2014年06月の記事一覧

矢倉沢の蛤石

先日「新編相模国風土記稿」に書かれた産物から蛍について紹介しました。今回もその産物の一覧から軽いお題を。

各郡の産物の一覧の冒頭、足柄上郡の産物の一覧は「蛤石」で始められています。

◯蛤石 矢倉澤村内蛤澤より出る、

(卷之十二 足柄上郡卷之一より)

この産物一覧の並びには弱い法則性がある様で、どうやら「大和本草」などの当時の本草学の書物での並びに倣っていると見受けられ(飽くまでも私の印象ですが)、石材など無生物が先に並ぶのはその影響と思われます。足柄上郡の産物ではこの「蛤石」と「白熖焇」(鉄砲用の火薬)が挙げられており、一覧の先頭に来たのはこうした一覧の並べ方によった結果だろうと思いますが、それはさておき。

この「蛤石」が何を指しているのか、矢倉沢村の項では以下の様に詳述されています。以下「風土記稿」の引用は「卷之二十一 足柄上郡卷之十」、例によって何れも雄山閣版からの引用です。
  • 村内柴胡・紫根を產せり、又蛤澤より蛤形の化石出づ、石蛤と唱ふ、按ずるに、豆州にも所々に此化石出る所あり、就中山中の石間に出るもの、最奇品とす、此地に得るものも即此類なり、又彼地には蚶・海扇・螂蜫・[虫咸]等の數種ある由、豆州志稿に詳載せり、
  • ○澤 小名足柄の東邊山間より出づ、蛤澤と唱ふ、今此澤より蛤形の化石出、故に此唱へあり、

(字母を拾えなかった箇所については[]で囲ってその旁を示した、強調はブログ主)

「蛤石」と言った場合、「飛騨の蛤石」の様に球状岩を指す事例もあるのですが、ここでは文字通り「蛤の化石」ですね。「図説」では「蛤石」でしたがこちらでは「石蛤」と順序が入れ替わっています。更に「小名足柄」については、

◯小名 …△足柄又地藏堂とも云是は地藏堂所在の地なるが故なり、

(…は中略)

と、地蔵堂の存在する付近に当たることを伝えています。

矢倉沢地蔵堂および周辺史跡の位置
矢倉沢の範囲と地蔵堂および周辺史跡の位置
(Googleマップ上で作成したものを
スクリーンキャプチャ)

「箱根火山」図2-1-1より抜粋加筆
「箱根火山 今証される噴火の歴史」
図2-1-1「箱根火山の地質図」から
矢倉沢付近を拡大して矢印などを加筆


矢倉沢・地蔵堂(ストリートビュー
蛤沢はこの地蔵堂の付近
この地蔵堂の付近から出土する蛤の化石は、現在は南足柄市の天然記念物に指定されています。この地蔵堂の東側で「中川」と呼ばれる沢と現在「相ノ川」と呼ばれる沢が合流しており、「蛤沢」の名はこの辺りを指している模様です。なお、南足柄市郷土資料館に標本が常設展示されている様です。

矢倉沢村は「矢倉沢往還」などの名に見られる箱根山北部の交通の要衝で、西端の足柄峠へ向かう古道が東西に通る村です。「蛤沢」はこの街道を少し南に逸れた辺りに位置していますが、右の地図に見られる様に村域(現在の「南足柄市矢倉沢」の範囲で代替)はむしろ南北に長く伸びています。その南端には金時山や明神ヶ岳といった箱根外輪山の主要峰が連なります。その様な火山の北に位置する村にハマグリの化石というのは少々妙な感じもします。

しかし、「【旧東海道】その15 箱根・湯坂路と畑宿(その1)」で紹介した「特別展図録 箱根火山 いま証される噴火の歴史」(神奈川県立生命の星・地球博物館編 2008年)に掲載されている箱根火山の地質図(14ページ)で矢倉沢の地質を確認すると、確かに南側には「狩川溶岩グループ」や「金時山溶岩グループ」等と呼ばれる初期の成層火山群が形成された頃の溶岩が覆っているものの、その北側では「足柄層群」と呼ばれる砂岩・礫岩・泥岩などの堆積岩の地層が重なる地域になっており、地蔵堂はその境界近くに位置しています。この地蔵堂付近を流れる内川を上流に辿ると「夕日の滝」が流れ落ちていますが、地質図にはここに「夕日の滝断層」と記され、この辺りが「足柄層群」と「狩川溶岩グループ」の2つの地層の境界であることを示しています。

蛤の化石が産出される地層は第三紀鮮新世の後半に形成された地層ですが、この内川の辺りで外輪山の溶岩地層が大きく北に向けてえぐれていることから見て、恐らくは箱根外輪山が形成された後に沢が形成されて浸食が大きく進んだことで、蛤が堆積していた地層が露出して目に触れる様になったのでしょう。

ところで、そもそも「蛤の化石」がわざわざ相模国足柄上郡の産物の一覧に記されているということは、江戸時代の人が何らかの目的でこれを採取したことを意味しています。当時の人はこれを一体どうしていたのでしょうか。

「本草綱目啓蒙」は本草学者であった小野蘭山の口授を書き留めた書物(文化2年・1805年など)ですが、その中の項目に「石蟹(カニイシ)」があり、

蟹土中に入りて土と共に化して石となるものなり大者一尺許小者一寸許全形なるものあり爪のみなるものあり殻のみなるものあり

(上記リンク先「国立国会図書館デジタルコレクション」影印よりブログ主翻刻、カタカナをひらがなに改め)

