2013年12月の記事一覧

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【江島道】「見取絵図」に沿って(その10:七里ヶ浜―2)

前回に続いて七里ヶ浜ですが、今回はここで撮ったものを元に改めて腰越側から進み直します。

江島道:片瀬東浜のトビ
片瀬東浜のトビ
江島道:ワカメを干す柵とトビ
ワカメを干す柵とトビ
序でに、袂浦の回で紹介できなかった写真を2枚だけ。かつての「袂浦」は、今は「片瀬東浜」等という名で呼ばれることが殆どです。この浜で餌付けされたことが切っ掛けで増えてしまったのが、このトビ。昔から「鳶に油揚げをさらわれる」とは良く言われますが、今ではこの浜の観光客が手にしている食べ物を背後から掻っ攫っていくので、油断がならない存在になってしまっています。

もっとも、彼らも「人間が手にしている」ことが「食べられるもの」を識別するポイントになっている様で、こうして人間が柵に干したワカメも人間が食べているものだとまでは気付いていない様です。まぁ、猛禽類の彼らが魚はともかく海藻類までは食べようとは思わないのでしょうが…。

江島道:小動の漁港で天日干しにされるワカメ
小動の漁港で天日干しにされるワカメ
天日干しのワカメは小動の漁港でも見掛けました。柵が足りないのか、それとも既に乾燥が進んだ分なのか、砂浜の上に蓙を敷き、その上に並べたワカメを木材で押さえてあります。

因みに、この付近で採れる海藻について、「新編相模国風土記稿」中「江島」の「海」の項には

水草には海苔幅海苔米海苔の差あり海雲茂豆久(もずく)鹿尾菜比茲支茂(ひじきも)◯按ずるに天正七年、北條陸奥守氏照が出せし江島留浦の掟書にも他領の獵師みるひしき體の物迄、取手不可入云々と見えたり、等なり、

(卷之百六 鎌倉郡卷之三十八、雄山閣版より、ルビはブログ主)

と記しています。当時と今とで海産物の流通事情などが異なりますので、主力の海産品もそれに合わせて変わってきた、ということになりそうです。「風土記稿」に記されている中で、今も昔と変わらず江の島の名物となっているのは「榮螺子佐々江(さざえ)」ということになるでしょうか。

江島道:腰越付近から江の島方面の眺め
腰越付近から江の島方面の眺め
江島道:稲村ヶ崎付近での江の島方面の眺め
稲村ヶ崎付近での江の島方面の眺め
今は江の島やその周辺も江戸時代とは大分異なる姿になってはいますが、それでも当時を偲べなくなる程ではないでしょう。鎌倉方面から江の島へ向かう旅人は、こんな感じで次第に近付いて来る江の島を眺めながら七里ヶ浜を歩いていたのでしょう。

右の写真は菅笠を被った人がたまたまいい感じに画角に収まりました。

江島道:七里ヶ浜に落ちていたウニ
七里ヶ浜に落ちていたウニ
江島道:七里ヶ浜に落ちていたアワビ
七里ヶ浜に落ちていたアワビ
江島道:七里ヶ浜に流れ着いた流木
七里ヶ浜に流れ着いた流木
また、当時の紀行文・道中記に七里ヶ浜に落ちている貝や石を拾いながら歩く様子が書かれているものがいくつかありました。この日は生憎と「桜貝」にお目にかかることは出来ませんでしたが、それでもウニやアワビなどが浜に打ち上げられているのを見ることが出来ました。ウニは拾いながら歩いている人もいました。

この時目にした流木はかなり大きなものでした。何処から流れ着いたのでしょう。

江島道:七里ヶ浜に埋まる岩塊
七里ヶ浜に埋まる岩塊
江島道:海中に岩塊があるのが見えている
海中にも岩塊があるのが見えている
江島道:七里ヶ浜に落ちている石の断面
七里ヶ浜に落ちている石の断面
江島道:七里ヶ浜の防波堤の下にかつての崖が覗く
七里ヶ浜の防波堤の下にかつての崖が覗く
一見すると砂だけしかない様に見える七里ヶ浜も、いざ歩き始めると意外に岩塊があちこちに埋まっていたり、大きな石が落ちていたりするのに気付きます。今は国道134号線の下は高い壁面になっていますが、その裾にかつての崖が覗いている場所も幾つか見られます。七里ヶ浜では、砂浜の上を行く以外に道を付けるスペースが無かったことが窺えます。

江島道:鎌倉高校前付近、国道134号沿いから七里ヶ浜を見下ろす
鎌倉高校前付近、国道134号沿いから七里ヶ浜を見下ろす
江島道:「この地点の標高は海抜7.8メートルです」
「この地点の標高は
海抜7.8メートルです」
江島道:七里ヶ浜より江ノ電を見上げる
七里ヶ浜より江ノ電を見上げる
江戸時代の七里ヶ浜行きを多少なりとも体感するなら、やはり砂浜に下りて一通り歩いてみるのが良いでしょう。しかし、砂浜には他にこれといった目標物がなく、また国道134号との標高差が意外にあるため、砂浜からでは現在位置を確認しにくいのも確かです。「見取絵図」が七里ヶ浜を横切る川筋を記しているのは、恐らくこれらの川筋が七里ヶ浜を歩く上での数少ない「目標物」になるからだろうと思います。

今は傍らの国道134号線に設けられた階段を上がってみるのが良いでしょう。この道路や江ノ電が意外に高い場所を走っているのが良くわかります。江ノ電のこの区間は海への眺望が1つの「売り」になっていますが、この標高も眺めの良さに一役買っていると言えそうです。

なお、現在の国道134号の元になった道路のうち、この七里ヶ浜に平行する区間は大正9年(1920年)には県道に指定されていますが、明治時代初期の迅速測図でも既に該当する道が見えています。明治維新後のかなり早い時期に新しい道が通されたことは確実ですが、「鎌倉市史」や「藤沢市史」では関連する史料などは掲載されていません。ただ、明治維新後比較的早い時期から、江の島周辺を始め周辺各地で新たな道路の普請や改修が積極的に行われていたことが、次の道中記の記述で窺えます。

(注:駿河から東京へ船に乗っていた一行は船頭の悪巧みで途中江の島で降ろされてしまう)横浜へゆき、船か馬車にてゆけばあしたの内に江戸へ帰られるといふ。宿にて聞けば新道をゆけば七里にて野毛へ出るといふ。駕を三挺一両一分づゝにて雇ひ、安心して鮮魚の馳走で、その夜は寝る。翌四日未明に起き、支度する処へ駕来り、二人乗り、腰越へ出、津村より右の小道へ入り、在道ながら此頃聞けし新道なればあたらしき茶屋商人屋など所々に出来、人にあはず中々よき通りなり。…爰を岡村といふ。夫より一里程来り、是より沼の縁ちを一里程ゆくに埋立最中なり。江戸の開ける時も斯うであつたで有うかと見ぬ昔しを思ひくらべ、勇敷く暫らくして野毛の町つゞきへ入り、…

(「手前味噌」明治3年(1870年) 中村仲蔵、「藤沢市史料集(31)」より、踊り字は適宜置き換え、…は中略、強調はブログ主)

明治3年時点で既にこの状況ですから、当時の記録が残っていない道普請はかなり多いと考えた方が良さそうです。

明治時代初期の道路普請の最大の目的の1つは、やはり人力車などの車両対策でしょう。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「江の島行脚」では、人力車がこの区間を走って江の島まで行く様子をこんな風に描写しています。

