2014年03月の記事一覧

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【旧東海道】その14 小田原宿と小田原城と海嘯(その3)

前回は、明治35年の「小田原大海嘯」を齎した台風と海岸の防潮堤について説明しました。今回は一転して、小田原城と小田原宿の成立の歴史を追います。

最初にこの項を書こうと思った時の疑問点は、「宿場と城と、どちらが先に発生し、その後どの様に関係する様になったのだろう」ということでした。基本的には海岸沿いの砂丘の上から早川沿いの尾根の麓へと緩やかに移行する道筋を持つ東海道と、山の上に天守を持つ小田原城の位置関係が、どの様にして現在見られる形に落ち着いたのだろう、という問いを思い立ったからです。そこで例によって地元の市史に当たることにしたのですが、この点については、「小田原市史」にほぼそのままの形で「答え」が書いてあったのでした。少々長いですがその箇所を引用します。

…小田原の町場部分は、もともと宿駅として発達してきた。永享三年(一四三一)の紀行文「麓のちり」には「ゆもと(湯本)などいふ所をば月に乗じこえはてぬ。をだ原よりはまさごち(真砂子地)にして山をばうしろにす」とあり、翌永享四年の関東公方足利持氏の御教書(みきょうしょ)には「小田原関所」、宝徳四年(一四五二)の鎌倉府禁制には「小田原宿関所」とある。室町時代中期になると、小田原は宿として重要性を増し、関所も設けられていたのである。

そうした経緯で形成されてきた小田原の宿・市町は、海辺に近い箱根道に沿って展開し、もっとも古い中心は松原神社前にあたる宮前(みやのまえ)町(市内本町付近)であった。宿町は室町・戦国時代を通じ、ここを中心として北東の新宿(しんしゅく)(同浜町付近)の方向へ、西は大窪(おおくぼ)(市内板橋)方面へと次第に長い街村をかたちづくっていったのである。

その様な展開を見ると、大森氏から宗瑞にかけての時代の小田原は、はじめから城下町として城と都市の一体的プランが支配者の側でつくられ、それに従って建設されていったものではないことは明らかである。宿・市町小田原は、いわば城と別に独自の展開を遂げてきたのである。もちろん大森氏も八幡山古郭の構築にあたって、交通路や宿・市町を視野に入れ、それを眼下に見下ろす立地を選んだにちがいない。三の丸平地部分から十五世紀後半の青磁(せいじ)白磁(はくじ)片が発見されたことは、大森氏と宿・市町との何らかの結びつきを示唆している。しかし初期の小田原は、何よりも軍事的要害であることを第一義として選地されていた。

一般に戦国大名ははじめから城と町とを一体的に建設したように思われがちであるが、それは必ずしも正しくない。他の事例から見ても、要害としての城の近くに新しい市を開設して、町場を城下に引き寄せたり、城の「縄張り」を拡大修正して町場に接近するようにして両者を結合させていく方が普通であることが、近年の研究で次第に明らかになった。小田原の場合は、後者の方式に近く、城の方が町場に接近していくというプロセスをとって徐々に本格的な戦国城下町へと発展していくのである。

(「小田原市史 通史編 原始・古代・中世」 629〜630ページ「戦国初期の小田原」から、…は省略、強調はブログ主)


…正直なところ、余りにもこちらの知りたいことそのままの説明で、少々拍子抜けしてしまいました(笑)。この辺が現状での定説ということになるのでしょうか。特にこの文章の後半部分が大事なことだと思います。宿場が先に出来て、そこに城が後から出来、やがてそれが宿場を飲み込んで行ったのですね。また、ここで採り上げられている「麓のちり」中に「まさごち(真砂子地)」と、この付近で砂丘上を進んでいる様が記されているのも、この道筋が選んだ砂丘地形を示唆するものとして注目に値します。

もっとも、この文章を最初に読んだ時には特に疑問を感じていなかったものの、「小田原大海嘯」について知った後で読み返した時には「変だな?」と感じる様になった箇所が1つあります。それについては次回以降に譲るとして、まずはもう少し丁寧に宿場と城の成立の歴史をまとめておきましょう。

「都市小田原の創生」13世紀頃の西相模の交通路
13世紀頃の西相模の交通路(再掲)
(「都市小田原の創生」より引用)
小田原から分岐して南下する道が伊豆山権現への道
箱根山越えの道がまだ足柄峠経由の迂回路のみだった頃には、その位置関係から小田原を経ることはあり得なかったでしょう。小田原を旅人が通る様になったのは、どうしても箱根山中を通る道が出来てからということになります。「日本紀略(にほんきりゃく)」の記すところによれば、富士山の噴火の影響で足柄峠が埋まり、代わりに箱根山中を通る道が使われる様になったのは延暦21年(802年)のことです。しかし、足柄峠が復旧するとそちらに道筋が戻ってしまい、双方の道筋が併用される様になりますので、小田原の地を経る道筋はこの時に出来たけれども、そこに宿場が出来るにはまだ少々早かった様です。

では、小田原は何時頃から宿場として整備されるのでしょうか。これについては、「小田原市史」では次の様に解説しています。

…「小田原」の地名が信頼できる史料に見えるのはいつのことであろうか。現在確認できる限りでは、それは酒匂や国府津の所見よりも遅く、鎌倉時代末期の一四世紀初頭にまで下る。

称名寺文書の某書状に、二所への「御まいりの人ハ、をたわらと申候にとゝまり候しに候」とあり、「をたわら」が見える。二所とは箱根・伊豆山両権現のことであるから、「をたわら」は小田原と見て間違いあるまい。この文書は散し書きの消息であって年月日を欠くが、文中に見える「ゑんしん(円信)の御坊」が嘉元三年(一三〇五)の史料(称名寺文書)に見えるので、ほぼこの前後の時期のものと年代推定できよう。

(「小田原市史 通史編 原始・古代・中世」241ページより引用)

弘安二年(一二七九)一〇月二八日、難所の湯坂道を越えた阿仏尼は、夕暮れ時に小田原付近を通った。周辺には「海女(あま)の家のみ」しかなかったので、疲れた足を引きずりながら、酒匂まで行って泊まっている。当時の小田原は、旅人が泊まれるような宿駅には発展していなかったのである。だが一四世紀に入ると、前項でふれた称名寺文書の某書状(注:1つ前の引用を指す)等に明らかなように、小田原は宿として賑わいはじめるのである。とすれば、小田原宿は酒匂宿や国府津宿よりも遅く、一三世紀末頃に成立したことになろう。

頼朝以来の将軍の二所参詣にともない、参詣の際に利用された湯坂道が整備されていった。箱根越えの交通路が整えられたことにより、鎌倉時代半ば以降、箱根道が東海道のメインルートとなっていく。小田原宿成立の要因はまず、箱根越えが東海道の本道となったことに求められるであろう。

(上記同書242ページより引用)



箱根神社の位置(元宮は駒ケ岳山頂)

