2014年01月の記事一覧

【旧東海道】その13 酒匂川の渡しと酒匂橋(その6)

前回は、小田原馬車鉄道や小田原電気鉄道と併用した、明治時代中期から後期にかけての歴史を追いました。今回はその先、関東大震災頃から後の歴史を追います。

明治45年(1912年)に架け替えられた酒匂橋ですが、早くも大正時代に入って次の架け替えが行われます。その間全く無事だった訳ではなく、大正3年(1914年)に暴風雨で一度途絶しており、復旧補修が行われています(「酒匂歴史散歩 第一集」による)が、それにしても随分と短期間での再架橋です。

馬入橋の場合も、神奈川県が散々苦労して予算をようやく通して明治41年に架け替えたばかりの橋を、大正12年の関東大震災の際には更新工事実施中でした。何故そんなに早く架替工事が実施されたのか、馬入橋の記事をまとめている頃には理由が見えていませんでした(明治41年の架橋がどの程度の耐久性を見込んでいたかも疑問ではありましたが)。今回酒匂川の事例を調査していて、前回引用した「道路の改良」に、神奈川県の技師の方がはっきりとその答えを記されているのを見て、ようやく腑に落ちた次第です。

然るに本舊橋架設の後自(ママ)車の使用は急速に發達し殊に國府津驛より箱根に至る遊覽自働車の通路に當れる爲橋板の摩損甚だしく僅かに六年を出でざる大正七年に至りては、到底從來の如き小修繕を以てしては、交通の量に耐ふる能わず維持困難を訴ふるに至り、…

(「酒匂橋架換工事報告」神奈川縣技師 桝井照藏、上記誌大正12年第5巻2号115ページより、強調はブログ主)

人力車の轍や馬車の蹄鉄の摩擦でさえ摩耗に苦しんでいた木板張りの橋ですから、更に重量があり、しかもその摩擦で強い動力を地面に伝える自動車のタイヤにはひとたまりもなかったのでしょう。その点では同じく重量があっても鉄路の上を走る馬車鉄道や電車の方が、橋にはまだ「優しかった」ことになります。

創業当時の富士屋自働車の貸自動車 - Wikipedia
創業当時の富士屋自働車の貸自動車
Wikipediaより)
元より箱根では明治維新後から新規の交通手段への志向が強く、馬車鉄道を国府津から箱根湯本まで引いたのもその表れですが、今度は自動車が有望と見るや早い時期から自動車事業に乗り出しています。大正元年(1912年)にはエム・エフ商会が、翌大正2年には小田原電気鉄道が小規模ながら貸自動車業を開業させています。そこに箱根の旅館富士屋が大正3年に「富士屋自働車」を設立して貸自動車事業に参入、元よりライバル関係にあった小田原電気鉄道と激しい事業競争を繰り広げることになります(社史「箱根登山鉄道のあゆみ」参照。因みに富士屋自働車は後に箱根登山鉄道と合併してその競争の歴史に終止符を打ちます)。なお、大正8年には富士屋自働車が乗合自動車業をスタートさせ、12人乗りのバスが国府津と富士屋ホテルのある宮ノ下の間を往復し始め、更には横浜までの長距離バスの運行も始めます。当然車両が大型化しますから、路面に掛かる負荷もそれに連れて増大することになります。

酒匂橋は言わばこの2社の自動車事業競争の煽りを受けた格好で、当初の見込みよりも早く架替を進めざるを得なくなったのでした。丁度国会で新たな道路法の制定に向けた動きがあった頃でもあり、予算の上程には以前ほどの支障はなくなっていましたが、富士屋自働車と小田原電気鉄道間の競争の激しさは県担当者の目論見の更に上を行っていた様です。

…茲に大正七年末の縣會に之が改修費の要求案を提出し工費拾九萬八千圓を以て總延長二百五間、幅員四間參分參厘、徑間五間の鐵筋混凝土(コンクリート)桁橋を架設すべく計畫し、直ちに實施設計に着手すると同時に國庫の補助を申請したが幸いに本縣の計畫を是認せられ大正九年三月工費に對する貮分の壹の補助指令に接したが此の間道路法の新に制定せらるゝあり、且つ交通狀態は愈々變異し自動車の交通頻繁を極め、前設計にては、尙ほ不十分なりと認めらるゝ點尠くなからず、再び設計を變更して工事費を貮拾參萬八千圓に增額し、大正九年九月の臨時縣會の議決を經更に國庫の補助を申請したが、大正十年三月工費に對する參分の貮を補助せらるゝことゝなつて、漸く本橋の改修に對する根本計劃を確立するに至り、…

(上記同論文116ページ、ルビ、強調はブログ主)

少しでも早く工事を進めたいと予算申請を急いだのに、恐らくは上記のバス運行のスタートは当初の想定に入っていなかったのでしょう。設計見直しが必要になって予算上程のやり直し、当初は国庫補助が半分だったところが道路法の制定のお陰か再上程では3分の2に増え、大正10年7月に工事に着手します。完成は同12年7月1日、着工からは丸2年の歳月が必要でした。

先代の酒匂橋が明治45年の完成と馬入橋より4年後だったのに、コンクリート化は馬入橋を差し置いて先に進められたのも、明らかにこの箱根の自動車事業の展開が他に先んじていたからですね。それだけ当時の箱根が絶大な集客力を持っていたからという側面もあるでしょう。勿論箱根以外の地域でも自動車事業の展開は同時期に少しずつ見られる様になっており、また上記の様に横浜までの路線も開業していたということは当然このバスが馬入橋も経由していた訳ですから、引き続いて馬入橋が架け替えられることになったのも同じ理由でしょう。酒匂橋の橋面には当時まだ珍しかったアスファルト舗装が施されたことが「酒匂橋架換工事報告」に記されていますが、これも自動車による橋面摩耗への対策であることは言うまでもありません。

他方、この架橋に際して、それまでかつての渡し場以来の上流側に寄ったルートに合わせて架けられていた酒匂橋を、今の国道1号線とほぼ同じルートに変更しています。「酒匂橋架換工事報告」によれば、既存の橋を仮橋として活用することで工費抑制の意図があったと記しています。また、当論文では橋脚の本数を減らして径間長を拡げることで少しでも増水時の阻害要因を少なくする様に配慮したこと、橋脚はコストを考えて一体型とせず3本柱としたことなどが報告されています。


酒匂歴史散歩 第一集」には、平岡吟舟という酒匂の料亭の主人がこの架橋に際して即興で作ったという「祝酒匂橋開通式、水産試験所開所式」という歌が紹介されています。この中から酒匂橋にまつわる前半部分を引用します。

酒匂橋が、できたかえ、できたとも、

 長さは二百と十余間、

こちゃ東海一の名橋さ、

 どうだい立派だろう。

「ソラ、ピーヤわね、

 鉄筋コンクリートで、四角で丈夫で、

上はアスファウトで、見事に塗り上た。」

(同書2—131ページより引用)

まだアスファルトが物珍し過ぎて、呂律の回らぬ単語になっているのが却って新鮮味を感じさせます。モダンで如何にも丈夫そうな橋が地元に架かって、浮かれている様子が良く伝わってきます。

しかし、この酒匂橋は完成から僅か2ヶ月後に関東大震災に遭って崩壊してしまいます。馬入橋の際にも「土木学会附属図書館」のデジタルライブラリーに掲載された「大正12年関東大地震震害調査報告書」を紹介しましたが、今回もこの報告書から酒匂橋の項を見ます。こちらは工事中だった馬入橋と違って完成後間もなかったこと、被害が特に大きかったことから報告も遥かに詳細になっています。長いので橋の構造を具体的に紹介する前半部分をカット、後半部分を引用します。

