2014年05月の記事一覧

上鶴間村以北の滝山道(その2)

滝山道の話は(その1)を書いてから随分と間が開いてしまいました。なかなかその先を調べる手掛かりが見つからないからなのですが、今回の継立の件を書いて一旦保留ということになりそうです。

前回も引用した「新編相模国風土記稿」の下鶴間宿の記述を改めて引用します。

當村矢倉澤道、八王子道の驛郵にて、人馬の繼立をなせり矢倉澤道は幅四間、東の方人夫は武州鶴間村、道程五町、傳馬は同國長津田村、道程一里餘、二所繼立のことを司れり、西の方は人馬共に郡中國分村、道程二里に達す、八王子道は幅二間、南方長後村、道程二里一町四十八間、北方は武州多磨郡原町田村に繼送れり、道程一里四十八間、又八王子道、村内にて二條となり、隴間一條を古道と唱へ土人横山道とも唱ふ、北の方上鶴間村界にて前路に合す

(卷之六十七 高座郡卷之九、雄山閣版より)


滝山道の方は前回見た通り引き続き相州高座郡内の各村々を通り抜ける道筋となっていました。しかし、それらの村々の中には継立の行き先である「武州多磨郡原町田村」はありません。つまり、継立はここで滝山道を離れ、境川を渡って武蔵国へと一足先に入ってしまうことを示唆しています。実際、「風土記稿」の各村々の記述では、何れの村も継立を行っていたとは記していません。

下鶴間→原町田の継立道
下鶴間→原町田の継立道
(「地理院地図」に「ルートラボ」で
作成したルートを取り込み加工したものを
スクリーンキャプチャ
明治期の低湿地」を合成)
前回嘉永7年(1854年)の道標を兼ねた庚申塔のある三叉路を紹介しましたが、継立はここで東側の道へと進みます(「大和市史」第2巻第2編第4章「村の古道」による)。この先の道筋は「迅速測図」に描かれた道筋から判断すると、境川に沿って現在の鶴間橋まで降りてきたところで境川を渡り、その先で現在の都道56号線の道筋に沿って原町田へと向かいます。横浜線の開通に伴って道筋が分断されたため、現在の都道56号線はその手前で右折してしまいますが、かつての道筋はそのまま横浜線の線路に突き当たるまで残っており、横浜線を越えた先の細い路地を経て現在の都道47号線の道筋へと合流して原町田の継立場に入った様です。以上の道筋を「ルートラボ」上で描いてみたのが左の地図です。

さて、ここで問題は大きく分けて2つあります。1つは「継立はこの先何処で馬を継いだのか」という点です。そしてもう1点は、江戸時代の継立が当初からこの道筋を使っていたのか、変わったとすればそれは何時頃からで、何故なのかという問題です。「新編相模国風土記稿」は「八王子道」の継立と示唆していますから、何れにしても最終的には八王子方面へと送り届ける荷物を継いでいたと思われますが、その荷物が「八王子道」を進まずに別の方角へ向かったとすれば、何故その様な状況になっていたのかが課題です。

原町田村は現在のJR横浜線及び小田急線の町田駅周辺を中心とする地域で、現在は「町田駅」と称しているJRの駅も明治41年(1908年)の横浜鉄道開業の頃は「原町田」という名称でした。


原町田村は戦国時代には北の本町田村と1村で「町田村」と称していましたが、後に分村したことが「新編武蔵風土記稿」に書かれています。この「新編武蔵」では、原町田村で定期市が開かれていたことが記されています。

村の中央に東西へ通ずる街道あり、これを神奈川道と云、長八九町ばかり、又南北への往來あり、これ江戸への道なり、村内を經ること凡五町なり、…民間五十八軒、村の中央なる町の内に軒をつらぬ、土人農隙には男は薪を伐いたし、又は黑川炭を燒く、女は蠶を業とし、木綿糸を繰る、これらの物を每月二の日ことに村内にて市をなし、近鄕の人輻湊して賣買せり、

(卷之九十 多磨郡卷之二、雄山閣版より、…は中略)


「新編武蔵風土記稿」は「新編相模国風土記稿」と同じく昌平坂学問所の手によって編纂されたもので、起稿されたのは文化7年(1810年)、完成は文政13年(1830年)と実に20年もの歳月がかかっています。「新編相模」はそれに引き続いて編集が始められたのですが、恐らくはその間に編集方針が見直されたのでしょう。2つの風土記では記載されている項目に多少差があります。その違いのうち特に目立つのが街道や継立にまつわる記述で、「新編相模」の方では当時の相模国内の継立網をかなりの程度まで追うことが出来るレベルで記述されているのに対し、「新編武蔵」の方では残念ながらこうした網羅性が目指されておらず、特に脇往還の継立については記録されていない所が数多くあります。この原町田村もその1つで、「新編相模」では下鶴間村からの継立があると指摘されているにも拘らず、それを継いだ原町田村の記述にはその点が含まれていません。このため、下鶴間から原町田へと継がれてきた荷物が次にどちらに向けて送られたのか、わからなくなってしまっています。

