2014年09月の記事一覧

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相州土肥郷の「樒」について:「新編相模国風土記稿」から

「新編相模国風土記稿」の各郡の産物から、今回は足柄下郡土肥鍛冶屋村と土肥宮上村で産していたという「(しきみ)」を取り上げます。
  • 山川編(卷之三):

    ◯樒足柄下郡土肥鍛冶屋、同宮上二村の山上に多し、

  • 足柄下郡図説(卷之二十二 足柄下郡卷之一):

    樒、土肥鍛冶屋、同宮上兩村の山上に多し、

(以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)


Illicium anisatum - Köhler–s Medizinal-Pflanzen-075.jpg
シキミの標本図
("Illicium anisatum
- Köhler–s Medizinal-Pflanzen-075
"
by Franz Eugen Köhler, Köhler's Medizinal-Pflanzen
- List of Koehler Images.
Licensed under Public domain
via Wikimedia Commons.)
「樒」については以前「【旧東海道】その15 箱根・湯坂路と畑宿(まとめ)」で、箱根山中の6ヶ村で正月に松飾りの代わりに樒を飾る風習があることを記しました。その伝であればこれらの村々も樒の産出に何らかの関り合いがあっても良さそうですが、「風土記稿」の物産ではこれらの村から樒が産出したとは記していません。

神奈川県の現存植生」(神奈川県教育委員会編 1972年)には「7. シキミ—モミ群集」(186〜191ページ)という1項目が設けられ、この群落内に生える木々の特徴について解説しています。この解説中では肝心のシキミについては殆ど触れられていないのですが、群集断面模式図ではシキミはモミ・ツガ・クロシデ・イロハモミジなどの林縁の上端・下端に生えている様に描かれています。これらの高木の森林群集の林縁に特徴的に現れる植物として代表させているのでしょう。そして、

丹沢札掛付近(海抜750m)や箱根外輪山の白銀山(931m)あるいは天照山神社(650m)付近には落葉広葉樹にモミが混生した植分やモミが優占している林分がみられる

(上記同書188ページより)

シキミ—モミ群集の立地は一般に傾斜角度22〜45°の急斜面で、土壌は浅いが適潤で安定している。

(上記同書189ページより)

とあり、丹沢や大山の比較的標高の高い、土壌の薄い地域に群落を作っていることを紹介しています。「丹沢大山動植物目録」(丹沢大山総合調査団編 2007年 平岡環境科学研究所)でもシキミは

シイ・カシ帯〜ブナ帯下部に普通。モミ林内に多い。

(上記書20ページより)

と記しており、丹沢山地内でも一般的な植物であることを記しています。こうしたことを考えると、箱根外輪山南部の海に面したこの2つの村が、樒を特に産物としている理由が問題になってきます。

「風土記稿」の両村の記述では
  • 土肥鍛冶屋村(卷之三十二 足柄下郡卷之十一):

    ○土產 △樒山腹にて叢生す、村人伐て都下に運致す、

  • 土肥宮上村(卷之三十二 足柄下郡卷之十一):

    土產 △樒山上に多く叢生す、江戸へ運致す、

と、伐った樒を江戸へと送っていたことを記しています。

樒は古くから仏事で用いられてきました。一説には弘法大師空海が樒を修法に使ったとも言われますが、「源氏物語」の「総角の帖」第一章第六段に「名香のいとかうばしく匂ひて、樒のいとはなやかに薫れるけはひも、人よりはけに仏をも思ひきこえたまへる御心にて、」と、樒の強く香る様子が仏への信心を示すものとして示されています。江戸時代まで下っても基本的にはその傾向には変わりがなく、小野蘭山の「本草綱目啓蒙」でも

莽草 シキミ和名鈔 ハナ江戸 ハナシバ筑前 ハナノキ播州雲州 梻和字榊ニ対ス カウシバ遠州 カウノキ同上 葉花和方書花 香花同上 仏前草和方書葉末 〔一名〕石桂通雅 菵草同上

(「本草綱目啓蒙 2」1991年 平凡社東洋文庫536 51ページより)

と、「仏前草」の異名で呼ばれていることを記しています。「本草綱目啓蒙」では続いて

三四月花ヲヒラク。大サ一寸許、七八弁、小蓮花ノ状ノゴトシ。白色ニシテ微ク黄ヲオブ。蠟花(ロウビキノツクリバナ)ノゴトシ。後実ヲ結。大茴香ノ形ニ似タレドモ、香気大ニ異ナリ。薬肆ニコノ実ヲ大茴香ニ雑テイツハル。然レドモ毒アリ。宜ク揀ブベシ。莽草葉ト紫沙糖(クロサトウ)ト同食スレバ死ス。

(同上)

と、この植物が毒草であることを記しており、実際同書の第13巻は他に彼岸花などの毒草をまとめています。他方、「大和本草」では同様に毒草であることを示しつつも、逆にその毒を利用して腫物の湿布に用いる用法などが紹介されています。また、

國俗抹香トシテ佛前ニタク皮モ葉モ用ユ

(国立国会図書館デジタルコレクションより)

と、その葉や皮を抹香として利用していたことを記しています。


湯河原町鍛冶屋・宮上の範囲
湯河原町鍛冶屋・宮上の範囲
Googleマップのスクリーンショットに加工)
一方、土肥鍛冶屋村と土肥宮上村の位置を、現在の地名から大筋で示すと右の地図の様になります。今回のタイトルはどうしようか悩みましたが、両村が属していたという「土肥郷」の名を持って来ました。先日箱根周辺の石切場について取り上げた際にも、土肥郷の村としては土肥吉浜、土肥門川の2村が含まれていましたが、今回の2村も前回同様、現在は湯河原町の内にあります。どちらも右の地図の通り、湯河原町の山側の地域に当たります。