イ酒勾橋 (寫眞第三十二乃至第三十五及び附図第二十二参照)

…荷重は8(トン)の自動車を滿載したる場合を採りたるものにして鉛直荷重に對しては强大なる耐力を有するものなり、橋梁の方向は北50度東にして震央の方向と略々(ほぼ)直角をなし、架橋地點は小田原國府津間に於て酒勾川の末流に位し地質軟弱にして震央に接近せるを以て震動極めて激烈に上下動も亦强大なりしものと推せらる。

本橋の震害は道路橋中最も甚だしきものにして全橋(ことごと)く墜落し岸上に立ちこれを望めば數10連の橋桁蔘差(しんし)として河床に横はりその慘状馬入川鐵道橋と相匹敵す、(寫眞第三十二参照)橋脚は悉く破折倒伏し橋桁は凡て河床に墜落せるを以てその被害の經路理由等を尋ぬるに由なしと(いえど)要する橋桁の重量極めて大に橋脚の强度これに伴はざりしに依るものにして、先づ激烈なる震動に依りて强大なる水平力を發生し同時に桁支端の移動を起し橋柱に著大なる偏心荷重を作用せしめ從て或は先づ柱の挫折を生じ或は水平連結桁の破折を起し惹て桁の墜落となりこれに因りて更に橋脚の徹底的破滅を來せしものと察せらる、目撃者の言に依れば左岸即ち國府津側より順次に墜落せるものゝ如く即ちある桁の一端先づ墜落しこれに依て他端の橋脚に强大なる衝撃を及ぼしてこれを破壊し次に第二桁の墜落となり遂に全長に亘りしものと推察さる。

而して桁の支端は先づ多大の移動をなし然る後に墜落せる事は橋脚の或者は支點の原位置より5.6尺を隔てたる位置に於て床版を衝き破り路面上に矗立せる狀況によりて略々推測する事を得(寫眞第三十三参照)尙墜落の際衝撃の爲鐵筋混凝土高欄は大破せり(寫眞第三十四参照)橋臺は震害稍々輕く右岸寄りのものは袖石垣との間に大なる龜裂を生じ左岸のものは上部の土留壁破折せるもその主體は何れも多少の傾斜を爲せるのみにして著しき損害なかりき。(寫眞第三十五参照)

(上記報告書第三巻第一編「橋梁」31〜32ページ、…は中略、ルビはブログ主)


「一枚の古い写真」酒匂橋崩壊
絵葉書「酒匂橋崩壊」(「一枚の古い写真」より)
「一枚の古い写真」酒匂橋付近の警戒にあたる騎馬憲兵
酒匂橋付近の警戒にあたる騎馬憲兵(同上)
馬入川の東海道線橋梁が引き合いに出されていますが、どちらも相模湾の震源地に対してほぼ真横から揺すられる格好になったのが被害を大きくする一因となったと考えられている様です。また、コストダウンのために採用した3本柱の橋脚は、その構造の特性で上部の破損を大きくする結果に繋がったと見立てられており、そのためか後に架け直された時には一体型の橋脚へと変更されています。大正2年に架けられた上流の十文字橋では、他の部分は崩壊したもののコンクリート製の橋脚はこの震災を耐えました。震源との距離の差はあるとは言え鉄筋コンクリート製の初期の橋脚が明暗を分けたことで、耐震構造への考え方がこれによって大きく変わったことは間違いないでしょう。

「酒匂橋架換工事報告」では橋脚の設計に際して耐震性を相応に考慮したことが記されているものの、結果的に見れば関東大震災クラスの地震まで配慮したものとは言えなかった様です。もっとも、日本に限らず近代建築がこの様な大規模な震災に遭うこと自体もほぼ初めての体験でしょうし、耐震性についても特に日本での経験値が織り込まれる前のものであってみれば、不十分なものとなったのは仕方のない面もあったでしょう。

なお、同年10月には酒匂橋の仮橋が開通しています。上記の震災報告に添付された写真にも仮橋と思しき橋の姿が背景に写っています。最終的な復旧工事はそれから3年後の大正15年に完成、これが戦後まで使われることになります。これらの日取りも馬入橋とほぼ同じ、復旧後の酒匂橋の形式も馬入橋と同じプレートガーダー橋で、大規模な震災の復旧が同時期に進められたために構造面でも共通化が図られたといって良さそうです。

次回はまとめ…の予定ですが、もう少し時代を下るつもりです。

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【旧東海道】その13 酒匂川の渡しと酒匂橋(その5)


明治29年修正の1/25000地形図(「今昔マップ on the web」より)
併用軌道を走っていた小田原馬車鉄道はこの区間では描かれていない
前回は、明治21年に開業した小田原馬車鉄道と、それに応じた酒匂橋の架け替えのお話でした。今回はその続きということになります。

その後の酒匂橋は、こうしてスポンサーが付いたこともあってか、架橋維持で苦しんだという記事が出て来ません。その点では、これまで六郷橋や馬入橋で見てきた時と同様に、架橋維持には安定した財源を供給出来る存在が必要だったということになりそうです。

他方、馬車鉄道の会社はその後電化を果たし「小田原電気鉄道」となった後、東海道線が熱海方面に伸びるのに合わせて「箱根登山鉄道」として山岳鉄道事業へと特化するという経緯を辿ります。馬車鉄道が電気鉄道に切り替わったのが明治33年(1900年)、流石に電車が渡るとなると馬車以上に橋に重量が掛かることになるため、この時に酒匂橋も再び更新工事を行った様です。従って先代の橋は約8年で更新されたことになります。なお、その時には周辺の各村との契約は基本線では維持された様です。

その社史「箱根登山鉄道のあゆみ」(1978年)にはこの会社が蒙った水害についてこの様に記しています。

電気鉄道にとって、乗合馬車はこわいライバルではあったが、もうひとつ恐しい敵が控えていた。

毎年のように、夏から秋にかけて海嘯および酒匂川・早川の洪水がこの近隣に暴威をふるっていた。小田原電気鉄道においても、特にこの両河川の洪水には馬車鉄道時代以来悩まされ続けていた。

 …

古い記録類の残存が比較的少ない当社ではあるが、この水禍の資料は意外なほど多い。これは、それらの河川の洪水がいかに大きな問題であったかの証左ともいえよう。

記録の数は、明治期だけでもおびただしい。

(上記書57〜58ページ 「7) 水禍」より引用、…は中略)


「一枚の古い写真」酒匂の松並木の下を走る電車
酒匂の松並木の下を走る電車(明治末期頃)
(「一枚の古い写真 小田原近代史の光と影」
小田原市立図書館編より引用)
社史という性質上、それらの記録を網羅的に掲載することは出来なかったのでしょうが、酒匂川と渡河の歴史を追う立場としてはまさにそれらの記録をつぶさに検討してみたいところで、何とか別の形で公開されないものかと思わずにはいられません。他の記録との整合性を考える限りは、恐らくは大破には至らず小規模な修繕に留まったものが多数を占めるのでしょうが、それでもどの様な破損が多かったのかなど、その頃の架橋技術の水準を見る上では参考になるデータが多いのではないかと期待してしまいます。