伊豆山神社の位置(郷土資料館の付近)
源頼朝以来歴代の鎌倉幕府将軍や執権が「二所詣で」で箱根や伊豆山へと通う様になってからも、しばらくは小田原に宿場が出来なかったために、阿仏尼の一行は酒匂までもう一踏ん張りして歩かなければならなかったと「十六夜日記」に記されている訳ですが、その後湯坂道の利用が増えるに従って、小田原にも宿場が成立する様になった、ということの様です。その点では当初の小田原宿の役割は、「二所詣で」の中継地としての性格よりは、箱根路という難所の出入口にあって旅人が支度する拠点としての側面の方が大きかった、ということになりそうです。「二所詣で」の兼ね合いで宿場が利用されたのであれば、もう少し早い時期から宿場が成立していても良さそうに思えるからです。とは言え、この街道の整備が「二所詣で」とも多少なりとも関連するのであれば、その頃の宿場も「二所詣で」に便の良い場所に成立した可能性もありそうです。

因みに、真名本「曾我物語」にも小田原の名前が登場しており、「新編相模国風土記稿」でもこの記述を由緒として採用しているのですが、これは南北朝時代の成立であることから鵜呑みに出来ないと「小田原市史」では指摘しています。鎌倉時代初期まで小田原宿の歴史が遡るかどうかは定かではない、ということですね。



やや時代が下って、小田原に城が出来たのを何時と考えるかは多少議論が残っている様です。一応大森氏が小田原を支配し始めた頃をその端緒と考えることが多い様ですが、それ以前の地方豪族であった小早川氏の居館を築城の端緒と考える説もあります。時期としては室町時代中期、目安としては応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で大森氏が小早川氏の後に小田原に入った頃が、小田原城の草創期ということになるでしょうか。

ただ、何れにせよ伊勢新九郎、後に北条早雲として知られる戦国大名が小田原の大森氏を討った頃には、まだ小田原城が小規模なものでしかなかったことは確かです。これも年代がはっきりしないのですが、目安としては15世紀末から16世紀はじめまでには、大森氏が没落して小田原城が伊勢新九郎のものとなったと考えて良さそうです。

その早雲でさえ、自身は韮山を生涯の居館とし、小田原に積極的に乗り出す意思をあまり見せませんでした。北条氏が小田原城を本拠に据えるのは、その嫡子・氏綱でした。それまでの小田原城は現在の本丸・天守閣の北西部にある八幡山の上にあったとされていますが、それを南東方面に張り出し、周囲の堀を整備して郭を増設し、より大規模な城へと作り替えていくことになります。なお、その頃の北条氏の建築ではあまり石垣を用いなかったので、今に伝わる近世の姿とは大分雰囲気の異なるものであった様です。
その頃、氏綱は小田原宿の鎮守・松原明神社(現・松原神社)に広大な敷地を寄進しています。天文8年(1539年)に駿河に出陣するに当たってここで祈祷を行い、その祈願が成就したので帰陣後に小田原城北方の谷津村の土地を寄進した記録が残っています。
ファイル:Matsubara jinja(odawara) 2.jpg - Wikipedia
小田原・松原神社(Wikipediaより)

この度駿州に動きの上、祈願せしむるの処、相違なく本意の願を以って帰陣せしめ畢んぬ、ここにこれ、相州西郡の内伊羅窪分弐拾貫文、御神領として奉納せしむるものなり、仍って件の如し、

右、彼の国に向け所存あり、重ねて動きを企つるところ、かくのごとく本意疑いあるべからず、所願成就、皆満足せしむ、急々律令の如し、

天文八己亥七月廿九日

左京大夫氏綱(花押)

奉納相州西郡之内(松)原大明神社中

供僧西光院

(「小田原市史 史料編 中世Ⅱ 小田原北条1」177ページより、読み下し文を引用)


氏綱は天文10年(1541年)に亡くなり、家督は嫡子である氏康に引き継がれます。氏康も氏綱に倣って松原明神社に更なる土地の寄進を行っています。また、天文14年(1545年)には海岸で見つけた大きな亀を地元の人が神社に運び込んだところ、氏康が天下泰平の吉兆であると持ち上げたために、以後境内には亀が祀られる様になりました。「新編相模国風土記稿」には「北条五代記」からの引用が次の様に収められています。

同年(注:天文十四年)三月廿日の日中、大龜一つ小田原浦眞砂地へはひあがる、町人是を怪み捕へ、持來て松原大明神の池の邊に置、八人が力にて持煩ふ程なり、氏康聞召大龜陸地へあがること、目出度瑞相なりとて、卽刻宮寺へ出御有て龜を見給ひ、仰に曰、天下泰平なるべき前表には、鳥獣甲出現する、往古の吉例多し、是偏に當家平安の奇瑞、兼て神明の示す所の幸なりと、御鏡を取寄せ龜の甲の上に是を置しめ給ひ、夫龜鏡と云事は、さし顯して隱れなき目出度いはれありと、御感悦斜ならず、竹葉宴醉をすゝめ、一家一門悉く參集列候し、盃酒數順に及ぶ、萬歳の祝詞を述給ひて後、件の龜を大海へ放つべしと有しかば、海へぞ放ちける、此龜小田原の浦を離れず浮びて見ゆる、…

(卷之二十四 小田原宿・宮前町中「松原明神社」の項 雄山閣版より引用 原文小字)

松原神社の亀の石像
(twitter:東海道一言情報さんのツイートより)
陸に上げられた亀を巡って俄かに宴になった様です。「北条五代記」自体は江戸時代に入ってからの編纂で、史料としてはそのままでは使い難い面を持っているのも事実ですし、実際大人8人がかりでも運ぶのに難儀するほどの大亀が当時関東南部沿岸で生息していたものかどうかも怪しいところです。ですが、こういうエピソードは多少の脚色の可能性込みでその雰囲気を採用する方向でも良いのではないかと思います。

因みに、松原神社では今も境内に亀の石像が祀られています。先日私が松原神社を訪れた際には、鳥居の前の池にも亀は確かにいましたが、生憎とミシシッピアカミミガメで「大亀」という訳には行きませんでした(笑)。


これらの由緒を読むと、氏綱や氏康が宿場との良好な関係を築くことに相当に気を遣っていたことが窺えます。新たに小田原を拠点とした北条氏にとって、お膝元の宿場が栄えることによって下支えとなることを期待するのは当然のことでしょう。その鎮守である松原明神社に少なからず肩入れをするのは、その現れの1つであったと言えると思います。

「小田原市史-別編-城郭」p29
小田原城の拡大模式図
この図では板橋口が描かれていないが、
小田原宿は山王口から三の丸外郭の南を経て
板橋口へに至る区間に当たる
(「小田原市史-別編-城郭」29ページより)
やがて北条氏政・氏直の世代になって、豊臣・徳川との対立が明確になってくると、小田原城はその市街地全体を大きく囲う形で総構(「外郭」等とも呼ばれる)を築きます。総延長9kmにも及ぶとされる巨大なもので、小田原宿もその中に飲み込まれる形になり、小田原を通過する東海道・熱海道・甲州道は一旦城内を経ることになりました。その入り口にはかなり大掛かりな枡形が築かれ、特に箱根側の板橋見附は土塁を階段で上り下りする高低差のある構造になっていました。