(注:長谷観音を出て極楽寺坂を過ぎた辺りから)やがて、道はきゅうに右折して、灰色の広びろとした砂浜を見下ろす崖鼻に沿うて、迂曲して行く。海風がここちよい潮の香を送ってきて、思わず肺臓のすみずみまで、いっぱいにそれを吸いこませてくれる。はるか前方には、美しく盛り上がった一団の緑が――樹木におおわれた島が、陸から四分の一マイルほど離れた海上に浮んでいるのが見える。あれが江の島だ。海と美の女神の祀ってある神の島、江の島だ。ここから見ると、早くも、その急斜した斜面、灰色に散らばっている小さな町すじが見える。あすこなら、きょうのうちに、歩いて渡って行ける。ちょうど潮は引いているし、長いひろびろとした干潟が、いま、われわれの近づきつつあるこちらの岸の村から、土手のように長ながと伸びつづいているから。

江の島の、ちょうど対岸にあたる、片瀬という小さな部落で、われわれは人力車を乗り捨てて、そこから徒歩で出かける。村と浜のあいだにある小路は、砂が深くて、俥を引くことができないのだ。われわれよりもひと足先にきている参詣者の人力車も、幾台か、村の狭い往来で待ち合わしていた。もっとも、この日、辨天の社に参詣した西洋人は、わたくしひとりだそうだ。

われわれを乗せて引いてきたふたりの俥夫が、先に立って、そこの小路をつっきって行くと、まもなく、濡れた固い砂浜へだらだらと降りる。

(「全訳 小泉八雲作品集 第五巻」平井呈一訳 1964年 恒文社 125〜126ページより、強調はブログ主)

明治9年の鎌倉郡各村の人力車保有台数

東海道筋

286台

  • 平戸村:1
  • 品濃村:1
  • 前山田村:10
  • 上柏尾村:16
  • 下柏尾村:30
  • 戸塚駅吉田町:31(うち二人乗り6)
  • 戸塚駅矢部町:10(うち二人乗り1)
  • 戸塚駅戸塚宿:67(うち二人乗り1)
  • 原宿村:28
  • 東俣野村:18
  • 山谷新田:12
  • 藤沢駅西富町:14
  • 藤沢駅大鋸町:48

江の島・鎌倉界隈

67台

  • 腰越村:1(二人乗り)
  • 台村:1
  • 大船村:1
  • 山之内村:4
  • 雪之下村:17
  • 小町村:2
  • 極楽寺村:21
  • 長谷村:7
  • 片瀬村:13

それ以外

11台

  • 瀬谷村:2
  • 二ツ橋村:2(うち二人乗り1)
  • 和泉村:1
  • 阿久和村:1
  • 鍛冶ヶ谷村:1
  • 公田村:1
  • 中野村:1
  • 深谷村:2
神奈川県皇国地誌相模国鎌倉郡村誌 神奈川県郷土資料集成 第十二輯」(神奈川県図書館協会郷土資料編集委員会編 1991年)より集計、特に記したもの以外は何れも一人乗り、台数ゼロの村(全58ヶ村)は含めず
ハーン一行が進んでいるのが「迅速測図」に描かれた道筋であることは確実ですが、「砂浜を見下ろ」しながら七里ヶ浜を行くというのは、江戸時代の紀行文・道中記にはなかった描写です。また、「砂が深くて、俥を引くことができない」ために、轍が砂に埋れない高台の崖を切り開いて新たに道を付けたことが、こうした記述からも窺い知ることが出来ると思います。

実際、「皇国地誌」の記述から明治9年(1876年)時点の各村の人力車の保有台数を拾うと、右の表の様になります。東海道筋や江の島・鎌倉への観光客を見込める村々の人力車の保有台数が突出しているのがはっきり窺えます。ハーンが鎌倉を訪れた明治23年時点では東海道線や横須賀線が開通しているため、この数字も更に大きく変動しているものと思いますが、こうした新たな交通手段のために江戸時代までとは違う道が必要になった区間の1つが、この七里ヶ浜ではなかったか、と思います。

七里ヶ浜付近の明治36年の地形図

当時の施工記録が残っていない様なので、新たな道を付けるに当たってどの様な工事がなされたのかは不明ですが、明治時代の地形図でも七里ヶ浜沿いの道路の北側の斜面は等高線が混んでいる場所が多く、急な斜面になっていたことが窺えます。恐らくはこの崖下に盛土を施したり小規模に崖を削ったりして平場を出して道を付けたのでしょう。

また、今は後背の山が大規模に住宅街化して地形がなだらかになっている場所が増えていますが、かつては小さな谷戸が複雑に入り組む地形が海岸付近まで迫っており、これがかつては砂浜を経由する道筋が選ばれていた理由なのだろうと思われます。


江島道:七里ヶ浜の駐車場下は時間によっては通れない
七里ヶ浜の駐車場下は
満潮時には通れない

空中写真でも波が駐車場下まで来ている
七里ヶ浜は基本的には今でも全区間通行は可能なのですが、七里ヶ浜海岸駐車場の辺りでは砂浜が殆ど残っていない箇所があり、満潮の時間帯には完全に冠水してしまうため通行できなくなる箇所があります。この時は干潮だったため、靴に潮が掛かりながらではありましたが何とか通り抜けることが出来ました。砂浜を全区間歩きたい方は干潮時間をチェックしておいた方が良いかも知れません。時間帯が折り合わなければ行合川の先で駐車場に上がって迂回することになります。

江島道:稲村ヶ崎駅入口交差点
稲村ヶ崎駅入口交差点
向かいの道が江島道の続き

稲村ヶ崎駅入口交差点の位置
「見取絵図」に描かれた江島道は、現在の「稲村ヶ崎駅入口交差点」で七里ヶ浜を離れて内陸へと向かいます。現在は音無川を渡った先にある国道134号へ上がる階段のうち、2つ目がこの「稲村ヶ崎駅入口交差点」の前にあります。

もっとも、もう少し先まで砂浜を歩けば稲村ヶ崎公園に辿り着けるので、江島道のルートから外れてそのまま砂浜を進んでしまうのも手かも知れません。

次回はこの稲村ヶ崎公園から先に進みます。

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【江島道】「見取絵図」に沿って(その9:七里ヶ浜―1)

前回は満福寺まで進みました。今回は七里ヶ浜を進みます。


江島道見取絵図:腰越付近修正
江島道見取絵図:腰越付近(再掲)


江島道:小動交差点
小動交差点
江島道:小動の漁船
小動の漁船

小動交差点の位置
現在は国道134号線が七里ヶ浜沿いに整備されていますが、かつては小動(こゆるぎ)交差点の辺りから浜へと降りていたのだろうと思います。今は消波ブロックで防波堤が築かれ、その中に小さな漁船が数艘並んでいますが、江戸時代も舟の並ぶ傍らを旅人が行き交う風景だったのでしょうか。

なお、「見取絵図」ではこの付近に「六地蔵」や「伊勢宮」を描いていますが、現在は現地にありません。その行方についても未確認です。

江島道:小動交差点脇を進む江ノ電
小動交差点脇を進む江ノ電
江島道:腰越側から七里ヶ浜の眺め
腰越側から七里ヶ浜の眺め
この浜辺から国道134号や江ノ電が走る場所を見上げると、意外なくらい高低差があるのが良くわかります。最初はもっと下の方から撮っていたのですが、状況が分かりにくいので幾らか斜面の上に上がって撮っています。

