2013年11月の記事一覧

【旧東海道】その12 国府津〜小田原間の砂丘と酒匂


国府津〜小田原宿間のルート
その11」で見た様に、旧東海道は国府津まで大磯丘陵の南端に連なる海岸段丘とその上に発達した砂丘上を進んできます。国府津を出るとなだらかな坂を下り、標高10m前後の道になりますが、その際に内陸側(京都進行方向の右側)を見ると、東海道が周辺より一段高い場所を進んでいることがわかります。例によってルートラボ上に国府津から小田原までの旧東海道筋を描いてみました。この図上をクリックするとルートラボのページに移動しますが、そちらで標高グラフを確認してみて下さい。


ここは足柄平野の海岸沿いに発達した砂丘帯に当たっています。

海岸沿いには標高8〜10m程の砂丘が発達している。酒匂川より供給された砂礫物質が相模湾の沿岸流によって浅海底に堆積し、ほぼ東西に細長い沿岸州を発達させた。その後、海退に伴い、基底砂州層は陸化し、沿岸流により運搬された砂礫等は、風の営力によって風成砂層を堆積していった。砂丘堆積物は小礫混りの粗砂である。

(「土地条件調査報告書(小田原地区)」国土地理院 昭和56年(1981年)12ページより。リンク先は該当書のPDF)



地理院地図」で「明治前期の低湿地」を重ねて表示

この地図は国土地理院の「地理院地図」に「明治前期の低湿地」図を重ねて表示させたものです。この「明治前期の低湿地」は「迅速測図」に表示された水田や海浜などを色分けしたものですが、旧東海道筋である国道1号線(赤で表示されている道)の周辺が着色されておらず、砂丘の分布がおおよそで確認できると思います。大磯丘陵端の海岸段丘に比べると標高は下がりますが、それでも低地を抜けていく道筋としては比較的条件の良い地形が存在したと言えそうです。

ところで、国府津から酒匂川へと向かう途上に「酒匂(さかわ)」という地があります。上の地図でも、「酒匂神社」の南辺りに多数の寺院記号が見えていますが、この中には
  • 酒匂神社(旧駒形社):由緒では奈良時代まで遡る。源頼朝の馬を献上したとされる
  • 上輩寺(時宗):永仁2年(1294年)建立
  • 南蔵寺(真言宗):旧福田寺とされる。「吾妻鏡」の頼朝の政子安産祈願の記事にその名が見える
  • 法船寺(日蓮宗):文永11年(1274年)日蓮の滞在に纏わる縁起を持つ
など、古い由緒を持つ寺社が多数存在する地域です。また、鎌倉時代には頼朝に仕えた「酒匂太郎」という御家人の本拠地であり、酒匂川の石を鶴岡八幡宮の礎石として鎌倉まで船で運ばせた記録が残っているとのことです(「小田原市史」通史編 原始 古代 中世)。島津氏と共に薩摩に下向した「酒匂(さこう)氏」の名はこの酒匂の地に由来するという説もあります。

この地は鎌倉時代には宿場であったことが幾つかの書物に記されています。
  • 【源平盛衰記】曰、(注:治承四年、1180年)八月二十五日、和田義盛、三百餘騎にて、鎌倉通を腰越・稻村・八松原・大磯・小磯打過て、二日路を一日に、酒匂の宿に着けるが、丸子川の洪水いまだ減ぜざれば、渡すこと不叶して、宿の西の外れ、八木下と云ふ所に陣をとる、…
  • 【十六夜日記】…曰、(注:弘安二年、1279年)丸子川といふ川を、いと暗くて躘踵(りょうしょう)渉る、今宵は酒匂と云所に止る

(「新編相模国風土記稿」卷之三 山川「酒匂川」より、雄山閣版より引用、注、ルビ、強調はブログ主)



酒匂の宿が鎌倉時代以前の何時頃まで遡れるかどうかは定かではないものの、源頼朝の建久元年(1190年)10月の上洛に際しては、この酒匂の地に宿泊して関本から足柄路を通って西へと向かっています(「吾妻鏡」)。一方、上記「十六夜日記」では箱根山中を湯坂路を経由して越えて酒匂川(丸子川という名で記されている)を渡って酒匂宿に辿り着いており、この宿場が当時は足柄峠越えと箱根越えの2つの道の分岐点になっていたことが窺えます。古代には箱根山を迂回していた街道が、後に箱根山の中を抜けてくる道へと変遷するのですが、その2つの道が合わさる東側の宿場が酒匂であった、ということが言えるでしょう。

ここまで古い時代に遡ると、それぞれの時期に何の辺を通過して足柄峠に向かっていたのか、今ひとつ詳らかではない面もありますが、こうした古い宿場が海岸沿いの砂丘の上に設けられていた点は、街道の変遷を考える際には1つのポイントになるのではないかと思います。