北条氏が豊臣・徳川の軍勢にくだり、城は大久保氏に委ねられます。しかし、大久保氏は以前触れた様に酒匂川の改修に尽力していましたので、その間は大規模過ぎる総構等の縮小以外は城下にあまり手をかけなかった様です。本格的に城下を整備し始めるのは、大久保忠隣改易後に入城した稲葉氏の時代になって小田原城を将軍上洛時の宿泊に使用する頃からで、その頃にそれまで「通小路」と呼ばれていた町を「本町」に改め(「新編相模国風土記稿」小田原宿・「本町」の項による)、東隣の松原明神社前の宮前町とともに名実ともに小田原宿の中心街になっていくのです。

かなり大雑把に小田原宿の歴史を見てきましたが、さて、「小田原市史」の解説のどこに私が疑問を感じたのか、それを次回披露したいと思います。

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【旧東海道】その14 小田原宿と小田原城と海嘯(その2)

前回は、明治35年(1902年)の小田原大海嘯について御紹介しました。今回はそれを受けて、この高潮を齎した台風の話から始めます。

この時の高潮被害は確かに甚大なものではありました。しかし、この被害を齎した台風については、「神奈川県災害誌(自然災害)」(横浜地方気象台監修 1971年)が以下の様にまとめています。

〔概況

マリアナ諸島に発生した台風は27日父島を通過し、28日朝八丈島の西方を過ぎ、房総半島南端に上陸、東京湾を北上し、関東地方を経て、新潟付近から日本海に入り北海道に再上陸後オホーツク海に達した。

これとは別に21日ルソン島に現われた台風がゆっくり北上して28日午後紀伊半島東部に上陸し、夕刻福井を通って日本海に出、樺太方面に抜けたが、この台風の被害は県内では殆どなかった。

〔県内の状況

横浜では28日早朝より強風となり、以後次第に強まって8時には34.1m/sを観測した。

気圧は720.5mmHg(960.6mb)となり、風向は順転して変わったが29日夕刻まで36時間もの長時間連続して吹きまくった。雨量は少なく、県内でも多い所で70mm前後、とくに県西部では少なく、40mm以下であった。しかし風害は甚大で、とくに、湘南方面の高潮では死者60人、負傷者369人行方不明12人を出し、家屋流失773戸、浸水は床上床下合わせて1,660戸に及んだ。

船舶の流失も136隻、破損423隻で全隻数の約半分に被害を出し、この被害は、大磯より西方一帯に集中し、とくに国府津以西は最もひどいものであった。

波高は酒匂川以南は、激浪が海岸をこえて、4〜5町の遠きに達した。国府津が被害の分岐点で、これより東では次第に低く、大磯では一丈余と言われた。

(測候所雑纂・気象月報・横浜開港50年史・足柄下郡史)

(上記書88ページより引用、気圧数値は正誤表反映済み)

神奈川県災害誌(自然災害)p88
同日の天気図
(「神奈川県災害誌
 (自然災害)」より)
神奈川県災害誌(自然災害)p89
この台風による高潮の浸水地域
(「神奈川県災害誌
 (自然災害)」より)
この記録を見る限り、台風の規模そのものは必ずしも未曾有のものとは言い難く、特に台風の半径は気象図に見える通りむしろ小型と言って良いものです。が、やはりこの台風が急速に東京湾を北上したことで、折からの満潮と重なって高潮の被害を大きくした面が大きい様です。つまり、条件が揃えば割と「普通に」起こり得る災害だった、ということが出来ると思います。


なお、上記は神奈川県の文書であるため他地域での被害について触れられていませんが、この台風は更に足尾で大きな被害を出したため、最近になって「足尾台風」という通称も用いられる様になりました。典型的な風台風であったところに、別の台風が接近して進んだために進行速度が速まり、更に強烈な風を発生させた(「藤原の効果」と呼ばれています)ために、被害が拡大する結果になったのでしょう。

この高潮の浸水地域は前回引用した片岡助役の日記にも出て来ますが、小田原町の東側が特に酷かった様です。その市街地のうち、特に旧東海道筋ではどの辺が水に浸かったかを具体的に特定したいと考えたのですが、浸水域を色塗りした様な詳細な浸水域図などは作られていない様です。多少なりとも手掛かりになる様な史料をと探したところ、当時の浜町に在住していて被災した福山金兵衛氏が、22点の絵に当時の様子を描いた「小田原大海嘯全図」の存在を知りました(「小田原大海嘯が110年、啓発に被害状況記録した絵巻物を活用へ」神奈川新聞 2011年12月30日付)。この画集は未出版で、2012年9月にこの全画を含む図画展が小田原市民会館で催されていたのですが、生憎とその開催を知らず見逃してしまいました。幸い、この時配布されていた展示概要が入手出来たので、これを元に描かれた箇所の地名を書き出すと、

被害地の1つ、唐人町付近のストリートビュー
現地の標高が写っている。「6.5m」は南側の
東海道筋よりも一段低い値
  • 「山王」
  • 「中島」
  • 「小八幡」
  • 「国府津」
  • 「◯宮小路/唐人町」
  • 「◯小田原城」
  • 「真鶴岬」
  • 「吉浜」
  • 「◯万年町」
  • 「◯万年町一丁目旧鍋町」
  • 「新玉」
  • 「旧誓願町」
  • 「◯松原神社/新玉新道」
となります。このうち、「◯」を頭に記したものが小田原宿内ないしその近傍の地名です。つまり、この高潮で小田原宿内でも潮水が入った地域があった、ということです。因みに、「新玉」「旧誓願町」は万年町の北側、つまり旧東海道よりも更に内陸の地域に当たります。小田原城の東側ではかなり内陸まで潮が上がったことになります。「神奈川県災害誌(自然災害)」の「波高は酒匂川以南は、激浪が海岸をこえて、4〜5町の遠きに達した。」は、こうした被災状況を指しているものと言えるでしょう。

それでは、小田原町の被害が何故これ程までに大きくなってしまったのでしょうか。それは、片岡助役の名前で神奈川県に提出された「請願書」の中に記されています。

請願書

客月廿八日当地方激浪ノ際民家ノ破潰セシモノ四百、半潰六十九、浸水家屋千戸、死傷百余ノ多キニ上リ振古未聞□災害ヲ蒙リ幾多ノ生霊ヲ荼毒致候ハ全ク海岸堤防ノ決潰ニ外ナラサル儀ト確信仕リ候抑当海岸ノ地大久保氏所領ノ当時ハ年々多大ノ費金ヲ仕出シ之カ堤防ノ修築ヲ為シ来リ候為メ何レモ漁民ハ安堵生業ニ罷在候処廃藩置県ノ後ハ堤防漸ク破壊シ明治十年の激浪ニ遇ヒ完ク其本体ヲ没シ現時僅カニ其旧態ノ一部ヲ留ルノミニ有之故ニ風波起レハ忽チ浸水ノ災(ママ)ヲ被リ其都度直接利害関係者ニテ一部姑息ノ防波工事ヲナスノミニシテ数十年間曽テ堤防修理ヲ加ヘタルコト無之殊ニ当地ハ大半其生業ヲ漁獲ニ仰キ此地唯一ノ産業ニモ相成居候儀ニ有之今ニシテ堅牢ナル築堤工事ヲ施サ丶ルトキハ沿岸ノ地徒ニ空漠タル砂礫ニ変シ小ニシテハ小田原ノ衰微ハ勿論大ニシテハ国家ノ利害ニモ関係致シ一日モ猶予致シカタク候若シ仮ニ之ヲ町民ニ負荷致候モ到底民力ニ堪エ難ク目下民心恟々トシテ昼夜寝食ヲ安スルモノ無之閣下曩ニ御巡検有之親シク被害ノ状況ヲ了セラレ候通実ニ築堤ノ事焦眉ノ急務ト存候間特別ノ御詮議ヲ以テ至急相当ノ御保護アランコトヲ茲ニ町会ノ決議ヲ経謹テ奉請願候也