ともあれ、ここからしばらくはこの長い浜伝いに次の磯に向かって歩くことになります。「新編鎌倉志」の紹介はこの様になっています。

◯七里濱 七里濱(シチリバマ)は、稻村崎より、腰越までの間を七里濱と云ふ。關東道七里有以六町爲一里。故に名く。古戰場なり。今も太刀・刀の折、白骨など、砂に雜て有と云ふ。此濱に鐵砂(クロカ子スナ)あり。黑き事漆の如し。極細にして、いさゝかも餘の砂を不交。日に映ずれば輝て銀の如し。庖丁・小刀等をみがくに佳也。又花貝とて、うつくしき貝あり。兒女拾て作り花にする也。櫻貝とも云。櫻色なる故なり。

(卷之六、雄山閣版より)

稲村ヶ崎付近の黒っぽい砂浜

江島道:稲村ヶ崎付近の砂浜
稲村ヶ崎付近の砂浜
周辺に黒っぽい箇所が見えている
この記述はどちらかと言うと東側の稲村ヶ崎寄りの様子が中心になっていると言って良いでしょう。古戦場についての記述は新田義貞の稲村ヶ崎の古戦場のことを指しているのでしょう。また、砂鉄が混じった砂が採取できることを書いていますが、これは上空からの写真の方がわかりやすいかも知れません。砂浜が黒っぽく見えている箇所が砂鉄の多い場所です。どちらかと言えば稲村ヶ崎寄りの浜に黒い部分が多く、腰越側はむしろ白っぽい砂浜になっているのがわかります。

この砂を刃物の研磨剤に使っていたことを窺わせる記述がありますが、これについては別の場所で改めて出て来ます。

「桜貝」と言われているのは特定の種類の貝を指すものではなく、サクラガイ、モモノハナガイ、カバザクラなどピンク色の貝殻を持つ貝の総称だそうです。基本的には冬場にこの付近の海岸に姿を現すので、江戸時代の参拝シーズンと丁度重なって見られることになります。今はむしろ夏場に海辺に出る人が多いですから、その点では行楽客の目には触れにくいものになっていると言えるかも知れません。

江島道見取絵図:行合川付近修正
江島道見取絵図:行合川付近(再掲、一部加筆)

ファイル:19 - The Seven Ri Beach.jpg - Wikipedia
歌川広重「富士三十六景」
(安政5年(1858年))より
「相模七里ヶ濱」
Wikipediaより)
七里ヶ浜を行く旅人が残した紀行文・道中記は以前の記事で2編ほど紹介しました。例によって「藤沢市史料集(31)」から七里ヶ浜を進んだ紀行を更に拾ってみました。
  • 「富士・大山道中雑記 附江之嶋鎌倉」天保9年(1838年)か 著者不明(甲斐国)

    一直ニ七里ケ浜江懸り波打際を通行、その気色至極宜敷、前夜の酔眠一時二退散

    一伝右衛門、江之嶋前より鎌倉迄乗馬

  • 「手前味噌」安政6年(1859年) 中村鶴蔵

    極楽寺の切通しより稲村ケ崎の茶屋に、多吉・万吉やすみゐるを連れ、七里ヶ浜へかゝる。南風つよく皆々波に追れるを面白がり、砂をけたてゝ駈けあるき、女連れはまた砂を掘り酢貝を拾ふ。腰越の浜通りは波をうちつけて通られず。片瀬村より浜へ出て江の島へ入る。

(踊り字は適宜置き換え)

以前引用の2件の道中記もそうでしたが、この2件でも旅人は波打際を進んでおり、その景色を楽しんだり、波と戯れたり落ちている貝を拾ったりしてこの長い砂浜を歩いています。景色で「昨夜の酔いが覚めた」などという称賛まで見えています。こうした様子はまた浮世絵の題材としても数多く取り上げられ、「みゆネットふじさわ」のこちらのページには、七里ヶ浜を題材にした浮世絵が44点も紹介されています。右の歌川広重の「相模七里ヶ浜」もそうした浮世絵の1つです。

もっとも、時にはこの七里ヶ浜を含む区間を歩かず、周辺の浜から舟に乗って江の島へ向かう旅人もいた様です。
  • 「江島紀行」寛政9年(1797年) 斉藤幸雄

    ひるま過ころなん杜戸(注:森戸明神)にいたりぬ 帰りにはそこの葉山てふ浦よりふねにのりつぐ 真帆引あげて行に追手よければとかふするまもなく腰こへてふ里につきぬ 此さとは海人の家居おほく魚をひさぐをわざとす 人々さかなもとめんと物するにそこの所はこゆるぎの磯ともいへるよし

    こゆるぎのいそがぬはるの旅なればさかなもとめてやどやからなん

  • 「伊勢参宮道中記」文化9年(1812年) 著者不明(陸奥国)

    此所ニはせノくわんおん有、…、下向ニるいが浜(注:由比ヶ浜の事)より舟ニのり、江ノ嶋ニ付舟道二り有、壱人分弐十四文宛

  • 「伊勢参宮日記」天保12年(1841年) 著者不明(武蔵国埼玉郡)

    一江 島 弁財天/三社参詣      下宿比野屋伊右衛門

    五十弐文          船賃

    はせ寺より江島迄舟二乗ル

  • 「東武下向諸事記」嘉永2年(1849年) 今泉辰助

    夫より由井浜出船賃三百札也、七里か浜伝ひ雪ニて路あしけれハ也、此海上風景いとめつらし

    相州三浦ミさき、荒崎南ニ当り大嶋ほのかにミゆ西ニ当り箱根山其先ニミゆる、高山是ヲ伊豆のあまきといふ稲村の崎いえかアリ、えの嶋近くミゆ稲村か崎ノ西ノ大手也、是より四十二丁、七里カ浜六丁一里也、鮑を見付る、漁舟あり袖か浦、八王子、大種権現、土崎ニアリ、腰越村義経弁慶此処にて状を書とミえたり、南への寺アリト、えノ嶋着船江戸屋忠五郎ニて昼餉料弐分計ニて頼置…

(何れも「藤沢市史料集(31)」より、…は中略)

最後の例では「七里か浜伝ひ雪ニて路あしけれハ也」と、足元が雪で悪くなっているのを嫌ってのことであったと書いていますが、雪の寒い中を冷たい海に足を洗われる様な痩せ我慢をわざわざしたい人は当時もいなかったということでしょう。先ほどの例でもこの区間で馬に乗っていた人もいましたから、多少お金に余裕があれば舟を雇ってしまう人も多かったのかも知れません。

さて、「見取絵図」ではこの七里ヶ浜から海に流れ出る川が3本描かれています。これを腰越側から順に見て行きましょう。

江島道:鎌倉高校前付近の暗渠からの流出
鎌倉高校前駅付近の暗渠からの流出
「金洗沢」はこの東隣の暗渠

現在の金洗沢暗渠の出口、
江ノ電の「峰ヶ原信号場」が上に見えている
「見取絵図」では、一番腰越寄りの川を「矢沢流レ」と記しています。「新編相模国風土記稿」では

◯金洗澤 七里濱の内行合川の西方を云ふ、土俗傳て昔黄金を鑿得たり、故に名づくと云へり以上【鎌倉誌】所載壽永元年四月將軍賴朝江島參詣の歸路、此地にて牛追物の擧あり、下川邊行平・和田義盛・愛甲季隆等箭員あるにより各賜物あり【東鑑】曰、四月五日…、按ずるに、今此邊に、生ヶ窪・矢澤山等の字あり、若くは其遺名にや