先日紹介した「八王子千人同心の地域調査―武蔵・相模の地誌編さん―」(2005年 八王子市郷土資料館編)には、「新編武蔵」の地誌捜索に際して各村々に宛てて書上を提出する様に依頼した際に、どの様な項目について書くべきかを指示した「地誌捜索問目」が掲載されています(37〜39ページ)。言わば地誌書上の「テンプレート」なのですが、凡そ70あまりに及ぶ項目の中には

一村内 何方より何方迄の往来道有か、或ハ何地より何地江の伝馬継有か 継送ハ当村より何村々迄道法何里 但横道江継立候場所ともニ訳

(同書38ページ上段)

と、書上の項目として街道や継立に関するものも仔細に記述する様に指定されていたことがわかります。しかし、何故かこの項目の記述は各村で徹底できなかった様です。こうした状況が生じた理由についても今後改めて調べてみる必要はありそうです。

ただ、この「新編武蔵風土記稿」の「多磨郡」の部は先日も触れた通り八王子千人同心が地誌捜索を担当した郡の1つに当たります。そして、その草稿の一部が八木家文書として残っており、その中に原町田村の草稿も含まれていました。幸い、町田市域の草稿の翻刻が自費出版されていましたので、そこから原町田村の街道に関する記述を抜き出してみます。

街道 東より西するの一路 西森村野内にかかる事凡八九町にして 東金森村に至り神奈川往還なり △道巾九尺許 但原町田宿ノ内道巾ハ拾間許

南より北するの一筋ハ村内を経る事 凡五町許 道巾九尺許 北本町田へ懸り江戸街道なり △道幅九尺許

(「翻刻 八木家文書に見る「江戸時代の町田」―「新編武蔵風土記稿」の草稿」矢沢湊 2008年 32ページより)



現在の原町田4丁目付近の「神奈川往還」
ストリートビュー
明治時代以降の開発で道幅は却って狭まっている
「道幅10間」というと約18m、現在でもこれだけの道幅があればかなり広い歩道と自転車専用レーンを伴った2車線道路か、4車線の車道を確保することが出来る程の広さです。江戸時代の東海道でも主要な宿場での道幅は精々5〜6間といったところですから、10間というのはそれを遥かに凌ぐ、当時の江戸市中でさえなかなか見られない道幅です。

この記述が草稿であるだけに、本当にこんなに道が広かったのかという疑問も湧きますが、こちらのブログには幕末に撮影された原町田の写真が載せられています。これを見ると、右手の高札や左手の馬を繋ぎ留めるための柱の位置と両脇の家並みとの間に広い空間が空いており、道というよりも広場の様な景観が写っています。一緒に写っている人馬の大きさから見ても、確かにこの草稿の記述の通りの道幅があったことが確認出来ます。ここは現在の原町田3丁目〜4丁目に当たり、かつてはこの付近が中心地であったことが窺えます。

もっとも、これは継立場としての必要性からと言うよりは、やはりこの地で定期的に行われていた市のための広場として設けられた空間と考えるべきでしょう。接続されている道が9尺(約2.7m)と、継立が運営されていた道筋としてはやや手狭なので、そこまでの通行量があったとは考え難く、その継立のためのスペースとしては、他の街道の例と照らし合わせると不必要に広いと感じます。

この原町田の市については、上記の草稿を翻刻された矢沢湊氏が次の様に解説されています。

原町田村の成立について、造形美術家・三橋国民氏の研究を要約すると、三橋一族(土方・夏目・山村氏)は古来定住していた琵琶湖東岸付近から、主家(足利・上杉氏)の鎌倉下向に従って移住した。その後、関東各地の騒乱により最終的に一族は山内上杉氏の重臣大石氏の滝山城―沢山城に拠った。そして小武士団の長(三橋氏の祖先・新右衛門)は「一族の永世帰農」を、北条氏照に請願して認可を得たあと、永禄の初め頃に町田の原野へ一族は定着して、荒れ地を開梱しながら開村したものと見られる。更に一族の総意によって浄土宗勝楽寺が永禄十年(一五六七)に創建された。

三橋国民氏御所蔵の「明和四年(一七六七)原町田村古代旧絵図之写」(寸法縦27cm×横115cm)がある。…絵図の中央を左右に街道が通る。左は八王子方面、右は神奈川方面である。この街道は古来「巽(たつみ)街道」とも呼ばれ実際は北西から南東に走るのである。原町田村にはこの街道に沿って上(カミ)・中(ナカ)・下(シモ)の小名がある。上は浄運寺付近から北西の部分・下は勝樂寺付近から南東の部分で、中は上下に挟まれた浄運寺の東端から勝樂寺の参道迄の間であった。この中が「但原町田宿ノ内道幅ハ拾間許」の所であり、その距離は約三丁(約330m)である。ここに原町田村の殆どの村人が住居を構えていた。

(上記書131ページ、…は中略)