この江戸時代の「樒」については、「湯河原町史」では「第3巻 通史編」(1987年)の「第3節 湯河原地方の産業と商業」に「2樒の村」という1項を設けて、同地に伝わる文書を中心にして解説をしています(同書225〜234ページ)。この項の書き始めは次の様になっています。

当地方一帯の山々には、いわゆる香の花として知られる(しきみ)が栽培され、その販売は現金収入の一つとして、農間渡世の有力な稼業となっていた。しかし不思議なことに、当地方の有力産業というべき樒については、村明細帳に何の記載もなく、『風土記稿』も一行も触れておらず、当地方で周知のことながら、一般的にはほとんど知られることがなかった。

樒の山は花山といい、村むらはそれぞれ村内の花山を所持し、恐らくは販売権を特定の人びとに委ねて移出していたものと思われる。史料の上から樒の売買に関わる村は、宮上・宮下・鍛冶屋・堀之内の四か村で、外に隣国伊豆山権現領の花山を宮下村名主が請負っていた史料もある。いずれも江戸の問屋との取引を示しており、山に自生する形の樒を管理しながら、大消費都市としての江戸のみが販売市場として存在したのであろう。

(上記同書225〜226ページ)

ここでは更に土肥宮下と土肥堀之内の2村が付け加わっていますが、何れにしても土肥郷の村が樒の産地であったことには変わりがない様です。「風土記稿」には実際には冒頭に示した通りに僅かながらも記述はありますので「一行も触れておらず」は正しくありませんが、残されている史料は必ずしも多いとは言えない様です。また、文中に「栽培」という文字が見えるものの、次の段落には「山に自生する」と記述が安定していませんが、「風土記稿」が「山腹」と書いていることや、各史料が「切出し」という言葉を使っていることから考えると、やはり自生している樒を切っていたと考えるべきでしょう。

先ほどの引用文中に伊豆山権現領の名が出て来ますが、元禄15年(1702年)には土肥郷の村々との間に国境論争が起きています。その際に宮下村名主が提出した「山本証文下書」の中に、次の様な一節が見えます。

一御社領山林所々在之候一色之儀ハ格別江戸石屋市兵衛本請方被仰付下請花本市兵衛方より宮上宮下和泉三ヶ所もの共相預り市兵衛方連々切出し積送可申旨名主組頭其外証文判形いたし相渡し置申候然上御山樒切荒し不申様我等中間として吟味可仕御事

(「湯河原町史 第1巻 原始・古代・中世・近世資料編」1984年 279ページより、強調はブログ主)

権現領との国境論争によって、門川の対岸にあった「和泉」の地が権現領ということに定まったため、同地と土肥宮上・宮下の樒の切出しについて宮下村がこれまで一手に取りまとめて江戸に送っていることを、各所からの証文で裏付けて以後の和泉の樒伐出についても維持される様に依頼している訳です。従って、樒の切出しは元禄年間には既に運用が確立していたことになります。宝永元年(1704年)から同7年までの樒運上金の受取状よれば、元年に江戸小判3両、以後年毎に1両2分を受け取ったことが確認出来、なかなかの売り上げであったことがわかります(同資料編281〜283ページ)。この宝永の頃には江戸で樒を扱う者が増え、上記の江戸石屋市兵衛とは別に6軒の江戸問屋と契約を結んだ記録もあり、この頃には引き合いも上々であった様です。なお、土肥郷の村からは直接船に積み込んで江戸まで海上輸送していた様です。この点では丹沢や箱根カルデラ内の村々よりも江戸への輸送面で優位な点があったということでしょう。

しかし、その後は江戸の花屋や問屋衆と土肥郷の村々との間で、販売権を巡って小田原藩を間に入れて度々衝突していた様です。小田原藩も当初は村側の申し入れを勘案して土肥郷の村々の申し出の方を立てていましたが、相次ぐ自然災害への対応などで財政が逼迫していましたから、天明6年(1786年)には江戸問屋が藩に納める運上金の増額を条件に問屋側の世話賃の増額を認め、これによって村々の利益が減ることになりました。ところが、この藩への運上金が額面通りには納められなかった様で、寛政3年(1791年)には早くも江戸問屋の請負が地元両村の請負へと再び切り替えられています。その他、幕末に至るまで、土肥郷の村々以外にも根府川・米神・石橋の3村からも樒が販売されていることを知って土肥郷の独占が脅かされていることを知った村々が藩に調停を申し入れたり、土肥郷の村同士でも取り決めを犯して樒を切っている所を咎めて論争となったりと、樒の切出しの運用には多々トラブルが続いていた様です。

湯河原町史 通史編」はこの一連の事情を史料に沿って紹介した上で、

…江戸問屋との取引は一貫して不安定で、樒売りが必ずしも生産地にとって有力な商品とは言えない状況が見られた。鍛冶屋村友左衛門らの江戸問屋への借金の内容を見ても、村をあげて頼り得る産業であり得たのかどうかは疑問である。しかし当地方と樒売りは断片的な史料では十分に追求できないが、その後も切っても切れない関係が続いたことは事実である。

(同書234ページより)

とこの項を結んでいます。「風土記稿」が「樒」を土肥郷の2村の産物に数え上げたのも、やはり樒を切って江戸と取引し、小田原藩にとっても収入の一端となっていた実情を重視したということなのかも知れません。

なお、「湯河原町史 通史編」には宮上や鍛冶屋の樒畑の写真が掲載されており(226、229ページ)、この写真のキャプションに従えば、現在は自生する樒を切り出す方向から畑で栽培する方向に変えたのでしょう。現在の生産量がどれ程であるかは同書に記載がありませんが、湯河原の樒が現在まで多少なりとも続いているのは確かな様です。

