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2014年03月の記事一覧

1707 富士山宝永噴火報告書(内閣府防災担当)

前回は内閣府防災担当の元禄地震の報告書を紹介しました。その最後で、「歴史災害の教訓報告書・体験集 - 内閣府」というページに、江戸時代以降の各種災害の報告書がまとめられていることも併せて記しておいた訳ですが、折角なのでその中から他の報告書も読んでみることにしました。

元禄地震のわずか4年後の宝永4年(1707年)に富士山の宝永噴火が起こり、その結果として東海道筋の元禄地震の記録が少なくなってしまったという記述を前回引用しましたが、その宝永噴火についてはこちらのページに掲載されています。

報告書(1707 富士山宝永噴火)


こちらは前回の報告書とは異なり、各章毎にPDFファイルが分割されています。14ファイルの容量の合計は約19.3MBあります。日付は平成18年、従って元禄地震の報告書より7年前にまとめられたことになります。

富士山の噴火という、現代ではもはや体験者のいない現象を扱うことになるため、第1章では過去の富士山噴火の記録を俯瞰するところから始められています。特に有史以降の富士山噴火の記録の性質やその頻度を予備知識として読者に共有してもらうことが目的かと思います。

第2章以降の組み立ては、元禄地震の報告書がどちらかと言えば地域毎にまとめられていたのに対し、時系列にまとめられています。つまり、
  • 第2章が噴火そのものに関する史料や噴出物、遺跡について
  • 第3章が噴火当時の時代背景と噴火当時の人々の動き
  • 第4章が噴火直後の被災者への救済措置や復興事業など
  • そして第5章がその後の二次災害とその対応
といった流れになっています。これは噴火の鎮静後も火山噴出物によって周辺の村々が治水面で長期にわたって苦しめられ続けたことを反映したものと言えるでしょう。

特に酒匂川の治水に関しては「小田原市史」や「南足柄市史」等にもかなり紙面を割いてまとめられているのですが、この報告書はそれらをより俯瞰的に眺めるのに手頃と言えるでしょう。より詳しく知りたい時には巻末の参考文献のリストが手掛かりになります。なお、酒匂川が富士山の噴出物によって川が埋まってしまった件については、主に第5章で取り上げられていますが、併せて酒匂川以東の各地域の降砂量や被災状況もまとめられています。

ところで、元禄地震との関連では、この報告書に以下の様な記述があります。

『蔵人日記』にも、

「小田原中ニ壱人ひとりも無之。津殿(波ヵ)参まいり候とてそう動(騒動)仕候。其内女壱人有之家有之故」

とある。小田原の住民は津波を恐れていたようで、資材・雑具を土蔵や穴蔵に入れてどこかに逃げ去り、各家に1~2人の番人を残していた。強い空振によって戸が外れ、暗闇の中、噴火雷の稲光がひっきりなしに輝く不気味な情景が描かれている。…

小田原は、元禄16 (1703)年の元禄関東地震で大きな地震動と津波の被害を受けた。その後、宝永4(1707)年の宝永地震でも、津波の被害こそ報告されていないが、地震動による多少の被害を受けている。そのわずか49日後の宝永噴火の開始であり、噴火初日から小田原で空振、噴煙による暗闇、噴火雷、降灰が記録されている。その初めて経験する異常な状況に、恐らく人々は津波の再来の前兆を感じ、夜通し寝ずに恐怖していたのではないだろうか。

その3日後の11月26日(12月19日)になって、近江屋文左衛門子息の平八が箱根を越えて小田原にたどり着いた。平八は26日の小田原の状況を『伊能勘解由日記』に、

「廿六日夕小田原ニ泊候処ところニ、町中男女并ならびに旅人共ニ、津浪入候事無心許こころもとなく存、夜中ふせり不申候由」

と書いている。23日から3日を経てもなお、小田原の住民が津波を恐れて夜通し起きていたことが記されている。

(同書65ページ)


現在であれば、海底で何らかの地殻変動が起きていない限り、富士山の噴火と津波は直接には結び付かないものという理解が比較的共有できているため、直ちに海からの避難が必要になるとは考えないでしょう。しかし江戸時代にはまだ、津波がどの様なメカニズムで起きるのか、殆ど知られておらず、ほんの数年前に大規模な被害を出した震災が富士山の噴火に際しても連想されていたことが窺えます。小田原藩側もこうした町民のパニックを沈静化するため、津波襲来が見えたら知らせる旨周知している記録が残っています(報告書第3章:75ページ)が、津波襲来のメカニズムの理解については町民側と同様であったと言って良いでしょう。