また、この社史で取り上げられたのは明治35年(1902年)の海嘯(かいしょう)の際の水害の状況と、その2年後の水害の際の事例でした。


ところが、この明治37年の水害の時にはどういう訳か次の様な揉め事になっています。これも引用としては長いですが、状況が伝わり難いので略さずに行きます。

ついで明治37年7月の洪水をみてみよう。

『再昨日来の暴風雨にて東海岸一帯は非常の損害を受けつつあるが、尚各川の出水は一昨日に至りて漸く増大となり、所在水害を蒙れる有様にて、現に境川の如きは沿川各町村等に氾濫せしが、昨日午後に至り馬入川は下流に於て8尺(2.4m)、花水川は9尺(2.7m)、酒匂川は9尺増水し、小田原電車は危険の為め午後4時より運転中止したり。又酒匂川は上流松田付近に於て1尺6寸(3.2m)増水し落ちたる橋梁大小7、馬入川は上流厚木付近に於て増水1丈6尺(4.5m)に上り流失家屋1戸同町全部浸水舟にて往来するに至る。』(「横浜貿易新聞」明治37年7月12日)

この暴風雨により、酒匂橋は相当な被害を受け、小田原電気鉄道のレールも橋の東側で約30m余が屈曲してしまった。電車は橋上を不通になった。

ここに、新しい事態が発生する。この復旧は、ただ橋を、また屈曲した軌条を修復すればよいというものではなかった。

酒匂村では、酒匂大橋を渡橋するのに橋料をそれぞれから徴収していた。電気鉄道でも一括して、それを収めていたわけである。ところがこの洪水被害により、修復は当然酒匂村で負うべきものであったが、一向に修繕に手をつけないのである。そのうえ国府津からの乗客を東橋詰で降ろし、橋上だけ徒歩で渡ってもらうようにすると、その人々から橋料を徴収するといった矛盾を平気で行うのである。小田原電気鉄道にしてみれば二重払い、酒匂村にしてみれば、徒歩渡橋の橋料は当然徴収すべきものであった。しかも復旧工事は依然として開始されない。

『復旧工事は何れより手を出すかの睨合の姿にて、両者の間に何とか折合着かざれば早速には復旧の模様なし。』(「横浜貿易新聞」明治37年7月15日)

そんなわけで、この復旧には随分日数を要したようだ。次いで「小田原電鉄線路酒匂橋の修復終りたるを以て昨日午前5時30分より運転を開始せり」(「横浜貿易新聞」明治37年7月28日)という記事が見られる。この間半月、電車は酒匂大橋を渡れない状態であった。まことに手間がかかったわけである。しかも、現在、そのいきさつはよくわかっていない。このときの暴風雨はとんでもない問題まで持ち込んだのであった。そして酒匂川は、なにかにつけ、悩みの種となっていた。

(上記書同ページより引用、…は中略)

この妙な対立の背景にどんな反目があったのか、この記事だけでは良くわかりません。「小田原市史」もこの件は取り上げていませんが、何か酒匂村側が小田原電気鉄道に対して不満に感じるところがあったのかも知れません。


とは言え、この時も酒匂橋そのものは機能を維持しており、落橋には至っていません。この他に酒匂橋への災害事例がないか、「小田原市史 別編 年表」から、酒匂橋に関連する項目を拾ってみました。これによると、概ね明治40年以降に集中しています。項目の多くは出典を「横浜貿易新報(後の神奈川新聞)」に負っているので、通信手段が今ほどの発達を見る前の時代にあって当時の横浜の新聞が神奈川県西部地区の記事をどれだけ記事にしたか、その粗密の影響もあると思うのですが、被害の大きな河川の増水が明治30年代には若干少ない傾向はあったのかも知れません。
  • 明治40年8月24〜25日:「台風による大雨、酒匂川・早川・山王川を中心に堤防決壊・橋梁流出、浸水被害、9月6日酒匂橋復旧、飯泉橋・富士道橋は流出して県に移管される」※酒匂橋はこの時は流失を免れてはいるものの不通になっています。
  • 明治43年8月7〜8日:「台風による豪雨、各河川にかかる橋はほとんど流出、堤防が決壊し、足柄下郡の損害額は47万円余りとなる
  • 明治44年8月4日:「豪雨により酒匂橋が流出」
  • 明治44年8月9日:「豪雨により酒匂仮橋が流出、小田原町・早川村では浸水被害」
  • 明治45年3月30日:「酒匂橋が竣工、開通式(橋台に小田原市域ではじめて鉄材を使用)」※橋台という表現は不正確。

このうち、明治43〜44年の状況については、「酒匂歴史散歩 第一集」(川瀬速雄氏著、酒匂八区公民館編)にもう少し詳しい記述を見つけました。

⑥明治43年(一九一〇)八月。出水で橋の中央部が墜落、修理された。

⑦明治四十四年(一九一一)七月、大土用浪で海水が酒匂川を逆流木橋一部流失。仮橋を架けたが、八月、豪雨による出水で、仮橋も残っていた木橋も流失。

翌年新橋が開通するまで(八ヶ月間)舟渡しと徒渉ですごした。

父、(明治二十九年生、平成二年卒)の話によると、荷物を担ぎ駄賃稼をした、芋俵一俵二銭、米俵一俵五銭、若者仲間で稼ぎを競い合った、一日一円は稼げなかったと。

(同書2—129ページより引用)


従って、この明治44〜45年は、小田原電気鉄道も同区間で長期にわたって不通となり、折り返し運転対応を余儀なくされていたものと思われます。かなり大きな損害になったと思われるのですが、社史「箱根登山鉄道のあゆみ」にはこの際の途絶について特に何も記されていません。こうした記録があまり表に出ない傾向があるのであれば、小破による短期間の通行途絶は実際はもっと多かったのかも知れません。

何れにせよ、7月の破損箇所を仮橋で何とか急場を凌いでいたところへ再度の水害で全損になってしまい、最早地元負担で架橋を維持するのは体力的に限界だったのでしょうか。

因みに、上記引用中には「舟渡しと徒渉」とあり、皮肉にも江戸時代初期の渡しの形態がこの期に及んで復旧したことになりますね。それだけ深さを増した瀬が戻って来たのでしょう。富士山の宝永大噴火の影響がこの頃には薄れてきたことを示す、興味深い証言だと思います。「その3」で引用した「皇国地誌残稿」でも流路の変遷が収まってきたとする指摘があり、「大日本国誌」の記述中の明治初期の3本の橋の記述を見ても、西側の流路が水深最大6尺と他の2本に比べて深くなっていたことが窺えますので、その後更にこの傾向が強まったことになるでしょう。

明治45年頃の架橋については、既に詳しく調べていらっしゃる方のブログ「自転車放浪記 (足柄縣ブログ)」を拝見しました。酒匂川の水中に残る橋脚と思しき遺構を巡って詳しく考察されています。ここではそれらの一連の記事から代表的なものへのリンクを張っておきます。

国道1号 酒匂橋の歴史 - 自転車放浪記 (足柄縣ブログ) - Yahoo!ブログ


ここに掲載されている「道路の改良」という雑誌の影印から、この明治45年の酒匂川架橋に関する箇所を引用します。この雑誌は大正8年の道路法制定を機に産官学の土木関係者によって結成された「道路改良会」という会の機関誌の様で、現在は土木学会のライブラリーで全号がPDF化されて公開されています