旧東海道:小八幡の一里塚跡
小八幡の一里塚跡のガイド
小田原宿の江戸方見附にも一里塚があった
江戸時代には、関本へは小田原城下で甲州道に分岐する道や、国府津から分岐する道の方が主流になったため、酒匂の地は専ら東海道の酒匂川の渡し場としての役目を果たすことになりました。その様なこともあって、街道歩きの際にはこの区間は割と素通りし勝ちなのですが、時間に余裕があればここで少し足を留めてみるのも良いかも知れません。小田原までまだ1里あまりを残す地(小八幡の一里塚もこの区間にある)で、日暮れが迫って先を急ぐことになりやすい区間ではありますが。

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短信2題

今日の2件は何れも先方の連絡が来るのを待ってお伝えする予定だったのですが、どちらも音沙汰なく日数が経ってしまっているので、ひとまずここでご連絡ということで。

①Yahoo!地図の行政区画の表示について

以前の記事で幾度となく、地図上で地方公共団体等の行政区域を表示させたい時にYahoo!地図を使い、該当する区域が赤く表示される機能を利用してきました。残念ながら埋め込み地図では上手く表示出来ないので、別途リンクでYahoo!地図のページを表示させる形で誘導しているため、最近アクセスされた方もそれに従ってリンクをクリックされた方もいらっしゃると思います。

しかし、ここ2ヶ月ほど、Yahoo!地図のページでも該当エリアが赤く表示される機能が停止してしまっており、意図した表示が出なくなってしまっています。これについてYahoo!側に問い合わせたところ、現在一時的に機能を停止させている状態で、再開次第アナウンスするとのことでしたので、比較的短期で復旧すると考えて特にお知らせしていなかったのですが、本日現在この機能は復旧しておらず、続報も受けていません。

因みに、GoogleMapsでは地図上で該当エリアが点線などで囲まれて表示される形で同様の機能が提供されています。Yahoo!地図では本来は同じエリアが赤く塗り潰されて表示されるとお考え下さい。こちらは埋め込み地図でも問題なく表示されるのですが、生憎地形図の表示があまりわかりやすくない上に小縮尺図が使えないので、専らYahoo!地図の方を選んできた経緯があります。

大きな地図で見る

その様な訳で、いつ頃までこの状態が続くかわからないのですが、当面はこのまま復旧を待つしかないため、その間は私の意図した通りの地図が表示されない状態が続くことになります。申し訳ないのですが、その点事情を御拝察下さい。

②自己トラックバックの削除について

私のブログでは複数回に分けて書いた記事が多く、その場合前回の記事は冒頭で指示する様にしていますが、前回の記事から後続の記事へと誘導する際に自己ブログ内でのトラックバックを活用してきました。意図がやや伝わりにくい嫌いはありますが、記事本文に直接手を入れることなく、比較的簡単にリンクを張れるのが利点で、まとめの記事を書いた場合もその記事から関係する記事全てに対してトラックバックをすることで、どの記事からでもまとめ記事を経由して別の記事へ移動できる様に工夫してきました。

ところが、先月まとめ記事からのトラックバックが反映しない現象が出たため、FC2側に問い合わせたところ、同一ブログ内では1つの記事から複数のトラックバックが送れなくなってしまった様です。以前はできていたので仕様変更なのか別の問題なのか、委細の説明を求めている段階なのですが、その後の説明がないのでどちらであるかは不明です。が、何れにしても出来なくなってしまったことに変わりはない様です。
2013/11/25用スクリーンショット
このため、トラックバックによって後続記事を指示する方法を諦め、記事の末尾に後続記事の指示をその都度追加する方針に変えることにしました。既存の記事が多数あるため、一気に変更することが出来ませんが、少しずつ変更を加えていきます。既存のトラックバックは作業が終わり次第削除する予定です。その間、両者が混在する形になりますが御了承下さい。
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【旧東海道】その9 馬入の渡しと馬入橋(その3補足)

以前の記事で、馬入橋が明治16年(1883年)に改めて架けられた際には木製トラス橋であったとする記録を紹介し、それを裏付ける地元の記録が見つかっていないことを指摘しました。

その後も何か記録が出て来ないか探してはいるのですが、記録自体が一般向けに公開されているものが少ないこともあり、相変わらず目ぼしいものは見つかっていません。今回は差し当たりその中で比較的近い時期の道中記を2点、メモ代わりに書き留めておこうと思います。

1つ目は「逗子市史」に収められているもので、明治16年、つまり木製トラスの馬入橋が開通したその年の伊勢参りの記録です。ただ、惜しいことに出発は2月、馬入橋が開通したのは5月でしたから、この時にはまだ工事中だったことになります。

翌十二日朝雪降ル、午後一時発足、沼間桐ヶ谷ノ馬ヲ借用、藤沢駅台若松屋ニ至ル、茲ニテ見送リ之者ト別レ、尤三ツ橋迄送リシ者ヘハ同楼ニ於テ酒肴ヲ出シ帰ス、若松屋ニテ一飯ノ後出立五時三十分、夜行大磯駅角屋半左衛門方ニ着、時午後九時