と記しており、この頃には既に化石についての比較的正確な知識が存在していたことがわかります。そして、この項の終わりには

其餘諸州石蛤ある處にこれあり

という表記も見え、蟹の化石が蛤の化石とともに見つかることを示唆しています。

「閑窓録」31コマ
「閑窓録」に挿入された挿絵
(「国立国会図書館デジタルコレクション」から)
ユーモラスな絵柄から当時の貝化石趣味の一端が窺える
この「石蛤」について、何と当時既に図録が出版されていたことを知りました。国立国会図書館のサイトに江戸時代の博物学を俯瞰できる書物がまとめて紹介されており、その中に「閑窓録」(耕雲堂灌圃編 文化元年 (1804年))という、「江戸時代唯一の貝化石図譜刊本」が含まれています。ここから国立国会図書館デジタルコレクションに収められた同書の影印にリンクされています。残念ながら掲載されているものの中には「相州産」などと記されたものはありませんでしたが、「熱海」「豆州」の名が2点ほど確認出来、江戸からほど近い地でも貝の化石が収集されていたことがわかります。

傍らに記された注釈から考えると、集めた貝化石の色艶、形、そして硬さなどを賞翫の対象としていた様です。また、この「閑窓録」には間に俳句・短歌・漢詩等の詩歌も挿入されており、集めた貝化石を堪能しながら歌に詠む、といった鑑賞がなされていた様です。「閑窓録」が江戸時代唯一の存在だったことから考えると、或いは同好の士がそれ程多くはなく、この本もさほど売れ行きが芳しくなくて続刊が出せなかったのかも知れないのですが、全国の収集家から自慢のコレクションを江戸に集めて編纂に及んでいることから、同じ趣向を持った人同士での情報交換はむしろ活発に行われていたのかも知れません。まぁ、今でもディープな趣味を持った人同士でのコミュニティは案外結束力が強かったりする訳ですが、当時も同様の傾向があったのかも知れませんね。「閑窓録」という名称からもこうした趣味が必ずしも広がりを持っていた訳ではないことが見え隠れします。

矢倉沢の蛤石も、「風土記稿」に「就中山中の石間に出るもの、最奇品とす、此地に得るものも即此類なり、」と解説されていることから、やはりこうした賞翫の対象品として収集されたものなのでしょう。もっとも、上の地図に示した通り、この蛤沢は江戸から訪れる場合は途中に「矢倉沢関」がありますので、地元民が入山する分には問題なく通れるものの、江戸の町民が直接探しに来ようと目論んだ場合は手形が必要になってきます。その奥地の「夕日の滝」については「風土記稿」でも

◯夕日瀧 西方の山水會同して一條となり、字北入山の邊にて瀑布となり、高二丈六尺許幅四間許 山間を下りて北流す、是内川の上流なり

と紹介されていますので、あるいは蛤石を手に入れがてら夕日の滝を眺め、その途上に関本から大雄山最乗寺に参詣する、といった物見遊山を試みる人がいたのかも知れません。




ところで、上記「風土記稿」の引用文中に「豆州志稿」を引いて伊豆国からも化石が出ることを示している箇所があります。「豆州志稿」は秋山富南によって編纂された伊豆国の地誌で、完成したのは寛政12年(1800年)、「新編武蔵風土記稿」や「新編相模国風土記稿」よりもかなり先んじて成立したことになります。昌平坂学問所がこれらの地誌を編纂する際にも、こうした先行の地誌を研究して記載事項などを検討したのかも知れません。

「新編相模国風土記稿」の「彼地には蚶・海扇・螂蜫・[虫咸]等の數種」が、その「豆州志稿」中の何処に書かれているのか不明なのですが、問題はこの4点が何を指しているかです。前半2つはそれぞれ「赤貝」と「帆立」を意味しており、こちらは「蛤石」に直接繋がるものの、「螂蜫」は個々の漢字の意味からはカマキリやトンボということになるのですがはっきりしません。「虫へんに咸」の方は更に意味が不明で、雄山閣版の該当箇所の印刷でもこの字のバランスが崩れている様に見えることから、恐らく別の活字を組み合わせて無理にこの字に充てたものと思われ、グリフウィキ等を使っても字母が全く出て来ないので、あるいは何かの誤記である可能性もあります。「豆州志稿」でも同じ字を用いているのかが気になるところです。

伊豆半島は今でも豊富に化石が見つかる地ではあり、上記の「閑窓録」にも化石が採録されるなど当時から産地として知られていたのでしょうが、あるいは貝類以外の化石も産出したということになるのでしょうか。この辺りはもう少し調べてみたいところです。
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「藤沢飛行場」を貫通する道

一昨日見かけたちょっとしたハプニングから派生して小ネタを。

調べ物の過程で地図を見る必要が出て、取り敢えずと開いたGoogleマップに、何やら妙なものが表示されているのに気付いたのが切っ掛けでした。ある筈のない場所に飛行場のマークが出ているのです。マークの上には「藤沢飛行場」。

すぐに連絡フォームからGoogle宛に誤った表示が出ている旨通知しました。幸い迅速に対応されて翌日には表示は消えました。

この「藤沢飛行場」、昔は確かにありました。第二次大戦中にこの付近が接収されて海軍の飛行場となり、敗戦後に民間に払い下げられてしばらく利用され続けていたものの、昭和39年(1964年)に廃止されて翌年には今の荏原製作所の工場が建てられています。現在は荏原製作所の隣に航空機用のフライトデータレコーダーなどを製作している企業が存続しているのがその名残と言えます。


昭和29年二修「1/25000藤沢」地形図(「今昔マップ on the web」より)