現在の舊橋は去る明治四十三年縣下の大水害の節その災害復舊工事として國庫の補助を受け明治四十五年一月竣成したものであつて、其の總長二百五間三分、幅二十二尺五寸、橋脚は一組杉丸太六本のもの四十一組を以て構成し上にI型鋼六通を架渡し表面板張とせる桁橋である。

(「酒匂橋架換工事報告」神奈川縣技師 桝井照藏、上記誌大正12年第5巻2号115ページより引用)


「一枚の古い写真」酒匂橋を進行する電車
酒匂橋を進行する電車(明治末期)
(「一枚の古い写真」より)
この記事に記された各部の数値から計算すると、42径間で構成されているこの桁橋の場合、1径間平均で約4.9間、ざっと8.8mの径間長をもっていたことになります。以前見た様にこの橋の下を潜る水運の想定は必要ありませんので、航路を確保するために径間を拡げた箇所を設ける想定はされておらず、全径間がほぼ同じ径間長であったと思われます。それでも、この径間長は六郷橋のそれと比べてもいくらか長め、これを支える橋脚がそれぞれ杉丸太6本で組まれていたというのは、在来型の架橋では多い方(隅田川に江戸時代に架かっていた橋は1組3〜4本)で、径間長が長いのとやはり上を電車が通ることもあってそれなりの補強が必要だったということでしょう。これが明治33年の架橋と同等だったかどうかは明記したものが見当たりませんが、酒匂橋の写真として残っているものを比較する限り、径間をあまり変えていない様に見えるので、同等であったと考えて良さそうです。なお、桁が長くなる分、それを受ける部分に様々補強を加えているのが写真から見受けられます。


こうした構造が馬車鉄道が走る以前まで遡った時と比べてどうであったかは不明ですが、恐らくはこれほどの構造ではなかったのではないかと思います。やはり馬車鉄道や電車との併用によってスポンサーが付き、多少のコストアップを吸収出来たから実現できたということは言えるでしょう。酒匂橋がここまでそれ程の大破に遭わず、比較的小さな補修で乗り切ってきた様に見えるのは、寧ろ優秀だった面もあると思いますが、この構造がどこまで酒匂橋の流失防止に貢献したのかは何とも言えません。また、仮に貢献度大であったとするなら、その様な優秀な桁橋を作り続けられた要因を探ってみたいところです。

とは言え、この明治43年以降の毎年の流失は少々度を超えており、この数年の気象が特に酷かったと見るべきなのか、それとも他の要因が絡むのかは、関東南部の他の地域の被害状況なども含めて検証が必要でしょう。何れにせよ、明治33年の橋は架橋後約10年で流失したことになります。必ずしも流失が原因ではなかったものの、ここまでの歴代の酒匂橋の寿命は大体10年程度、この辺が酒匂橋を木造とした場合の寿命の限度だったということになるでしょうか。

上記の「道路の改良」の記事にもある様に、こうした被害の大きさを重く見て、この明治45年の架橋には国の補助を取り付けています。その直前、明治40年の水害の際に流失した飯泉橋は酒匂川のすぐ上流の橋ですが、これが流失と共に県に引き取られていることから、恐らく酒匂橋も明治43年の流失か、遅くとも翌年の流失に際して神奈川県が引き取ったのではないかと思います。丁度馬入橋が橋桁に鉄骨を組み込んだ頃と一致しているためか、この酒匂橋でも橋桁を鉄骨化する設計が採用されました。馬入橋に県予算が下りた以上、酒匂川も同様の対応になっていくことは必定だったでしょうが、昭和43年以降の度重なる流失は単なる偶然だったのか、それとも県の財政執行の後押しになったのか、その辺りは今ひとつどちらとも言えなさそうです。

こうして架橋された酒匂橋も大正に入って早々にコンクリート橋脚の橋に架け替えられるのですが、この辺りから次回に続きます。

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【旧東海道】その13 酒匂川の渡しと酒匂橋(その4)

旧東海道:酒匂橋より上流を望む
現在の酒匂橋上流の様子
前回は、それまで冬場の仮設だった橋が明治時代初期に常設に切り替えられたこと、及び明治15年に河原も含めて越える橋が最初に架けられたことまでを紹介しました。今回はその続きということになります。

明治20年(1887年)にそれまでの新橋―横浜間から延伸して国府津まで開業した東海道線は、その2年後には箱根山中の急勾配を避けて、かつての足柄路に比較的近いルートで西へと伸びていきました(但し東側は矢倉沢ではなく酒匂川沿いを進むルートになりました)。鉄道に迂回されることになってしまった小田原、箱根、そして熱海では集客が伸び悩み、街の経済が停滞し始めます。明治19年7月に国から東海道線のルートが提示された翌月には、箱根・小田原の戸長・総代が国に対して箱根経由のルートを3案提示し再考を求めますが、敢えなく門前払いになってしまいます(「箱根の近代交通」加藤利之 1995年 かなしん出版による)。このため、これらの地域の有志が、その打開策として打ち出したのが自前の馬車鉄道の開業でした。明治20年11月に東海道上に併用軌道を敷く国府津〜湯本間の申請を神奈川県に出し、翌21年2月に認可が下りました。

一方、前回も引用した「酒匂歴史散歩 第一集」(川瀬速雄氏著、酒匂八区公民館編)によれば、

明治十九年(一八八六)国府津〜小田原間の鉄道馬車敷設を念頭に、強固な橋に掛け替えられた。鉄道馬車は明治二十一年(一八八八)十月、開業された。

(同書2—124ページより引用)

と、まだ馬車鉄道の申請より1年も前、恐らくはその仕様も殆ど固まっていないであろううちから、早々と架け替えを先行させたことが記されています。この日付はもう少し裏付けを探したいところですが、地元の方の記録という点では確度はそれなりにあるのでしょう。

この日付は意外に無視できない問題を孕んでいます。もしもこの通りであれば、いくら例年修理の連続だったとは言え、まだ架橋後4年しか経っていない橋を馬車鉄道の見込みだけで早々と更新したことになります。これ程の短期間ではまだ最初の架橋で負った負債は償還し切れていない筈ですから、それでも敢えてこの様な決断に踏み出せるということは相当の裏付けがなければ出来ないでしょう。恐らく架橋の関係者が馬車鉄道会社設立に直接携わっていたか、設立発起人の方と深い交流を持っていたかのどちらかということになるだろうと思われます。と同時に、この馬車鉄道は意外に早い時期から構想されていたことになりますし(ということは、国に送った東海道線ルート案は最初から採用されまいという見込みがありつつ「ダメ元」で提出したのでしょう。国もそこを見透かしていたのかも知れません)、またそこに期待する人も多かったのでしょう。

とは言え、今まで知られている小田原馬車鉄道の開業の歴史からは、あり得ない訳ではないもののかなり隔たった日付であることも事実です。それだけに、繰り返しになりますがやはりもう少し裏付けになるものの提示が欲しいところです。

馬車鉄道は上記の通り明治20年の認可後直ちに工事が始められ、翌21年には国府津〜小田原〜箱根湯本間の開業に漕ぎ着けました。しかし、これによって既成の「稼ぎ」を奪われることになる人力車業者や馬車業者などから投石・置石などの強硬な妨害に遭い、一時は営業を1ヶ月ほど休止せざるを得ない事態に陥ります。またその後も、人馬にかかる諸経費の高騰などで、当初は経営が安定していませんでした。そこで、明治24年頃には役員が更迭され、経営改善に乗り出します。

