻訳するのを、シーボルトも直接手伝っていたことがわかります。日本で既に一般的に植えられる様になっていたこの木の記述が「日本植物誌」に欠けていることにシーボルトが気付いたために、その標本を隈なく集め、その学名の制定に力を注いだということは充分に考えられます。

ただ、そうなると気になるのがケンペルの記述です。前回「跡見群芳譜」の「ウメ」の項ではケンペルがウメをヨーロッパに紹介したとされていることを余談に記しましたが、そうだとするとトゥーンベリはそのケンペルの知見を引き継げていなかったことになります。少なくともトゥーンベリはヨーロッパの「Plum」と日本の「梅」が違うものであることに上関で初めて気付いたことになるのですが、ケンペルが果たして梅についてどの様にヨーロッパに紹介していたのか、またそれがどの程度共有されていたのかが気になるところです。

また、まだ充分にヨーロッパ側の知見が固まらない中で、通詞が「梅」の訳語をどうやって選び取ったのかも気になります。トゥーンベリの記述からは割と早い時期から「Plum」という訳語を通詞が使っていた可能性が浮かび上がりますが、トゥーンベリは現物を見てそれがヨーロッパで「Plum」として知られている植物のものとは違うことに気付いている訳です。一方のケンペルは、江戸の奉行所で盃に注がれた梅酒は目にしていても、必ずしも梅の実の実物を見ているとは限りません(仮に盃の中に梅の実を入れてあったとしても、漬けられた後の実からは樹上にある時の様子までは分かり難いと思います)。ですから、もし通詞がこの時も「Plum」という訳語を使っていたとしたら、ケンペルはじめ当時のオランダ商館一行にはそれがヨーロッパの「Plum」とは違うものであることがわかっていなかったのかも知れません。彼らが味わった「梅酒」について通詞から説明を受けた時には、それが「(ヨーロッパの)Plumで出来たお酒」と受け取られていたのかも知れず、「梅酒」の意訳はそういう知見の差を上手く伝えていない点には注意すべきなのかも知れません。

最近になってケンペルの草稿が全集にまとめられ、その内容が当初刊行されたものと色々と異なっているということもある様ですので、その点も含めてケンペルが梅についてどの様な知見を持っていたのか、もう少し掘り下げてみる必要があるのかも知れません。




トゥーンベリもそうでしたが、シーボルトも日本滞在中に植物標本を多数集め、絵師による絵図などと共にヨーロッパに持ち帰りました。江戸への参府の途上でも街道沿いの植物を観察する眼差しを強く持っていたのは当然のことでしょう。トゥーンベリの「江戸参府随行記」でも道中で見かけた植物の記述はありましたが、シーボルトの「江戸参府紀行」に比べると比較的文量が少なく、大まかな紹介に留められていました。それに比べると、シーボルトの記述はかなり微細にわたっています。

シーボルトがオランダ商館の一員として江戸へ向けて長崎を出発したのは新暦で2月15日(旧暦1月9日)、丁度梅の咲く頃ですから、道中でもしばしば梅の花を見る機会があった様です。例えば、途上の下関で数日滞在している際の記述でも、梅の咲く早春の様子が描写されています。

下関港付近の大正11年の地形図
(「今昔マップ」より)
東側に「亀山宮」「赤間宮」が見える
シーボルトの滞在した南部町は港の西側
その付近の海岸から
海峡や赤間関の風景を見ていたと思われる

(注:文政9年・1826年2月25日〔旧1月19日〕)日本人は広々とした自然にひたって楽しむことを心から愛していて、冬の衣をまとっていても自然は彼らの活発な空想力に活気を与えるだけの充分な魅力をもっている。また同時に彼らは、小旅行の最中でも自然の喜びを宗教的な信心や歴史的回想によって深めるどんな機会をも利用せずにはおかない。仕事が終わったので、われわれは小川の傍にある心地よい漁師の小屋の前に腰をおろした。早春のことで、そこかしこにもう人々好むウメの花が咲き、ヤマツパキもすでにかたい(つぼみ)をほころばせていた。われわれの向いの流れの速い海峡の対岸には神社のある前山がそびえ、右手の突き出た岩山には赤間関の城趾と亀山八幡宮の社殿、そのすぐ傍に阿弥陀寺が見えた。こんな荘厳な自然の眺めのまっただ中でこのような記念物に取り囲まれて、情味ある日本人は友人と酒を汲み交わし、自然や祖国や友達に対する心情を語らないではいられないのである。