あまり長命ではなかった飛行場ということもあって、地形図でその全容が確認できるものは上掲の昭和29年に修正されたものだけの様です。次の昭和42年の地図では既に一部が荏原製作所に転用されていますが、滑走路の南側はまだその存在が確認出来ています。

もっとも、昭和29年の飛行場もその中程を1本の道筋が南東から北西に向けて貫いています。1946年の空中写真では滑走路が畑の只中に整備され、元々ここを通っていた道は寸断されたままになっていますが、1949年2月の空中写真ではこの滑走路を突っ切る様にして道が付けられ直されているのが確認出来ます。


江戸時代の厚木道が権現庭を降りてきた辺り
この先に下河内橋がある(ストリートビュー
この道筋はより古い地形図や迅速測図でも確認できる古いものです。道の行く末を南東へ辿ると、藤沢宿の白旗神社前に繋がっています。他方、北東側へ向かうと丘を降りて下河内橋で引地川を渡って佐波神社の前へ向かい、菖蒲沢の字六地蔵で西へ向きを変え、用田付近で大山道と合流します。迅速測図ではこの道沿いに「厚木街道」の文字が見えています。その名が示す通り、この道は藤沢宿と厚木の間を結ぶ街道でした。

「新編相模国風土記稿」では、この藤沢飛行場の辺りにあった大庭村の項では「東海道厚木道大山道の三路係れり」(卷之六十 高座郡卷之二)と記すのみで詳細に触れておらず、沿道の他の村々での記述も厚木道が通っていたことを示すのみですが、藤沢宿と用田村の項では厚木道の継立について2里27町の道程を継いでいたことを記しており、この辺りの主要道の1つでした。

比較的重要度の高い道筋であったにも拘らず、戦時中に同地を接収した際に、この道筋の迂回路を十分に開発していなかったために、軍用機の降り立つ可能性がなくなった所で改めて道を復活させたというところでしょうか。もっとも今は荏原製作所の敷地を回りこむ形で市道が整備され、当時の厚木道は敷地の東側と北側に少しずつ残っているのが確認できるばかりになっています。

因みにGoogleマップの上に間違って表示されていた「藤沢飛行場」の位置も荏原製作所の敷地内で、その点では場所は合っていたと言えるのですが、半世紀も前に廃止された飛行場の情報が何で紛れ込むことになったのかはわかりません。その際のスクリーンショットも一応撮ってあるのですが、そういうミスをこういう所にくどくどと晒すのも、まぁあまり趣味の良いことではありませんから止めておきます。

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「新編相模国風土記稿」の「蛍」

先日、「新編相模国風土記稿」の各郡毎の産物の一覧と、「山川編」の産物の差分の一覧をまとめました。その作業の際に好奇心をそそられる産品は多数ありましたが、そのうちの1つが「蛍」でした。時節柄ホタルの写真がネット上でも見られる様になってきたので、今回はこの「蛍」を巡って色々と調べてみたことを軽くまとめてみました。


穴部駅付近の地図(水域図)
駅前を通過する県道がかつての甲州道
「風土記稿」巻之三山川編には

◯螢 足柄下郡甲州道、穴部村邊に多し、

と記されているのみで、足柄下郡の図説では蛍に関する記述は見られませんでした。こういうケースでは、村里部には記述がある場合とない場合がありますが、この蛍のケースは後者に当たる様で、山川編で指摘されている穴部村の項は勿論、甲州道沿いの各村(小田原城下―荻窪―池上―井細田―多古―穴部―府川―北ノ久保)の記述にも、蛍に関する記述は見られません。

右の地図は水域図に切り替えて水路を強調しました。伊豆箱根鉄道大雄山線の穴部駅前で並行して走る県道が、かつての甲州道に当たりますが、その脇をはじめ周辺には水路が多数見えるのがわかります。西側は箱根山の外輪山東側斜面が広がり、そこから流れ下る多数の沢や、狩川から導かれた用水が、この甲州道に幾筋も並行して流れていることから、他の環境さえ揃えば確かに蛍の生息に向いていると言えそうです。今は周辺の市街地化が進んだので、流石にこの道沿いで蛍を見るのは苦しいと思われますが、迅速測図戦前までの地形図で周辺の土地利用の変遷を見ると、第二次大戦前辺りまでは周辺は水田が広がっていましたので、江戸時代以降も開発が進んでくるまでは十分蛍が見られる環境にあったと見て良いでしょう。


明治29年修正・明治31年発行の地形図。地図の不透明度を「0%」に設定すると、「迅速測図」の表示に切り替わる
(「今昔マップ on the web」より)

もっとも、それだけであれば、この地が敢えて相模国の蛍の名所として「風土記稿」に記されたのは、いささか不自然な感じもします。同様の環境であれば江戸時代の農村であれば普通に存在したでしょう。因みに「小田原市史 自然編」(2001年)で市内の蛍に関する記述を拾うと、

ヒメボタルでは、小田原市では入生田付近だけに分布している珍しい種類で、全国的に分布するが、小田原のヒメボタルは小型で、発光パターンが他の地域とは異なる点で注目されている。

小田原市に生息するホタル類のうち、夜間成虫が光って飛ぶのは、ゲンジボタル、ヘイケボタル、ヒメボタルの3種類である。ゲンジボタル(体長約15mm)は、市内各地の小川に生息している。幼虫は水生でカワニナなどを食べ、成虫は5〜7月にあらわれる。ヘイケボタル(体長約10mm)は、近年減少しているが、水田地帯で見ることができる。幼虫は水生で成虫は6〜8月にあらわれる。ヒメボタル(体長約6mm)は入生田〜根府川に生息しているが少ない。幼虫は陸貝を食べ、成虫は6〜7月にあらわれる。メスの成虫には後羽がない。