他方、明治19年に更新したばかりの酒匂橋も、明治23年頃には老朽化が思った以上に早く進み、橋を更新しなければならない状況に陥ります。翌年の架替に際しての願書中にもそのことが記されています。

本村酒匂川橋梁ニ付テハ、昨廿三年中現今ノ橋梁ハ老朽ニ及、危険(すくな)カラサルニ付、更ニ架設可致旨(いたすべきむね)御論示有之(これあり)、…

神奈川県知事 内海忠勝殿

(「酒匂川橋梁架設願」中副願書より、明治24年7月、「小田原市史 史料編 近代Ⅰ」491ページより引用、…は中略、ルビはブログ主)

この文中に酒匂橋の架け替えについて「更ニ架設可致旨御論示有之」と敬語が使われていることから、指示を出したのはこの副願書の宛先である神奈川県ということになるでしょう。東海道という重要路線の橋だけに、県も基本は地元に任せつつも手放しには出来ず、視察などは行っていた様です。


酒匂橋の老朽化が想定以上に早く進んだ理由について、この請願の最初の方で「新橋ハ良材ヲ用イ」としていることから考えると、関係者間では使用した橋材が良質のものではなかったから、という見立てをしていたことが窺えます。こうした「より良い部材を使っておけば橋はもっと長持ちする筈」という考え方は、以前も見た通り江戸時代からの職人に共通した見立てで、その点でこの見立てそのものを否定することは出来ません。

が、実態は馬車鉄道や馬車による蹄鉄掘れ、人力車や馬車などの轍掘れ、交通の多様化に伴う荷重増加など路面負荷の増加、交通量自体の増大、更に酒匂橋が河口に特に近いことから遡上する海水の影響、酒匂川の流速の影響等々、老朽化促進に繋がりそうな理由は他にも多々考えられるので、仮に良材が入手出来ていたとしても、それだけで果たして想定通りの寿命を維持出来たかは頗る疑問です。

広重「江戸名所百景」より「四ツ谷内藤新宿」
歌川広重「江戸名所百景」
より「四ツ谷内藤新宿」
Wikipediaより)
馬が履いているのが「馬履」

経営再建中だった馬車鉄道の立場としては、地元3村(うち、網一色村と山王原村は小田原町と合併済み)と良好な関係を保つ必要があり、多少の負担をしても酒匂橋の更新に前向きに協力する必要があるという判断に立っていたのでしょう。橋面に負荷を与える「張本人」となっている自覚があればなおのことと思われます。架橋関係者も、これだけ短期に更新を重ねれば、か細い橋銭徴収では負債を償還し切れないのは目に見えており、酒匂橋利用者の中で大口の出資者たり得る馬車会社の一層の協力がなければ、これ以上の更新が先に行かない状況だったのでしょう。

果たして、両者の間で交わされた酒匂橋更新の約定書はこの様になりました。全文を引用すると膨大なものになりますので、出来るだけ要点を絞ってみましたが、それでもまだ長いですね。

第一条 橋梁は小田原馬車鉄道会社に於て工費を負担し、酒匂村山崎助右衛門、鈴木重一外四拾四名より提出したる別紙工事設計書及ひ図面之通り名義を以て架設する事

第二条 新橋開通の日より向ふ満拾ケ年間、大小渾ての修繕を馬車会社に於て負担し、其期限間別紙渡橋賃金表に拠り、渡橋及ひ渡船賃金を馬車会社に於て悉皆領収す、尤も該期満限のときは、仮令収支損益其他如何なる事故ありと雖とも、即日第拾条の通り履行すべき事…

第五条 馬車会社は第二条の権限を収受する為め、酒匂外二ケ部に於て現橋架設に要したる負債の残余償還の内へ、新橋開通の日…金四千百円を贈与すべき事

第六条 新橋は現橋の下流に架設し、其道路敷地に要する民有地は…新橋工事着手の日より第二条・第三条期限内、普通田畑小作料を以て馬車会社へ貸与すべき事

第八条 左に列したるものは無賃渡橋及ひ渡船通行するを得べき事

一酒匂外二ケ部の人民は勿論、其雇人及ひ建築土工等の為め一時使用する人員并に物品

二酒匂外二ケ部人民の所有する荷馬車、牛車、人力車、駕籠及ひ牛馬、其他自家用に属するもの

三酒匂外二ケ部人民にして、売買、交換、譲与、若くは収受する魚類、野菜、土石、竹木、其他一切の物品を車輌及ひ牛馬等に積載し行くもの

四酒匂外二ケ部人民の祝儀及葬儀に関する総ての人員及ひ物品

五酒匂外二ケ部人民の親戚の者にして、三ケ部に所用を弁する為め、三ケ部人民の付添あるもの

第九条 酒匂外二ケ部の住民に限り、左の区別に従ひ、無賃又は賃金を減額し、渡橋及ひ渡船通行するを得べき事…(注:三村の人が旅客・荷物運搬業のために使う際の条件が決められている)

第十条 現橋は開通の日現在の儘無代価にて馬車会社に譲与し、新橋は第二条・第三条満限の翌日現在の儘無代価にて山崎助右衛門、鈴木重一外四拾四名に譲与し、新橋存在中は山崎助右衛門、鈴木重一外四拾四名に於いて修繕の義務を負担し、馬車会社の車馬乗客、其他営業に属するものは総て無賃渡橋せしむ、尤も水火震災、暴風波の為め毀損を生したるときは、双方立会検査の上、其修繕費三分の一を馬車会社より支出すべき事

明治廿四年六月五日

(「小田原馬車鉄道酒匂橋梁架設約定書 明治24年6月」、「小田原市史 史料編 近代Ⅰ」486〜489ページより引用、原文カタカナを平仮名化、…は中略、強調はブログ主)


旧東海道:酒匂橋左岸橋詰の植え込み
現在の酒匂橋左岸の植え込み
このやや不自然なスペースが
架橋の経緯と関連するか否かは今のところ不明
左の標識については目撃事例もあり
諸々の条件を見ると、旧3村にかなり有利な契約になったと言って良いのではないでしょうか。この時点でどの程度負債が残っていたか不明ですが、馬入橋の架橋の際にかかった金額を思い出してみるに、約定書通りに遂行されたならば、この時払い込まれた4,100円という金額は、ほぼ満額に近かったと見て良いでしょう。しかも、馬車会社のお金で新しい橋を架けて3村に無償譲渡(旧橋を馬車会社のものとしたのは、撤去後の部材を枕木などに有効活用する意図があったのでしょうか)、契約期間中の修繕費も馬車会社が持つなど、費用負担のかなりの部分が馬車会社側に付きました。加えて、旧3村の人々は関係者の大半を含めて無賃で橋を渡れる…などなど、良くもこれだけの条件を経営再建中の馬車会社が飲んだと思います。恐らくは、経営が軌道に乗ればそれだけの負担をしてもペイするという見込みを馬車鉄道が持っていたのでしょう。

何れにせよ、これによって資金面に目処が立ったところで直ちに酒匂村会議を通し、引き続き橋銭を徴収する許可を県から取り付けた上で(上記の県宛ての願書はその申請が目的でした)、酒匂橋は無事更新工事に漕ぎ着け、翌明治25年に竣工した様です(「小田原市史 別編 年表」による)。

次回も引き続き、酒匂橋と小田原馬車鉄道、更に小田原電気鉄道との関係を見ていきます。

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【旧東海道】その13 酒匂川の渡しと酒匂橋(その3)