また、別の原町田の歴史や写真を紹介した書物では、秣場を巡っての争議に際して提出された訴状に記された由緒等を引いて、次の様に説明されています。

本町田村で「二・七の市」と呼ばれる市場が開かれていたので、これを分けてもらって市場を開設しようとした。しかし本町田村では、原町田で市場を開設することを承知しなかった。そこでときの領主北条陸奥守の家老、永野中将に市開設の訴願をして幾度かの話合いの結果、やっと本町田は「七の市」原町田は「二の市」と二つに分けて開設するということで解決し、天正十四年(一五八六)から市場が始まることになった。この件に関しても先きの「連署訴状」に次の如く記載されている。

「殊一月ニ市六市立申候所ヲ新町之者ハ古来之田地本町田村ニ捨置罷出候間、市之義ハ此方ニ立可申卜申上、六市なから原町田村ニ立置申候処二、本町田村之もの共、市ヲ望存知、又々間之原ニ罷出八拾年先きのへ申ノ年山屋を取立市を立可申計略仕候間、原町田村より陸奥守様御家老永野中将殿之申上候様ハ原町田村並ニ而又々山屋を立候へハ、馬草取場も無御座迷惑ニ奉存旨、猶森村木曽村入合草刈り場之由、三ヶ村一同御訴訟申上候処、双方被召寄対決之上、本町田之者市を望申候間三市返シ候者、山屋をやぶらせ可申由被仰付候間、原町田村へハ月頭之市ヲ望三市取後市ヲ三市本町田村に返シ、七拾七年先丙ノ亥之年山屋を引せ候て、干今両町田ニ三市ツ、立来り申候、月頭之市原町田村之取申儀右之証拠にて御座候事」。

(「絹の道・原町田」森山兼光 1983年 武相新聞社 98ページより)

幕府の農村商業停止方針に対して、原町田村は農村ではあるが、しかし市を開催して商業地として繁栄しているので、農間商いをさせて欲しいという「許可願書」がある。天保十四年(一八四三)七月の「農間商ひ渡世に付原町田村申上書」だが、この文中に「往古より月々六度之市場御聞済ニ相成」と記されていることを基に推測すると、文政末か天保に入った頃に、今までの「二の市」に「六の市」を加えて回数を増やし「二・六の市」とし、毎月六回開催するようになったのではないだろうか。

(同書100ページより)


つまり、この街場は戦国時代までは本町田(原町田の北方)の方で市が月6回(2の付く日と7の付く日)定期的に開かれていたものが、原町田が開墾された後にその半分を譲ってもらう形で市が開かれる様になり、やがて市が街道筋にあることが効いてそちらに賑わいが移っていったことになります。それであれば、それ以前はこの街場はほとんど存在しなかったと言って良く、同地で当初から継立が行われていた可能性はかなり低そうです。

また、継立がその様な道筋を辿っていたのであれば、継立以外の旅人などの往来はどうであったのかという問題も出て来ます。亀井野下鶴間での様子を伝える際に引用した「富士・大山道中雑記 附江之嶋鎌倉」(天保9年の道中記と推定されている)は「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」(藤沢市文書館編)に収録されていてものですが、金沢文庫に収められているこの道中記の全文の翻刻は未出版である様です。「史料集(31)」には下鶴間での宿泊までの部分しか収められていないので、その先については原本を当たるしかないのですが、幸いなことに横浜市金沢区の生涯学習グループの活動でこの道中記を読む勉強会を催した際の記録がこちら(リンク先PDF)に公開されていましたので、今回はこちらを利用させていただくことにしました。

これによると、下鶴間で一泊した一行は翌朝6時に出発し、そこから1里ほど進んだところにあった「ケ成ノ宿場(地名不覚)」(上記活動記録による)で休憩しています。この道中記の著者が地名を忘れてしまったということなのですが、「かなりの宿場」という表現から考えると、この地が「原町田宿」であった可能性が高そうです。また、「宿場」という表現は同地で継立が行われていたことを示唆している可能性が高く、それであれば「新編相模」では八王子道沿いの継立が下鶴間村の先では記録されていませんから、やはりそちらの道を進んだのではなさそうです。但し、上記の「風土記稿」の草稿でも「原町田宿」という表記が見られるものの、同地の農間渡世を書き上げた享和4年(1804年)の史料が「翻刻 八木家文書に見る「江戸時代の町田」」や「絹の道・原町田」で紹介されていますが、これには旅籠など宿屋であったことを示す稼業が含まれていないので、街道の拠点としては飽くまでも立場としてのみ機能していたのかも知れません。これらの稼業の中では「酒そば」が2名、「草履草鞋」が1名いるのが、道行く旅人を当て込んだ稼業ということになるでしょうか。

原町田を発った一行は次に「小山村」で休息して腹拵えをしています。もっとも、「名物饅頭・うどん等相用、その風味至って宜しからず。 」と、かなり不満足な昼餉であった様ですが。小山村は相模国・武蔵国双方に存在するため、この記述だけであればどちらに来たのかを特定することは出来ませんが、原町田村で休憩したということであれば、その先で神奈川往還を進んだことになりますから、昼食を摂ったのは武蔵国側の小山村であったことになるでしょう。