小田原市ではこの他に、成虫が光らないムネクリイロボタル、オバボタル、クロマドボタルなど数種類が記録されている。

(上記書340ページ)

市内ではヒメボタルが比較的珍しく、見られる地域が限定されていることは記しているものの、「風土記稿」の記述については取り上げられておらず、ゲンジボタルやヘイケボタルの生息域についても特に限定されている様な記述は見られません。では、「風土記稿」が敢えてこの地を相模国の蛍の名所として記載した意図は何だったのでしょうか。

貝原益軒の「大和本草」(宝永6年)の「螢火」の項では「勢多」「宇治」といった地名が蛍の名所として挙げられています。また、小野蘭山の口授を記した「本草綱目啓蒙」(リンク先は文化2年の出版)の「螢火」の項では「城州宇治川」「和州宇陀川」「江州西黒津」「大日山」「田上」「八島」の蛍が名産とされ、「ソノ形尋常ノ者ヨリ大ナリ大ナル者ハウシボタル越前ト云フ」と記しています。


双方に共通して含まれている「宇治川」はいわゆる「宇治川の蛍合戦」で知られる場所で、「ゲンジボタル」「ヘイケボタル」の名にもある通り、治承4年(1180年)の源頼政の非業の死と結び付けられて語り継がれてきた地です。勿論同地の蛍が大型で光が強いとされている点もあり、それが大挙して発生する様子が頼政の怨念と結び付けられる様になった訳です。その点では、単純に蛍が大量に生息するのに相応しい環境であることの他に、その地の歴史的な由緒なども関与して知名度を上げていく構図があると言えそうです。

こうした宇治川の言い伝えに匹敵する様な由緒が、小田原のこの地にあるかということになるのですが、調べてみた限りではその様な謂れはない様です。そもそも、そんな言い伝えがもしも存在していたのであれば、「風土記稿」の記述の性格を考えれば間違いなく採録されていた筈でしょう。勿論、小田原の蛍が北条一族の無念の魂になぞらえて「ホウジョウボタル」などと呼ばれている訳でもありません。

一方、江戸時代には「江戸名所図会」に記されている「落合」など、江戸の御城下の近傍に複数の蛍の名所がありました。既に江戸の庶民の娯楽の1つとして蛍狩りが定着していたことが、当時の浮世絵などの作品からも窺えるのですが、こと小田原に限って言うと、この近隣の風景を描いたもので蛍を描き入れたものはありません。また、江戸から小田原の距離を考えると、江戸の庶民が遥々とやって来て蛍狩りを楽しむ様な場所でもありません。この地で捕獲した蛍を江戸に送り届けて江戸庶民に向けて販売しようと目論むにも、やはりこの距離では蛍を生きたまま届けるのが難しいと言わざるを得ません。


かつての井細田口に当たる竹の花広小路
現在も枡形が道筋に残る(ストリートビュー
ただ、小田原の甲州道沿いの出口であった「井細田口」から、穴部の辺りまではおよそ2〜3kmほどですから、小田原城下の町民が蛍狩りに出かける距離としては手頃だったと言えそうです。甲州道という当時比較的整備されていた道に沿って行くのであれば、足元の心配もさほどしなくて済みそうですし、道沿いに集落が多い点も町民の行楽という点では有利です。そのことを裏付けられる様なものを見出すことは今のところ出来ていませんが、あるいは小田原の風物としてたまたま昌平坂学問所が取材していたものが、山川編の編集の際に顔を出したということなのかも知れません。もっともそれであれば、小田原城や小田原宿の項で記されていても良さそうなものではありますが、生憎とそれらの項目でも蛍に関する記述はありませんでした。

その様な訳で、この「風土記稿」の蛍はあまり明確な裏付けを持たないまま、山川編の1箇所にぽつんと記されたのみに留まっているのですが、その名残は意外にも現在私たちが普通に目にする場所に現れています。


螢田駅と穴部駅の位置関係
地図上で穴部駅から北東方面に目を転ずると、そこに小田急小田原線の「螢田駅」があります。2つの駅は直線距離で600mあまりしか離れていませんが、螢田駅の所在地は「小田原市蓮正寺」、かつての蓮正寺村の域内にあります。しかし、「風土記稿」の蓮正寺村の項を見ても「螢田」という地名は載っていません。この駅名は駅開業にあたって新たに付けられたものです。

もっとも、昭和2年(1927年)の小田急線開業の際にはこの駅はありませんでした。同社の社史に

昭和十九年(一九四四)十月、小田原線富水〜足柄間に、周辺の軍需工場に通勤する工員の便宜をはかって螢田仮停留場が設けられ、指定の通勤列車に限り停車して客扱いを行なった。

(「小田急五十年史」昭和55年 202ページ)

と記されている様に、この駅は当初は軍需工場への通勤専用の仮駅として第二次大戦中に開設されたものです。その後恐らくは敗戦後に一旦仮駅の営業が終了した後(時期は不詳)、改めて昭和27年(1952年)に正式な駅として螢田駅が開業しました。