明治参拾五年拾月廿日

小田原町長代理助役 片岡永左衛門

神奈川県知事 周布公平殿

(「明治小田原町誌 中」同年10月20日の項、中巻283〜284ページより引用、強調はブログ主)


江戸時代中は、小田原藩主であった大久保氏が防潮堤を維持するのに例年多大な出費をして来たと言うのです。確かに「新編相模国風土記稿」には

東古新宿町濱より西山角町境まで、長千二百三十間餘、町裏に添て浪除堤あり、堤下より浪打際まで幅七八十間…

(卷之二十四 小田原宿上 「海」の項より)

と記されていて、全長2.2kmにも及ぶかなり大掛かりな築堤があったことが窺えます。しかし、この堤防の普請について、「小田原市史」の「史料編」「別編 城郭」に何か関連しそうな江戸時代の史料が載っているか確認しましたが、見当たりませんでした。
旧東海道:小田原宿片岡本陣跡・明治天皇本町行在所跡
小田原・明治天皇本町行在所跡碑
旧片岡本陣の跡地(再掲)

小田原宿旧片岡本陣の位置
とは言え、前回も記した通り、片岡助役の家は本陣を務めた家柄で、江戸時代の史料が多数片岡家に残っていました。そういう家の末裔の証言ということになりますから、この記述の信憑性は確かでしょう。小田原藩が宝永大噴火以後酒匂川の治水に散々悩まされていたのと並行して、海へも例年対策が必要だったとあっては、嵩む出費を遣り繰りするのが相当に大変だった筈ですが、兎も角この堤防普請が無ければ江戸時代中も宿内が水害に悩む日々が増えたことは間違いなさそうです。


一方、請願書は明治時代に入ってこの堤防の修理を行うことが出来ないまま、高潮の度に崩壊するのを座視せざるを得なかった、とも書いています。それまで藩が普請していたのに、それに代わる費用負担の枠組みが明治新政府によって用意されなかったために、沿岸の集落のか細い財力では修理にかかる費用を負担し切れなかった訳ですね。実際、「明治小田原町誌」にはこの明治35年の高潮の前にも、幾つか大きな被害を出す高潮の記録が残っています。
  • 明治10年(1877年)7月26日「近年希なる激浪にて流失家屋拾五戸全潰六十五戸半潰参拾四戸大破廿五戸に及ひ義捐金二百八拾円を被害者に分配す。」
  • 明治13年(1880年)10月4日「大風雨大浪にて死傷二十人に及ひ、市中の破損も少ならす。」
  • 明治17年(1884年)9月15日「大風雨にて市内の破損甚しく、概況の上申書を左に掲く。」

    暴風雨概況

    過ル九月十四日夜ヨリ微雨翌十五日午前九時頃ヨリ東南風襲来リ漸ク其勢ヲ逞シ随テ雨勢之ニ加リ同十一時頃ヨリ最モ猛烈ヲ極メ或ハ家屋ヲ顛倒シ或ハ樹木塀墻ヲ転覆シ甚タシキニ至リテハ負傷スル者アリ其惨憺タル景状勝テ不可云而(ママ)海浜ニ至ツテハ怒濤砂ヲ巻キ陸地ニ充散セシメ其堆積スルモノ尺乃至六七寸ニ至ル故ニ瀕海田歩之害ヲ被ムルニ至レリ午后三時頃ヨリ風雨西方ニ転シ猶猛烈ナル…其ノ被害左ノ如シ

    負傷四人 潰崩弐拾弐戸 半潰百五拾戸 破損千七拾五戸

    小田原駅幸町外四ケ町…

  • 明治25年(1792年)9月12日「激浪あり、海岸の住民は驚愕して避難をなしたり。」
  • 明治32年(1899年)10月7日「激浪襲来し死亡二人、負傷二十人、家屋の全潰八戸、半潰五十戸を出せしに依り義捐金を募集し被害者に分与す…」
  • 明治35年(1902年)9月5日「大浪に而家屋の半潰拾戸、破潰四戸、浸水百戸軽傷者数名を出したり。左に片岡助役の日記を掲く。」

    九月五日 晴 午前七時半出勤昨夜より大浪に人家に浸水及破損の家屋ありとの報に接し直に出張せしに当町海岸の浪除土手は近年非常に破損したるも延長数十町なれハ止を得ず自然等閑になせし為浪は自由に家屋に打込半潰の家屋拾戸浸水百余戸其他物置等の破損四棟なりしも波も次第に平穏ならんとの事なれハ帰場したるに午後波浪の平穏ならざる報告に接し六時より海岸に出張し夫々指揮をなし避難所弐ケ所を幸町に設け拾時帰宅す…

(上記書各日の項より抜粋、…は中略)


「明治小田原町誌」の記述の精度は高いものの、片岡永左衛門自身の日記(初期は親族の日記なども活用している)などを基本に据えながら必要に応じて町の公文書から統計などを補充するといった構成になっています。このため、年度によって記録の粗密があるのは避けられないところで、このリストに明治20年代の記録が少ないのは、あるいは記録漏れである可能性も念頭に置く必要があります。また、特に初期の記録で簡素な記述に留まっている災害の記録の中には、あるいは高潮によるかも知れないと思われるものもありました。つまり、これ以外にも高潮の被害が数件出ていた可能性がある、ということです。

とは言え、基本的には被害の程度が次第に大きくなっており、特に明治32年や35年9月、つまり「大海嘯」の同じ月の初頭にも高潮の被害を出し、死者まで出る程の状況になっています。つまり、既に海岸の堤防は高潮を防ぐ能力を完全に失っていることが明白になっていたにも拘らず、当時の行政の枠組みでは自助原則でなかなか援助が出ず、修理をするにも義捐金を流用するなどの方法に頼らざるを得なかったのです。そんな折に、この「大海嘯」が起きて被害が大きくなってしまった訳で、その点ではまだ防災政策の枠組みが未整備だった時代故の災害だった、と言って良いでしょう。

そして、この明治35年の「小田原大海嘯」の後、改めて県に築堤工事を要請するものの、その後の進展も思わしくないことから、被災地が地区毎に義捐金や寄付金を元に自発的に応急工事を施していくことで、少しずつ築堤を進めていきました。最終的に県の補助が付いてコンクリート製の防波堤が着工した時には、元号も変わって大正2年(1913年)になっていました。