小田原・滄浪閣跡の土塁(ストリートビュー
小田原城総構に由来するもので、その位置から
潮除堤を兼ねていたと思われる
もっとも、4年前の元禄地震では、小田原では1600人余りの死者を出したことが「元禄地震報告書」の方に記載されていますが(第8章)、当日は地震後に小田原城から出火して街の広い範囲を焼いたため、

限定付ではあるが、やはり地震直後の火災が死者数を増やしたと考えられ、地震後の火災を防ぐことによって救助できた人命のあったことは明白である。「竹木に押さえられ、人出会い候らわばまかり()で申すべきと存じ候ところ、焼け来たり、生きながら焼け死に申す者、通りの人、または土地の者ども数は相知れ申さず候。親打たれ、子は押さえられ候らえども、火の手早く参り候ゆえ、見ながらも出だし申さず候」(「先年大口大破旧記之写」)というのは、事実を物語っているといえる。

(「元禄地震報告書」230〜231ページ)

としているものの、この死者が家屋の倒壊などによる圧死によるものか、火災に巻き込まれて焼け死んだものか、それとも津波による溺死なのか、内訳については具体的に明らかにはなっていません。恐らくは生き残った町民によって犠牲者を数え上げ、弔うのが精々であったのでしょう。特に津波の被害については、当時既に存在していたと思われる小田原の潮除堤は果たして機能したのかどうか、小田原の元禄地震の津波が4mと見積もられている点と併せて気になるところです。


宝永噴火の場合は特に相摸国一帯への影響が大きかったことから、こちらの報告書も今後適宜参照していくことになりそうです。

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1703 元禄地震報告書(内閣府防災担当)

先日、浦賀道(鎌倉道)の「貝殻坂」について取り上げた際に、元禄16年(1703年)の元禄地震について記した「祐之地震道記」(梨木祐之著)という道中記を取り上げました。この道中記についてはそれ以前にも、梅沢の立場の成立時期を推定する際に取り上げました。

「3.11」から3年経過という節目の日に、もう少しこの「祐之地震道記」について読み込んでみようかと考えて、何か資料がないかと検索してみたところ、内閣府防災担当がまとめた資料がPDF化されて公開されているのを見つけました。

1703 元禄地震 報告書:平成25年3月(PDF:12.2MB)


日付に見える通り、昨年3月に公開された比較的新しいものです。全部で283ページに及ぶボリュームのある報告書で、この地震についてかなり詳細にまとめられています。

最初に元禄地震の性質(震度分布や震源域など)が分析され(第1章)、その影響による地形変化が紹介された後(第2章)、続く第3〜8章ではこの地震やそれによって生じた津波・火災による被害の度合いがまとめられています。最後の2章では関東大震災との比較や(第9章)この震災から読み取れる教訓(第10章)がまとめられて締め括られています。やや専門的な部分もありますが、地元の史料が多数紹介されており、元禄当時の各地域の様子を知る上でも良い資料になりそうです。

ここで取り上げられている地域から、この地震の被害の及んだ範囲は房総半島・三浦半島や相模湾を中心に、江戸や甲州東部に及んだことがわかります。マグニチュードは7.9〜8.2、平塚宿や馬入などで最大震度7に達したと推定されています(同報告書6ページ、以下同じ)。

ただ、その割にこの地震に関して主な被害地のひとつであった、相模湾沿いの東海道筋の被害の実態を伝える史料があまり残っていないことが、「第6章 相模湾沿岸部の被害」で指摘されています。

元禄地震に関する相模湾沿岸部の被害を記録する史料は極めて少ない。理由の一つは、元禄地震4年後に発生した富士山宝永噴火(1707年)によって、相模湾内陸部、沿岸部一帯が火山灰の大きな被害を受けたためである。宝永噴火による砂降りは田畑に壊滅的打撃を与えただけでなく、酒匂川など河床の上昇が絶えざる洪水の危険をもたらしたため、相模湾一帯の河川は流路変更を余儀なくされた長い苦闘の歴史がある。そのためであろうか、当時の記録においても、後世の歴史書においても、富士山噴火の火山灰被害の記憶によって、元禄地震の被害がマスクされてしまう傾向がある。その傾向は特に内陸部の土砂災害の場合に強いように思われる。