旧東海道:網一色八幡神社
網一色の八幡神社
江戸時代の東海道はこの神社の
参道前を通っており、その道筋は
明治時代中頃まで維持された
前回は酒匂川の渡しの江戸時代までの様子を見ました。今回から明治時代以降の架橋の歴史を追います。

馬入橋の場合も明治時代の歴史がなかなか追い切れなくて難儀しましたが、酒匂川の場合もまとまった資料があまりありません。「小田原市史」も酒匂川の渡しや架橋の歴史については殆どと言って良いほど触れていませんし、関連しそうな資料もなかなか出て来ません。それでも何とか見つかったものを繋ぎ合わせてみたいと思います。あるいは未見の史料との齟齬を来たしている場所があるかも知れませんが、その点は御指摘を戴ければ幸いです。


酒匂橋、つまりかつての酒匂川の渡しに最初に架橋された経緯について、比較的詳しく語っているのは「大日本國誌」かも知れません。

酒勾橋

足柄下郡酒勾村字道南ニアリ酒勾川ニ架シ網一色村ニ通シ東海道ニ係ル長百九拾八間(注:傍らに「四尺」と追記を施した様に見える)幅三間木製明治十四年辛巳本村及ヒ網一色山王原三村ノ人協議シテ民費を以テ之ヲ架シ同十五年壬午二月ヲ以テ成ル

 …

明治ノ初メ三木橋ヲ架ス東端長拾七間水深壹尺許中間長九間深八寸許西端長七拾間深壹尺ヨリ六尺ニ至ル幅各貳間半同十四年ニ至リ更ニ之ヲ改造シテ今ノ一長橋ヲ作レリ大ニ行旅ニ便ス

(相模国 第一巻 ゆまに書房版375ページより引用、…は中略、強調はブログ主)


東海道分間延絵図:酒匂川仮橋
「東海道分間延絵図」酒匂川の「仮土橋」(再掲)
つまり、前回も触れた様に、当初は渡し場時代の仮橋をそのまま常設化した様な形で架けたのですが、その後かつて渡し場を運用していた酒匂村、網一色村と山王原村が相互に出資して酒匂川全体を越える橋を架けたのでした。

最初に江戸時代までの仮橋を常設化したのがいつ頃なのかははっきりしません。ただ、「明治小田原町誌」(片岡永左衛門編著 小田原市立図書館郷土資料集成)の明治6年(1873年)8月28日の項にはこう書かれています。

両陛下宮之下温泉より還幸、当駅行在所ニ御着。

 天皇陛下は午後二時御出門。御乗馬に而足柄県庁及ひ裁判所に臨幸あり。酒膳料を賜る。夜に入り天候一変し大風雨となり酒匂橋流失し、為に廿九日御駐輦被仰出、三十日船橋を架し御通過あらせらる。…

(上記上巻173ページより引用、強調はブログ主)


旧東海道:小田原宿片岡本陣跡・明治天皇本町行在所跡
小田原・明治天皇本町行在所跡碑
旧片岡本陣の跡地でもあり、編著者の
片岡永左衛門はその明治時代初期の当主
後に小田原町の助役を勤めた人物
ここで言う「酒匂橋」がもし明治天皇の通行を意識して架けた仮橋であれば、恐らく「酒匂橋」という表現にはならず、「仮橋」などの表現になるのではないでしょうか。つまり、この時点では既に橋は常設化されており、それがタイミング悪く天皇通過直前に流失してしまった、ということになるのではないかと思います。とすると、かなり早い時期に常設化を果たしていたことになります。明治政府が架橋促進に向けて橋銭徴収等の指針を出したのが以前も触れた通り明治4年のことですから、酒匂川の渡し場を運用する各村もそれを受けて逸早く常設化に動いたのでしょう。

なお、「皇国地誌残稿」の「酒勾村」中、「酒勾川仮橋旧川越塲」には次の様な一節があります。

サテ宝永四年富岳焼碎砂礫障塞セル以來ハ水路時々變遷シテ定マラザリシガ明治初年ニ至り漸次川瀬モ定マレルニ因リテ三假橋ヲ架セリ而シテ其營繕ノ如キハ都ベテ三ヶ村ノ民費ナレバ行客一名ヨリ金五厘車馬等之ニ準ズノ橋料ヲ收ム

(「神奈川縣皇國地誌殘稿(下巻)神奈川県図書館協会郷土資料編集委員会編 154ページより引用)

これを字面通りに解釈すると、明治時代に入ったと同時に架橋運用をスタートさせたことになります。「酒勾村」の項の奥付は「明治十八年十月一日稿」とあり、「總閲/神奈川県令 沖 守固」と一通りの編集を完了させた状態のものであることが確認出来ますので、ひとまずの精度のある記述ではあると思われるものの、「明治初年」を「明治元年」と同義と解釈してしまうと、上記の橋銭徴収の許可など制度面で問題のある不整合が出ますので早過ぎると考えます。この場合の「明治初年」は「大日本國誌」にもある通り「明治初期」位の意に解するのが妥当かと思います。なお、この頃から酒匂川の流路の変遷が収まってきたという指摘が成されているのが注目されます。

因みに、「小田原市史 別編 年表」では明治11年(1878年)9月15〜16日の項に

暴風雨、酒匂川・中村川堤防決壊による洪水被害、酒匂橋が流失

とありますが、時期的に見てこれも最初期の橋だったことになります。前年にも7月25〜26日に暴風雨によって河川橋梁はじめ多々被害が出たことが記されており、「酒匂橋」の名称こそありませんが状況から見て流失などの被害があった可能性は十分に考えられます。元々が「流失已む無し」という構造の橋ですから、この程度は想定のうちだったとは思いますが、その都度早急な再架橋が必要ですから、例年の様にその負担が必要になることを考えれば、なるべく早い時期により高度な架橋へと切り替えたいという願いは当初からあったでしょう。

ところで、馬入川の場合には足柄県の時代から県が積極的に関与していましたが、酒匂橋の場合はその様な積極的な県の関与があったことを示す文書などが見当たりません。無論、県の積極関与を示す文書などが今後発見される可能性もありますが、現時点ではその点を具体的に知る手掛かりはありません。確かに馬入川の方が長大な橋が必要ではありますが、重要度という点では酒匂川も引けを取らず、難易度もさほど変わらないと思えるにも拘らず、こういう差が出たということは、六郷橋の事例の様に地元が積極的に事業化する機運を見せていたからということになるのでしょうか。それとも、馬入橋の場合は馬入村1村で長大な橋を賄うことになってしまったのに比べれば、酒匂橋では3村に負担が分散されるので多少負担が軽い点を考慮したのでしょうか。

なお、上記「皇国地誌残稿」の記述から、明治初期から橋銭徴収が行われていたことがわかります。まだ仮橋の状態でしたが、この状態でも国から橋銭徴収の許可が得られたということなのでしょうか。ただ少なくとも、その後の経緯を見ると、なるべく早く人力車等の交通の多様化に対応した橋を架けようという意識が当初からあったのは確かでしょう。資金が足りないので当初は仮橋と変わらない水準のままで橋銭を集め、以後の架橋の際に少しでも足しに出来れば、というところでしょうか。その様な動きであったとすれば、地元の「やる気」を見て県の方は手を引いた可能性は確かにありそうです。ともあれ、明治14年から工事を始めた新橋は、晴れて翌15年に竣工、供用開始しました。「迅速測図」には恐らく、この頃の状態が反映されていると思われます。酒匂川の河口に多数の中洲が出来ているのが良くわかります。また、中洲や付近の海岸に「礫」の字が記されており、前回見た通り礫の勝った川底であったことが裏付けられます。