この駅名の由緒については、正確なところはわからない様です。ただ、開業後に小田急が発行したガイドなどで蛍の名所としてこの駅が案内されているところを見ると、「風土記稿」の記述が参考にされている可能性はかなり高そうです。「蓮正寺」という地名が採用されなかった点については「抹香臭いから」などと解説されている本もありますが、「風土記稿」でもこの村名の由緒が記されておらず、また同地の寺社としては村の鎮守として「稲荷社」があるのみで「蓮正寺」という寺院があることを伝えていないくらいなので、寺の名前を冠しているにも拘らず現地に該当する寺がないとなると、乗客を誤案内してしまう可能性を懸念して避けたのではないかと個人的には考えています。とは言え、大戦中の軍需工員専用の駅にも拘らず、地元の地名を冠することが出来ないと判断した時に「風土記稿」の僅かな記述を手掛かりにして「蛍の名所」であることを探り当てたのが事実なら、当時は今と違って駅名の決定に当たって随分とその地の由緒に配慮をしていたことが窺えると思います。螢田駅の周辺もかなり住宅街化が進んでしまいましたが、由緒の片鱗は駅名となって何とか受け継がれていると言えそうです。

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相模国の柴胡について 補足:小田原・久野山の秣場

ファイル:Bupleurum falcatum1 eF.jpg - Wikipedia
ミシマサイコ(再掲)
("Bupleurum falcatum1 eF".
Licensed under
CC 表示-継承 3.0
via
ウィキメディア・コモンズ.)
以前、相模国の柴胡についてまとめた際には、「新編相模国風土記稿」の記述から亀井野村(現・藤沢市亀井野他)の秣場が比較的高度に利用されており、それがミシマサイコの生育環境に合っていたのではないか、ということを解説しました。

その際には、「風土記稿」で柴胡の穫れる環境について触れているのが亀井野村の項だけであると書きました。確かにその通りではあるのですが、各村の項を読み返していて、秣場の高度な利用が行われていたことが記されている村がもう1村あることに気付きました。今回はそちらを補足として紹介します。

その村は足柄下郡の久野村(現・小田原市久野)です(以下「風土記稿」の久野村の項の引用は、卷之三十四 足柄下郡卷之十三、雄山閣版より)。現在でも小田原市久野の範囲はかなり広いのですが、

東西二里三十町半南北三十町餘、東、池上・井細田・多古三村、西、山嶺を限り大平臺村、及足柄上郡宮城野村、南、荻窪村、及伊張山を隔風祭・入生田・塔ノ澤三村、北、多古・穴部・府川三村、及足柄上郡三竹山村、

特に東西方向に11km以上もある(南北に3kmあまり)村で、隣接する村の数も大変に多かったことがわかります。「風土記稿」の村の範囲の記述を見ていると、山間で広くなり、人口の密集する地域の村の方が小さくなる傾向があったことが見えるのですが、この村も御多分に漏れず基本的には山間の村で、ここは箱根外輪山の東側斜面に開けた村であることが地形図から窺えます。村境の峰には明星ヶ岳(標高924m)や塔ノ峰(同566m)といった山が連なり、その南には旧東海道の沿道から箱根の温泉街の村々の名前が並んでいます。

ただ、この山からは久野川という川が流れ出しており、

〇久野川勝澤川船ヶ原川附 勝澤川の源は、久野山中南の方、字小楢尾及中尾邊より出、伊張山中にて一流となり、川名を得、幅二間半、船ヶ原川は、久野山中北の方、字熊之木澤・しよい澤等より出、小名船ヶ原にて一流となれり、故に船ヶ原川の名を得、幅三間、板橋三を架す、長五間、此二川小名留場に至り合し、始て久野川の名起り東流す、幅四五間、板橋三を架す、長六間、

現在は山王川と呼ばれるこの川は、久野村の中を東に向けて流れ、久野村を出ると数村を経て山王原村で芦子川と名を変えて海に流れ出します。「小名留場に至り合し、始て久野川の名起り東流す、」と記されている合流地点から河口までの距離を現在の地図上で計測すると約4km、合流地点の標高が30m強、久野の出口で15mほどですから、東側は既に海から遠くない里であったと言えます。なお、現在はこの合流地点から上流側の川のうち、北側の流れが「久野川」と呼ばれている様で、「風土記稿」では「勝沢川」と呼ばれている流れに当たります。

この久野村の産物については

產物には柿實・梨子・柴胡・蕨の類多し、

としか記されておらず、柴胡をはじめこれらの産物が何処で穫れるものであるかは記されていません。しかし、この村の項目の中には「久野山」について記述された箇所があります。

○久野山 西方にあり.山中に熊之木澤・しよい澤・四ッ尾・中尾・小楢尾・椿澤等の字あり、此邊の高山にして、峯通郡界なり、其西方は足柄上郡に屬し、狩野山と唱ふ.此山中に薪を釆り秣を苅る村々、凡て三十七村あり、卽ち郡中に三十村、久野・今井・井細田・多古・中島・町田・荻窪・池上・穴部・同新田・淸水新田・府川・北ノ久保・飯泉・同新田・成田・矢作・鴨宮・上中下三新田・桑原・延淸・永塚・千代・高田・別堀・下堀・中里・西大友の村々なり、足柄上郡に七村、鬼柳・下大井・西大井・上大井・沼田・岩原・三竹山、各永錢を領主に貢す、

(三十村のうち、「久野」は雄山閣版では「入野」と記されているが、相武史料刊行会版を参照して誤植であることを確認の上修正。強調はブログ主)

上で見た通り大変広い村であったとは言え、37もの村からこの村に秣場や林を利用しに来ていたというのは、他にあまり例を見ない規模です。

久野村の秣場を利用していた村々
久野村の範囲(現在の小田原市久野の範囲から推定)と、
久野村の秣場を利用していた村々(Googleマップにて作成したもののスクリーンショット)