(183ページ)

その富士山の宝永噴火の直前には宝永地震も起きており、こちらは南海トラフ由来の地震であることから関東地方の揺れは震度4〜5程度で収まっていると考えられているものの、これだけ天災が続けばその被害を識別し難くなっていくのも仕方がないところでしょう。


鎌倉・円応寺前(ストリートビュー
元禄地震の津波で壊滅的な被害を被った閻魔堂が
この地に移転してきた
以前、酒匂川の渡しが宝永噴火の影響によって徒渡に切り替えられたことを紹介しましたが、これも厳密には元禄地震の影響も背景にある可能性を考えるべきなのかも知れません。実際、馬入川河口では地震と津波によって川底が上がってしまい、須賀湊が埋まってしまったため、須賀村から代官に普請の願上が提出されていることが、この報告書の第6章第2節で紹介されています(193ページ〜)。実際にこの普請が実施されたかどうかについてはここで明らかにはされていませんが、こうした影響が相模湾沿いで起きていたとすれば、酒匂川河口でも当初同様の影響があったとも考えられます。元禄地震の際の津波の被害については、この馬入川の他にも大磯で沖合の船が磯に打ち上げられたり、小田原で宿場から浜に逃げ延びた人が津波に攫われたこと、熱海でも町がほぼ全滅したこと、あるいは鎌倉でも「あらゐのえんま」が津波によって壊滅的な被害を受け、建長寺の付近に円応寺として移転したことなどが紹介されています(第6章〜第8章)。

もっとも、結局はその後の富士山噴火による火山噴出物の影響の方が印象として大きくなってしまい、また渡し場を運営する立場からはどちらの影響にせよ渡しの方法を変更せざるを得なくなったことに変わりがないので、「富士山焼砂降リ積」とのみ記す様になったのでしょう。

「祐之地震道記」は、そういう中で当時たまたま戸塚宿に宿泊していた京都の神官による信頼できる記録として評価されています。この第6章の第1節では「祐之地震道記」の抄訳や関連地図が紹介されていますので、その概略を知る手引として読めると思います。後半ではその記述から窺える東海道筋の被害率が検討されています。それらの中では、馬入から平塚・大磯にかけては建物が全て倒壊していると記しており、最も被害が大きかった地域ということになりそうです。他方、小田原では地震後に火災が発生して城も宿場も全焼してしまっているため、地震による建物の倒壊による被害と火災による被害のどちらが大きかったかは不詳ですが、元より城下町で人口の集中が大きかった分、死者数1500~1600人と人的被害が大きくなった様です。


江の島・旧漁師町付近の地形図(「地理院地図」より)
中心十字線の標高が4.5m
ここから数m道沿いに東へ移動すると
2.9m程度まで急に標高が下がる
他方、この地震による地盤隆起に関しては、特に房総半島南部で最大隆起量が6mにも達したことなどが詳しく紹介されていますが、相模湾沿いでは江の島で地盤隆起が起こっていることがコラムの形で紹介されています(55〜56ページ)。

流石に各段丘面の標高差が1m未満ということになると、地形図でも等高線の形で現れて来ないので、なかなか気付かれることはないのでしょう。また、現在はこの狭隘な「段丘面」に家がびっしりと建ってしまっていて、人間による改変も相応にあると見られるので段丘面を正確に見極めるのは難しそうです。が、このストリートビューの向かいに見える駐車スペース周辺の地形を見ると、確かに傾斜していることが窺えます。

※後日記(2016/01/13):ストリートビューから該当箇所が削除されてしまったため、「地理院地図」で代用することにしました。下の「△」をクリックするとコンテキストメニューが表示され、十字線の示す地点の標高が見られます。初期に表示される地点の標高は4.5mを指していますが、ここから道沿いにわずか数m移動させるだけで、標高が急激にさがるのが見られます。


こうした隆起は三浦半島でも1.3〜1.8mに及んでいたことが示されていますが(47ページ)、相模湾岸の隆起量を特定できる痕跡が江の島の他で見つかっておらず、仮に起こっていたとしても関東大震災の際の隆起量以下であろうと推定されています(49ページ)。上述の須賀湊の砂埋まりも、あるいは津波の影響だけではなく隆起量の影響も考えられるのかも知れず、その点は酒匂川でも同様でしょうが、その点を裏付けるのは今のところ難しそうです。