馬場交差点の位置
そして、この小山村の域内に「馬場(ばんば)」という小名があり、現在も交差点に地名が残っています。更に、この交差点のすぐ南を流れる境川にも、「馬場橋」という橋が架かっています(「下馬場」交差点のすぐ南側)。ここは原町田からは8km弱(約2里)隔たっていますので、継立を行うとすれば丁度良い距離感です。ここから八王子まで更に10km程あり、山間を越えていく道筋になることを考えると、その間で更にもう1回馬を継ぐ必要がありそうですが、少なくとも地名との照合や、上記の道中記の記述を考え合わせると、この小山村で継立を行っていた可能性が高そうです。

但し、「新編武蔵」では小山村の項では村内を通過する街道についても、そこで行われていた継立についても、全く触れられていません。辛うじて小名の最後に「馬場」の名が記されているのみとなっています。先ほどの草稿には小山村の分が含まれていませんので、元から街道や継立について記述されなかったのか、それとも草稿にはあったものが割愛されたものかは不明です。

中途半端ですが今回は一旦ここまでとして、次回改めて江戸時代の滝山道の下鶴間以北の道筋について考えてみたいと思います。

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相模川の「鰷」続き:「新編相模国風土記稿」津久井県の編纂の経緯

先日津久井県について書き、更に「新編相模国風土記稿」の同県の産物に記された「鰷」の表記について触れました。その際に愛甲郡の表記では「年魚」「鮎」といった表記が使われていて統一が図られていないことを指摘しましたが、その経緯について「風土記稿」冒頭の「凡例」にしっかり一文触れられているのを見落としていました。読みが浅いですねぇ…。凡例を後から読んでいることがバレバレです。

一津久井縣は、愛甲、高座の二郡より、分割して此唱あり、其地は千人頭、原半左衛門胤廣、別に承はりて撰定し、天保七年呈進す、故に其體例異同あり、

(首卷・凡例、雄山閣版より、強調はブログ主)


津久井県の部の編集については昌平坂学問所ではなく、八王子千人同心が命を受けてこれに当たったために、体裁に異同があることをはっきり書いていました。他の部に見られない独自の表記が見られるのはそのためだった訳ですね。


この八王子千人同心による「風土記稿」編纂については、以下の書物がわかりやすく紹介しています。これは平成17年(2005年)に八王子市郷土資料館が開催した特別展の図録です。

八王子千人同心の地域調査―武蔵・相模の地誌編さん―(2005年 八王子市郷土資料館編)



この特別展については図録の冒頭で次の様に紹介されています。

東京都有形文化財(古文書)に指定され、郷土資料館に寄託されている『桑都日記』(極楽寺蔵)は、平成十四年度に東京都八王子市の補助による修復がなされた結果、表紙の芯紙から『新編相模国風土記稿』津久井県之部の草稿の一部が発見されました。草稿の存在はこれまで知られていないため、貴重な発見として注目されています。

『新編相模国風土記稿』の編さんには、『桑都日記』の著者でもある千人同心組頭の塩野適斎がたずさわっていました。千人頭の原胤敦をはじめとする千人同心らは、幕府から「地誌捜索」を命じられ、『新編武蔵風土記稿』の多摩・高麗・秩父の各郡の編さんも手がけています。今回の展示では新発見資料を初公開するとともに、その後の研究成果や新たに発見された資料から、千人同心の文化的業績ともいえる地誌捜索の全体像を再検討したいと考えます。

(上記書「開催にあたって」より、ページ番号なし)


八王子千人同心が武蔵国西部や津久井県といった地域の編纂に参加した理由について、同書では次の様に考察しています。

多摩郡の地誌捜索を千人頭に分担させるメリットは、単に「最寄」の地であるだけではなく、江戸から出役させるよりも経費も少なくて済むこと、なによりも郡内に山岳地帯を含んでいて、調所のスタッフが廻村するよりも作業効率が高いと期待されたからであろう。以後、高麗郡・秩父郡の捜索を担当することになるのも同じ理由である。その後、天保四年(一八三三)十二月、原半左衛門胤禄は、『新編相模国風土記稿』の編さん事業のうち、相州津久井県の地誌御用を命じられることになる。今度は志願したもののようであるが(史料2)、許された理由はやはり同様に考えてよい。

(同書3ページ)


天保六年津久井県地誌捜索廻村経路
天保6年の千人同心の
津久井県地誌捜索経路
(「八王子千人同心の地域調査」所収)
同書には天保6年に千人同心一行が津久井県内を地誌探索のために巡回したルート図も掲げられています。これを見ると、山間の道筋乏しい地域を、一筆書きとまでは行かないまでも効率良い道順を組み立てて巡回していることが窺えます。