ここで挙げられている村がどの辺りに位置していたのかを、Googleマップ上でプロットしてみました。足柄下郡の30村を青、足柄上郡の7村を緑で示しました(なお、足柄下郡飯泉新田は現在の小田原市飯泉の領域に含まれると思われますが、正確な位置を判断出来なかったので、プロットされたピンの数が1つ少なくなっています)。この中では足柄上郡西大井(現・足柄上郡大井町西大井)が久野村から最も離れていたと思われますが、西大井村から久野村の入口までで約8km離れています。西大井村が利用していた秣場が久野村のどの辺にあったかはわかりませんが、広い久野村の中を移動するだけでも更に片道数kmの移動が必要になる可能性が高いですから、往復では20kmを大きく超えていたかも知れません。

秣場は耕作地とは違い、自生しているものを採集する場ですから、西大井の村民が連日通い詰めてくるということは少なかったと思いますが、それでもこんなに遠くの村までがわざわざこの地にやって来ていたということから考えると、この久野村の秣場はよほど「生産性」が高かったのだろうと思われます。地形から想像するに、恐らくは火山性で水捌けが良く、南に面した斜面が大きいことが自生する植物に有利だったのではないでしょうか。

そして、これだけの村々が大挙して久野村に来て秣場を利用し、その中から貢税を出していたという状況からは、この秣場も亀井野村の秣場と同様、やはり生態系への人的撹乱が大きくなる要素が十分にあったことになります。久野村の柴胡がこの秣場から出ていたとは書かれていませんが、関連性があったことを考えてみたい状況ではあります。今回この記事を書くに当たっては久野村に伝わる史料などは未確認のままですので、今後機会があればそちらにも当たって委細がわかれば、と考えています。

また、この久野村の北に隣接していた三竹山(みたけやま)村(現・南足柄市三竹)からも柴胡が出たことが、足柄上郡の図説に記されていますが、この村も久野村同様に箱根外輪山の東斜面に開けた東西に長い村(「風土記稿」では「東西一里半、南北二十町餘」)で、ここから分澤川と呼ぶ川が流れ出していたことも良く似ています。この村の秣場については特に記されていませんが、あるいは久野村同様に生産性の高い、従って人的撹乱が大きい地であったのかも知れません。




久野15号墳入り口のガイド(ストリートビュー
久野1号・4号墳への案内も見える
これだけでは文量が足りないので、「風土記稿」の久野村の記述から余談を少々。「風土記稿」の久野村の項の最後には、

◯塚 小名諏訪原より留場の邊に至る迄、所々に散在す、都て二十八高五尺より八尺に至る、

と、多数の塚が存在したことを記録しています。

現在、これらのうちの幾つかについては古墳であったことが確認され、右のストリートビューに見える様にその場所が保存されています。敷地周辺は農地などに利用されている様ですが、ウェブ上で検索してみた限りでは見学可能な状態になっている様です。「風土記稿」が記す全28件の「塚」が全て古墳であったかどうかはわかりませんが、かなりの件数の古墳が確認されている状況から、恐らくはかなりの比率で古墳が混ざっていたと言えそうです。この箱根外輪山の斜面地が、古代から比較的利用しやすい土地であったことの裏付けになるでしょうか。

また、この久野4号墳や15号墳がある辺りは「諏訪の原」と呼ばれ、現在はその一角に「小田原フラワーガーデン」が造られています。この小名について「風土記稿」では
  • △諏訪ノ原 府川村諏訪社の邊なり總世寺除地の内なり、故に古記に總世寺の所在を、諏訪原と記するあり、天正小田原の役に、東照宮當所に暫し御本陣を居ゑ給ひしこと所見あり、詳なる事は下御陣所蹟の條に見えたり、
  • ◯東照宮御陣所蹟 天正小田原の役に、東照宮は足柄山を越えさせ給ひ、諏訪原に陣し給ふ事、古記に往々見ゆ、されど當村には其傳を失へり、盖當所に暫し御陣を居させられ、夫より今井の御陣所に移らせ給ひしなるべし、【遺老物語】曰、…【管窺武鑑】曰、…【大三川志】曰、…

(…は中略)

と、ここが徳川家康の小田原の役に際し、箱根を越えた後に一時滞在した場所であることを伝えています。ただ、「風土記稿」の現地での調査の際には、久野村の側からその様な言い伝えを聞き取ることが出来なかったのでしょう。現在、「今井の御陣所」として伝えられる場所(現・小田原市寿町4丁目)には、「風土記稿」の足柄下郡の稿が成立したのと同じ天保7年(1836年)に小田原藩主が建立した石碑が立っていますが、この諏訪の原の辺りではその様な由緒を伝える石碑などは、やはり立っていない様です。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

上鶴間村以北の滝山道(その3)

滝山道の話、再び間が開いてしまいました。前回は藤沢宿から下鶴間まで滝山道を進んできた継立が、原町田村へと逸れていってしまっていた状況を巡って、当時の原町田村の様子を中心に見てきました。

以前も引用した通り、「新編相模国風土記稿」では下鶴間宿から上鶴間・鵜野森・淵野辺・上矢部・小山の各村を「八王子道」又は「滝山道」が通っていたとしており、道幅も淵野辺までは3間(約5.4m)、その先でも2間(約3.6m)ありました。他方、継立が向かった原町田村の付近の「神奈川往還」は9尺(約2.7m)とされ、これは八王子道の約半分だったことを意味しているのですが、継立はそれにも拘らず道幅の狭い方へと向かっていたことになります。また、藤沢から甲州へと向かう旅人も、同様にここから原町田へと向かっていたらしいことも前回紹介しました。