もっとも、その際に地元の村々が架橋時の技術的な課題をどの様に考えていたかは気になります。酒匂川の場合は冬には毎年架橋していたとは言え仮橋ですし、万一冬場の橋が流された場合は再架橋はしない運用でした。それで実際に冬場に橋が流された事例がどの程度あったかは不明ですが、少なくとも夏場の増水時に橋を耐えさせた経験はなかった筈です。明治15年に架けた橋がどの様な構造であったか、委細がわからないので馬入橋との単純な比較は出来ません。

敢えて酒匂川の架橋上有利な点を探すと、それは水運の有無でしょう。馬入川の場合は明治時代初期にはまだ水運が健在でしたから、橋の下を舟が通れる様に嵩上げしなければなりませんでした。これに対して酒匂川では、前回触れた様に渡し場の差し障りになる様な水運はありませんでしたから、橋の下を通過する舟のことを配慮する必要がありません。少なくとも馬入橋に比べれば、橋脚の高さを満水時の水位以上に大きく引き上げる必要はありません。但し、増水時に流木などの浮遊物が流れて来る可能性に配慮すると、あまり極端に桁下を低く抑えるのは考えものです。

地元の「酒匂八区公民館」編、川瀬速雄氏著(恐らくペンネームと思われ、記述中相互の齟齬から複数名の方の可能性もありますが、何れも地元在住の方の子孫の様です)の「酒匂歴史散歩 第一集」という私家版の資料があります。これによると、

…通橋料一名八厘を徴収した。筆者の父(明治四年生、昭和十九年卒)の話によると、此の橋出水の時は橋杭に「流木」や「ごみ」が引かゝり堰のようになり、しばしば通行止めになった、橋番が絶えず見廻り、通橋の可否を決めていたと、そして、毎年修理補強がなされたいた(ママ)と云ふ。

(同書2—124ページより引用)

この時期の橋の径間数などが不明ですが、この増水時の状況から見てもやはり橋桁下を低めに抑えていて流木などを流し難い構造だったかなという気がします。それでも何とかもってはいたものの、かなり心許ない状態ではあった様です。

次回はこの橋が架け替えられていく事情を見ていきます。

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【旧東海道】その13 酒匂川の渡しと酒匂橋(その2)

前回は酒匂川の地形上の特徴を見ました。今回は江戸時代以前の酒匂川と渡し場との関係を見ていきます。

酒匂川の江戸時代には、六郷川(多摩川)馬入川(相模川)にはなかった影響が加わってきます。この川の場合、江戸時代初期に大幅な瀬替えが行われていることと、江戸時代中期以降非常に長きにわたって自然災害に悩まされ続けるということが起きます。まずはそこから話を始めます。

「足柄歴史新聞 富士山と酒匂川」中世の流路
酒匂川の中世の流路
(「足柄歴史新聞 富士山と酒匂川」より)
「足柄歴史新聞 富士山と酒匂川」近世の流路
近世の流路(同左)


松田付近の土地条件図(「地理院地図」より)
酒匂川と並行して複数の旧河道が描かれている
この2枚の図は「足柄歴史新聞 富士山と酒匂川」(足柄歴史再発見クラブ 18ページ)より引用しましたが、酒匂川は中世末期には現在よりも足柄平野の西寄り、平野の中央付近を複数の分流となって流れていた様です。現在でもかつての流路付近に旧河道や自然堤防などの微地形を確認することが出来ます。これが、徳川家康の江戸入りに際して小田原城に封ぜられた大久保忠世(ただよ)忠隣(ただちか)親子によって大規模な瀬替え工事が行われ、それまでよりも東寄りの、ほぼ現在の流路へと付け変えられたのです。河口付近の位置はあまり動いてはいませんが、その間の流路はそれまでよりも幾らか標高の高い場所を流れる様になりました。こうする事によって、酒匂川の流路を整理して広い耕地を作り、併せて高所に配置した川から灌漑用水がより広範囲に行き渡る様にした訳です。

こうした大規模な瀬替え工事は、江戸時代の初期に大河川、例えば大井川や富士川などで行われていたものと同質のものでした。長い戦国時代が終わり、戦乱で荒廃した農地を一刻も早く復興し、更には新たな農地を大幅に開拓して経済を活性化させたい…これは、この時期の領主が誰でも考えたことでしょうから、大規模な農地開拓の意図を持った河川の大掛かりな瀬替えがこの時期に集中したのは、単なる偶然ではなかったでしょう。出来ればこの開発の歴史も深く追ってみたいところではあるのですが、そちらが長くなると渡し場の話に戻って来られなくなりますので、今回はその紹介だけに留めます。より詳しいことが知りたい方は「小田原市史 通史編 近世」の「第2章第1節 大久保氏の領国経営/寺社保護政策と酒匂川の築堤」(76〜80ページ)か、上記の「足柄歴史新聞 富士山と酒匂川」を御覧になるのが良いでしょう。特に後者は子供向けにまとめられたものですが、図版も多いので大筋を理解するにはこちらの方が良いかも知れません。

ここで酒匂川の渡しの話に関して気になるのは、瀬替えが酒匂川の渡しに与えた影響の度合いですが、恐らくは限定的なものに留まったであろうとは考えられるものの、それを実際の記録などから推し量ることは難しくなっています。何故なら、その後のとある自然災害の方が、渡し場に遥かに大きな影響を与えたので、それ以前の影響を見極めることが出来なくなっているからです。とある自然災害、それは富士山の宝永大噴火(宝永4年・1707年)でした。噴火の影響は相模川付近でもなかった訳ではありませんが、流域がまともに富士山麓にあり、噴出物が一番多く降り注いだのが酒匂川流域ですから、その影響の大きさは相模川流域の比ではありませんでした。

大久保親子による瀬替え自体も、この噴火後に酒匂川が流してきた大量のスコリア(富士山由来の玄武岩質の火山噴出物)によって瀬が埋まり、堤防を決壊させて旧流路へと川筋が戻ってしまうなど、非常に大きなダメージを受けました。ただでさえ流量の多く、流れの急な川が埋まったのですから影響が深刻になるのは必定で、その後半世紀以上にわたって一帯はその復旧に苦しめられ続けることになりますが、これも今回の話の流れの中では割愛せざるを得ません。これについても上記書に委細が記されています(「小田原市史 通史編 近世」では、第6章全体がほぼこの災害に関する記述に割かれています)。

ただ、河口に流れ着いた大量のスコリアはそこでも瀬を埋めてしまったため、酒匂川の渡しは渡しの方法自体を変更せざるを得なくなります。

酒匂川徒渉の創始については明確ではないが「伝馬衆十三人・河越舟方四人可残置事」と『相州文書』には見え、伝馬業者・渡人足と問屋との関係が推察でき、すでに天正の段階で伝馬制の形成とともに渡船制が採用されていたものと思われる。徒渉を実施したのは比較的早期で、渡船・徒渉の併立という方法がとられていたのであろうと推察する。しかし、全面的に徒渉に移行したのは

酒匂川越立之儀、往古船越立之儀、往古船越ニ仕候処、川瀬相変シ船入不申候節ハ歩行越モ間々仕候処、去宝永四亥年、富士山焼砂降リ積、川瀬格別ニ変化、何分船入不申候ニ付、渡船相止候