(卷之百五 鎌倉郡卷之三十七「津村」の項、雄山閣版より、…は中略、強調はブログ主)

とあることから、「見取絵図」では何らかの判断で「金洗沢」の名を採用せず、「矢沢山からの流れ」という意味でこれを記した様です。因みに、「新編鎌倉志」では

◯金洗澤 金洗澤(カ子アラヒザハ)は、七里濱の内、行合川の西の方なり。此所にて昔し金を掘たる故に名く。【東鑑】に、養和二年四月、賴朝、腰越に出、江島に赴さ還り給ふ時、金洗澤の邊にて牛迫物ありと有。又元年六月六日、炎旱渉旬。仍今日雨を祈ん爲に、靈所七瀨の御祓を行ふ。由比濱・金洗澤・固瀨河・六連・柚河・杜戸・江島龍穴とあり

(上記同書より)

と紹介しています。「金を掘りたる故」とあるのは、個人的にはどうも先日の下和田村の「巌窟」の話との共通点を感じてしまうのですが…。この近辺の横穴墓の存在については報告されたものがない様ですが、周辺には中世の「やぐら」に混じって古代の横穴墓もある様なので、あり得ないとは言えなさそうです。

現在の金洗沢は砂浜の中に暗渠を作って海まで誘導されているので、その姿を見ることは出来ません。恐らくはか細い流れではあるのでしょう。西隣には別の暗渠からの流出が砂浜を伝っていて、江戸時代の金洗沢もこの様な感じに砂浜に細やかな流路を作って海へ流れ出ていたのではないかと思います。この鎌倉高校前の暗渠が何処から流れて来ているのかは不明ですが…。江戸時代に同規模で存在していたのであれば恐らく「見取絵図」にも描かれていたと思われますので、少なくとも古いものではなさそうです。あるいは七里ヶ浜の住宅街が開発されたことによって新たに生じたものかも知れません。

江島道:行合川上流の様子
行合川上流の様子
江島道:行合川河口
行合川河口

行合川河口の位置
「見取絵図」で次に描かれているのは「行合川」です。「新編鎌倉志」では

◯行合川 行合川(ユキアヒガハ)は、山より海の方へ流出る川なり。日蓮、龍口にて難に遭給し時、奇瑞多きに因て、共由を鎌倉へ告る使者と、又時賴の赦免の使者と、此川にて行合たる故に名く。鶴岡一鳥居より、此川まで三十九町あり。

(上記同書より)

と、日蓮との縁を紹介しています。「見取絵図」では「日蓮雨乞供養石」が上流側にあったことを示しています。

江島道:行合川河口で崩れる砂
河口内で崩れていく砂
「見取絵図」ではこの川も洗い越しで橋などは特に設けられていなかった様に描いていますが、現在の行合川は意外に水量が多く、「こんな所を洗い越ししていたのだろうか」と思えるほどです。しかしこれは、上流の七里ヶ浜小学校の隣に「七里ガ浜浄化センター」という終末処理場があり、最大約74,000人分の下水を処理した水が放流されていることによるもので、そのため行合川に架かる橋の上では微かに塩素の匂いがするのがわかります。勿論これは江戸時代の頃の水量とは異なります。この程度の水量であれば、神戸川の例を考え合わせると、最低でも「飛石渡り」にはしたのではないでしょうか。

両岸を突堤で固められ、かつてよりも豊富な水量が流出しているためか、その中に溜まった砂が次々と崩れていくのが観察出来ました。恐らく満潮時には潮が運ぶ砂が突堤内に溜まり、干潮になると川の作用でそれが崩れ…という作用を繰り返しているのでしょう。生活排水の量は1日のうちでも当然上下しますから、その周期も関係しているかも知れません。何れにせよ、江戸時代の行合川の姿とは大分変わってしまっていることは確かな様です。

江島道:七里ヶ浜の音無川
七里ヶ浜の音無川
江島道:音無川が海に流れ出る
音無川が海に流れ出る
江島道:音無橋を音無川筋から見上げる
音無橋を音無川筋から見上げる
「見取絵図」で3番めに描かれている川には「勝福寺(やつ)川」と記されています。この上流側には「此辺音無滝」とあり、現在の「音無川」に該当することがわかります。再び「新編鎌倉志」には

◯音無瀧 音無瀧(ヲトナシノタキ)は、針磨橋を渡り、七里濱へ出れば右の方、沙山の松陰を廻傳て落る瀧なり。沙山なるゆへに、常に水音もせず。故に名つく。

と記されており、これは「新編相模国風土記稿」もほぼ同様です。砂に流れ落ちるために水音がしない滝であったとしていますが、残念ながらこの滝は既にありません。音無川を砂浜から辿って行くと、江ノ電や音無橋が架かる辺りまで遡ることが出来、そこに堰堤が築かれているのですが、勿論これは「音無滝」ではありません。一帯は大規模に開発されて住宅街と化しており、音無川も大半が暗渠化されているのが実情です。

「見取絵図」の「勝福寺谷川」は「聖福寺谷」が正しく、これも「新編鎌倉志」によれば

◯聖福寺奮跡 聖福寺(ショウフクジ)奮跡、極樂寺の西南にあり。大なる谷なり。此地に熊野權現の社あり。【束鑑】に、建長六年四月十八日、聖福寺の鎭守、諸神の神殿上棟、所謂神驗、武内・稻荷・住吉・鹿島・諏訪・伊豆・筥根・三島・富士・夷社等なり。是總じて、關東の長久、別して相州時賴の兩男聖壽丸/福壽丸息災延命の爲なり。因て彼兄弟兩人の名字を以て寺號とす。去る十二日に事始あり。相模國大庭御厨の内に、其地を卜すとあり。又【鶴岡記錄】に、八幡の御正體を、新熊野聖福寺に移し奉ると有。今按ずるに此地なり。

と、この谷にかつて寺が建立されたものの、江戸時代初期の時点で既に廃寺となっていて跡地のみが伝えられていた様です。今はその地と考えられる公園の片隅に鎌倉町青年団の石碑が立てられているのですが、場所については異論もある様です。

七里ヶ浜ではもう少し写真を撮ったものの、ここまでの紹介が長くなってしまったので、次回はそれらの写真の紹介に充てたいと思います。

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【江島道】「見取絵図」に沿って(その8:袂浦から満福寺まで)

前回は江の島の対岸に到達しました。今回からはその先、鎌倉を目指して「江島道見取絵図」に描かれた道を進みます。

江島道見取絵図:洲鼻付近修正
江島道見取絵図:洲鼻付近(再掲)


江島道:現在の片瀬東浜から、腰越漁港方面を見る
現在の片瀬東浜から、腰越漁港方面を見る
かつての「袂浦」はこの辺り
新編鎌倉志:腰越図
「新編鎌倉志」より「腰越図」
(雄山閣版より)
←の部分に「袂浦」の表記が見える
以前も説明した通り、「見取絵図」上では江の島の対岸の砂浜に下りた後、その砂浜を進む様に描かれています。絵図には「津村・腰越村入会」の文字があるだけですが、この辺りは「袂浦」と呼ばれる浜でした。「新編鎌倉志」では