そして、原町田が市を中心に江戸時代に大きく発展した村であることを考え合わせると、継立は最初から原町田へと向かっていたのではなく、当初は八王子道を進んでいたのではないかと考えたくなります。八王子道の方が道幅が広いことがその裏付けになるのではないかという気もしますが、残念ながらこのことを裏付けられる様な史料を見つけることが今のところ出来ていません。

むしろ、継立の権利を持っていた村々がそう安々とその権利を他の村に譲り渡すとは考え難い事例が近隣の街道に存在します。例えば、中原街道で継立を巡って寛文11年(1671年)に中山村と佐江戸村が争ったケースがあります。この時にはその継立の由緒を示す書状の類がなく、街道上で継立を行っていた小杉・瀬谷・用田の各村々に伺い立てを行うことで、佐江戸村が前々から継立を行っていることを確認し、以後この際の裁許状がこの街道上の継立業務の事実上の由緒として機能することになりました。言い方を変えると、この様な裁許の手間を掛けてでも、継立の権利を守ろうとしたということです。そうした中で、八王子道の継立が過去には存在し、それが原町田村へと譲り渡されたとすれば、これは異例のことであったと言うべきでしょう。

なお、「神奈川県史」は滝山道の道筋について

八王子往還 この脇往還は県南の海岸側と甲州道中八王子宿を結ぶ街道の総称で、大きく分けて次の二つの交通路があった。

(一)藤沢宿—亀井野—長後(ちょうご)(以上 藤沢市)—下鶴間(しもつるま)(大和市)—原町田—淵野辺—橋本—八王子宿

(二)大磯宿—中原—田村(以上 平塚市)—厚木(厚木市)—座間(座間市)—当麻—橋本(以上相模原市)—八王子宿

(「神奈川県史 通史編2 近世(1)」 248ページより、強調はブログ主)

と記してしまっています。しかし、これでは相模原台地の上を境川に沿って走ってきた滝山道が原町田村の辺りでだけ境川を2回渡河していることになりますし、前回までに見た通り滝山道の下鶴間以北の各村で継立を営んでいたとする記述は「新編相模国風土記稿」の各村々の何れにもありません。一番可能性の有りそうな橋本村でさえ、継立は専ら八王子と当麻に向けてのものであって、藤沢方面への継立を取り扱っていたとは記されていません。恐らくは「神奈川県史」の記述は「新編相模」や「新編武蔵風土記稿」の記述をざっと拾って並べただけなのでしょうが、残念ながらこれは当時の実情に合わないものであると言わざるを得ないでしょう。



「久保沢」の位置
ポイントしている病院の付近に「久保沢」バス停がある
何か少しでも手掛かりになるものがないか探しているうちに、「(その1)」で紹介した継立道の三叉路に立っている嘉永7年の庚申塔に刻まれた「左くほさハみち」の行き先が、この八王子道の道筋とは違う方向を指していることに気付きました。当初この「くほさハ」が八王子道の筋の何処かにあると思ってしまったために、道筋から外れた場所に該当地があることに気付き損ねていたのでした。

現在は「神奈川県相模原市緑区久保沢」となっているこの地域は、江戸時代には津久井県の上川尻村の一小名でした。橋本宿よりも更に西、相模川の大きな河岸段丘に出来た深い沢がその名の由来で、沢が相模川に落ちる地点に「明王瀧」があったことが「新編相模国風土記稿」にも記されていますが、その「風土記稿」の記述中には

小名久保澤の一區には民戸相對して軒を並る事五十、是所には古ヘより市を立て米穀及び庶物を賣買す毎月三の日を定日とす是故に近隣の村々より群聚していと賑はへり、縣の東偏に在て頗る打開けたる村からなり、人物も亦西偏、山村の風俗とは異なり、

(卷之百二十三 津久井縣卷之八、雄山閣版より)

と、この地で月に3度(3日、13日、23日に)定期市が開かれ、非常に賑わっていたことが記されています。この引用箇所のすぐ前で上川尻村の戸数を180と記していますから、村の戸数の3割弱が久保沢集落に固まっていたことになります。津久井県の東の一角にあって、山間の産物をその麓に位置するこの場所に集めて取引する様になったのでしょうか。


神奈川県立相模田名高校付近の「久保沢道」標
ストリートビュー
この「久保沢」の市の賑わいぶりは、「久保沢道」と呼ばれた道筋が他にも存在したことでも窺えます。右のストリートビューに見える「久保沢道」の石標は相模川左岸の河岸段丘の上を南東から北西に進む道筋に立っており、八王子道の道筋とは違います。定期的に開かれる市に向けて、周辺の村々から往来する道筋が共通して「久保沢道」と呼び習わされていたということです。

一方、下鶴間の嘉永7年の庚申塔が立っている位置から久保沢までは、現在の地図上で最短の道筋をGoogleマップで探しても18km以上離れています。つまり片道4里半も隔たっているのですが、やや時代が下った頃にはこの久保沢から鶴間まで炭を馬に乗せて運んでいたことが「鶴間郷土史」(井上茂留 1984年 町田ジャーナル社)に記されており、久保沢の市が周辺のかなり広い地域に物資を供給していたことが窺えます。

因みに、上川尻村の北隣(「風土記稿」による、実際は北東といった方が良い位置関係)には下川尻村があり、ここはその名が示す通り元々1つの村だったところが分かれたのですが、「風土記稿」は

村中に十條の道あり道幅凡二間、東方高座郡上相原村より來り、村内を經る事九町許にして上川尻村に達す、茲に原宿と云へるは村の東偏にて一區をなし編戸の民相對して軒を並ぶる事、四十四戸、往古より市を立て米穀及び庶物を賣買すること久保澤と相對抗して每月七の日を定日として市を立てり頗る賑はへり、縣中の村落この兩地の如くなるはあらす、人物も亦西偏山村の風俗とは同じからず、