こうした記録によって、「新編相模国風土記稿」の中でも担当した人・団体が異なっていたことはわかります。これが表記の不統一に影響したのであろうということまでは言えるでしょう。しかし、それでは昌平坂学問所と八王子千人同心の双方で、「アユ」の表記についてそれぞれが依拠したものが何処にあったのか、またそうした知識の齟齬がそれぞれで生じてきた時にどの様に統一を図ったのか、といったことまではわかりませんでした。

因みに、「新編相模国風土記稿」の他の郡の編集がどの様な順番で進んだかについては、首巻の「凡例」に次の様に記されています。

高座郡は、天保三年、三浦郡は、同五年に稿成る、此二編は、事の始にして、體例未定らず、故に十一年、再刪定を加ふ、足柄下郡は,七年に成り、足柄上郡、愛甲郡は、十年、大住郡、淘綾郡は、十一年に稿成る、鎌倉郡は、其前、武州稿編の時、捜索の事ありて、重て其學に及ばざるが故、他郡に比すれば、甚疎なり、抑鎌倉は、古人撰述の書もあれば煩蕪を省て、簡易に從ふのみ、

(雄山閣版より)


従って、天保6年に調査が行われ、同7年には仕上がった津久井県はこれらの他の郡の項の成立より、事情のやや異なる鎌倉郡を除いてほぼ先んじていたことになり、昌平坂学問所でも他郡の執筆に取り掛かるよりも前に津久井県の稿を見ていると思われます。それであれば、愛甲郡の「年魚」「鮎」の表記を「鰷」に揃えるか、或いは逆に納入された津久井県の表記の方を修正することも出来た筈ですが、結局どちらも採用されずに凡例に表記の差が出ていることだけ記すに留まったことになります。「鰷」の方は貝原益軒の著作に典拠がありそうという点については以前指摘しましたが、その点に対して昌平坂学問所側がどの様に判断したのかが気になります。


新編相模国風土記稿津久井県図説の「ヤマメ」
「新編相模国風土記稿」
津久井縣図説の「ヤマメ」
雄山閣版の印字を拡大
また、「風土記稿」の津久井県の記述では、「ヤマメ」について「魚へんに衆」という、これまた見慣れない、そしてUnicodeの体系にも現時点では見当たらない文字が使われています。大修館書店の「大漢和辞典」では、この字を「(やもめ)」の俗字としており(修訂版12巻773ページ、文字番号46515)、「鰥」については「大魚の名。又、鯤に作る。」(同763ページ、46382)等としています。日中辞典を引いても「ヤマメ」の訳語としてこの字が出てくるものが見当たらない点と考え合わせると、この字が果たして「ヤマメ」に宛てられるべき字であったかは頗る疑問です。しかし、前回の一覧に見られる通り、この字は「山川」編の「物産」でもそのまま用いられた上で足柄上郡でも産出されることが付記されています。現在ではヤマメは一般的には「山女」と書かれることが多いのですが、探してみた限りでは村里部にはヤマメに関する記事がなく、他の記述例を見つけることが出来ませんでした。これも八王子千人同心が何処からこの字を持って来たのか、そしてそれを何故昌平坂学問所がそのまま採用したのか、という疑問が残ります。

ただ、「アユ」では出典を求める事ができる「鰷」の字を採用しなかった昌平坂学問所が、ヤマメでは千人同心の記述をそのまま受け入れているところを見ると、千人同心に武蔵国の山岳部や津久井県の地誌調査が依頼された理由のうちには、ヤマメの様な山岳部独自の動植物や風習については、彼らの方が事情に明るいという側面もあったのかも知れないとも思えてきます。昌平坂学問所もその観点で千人同心の記述を尊重したのかも知れません。

以前「ハコネサンショウウオ」のことを紹介した際に、西洋でもトゥーンベリの頃にはまだ近代的な分類学の黎明期にあり、日本から持ち帰った標本などを手掛かりに分類を行っている段階だったということを指摘しました。「新編相模国風土記稿」はそれよりはやや時代の降った、シーボルトの来日した頃に当たりますので、蘭学が大分日本に浸透しつつあったとは言え、まだ在来の和名と漢名による動植物の分類が基本にあった筈です。「風土記稿」のこうした表記の「乱れ」からは、むしろそうした中で当時の人々が依って立つ動植物の知識がどの様なものであったかを考える、ひとつの端緒になるのかも知れないという気がしています。

敢えて細かい表記の問題に拘っているのはそういう側面からではあるのですが、現状の私の知識レベルではまだそこを掘り進めるには到底不十分ですので、その点をもう少し深められた頃に改めてこの問題に戻って来られれれば良いかなと思っています。
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相模川の「鰷」

相変わらず続きが書けずにいるのでしばらく小ネタの間繋ぎが増えそうです。こういうことをやっていると浅知恵を曝け出すことになりかねないので気をつけないと…。

前回「津久井県」のことを取り上げましたが、「新編相模国風土記稿」の「津久井県」の項を見返していて、一瞬おや?と思ってしまったのが、最初の「図説」の最後にまとめられた「産物」中に出て来る次の一節です。