(「江戸参府紀行」斎藤 信訳注 1967年 平凡社東洋文庫87 98ページより、ルビも同書に従う)


また、室(現・兵庫県御津町室津)を出発した辺りでの記述でも、道沿いの様々な植物を自らの足で歩きながら観察しており、その中にも梅の花が咲いていたことが記されています。

兵庫県御津町室津付近の地形図と色別標高図
(「地理院地図」より)
シーボルトの一行は室で船を降りて陸路を東へ進んだ
右手は海、左手は山という沿道の景観だったことが窺える

(注:同年3月9日〔旧2月1日〕)人足や駄獣にとって同じように骨の折れるけわしい岩の道が谷に下ってゆく。私の駕籠かきはとにかく重荷を負わなかった。それは何かを調べたり見つけたりしたところでは、私は徒歩で進んだからで、駕籠の中にはいくつかの機具と本を残しておいたに過ぎなかったからである。山の斜面の植物はきわめて少なかった。数本のモミ・ネズ、さらにヒサカキ・ツツジ・モチノキ・背の低いタケの茂み、バラが大きな岩石や雲母片岩におおわれたやせた草地から顔を出している。湿った岩の壁には空色のキランソウの花が、そして道に沿って日本種のホトケノザやタンポポの花が咲き、またそこここにはウメの花が開いていた。われわれはこれらの春の植物の走りがすでに以前日本の南部で花を咲かせているのを見て来た。

(上記同書140〜141ページより)

上記の下関の風景の描写からは2週間近く過ぎていることになりますが、その間に季節が進んだことを示す様に、花を咲かせている植物が多彩になってきています。梅の記述が登場するのは大坂に到着するまでの区間で、その後は見られなくなります。これも勿論道中の季節の移り変わりと関係があるでしょう。

その一方で、私が探した限りでは、「江戸参府紀行」中には梅干やその他梅の加工食品に関して直接記した箇所を見つけることは出来ませんでした。強いて言えば、江戸滞在中の5月2日(旧暦3月26日)の町奉行訪問時の記述に

気分転換に二、三品の暖い皿がでて、茶の代りに酒とリキュールでもてなされた。

(上記同書206ページより)

とあるのは、ケンペルの記述も合わせて考えると、梅酒のことをリキュールと表現している可能性を考えても良いかも知れません。もっとも、「本朝食鑑」には梅酒以外にも蜜柑酒などの記述もありますので、「リキュール」と呼ばれそうな混成酒が当時の日本に1つしかなかったとも言い難い点は念頭に置く必要はあります。




一方、シーボルトが日本滞在中に書いた処方箋が全部で16枚残っていますが、そのうちの1枚に梅干を処方したものが含まれています。
  • 梅干(ムメボシ) 1オンス半(46.7g)
  • センナ末 1ドラム半(5.83g)
  • 酒石クリーム 1ドラム(3.89g)
  • 蜂蜜 半オンス(15.6g)

(上記長崎大学薬学部のページより)


日本では未知の処方を知っているかも知れない舶来の医師が近傍にいるとなれば、その噂を聞き付けてシーボルトの元を訪れようとする患者や医師が少なくなかった様です。「江戸参府紀行」の上記の下関滞在中の引用の少し前にも、同じ日の早朝に診察を行ったことが記されています。

二月二五日〔旧一月一九日〕早朝、私の門人とこの地方出身のほかの医師たちが患者を連れてきて助言と助力を求めた。いつものように慢性病・治療せずに放っておいたものや不治の病気であって、詳しい診察には多くの時間と忍耐を必要とした。私は門人たちのためにできるだけのことをしたが、門人らが私にみてもらう希望を持たせて慰め、ときには遠い土地からここへ連れて来た患者が、もし力になってもらえずに再び引き上げて行ったとしたら、門人たちはそのために評判をおとしたことだろう。そこで私はときどきは意志に反してホラを吹かざるをえなかった。

(上記「江戸参府紀行」 96ページより)