小田原の旧防波堤(ストリートビュー
木口の四角い枠内に銘が刻まれている
因みに、この頃の防波堤は現在も残っている箇所があり、銘板とともに確認することが出来ます。陸側から見える防波堤は意外にサイズが小さく見えるので、銘板がなければそれとは気付かないかも知れません。「なりわい交流館」の東脇の道を浜へと向かった辺りにある堤防に、コンクリート製の銘板が取り付けられています。文字が読みにくいですが、辛うじて「大正」などの年号が刻まれているのは確認できます。この堤防の下には今では地元の方々のために小さな公園が設けられていますが、ここに降りると当時の堤防が河原石などを積み、間にモルタルを挟んで造られているのが観察できます。石の中には大型の軽石なども含まれていることから、この石が付近の海岸や酒匂川などから運ばれてきたものであることが窺えます。

無論、現在は西湘バイパスと一体化した大型の防潮堤にその役目を譲っており(山王川沿いの辺りではまだ河川の堤防として現役ですが)、より内陸側に残るこのコンクリートの堤が波を受け止めることはもうありません。

「小田原大海嘯」の紹介はひとまずここまでとします。次回は一転して小田原宿と小田原城の成立の歴史を追います。

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【旧東海道】その14 小田原宿と小田原城と海嘯(その1)

以下の記事は大分前から書き溜めていたもので、下書きの状態で「塩漬け」になっていたものですが、いい加減寝かしておいても進展がなさそうなのでひとまずこの状態で公開します。


江戸時代の小田原宿の範囲
山王の江戸方見附〜板橋の京方見附
旧東海道のシリーズ、今回は小田原宿を取り上げます。

当初この回は、江戸を発って最初の城下町である小田原の、宿場と城の成立の関係を追うだけの記事にする予定で、「海嘯(かいしょう)」の2文字はタイトルにありませんでした。しかし、酒匂川の渡しや酒匂橋のの歴史を調べる過程で明治35年(1902年)の「小田原大海嘯」の歴史について初めて知り、そこである大きな疑問に突き当たり、この件について触れない訳には行かないと感じたため、急遽タイトルに「海嘯」を加えることにしたものです。

もっとも、そもそも今は「海嘯」という言葉自体、耳にする機会があまりないと思います。まずはこの言葉の説明から始めないといけないですね。


「嘯」という漢字を漢字辞書で引くと、「口をすぼめて息を吹く様」といった大元の意味が最初に出て来ます。「フー」とか「ヒュー」とか音を鳴らして息を強く吹きつける感じですね。そして、そこから派生した幾つかの意味の中に「ほえる」「うなる」といった言葉が現れ、そこに用例として「海嘯」という言葉が出て来ます。つまり、元々は海が荒れて唸りを上げる様を表現したものであることがわかります。

しかし、実際は「海鳴り」の意味の他に、「高潮」や「津波」の様な大波を表現することが多く、特に過去の文書で用いられている場合は「高潮」あるいは「津波」と同義であることが良くあります。今はアマゾン川のポロロッカの様に河口を遡上する潮津波を「海嘯」と呼ぶケースが多い様ですが、それ以外では専ら「高潮」や「津波」といった言葉を使う様になったので、「海嘯」という表現をあまり見なくなりました。

これには防災上の知識が世間一般に浸透したことが背景にあります。今は「津波」と「高潮」が本質的に違うものであり、その発生原因や避難の考え方・方法が根本的に変わってくることが広く理解されていると思います。「Tsunami」に至っては今や国際的にも通用する言葉になりました。しかし、数十年前には津波と高潮の違いが専門家以外にはあまり正しく理解されておらず、しばしば両者が混用されていました。今回の件で資料を漁っている最中にも、こんな用例を見つけてしまいました。

…それは明治三十五年(一九〇二)の小田原大海嘯と大正十二年(一九三七)の関東大地震であつた。小田原を初め西湘一帯の海岸には毎年夏期になると土用浪といつて、海が荒れて激浪が襲来するのは常のことであり、またその一帯は地震、大風などに倶なつて海嘯をおこし、人畜に被害をおよぼすこともあつた。元禄十六年(一七〇三)地震のときの大海嘯は記録の上にも顕著である。

(「小田原市史料」1966年 388ページ「四 明治の大海嘯と大正の大地震」より)

前半では明らかに「高潮」のことが語られており、それが途中から「津波」の話へと変わってしまっています。この時代はまだその程度にしか理解されていなかったのでしょうから止むを得ない面もありますが、知識の浸透した今はこういう水準で解説するのはあまり好ましくないと思います。実際、「小田原大海嘯」の場合は台風に由来するものですから明確に「高潮」なのですが、これを「津波」と誤って紹介している書物(概ね昭和30年代出版のもの)も幾つか見ました。Wikipediaの「小田原大海嘯」の項でも、こうした事例を考慮して津波と解するのは正しくない旨記されています。


歴史的事象の話をする際には、当時の史料等との整合性を損ねない様に、なるべく当時の述語を用いるのが仕来りになっていますので、本来ならば「海嘯」で通すのが「正式」なのでしょう。しかし今回は上記の様な誤解を回避する方を優先して、引用文中で「海嘯」としている場合と、「小田原大海嘯」の様に固有名詞として定着しているものは基本的にそれに従いますが、それ以外の箇所ではタイトルを除き「高潮」「津波」と適宜置き換える様にします。



旧東海道:小田原宿片岡本陣跡・明治天皇本町行在所跡
小田原・明治天皇本町行在所跡碑(再掲)
明治時代は片岡永左衛門助役邸
「海嘯」の意味が理解出来たところで、「小田原大海嘯」の紹介に移りましょう。先ほども触れた様に明治35年の9月28日に、小田原を中心とする相模湾西岸一帯を折からの台風による高潮が襲い、多大な被害を出しました。

この日の様子を、当時の小田原町の助役(当時の小田原町長は空席だったため、実質的に市長代理として災害対策の陣頭指揮を執っていた)片岡永左衛門が当日の日記にかなり仔細に記録しています。またしても長くなりますが、当日の雰囲気が良く伝わる文章なので、当日分全文を収めます。

九月廿八(明治三五年)日 日曜 午前四時頃より降雨に風を加へ七時頃よりハ追々烈しくなりしも非常の風雨と言にも非す、十時頃よりハ余程平穏となりたれは午後は外出に困難は来たさゝる可しと外出の心算なりしに、拾時半頃役場当直より俄に波濤起り非常の報告に接したれハ万年町海岸に役場出張所設置をなし、洋服に着替し役場に至りしに、警察署長より救護の為め消防組に出場を通知すへき命に接し直に警鐘を乱打なさしめ、幸海岸に出張せしに波濤は海上に山岳の湧出せしか如くに、既に六、七拾の潰家を現出し、是か復旧にはと呆然たるに際し、俄然襲来したる大波に巻込れんとし漸く逃延ひ万年町に至れハ、惨状甚しく益々其多を加ふ、小路に漁舟を引揚け往来に不便なれは国道に引移しを指揮をなし、古新宿に至れは海岸は六七分の潰家に、弐筋の道路に沿ひたる両側の家屋は破潰をなし、其上を波浪の打越し甚た危険なり、種々注意を与へ新宿に廻り見れは非常の浸水に、床上二、三尺に及ひ、難を屋上に避けし者をは国道に舟を浮へて救助なすに至れり、夫より出張所に至り負傷者の収容避難所設置等を指揮をなし、幸町より十字町、新久を巡視せしに、予想の外なる被害に筆紙に尽し難く、先年三陸海嘯の絵画を見しに、或は俗に言画空事ならむと思ひ居りしに、今日此の惨状を見て始て其の事実なるを覚えたり、夜に入り避難所八ヶ所を廻り帰所をなし、各新聞社員の来訪に接し、其外種々雑多の指揮をなし、午前二時は高潮との事なれハ此上如何になり行やと憂慮したり