◯袂浦 袂浦(タモトノウラ)は、腰越村より、江島へ行直通あり。共の左の濱邊、袂の形の如なり。故に名く。【夫木集】の歌作者不知「なびきこし袂の浦のかひしあらば、千鳥の跡をたへずとはなん」。

(卷之六 雄山閣版より)

と紹介されています。「新編鎌倉志」の「腰越図」には別途龍口寺の前を通る道が描かれており、袂浦はそこから逸れて江の島へと浜伝いに進む道であったことが窺えます。ただ、「袂浦」の名前はあまり常用されていなかったのか、「藤沢市史料集(31)」に収められた紀行文・道中記でも登場回数はあまり多くなく、特に江戸時代後期以降の紀行文にはこの名を見出すことが出来ませんでした。

「見取絵図」が描いたのも、恐らくはその道であったのだろうと考えられます。その意味では、「江島道見取絵図」に表現されている道筋は、藤沢から江の島へと向かう道と、鎌倉から江の島に辿り着く道筋とがここで落ち合うことを表現したかっただけなのかも知れません。もっとも、江の島に渡ることなくこの浜を敢えて通過する様な公儀の通行があり得たのかどうかを考え合わせると、その様な道筋を「見取絵図」に記載した理由としては腑に落ちない面もあります。

以前の記事で、江の島の参拝客に子どもたちがまとわりついて小遣いをせびる様子を幾つか紀行文から引用して紹介しました。あの様な子どもたちがいたのも、この砂浜であった訳ですね。江の島を描いた浮世絵でも、その様な子供が旅人の廻りではしゃぐ様子が描かれているものが幾つか見えます(例えば「無題(江の島道中)」菊川英山作など)。


鎌倉市津」の飛び地
「見取絵図」がここで津村と腰越村の入会に入ることを示唆していますが、現在もほぼその場所で藤沢市鎌倉市が接しています。「津村」と「腰越村」について、「新編相模国風土記稿」では

地形は腰越村と交錯して辨別しがたければ四隣廣袤共に爰に括載す【鎌倉誌】或說を引て腰越津村は一鄕なり水濱を腰越と云ふ、漁父の苫屋なり、山間を津村と云ふ、農夫の柴扉なり云々、按ずるに、腰越村には今も漁家多く、當村には少し、されど海濱にも、當村の地雜れば、一定しがたし、

(卷之百五 鎌倉郡卷之三十七 津村の項、雄山閣版より)

と、基本的には海側が腰越村、山側が津村ではあったものの、両方の村境が大きく入り組んでいたことを指摘しています。現在の新番地表記では両方とも「鎌倉市腰越」でほぼ統一されてしまっていますが、当時の名残なのか、隣接する藤沢市側の龍口明神社の一角に、「鎌倉市津」の飛び地が残っています。

江島道見取絵図:腰越付近修正
江島道見取絵図:腰越付近(再掲、一部加筆修正)


江島道:神戸川が袂浦から海へ流れ出る
神戸川が袂浦から海へ流れ出る
江島道:神戸川の上流方面
神戸川の上流方面
右手は腰越漁港のフェンス

明治20年測量「江の島」地形図より(「今昔マップ on the web」)
神戸川の河口は大きく東へと曲がっている
「見取絵図」では、この袂浦の途中で神戸川(ごうどがわ)を「飛石渡り」で越えたことが記されています。「見取絵図」はその描画方法の制約から方角を必ずしも十全に描くことが出来ませんが、良く見ると神戸川が神戸橋の下流で折れ曲がっているように描かれています。明治時代初期の地形図と比較すると、神戸川の河口が大きく東へと折れているのに照合出来ると考えられます。つまり、江島道はその折れ曲がった場所より下流で神戸川を越えていたことになります。

橋ではなく飛び石だったのは、やはりここが砂浜であることと、神戸川が細い流れであるためでしょう。現在の神戸川は神戸橋から真っ直ぐに海へ流れ落ちる様に変えられ、左岸側は腰越漁港の敷地になってフェンスで仕切られていますので、現在は当時と同じ道を進むことは出来なくなっています。

江島道:腰越漁港の向かいから内陸へ
腰越漁港の向かいから内陸へ
腰越漁港前から内陸への道
神戸川を渡った江島道は、その先で龍口寺前からの道と合流します。「見取絵図」ではその角に道印石が描かれていますので、これが現在も残っていれば道筋を特定出来るのですが、残念ながら現在は失われています。従ってどの道が江島道であったか特定できなくなっていますが、ここでは仮に腰越漁港の門の向かいにある道筋を伝って内陸へ向かいます。

腰越・神戸橋を渡る江ノ電
神戸橋を渡る江ノ電(再掲)
腰越:併用区間を行く江ノ電
併用区間を行く江ノ電(再掲)
余談ですが、江ノ電の有名な併用区間は江ノ島駅〜腰越駅間ですが、腰越駅に入る直前で神戸橋を渡ると住宅の裏手へと逸れてしまいますので、「見取絵図」に描かれている道筋と併用区間とは残念ながら重複しません。併用区間が終わる地点から50m程しか離れていないのですが。

江島道:浄泉寺の江島道側の「弘法大師」標
浄泉寺の江島道側の「弘法大師」標
龍口寺からの道と合流してから60m程進むと、小動山浄泉寺の前に出ます。かつては小動神社の別当寺でした。

「見取絵図」では浄泉寺の山門や本堂は江島道側に建てられている様に描かれていますが、現在は国道134号線が南側を通っているため、浄泉寺の山門もそちらに向けて建てられており、江島道側の旧参道には入口を示す石碑のみが立てられています。


江島道:小動神社への参道
小動神社参道
浄泉寺の隣に小動神社(旧:八王子社)への参道があります。「新編鎌倉志」では次の様に「小動」の地名と共に紹介されています。

◯小動附八王子宮 小動(コユルギ)は、七里濱を西へ行、腰越へ入左の方、離れたる巌山あり。此所をこゆるぎと云ふ。山上に八王子の宮あり。又山の端に、海邊へ指出たる松あり。風波に常に動くゆへに、こゆるぎの松と云と也。土御門内大臣の歌に、「こゆるぎの磯の松風音すれば、夕波千鳥たちさはぐなり」。又北條氏康の歌に、「きのふたちけうこゆるぎの磯の波、いそひでゆかん夕暮の道」。此等の歌、此所の事とも云ひ、或は大磯の濱を詠とも云ふ。相模の名所こゆるぎの歌多し。

(上記同書)

つまり、「もろこしが原」が片瀬川の東と平塚〜大磯の浜辺の両方の説があったのと同様、この「こゆるぎ」も腰越と大磯から西の浜辺の2つの説があった訳です。「新編鎌倉志」は「もろこしが原」では片瀬川東岸説を打ち立てていたのに比べると、「こゆるぎ」に関しては単に両説あることを指摘するのみに留めています。

社伝によれば文治年間(1185〜89年)に佐々木盛綱が近江の八王子社を勧請して創建されたとされ、江戸時代までは八王子社でしたが、明治維新の神仏分離令に際して地名を取って「小動神社」となりました。こちらも現在は国道134号線に面して鳥居が立てられており、江島道までの空間は参道風に空いているものの、駐車場の様なスペースになっています。「見取絵図」では八王子社の付近に鬼子母神が描かれていますが、これは現在も境内社の1つとして祀られている様です。