とあって、宝永四(一七〇七)年の富士山の大噴火による降灰で渡船不能を決定的にしたものと理解できる

注:

  • ⑷『相州古文書』第一巻 貫達人編
  • ⑸「往古船渡相止歩行越相成候」(『酒匂川旧記』有信会文庫)以下記載のない文書はすべて『酒匂川旧記』史料である
  • ⑹同右

(「近世における徒渉制について—酒匂川徒渉を中心に」宇佐美ミサ子 「交通史研究 第六号」昭和56年3月 42ページより引用、強調はブログ主)


東海道五十三次 (浮世絵) ~小田原宿(保永堂版)- Wikipedia
歌川広重「東海道五十三次」小田原宿
(保永堂版)(Wikipediaより・再掲)
今では江戸時代の酒匂川の渡しは徒渉だったと一般的には理解されており、歌川広重が描く「東海道五十三次」の小田原の絵では、前回見た通り有名な保永堂版をはじめ一貫して酒匂川の徒渉の図を描いていたりしますので、あの渡し場がかつては部分的にせよ舟渡しだったとは気付いていない人も多いのではないかと思います。実際は、富士山が大量に降らせた火山灰によって川が埋まってくるまで、基本は舟を使い、浅瀬だけ徒渡という併用によって渡っていたことが、この論文中に引用された史料から窺えます。


「箱根八里-小田原宿の景観」小田原城下図屏風から
小田原城下図屏風から右側
(「箱根八里-小田原宿の景観」より引用)
酒匂川の位置に舟が描かれている
また、江戸時代初期(17世紀前半頃か)の景観を描いたと考えられている「小田原城下図屏風」(「箱根八里—小田原宿の景観—」小田原市郷土文化館 所収)にも、酒匂川の舟渡しの様子が描かれており、かつての様子を僅かながら窺うことが出来ます。

もっとも、かつては舟と徒渉が併用だったということは、1本の瀬でそれ程の水深の差が出来ているというのも不自然ですから、恐らくはその頃も大小複数の瀬に分かれており、舟が必要になる深い大きな瀬と、舟が入れられない浅い瀬によって渡し方を変えていたのでしょう。舟なら少ない人数で多数の通行客を渡すことが出来るので、本当ならば全区間を舟渡しとするのが理想の筈ですが、こういう併用の場合、舟渡しの人足と徒渡りの人足が別々に要るでしょうから、かなり負担の厳しい渡し場運用だったのではないかと想像します。因みに、徒渉のみの渡しになった後の運用の実態が、「新編相模国風土記稿」の「酒勾村」の項に記されています。それによると、渡し場の人夫は定員319人、これを左岸の酒勾村164人、右岸の網一色村62人、山王原村93人でそれぞれ受け持ち、平常は毎日両岸各10人ずつの計20人が交代で勤め、大名行列などの大通行の際は319人総出で、それでも足りなければ酒匂川沿岸の村々に助郷を頼む、といった状況で、舟渡しと比べて桁違いに人足を必要とする運用であったことは明らかです。舟渡し併用の時代はその分徒渡りの人足が担当する区間が短かったことになるので、幾らか少ない人数であった可能性は少なからずあると考えられます。但し、酒匂川の渡し全体で必要だった人足數の変遷がどの様なものであったかはわかりません。

東海道分間延絵図:酒匂川仮橋
「東海道分間延絵図」に描かれた
酒匂川の3本の「仮土橋」
こういう川は自然状態でも洪水の度に瀬が変わったりしやすいので、都度渡し場の位置を微調整しながら運営していたのではないかと想像します。その傾向自体は宝永大噴火後もさほど変わっていなかった様で、徒渉化後は冬場の渇水期、具体的には10月5日から3月5日の間(「新編相模国風土記稿」による。史料によって日付に若干ばらつきがあります)には仮橋を架けていましたが、瀬が複数あるためにその数だけ橋が架かっていました。幕末の時点では3本の仮橋を架けていたことが「東海道分間延絵図」にも描かれており、これがその後明治維新を迎えて常時架橋運用される際に引き継がれることになります。

因みに、馬入川の場合には川を上下する水運が大規模に発達していましたが、酒匂川の場合、江戸時代に水運を営みたい旨の請願が流域の数村から提出された記録が残っています。しかし、この請願には別の村々から反対意見が寄せられるなど、最終的に聞き届けられて実際に水運が運用されたかどうかについては定かではありません。また、その認可の条件も酒匂川の渡しの上流の河岸までとし、渡し場に影響がない様にする旨の制限が付いていました。従って、馬入川の場合と違って、酒匂川の水運が渡し場に影響する可能性はほぼ皆無だったと考えて良いでしょう。もっとも、仮に舟運を実現できていたとしても浅瀬の多い急流の川では、高瀬舟を使っても効率の良い運行が出来たとは考え難く、あまり大規模化することは出来なかっただろうとは思います。

さて、六郷川や馬入川を取り上げた際には、道役善兵衛の「砂川」というキーワードを盛んに取り上げました。川底が砂であることによって橋杭が根掘れ、つまり洗掘(せんくつ)が進んでしまうことに耐えさせる手法を持っていなかったことが、当時の架橋技術上の制約になっていたのではないか、という話だった訳ですが、酒匂川の場合はどうだったのでしょうか。


F・ベアト「酒匂川の浅瀬」
F・ベアト「酒匂川の浅瀬」慶応3年(1867年)か
(「F.ベアト写真集2」(明石書店)より引用)
河原に礫が目立つ
宝永大噴火によってスコリアが大量に川底に入った、という状況から考えると、一見川底が砂地化していた様に思えます。実際、上記に引用した史料でも「焼砂」という表現が使われており、川に砂が入って来たという認識を当時の人も持っていたことがわかります。しかし、幕末にF・ベアトなどによって撮影された酒匂川の渡しの写真数点を見る限り、河原は比較的大きな礫で埋まっている様であり、「砂川」と呼ぶ様な川底ではなかった様に見えます。


恐らくこれには、前回取り上げた酒匂川の急流振りが関係しているのでしょう。川の流れが急だということは、それだけ川の土砂の運搬能力も高まり、より大きな礫が下流へと流れやすくなります。しかも、酒匂川は山を出てから河口に辿り着くまでの距離が比較的短いので、流下する礫が削られて小さくなる前に河口に流れ着くことになります。宝永大噴火後には、確かに大量のスコリアが大量に流下する様になったものの、一緒に流れてくる礫も相応に多く、全体としては川底の様子をそれほど変えなかったのではないかと思います。

旧東海道:現在の酒匂川の渡し付近の様子
現在の酒匂川の渡し付近の様子(小田原側から)
高水敷は草で広く覆われる様になっている
出来ればこの辺りを現在の景観から探れれば良いのですが、酒匂川も他の河川同様、大正時代から高度成長時代にかけて大量の砂や礫が土木工事の骨材として採取され(現在は禁止されています)、更に三保ダム建設をはじめとする近年の治水工事の影響も多々ありますので、果たして何処まで江戸時代頃の状況と同じと言えるか、難しくなってしまっています。ただ、現在の酒匂川橋の下の水中を覗き込むと礫が勝っているのを観察することが出来、恐らくは当時の河原もあの様な感じの箇所が多かったのだろうと思えます。

これらの点を念頭に置きつつ、次回から明治維新後の架橋の歴史を追います。

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