一出金弐円 藤沢ニテ買物

一廿七銭  旅籠代

一八銭   酒代

(「明治十六年 伊勢参宮道中日誌」より、「逗子市史 資料編Ⅲ 近現代」65ページより引用)

工事中の橋を渡ることは出来ませんから、この時は渡し舟だった筈ですが、何故かその際に必要だった渡し賃は記されていません。概略の出費だけが記されているということでしょうか。何れにせよ、馬入川に絡む記述はありませんでした。

明治時代に入ってもこの頃までは、伊勢参りに出掛ける前に大勢の見送りが途上まで付いてくるのは江戸時代の風習と変わっていなかった様で、藤沢宿で暫しの別れを惜しみながら夕方まで一献をあげています。その結果として重い腰を上げて大磯に向かった時には既に夜になっていた訳ですから、馬入川に着いた時には既に暗がりの中だったことになります。念のため「月齢カレンダー」を使って当時の月齢を確認すると、12日当日は月齢4.4、朝方は雪ではあったとしているものの渡河時の天候は不明なので、その時刻には西の空にあった月が見えていたかどうかは不明ですが、この月齢ではあまり明るい夜ではなかったのは確かでしょう。工事中の橋がどの様な姿をしていたか、委細まで見るのは恐らくは難しかったのではないかと思います。


2つ目の記録は明治18年の伊勢参りの記録で、出発点は会津・猪苗代の村です。御子孫の方がこれを「明治十八年の旅は道連れ」(塩谷和子著 2001年 源流社)という本にまとめて出版されているため、こちらから平塚に関する箇所を確認してみました。

一行は途中、時宗総本山・遊行寺(ゆぎょうじ)をお参りし、儀重(注:一行の最年長者)は次の宿場までまた人力車のお世話になります。馬入川(ばにゅうがわ・現相模川)の有料の橋を渡るとまもなく平塚です。

(上記同書101ページ、3月27日の項、強調はブログ主)

この道中では総勢9人で伊勢へと向かっているのですが、その際の記録は出納帳なども含めて3種類あり、この本はそれらの記録を元に著者が再構成したものになっています。巻末には元になった道中記の1つが翻刻されて掲載されているものの、

鎌倉ヨリ出立、先ズ其地ノ大佛様、其高サ四丈八尺。観音社、権五郎社ヲ拝ス。其与リ小舟ニ江ノ島迄ノリ、此賃金弐銭也。十時頃着、辮天社ヲ拝ス。恵比寿屋茂八殿方ニテ昼飯ヲ食ス。其与リ三里廿五丁、平塚駅ニ至リ笹屋伊兵衛殿方ヘ泊シ、其泊料ハ弐拾銭也。

(上記同書325〜326ページ)

残念ながらこちらには馬入橋に関する記述は皆無でした。馬入橋を有料としている記述は恐らく出納帳の方に記されていたのでしょうが、何れにせよこちらにも橋の姿に関する記述は見られませんでした。

こうした伊勢参りの記録はまだ他にも埋もれているものがあると思いますので、それらの中に当時の馬入橋に関する記録が含まれている可能性は引き続き残されているとは思います。とは言え、ここまで空振りが続くと、当時は珍しい橋の姿だったとは言っても、そこまで興味を持ってその姿を見ている人は少なかったのかなぁ、という気にもなってしまいます。横浜・吉田橋が明治2年(1869年)イギリス人の手によってトラス橋に架け替えられた際も、評判になったのはトラス橋だったからではなく、これが「(かね)の橋」であったから、つまり当時は木造建築しかなかった日本の地に鉄を使って橋を架けたことの物珍しさの方が優っていたから、と考えると、構造的な面での物珍しさにはあまり注目されていなかったのかも知れません。その分、馬入橋の「トラス橋」という特徴が見落とされて記録に残りにくくなった側面があるのではないか、という気もします。

ただ、もしもこの推論が正しいならば馬入橋に用いられたトラスの形式は「ポニートラス」と呼ばれる小振りのものであった可能性が高くなりそうです(こちらに昭和初期の藤沢・大鋸橋[現・遊行寺橋]の写真がありますが、これもポニートラスの一例です)。大型のトラス橋では「上横構」と呼ばれる構造が頭上に渡されるので(下路式の場合)、その大きさも相俟ってかなり強い印象を渡る人に与える筈です。しかしポニートラスであればその様な構造がなく、また脇の主構も比較的小さくなるため、見た目は高欄付きの橋に近くなってきます。


明治時代中頃であれば通過する車両は精々馬車止まりですから、それほどの耐荷重を必要としていた訳でもないので、コストの掛かる大振りなトラスを構築したとは考え難い面もあり、その点でも馬入橋がポニートラスであったという推論はさほど無理なものではないと思われます。