今のところは自分の住む神奈川県域を中心に部分的に読んだに過ぎませんので、今後更に興味を惹かれる箇所が見つかったら取り上げてみたいと思います。また、「歴史災害の教訓報告書・体験集 - 内閣府」のページには、江戸時代以降の主要な大震災についての報告書が掲げられています。編集方針の差や残存する記録の多寡の影響か、報告書の厚みに多少差はありますが、それぞれの地震に関する史料の手掛かりとして活用することも出来そうです。

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滝山道(八王子道)の3つの継立場(その3)

明治4年の下鶴間宿
明治4年秋の下鶴間宿
鶴林寺境内より東方を撮影したもの
大和市史 2 通史編・近世」より
前回大和市内の滝山道の道筋について見てきました。今回はもう少し下鶴間宿の周辺の様子を取り上げたいと思います。

前回も触れましたが、下鶴間宿は主に矢倉沢往還沿いに展開していました。この宿を経由した旅日記としては、渡辺崋山の「游相日記」が名高く、良く研究されていると思います。この旅日記では、天保2年(1831年)江戸から矢倉沢往還沿いに厚木へ向かい、その途上の農産物などを視察すると共に、崋山が仕えていた田原藩(現:愛知県田原市)隠居格であった三宅友信の産みの母である「お銀様」を、高座郡小園村(現:綾瀬市小園)に訪ねています。

基本的に矢倉沢往還を進んできているこの旅日記を敢えて取り上げる気になったのは、この下鶴間宿周辺の様子が比較的詳しく綴られているからですが、まずはその中から、下鶴間宿の町並みに関連する記述を引用します。なお、大正時代の影印本が「国立国会図書館デジタルコレクション」に収録されています。翻刻も複数ありますが、ここでは「渡辺崋山集 第一巻 日記・紀行(上)」(1999年 日本図書センター)を使用しました。

九月廿一日

出て鶴間に至る。兎来伝書して長谷川彦八といふ豪農ノ家に行。門塀巨大、書ヲ伝ふ。其家、賓客屛列、飮膳甚盛也。宿ヲ不乞。角屋伊兵衛俗にまんぢうやといふ家に宿す。

四百三十二銭。

鶴間、武相ノ堺川ヲ高坐(タクラ)川ト云。即相ノ高坐(コウザ)郡なれバなり。

鶴間といふ所二あり。一を上とし、二を下とす。下は赤坂の達路(注:矢倉沢往還を指す)、駅甚蕭々、わづかに廿軒ばかりありぬらん。左り右りより松竹覆ひしげり、いといとよはなれたる所なり。まんぢう屋のあるじ婦夫ハ萩□とかいふ村に婚姻ありて、行ておらねば、湯などの用意もなし。膳もまづかるべしとて、其父なる翁、孫なるむすめばかりなり□□。いざよくバ、御とまりあれや〔と〕いふ。酒を命じ、よし、飯うまし。

(上記同書326ページ、返り点は記載困難につき省略、踊り字は適宜展開、強調はブログ主)

游相日記〜まんぢう屋
「游相日記」よりまんぢう屋の挿絵
(「大和市史 2 通史編・近世」より)
こうした、下鶴間の宿場をどちらかと言えば佗し気に記述した例は、「その1」で引用した「富士・大山道中雑記 附江之嶋鎌倉」(天保9年(1838年)頃)にも見られます。

一鶴間と申所ちとせや何某止宿、是迄休泊のうちニて極()(注:粗末な家のこと)なり

藤沢より此所迄四里、此日止宿迄壱里半之間雨中夜ニ入

(「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」より引用、ルビ、注、太字はブログ主)

この一行の場合は直前まで江の島・鎌倉の「観光地」を巡っているので、行楽客で賑わう地の、しかも海の幸を堪能出来る宿と比較したのでは流石に見劣りするのは止むを得ない面もあったと思われます。しかし、「游相日記」の記述と併せて考えると、やはり天保の頃には下鶴間はまだ宿場としてはそれ程の賑わいではなかったと考えるべきなのでしょう。この点は「大和市史 2 通史編・近世」でも触れられています。

