2014年02月の記事一覧

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明治、大正、昭和ブログトーナメント - 歴史ブログ村
明治、大正、昭和ブログトーナメント

最近あまり写真を撮ったりしていないので、ブログ村のトーナメントのお題に沿った記事が少なかったのですが、たまたま近代まで下った記事を何本か書いていたので、このトーナメントに記事を出してみました。該当しそうな記事が何本かある中で、今回はこちらの記事を選びました。

【旧東海道】その13 酒匂川の渡しと酒匂橋(その6)


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短信

以前、Yahoo!地図の行政区画の表示が正常に行えなくなっており、原因追求中との連絡を受けて復旧待ちであることを記しました。しかし、その後も復旧される様子がないため、これ以上待つのは断念し、Googleマップで置き換えることにしました。既に作業は終了しています。
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大正12年の全国自動車所有者名簿

前回の続きです。

大正4年の「全国自動車所有者名鑑」の情報を戴いたペチシカさんから、大正12年(1923年)発行の名鑑も国立国会図書館のデジタルライブラリーに収められているというお話を戴いたので、早速内容をチェックしてみることにしました。

発行は12年ですが、「序」の日付はその前年の12月、従ってこの名鑑に収められている所有者の一覧も、大正11年時点ということになるでしょう。大正12年と言えば9月に関東大震災が起きた年ですから、その直前の状況を反映していると考えることが出来ます。編集は「帝国自動車保護協会」という所に移っていますが、所々に広告が挿入されている点は一緒です。

所有者の一覧は基本的に一緒ですが、新たに「車種」として「自」「営」などの種別表記が追加されました。恐らくは車両登録に関する法令が改正されたからでしょう。同時にナンバーもリセットされて改めて振り直された様で、大正4年のナンバーとは一致しなくなっています。従って、大正4年からの車両の出入りを2つの名鑑の異同で調べるという事は出来なくなっています。

大正12年の名鑑上では、東京のナンバーの最後尾は2031(所有者が明記されている番号)、神奈川は1028まで来ています。但し、途中欠番が幾つか散見されますので、実際に登録されていた車両台数はこれより少なくなります。因みに大正4年の名鑑では東京の最後尾は536、神奈川は171でした。台数の伸び自体は東京の方が大きいものの、東京と神奈川の保有台数の比率が、大正4年時点では神奈川は東京の1/3以下だったものが大正12年には半分強になっています。それだけ地方にも自動車が普及し始めていたことを示していて、実際神奈川県下の所有者の住所が、大正4年に比べると遥かに多彩になってきています。

大正4年時点では富士屋自働車も小田原電気鉄道も3台ずつ自動車を保有していましたが、大正12年の名鑑に登録されているナンバーは遥かに多くなっています。それぞれの会社の所有になっているナンバーを拾い上げてみました。

小田原電気鉄道

41台

155、159、256、280、388、389、390、391、392、401、402、403、404、405、482、483、484、577、578、579、588、589、590、591、592、593、594、595、596、799、1001、1002、1003、1004、1005、1006、1018、1019、1020、1021、1022

富士屋自働車

58台

196、197、201、202、204、205、207、208、209、260、261、262、263、351、352、353、354、355、356、357、358、359、360、361、362、363、364、365、366、451、452、453、454、455、456、457、458、459、460、473、474、537、538、539、540、545、701、702、703、704、705、737、741、742、770、940、941、942

この2社だけで100台近い台数を保有していたということは、神奈川県下で登録されていた総車両数の実に1割近くが、この2社に集中していたことになります。しかも、この2社のナンバーに連番が多く見られることから、幾度と無く車両の一括導入を行っていたことが窺えます。なお、この名鑑では箱根湯本の「エム・エフ商会」の名や住所が見当たらなくなっていることから、この頃までには事業から撤退したものと考えられます。2社のあまりに激しい競争から太刀打ち出来なくなったというところでしょうか。

1社での車両保有台数の多い業者が他にないか探したところ、「横浜市街自動車株式会社」という社名が目につきました。委細を調べてみたところ、ここは後に「神奈川都市交通」となった会社ですが、ナンバーを数えてみたところ、53台(うち1台は自家用登録)見つけることが出来ました。創業が大正7年(1918年)と、箱根・小田原地区の3社より若干遅いとは言え、横浜という需要の多そうな地の企業さえも凌ぐ車両数を、箱根のホテルの関連会社1社で保有していたという事実には、如何に富士屋自働車が強気の経営を行っていたかが窺えます。小田原電気鉄道もそれに近い台数を保有しているものの、ナンバーの増え方から車両数の伸び方を推定すると、富士屋自働車の方が先行して台数を増やし、小田原電気鉄道は恐らく富士屋自働車との対抗上から追随して台数を積み増す、といった流れであった様に見えます。