そして、もし長大な馬入橋がポニートラスであったとするならば、橋桁の長さをあまり大きくすることは出来ませんから、その分橋脚の本数も多くなったと思われます。江戸時代からの伝統的な架橋方法に比べれば幾らか径間長を確保出来たとは思われるものの、橋脚の本数削減にはそれほど寄与出来ず、その分増水時の問題に対応するには十分ではなかったのかも知れません。勿論、この点を突き詰めるには当時の橋の構造が具体的にわからなければなりませんから、飽くまでも推論の域を出ない話ではあります。

震災や戦災などで既に地元の史料の多くが失われている現状では、そこまで細かい記録を辿るのは最早不可能ではあるのでしょうが、その周辺地域に何かしらの記録が残っている可能性もないとは言えませんので、今後も折に触れて資料探しを続けたいと思います。
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【旧東海道】その11余談 梅沢の立場の「お品書き」

旧東海道・梅沢の現在の様子
梅沢の現在の様子(2007年)
茶屋本陣跡前から京方を見る
すぐ先で押切坂を下る
(その3)の回に、梅沢の立場では鮟鱇(あんこう)が名物であったことに触れました。ちょっと意外な魚の名前が出てきたので、今回は少し気楽に、この鮟鱇をはじめ梅沢の茶店で出されていたものを、紀行文などの記述から追ってみたいと思います。もっとも、タイトルは無理に「お品書き」としたものの、レシピなどが残っている訳ではないので具体的なメニューを再現するのは無理ですが…。

今回は「相模国紀行文集 神奈川県郷土資料集成第六集」(神奈川県図書館協会編 1969年)という本に、何故か梅沢の鮟鱇について触れた紀行文がまとまって見つかりました。あるいは神奈川県内の記述が豊富な紀行文を編者が意図的に選んだ結果なのかも知れません。以下その4点の引用です(強調、ルビ、注釈は何れもブログ主、「木賀の山踏」は再掲)。

大磯より二里計行て梅沢といふ所のやどりにやどりてしばし心をやしなふ。此里の漁人網をあげて得たりとて、あんがうひらめなどといふいを(魚)あざ(鮮)らけきをもて来れり。あるじいとよくこしらへものしければ腹もふくれぬ。

(「塔沢紀行」藤本松庵 元禄7年(1694年)、同書366ページより)

(注:文政七年三月)二十日

…梅沢村にやすむ。庭にほたんの花うるはしく咲たり。此村はあんこうといふ魚、あはのもちゐ売る家おほし。梅沢山藤雲寺といふ寺あり。藤の大木ありときゝつれとも、行かてにして見す。今をさかりの頃としられて、名こりおほかり。

(「甲申旅日記」小笠原長保 文政7年(1824年)、同書24ページより)

(国府本郷の)切通しを過、梅沢までは大体二りも有へきか、このいそつゝき梅花石有。然し梅花の備りし物稀々也。梅沢元来は山西村にて、梅沢はあさ名也と。橘姫の御(カバネ)を埋しによりて、うめ沢と云ひしとや。されは、さかはの海辺つゝきを袖か浦と呼る事も彼姫の御そてを打上しゆへ、袖かうらと云也けりと、則こゝに橘ひめの御社有。梅沢は春夏とても、あんかうのしる名物也。それに戯て、

すいた事なき世なりけりうめさはに

冬のかほれる鮟鱇の汁

みち興准后

旅衣はるまつこゝろかはらねは

きくもなつかしむめ沢のさと

(「東雲草」雲州亭橘才 文政13年(1830年)、同書325〜326ページより)

大磯より宿駕に打のりて行ぬ。小田はら近くなるまゝ歓ひの酒くまんとて梅沢てふ所にてある酒店に入。ここは鮟鱇といへる魚の名物なれは其魚のあつ物にて人々酒汲かはしぬ。

あんこうを肴にひとつ過さはや

酒匂川に近き家なれはこそ

(「木賀の山踏」竹節庵千尋 天保6年(1835年)、同書403ページより)


引用した紀行文のうち、特に最初の元禄7年の「塔沢紀行」に鮟鱇が登場するということは、梅沢の立場が大きくなってきた頃には既に鮟鱇が梅沢のお品書きに登場していたと見て良さそうです。同地の漁で何時頃から鮟鱇が獲れる様になったか次第ですが、あるいはもっと前まで遡れるのかも知れません。

「新編相模国風土記稿」では、山西村の「海」の項で「鮟鱇を此濱の名品とせり、(雄山閣版より引用)」と一言触れているに過ぎませんが、「楳澤志」ではもう少し詳しく触れています。

棘鬣魚(たい) 鯿(ひらめ) 的魚(まとうお) 鯖 鯵 松魚(かつお) (ほうぼう) (まぐろ)