(「小田原市史 史料編 近代Ⅰ」819〜820ページより。なお、同書では出典を「明治小田原町誌 下」としていますが、「小田原市立図書館郷土資料集成3」に収められた該当書には見当たらない文章であり、恐らく「片岡永左衛門日記」の誤りであろうと考えます。)



当日の助役の足取り(概略)
地元の方でないと、この時の片岡助役の足取りを思い浮かべるのは難しいでしょう。無論、この記録だけでは微細にわたって足取りを再現し尽くすのは無理ですが、被害地域を想定しやすい様に出て来る地名を頼りに概略を分かる範囲でルートに書き起こしてみました。夜まで8ヶ所の避難所を巡ったと記している辺りは、各避難所の具体的な場所が特定できないので含まれていません。

海岸沿いに出て自らも浪を被りそうになった後、東の古新宿(こしんしゅく)町、新宿(しんしゅく)町へと向かったのは、そちらの被害が既に大きくなっているのが見て取れたからでしょうか。この図と上の小田原宿の範囲を重ねると、かつての宿場町の東半分を主に巡って適宜指示を与えていることがわかります。西の方は街道筋が海から幾らか離れるので(町名は内陸のかなり広い範囲を含んでいる)、恐らく海沿いの寺院が並んでいる辺りを主に巡っている筈と考えてこの様な図に起こしました。


死亡12
負傷184
全潰144
半潰69
破損550
流失293
1,056
浸水床上300
床下700
1,000
(上記書明治35年10月16日の項、中巻282ページより、項目や集計は原文ママ、漢数字は算用数字に置き換え)
何れにせよ、この日の高潮は小田原の町のかなりの範囲を水浸しにして、東海道に舟を浮かべて救助活動を行う様な状況となり、多数の家屋を倒壊させて死傷者も多数出す惨事をもたらしたことがわかります。この時の小田原町の被害の実態については、「明治小田原町誌」に右の表の様にまとめられています。この町誌も当時の片岡助役が後にまとめたものですが、明治年間の小田原史の信頼度の高い史料として、今も頻繁に参照されているものです。なお、「その13・その3」でも紹介しましたが、片岡家は代々本陣を営んだ名主家です。

少々長くなりそうなので、この海嘯を齎した台風の話から次回は始めることにします。
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相模国の柴胡について

先日下鶴間宿について紹介した際に、渡辺崋山の「游相日記」を取り上げました。矢倉沢往還を進む日記ではあるものの、周辺の景観を考えるのに適切と考えたため、道中で詳しく記述される養蚕についての話を併せて紹介しました。

この「游相日記」で、下鶴間宿を出発して西へ向かった辺りで、この一帯が「柴胡が原」と呼ばれていることを紹介しています。先日の記事中でこの「柴胡」についても併せて紹介しようかとも考えたのですが、滝山道のテーマの中ではやや余談に属する話が増えそうだったので、その時には触れずにおきました。今回はその「柴胡」について、相模国やその周辺に範囲を広げて考えてみたいと思います。

ファイル:Bupleurum falcatum1 eF.jpg - Wikipedia
ミシマサイコ
("Bupleurum falcatum1 eF".
Licensed under
CC 表示-継承 3.0
via
ウィキメディア・コモンズ.)
「柴胡」とは漢方の生薬で解熱・鎮痛作用があります。「ミシマサイコ」というセリ科の植物の根からエキスを抽出して使用するのですが、崋山の記すところに従うなら、下鶴間宿の西側、つまり相模野一帯はこのミシマサイコが多く見られる地ということになります。

しかし、神奈川県の2006年版のレッドデータブックでは、ミシマサイコは「絶滅危惧IA類」に分類されています。これは「ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの」という意味で、実際に神奈川県下ではなかなかその姿を見掛けることはなくなっています。「山渓カラー名鑑 日本の野草」(1982年 山と渓谷社)では1982年10月に、また「山渓ハンディ図鑑1 野に咲く花」(1989年 山と渓谷社)には1986年10月に、どちらも三浦半島で撮影したという写真が掲載されています。どちらも20年以上前の記録であり、現在でも同地でミシマサイコの生息を確認出来るのかどうかは不明です。なお、後者は2013年に増補改訂新版が出版されていますが、ミシマサイコの項には大きな変化はなく、使用されている写真も同一のものです。

この相模野の柴胡について、「相模原市史」の「第1巻」(1964年)では次の様に解説されています。

渡辺崋山の「遊相日記」天保二年(一八三一)九月二十二日の条に

「鶴間原(に)出づ、この原、縦十三里、横一里柴胡多し。よって、柴胡の原ともよぶ。諸山いよいよちかし」

と記している。おそらく附近にいた人々よりの聞き書であろう。以上(注:この引用の前で芭蕉の句碑などが検討されている)相模野を柴胡の原と呼んだという諸例は、みな文化文政以降の幕末で、それ以前の文献はいまのところ見られない。想うに相模野を柴胡の原とよんだことは、比較的新しい時代、それも俳諧などに多く用いられたもので、古くはそうよんだことはなかったのではあるまいか。現在相模野からは柴胡を見つけだすことは、きわめてまれで、採集することはほとんど困難な状態になっている。柴胡の原とよばれたというところから、かつてはたくさんあったものが、今日ではなくなったと考えられているが、あるいは始めよりこの相模野には柴胡は少かったのではあるまいか。

それが近い時代に柴胡の原とよばれるにいたったという原因は、延喜式典薬寮の諸国進年料雑薬の相模国から貢納した薬種のうちに、前胡があり、それと柴胡とが混同されたものであろう。しかし延喜式では両種ははっきりと区別され、その貢納する国は別箇になっていて、柴胡を納める国は、尾張・美濃・丹波・播摩・備前・安芸・阿波の七国である。前胡の方は十七国にわたり、尾張・丹波・播摩・安芸の諸国は両種を納めている。前胡の方が各地に所在して、得られ易かったもののようである。

柴胡も前胡もその一名を「のぜり」と称し、但名では両種ともに「のだけ」といわれている。そしていずれもその根を採って解熱剤としたものである。

(上記同書336〜337ページ、第三編第三章「平安時代の相模原」より)

古代の史料に見える相模の貢納品の妥当性についてはここでは論評を控えますが、それらに典拠して相模野の風景のイメージが俳諧によって形成されたもので、実態を表したものとは必ずしも言えないのではないか、ということになります。