酒匂橋の架け替えに際して神奈川県の技師が書いた

且つ交通狀態は愈々變異し自動車の交通頻繁を極め、前設計にては、尙ほ不十分なりと認めらるゝ點尠くなからず、

(「酒匂橋架換工事報告」神奈川縣技師 桝井照藏、「道路の改良」大正12年第5巻2号より)

は、その点で決して誇張などではなかったことが、この名鑑からも窺えると思います。
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全国自動車所有者名鑑:富士屋ホテルの自動車を巡って

twitterで先日こんな情報がリツイートされてきました。
この大正4年(1915年)の「全国自動車所有者名鑑」(東京輪界新聞社編)、私はこのツイートで初めてその存在を知ったのですが、調べてみると当時の自動車の普及状況を調べたレポートなどで時折引用されているものの様です。内容は前半に「自動車取締規則」が掲載され、後半に全国の自動車のナンバーとその所有者の一覧が住所と共にリストアップされるという構成で、自動車に関連する会社の広告が30件近く添えられています。

今は「個人情報保護法」などもある位の時代ですから、この様な出版物が大っぴらに出回ることなど考えられないのですが、当時は自動車を所有すること自体がステータスでもあり、そもそも車の所有者が極めて少ない中では、街中を走り回っている車が誰のものか、隠し立てするまでもなく周知になってしまうという事情を考えれば、こういう出版物が災いを齎すような状況は考え難かったのでしょう。お陰で当時の状況を調べる貴重な資料にとして残っている訳です。なお、国立国会図書館に類似の名鑑が存在しないか検索してみましたが、調べた限りでは見当たりませんでした。前後の年の名鑑が存在すれば、その間の推移を追うことが出来たのですが、今のところそれは叶わない様です。同社の出版物もこの名鑑以外に国立国会図書館に見当たらないので、同社が見込んだ程にはこの名鑑は売れなかったのかも知れません。

創業当時の富士屋自働車の貸自動車 - Wikipedia
創業当時の富士屋自働車の貸自動車(再掲)
Wikipediaより)
これを見た時に真っ先に思い出したのが、先日酒匂川の渡しについて取り上げた際に簡単に紹介した、箱根の自動車業者の話です。大正元年以来次々と貸自動車事業を始める会社が現れ、激しい競争を繰り広げることになった訳ですが、大正4年であれば当然それらの業者が所有していた自動車のナンバーが掲載されているでしょう。右の写真には富士屋自働車の2台の車のナンバー「K31」と「K169」が見えており、それらをこの「名鑑」で調べると何れも「足柄下郡温泉村(底倉)」の「山口 正造」の所有と掲載されています。この人は富士屋ホテルの創業者・山口仙之助の婿養子に入り、後に同ホテルの専務や支配人等の要職に就いて手腕を発揮していくのですが、この人が「富士屋自働車」を創業して社長に就任します。車が彼の個人名義になっているのはそのためかと思います。なお、「K79」では「山口 正蔵」と字が異なっていますが、やはり同社の所有であったことはこちらの「トヨタ博物館ブログ」のページの写真でも確認出来ます。

他方、「名鑑」で小田原や箱根のナンバーを探すと、「K73」「K113」及び「K132」の「足柄下郡湯本村」「松本安太郎」の名があります。この人は大正元年に創業した「エム・エフ商会」の代表者です。こちらもやはり温泉街の関係者であった訳ですね。「エム・エフ商会」の1年後に自動車事業を始める「小田原電気鉄道」のナンバーは「K124」「K147」「K148」に見えています。つまり、何れの会社も大正4年当時は3台ずつ所有して貸自動車事業を行っていたことがわかります。

さて、気になるのはこのナンバーの順番です。今の様にナンバーを選べる時代ではありませんから、恐らくこの順番は登記順ということになるのでしょう。ところがそうすると、この3社では最後発で創業した「富士屋自働車」のナンバーが一番若く、最初に登記されたことになります。2台目の「K79」も小田原電気鉄道のナンバーよりも若く、「エム・エフ商会」の「K73」に近い時期に登記されていることになりますね。これは一体何を意味するのでしょうか。