 少しく網捕と()えども、皆東都(えど)へ運送して、磯(あきない)をせざる故に魚(とうとく)して賈下得益(あきないえき)(すくなし)

花臍魚(あんこう) 少しくあり。一名老婆魚、又は瑟琶(びわ)魚、無鱗魚とも呼ぶ。初冬(しょとう)より出る者は多く重い。春に至り()(こう)じ茶店街にて調味して之を(あきな)ふ。旅客(りょきゃく)の貴賎ともに(ほめ)食す。梅澤鮟鱇(あんこう)其の()(ろん)ぜず。彼全盛なるべし。

(2008年 二宮古文書会刊 私家本より、ルビも原則同書に従う、強調はブログ主)


筆者の実応は農産物の時と同様、こちらも多少控えめに漁獲を見ている嫌いはありそうですが、そんな中でも鮟鱇は割と評判が良かった様です。因みに、江戸が近海の漁獲の一大消費地で、東京湾や相模湾の沿岸の漁師が挙って江戸へと獲った魚を運んでいたのは事実ですが、その点では梅沢あたりまで離れてしまうと流石に遠過ぎたのも不利な点ではあった様です。特に足の早い魚は獲っても江戸まで運ぶ前に駄目になってしまったのではないでしょうか。

なお、最近の二宮町では、鮟鱇について

アンコウ Lophiomus setigerus 底引き網で獲る。冬は深さ100〜150m、夏は深さ50〜60mくらいのところにすむ。特に寒アンコウの吊し切りは徳川時代から梅沢の名物として有名であったという。最近は獲れない。以前はヒラメ、ブリ、アンコウなど冬のさかなは木の芽時には味が劣り、値は二束三文になった。

(「二宮町史 資料編1 自然」平成2年 277ページ)

としており、漁獲が減ってしまったことを示唆しています。また、鮟鱇の値段が春になると下がる点については、こんなメールマガジンを見つけました。

○悲しいアンコウの話 (相模湾試験場 川原 浩)

旬寒さが身にしみる12月から梅の花が咲き終わる2月頃までが一般に旬とされ 西のフグ・東のアンコウと言われるほど冬の味覚の横綱格であるが、この時期を過ぎると昔から鮟鱇を皮肉って川柳でも「魚偏に安いと書く春のこと」と読まれるように春になると急に味が落ちる魚とされている。 表題の何が悲しいかというとこの評価の落差である。

あまり知られていないが、私のいる小田原ではヒラメを対象にした刺網(ヒラメ網)が12~4月頃まで操業され、この網でアンコウ(キアンコウ)がよく漁獲される。しかし、悲しいかな漁獲が増えるのは味が落ちるとされる3月頃からである。

2月頃までは1500円/Kgの値が付くが3月末には100円~200円/Kgにまで値が下がり、最後は水揚げしないでくれというところまでいくのである。当然、水揚げ量の多寡、鍋という冬の食べ物といういイメージからくるニーズの低下の反映や厳密な品質評価という市場流通の結果であるが、漁師でなくても「そんなぁ~(/_;)」と言いたくなる。

(「神奈川県水産技術センターメルマガ VOL.142 2006-5-5」より引用、肩書は執筆時点、…は中略)

…どうやら流通の発達した現代の方が値崩れの酷さが増した様です。「楳澤志」の指摘に従えば、江戸時代にはむしろ春先の値崩れの頃に街道筋の茶店で割安に出したことで、普段は高嶺の花で手が出ない一般庶民の層にも手が届く様になり、旅路の良い土産話になると受けたのではないでしょうか。

では、梅沢では鮟鱇をどの様な料理にして客に出していたのでしょう。上記の文中には「汁」「あつ物」といった言葉が並んでいますので、やはり鮟鱇鍋の様な煮物にしていたと見るのが妥当なところでしょうか。どんな味付けをしていたのかは不明ですが。また、鮟鱇と言えば「吊るし切り」ですが、これは「本朝食鑑」にも記されている解体法なので、元禄の頃には存在していた様です。梅沢でも吊るし切りが行われていたことが上記「二宮町史 資料編1 自然」でも触れられていますが、これは

軒を並び梅沢あごをつるしてる酢の過ぎている梅沢の嫁

(「梅沢御本陣」二宮町教育委員会 1993年 82ページより引用、強調はブログ主)

こんな狂歌が残っていることから考えても確実でしょう。

ところで、梅沢の属する山西村に伝わる村明細帳の中に、こんな記述を見つけました。

あんかう(杯)         御菜

当浦ニ而十月ヨリ正月迄内取次第、一盃ツゝ年々御台所差上申候、但御屋敷迄飛脚ニ而さし上御屋鋪ヨリ御上被成候

(「二宮町史 資料編1 原始 古代 中世 近世」520ページより引用)