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短信

「歴史的農業環境閲覧システム」がここ数日間停止している様です。「様です」というのはこの停止に関して何らかのお知らせがネット上で掲出されていなかったかどうか確認出来ないためですが、昨年も今時分にサーバの設置されている建物の電源設備定期点検のためにアクセス出来なかった時期がありましたので、恐らくは今回も同じ理由かと思います。その様な訳で再開時期も不明ですが、週明けには再開しているのではないかと想像します。

私のブログ内から「歴史的農業環境閲覧システム」にリンクしている箇所も、これによって参照不能になっています。同システムの再開をお待ち下さい。

2014/09/29追記:昼頃に改めて確認したところ、復旧していました。ページの先頭に

9月26日(金)9:00~9/29(月)15:00までの間,法定電源設備点検のために,閲覧できなくなります。ご迷惑をおかけしますが、ご了承ください。なお、同様のデータは農業土地利用変遷マップでも公開されていますので、よろしければそちらをご利用下さい。

というメッセージが書き込まれていましたが、若干早めの復旧となった様です。
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相州日向村の山椒:「新編相模国風土記稿」から

「新編相模国風土記稿」の各郡の産物から、今回は大住郡日向村で産していたという「山椒」を取り上げます。

  • 卷之三 山川編:

    ◯山椒大住郡日向村の產、最佳品にて、日向山椒と稱す

  • 卷之四十二 大住郡卷之一:

    ◯山椒 日向村の產最佳品にて、日向山椒と稱し、大山寺師職より、守札を配る時、此山椒を添へて、贈るを例とす、

(以下、「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)



旧日向村(現:伊勢原市日向)の位置
日向薬師は地図を拡大した時に中程に見える
「宝城坊」の辺り(Googleマップ
日向村は大山の東に位置する村で、同地の「日向薬師」でその名を知られている土地です。「吾妻鏡」には、北条政子の出産の折に源頼朝が神馬を奉納して祈祷を依頼した28社の中に「霊山寺日向」として大山寺の次にその名が記されています。大山寺への参道は1つ南の谷筋を辿りますので日向村は通過しませんが、その麓の町場へ北側から入る道筋が村の東側を通過しており、当然ながら大山との関係の深い地域にあたります。

ここで採れた山椒が大山で御札を配る際に一緒に添えられていたというのですが、「風土記稿」の日向村の項にはこの山椒に関する記載はありません。また、大山の項にも山椒をお守りに添えていることは記されていません(共に卷之五十一 大住郡卷之十)。しかしながら、文政8年(1825年)5月の「日向村明細帳」には

一土地相応致候もの日向山椒御座候

(「伊勢原市史 資料編 近世Ⅰ」758ページより)

と、「日向山椒」の名が挙げられています。

Zanthoxylum piperitum.jpg
サンショウの枝葉と実。
英語では「Japanese pepper」と言う。
"Zanthoxylum piperitum"
by Didier Descouens - Own work.
Licensed under CC BY-SA 3.0
via Wikimedia Commons.
サンショウはミカン科サンショウ属の低木で、日本ではほぼ全国的に分布しています。「丹沢大山動植物目録」(丹沢大山総合調査団編 2007年 平岡環境科学研究所)によれば、

シイ・カシ帯〜ブナ帯の樹林内に普通。刺がないものをアサクラザンショウ form. inerme (Makino) Makino が仏果山で採集されている。

(同書28ページ、「普通」とあるのは普通種であることの意)

とあり、江戸時代の丹沢の山林の中でもサンショウが普通に生えていたのかも知れません。

山中に普通に生えているものであれば、山稼に入山した村人が山椒の木から採集していたのかも知れませんが、比較的栽培は容易な様ですので、畑の隅などに植えたものから収穫していた可能性も否定は出来ません。しかし、日向村に伝わる数点の年貢皆済証文などの文書(「伊勢原市史 資料編 近世Ⅰ」所収)では「山椒」の名を見ることはありません。大規模に栽培していれば恐らく単体で年貢の対象となったのではないかと思われるので、恐らくは大半が採集によるものだったのではないか、と個人的には考えています。

他方、大山の宗教的行為で山椒が用いられていることを示す史料を「伊勢原市史」の中で探してみました。「伊勢原市史」には「資料編 大山」及び「資料編 続大山」と題した2冊に大山の信仰に関連する文書がまとめられており、更に「別編 社寺」の1冊に大山に関する通史が収録され、全体としてはかなりのページ数を大山の信仰の歴史の記述に割いています。これでも関連する文書の全てを収録出来た訳ではないとのことですが、こうした史料の中に大山御師が檀廻に際して仕入れたものの覚書があり、その中に「山椒」「山椒袋」といった記述が時折登場します。
  • 天保八年(1837年)四月 歳中檀札並仕入物控帳(御師 村山八大夫):

    江戸檀廻諸入用控

    一、奉書札     拾九枚

    一、山椒袋     弐百九十八枚

              〃 〃〃〃

              三   弐

    但、西之内弐ツ切

    一、山 椒     壱斗

    壱斗ニ付四百文位

  • 天保十五年(1844年)三月 諸札仕入控 村山八大夫:

    江戸葛西入用

    一、山椒袋     三百二枚

(「伊勢原市史 資料編 続大山」254、255、273ページより、…は中略、「〃」は表記に従って写したが恐らくは数値を訂正しているものと思われる)