江島道が袂浦から一度内陸へと逸れるのは、この八王子社が乗る「八王子山」の磯の下を海沿いに行くのが困難である一方で、八王子山と後背の台地の間には比較的広い平地があり、より安全な道筋を容易に付けることが出来たためですね。七里ヶ浜を江の島に向けて進んできた旅人の道中記の中には、

腰越の浜通りは波をうちつけて通られず、片瀬村より浜へ出て江の島へ入る。

(「手前味噌」安政6年(1859年) 中村鶴蔵、「藤沢市史料集(31)」より)

と八王子山の海沿いを進むことが出来ないことを記したものもあります。なお、幕末にはこの八王子山の上に台場が設けられていましたが、開国後は利用目的を失ったためか、

腰越にいたる。海岸高所に台場あり。不用の見ある故か勝手に登る事出来、好風景なり。

(「塵壺」安政6年 河井継之助、上記同書より)

と、ここで景色を楽しむ人もいた様です(この河井継之助が長岡藩士であったことはあるにしても、警戒が相当に緩かったことは確かでしょう)。

江島道:満福寺への参道
満福寺への参道
江島道:カーブミラーに映った江ノ電と満福寺
カーブミラーに映った江ノ電と満福寺
小動神社参道の斜向かいに、満福寺への参道の入口があります。現在は満福寺山門までの間に江ノ電の踏切がありますが、カーブミラーに映し込めることに気付いて電車の通過を狙って撮影したのが右の写真です。

満福寺について、再び「新編鎌倉志」の記述を引くと、次の様に記されています。

◯滿福寺附硯池 滿福寺(マンブクジ)は、腰越村の中にあり。龍護山と號す。眞言宗なり。開山行基、本尊藥師行基作・不動弘法作此寺地は、昔源義經、宿せられし所なりと云ふ。【東鑑】に、元曆二年五月二十四日、源廷尉義經、如思に朝敵を平げ訖ぬ。剰へ前内府平宗盛を相具して參上す。其賞兼て不疑處に、日來不儀の聞へ有るに依て、忽御氣色を蒙り、錐倉中に入られず。腰越の驛に於て、徒に日を渉るの間、愁鬱の餘に、因幡前司廣元に付して、一通の欵狀を賴朝へ奉つるとあり。其狀の下書也とて、今寺にあり。辨慶が筆跡と云。狀中の文字、【東鑑】に載たるとは所々異なり。或人云、新筆なり。辨慶が筆には非ずと。

硯池 寺の前にあり。相傳ふ義經の命にて、辨慶欵狀を書し時、硯水を汲たる池なりと。池の端に辨慶が腰懸石とてあり。

(上記同書)

参道脇の石碑に「義経腰越状旧跡」とあるのは、この吾妻鏡に載せられた由緒を指している訳ですね。江戸時代初期に成立した「新編鎌倉志」も、弁慶の真筆かどうか疑わしいとする説を既に記しているものの、江戸時代には江島道を進む途上でここに立ち寄って腰越状を見て行く旅人も少なからずいた様です。

次回は七里ヶ浜を進みます。

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【横穴墓?】新編相模国風土記稿 下和田村の記述から


大きな地図で見る
現在の大和市下和田の領域
今回は少々気軽に行きます。

「新編相模国風土記稿」を読んでいると、時に「何だこれ?」という記述に行き当たることがあります。今回取り上げるのもその様なものの1つです。

現在は大和市域の南東端に当たる「下和田」という地域があります。江戸時代にはここは下和田村という、民戸36軒の村でした。境川流域に多い「サバ神社」の1つである「鯖明神社」などが紹介された後、その最後にこんなことが記されています。

◯巌窟 小名下村の山根にあり、入口は僅三尺四方許、入こと二間餘にして漸廣く高も七尺に及べり、相傳ふ金銅を掘取し跡なりと云、

(卷之六十三 高座郡卷之五)

入口はわずかに90cm四方程度、奥に3m半も入ると天井高が2mを超える、という寸法です。古墳や横穴墓などに興味がある人なら、これは羨道を持つ横穴墓だったのではないか、と思い付くのではないでしょうか。「風土記稿」を編纂した昌平坂学問所ならこれが墓であったことに気付けた様にも思うのですが、ここではその様な論評は一切されていません。

そういう洞穴があったということであれば、横穴墓の調査報告の中に含まれているかも知れないと思い、大和市の調査報告をざっと見てみました。同市の横穴墓の報告は市の北部に多く、下和田に含まれているものは「下ノ原横穴墓」の1件だけでした(「下鶴間浅間社遺跡・下ノ原横穴墓・公所横穴群 大和市文化財調査報告書 第4集」1980年 53〜56ページ)。


下ノ原横穴墓付近の明治39年測量地形図
地図上「下和田山谷」と記された右隣の
等高線の詰んだ辺りが該当地
(「今昔マップ」より)
この報告書によれば、この横穴墓は昭和50年の市内遺跡分布調査によって確認されたものですが、古老の聞き取り調査では、昭和初期に養蚕用の桑の保冷庫を掘る目的で崖面を掘った際に開口、それ以前は開いていなかったとのことです。中には人骨、大甕片、壺、すり鉢、石臼、刀子などがみられ、一部は近所の学校に寄贈されたとあるのですが、現物を確認できなかったのか、報告書では学校に預けられた遺物については触れられていません。横穴墓自体はその後当初の目的通り保冷庫として使用されたとのことで、それによって風化・損傷が進んでしまった様です。報告書では築造形態(アーチ型天井J3様式)から8世紀代と推定されています。この横穴墓が現在も残っているのかどうか、ストリートビューなどを見る限りでは斜面林に埋もれてしまっている様です。

開口したのが昭和初期で遺物も見つかっているという状況から、これは「風土記稿」の「巌窟」には該当しないことは明らかです。これ以外の下和田の横穴墓の調査報告は見ることが出来ませんでしたが、付近には同時代のものと推定される「下ノ原遺跡」も発掘されており、この報告書でも他に同様の横穴墓が埋没している可能性を指摘しており、「風土記稿」の「巌窟」もそうした横穴墓の1つであった可能性はやはり高いと思います。ただ、現在もこの「巌窟」が残っているかどうかは確認できませんでした。

問題はこの「風土記稿」の最後に添えられた「相傳ふ金銅を掘取し跡なりと云」という1文です。この一帯は高座丘陵の一角に当たっていて基本的には火山噴出物の堆積が中心になった地質で、金や銅を産出する様な場所ではありません。従って、これが横穴墓であるとすれば、その「金や銅」は副葬品であった可能性が相当に高そうです。

実際、境川沿い(相模原市南区上鶴間・町田市金森付近)や引地川沿い(藤沢市石川・佐波神社付近)では同様に金や銅を採ったと伝えられている場所が幾つかあり、中には「金山神社」の様に神社の名にその名残を残す場所もあります。地質的に鉱石が出る様な場所ではなく、横穴墓を作りやすい河川の段丘崖がある地域でこの様な言い伝えがある場所は、あるいはこの下和田の「巌窟」の様に、横穴墓の副葬品を使ってしまったということなのではないか、という気がしています。

まぁ、このレベルになると文書にも記述されることはなかなかないと思いますので、今後も推測の域を出ることはまずないと思うのですが、裏を返せば「風土記稿」の下和田村のこの記述は、横穴墓の江戸時代の処遇を推測する上で、1つの手掛かりにはなると思えるのです。
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【江島道】「見取絵図」に沿って(その7:龍口寺道印石から江の島対岸まで)