元になった史料(「山西村高反別村差出し諸色覚帳」)全体には元禄9年(1696年)の日付があるのですが、この史料は「覚帳」とある通り、各種の明細帳から必要な箇所を転記してまとめたもので、その中に含まれている記述は複数年に及んでいます。この箇所はすぐ前の中表紙から正徳3年(1713年)のものであることがわかります。後から書き足していっている訳ですね。

享保年間(1716〜36年)まで、江戸の幕府には全国各地から多数の「献上品」が挙って届けられていました。その詳しい事情については「徳川将軍家の演出力」(安藤優一郎著 新潮新書)という解りやすい良書がありますのでそちらに委ねます。相模国では中原の御酢の献上が著名でした。そうした献上品の中に、梅沢の鮟鱇も入っていた訳ですね。初物が水揚げされ次第、飛脚が江戸の代官屋敷まで大至急で鮟鱇を運び、(かみしも)姿の代官がその鮟鱇を携えて幕中へしずしずと見参…といった感じでしょうか。

この鮟鱇の献上が何時頃から始まったのかは不明ですが、鮟鱇献上に関する記録は山西村の宝永4年(1707年)の明細帳にも見えています。ということは、少なくともこの宝永〜正徳年間には献上が続けられていたことになりそうです。実はこの献上品の慣習はいわゆる「享保の改革」の一環で華美による浪費を抑制すべく、全国の大名・代官宛に大幅な縮小が命じられました(上記「徳川将軍家の演出力」参照)。中原の御酢もその一環で献上が廃止されたのですが、梅沢の鮟鱇も恐らくその時分に御多分に漏れず献上廃止になった様です。実際に、更に後年の村明細帳では献上に関する記録は見られなくなります。

旧東海道・梅沢茶屋本陣跡の敷地の古井戸
梅沢茶屋本陣跡の敷地の古井戸
時期的にはもっと新しいものの様だが
このお宅が近代以降も梅沢茶屋町の
中心であったことが窺える
その代わり、梅沢の茶屋本陣「松屋」からは、冬場には鮟鱇自体を、それ以外の季節には鮟鱇の皮の干物や鮟鱇子生干しが定客への献上品として大名宛に送られ、好評を得ていたことが記録されています(「梅沢御本陣」82ページ)。鮟鱇の根強い人気振りが窺えますね。

また、藤沢〜平塚間の南湖の立場では、おはぎを「あんこう」と称して供していたといいます(「神奈川の東海道(上)」179ページ)。これの元の出典になったであろう紀行文がどれかはわからないのですが、わざわざあんこを鮟鱇にかけた別名にしておはぎを売っているのは、どうも梅沢の鮟鱇を意識している様な気がしてなりません。江戸時代初期の紀行文「東海道名所記」には梅沢の記事はあっても南湖についての記述はないので、恐らく南湖は梅沢に比べると若干成立年代が遅いものと思われるのですが(「茅ヶ崎市史」では過去帳などを頼りに元禄年間以降の成立、もしくは興隆ではないかと推測しています)、茶屋本陣が同じ「松屋」だったり、何かと「先輩格」の梅沢に色々見習ったり肖ったりしていたのかも知れません。



さて、いくら鮟鱇が名物だと言っても、所詮は冬場がウリの魚、上記「東雲草」では春以降も鮟鱇の水揚げがある様に書いていますが、夏場には深海へと移ってしまうその生態の影響でさっぱりと揚がらなくなってしまいます。江戸時代の参詣シーズンが冬場だったのはその点では幸いではありましたが、他の季節にも道行く人はいますし、その時期に出すものがなければ商売が続きません。梅沢では鮟鱇のシーズンオフに何を出していたのでしょう。

そのような事例を探してみたのですが、なかなかこれというものが見当たりません。上記の紀行文の中には「ひらめ」の名前も見えていて、確かにこちらの方が漁獲量も多く、むしろヒラメを獲る網の中に鮟鱇が上手くすると混ざっている、という方が実情だったでしょう。一応冬場が美味とされるものの年中漁獲のある魚ではあります。ただ、具体的に梅沢のヒラメの名前が挙がっているのは、探した中ではこの紀行文だけでした。

また、以前引用した「東海道名所記」では、鰹が茶店の卓に供されました。もう一度引用すると、

梅澤 茶やあり。…男はさかなのため、鰹のあぶりものを買てくへども、樂阿彌はさすがにえくはず、かくぞよみける。

口の内に津こそはたまれ梅澤の茶やの(さかな)は我もすきゆへ

此哥にめでゝ、くはせければ、腹ふくるゝほどくひけり。男うちわらひて、

梅澤やなむあみ引てとる鰹彌陀の理(けん)でさしみにぞする

(「日本古典全集」日本古典全集刊行会発行 1931年、現代思潮社復刻版 1978年より引用、…は中略)