「江戸参府紀行」にはこの他にも、道中や長崎滞在中に診察を行った旨の記述が幾つか含まれており、その中には長崎滞在中に診察した「薩摩の老公(島津重豪(しげひで))」と江戸で再会する、といった話もあります(「江戸参府紀行」193〜194ページ)。現在まで伝えられているシーボルトの処方箋はこの様な形でシーボルトを頼ってきた患者のために切られたものであることは確かでしょう。

勿論シーボルトは自ら日本語を書くことは出来なかった筈ですから、処方の部分は第三者に何らかの方法で指示して書き取らせた上で、自身の指示であることを証明するために自署を添えたのでしょう。上記ページにある様に、シーボルトも日本にあらゆる薬を持ち込んでいた訳ではありませんから、患者に処方できる薬に制約がある中では、現地の療法なども参考にして入手できるものの中で処方箋を書くことになったものと思います。そういう中に、梅干について民間に伝わる効能を参考にしたと思われる処方が含まれているのはなかなか興味深いことです。お腹を壊した時にお粥に梅干を添えたりするのは割と良く聞かれる民間療法の1つでしょう。

Adiantum monochlamys hakonesida01.jpg
箱根草(ハコネシダ:Adiantum monochlamys)
("Adiantum monochlamys hakonesida01".
Licensed under CC BY-SA 3.0
via Wikimedia Commons.)
以前ケンペルの「江戸参府旅行日記」中の「箱根草」に関する記述を紹介しましたが、後に日本ではケンペルがこの草の薬効を知らしめたとする様になるのに対して、ケンペル自身は地元で薬効が知られているものとしていました。ケンペルが何処でその知識を得たのかはわかりませんが、東アジアにしか分布しない植物の薬効を、来日して日の浅いヨーロッパ人が知っていて日本には知る人がいなかったとするのも不自然ですから、ケンペル自身が何処かで日本の民間に伝わる用法を入手して処方したと解する方が実情に合っていそうです。

シーボルトやケンペルに限らず、恐らくはオランダ商館に赴任した歴代の医師も、同様に日本の患者を診て欲しいという要望を受けることが多かったのでしょう。そこで、オランダ商館の歴代の医師も日本で利用可能な処方について常々学ばざるを得ない状況に置かれていたということなのかも知れません。

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ケンペル・トゥーンベリ・シーボルトと「梅」(その1)

この話題は当初前回までの梅干についての話の中で採り上げようと思ったのですが、意外に本題が長くなってしまったので、余談として独立して書き記すことにしました。江戸時代に長崎から江戸へ往参したオランダ商館長に随行した3人の外国人、ケンペル、トゥーンベリ、そしてシーボルトがそれぞれ記した記事は、これまでも何度か採り上げてきました。それらの中に「梅干」やそれに関連しそうなものが出て来ないか、あるいは彼等について残されているものの中に「梅干」に関連するものがないか、差し当たって私が見つけることが出来たものをここでまとめておきたいと思います。

1.ケンペルに振る舞われた「梅酒」


Beschrijving van Japan - titelpagina editie 1733.jpg
ケンペル「Beschrijving van Japan」扉
「江戸参府旅行日記」は
この中の江戸への往参の部分
("Beschrijving van Japan
- titelpagina editie 1733
"
by エンゲルベルト・ケンペル
- Kaempfer, Engelbert (1729年)
This file has been provided
by the Maastricht University Library
from its digital collections.

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via Wikimedia Commons.)
ケンペルの「江戸参府旅行日記」では「梅干」は出て来ませんでしたが、2回の江戸滞在中にはいずれも「梅酒」と思われるものを振る舞われています。

(注:元禄4年・1691年3月30日)最初の奉行の所では、火酒の代りに甘い梅酒を、もう一人の奉行の所では、一切れの混ぜ物の入ったバンのようなものを冷たい禍色の汁に浸け、すったカラシと二、三個の大根を添えて出し、最後に柑橘類に砂糖をふりかけた特別な一皿と挽茶を出した。

(「江戸参府旅行日記」斉藤信訳 1977年 平凡社東洋文庫303 200ページより)

(注:元禄5年・1692年4月22日)(八)砂糖をかけた柑橘類二切れ。一皿の料理が出る間に一杯の酒を飲んだが、私がこれまで口にしたうちではうまい方であった。またブランデーの壺に入れた一種の梅酒が二回出されたが、大へんよい味であった。食事には御飯は出なかったが、すべては非常に風変りでおいしく調理してあった。

(上記同書281ページより)


原書(原稿はドイツ語、右の扉は1733年刊オランダ語翻訳本)で何と書かれてあったのか確認出来ていませんが、国立国会図書館デジタルコレクション所収の国民書院版の翻訳(「長崎より江戸まで」衛藤利夫訳 1915年)では「甘き梅の實より造れるスープ」と訳しています。「American Libraries : Internet Archive」で同書の英訳本を確認したところ、この箇所は

In the house of first commissioners, a soop made of sweet plums was offer’d us instead of brandy.