しかし、同じ「相模原市史」でも約45年後に編纂された「自然編」(2009年)では、この「第1巻」の記述には触れることなく、近世までの乱獲によって激減したのであろうとしています(432ページ、第13章「19 柴胡が原のサイコは、今」)。執筆担当者や時期の違いがあるとは言え、同じ市史内で異なる見解が併存する形になっている訳です。

もっとも、この「自然編」では引き続いて次の様な指摘がなされています。

はたしてミシマサイコは、いつ市内から絶滅してしまったのだろうか。そのカギとなる標本が、少なくとも1968(昭和43)年までは現存していたのである。

その標本は、農業学校の教師で郷土史家でもあった金井茂(1906-1977)が1934(昭和9)年に相原で採集したものである。1968年頃、相模原にゆかりのあるサイコを育てて広めようという運動が起こった。この時、市長から相談を持ちかけられた金井が、自宅に眠っていた古い標本を出して市長室に飾ったと書き残しているのである(金井、1968)。昭和初期、すでに少なくなっていたとはいえ、ミシマサイコは確かに相模原にあったのである。しかし残念ながら、その標本の所在は現在わかっていない。地域植物相の歴史を語るこの貴重な標本は今、どこに眠っているのだろう。

(上記同書432ページ)

つまり、相模原市内でもミシマサイコの発見事例があることを指摘することで、暗に「第1巻」の記述へのアンチテーゼとなっている様にも見受けられます。また、境川を挟んで相模野に隣接する地域でも、「新編武蔵風土記稿」上で

農耕の暇に蠶桑(さんそう)を事とし、春は原野に生ずる所の柴胡を採て餘業とす、これ當國の内に生するものながら鎌倉柴胡とて世に用る所なり、

(卷之九十 多磨郡之二 根岸村の項、雄山閣版より、ルビはブログ主)

という記述が見られます。「相模原市史 第1巻」では、上記の引用箇所の手前で「新編相模国風土記稿」を引用した上で

相模からも産したことにはなっているが、それもだいたい南部に偏し、相模野からでたことにはなっていない。

(上記同書335〜337ページより)

と指摘しているのですが、これは必ずしも当たっていないということになるのではないかと思います。

そこで、「新編相模国風土記稿」中の柴胡についての記述を洗い出すと、次の様になります。まず、第3巻の「山川」で相模国の産物の1つとして、

◯柴胡大住郡東西田原村、足柄上郡虫澤・矢倉澤・三竹山三村、同下郡久野・底倉二村高座郡龜井野村等に産せり、是を鎌倉柴胡と云ふ、又三浦郡城ヶ島村にも産せし事ありしとなり、古風土記殘本にも、當國の土貢とす、

(以下、引用は何れも雄山閣版より)

と産出地が並べられています。これを手掛かりに各地の記述を見ていくと、
  • 足柄上郡:
    • ◯柴胡虫澤・矢倉澤・三竹山三村に産す、古風土記殘本にも、本郡の産とす、

      (卷之十二 足柄上郡卷之一より)

    • 村内柴胡・紫根を産せり、

      (卷之二十一 足柄上郡卷之十 矢倉澤村の項より。なお、虫澤村(卷之十七)と三竹山村(卷之十八)には柴胡に関する記述なし)

  • 足柄下郡:
    • ◯柴胡、久野村の産、古風土記殘本にも、足輕郡の産物とす、

      (卷之二十二 足柄下郡卷之一より。底倉の名が含まれていない)

    • 産物には柿實・梨子・柴胡・蕨の類多し、

      (卷之三十四 足柄下郡卷之十三 久野村の項より)

    • 産物には唐藥俗にせんぶりと云、・柴胡・紫根等、山中に生ず、

      (卷之三十 足柄下郡卷之九 底倉村の項より)

  • 大住郡:
    • ◯柴胡東西田原二村に産す、

      (卷之四十三 大住郡卷之一より。なお、東田原村と西田原村(共に卷之五十二)には柴胡に関する記述なし)

  • 高座郡:
    • ◯柴胡龜井野村邊に産す

      (卷之五十九 高座郡卷之一より)

    • ◯秣場 村の(ひつじさる)にあり段別凡百町高八十石の貢税を出す、此野に柴胡多く生ず、

      (卷之六十 高座郡卷之二 龜井野村の項より)

相模国の柴胡地図
「新編武蔵風土記稿」で柴胡が産出されると記された村々
この様になります。現在あまり一般に馴染みのない地名が多いので、Yahoo!地図上で大まかな場所をプロットしてみました(緑色のタグ)。また、併せて上記の標本が採集された相原と「新編武蔵風土記稿」に記された根岸村の位置も記しました(ピンクのタグ)が、これを見ても「新編相模国風土記稿」に従えば確かに相模国の南寄りに偏っている様に見えるものの、実際のミシマサイコの生息地が必ずしも南部に限定されていた訳ではないことが窺えます。

ただ、その具体的な生育環境について明確な記述があるのは、亀井野村の「秣場」程度で、他は概ね村の産物であることが記されるに留まっています。底倉村の「山中」という表記も、この村全体が箱根の山中にあることを考えれば、これだけでは生育環境を考えるには不十分です。

では、そもそもミシマサイコはどの様な場所に生えるのでしょうか。上記で取り上げた山と渓谷社の2種類の図鑑を含め、各種の植物事典等のミシマサイコに関する記述に大筋で共通するのは
  • 日当たりの良い地域に生える
  • 高さ(茎高)は30cm〜。高い方の記述は安定しないが概ね70cm~1m程度
  • 多年草
といった辺りの記述です。しかし、より詳しい生態については記述されているものが多くない様です。

他方、ミシマサイコの栽培方法から何かわかることはないでしょうか。この草が栽培される様になったのは、こちらの㈱ウチダ和漢薬のサイトによれば1955年、つまり高度成長時代に入ってからとかなり遅い時期であったとのことです。それまでは専ら自生種を探して採集していたということになります。まだ試行錯誤されている部分も多いことから見ても、ミシマサイコの栽培のために品種改良が行われている様な状況ではあまりなさそうですから、栽培時に観察された特性が概ねそのまま自生種にも適用可能と考えて良いでしょう。そこで、ネットや書物上の栽培体験記などを手掛かりにミシマサイコの生態を考える上でヒントになりそうなものを探ってみると、
  • 風通しが良く、湿気が抜けやすい地で良く育つ
  • 雑草に弱い
  • 連作障害がある
といった特徴が見えてきます。

特に雑草については
  • ミシマサイコを栽培するにあたって避けては通れない問題は、やはり雑草の処理だと思います。ミシマサイコは、発芽も遅ければ成長も遅い作物です。発芽までの間にも大量に雑草が発生しますし、発芽後、ミシマサイコが畝を占有するまでも数ヶ月を要するので、ミシマサイコの発芽より後に発生した雑草さえも、次から次へとその成長を追い抜く形となります。そのため通常は、初春の畝立てから夏真っ盛りの時期まで、複数回の除草作業が必須となるわけです。

    (「ミシマサイコ栽培の宿命。第3次雑草ウォー。 | 発光大王堂」より)

  • ミシマサイコはかなり野生の性質を残した薬草らしいですが、栽培となると雑草に非常に弱いとのこと。特に幼いうちはしょっちゅう草取りしてやらないと草に負けてしまうそう。