ここでは「あぶりもの」と言っていますから焼き魚になって出てきたのでしょうね。「さしみにぞする」は歌の中での喩えですから恐らくこの時の食卓にはなかったと思いますが、お品書きにはあったのでしょうか。いわゆる「カツオのたたき」があったかどうかはわかりませんが…。これも事例としてはこの1件だけでした。

それ以外に見つけたのがこちら。これがまたちょっと理解し難い例です。

錦織義蔵はその梅沢の繁栄振りを次のように書いている。

梅沢(雨晴) 街道ノ中程左ノ方津た屋(本陣ナリ)ヨシ、表ふじノ大棚アリ、旅人多ク来集ス、△此処西ノ町ハズレ小休、カニジキト云魚切目アリ、色白(虫損)白豆腐ノ如シ、珍ラ敷テ食ス、味アシク跡ニテそば切ヲ食ス

(「川柳旅日記 その一 東海道見付宿まで」山本光正著 2011年 同成社 113ページより、一部原本『日本都市生活史料集成』8を参照の上追記、強調はブログ主)


この紀行文は「東海紀行」と言い、この人は慶応元年(1865年)に訴訟のために近江国滋賀郡本堅田村(現滋賀県大津市)から江戸に出てしばらく滞在していました。このため自国への帰路に付いたのはようやく5月25日、その帰路の様子が書かれているので、紀行文としては珍しい季節のものになりました。因みに、「表ふじノ大棚アリ、旅人多ク来集ス、」は等覚院東光寺(藤巻寺)のフジのこと、時期的にちょうど見頃だったのでしょう。また茶屋本陣を「津た屋」と記しているのは義蔵の記憶違いと思われます。

ところでこの「カニジキ」という魚がどんな魚なのかが謎です。義蔵も聞き慣れない名前の魚なので試しにと注文した様ですし、何か良く知られた魚の別称であれば膳が運ばれてきた時に気付くでしょうから、珍品ではあるのでしょう。

「二宮町史 資料編1 自然」には同地で水揚げされる魚が一通り記載されており、地元の独自の名称があるものはそれも掲載されているのですが、その中にはこの「カニジキ」もしくはそれに近い名称の魚は入っていませんでした。ネットで検索してもこんな名前の魚は出て来ません。聞き違いという可能性もあるものの、この情報だけでは具体的に魚種を特定するのは難しそうです。ひとつだけわかっているのは、「豆腐の様に白い」白身魚だが、少なくともこの時はすこぶる食味が悪くて、蕎麦切りで口直ししているということです。ただ、これは調理の仕方が悪くて不味くなってしまったのかも知れませんし、この魚のこの時期の食味が悪いだけなのかも知れません。不味いとわかっている魚を調理して客に出すとしたら相当な魂胆ですが、店の方も出せる魚の水揚げが少ない中、見慣れない魚でも調理して出すしかなかったのかも、という気がします。



食事以外の、茶菓の類はどうでしょうか。上記の「甲申旅日記」では「あはのもち」が挙げられていますが、こちらもこれといった記録がなかなか見つかりませんでした。この粟餅(Wikipediaではこの様に解説されていますが、梅沢の粟餅がどの様なものだったかは詳細は不明です)もなかなか好評だった様で、松屋茶屋本陣の定客宛の献上品の中に入っています。「梅沢御本陣」(二宮町教育委員会編)のまとめた献上品一覧(83ページ)から茶菓に属すると言えそうなものを拾うと、(カッコ内は献上月、確実に同一のものと思えるものは項目をまとめました)

  • 粟餅(名物切粟餅)(1,2,8,9,10)
  • 饅頭(4)
  • 粟アンコロ(4,5)
  • 草ノ花餅(4)
  • 上菓子(4,6,7,8,10)
  • 柏餅(5)
  • 上打菓子(5)
  • アベ川(6)
  • オハギ(6)
  • シンコ餅(8)
  • 手搗アンコロ(10)

これらは折々の季節の他、献上の際の様々な背景が品物に込められているケースもありますので、梅沢の他の茶店で出されていた時期と合うかどうかまではわかりませんが、上菓子の様な明らかに献上用に誂えられた、一般向けではないものは別として、梅沢の茶店で出されたもののおよその目安として見ることも出来そうです。中には今でも普通に目にするものも入っていますね。

ただ、果物も含め、「楳澤志」が地元の農産物の稔りが少ないと書いていた点を考え合わせると、勿論中には地元で穫れたものを使っているものもあるのでしょうが(粟などは流石に現地調達しそうですし、小豆や大豆は何とかなりそうです)、中には材料を周辺の村から取り寄せたものも入っていそうです。勿論、砂糖などは外から調達するしかないでしょう。

あぁそうそう、多くの人が気にするであろう(笑)お酒について書くのを忘れていました。山西村では2軒ほど酒造を営む家があった様ですので、梅沢の茶店で出していたのも多分そこのお酒でしょう。ただ、今と違って銘柄を気にする時代ではないので、地酒マニアの方には残念なことに、どの紀行文を見ても「酒」としか出て来ません。二宮町の山西地区には地元ブランド酒を売っているお店がある様ですが、そこが果たしてこの江戸時代の酒造家のうちの一つなのかはわかりませんが…。