考えられる可能性は2つあると思います。1つは、山口正造、または富士屋ホテルの誰かが比較的早い時期から自家用車または社用車として車を保有していた、というものです。先ほどのトヨタ博物館のブログによれば、「K31」と「K73」が大正元年(1912年)にリリースされたアメリカ車ということなので、それより早いということはあり得ませんが、既に多数の外国人旅行者を宿泊させていて自動車に関する情報も豊富に得ていたであろう同ホテルが、まずは送迎用途以外で使用するために車を購入していたとしてもおかしくはありません。それであれば如何にもこのホテルらしい、ということになるでしょう。

もしそうであれば、こちらの「ホテル コンシェルジュ」のページで紹介されている

大正2年(1913)の夏のこと、ホイットニーというマニラ駐在の米国陸軍少佐が富士屋ホテルに滞在しました。その帰りの日、ハイヤーを頼んでおいたのですが、一向にやって来ません。国府津発の列車に乗り遅れると、大変なことになります。少佐は結局、人力車で山を下り、事なきを得ましたが、折角の思い出が台無しになってしまいました。

そこで、少佐は「一流のホテルは車を持つべきだ」と手紙を書き、正造に送ったのです。正造は納得し、早速、これまで世話になっていた人力車夫や駕籠(かご)人夫からも出資を仰ぎ、富士屋自働車株式会社を設立しました。

というエピソードの頃には、既に自動車はホテルにあったことになり、ただそれを宿泊客の送迎には(恐らくは事業者としては未認可だったために)使えなかったことになります。ホテルに既にあった車を転用したのであれば、事業化のために必要な作業が比較的少なくて済んだということになるでしょう。

ただ、その様な用途の車を1台ではなく複数持つというのは過剰という印象もあります。また、大正4年時点では事業者として「山口正造」の名前で登記されるのはおかしくありませんが、購入時点ではまだ娘婿でしかなかった筈(富士屋ホテルの専務に就任するのが大正3年)の彼が敢えて自動車を購入したというのも不自然なので、当初は創業者など他の名義だった可能性もあります。その場合は貸自動車事業に使用する際にその代表者となった正造に登記を移したことになります。

もう1つ考えられるのは、「富士屋自働車」が新たに事業を起こすに当たって、少しでも早く自動車を調達するために、中古車を譲り受けた可能性です。中古と言っても当時の2〜3年前のモデルのことですから、調達時点ではまだそれほど走り込んではいないでしょう。それで2台とも同じ車種で揃えることが出来たというのも妙ですが、離日する外国人などの伝が上手く付いたのかも知れません。こちらであった場合、富士屋ホテルが自動車事業の創業をかなり急ぎ足で進めた、ということになるだろうと思います。

どちらであったのか、あるいはその両方であったのかは、上記のツイートを受けて俄に調べた程度では資料に行き当たることが出来ませんでした。ただ、何れにしても大正時代に入ってからの自動車事業の展開が急ピッチで進んだことの傍証ということは言えそうです。また、「K31」が大正元年のモデルの車であるということは、明治時代中に神奈川県(そのうち欠番以外が全て横浜)で登記された自動車は30台以下に過ぎなかったということになり、これも本格的な自動車の浸透が大正時代になってからであることを意味していると言えるでしょう。

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鎌倉の麦畑:明治初期の紀行文から

現在の「鎌倉市史」は、昭和30年代に刊行された古代〜中世の6冊と、昭和60年(1985年)から平成6年(1994年)にかけて刊行された7冊から構成されていますが、幾つか他の市町村史にはない特徴を持っています。例えば、著作権所有者こそ「鎌倉市」になっているものの、発行者は「吉川弘文館」になっており、同社のサイトISBNも確認できます(但し何れも品切れ・重版未定)。多くの市町村史がその市町村の出版物になっていてISBNを持っていないのに比べると、これは興味深い特徴です。それだけ同市の市史が全国レベルの出版物流に載せるだけの価値があると見做されたからこそ、出版社が手掛けることになったのでしょう。勿論その背景には、鎌倉という地が日本の武家政治の中枢として長く機能していた歴史によるものと思います。

また、その13冊の中には「近世近代紀行地誌編」と題された1冊が含まれています(昭和60年刊)。近世編には別途史料編が存在するにも拘らず、敢えて独立して本編を編纂した理由については特に明記されていませんが、鎌倉が近世以降の著名な観光地であったために多数の紀行文が著され、また「新編相模国風土記稿」の様な体系立った地誌が存在することから、その分量を考慮して独立させたのでしょう。

内訳としては、江戸時代の紀行文が31編、明治大正時代の紀行文が43編、そして地誌編として「風土記稿」の鎌倉市域分が収められ、巻末に解説が付されています。但し、何故か「皇国地誌」草稿(手広村、津村、腰越村のみ、地元で保管されていた草稿)が地誌編ではなく紀行編の方に組み入れられています。鎌倉郡の皇国地誌がまとめて東大総合図書館で見つかって神奈川県図書館協会から刊行されたのが平成2年のことですので、鎌倉市史編纂時には間に合わなかったのでしょう。また、特に明治大正時代の紀行編には観光案内の様なものが多数組み入れられているのも特徴です。