下鶴間:今でも黒塀の屋敷が残る
下鶴間には今でも黒塀の屋敷が残る
もっとも、「游相日記」で長谷川家を「豪農」と記したり、「門塀巨大」と比較的大きな家を構えていた様子を記述している点にも留意すべきかも知れません。宿場は交通量次第でも、経済力は他で補っていた、ということになるのでしょうか。こちらは同じ「大和市史」の「通史編・近代・現代」の方で指摘されており、各章の執筆者の着眼点や史料調査の進展などによって記述が分かれている様であり、この点はもう少し踏み込んだ検討が必要なのかも知れません。

なお、「大和市史」の「資料編・近世」には「天保九年三月 幕府巡見使下鶴間村休憩始末書」という文書が掲載されています。将軍家斉から家慶の代替わりに際して実施された幕府の巡見使が下鶴間で休憩した際の物資や代金が一覧として記されたもので、宿場の繁盛加減に関わらず、こうした公儀の際の負担は相応にあったことが窺えます。また、この史料では

御巡見様道弐間半、矢くら沢通三間幅御座候、

と、巡見使の通ってきた道の幅が記録されています。宿場の賑わいが今ひとつだったとされている割には道幅は比較的広く、この点でも旅客はそれほどでなくても物資の往来はそれなりにあったとも考えられそうです。

ところで、華山は後に田原藩の家老に就任すると、農学者を招聘して農産物の振興を図り、天保の飢饉に際しても藩内から餓死者を出さなかったなど、農政に長けた一面がありました。この「游相日記」でもその一面が窺え、特に養蚕に関する記述があちこちに書き散らされています。なお、「游相日記」はどちらかと言うと華山のメモといった風合いが強く、下鶴間宿での養蚕の記述は途中まで記されたところで中断しています。

(注:上記の宿場の記述の途中に挿入される様に記載)蚕法

凡蚕始、掃ヲロシト云、鳥ノ羽ヲモテ雉子ヲ羽ヲ用ユ本ノ紙ニツキタルヲ。

廿二日 晴

鶴間を出づ。此辺も又、桑柘多し。田圃の間に出れば、雨降山蒼翠、手に取るばかり。蜿蜒して一矚の中に連るものハ、箱根、足柄、長尾、丹沢、津久井の山々見ゆる。耕夫懇に某々と教ふ。

桑ノ大葉ナルヲ作右衛門ト云。按ズルニ、漢云柘ナリ。細葉菱多きものを村山トイフ。漢ニ云桑也。養蚕、桑ヲ上トシ、柘ヲ下トス。

(上記同書326及び327ページ、…は中略)


養蚕については、長津田付近でも記述が見られます。

地小阜多、土モ又黒、蚕ヲ専ニス。蚕ノ本ト云フハ、奥州ヨリ到ヲ佳ト為ス。田間桑(シヤ)ヲ植、樹皆五六尺ニシテ梢ヲ断リ、畝ニ蔭ナカラシム。若陰(エツ)アル風ヲサ丶ヘ日ヲサヘギリ田畝ヲシテ痩シムレバ也トゾ。蚕ノ本如図。

卵ノ数幾万ナルヲ不知、重々相附、其色赭黒

鮫皮ノ如シ。上ニ附モノ、或ハ白色アリ。

皆用ヲナスニサマタゲズ。立一尺許、横五六寸許。

其起蚕ノ法、常ニ殊ナル無シ、不記。

凡蚕汐風を厭フ、海上ヨリ来ル風桑柘ニ入レバ蚕ノ害ヲ成ス。可恐。因テ思ニ、沿海地方養蚕ノ宜シキ所ニアラズ。サレドモ、糸ヲ取ルト織トハ別ナルヨシ。蚕ト織トヲ為スハ不利也。故ニ八王子ハ織ヲ専トシ、長蔦(注:長津田のこと)、鶴間ハ養蚕ヲ専トス

(上記同書325ページ、返り点及び図省略、強調はブログ主)


養蚕や機織にも、気候に応じて「地の利」があり、そのために養蚕の地と機織の地が分散していることを指摘している訳ですが、こうした崋山の見立ての通りならば、彼が沿道で見た長津田〜下鶴間の養蚕で生産された繭、あるいは生糸は、八王子へと運ばれて機織に用いられていた可能性が高くなります。それであれば、これらの地域からの「八王子道」は何れもそれらの運搬のために用いられていたということになるでしょう。もちろん、滝山道もそのうちの1本であったということになります。