 阿由、相模川及五川より産す、道志川より産するもの一種の佳品にて、其形も亦少しく異にして、上腮頗る長くして曲れり、故に道志川の鼻曲りと呼て、賞美し、歳每に一千七十五を貢獻すと云、按ずるに長衡が西京賦に所謂大口、折鼻などと見えたるは、卽かゝる鰷の形の類を云ふものならんか、

(卷之百十六、雄山閣版より、原文では「阿由」以下小字、強調はブログ主)


「風土記稿」では読み仮名を表すのに漢字を使っているので、ここでも「阿由」がその読みを示していることに気付けば何ということはないのですが、最初の「鰷」という見慣れない字に幻惑されて何の魚かちょっと考えてしまいました。勿論、これは古くから相模川流域の名産とされてきた「鮎」の紹介です。

「風土記稿」中の他の箇所ではどの様に書いているのか、更に「津久井県」の各村の記述を読んでいくと、寸澤嵐村(すわらしむら)の項に漁の様子の図と共に鮎の紹介が記載されていましたが、ここでも「鰷」の字が用いられています。

新編相模国風土記稿道志川簗之図
「新編相模国風土記稿」より「道志川簗之図」

◯道志川 …多し、例年秋の彼岸の頃簗を設て漁獵す前々より子持鰷一千七十五を上納す例なり、道志川の鼻曲と稱して一種の佳品なり、漁獵の仕方の槪を謂はゞ先づ兩岸より丸太木を立て楚木を横たへ、草席にて流水を包み、中央の一報を除して激端となし、其下に竹にて簀を作りたるを設く、されば激端より下り來る鰷みな件の簀の上に留て躍る所を拾ひ取るなり、簗の制委くは圖に示す、…

(卷之百十七、雄山閣版より、強調はブログ主)



現在の寸沢嵐付近(国道412号線上から)
ストリートビュー
道志川と相模川の合流地点付近は
現在は津久井湖の水位上昇によって
上記図の様な景観はなくなっている

もっとも、「風土記稿」全編で「鰷」で統一されている訳ではなく、例えば愛甲郡の「図説」中の「土産」の項では「年魚」という表記になっており(卷之五十四)、妻田村、金田村(以上卷之五十六)、棚澤村、熊坂村、半繩村、八菅村(以上卷之五十七)では同じく「年魚」と表記されているのに対して、三田(さんだ)村(卷之五十六)、角田村(卷之五十八)では「鮎」の字が使われており、更に妻田村の項では「鹽鮎二千、宇留加五升」と補足では「鮎」の字が用いられています(以上卷之五十六)。

大和本草巻13より「鰷」後半
貝原益軒「大和本草」巻13より「鰷」後半部分
国立国会図書館デジタルコレクションより)
赤線の部分に「鮎」が誤りである旨記されている
こうした表記のブレがどうして起こったのかは良くわかりませんが、差し当たって「津久井県」の方の「鰷」という表記は何処から来たのかを探すと、貝原益軒の著作に行き当たる様です。宝永7年(1709年)に刊行された「大和本草」では「鰷」の字が鮎を表すのに用いられており、更に左に示した様に「鮎」の字は本来ナマズを意味しており誤りである、と注記しています。

もっとも、益軒が「鮎」が元々ナマズの意味であると指摘した点については、確かに中国では元々この字をナマズの意で使っていた様ではあるものの、代わりに持ち出してきた「鰷」の字が妥当だったかどうかは疑問が残ります。現在はこの字には「はや」と訓が当てられており、これはアブラハヤやオイカワなどのコイ科の中型の魚を指す言葉です。他方、Google翻訳に「鰷」を入れると「チャブ」と翻訳されますが、これはヨーロッパのコイ科の魚のことだそうで、ネット上で他の中国語関連のページを検索してみたところでもほぼ同じ魚の名前が出てきます。何故中国固有の魚の名前が翻訳例として最初に出て来ないのかはわかりませんが、何れにしても「鰷」がアユのことを意味する事例は、江戸時代の文献以外に見当たらない様です。

ただ、貝原益軒の一連の著作は江戸時代には様々な書物で引用されるなどかなり大きな影響力を持っていましたから、「風土記稿」の「津久井県」の項を担当した執筆者も、あるいはこの益軒の記述に倣って「鰷」という字を用いていたのかも知れません。「風土記稿」を編纂した昌平坂学問所の中で、こうした表記について統一を図ろうという動きがなかったのかといったことと併せ、色々興味深い事例ではあります。

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【小ネタ】江戸時代にも「県」があった

まだ先日の続きが書き上がっていないので、小ネタで間を繋ぎます。タイトルは露骨なトリビア狙いですが、多分地元の人にとっては「なーにを今更」という話なんだろうなと思いつつ…。

「新編相模国風土記稿」は全部で126巻から成り、最初の数冊で相模国全体に関して「図説」「建置沿革」「山川」「芸文」の各記述がまとめられた後、各郡毎の図説と郡内各村の紹介という順で構成されています。最初に取り上げられているのが足柄上郡、以下足柄下郡、淘綾(ゆるぎ)郡、大住郡、愛甲郡、高座郡、鎌倉郡、そして三浦郡と続きます。