この明治大正時代の紀行文に、明治9年の「鎌倉紀行」が収録されています。同年の4月2日に新橋から汽車に乗って神奈川まで行き、そこから人力車に乗り継いで東海道を藤沢まで、そして徒歩で江の島に渡って一夜を過ごします。翌日江の島から江の島道筋に沿って七里ヶ浜から長谷へ、更に鶴岡八幡宮や建長寺・円覚寺を見物して、帰路は「日野坂」を経由して横浜駅へと向かっています。


著者の「平野栄」という人について、同書の解説では「明治政府の官員と思われるが、経歴については未詳」としています。ただ、

品川を過ぎ川崎に至る。轍道のかたわらなべて菜花の麦浪にうちまじりて、おのづからに野色を粧ひたるさままたいとおもしろし。此辺梨架(なしたな)多し。皆矮樹にて、其枝縦横に聯絡纒繞(つらなりまとはり)りたる状、例の偃曲法とかいふに良く似たり。こは多年の実験に出たることなんめり。…津田氏(津田仙)の唱ふるホーイブラン氏の草樹偃曲法といふものは、梨の類にほどこさば必ず効験あるべけれども、…

(上記同書415ページ、…は中略)

この文に見られる「津田氏」に傍注されている「津田仙」について、解説は

旧佐倉藩主、慶応三年(一八六七)に特使小野友五郎の随員となって、福沢諭吉らと共にアメリカ各地を視察し、農業の重要性を痛感し、明治八年には東京麻布に、日本最初の農学校といわれる学農社を創立し、『農業雑誌』を発行している。津田梅子の父でもある。

(上記同書622ページ)

などと紹介しています。つまりこの人は、農業に関する当時の最新の知識に逸早く触れることができる官職にいたか、もしくはその様な志を持った活動をしていたかのどちらかではあるでしょう。このためか、この紀行文は全編にわたって道中周辺の農地や関連施設について非常に細かく記述されており、当時の農業の様子が詳しく窺える異色の紀行文になっています。

今回はその中から、平野が麦について触れた箇所を取り上げてみたいと思います。彼はこの紀行文の途中3箇所で、周辺で栽培されている麦について触れています。最初は神奈川を出て権太坂に上るまでの間で取り上げられています。

○此辺麦の勢よし。されど我郷里の習ひに比ぶれば、畦間(うねあひ)距離(へだて)いと狭密(せまき)に過ぐるかとおもはる。我郷にては大約(おほむね)一尺五寸を隔てゝ疎に播種く通則なり。収穫は反て多しと聞けり。いづれか優れりや、良農に問はまほし。おのれおもふには、播種疎らならば、空気よく通ひて虫なてふのうれひもなく、根株おもふやうにはびこりて、土中の養分をよく吸ひとるべき理あれば、我郷里の法こそ習ふべけれ。されどそは土質にもよるべきか。西洋にてはすべて疎播を良法となし、播法に孔播・畦播・撒播のミありとぞ。且つおほくは播種機械を用ゆといふ。

(上記同書416ページ、ルビも同書に従う)


旧東海道:神奈川〜保土ヶ谷間
この区間の明治時代初期の主な耕地は帷子川の河口を埋め立てた水田であったと考えられ、実際に迅速測図で確認しても大半が「水田」と表記され、畑は殆ど見当たりません。あるいは別の地で見た畑をこの区間と勘違いして順序を入れ違ったのかも知れません。ただ、江戸時代も水田によっては冬場に麦を植える二毛作を行う事例もあったので、あるいは彼が見たのもその様な「水田の麦」だったのかも知れません。

平野はこの辺りの麦の畝の間隔が狭いことを気にしていますが、それがこの地の麦栽培の特徴であったと言えるかどうかは定かではありません。あるいは、狭い畑で少しでも収量を得ようとして無理をしているのをたまたま見掛けただけなのかも知れません。