実際、やや時代が下りますが「迅速測図」で滝山道の周辺の土地利用を見て行くと、「桑及畑」あるいは「畑及桑」と表記された区画が多いことに気付きます(リンク先は下鶴間宿周辺ですが、目黒川の東側には「桑」とだけ記された区画も存在します)。これらの区画で桑が占めていた比率がどの程度なのかは不明ではあるものの、滝山道が江戸時代にこれらの地域で生産された繭や生糸を運ぶために用いられ、継立もそれらの運搬のために活用されていた可能性を考えて良さそうです。


下鶴間付近の明治39年頃の地形図
(「今昔マップ on the web」より)
因みに、もう少し時代が下ってくると、これらの「桑及畑」と記された地域は軒並み桑畑へと一本化されていくのが、地形図上の桑畑記号の多さでわかります。河川の周辺は流石に水田が占める比率が多いものの、それに適さない地域は一部の林を除いて軒並み桑畑になっていました。明治時代に入ると生糸は重要な輸出品目の一つになりましたので、これらの地域でも増産に力が入れられたのでしょう。実際、高座郡一帯は明治から大正時代にかけて、神奈川県下有数の養蚕地帯となっていました。もっとも、その頃になると地元でも製糸工場が多数設けられる様になったことから、輸出港となった横浜への道筋の方が主体となった様です。そうなると、明治時代に入ってそれまでとは養蚕・製糸の物流の経路がこの地方で変わって行った可能性があるわけですが、今回はそこまで確認できませんでした。この点は今後機会があればもう少し検討してみたいところです。

今回は差し当たって藤沢〜下鶴間間の滝山道の検討に留めましたが、下鶴間〜八王子間の道筋などについてもう少し知識が蓄積できたらまた取り上げたいと思います。

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「国土変遷アーカイブ」が「地図・空中写真閲覧サービス」に統合されていました

最近連絡事項が続いて申し訳ありません。

第二次大戦前後以降の古い空中写真のネット上の閲覧には、「国土変遷アーカイブ」が提供されていましたが、先ごろサービスを「地図・空中写真閲覧サービス」に統合したためか、以前のURL(http://archive.gsi.go.jp/airphoto/)ではアクセス出来なくなっています。このままこのURLが使えなくなる可能性が高く、私のブログの過去の記事で該当サービスへのリンクを張った箇所が閲覧出来ない状態になっています。

各空中写真のURLの形式も変わってしまっているため、新しいシステム上で該当するものを探し出してリンクし直す作業が必要になっており、張替え作業に少々時間がかかりそうです。現在、右のリンクツリーをはじめ数ヶ所の切り替え作業を行ったところですが、完了までしばらくお時間を下さい。

因みに、「地図・空中写真閲覧サービス」では、「空中写真」の他に「地形図・地勢図等(迅速測図含む)」「主題図(土地利用図など)」「公共測量地図(市町村の作成する都市計画図など)」「国土基本図(骨格図など)」が収められています。空中写真と地形図・地勢図、及び国土基本図については比較的古い時代の地図・写真も収められています。地形図については他に統合されたサービスが存在しますが、戦時中の1/3000の明細な地形図など、他のサービスでは見られない地図類も収録されているため(例:「3千地形図-下鶴間-C002-001-0485-1943」、右端に直流化前の目黒川の流路が確認出来る)、相互に補う形で利用することになりそうです。

なお、ブラウザ起動後の初回のアクセス毎に、「免責事項」の表示画面に誘導される仕様になっている様です。免責事項に同意すると必ず検索画面に誘導されます。このため、各地図・画像に直接リンクしている場合、現時点では一度その免責事項に同意後に改めてリンクをクリックし直す必要がある様です。

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ブログ村のトーナメント結果が出ました

明治、大正、昭和ブログトーナメント

先日から投票を受け付けていたブログ村のトーナメントですが、本日結果が出ました。

【旧東海道】その13 酒匂川の渡しと酒匂橋(その6)


おかげさまで、こちらの記事で優勝という結果をいただくことが出来ました。投票をいただいた皆様、本当にありがとうございました。

これからも、質の高い記事を書ける様に努力してまいります。今後ともよろしくお願いします。

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