文量が多いので3箇所ほどの引用に留めましたが、この御師は1回あたり150〜300枚程度の「山椒袋」を求め、それに収める山椒は1回に1斗ずつ仕入れていたことが窺えます。後者の天保15年の記録では、年間に求めた山椒は「6升斗」ほどになっていた様です。

江戸時代の大山御師は檀家を所持して大山寺への供物の取次を行う存在でした。大山寺はじめとする古義真言宗寺院では徳川家康の出した法度(「関東真言宗古義諸家中法度之事」)によって、本尊への供物取次が清僧に限定されていたため、こうした清僧と檀家の間を取り持つ御師が次第に形成されていく様になります。その御師が自分の所有する檀家を直接、あるいは間接的に訪れることを「檀廻」と言います。上の記録はその檀廻に際して必要となるものを、恐らくは備忘のために記したものですね。

但し、これらの記録には必要となったものを何処から仕入れたのかの記述がありません。そのため、この「山椒」が果たして日向村からのものか、それとも他の地域からのものかは、この文書だけでは判断が出来ません。全てを大山山麓の御師の家で揃えた上で檀廻に出発したのであれば、その山椒は隣村である日向村から取り寄せた可能性が高まりますが、江戸まで遥々大量の物資を抱えて檀廻に向かったとなると相当な荷物を抱えていたことになるので、場合によっては檀家の近くで都度買い足したものもあるかも知れません。

File:Pilgrims at the Roben waterfall, Oyama.jpg - Wikimedia Commons
歌川国芳「大山石尊良辧瀧之図」(Wikipediaより)
大山への参拝客が水行の場に群がる様子が描かれている
そもそも、小野蘭山の「本草綱目啓蒙」では山椒の産地については「京師ニテハ鞍馬山ヲ上品トス諸州ニ皆名産アリ(巻之二十八:「秦椒」)」と、京の鞍馬山を一応の名産地として挙げながらも全国何処でも生産していたことを記しています。日本どこでも生えている様な木ですから入手も容易だったのでしょう。日向村も自生しているものからの採取だけに留まっていたのであれば、あるいは必要量が充分賄えていなかったかも知れません。何しろ、大山御師は文政7年(1824年)の文書を集計すると244人を数え(「伊勢原市史 別編 社寺」470ページ)、関東地方に約百万軒を組織したとされる(同512ページ)大きな講中に対して、こうした活動で諸々入用になる品々を揃えようというのですから、1村の生産量だけで全てを賄おうという方が無理だったかも知れません。実際には上記の控帳に記された「山椒袋」は「江戸并葛西」「梅沢、大月、前川、酒匂」(東海道筋か)、「上総」といった海沿いを廻っている時に仕入れていて、八王子などの内陸では記されていない傾向があるので、山椒も必ずしも全ての檀家に対して配布していたのではないのかも知れませんが、それでも全体としてはかなりの量を必要としていたことは確かでしょう。

山椒は香辛料としてだけではなく、その薬効があったことが「本朝食鑑」などにも記されており、他方で大山不動の各種祈祷の中でも現世利益として最も多かったのは「治病」ですから、山椒がお守りに添えられていたのもこうした薬効に肖ってのことなのでしょう。「伊勢原市史」編纂に携わった圭室文雄氏も、「有鄰」での対談

お札配りもありますが、大山信仰が強かったのは薬だと思います。山椒の粉なども早い時期から使っています。御師のうちの記録には薬の製法がかなり残っていますし、呪文も残っています。両方やるんですから、かなり治癒したと思います。

(上記サイトより引用、強調はブログ主)

と指摘されています。

日向村の山椒が採集によっていた可能性の方が高そうで収量がそれ程多かったとは思えないことと、大山が檀家向けに必要としたであろう山椒の量を考え合わせると、「日向山椒」はほぼ全量が大山向けであった可能性がかなり高そうです。香辛料用途で大山以外に流通する分は殆どなかったのではないかと思われます。他方、大山には山椒だけではなく、意外なほどに大量の物資がこうした祈祷活動のために出入りしていたことがわかります。「風土記稿」では伊勢原村から大山に向けての継立が営まれていたことが
  • 伊勢原村(卷之四十六 村里部 大住郡卷之五):

    往還四條三條は大山道にて、其一は東海道の内、四ッ谷村より入る、一は大磯平塚邊よりの道、一は下糟屋村より來る、此三路は東南の方にて合し、一條となる、幅三間餘、一は金目觀音道なり、幅一丈、係れり、民戸百六、往還の兩側に連住し、時用の物を鬻ぎ或は旅店をなす、每年大山祭禮の頃は殊に賑へり、當村人馬の繼立をなす乾の方、上子安村へ一里、巽の方田村へ二里、艮の方愛甲郡愛甲村へ一里餘、西の方善波村へ一里餘繼送る、御鷹匠通行の時は田中・沼目・上下平間・大竹・下糟屋等の村々より人夫を出して是を助く、

  • 上子安村(卷之五十 村里部 大住郡卷之九):

    民家七十一大山道の左右に連住し、石尊祭禮の時は參詣の者の旅宿をなす、…小田原道幅九尺、大山道幅二間、の二條係れり、大山道は人馬の繼立をなす東は伊勢原村、西は大山へ繼送る共に一里、

  • 下子安村(卷之五十 村里部 大住郡卷之九):