江島道見取絵図のルート(再掲)
前回は常立寺の前まで来ました。江の島まではあと少しという所まで来ていますが、「江島道見取絵図」上ではこれでもまだ半分にも達していません。ともあれ、今回はようやく江の島の対岸に向かいます。


江島道見取絵図:龍口寺道印石付近
江島道見取絵図:龍口寺道印石付近


江島道:龍口寺道印石と江島道
龍口寺道印石と江島道
龍口寺道印石の位置
江島道:龍口寺方面への道
龍口寺方面への道
湘南モノレールの駅が覆い被さる
常立寺の門前から80m程歩くと、そこで道がふた手に分かれます。現在はその三叉路の角に道印石が1体置かれています。この道印石は他のものとは異なり、「左龍口道」「従是江嶋道」と刻まれています。また、別の面には「願主 江戸糀町」と刻まれており、杉山検校が設置したものとは異なること、江の島弁財天を信奉する講中が江戸にも存在していたことが窺えます。設置は江戸時代中期と推定されています。

「見取絵図」と比較すると、この道印石は龍口寺への道の向かって左脇に置かれており、三叉路の角には題目石が置かれていたことになりますが、この題目石の方は該当するものが周囲に見当たりませんでした。龍口寺も、あるいは常立寺や本蓮寺も何れも日蓮宗の寺院ですから、周辺にも関連するものが多かった訳です。

最初の記事ではここから右手に行く道を「見取絵図」に描かれている道としてしまった訳ですが、こうして逐次的に追ってみればやはり左の道と解すべきでしたね。現在は江ノ電の江ノ島駅から江の島や龍口寺へ向かう方が主な人の流れになってしまっているため、この道を通るのは地元の人が殆どになっています。当時の道中記の中には

一舟渡より半道程ニて、右ハ江ノ島道左リハ龍口寺道江入 二丁程二而

一龍口寺門前町屋多し

…(中略)…

一後ノ石雁木ヲ登り七面堂

一又右ノ方山上江登り見晴し絶景、眼下江之島・大山・箱根・富士・伊豆ノ山々・大島等遙ニ見ル、遠眼鏡アリ

一江ノ島

一鳥居両側町やアリ右岩本院左り下ノ坊

(「江ノ島参詣之記書写」弘化4年(1847年)著者不明、「藤沢市史料集 31」より、強調はブログ主)

と、この道を経て先に龍口寺に立ち寄り、山上にある七面堂に登って周囲の眺望を楽しんでから江の島へと向かった旅人もいた様です。鎌倉方面から江の島に向かってきた場合には、逆に江の島から龍口寺を経て、その後にこの道を通って藤沢宿へと向かう旅人もいた筈です。

「遠眼鏡」がわざわざ用意されていたということは、そういう目的で龍口寺に立ち寄る参拝客が多いことを寺の側も心得ていたということでしょう。歌川広重の「東海道之内江之嶋路片瀬自七面山見浜辺」(天保5年・1834年頃、リンク先は「電子博物館 みゆネットふじさわ」内のページ)という浮世絵でも、この龍口寺境内の山上からの眺めが題材になっています。

江の島方面に向かう道は現在は相応に広くなっていますが、「新編相模国風土記稿」や「皇国地誌」では片瀬村内の江島道は幅2間と記されており、基本的にはもっと狭い道であった様です。但し、片瀬村の中心街からは人通りも多かったと考えられるので、当時も2間よりもう少し道幅が広かったかも知れません。

江島道:洲鼻通りの「津波注意」標識
「洲鼻通り」電柱の「津波注意」標識
江の島へと向かう道は、現在は江ノ電の踏切を越えた辺りから「洲鼻通り」と呼ばれています。片瀬川の西岸沿いを海に向けて進むこの道は、途中でもうひと山越える道筋になっています。その頂上付近の電柱に取り付けられた「津波注意」の標識には、海抜高度6m少々と記されています。

腰越・国道467号の坂上から龍口寺山門前の江ノ電
国道467号の坂上から
龍口寺山門前の江ノ電(再掲)

洲鼻付近の過去の地形図
(「今昔マップ on the web」)
しかしこの道は、片瀬川に沿って伸びた砂丘の頂上を進んでいる訳ではなく、その中腹辺りに付けられた道筋になっています。実際、迅速測図やその後の地形図を見ても、この砂丘の頂上は洲鼻通りよりも東寄りにあることがわかります。「見取絵図」の描き方では、この砂丘の頂上を廻り込む様にして道が付いていた様にも見えます。

現在はこの砂丘の頂上付近を国道467号線が通っています。以前掲載した龍口寺前の江ノ電の写真は、この坂の上から撮影したものです。

江島道見取絵図:大筒稽古場定杭付近
江島道見取絵図:大筒稽古場定杭付近


江島道:「スバナ会館」前の道印石
「スバナ会館」前の道印石
この「洲鼻通り」の途中、「スバナ会館」前に道印石が1体保存されています。この道印石の背後に立てられたガイドには、

この道標は平成十年一月、ここより一七〇メートル南の州鼻通りの地下から道路工事中発見されたものである。

と記されています。これに従って地図上で距離を測ってみると、石政旅館の前辺りから掘り出されたことになります。別の場所の道印石をわざわざ運んできて道路に埋めるというのは不自然ですから、元々立っていた場所もその近くと考えて良いでしょう。「見取絵図」にはこの付近の道印石が2体描かれていますが、この位置で埋められたのであれば恐らくは常夜燈と並んで描かれている方に該当しそうです。


道印石が埋まっていた辺り
「見取絵図」の茶屋付近か
明治時代に入って江戸時代の主要な道路沿いの道標類は撤去するように政府から通達があり、それに従って多くの道標がなくなってしまいました。埋められていた道印石も、あるいはそんな状況の中で不要と見做されたために、道路の地盤改良に転用されて埋められてしまったのではないかと、個人的には考えています。頭部が欠けているのは、地中で長らく轍の震動を加えられているうちに割れてしまったのか、それともそれ以前から欠けていたものかは不明です。

江島道見取絵図:鉄炮臺の表記
江島道見取絵図:「鉄炮臺」の表記
さて、ここで問題になるのが、「見取絵図」上でこの道印石や常夜燈と共に描かれている「大筒稽古場定杭」です。この「大筒稽古場」とは一体何でしょうか。これについては「江島道見取絵図」東京美術版の解説書でも何も触れられておらず、解説図上に記されているのみになっています。他にこの「定杭」について解説されているものも見掛けません。

この「定杭」からもう少し先まで「見取絵図」を見て行くと、道の傍らの砂丘と思われる丘の上に「鉄砲台」と書かれているのに気付きます。「(その4)」や「(その6)」で付近の海岸沿いの砂丘地帯を幕府が大筒稽古場として指定していたことを紹介しましたが、この片瀬村の江の島の対岸の砂丘の上も鉄砲の稽古場になっていたのです。「新編相模国風土記稿」の片瀬村の項に

享保十三年、訓練の事始りし頃は、當村の海濱にて平場の訓練もありしが、今は高座郡の閑地にて、平撃の訓練あり、

(卷之百五 鎌倉郡卷之三十七、雄山閣版より)