問題はその次で、116巻から125巻にまとめられているのは「津久井」です。津久井「郡」ではなく「県」です。江戸時代にあってここは「県」というまとまりであったとしています。今の学校教育では明治維新の際に「廃藩置県」が行われたと教わりますので、「県」という行政単位は日本では明治時代に入ってからのものであるという認識が強く、それが江戸時代にも存在したというのは確かにちょっと意外な感じがします。

その「風土記稿」の津久井県「図説」では、ここが「県」と称する様になった経緯について次の様に記しています。

【倭名鈔】國郡の部に相模國八郡、足柄上郡・餘綾郡・足柄下郡・大住郡・愛甲郡・高座郡・鎌倉郡・御浦郡とのみ載せて津久井縣を載せず、されば津久井縣と分縣せし事は、後世の唱なる事知るべし【東鑑】に、津久井を、即津久井とも書し、或は筑井、或はつくいなどゝ書せり、【小田原役帳】に、津久井とのみ記て縣を加へず、正保の國圖に、津久井郡と記す、元祿以前の鐘銘其外古書往々に、或は愛甲郡津久井領、或は高座郡津久井領、或は大中郡津久井、或は中郡何村などと記して、縣の唱を傳へず、然はあれ共、又根小屋村修驗、賢太郎坊が鐘銘には、元和九年津久井縣と刻す、又小倉村西光寺鐘銘にも、寛永二年津久井縣小倉村と鐫す、されば唱名混雜して、一定せず、元祿四年山川金右衞門が配隷せし時、闔境(こうきょう)に令を下して自今已往縣と唱へしむと云、是よりして郡名を冠らしむる事を省く元祿國圖、津久井縣と記す、爰に於て一縣の名唱定て一郡の如く、今獨然り、按ずるに本邦縣名を繫けず、縣名を以て唱るものは唯對馬國に上縣・下縣あるのみ、美濃國には山縣、信濃國には小縣あれども共に郡の字を下に附す、津久井縣の如きは殊に異なり

(巻之百十六 雄山閣版より、強調、ルビはブログ主)


新編相模国風土記稿津久井県元禄国絵図
「新編相模国風土記稿」に掲載された「元禄図」の津久井県
北が上になる様に回転させた
つまり、古代の国郡制の頃に編纂された事典である「倭名類聚抄」には「津久井」という郡は記されていませんでした。ここは高座郡や愛甲郡の一部ではあったものの、中世の頃から「吾妻鑑」に見られる様に「津久井」というまとまりとして認識される様になっていったのです。しかし、その呼称については戦国時代から江戸時代初期にかけて、必ずしも一定はしていなかった様です。


それが、元禄4年(1691年)になって、この地を拝領した山川金右衛門(貞清)が、以降「津久井県」と称すると通達して呼称が定まったのでした。「風土記稿」では「県」の付く地名について幾つか取り上げて検討していますが、実質的に「郡」と称されても良さそうな地域に「県」と付けた事例は他になかった様です。

この江戸時代に入ってからの経緯については、「城山町史 6」の冒頭「編集にあたって」と題した文章中で、同町史の監修を総括した神崎彰利氏がもう少しわかりやすい形で整理されています。これは同町の近世の記述にあたって津久井の表現を統一する必要から、その方針を明らかにする目的で書かれたものです。

慶長九年(一六〇四)、江戸幕府は津久井総検地(後述)を実施した。この時の検地帳によると、相州の内津久井とか津久井領としている。ここでは郡などという単位は用いていないが、この時の検地実施範囲やその検地基準をみると、津久井の村々だけが他の村々と違い、土地の面積表示に畝歩制を使わず、銭の表示である貫文の単位=永高制を用いている。これは明らかに、幕府が津久井を一行政単位とみなした最初の行為といえるが、しかし郡名とはなっていない。

表1 津久井の名称
No.年代西暦資料記載例
1元和91623根小屋村諏訪村鐘銘津久井県
2寛永21625〃    功雲寺鐘銘
3小倉村西光寺鐘銘
4正保元1644相模国国絵図津久井郡
5〃 21645郷村請取帳津久井領
6慶安21649幕府朱印状愛甲郡・高座郡津久井
7〃 31650津久井絵図津久井領
8明暦21656下川尻村検地帳
9寛文41664領知目録・検地帳愛甲郡・高座郡津久井

この後の津久井郡の名称をみるため、次に表1をまとめた。この表のうち1―3のうち(ママ)鐘銘はいずれも私的なものであり、他はすべて公文書である。私称では津久井県であるのに対して、公文書では津久井領・津久井郡となるがこのうち郡は当事者の意識の誤りとみて大過はなく、通常は領といえる。しかしそうした過程で、慶安二年(一六五〇)幕府は全国規模で実施した寺社への朱印地新寄進状の中で、津久井の名称は消えて高座郡・愛甲郡とし、これが寛文四年(一六六四)、幕府から老中久世広之への領地目録と同年久世氏が津久井に実施した総検地帳等に継続している。