    民家五十一大山道に住して旅店をなす、當村も大山道の人馬繼立をなす事、上村に同、

この様に記されていますが、こうした継立が必要だった理由も、御師が書き残した一覧を見ていると納得出来る気がします。

その後の「日向山椒」についても確認してみましたが、「伊勢原市史 資料編 近現代Ⅰ」に収録されている「皇国地誌残稿」(年代の記載ないが明治時代初期)にも、明治末に編まれた「高部屋村誌」(明治22年に上粕屋村・西富岡村と日向村が合併して成立)で挙げられている農産物にも、「山椒」の名前は出て来ません。結局「日向山椒」と大山寺の繋がりは、「風土記稿」の大住郡図説に唯一記されているのみで、この村と大山信仰との接点を示す由緒の1つに留まっているということになりそうです。ただ、現在も同地で採集された山椒を使って佃煮などにして販売している土産物店が大山の麓にある様ですので、あるいはこうした土産物に僅かながら接点は残っていると言えるのかも知れません。

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波多野煙草:「新編相模国風土記稿」から

「新編相模国風土記稿」の各郡の産物「山川編」の産物、鉱物類はひと通り紹介し終えましたので、今回からは農産物が中心となります。比較的紹介しやすい方から、今回は「秦野の煙草」を取り上げます。


  • 山川編(卷之三)物產:

    煙草大住郡波多野庄村々の產を波多野煙草と稱して佳品なり、足柄上郡八澤・菖蒲・柳川・虫澤・境・境別所・杤窪・松田總領・同庶子等の九村に產するをも、波多野煙草の佳稱を負せr,其内松田二所の產は松田煙草とも云ふ、

  • 足柄上郡図説(卷之十二 足柄上郡卷之一):

    ◯烟艸 松田惣領・松田庶子・八澤・菖蒲・柳川・虫澤・境・境別所・栃窪等九村の產とす、尤松田惣領にては松田烟草と稱し、菖蒲村にては波多野烟草と稱して、殊に佳とす、

  • 大住郡図説(卷之四十二 大住郡卷之一):

    ◯煙草波多野庄村々の產を、波多野煙草と稱し、佳品なり、足柄上郡松田邊の產をも、波多野煙草の佳稱を負せり、

(以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より、地名の漢字表記の差異は原則同書ママとしているが、「朽」(くち-る)については鳥跡蟹行社版で「杤」(「栃」の異体字)であることを確認したため、雄山閣版の誤植と判断して置き換え)


各村の記述を拾うと以下の通りとなっています。足柄上郡の図説では具体的に9つの村名が掲げられていますが、それらのうち、境村、境別所村、栃窪村、松田惣領、虫澤の5村では煙草の栽培に関する記述はありません。大住郡図説では「波多野庄村々」とされていますが、「今所唱合庄」の記述では「蓑毛村以下二十三村」とあります。しかし、この23村の記述の中では煙草に関して記しているものはありませんでした。生産する村が多いために図説で触れるに留めたのでしょうか。現存する同地の「地誌取調書上帳」(「風土記稿」編纂に当って各村から提出されたもの)の中では渋沢、横野、菩提、羽根、寺山、菖蒲の6ヶ村に煙草栽培に関する記述が見られます。
  • 松田庶子(卷之十五 足柄上郡卷之四):

    農間煙草を作れり、松田煙草と稱す、

  • 八澤村(卷之十七 足柄上郡卷之六):

    烟草を作り、又柿樹土地に應ずるを以て多く植え、其實を鬻けり、

  • 菖蒲村(卷之十七 足柄上郡卷之六):

    農間には烟草を作れり、土地に應じて上品なり、是を波多野烟草と稱す、

  • 柳川村(卷之十七 足柄上郡卷之六):

    農隙には煙草を作れり、



秦野盆地付近の地形図及び色別標高図
地理院地図より)
足柄上郡・大住郡の煙草栽培関連図
足柄上郡・大住郡の煙草栽培関連図
Googleマップ上でプロット後加工)
これらの村をGoogleマップ上でプロットすると、右の様にほぼ秦野盆地とその周辺に固まっているのがわかります。松田惣領・庶子は秦野盆地とは山を隔てて西隣ということになりますが、地質的に良く似た土地で生産が行われていたということでしょうか。

秦野の煙草は昭和59年(1984年)年、つまり今から丁度30年前まで生産が行われていました。その様なこともあり、「秦野市史」には「別巻 たばこ」という1冊が独立して編集されています。刊行は昭和59年、丁度煙草の生産の終了した年に当たっていますが、1100ページ近い大冊となっており、同市での煙草の歴史を俯瞰できる内容になっています。但し、その内容の大半は近代以降の史料が占めており、近世の記述はごく限られています。以下の記述は基本的にこの「秦野市史 別巻 たばこ」に従います。

Nicotiana tabacum Blanco1.36-cropped.jpg
タバコの標本図
("Nicotiana tabacum Blanco1.36-cropped"
by Francisco Manuel Blanco (O.S.A.)
- Flora de Filipinas [...]
Gran edicion [...] [Atlas I]. [1].
Licensed under Public domain
via Wikimedia Commons.)
タバコが日本に持ち込まれたのは戦国時代の南蛮船によるものとされることが多いのですが、日本国内での栽培は慶長10年(1605年)に長崎・桜の馬場、または東土山に植えられたものをその最初とするのが現在の定説となっている様です。従って、秦野での煙草生産の開始もそれ以降ということになりますが、最初に記録に現れるのは寛文6年(1666年)の渋沢村の年貢皆済証文で、毎年煙草50斤が年貢として上納されていたことが記されています。秦野での生産の開始はこの約60年間の何処かということになるのですが、その時期を具体的に特定出来る史料は今のところ見つかっていないとのことです。一説では慶長年間に早くも秦野での煙草栽培が始められたとする言い伝えもあり、それを採用した文献もある様ですが、「秦野市史 別巻 たばこ」ではそれらの文献を検討して根拠が乏しいものとしています。ただ、こうした新規の産物を産出量が乏しかったり安定しなかったりするうちからいきなり年貢として召し上げることはあまり考え難いので、寛文6年時点ではある程度栽培方法が同地で定着していたと見て良さそうです。