(卷之百二十三 津久井縣卷之八、雄山閣版より)


相洋中学校校地脇の「久保沢道」標
ストリートビュー
と、こちらでも原宿集落で定期市が立っていたことを記しています。原宿の地名は上の久保沢の位置を示した地図でも見えている通り非常に至近にあったことがわかりますが、「久保沢道」は当然この原宿の市への道も兼ねていた訳です。また、ここを通っていた「道幅凡二間」の道については上川尻村の項では

村内に一條の道津久井往還にて、甲州への通路なり東西に亘れり、東方下川尻村より來り、村内を經ること廿四町にして西方中澤村に達す道幅凡二間、

(上記同書より)

と、この道筋が「津久井往還」の名で呼ばれていたことを記しています。そして、この道筋を東に辿って行くと橋本方面へと向かうのですが、その途上現在の相模原市立相原中学校の校地の一角にもやはり「久保沢道」の石標が立っています。つまりこの道も複数ある「久保沢道」の1つであった訳です。言わばこの両村が津久井への東からの入り口に当たっており、そこに2つの村が競って市を立てていたという格好ですね。

さて、それでは「八王子道」または「滝山道」の途上にあった他の各村々の人々には、この道はどの様に意識されていたのでしょうか。

淵野辺新田淵野辺分小割図解説
「淵野辺新田淵野辺分小割図」解説図
(「相模原市史」第2巻
498ページより)
「八王子道」の経由する村の1つであった淵野辺村では、文化〜文政年間に相模野の秣場を開墾して「淵野辺新田」を作るべく、境川対岸の木曽・根岸村と話し合いを重ねています。その際の区割りを記した「淵野辺新田淵野辺分小割図」という絵図が作成されており、「相模原市史」にはこれを翻刻したものが掲載されています(第2章 498ページ)。この絵図には淵野辺村が境川まで含んで描かれていますから、「八王子道」が通っていた場所も当然この絵図に含まれている筈なのですが、絵図に記されている道の名前(赤傍線を記しました)には「鎌倉道」「大山道」「当麻道」そして「新道」という名称は見られるものの「八王子道」はありません。

絵図そのものの目的は飽くまでも新たに開墾する淵野辺新田の区割りの位置を明らかにすることにありますから、村内の道は新田の位置を示すのに必要な分だけを概略で示しているとも考えられるのですが、区割りから離れた「大山道」や「鎌倉道」が記されている点と考え合わせると、「八王子道」が書かれていないことを説明するには不足がある様です。

つまり、この頃には既に「八王子道」は淵野辺村にとって、少なくとも主要な道筋とは言えない位置付けになっていたと言えるのではないでしょうか。恐らくこの絵図でも名前を記されていない道筋のうちの何れかが「八王子道」に該当するものと思われるのですが、そこに敢えて「八王子道」の名を記さずに済ませてしまう程度にしか、淵野辺村の人々には認識されなくなっていたということになりそうです。

では、この絵図が作成された文化文政期より後の、天保年間に編纂された「新編相模国風土記稿」では何故淵野辺村の項に「八王子道」が記されたのでしょうか。これは私の推測になりますが、恐らくは「風土記稿」の調査が村の由緒などを主に調べる方向を重視していたために、村が主な道筋を書き上げる際にもそうした由緒が伝わっている道筋を優先したのではないかと思います。つまり、当時の利用実態がどうであれ古道として伝わっている「八王子道」の方が、絵図には記載されている「当麻道」よりも優先的に書き上げられる結果になったということでしょう。


明治39年測図の1/20000地形図「上溝」に描かれた
「川尻・久保澤」集落(「今昔マップ on the Web」より)
明治時代に入っても比較的大きな集落を作っていたことが窺える
とは言え、嘉永7年の庚申塔が示す通り、この道は全く利用されなくなっていた訳ではなく、むしろ八王子よりは近い市への道筋として荷物を運ぶ道として位置づけ直されて使われ続けていたのでしょう。「迅速測図」などから判断すると、この久保沢への道筋は古淵付近で八王子道から分かれ(リンク先はこの分岐地点付近)、先ほどの淵野辺新田や上矢部新田など相模野の上で新たに開墾された新田の中を通っていく、八王子道よりは南寄りの道筋だった様で、八王子道と久保沢道が重なっていた区間はそれ程長いものではなかった様です。しかし、下鶴間の辺りでは既に八王子へと向かう道筋としては意識されておらず、主に久保沢の市との往復に使う道になってしまっていたために、呼び名もそちらが優先して使われる様になり、庚申塔を立てる際にもその呼び名が刻まれることになったのでしょう。

こうした事例を見ていると、江戸時代の中でも時代が下るにつれて人や物の動きが変わってしまい、それに伴って道の呼び名まで付け変わっていってしまうということが、あるいは起こっていたかもしれないという、ひとつの片鱗を感じることが出来る気がします。継立や旅人の向かった先と、言い伝えや道幅の示す交通量の「ズレ」は、これだけでは必ずしも流通網の変遷を読み取るには残念ながら十分ではありません。しかし、原町田や久保沢・原宿の様に、江戸時代を通じて発展していく市が周囲にあった状況下では、物の流れもそれに伴って変わっていったのは自然なことであり、それを送り届ける道筋の方も、そうした物の流れの変遷の影響を多少なりとも受けたということが、あったとしてもおかしくはないと思えるのです。

「上鶴間以北」と言いながら、未だ八王子に届いていませんが、この続きを書くのはまたしばらく先になりそうです…。

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