(“The History of Japan: Together with a Description of the Kingdom of Siam” 1906 MacLehose Volume III, p.97)

とあり、恐らく原書の表記もこちらに近く、東洋文庫版はこれを意訳しているのでしょう。なお、国民書院版では2年めの奉行所訪問の際に出されたものについては8項目中の5項目目までしか含まれていません。英訳本では

We were likewise presented twice, in dram cups, with wine made of plums, a very pleasant and agreeable liquor.

(ibid. pp.169-170)

と、この箇所では「wine」「liquor」とアルコールであることを示す表現になっています。

江戸時代当時の梅の実を使った汁物の料理として「甘い」味付けのものは他に思い当たるものもなさそうですし、2年目には「酒」であると書いている訳ですから、1年目の「soop」も「梅酒」と訳すのは妥当なところだと思います。ヨーロッパには古くからリキュールがありましたから、ケンペルがそれを知っていれば「梅で作ったリキュール」辺りの表現もあり得たと思いますし、酒がスープと表現されているというのは何だか妙ですが、ケンペルがアルコール度数が妙に低いと感じ取った故でしょうか。通詞がケンペル一行にこれを何と説明したのかも気になります。

梅酒は人見必大の「本朝食鑑」(元禄10年・1697年)の穀部之二・造醸類十五にも

梅酒(うめしゆ)。痰(水毒の一種)を消し渇を止め、食を進め、毒を解し、咽痛を留める。半熟の生梅の大ならず小ならず中くらいのを、早稲草(わせわら)灰汁(あく)に一晩浸し、取り出して紙で拭い浄め、再び酒で洗ったものを二升用意する。これに好い古酒五升・白砂糖七斤を合わせ拌勻(かきま)ぜ、甕に収蔵(おさ)める。二十余日を過ぎて梅を取り出し、酒を飲む。あるいは、梅を取り出さずに用いる場合もある。年を経たものが最も佳い。梅を取り、酒を取り出して、互いにどちらも利用する。

(「本朝食鑑1」島田勇雄訳注 1976年 平凡社東洋文庫296 131ページより)

と、その製法が他の果実酒と共に載せられており、食を進める作用があると紹介されています。従って、確かにケンペルが江戸に滞在していた頃に梅酒が出て来る可能性はあったと言って良いでしょう。ただ、当時はまだ貴重だった砂糖が大量に必要になることなどから、武士などの一部の階級で嗜まれていたものの様で、ケンペルの時も何れも奉行所でこれを出されています。つまり、そういう希少なものを振る舞われて歓待を受けたということになる訳ですね。東洋文庫版では「火酒の代りに」ですが、英訳本では「brandy」とあり、国民書院版もそれに倣って「ブランデー」の代わりと訳されています。当時は「王侯の酒」とされていたブランデーと並べていることから、ケンペル一行もこの「梅酒」を歓待のしるしとして受け取ったのだろうと思われます。


2.トゥーンベリが見た「梅干」と「奈良漬け」


トゥーンベリの「江戸参府随行記」では、瀬戸内海公開中に逆風に遭い、風待ちで3週間ほど滞在することになった上関(現:山口県上関町)で見た梅干と梅や白瓜の奈良漬けを記録しています。梅の実の一連の記述から、トゥーンベリには梅がまだ馴染みのない植物であったことがわかります。