もっとも、秦野での煙草生産が本格化するのは江戸時代後期に入ってからということになる様です。秦野で煙草商人の「仲間」が結成されたのが天明6年(1786年)、同年の「菩提村行事 波多野たばこ商人仲間取極議定書」という文書は

近年波多野(たばこ)商人大勢ニ相成候依之今度寄合仲間相究申候

(「秦野市史 別巻 たばこ」187ページより、ルビはブログ主)

と同地の煙草商人が増えてきたことを「仲間」結成の理由に挙げています。しかし、この頃はまだ1反当たりの収量が高くなく、粗放的であったことが村明細帳に現れる反当たりに植え付ける煙草の苗の数(明治時代の反当たり4200本に対し、当時は2500本と約6割)に現れています。幕末にかけて栽培技術の改良に成功して1反当たりの収量を上げる農家もあった様ですが、基本的にはその状態が明治時代に入るまで続いた様です。

因みに、タバコは連作障害があることが知られていますが、幕末から明治初期にかけて菖蒲村の府川家が毎年作付けた作物の覚書(「秦野市史 別巻 たばこ」190〜198ページ)によれば、タバコの作付は同じ畑に対しては最低でも2年以上間を空けており、大麦・小麦・粟・大豆・芋などとの輪作によって連作障害を回避していたことが窺えます。

「風土記稿」ではこの秦野の煙草を「佳品」と評している訳ですが、同時期の「波多野煙草」の評価について、「秦野市史 別巻 たばこ」では次の様に記しています。

以上みてきたように、秦野は、ほぼ天保期に、江戸と結ばれた地方的な煙草産地を形成するにいたった。ただし、それは、「波多野煙草」という銘称で呼ばれるようになったものの、薩摩の国分葉や水府葉などと比肩する全国的銘柄となったのではない。「波多野煙草」は、江戸市場では、国分葉の調和材として用いられ、あるいは、八王子のような近くの地方都市にむけられるといった存在であった。相模煙草(秦野煙草)が、「殊ニ江戸吉原遊里デ」「賞揚」された(史料一―三)という話も、「遊女達ガ終夜之ヲ喫用シテ風味和カニシテ喉ニサハラヌ」という調和材としての特色の故にであり、この話をあまり誇大に評価はできないであろう。

げんに、全国的に著名な煙草産地を挙げている近世期の諸書には、天保期にいたるまで、秦野(ないしは相模国)の名はみられない。『毛吹草』(松江重頼、一六三八年)はもとより、東国の産地が登場する『本朝食鑑』(平野必大、一六九二年)・『和漢三才図会』(寺島良安、一七一二年)も、水戸、甲州、信州、上州高崎をあげるにとどまり、降って、『烟草百首』(橘薫、一八二〇年)は、常州野州を「遙後年の産地なり」とし、右のほかさらに多くの関東煙草産地を列挙しているが、ここにも秦野(ないしは相模国)の名はみられない。ようやく『煙草諸国名産』(三河屋弥平次、一八四六年)にいたって、「相州、秦野、渋沢、松田、中品也」とその名があらわれるにいたっている。まさに、この時期が、前述秦野煙草が江戸市場と結びついた頃にあたっているのである。


この評価に従うと、秦野の煙草が江戸で大量に出回って相応の評価を得るようになったのは幕末になってから、ということになります。それまでは江戸よりもむしろ八王子や東海道筋の宿場で主に販売されていたのでしょうか。

そう考えると、秦野から江戸まで煙草を運び込むことになったのも、それほど古い話ではなかったのかも知れません。この秦野盆地の南側には矢倉沢往還が通っており、この道筋で厚木を経て江戸・青山まで行くことが出来るのですが、これに対して、中原街道の継立村であった小杉村と佐江戸村が、秦野の煙草商人に向けて継立の用命を依頼した安政3年(1856年)の文書が残されています。

当往還筋御用荷物商人衆中荷物之儀者、寛文十一亥年中御証文有之振合を以仕来り、然処猶又去天保十四年中関東御取締 御出役様方 在中村々酒食商ひ等不相成趣被仰渡候処、当往還筋継場四ヶ宿之儀者右寛文度之訳柄申立商ひ向仕来り候様御聞届ニ相成候儀者、[己十]竟御用者勿論、商人荷物継場駅之儀ゆへ、已来上下荷物大切ニ仕、外荷物差略致置、往還荷物差支無之様急度申合可仕趣、夘年中一札も差出置候、就者、今般山方商人衆中荷物当往還多御差出方各々方御登り被成候ニ付、当馬持共申合御差支者勿論、荷物紛散無之様心附、万々一不埓之儀有之候ハヽ、左之もの共一同ニ相弁、荷主中御難渋不相掛様急度可仕候、依之一統連印差出置候、以上、

安政三丙辰年四月

(連判省略)

小杉駅

問屋久右衛門殿

同 伊  助殿

右之通其継駅馬士中ゟ取極一札差出候ニ付、当駅場人馬之者厳重ニ可申聞、若不筋之取計も有之候ハヽ、我等引受荷主中方御苦難相掛申間敷候、依之附添一札差出申候、以上、

佐江戸駅

問屋長左衛門(印)

前書之通当駅場佐江戸駅間屋一同取極仕候上者、当往還筋是迄ヨリ茂御出(精)荷物御差出可被下候、尤荷物之儀ニ付、何様之儀有之候とも、前文之趣を以引受、聊御苦労相掛申間敷侯、依之奥書仕置申候、以上、

安政三辰年四月

武州橘樹郡

小杉駅

問屋伊  助(印)

同 久右衛門(印)

相州((秦))