次に平野が麦について取り上げているのは、戸塚を出て藤沢へ向かう区間に当たります。ここで彼が「焼餅坂」と書いているのは恐らく「大坂」の記憶違いでしょう。

○此辺の畠には、多く小麦を培養(つく)れり。相模の名産なるよし。肥料は重に糠・灰及び刈草を加へて用ふ。種子はすべて早生を播く。然るに近来糠の価貴くなり、金壱円を以て糠六斗に易ふ。小麦ハ三斗を以て一円に位る。一反に用ゆべき糠二俵、即ち一石弐斗なり。故に農夫は僅かに麦の稿(一駄二束価大約十二銭なり。一反にて五拾銭を得べしといふ)と、夏作(大小豆の類)を以て実益とするのみ。農家はなべて賈人の如く巨利を得べきものにあらず。唯糊口に過ぎず。されど近来はいづこの農家も、皆業を励ミて、怠懶るものは、いとまれになりゆきたりなど、車夫物語れり。さもあるべし。

(上記同書418ページ)


旧東海道:戸塚宿一里塚前
〜藤沢宿大鋸橋間
この区間で麦が植えられていた箇所として考えられるのは、恐らく原宿周辺ということになるでしょう。これも迅速測図で確認すると、街道の周辺にはかなり広い畑が広がっていたことがわかります。平野はここで施肥に必要となる糠の高騰で、麦の栽培が利益の上がらない耕作になっていることを指摘していますが、そのためか、大正10年測図の地形図ではこれらの畑は全て「桑畑」に置き換わっています。養蚕が日本の輸出品目の主流になっていくに連れて、こうした麦畑が桑の栽培へと転換されていったことがわかります。彼が書いている通り、江戸時代には「相州小麦」と呼ばれて相模国の主要な農産物のひとつであり、ここで生産された小麦が下総国野田へと運ばれて醤油の醸造に用いられたりしていたのですが、明治時代に入って実入りの少ない麦の生産が廃れていったのも、こうした経済を取り巻く情勢の変化が大きく影響したと言えるでしょう。明治初期の時点で既にその兆候があった、ということになるでしょうか。

さて、問題は彼が3番めに麦を取り上げた場所です。それは意外にも長谷の大仏から鶴岡八幡宮へと移動する区間でした。ここでは併せてこの地でスイカも生産されていることについても長々と記しており、休暇で鎌倉を巡っている筈なのに、まるで農場視察にでも来たかの様な論述に変わってしまっています。差し当たりスイカ等に関する記述は省略、麦に関する記述のみ引用します。

◯満疇小麦多し。土人云フ、種子ハ赤粰(あかかは)・白毛・オシヤラク等を蒔く。赤(ママ)とオシヤラクとは、粘少シと。肥料ハ十一月頃干魚(ほしか)へ海藻・裙帯(あらめ)菜ノ類を多く混合て用ふ。肥料の気猶地に遺存して効力甚だ大にかつ久し。

(上記同書426ページ)

江島道:盛久碑前の庚申塚碑と江島道
盛久碑前の庚申塚碑と江島道(再掲)
先日「江島道見取絵図」について紹介した際に、甘縄明神を過ぎると周囲が一面畑であったことを記しました。「畑」とのみ記されている場合には、どの様なものが栽培されているかは必ずしも特定出来ないのですが、少なくとも平野が通った時には周辺は麦が靡いていたのでしょう。日本では梅雨がある関係から入梅前に収穫を済ませる必要があることもあって、早生種が多く植えられていた様で(但し上記で平野が「専ら早生種を…」と書いているのが、この時目にしたものが出穂していたためにそう判断したものとは一概に言えません)、早ければ彼が旅行していた4月初旬には出穂が始まっていたかも知れません。盛久碑の塚も、六地蔵の芭蕉の句碑も、そうした麦畑の傍らに立っていたということになります。因みに、この地では肥料として海産物を混ぜて利用しており、効き目が良好であったことを記しています。

他方、夏場はどうだったのでしょうか。平野の書き方ではその時期にスイカを植える畑が多かった様にも読めますが、この辺りははっきりしません。一応「皇国地誌残稿」の長谷村の項も確認したのですが、残念ながら産品に関する欄が空欄になっていました。因みに、長谷村の「地味」の項には

黒壌土ニ繊砂ヲ雑ユルモノ居多其質中ノ上稲梁麦類蓏類蕃薯等ニ適ス水利不便ニシテ時々旱ニ苦ム

(「神奈川県皇国地誌相模国鎌倉郡村誌 神奈川県郷土資料集成 第十二輯」より)

とあり、利水の難しい面はあったものの麦などの生産には向いている土壌であったことを記しています。

こうした光景も、その後の地形図を見ると明治時代後期から大正時代にかけて、江島道の周辺に急速に街区が広がるのがわかります。鎌倉の農村風景が見られたのは明治時代前半くらいまでということになるでしょうか。

この「鎌倉紀行」で取り上げられた他の作物などについては、また触れる機会があれば取り上げてみたいと思います。

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