    (「八朔便り ミシマサイコ栽培」より)

など、複数箇所で触れられていました。これはミシマサイコの茎高が高くても1m未満と比較的低い植物であることと関係があるだろうと思います。それにも拘らず日当たりが必要で風通しの良い比較的乾燥した地を好むため、他の植物によって生息が妨げられない様にする必要が出て来る訳です。

とあれば、こうした植物はどちらかと言えばあまり遷移が進んでいない、人的あるいは自然による撹乱が強い生息環境をを好むということになるのではないでしょうか。

そこで「新編相模国風土記稿」の亀井野村の記述をもう一度良く見てみます。「村の坤」、つまり南西方面に位置していたというこの秣場は、現在の日大生物資源学部のキャンパスが広がる辺りということになるでしょう(上記の地図でもその位置をポイントしています)。ここは相模野台地の南端に近い地域で日当たりの良い平場になっています。百町歩、つまりおよそ100haほどの広さの秣場で毎年80石ほどの生産高があったことになり、これは秣場という非耕作地としてはなかなかの収量です。この秣場が柴胡の他にどの様なものを産出していたのかは明記されていませんが、そもそも秣場について別記している事例自体、「風土記稿」の記述としては比較的珍しいことです。恐らくそれは、この高い生産力故に特記事項として取り上げられたということでしょう。つまり、その程度にこの秣場は人間の強い介入があり、生態系に対する撹乱が強かったということになります。ミシマサイコは、その様な環境で多く出ていた、ということになりそうです。

また、「新編相模国風土記稿」に記された亀井野村以外の各村々も、地形は概ね南ないし東向きの斜面地が多く、そうした地形の中に同様の秣場があれば、やはり柴胡の産出に向いていたということになるのかも知れません。

こうした生息環境を考えると、このミシマサイコが遷移の進む植生の中で、優勢種としてある程度の広がりを持った地域に繁茂するといった状況は考え難くなります。その点では「柴胡が原」という言葉が示す様な「ミシマサイコのお花畑」が、自生種によって成り立つということは起き難いのではないかと思います。

相模野は江戸時代にはむしろ未開の地でした。「新編相模国風土記稿」では「相模野」について次の様に記しています。

郡の中程より北端に及ぶ迄一圓の曠野なり、東西一里半に餘り南北五里餘、過半草莽に屬し小松など生ぜし所あり、野の形狀を概していはゞ、東方上溝村と西方上矢部新田村の間、殊に狹まり徑凡二百間、土人此所をひくのろと呼惋もひさこの如し、四邊の村々は己が村名を以て接する所の野に名づく、鶴間野相原野の類これなり、北條氏の頃も此例ありしこと、當麻無量光寺所藏北條氏の文書に見えたり…今この邊の秣を苅取り、御料、私領各野永を貢ず上下鶴間・鵜野森・淵野邊・柏ヶ谷・栗原・四ッ谷・新田宿・座間・入谷・新戸・磯部・當麻・上下溝・田名・上下九澤・大嶋・上相原・橋本・小山等二十二村及武州多磨郡木曾・根岸の二村なり、往古の様を考るに、此邊より南方は總て原野にして、鎌倉將軍の頃大庭野…など稱せしもこの野に續きて、國中第一の曠野たるを以て、相模野の名は負しならん今も此邊數村に秣野多くあるも、皆原野の開墾せし村々なればかく空閑の地多きなるべし、されば往古は東西の邊に村落をなし、其他は大抵原野なりしと見えたり、もとより土地高く平坦にして、水利不便なれば當時よりやゝ開闢すと雖、猶曠野草莽の地多く、今も年々開墾の擧止まず、

(卷之五十九 高座郡卷之一より、…は中略)

こうした地域では、人里近い辺縁部は別として、全体としてみれば亀井野村の秣場の様には人的撹乱が起き難く、ミシマサイコが入って行き難い環境であったと言えそうです。

相模原市史」第1巻が指摘する「あるいは始めよりこの相模野には柴胡は少かったのではあるまいか」は、その限りにおいては妥当性があるのではないかと思えるのですが、如何でしょうか。

もっとも、古代まで遡った時に、より人為的な撹乱の激しい地でミシマサイコが多数採集される状況はあったのかも知れず、「鎌倉柴胡」という別称もあるいは鎌倉郡の土地利用がそうした状況にあったことを反映していると見ることが出来るのかも知れません。この辺りは同時代の史料を更に検討する必要がありそうです。

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「地図・空中写真閲覧サービス」で旧「国土変遷アーカイブ」の空中写真を探す方法

先日、「国土変遷アーカイブ」の空中写真閲覧サービスが「地図・空中写真閲覧サービス」に統合されていたことを紹介しました。それによって古いURLでは「国土変遷アーカイブ」にアクセス出来なくなっており、Google上で「国土変遷アーカイブ」を検索すると新しいURLが表示されます。このためか、私のブログのアクセス履歴でも、検索キーに「国土変遷アーカイブ」が連日入っている状況になっています。中には明らかに古いURLでアクセス出来なくなった理由を確認しに来た方もいらっしゃった様です。

古いURLで各空中写真をブックマークされていた方にとっては、この切り替えによって該当する空中写真を新しいサービス上で検索し直さなければならなくなりました。私も先日のURLの書き換えでこの作業を行った訳ですが、その後古いURLから「地図・空中写真閲覧サービス」上の空中写真を直接検索する方法が分かりましたので、メモとして書き記しておきます。

  1. 例えば、私の記事の浦賀道から逸れて:上山口の棚田再訪と杉山神社 の「1946年の空中写真」に最初に埋め込んでいたURLは次の通りです。

    http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M53-A-7&photono=12

    この中の「workname=」「courseno=」そして「photono=」の各パラメータがポイントです。ブックマークしたURL中のこれらのパラメータを予め確認しておきます。
  2. 地図・空中写真閲覧サービス」にアクセスします。免責事項の確認画面が出る時は、「同意する」をクリックして先に進みます。
  3. 「地図・空中写真閲覧サービス」画面-1:検索条件切替
    左に「検索方法:」というプルダウンがあります。その中の「空中写真」を選択します。
  4. 「地図・空中写真閲覧サービス」画面-2:空中写真検索条件入力欄
    「検索条件」が右の様に切り替わります。ここに、最初に確認したURL中の各パラメータを
    • 「整理番号:」←「workname=」の値
    • 「コース番号:」←「courseno=」の値
    • 「写真番号:」←「photo=」の値
    の様に入力して、「検索」をクリックします。
    「地図・空中写真閲覧サービス」画面-3:空中写真検索条件入力サンプル
    例えば、1.の例では右の様になります。
  5. 「地図・空中写真閲覧サービス」画面-4:空中写真検索結果表示
    検索結果が左下に表示され、右側の地図上に撮影場所がタブでポイントされます。そのタブをクリックすると
  6. 「地図・空中写真閲覧サービス」画面-5:空中写真表示
    目的の空中写真が表示されます。

ご参考になれば幸いです。なお、以上の手順はこの記事執筆時点で私が確認したものですので、後日システムが変更された場合にはこの限りではないことを御了承下さい。
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