姻草

御荷主衆中

(「江戸周辺の街道―特に中原街道を中心に―」山本 光正著、「史誌-大田区史研究-」第29号 1988年所収より、字母を拾えなかった漢字についてはその旁を[ ]内に示す)


中原街道のルート
この文書だけでは、荷主との間に何かトラブルを抱えたのかどうかはわかりませんが、ともあれ中原街道筋の村々から連判を取り付けて「荷物の安全はこの通り絶対に保証しますから何卒御用命を賜りたく」ということを(したた)めて秦野の煙草商人に送ったものと思われます。この中原街道経由の継立では矢倉沢往還経由よりも若干運賃が安く上がるので、その点を踏まえて大口の顧客になってきた、あるいはそうなりそうな秦野の煙草の継立を誘致しようとしていたのかも知れません。波多野煙草が江戸で中級品の評価であったということは、価格競争力という点では若干苦戦を強いられるということでもありますから、その点ではこの中原街道経由の継立は波多野煙草の商人にはコスト削減に繋がるメリットがあった筈ですが、この結果実際の運搬が中原街道経由になったのかどうかについては、記録が残っていないので定かではありません。


近年は日本国内の喫煙率自体が低下したこともあり、タバコの生産全体が縮小してきていますが、それより一足先に秦野の煙草生産が終了した理由について、「秦野市史 別巻 たばこ」では「農業地帯であった秦野が工業、住宅地と生まれ変わった結果です。(同書「発刊のことば」より)」としています。しかし、それから30年経った今でも、秦野市では「本市発展の礎となった「たばこ耕作」に携わった先人たちの情熱を「火」にたとえ、(秦野たばこ祭公式サイトより)」毎年秋に「秦野たばこ祭」が催されています。
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宮城野村・仙石原村の足柄下郡への編入時期について

先日、「箱根湯治場道見取絵図」に宮城野村が「足柄下郡」と記されているのを受けて、江戸時代から明治初期にかけて、この村と仙石原村が一貫して足柄上郡の所属であったこと、明治11年から13年の間に足柄下郡へ移った可能性はあるもののそのことを具体的に記した公的書類が見つかっていないことを記しました。今回、この足柄下郡への編入を巡ってもう少し補足してみます。

旧足柄上郡上曽我・曽我大沢の位置
旧足柄上郡上曽我・曽我大沢村の位置
Googleマップのスクリーンショットに加筆)
神奈川県史 資料編11」(1974年)には「近代・現代(1)政治・行政1」という副題が付けられ、明治時代初期の神奈川県成立当初からの行政関連の書類などが収められています。ここに、「郡制実施にともなう足柄上下両郡の郡界変更関係文書」と題された6本の書類がまとめられています(297〜306ページ)。表題だけ見ると宮城野・仙石原の話かとも思ってしまうのですが、これはそうではなく、足柄上郡曽我村と足柄下郡下曽我村の郡界、それから足柄上郡岡本村と足柄下郡富水村の郡界を整理すべく地元と郡、および県の間でやり取りされた書類です。ただ、大半は足柄上郡曽我村から上曽我・曽我大沢地区を足柄下郡へ組み入れたいとする地元と郡の確認作業が占めています。実際にはこの請願は通らず、両地区は昭和31年(1956年)になって小田原市に編入されるまで足柄上郡に所属し続けました。地図を見ると、現在も「小田原市上曽我」の地域の南側には、確かに飛び地が多数存在しているのがわかります。


この一連の書類中、「神奈川県史」では(四)と記された書類に宮城野・仙石原の名前がまず登場します。

郡界変更之儀請願ニ依リ上申

神奈川県足柄下郡下曽我村

神奈川県足柄上郡曽我村ノ内上曽我曽我大沢

今般郡制施行セラル丶ニ付前記ノ村落合合併致度旨請願候ニ付其利害得失詳細取調候処左記ノ通ニ候条依然御据置相成候様致シ度此段具申候也

明治廿三年十一月一日

足柄上郡長 松尾豊材

神奈川県知事 浅田徳則殿

…(5項省略)

一 先年足柄上郡中に在リシ仙石宮城野ノ両村ヲ足柄下郡ヘ組替ラレタル事例ノ引用アリト雖右両村ハ大雄山ノ高峰外ニ懸隔セルヲ以テ道路崎嶇険悪ニシテ徒歩モ容易ニ通シ難ク故ニ官民共ニ足柄下郡小田原ニ迂回スルニ非レハ公私ノ用ヲ達スル能ハサル不便アルヲ以テ不得已組替ラレタル儀ニ有之曽我部落ノ如キハ如斯不便ナキ而己ナラス(以下略、税負担の区分けを論じている)

(上記同書301ページより、…は中略、強調はブログ主)


「事例の引用あり」とは何を指すのか、「県史」の順では時系列に沿っていないためにちょっと分かり難いのですが、この「引用」は次の(五)の方に含まれている「別紙」の記述を指しています。

(朱書)第一二六三号』

足柄上郡曽我村ノ内曽我及曽我大沢ノ二部落ヲ足柄下郡下曽我村ヘ合併ノ義別紙ノ通両村人民惣代ヨリ出願候ニ付テハ其利害得失詳細御取調ノ上御意見上申相成度書類図面共相添此段及御照会候也

明治二十三年十月六日

第一部長 田沼 健(印)

足柄上郡長 松尾 豊材殿

足柄下郡長 中村舜次郎殿

追テ御意見上申之際別紙ハ御返戻相成度申添候也

添付書及御回付候間可然御取斗有之度候也

明治廿三年十月十三日

足柄上郡長 松尾豊材

足柄下郡長 中村舜次郎殿

(別紙)