とあったのは、この地のことを指しているのでしょう。この書き方では「風土記稿」の成立した天保の頃にはあまり利用されていなかった様にも読めますが、とは言え参拝客も多く集まるこの地に隣接してこの様なものがあったというのは意外です。

ではこの「定杭」はこの「鉄砲台」の存在を示しているものなのでしょうか。しかしそれでは「大筒稽古場」と書かれていることとの辻褄が合わなくなってきます。第一、この洲鼻の砂丘の上は南北数百メートル程度しかありません。当時の火縄銃の射程距離が大体200m程度と言われていますから、鉄砲の射撃訓練場としてなら何とかこの上で収まりそうですが、「(その4)」で引用した「玉匣両温泉略記」に記されていた通り、当時の大筒は小型のものでも射程距離は1kmを優に超えていましたから、こんな狭い地域内で大筒の射撃訓練場など到底収まりません。海上に向けて撃てば民家や寺社をヒットしなくて済みそうですが、目標になるものもなくただ撃つのでは訓練になりませんし、手前の砂浜は鎌倉方面から江の島に向かう参拝者の通り道ですから、その頭越しに撃つことになってしまいます。

となると、この「定杭」が示しているのは駒立山のそれか、もしくは片瀬川対岸の鵠沼村から西の海岸沿いの稽古場のこと、さもなくばその両方を指しているのかも知れません。しかし、そうなってくるとこの「定杭」は一体どうしてこんな、実際の稽古場から遠く離れた位置に立っているのかがわからなくなってきます。

今のところ、この「定杭」について記されているのはこの「見取絵図」しかなく、勿論この杭の現物も残っていませんので、残念ながらこれ以上は推測する以外にありませんが、あるいは幕府としては江の島や鎌倉への参拝者が数多く集まるこの地に敢えて「定杭」を設置することによって、危険を周知すると同時に示威的な効果をも期待したのかも知れません。


江島道:江の島を片瀬東浜より望む
江の島を片瀬東浜より望む
江島道:国道134号地下道の浮世絵パネル
国道134号地下道の浮世絵パネル
歌川広重「相州江之嶋之図」
ともあれ、「見取絵図」上ではこの「定杭」から先には建物が一切描かれていません。またこの辺りから海側の輪郭が幾らかぼかして描かれており、当時はこの辺りから砂浜との境が曖昧になっていたのではないかと思えます。

江の島に参詣するのであれば、当然ここで砂浜に下りて海に向かうことになります。「江島道」の本来の終点もこの地であったと言って良いでしょう。しかし、「江島道見取絵図」ではここから砂浜沿いに西へと向かう道が描かれているらしいことは以前の記事で指摘しました。その詳しい検討は次回に廻します。

ここではその位置関係が比較的良く現れているのではないかと思える浮世絵を、国道134号線の下を潜って江の島に向かう地下道に設置されているパネルの写真でご紹介します。これは歌川広重の「相州江之嶋之図」(推定:天保11〜13年頃)で、潮が干いて陸続きになった江の島に渡る参拝者を遠景に、西方に向かう様に左側に描かれた道の上に旅姿の女性3人と稚児が1人という景色になっています。もっとも、足下の小川の描写などを見ると広重が当時の実景をどの程度反映させていると考えられるかは、慎重に扱わないといけない面もあると思います。その他、この「電子博物館 みゆネットふじさわ」には江の島を描いた浮世絵などの絵画作品が多数収録されていますので、これらを見比べながら当時の様子を思い描いてみるのも良いと思います。

江の島は離島と本土の間が砂嘴で繋がった典型的な「陸繋島」で、潮が引いている時間帯であれば歩いて渡ることが出来たことが、数多くの文献に出て来ます。特に、「新編鎌倉志」が「吾妻鏡」を引用して昔はそれほど頻繁に起きる現象ではなかったとする指摘は、その後の数多くの著述に影響を与えています。また、道中記・紀行文でも、その時々の潮の様子で徒歩で渡ったり舟で渡ったり肩車で渡してもらったり、更には波の高さに江の島へ渡るのを断念したりと様々な様子が記されています。中には完全に潮が引かなくても着物が濡れるのも構わず江の島まで歩いて渡ってしまう高山彦九郎の様な人もいた様です。
  • 「新編鎌倉志」(卷之六):

    ◯江島 …陸より島の入口まで、十一丁四十間許あり。島の入口より龍穴まで、十四町程あり。潮の干たる時は徒歩にても渡る。潮盈たる時は、六七町の間、船にて渡す。【東鑑】に、建保四年正月十五日、江島の明神託宣あり。大海忽ち道路に變ず。仍て參詣の人、船の煩ひなからんと、鎌倉中緇素羣をなす。誠に以て末代希有の神變なり。三浦左衞門尉義村御使として、彼の靈地に參とあり。昔は潮の干事は希也と見へたり。

  • 「新編相模国風土記稿」(卷之百六 鎌倉郡卷之三十八):

    ◯江島 …彼村落より島口迄十一丁四十間許退潮の頃は徒行して到る【名所方角抄】にも汐干は徒歩にて通ふなり云々とあり潮盈れば船を用ひ【東国紀行】にも鹽滿つれば渡し舟坊より言付られておりたり云々とあり或は背負て渉れり此間一町餘あり里俗負越場と呼ぶ、昔は必船をもて往反せしと見え建保四年正月潮退て始て陸地に續きければ希代の神威なりとて參詣の僧俗舟の煩なく群參せしこと見へたり【東鑑】…(「新編鎌倉志」と同一箇所を引用している)…

  • 「伊勢参宮道中記全」宝暦10年(1760年) (下斗米惣七):

    江の嶋へハ天気悪ク潮道なきあしきゆへ不渡

  • 「上方道中記」明和4年(1767年) 鈴木重興:

    一腰越江 ニリ

    夫より江ノ嶋潮干ニ而かちニ参候 潮さし候節ハ舟賃高直之由

  • 「富士山紀行」安永9年(1790年) 高山彦九郎:

    (往路)片瀬村を過て海浜ニ至る、瀬浅ケレハ歩ニ而渡りけるニ膝をこす程ニて有ける、

    (復路)海を歩渡りしけり波高して大ニ衣服をぬらす、

  • 「三浦紀行」享和元年(1801年) 一鸛堂白英:

    (往路)江の島へ昼頃に着けり。…此度は潮漲り浪高くして、船も向ふの岸へは疾と着かず、中途にて船より上りぬ。

    (復路)是より戻りは肩車に乗りて片瀬へ渡る…

  • 「玉匣両温泉略記」天保10年(1839年) 原正興:

    海辺へ出て、波打際をゆくに、色いろの小貝、砂にまじりて(ある)を拾ひつゝ、五丁程ゆけば江嶋なり。むかしはこの嶋、はなれ嶋なりしとかや。いつのころよりか、みぎり左より砂打あげ、岡となりたれば、今はゆきゝのたよりよし。

(「新編鎌倉志」と「新編相模国風土記稿」は雄山閣版より、他は「藤沢市史料集 31」より)


現在は国道134号線が浜伝いに走っていますが、現在の国道467号線の一部になっている龍口寺前から腰越海岸までの区間と、国道134号線の腰越海岸から大磯までの区間は、昭和5年(1930年)に神奈川県が「湘南海岸道路」として開通させたものです。元は海岸線の眺望を当て込んだ観光道路でした。この道路が開通するまでは、江島道とここで交差する道はありませんでした。

次回からはこの江の島の前の浜を西に向かうことになります。

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