(「城山町史 6 通史編 近世」1997年 4~5ページより)


この表からは、寺の鐘に彫られた銘文には早い時期から「県」という表記が使われていることが見て取れます。しかし、そうした呼称を採用した古文書は掲出されている中には存在せず、むしろ検地の後に「津久井」でまとまっていた地域を愛甲郡や高座郡に戻そうとする動きがあったことが窺えます。

一方、渡辺崋山の「游相日記」には、こんな表記が見られます。原文が漢文なので別途現代語訳の引用を添えました。
  • 津久井県、今無県。有石老山、清秀奇抜、有神、曰飯縄大権現

    (「渡辺崋山集 第1巻 日記・紀行(上)」小澤耕一・芳賀登監修 1999年 日本図書センター 345ページより、返り点も同書に従う)

  • 「津久井県―といっても今、県はないが―には霊峰石老山がある。清らかな山に奇怪な岩があるので知られ、この山頂の神を飯縄大権現という。」

    (「平成校注「游相日記」―渡辺崋山、天保2年、大山道の旅―」涌田佑 2004年 相模経済新聞社 148ページより)

「津久井県」と言っても「今県は無い」と言ってしまっています。これは何を意味するのでしょうか。

江戸時代の幕藩体制の下では国司や郡司は置かれず、国府や郡衙も維持されませんでしたから、実質的な統治機構としては機能していませんでした。ですからこれらは古代の統治機構の名残として存在しているに過ぎなかった訳ですが、それでも豊臣秀吉以降、江戸幕府も幾度と無く全国の大名を動員して「国絵図」の制作を行っていました。「郡」も「国」の下に付く地方行政単位ですから、こうした部分では「国」と共に受け継がれていたことになります。この辺は以前武相国境を追った際にも少々取り上げました。

同様に、江戸時代の「津久井県」の場合も県知事や県庁が存在した訳ではありませんでした。華山が「今県はない」と言っているのはそのことを指している訳ですね。勿論、明治時代以後の「県」とは意味合いが異なります。

もっともそう考えると、古代には存在しなかったとされる津久井の地域のまとまりに対して、新たに「県」という名前を与えたのは少々不思議な感じがします。国郡制の名目を維持するという原則に基づくならば、実態がどうであれ古代からの受け継ぎに倣って高座郡や愛甲郡とすべきであったのでしょう。

「城山町史」で神崎彰利氏は

公的になった津久井県の名称、これは見方によっては前記のように元和・寛永における私的名称の総括といえるが、問題は山川貞清がどうして県なる単位を採用したかである。山川氏並びにその周辺を追っても残念ながら今のところ不明という外はない。全くの私的な想像にすぎないが、中国における郡県制、郡より小規模な単位としての県、これが山川氏の脳裏にあったのかもしれない。

(「城山町史 6」5~6ページより)

と見解を表されています。つまり、日本ではそれまで運用されたことのない中国の統治機構の呼称に仮託する形で、この新たな地域のまとまりを呼ぶことにした訳ですね。もっとも、地元の梵鐘の銘に既に「津久井県」と記されているということは、その様な見解を地元の僧侶などから伝え聞いたのかも知れません。

私の個人的な見解ですが、恐らくは江戸時代初期の時点で、高座郡や愛甲郡といった過去の統治機構とは到底合わない程に、津久井の地域としてのまとまりが強まっていたため、今更昔に倣った呼称を維持するのが難しいという判断に傾いていったのだろうと思います。その背景には、相模川の水運や甲州道中の陸運の結節点として、与瀬(旧相模湖町)や吉野(旧藤野町)といった宿場町が交通の要衝としての地位を固めていった点が大きそうです。とは言え、そもそも古い国郡制の境を武家政権の一存で勝手に動かして新たな郡を「創設」してしまう訳にも行かず、さりとて「領」などという呼称は戦国時代ならばいざ知らず幕藩体制が固まった中では使い難く、結局それらの何れにも属さない、中国の統治機構から探し出してきたと思しき呼称が地元で使用されているのを追認する格好になった、ということになりそうです。


かつての津久井郡役所跡地(ストリートビュー
現在は神奈川県県北地域県政総合センターが立つ
何れにせよ、「津久井県」という呼称は元禄以降江戸時代を通して維持されました。明治に入って新たに「津久井郡」という名称に変えられると共に津久井郡役所が設置されました。この時、それまで仮託の「まとまり」として認定されていた「津久井」が、初めて確乎としたした行政機関として確定するに至った訳です。現在は「平成の大合併」によって津久井郡に属していた町が何れも相模原市に併合後、政令指定都市移行に際して「緑区」として橋本などと一緒の地域になりましたが、その後「津久井町史」の「自然編」など数編が相模原市の手によって出版されるなど、旧津久井郡域の町史の整備事業は引き続き相模原市の手によって行われている様です。

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