郡界変更之義ニ付請願書

神奈川県足柄下郡下曽我村

神奈川県足柄上郡曽我村ノ内上曽我曽我大沢

村民一同

第七 分合ノ事例

往古ヨリ引続足柄上郡中ニ仙石宮城野ナル両村之アリシヲ明治十二三年頃右両村ヲ下郡中ニ編入シ去リタリ按スルニ此挙タル該下曽我村ト曽我村ノ内字上曽我トニ於ケル経界ノ如ク錯雑複合セル処アルニ非ス両郡中何レニ之ヲ付スモ錯雑ヲ致スノ患ナキモノナルニ猶且然ルコトアリタルモノニシテ彼ヲ以テ此ニ比スレハ一ハ其理由ヲ一見シテ知ルニ苦シミ一ハ直ニ之ヲ了去シ得ルモノ丶如クヨシ彼ニシテ当時別ニ深由確源ノ存スルアリテ能ク二村ヲ下郡中ニ編入シタルコトヲナスモ此亦古来ノ関係密ニ亙リ分離シテ合他ヲ計ルモノハ合併上互ニ利便ヲ致シ而モ残リタルモノハ一ノ損害ヲ蒙ルコトナク却テ亦多少ノ苦難ヲ免ル丶勢アルモノナリ近ク十年前ノ事例ハ斯ノ如キアリ且ハ古今稽照従便挙利多々益良ニ就クノ 聖治ニ際シ敢テ希望セル段先例ト併セテ理由ノ端末ニ付スル如此御座候也

(上記同書305〜306ページより、…は中略、強調はブログ主)


このやり取りの経緯ですが、地元の村から出された要望書に対し、足柄上郡・足柄下郡の郡長が疑問を持ち、その損得についてもっときちんと説明せよと村民に対して求めてきます。それに対して村民の総代から提出されたのが、(五)の書類ということになります。これを受けて、郡長側の意見を付与して県に送った書類が(四)で、郡長側としてはこの箇所については総代の指摘を否定している訳です。

地元としては足柄下郡への組み入れを希望しているところが却下されそうなので、「10年ほど前には宮城野村と仙石原村(別紙内では地名が正確に表記されていませんが)が郡の所属替えをあっさり認められているではないか」と先例を持ち出して、暗にその取扱の不公平さを責め立てている訳ですね。それに対して郡長側は「いやあそこは険しい山が間にあって不便極まりないという点で官民一致したからこそ認められたのであって、今回の事例と一緒には出来ない」と返しています。曽我村が何処から宮城野村と仙石原村の足柄下郡への編入について知識を得たのかは不明ですが、「仙石宮城野なる両村」という地名の誤記を含んだ表記から見ると、伝聞によるところが大きい様に見えます。当時は地形図などはまだ作成され始めたばかりの頃ですし、付き合いのない村の地理についてまで、村総代には詳しい知識がなかったのかも知れません。

さて、この(五)には「明治十二三年」と、宮城野村と仙石原村が移った時期が記されています。繰り返しになりますが、これは伝聞を記したものと考えられますので、裏付けという点ではやや劣る情報ではありますが、少なくとも先日紹介した仙石原村の牧場設置に関する書類の表記とは整合性があります。ただ、「神奈川県史」でもこの2村の足柄下郡編入に関する資料は見つけられませんでした。何らかの手続に則って編入を認めたのであれば、県側にも相応の書類が残ってもおかしくありませんが、比較的残存率の高そうな書類が残っていないというのはどういう事情なのでしょうか。

そこで、明治11年に施行された「郡区町村編制法」の文言を見てみます。全文はこちらのサイトに掲載されていましたので今回はこちらを一部お借りします。この中から以下の話に関係のある条文を転記します。

第2条 郡町村ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル

(以下,明治13年太政官布告第14号で追加)

第8条 地方ノ便益若クハ人民ノ請願ニ因リ止ムヲ得サル理由アルモノハ郡区町村ノ区域名称ヲ変更スルコトヲ得

第9条 第3条第4条第7条第8条ノ施行ヲ要スルトキハ府知事県令ヨリ内務卿ニ具状シ政府ノ裁可ヲ受クヘシ 但町村区域名称ノ変更ハ内務卿ノ認可ヲ受クヘシ



大きな地図で見る
箱根町仙石原の位置
ここが宮城野と共に足柄上郡に属していた理由については
この地域の開発の歴史と関係があるかも知れない
まず、第2条に従うと全ての郡や村はそれまでの所属をそのまま引き継ぐことになっていた訳ですから、当然宮城野村と仙石原村も施行時点では江戸時代まで同様足柄上郡の所属だったことになります。その点は前回引用した明治11年の記録と合っています。

これに対し、郡の所属を変更する場合の規定である第8条及び第9条は、明治13年に追加されているとのことですから、宮城野村と仙石原村が足柄下郡へ移ったのが「明治十二三年」というのが正確であれば、その頃にはこの条項は存在しなかったことになります。この第9条では内務卿経由で政府の決裁が必要である旨規定されていますが、その取り決めがないうちに、この2村の足柄下郡編入はどこかが認可したことになります。法整備の進んだ現代ではこういうことは起こりえないでしょうが、当時はまだこうした手続が未整備であったことが背景にありそうです。その黎明期故に生じた一事例ということになるのでしょうか。

宮城野村と仙石原村の足柄下郡編入の時期をはっきり示す書類が残っていないのも、あるいはこうした制度上の未整備の中で、取り交わされた書類の存在がわからなくなってしまったためなのかも知れません。そうなると、その具体的な時期の特定は、これまで見てきた様な状況証拠の側からある程度時期を絞り込むことまでしか出来ないということになりそうです。

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