(注:安永5年・1776年3月頃)乾燥したり酒粕に漬けたりするこの国特有のいくつかの果実を、私は観察することができた。このような方法は、日本と中国だけにあるそうである。スモモかその同種の果物を乾燥したものは、梅干しと呼ばれていた。そして漬けてあるのは奈良漬けと言われ、まるごとか大きすぎるときはいくつかに切ってある。これには酒または酢の醸造後に樽のなかに得られる酒粕が利用される。その酸が果実に浸透してある種の味を作り、また一年中あるいはそれ以上も貯蔵できるようにする。「ウメ」はこの国の言葉で梅という植物の果実を意味する。「奈良(ナラ)」は、果実を一般にこのような方法で酒粕に漬けている日本の地方を表わしており、そして「ツケ」は漬けることを意味する。白瓜は一種の大きな瓜で、一般にこの方法で漬け、四分の一の大きさの樽に入れて他の地域に輸送する。胡瓜漬け〔ピクルス〕のように、ステーキまたは他の料理と一緒に食べる。奈良漬けの味は胡瓜漬けとよく似ている。

(「江戸参府随行記」高橋文訳 1994年 平凡社東洋文庫583 118ページより、ルビも原文通り)


この箇所の記述を他の翻訳と比較して表記を確認しようと思ったのですが、「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められている翻訳(「ツンベルグ日本紀行」山田珠樹 訳註 1941年 奥川書房)の上関滞在中の箇所にはこの記述がなく、適切な比較の出来そうなものを見つけることが出来ませんでした。底本の相違によるものか、あるいは訳者や編者が適宜省略を加えた結果なのかは不明です。原著はスウェーデン語で、仏訳本は見つかったものの英訳本を見つけることが出来なかったので、こちらは他言語の訳本を確認するのは断念しました。

この中でも梅干と共に粕漬けが紹介されており、どちらも一般的に漬けられていることが窺えます。「他の地域に輸送する」とあるものの、これらの漬物が当時どの程度遠方まで運ばれていたか、関連しそうな資料を見つけられませんでした。既に大坂周辺からも江戸に向けて梅干が送られていた時代ですので、かなりの長距離を移動した可能性もありますが、梅の産地が全国に拡大する中でそれぞれの産地がどの程度の販路の拡がりを持ち得たか、機会があれば追ってみたいところです。

最後の「ステーキまたは〜」は当時この様な肉食の風習がなかった筈の日本の記述としては変ですが、これも通詞が膳の添え物として説明したものをトゥーンベリなりに表現した故でしょうか。「味は胡瓜漬けとよく似ている」と書いているということは当然これらの漬物を口にしてみた筈ですが、彼が果たして梅干も味わってみたかどうかは気になるところです。

Flora Japonica.cropped.jpg
トゥーンベリ「Flora Iaponica」扉
("Flora Japonica.cropped
by Carl Peter Thunberg.
Licensed under CC 表示-継承 3.0
via ウィキメディア・コモンズ.)
後にトゥーンベリはこの日本滞在中に収集した標本を元にして「日本植物誌(Flora Iaponica)」を著していますが、これをシーボルトが来日した際に日本に持ち込み、ここに記されている学名に対応する和名を書き並べたものが「泰西本草名疏草稿」(伊藤舜民(圭介)訳 文政11〜12年)として残されています。この中では「Amygdalus persica モモ 桃」に続いて「Amygdalus nana」に一旦「ムメ 梅」と記された後、上から縦線で消されています。実際、この学名で知られる植物は現在は「Prunus tenella」と命名されており、梅とは違うものです。訳者も後からその点に気付いて訂正したものの様ですが、この本の何処かには「梅」の項目がある筈だと考えた故の取り違えでしょうか。サクラ属Prunusが並ぶページ中にも梅と思しき項目がなく、やはりトゥーンベリのこの本では梅は採り上げられなかった様です。

上記の様に、少なくとも上関で梅の実の漬物を介してウメに関しての知見を得ており、1年以上日本に滞在していれば恐らく梅の花を目にする機会もあったであろうトゥーンベリが、何故「日本植物誌」にウメを含めなかったのかは良くわかりません。GoogleBooksがデジタイズした「Flora Iaponica」を検索してみると、「PLANTAE OBSCURAE」と題されている章の中に「104. Prunus floribus plenis, umbellis pedunclatis」とあり、その「Iaponice」の項目に「Niwa Ume(庭梅?)」とあるのがどうも関係ありそうですが、如何せん相手がラテン語なので私にはこれ以上の判断が出来ません。Google翻訳に「Plantae obscurae」を入れてみると「無名の植物」と出て来ますので、あるいはトゥーンベリが梅について充分記述できず保留したのでしょうか。

少々長くなったので、シーボルトについては次回に廻します。

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