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【旧東海道】その11 大磯〜梅沢の地形と立場(その4)

元々、「その11」は前回までで一区切りさせるつもりでした。しかし、その後引き続いて紀行文・道中記中の梅沢付近の記述を探しているうちに、大変面白いものを見つけてしまったので、それに絡んでもう1回追加してここで取り上げることにしました。

問題の道中記は「伊勢参宮紀行」と言います。文政11年(1828年)2〜3月に、藤沢から伊勢詣でに出掛けた際の記録なのですが、その中でこういう一節が出てきます。

十日、曇、九つ時(より)大風雨、小田原ゟおいだいら(ママ)迄行、夫ゟ帰り泊ル、升屋勘左衛門

箱根山鶯多し

〽玉くしけはこねの山の鶯をかごの内にてわれハ聞けり

同駕籠に酔ければ

〽鶯をきくに付けてもうらやましまだかごなれぬ旅の山道

(「藤沢市史料集(二十八) 伊勢参宮紀行・道中日記」 藤沢市文書館編 2004年 8〜9ページ、傍注は原文通り、強調とルビはブログ主、なお、狂歌頭のヘの字記号は庵点と判断してその様に記しました)



箱根・畑宿付近の地図
「畑」というのは箱根山中の(あい)の宿である畑宿のことですね。ここで「おいだいら」と言っているのは「笈の平」のことでしょう。今でも甘酒茶屋が1軒同地で営業を続けていますが、江戸時代にはここに4軒の甘酒茶屋があったとの記録が残っています。そこまで駕籠で登ったものの、恐らくは悪天候で進路ままならず、このままでは関所の閉門時間に間に合わないと判断して、畑宿まで何とか引き返して急遽宿泊…といったところでしょうか。無論間の宿の宿泊業務は原則禁止ですが、こんな悪天候の山中でそんな悠長なことは言っていられない、ということなのでしょう。


これだけなら、間の宿に実際に宿泊した事例が単に1つ増えるだけですが、問題なのはこれを書き留めた人の方です。この「伊勢参宮紀行」の筆者、平野新蔵について、この文の引用元である「藤沢市史料集(二十八)」ではこの様に解説しています。

「伊勢参宮紀行」(…)は藤沢宿坂戸町の旅籠平野屋の平野新蔵が文政十一年(一八二八)、四十九歳の時に伊勢、奈良、大坂、京都などを旅した折の記録である。ところで平野家は藤沢宿坂戸町の有力な旅籠屋で代々問屋や年寄など宿役人を勤め、「孫七(もしくは孫七郎)」、「新蔵」を名乗り、『東海道膝栗毛』にも登場する。「伊勢参宮紀行」は平野家九代目の平野新蔵(道治)が記したものである。彼は家業の傍ら狂歌、俳句などを事とし、狂歌は「本街道駅路鈴成」と号し、二世森羅亭万象(医師森島中良、初代万象は平賀源内)門下、俳句は「冨屋」と号し、渡辺崋山「游相日記」に四句が記されている。

(同書1ページ、解説から、…は中略、強調はブログ主)


なんと、この人は藤沢宿の役人の地位にある人なのです。宿場が立場(たてば)の宿泊業務で迷惑を蒙っているとなれば、奉行などに宛ててクレームを出す側の人です。そういう人が、いざ自分が旅人の立場(たちば)(別にネタを狙った訳じゃないんですが…)に立ったら、自分はちゃっかりと間の宿に宿泊しちゃってる訳ですね。



羽鳥村(現:藤沢市羽鳥)の位置
県道43号線→44号線の筋が旧東海道
Googleマップより)
まぁ、同行者もいる手前もあるのでしょう。紀行文の末尾には同行者として新蔵の他に「河内屋九兵衞」と「尾島富五郎」の名が記されています。このふたりがどういう素姓の人なのか、藤沢宿の幕末の宿並の住人を書き上げた一覧(「藤沢宿惣家別書上帳」)では確認出来ませんでしたが、「河内屋」という名前から見ても藤沢宿近隣の住人には違いないでしょうから、新蔵が藤沢宿役人であることはこのふたりも重々承知でしょう。おまけに、この「藤沢市史料集(二十八)」にはもう1本、藤沢宿西側の羽鳥村の名主の跡取りだった三觜佐次郎の道中記が収録されているのですが、その中で、

一藤沢平野屋新蔵殿京津ノ国屋ニ而逢ふ

書状壱通御預

(同書100ページ)

違う日に出発した同郷のふたりが、京都で偶然にも同宿になってバッタリと逢い、手紙を一通託すなんてことまで起きています。つまり完全に新蔵の「面が割れている」訳ですが、そんな最中に本来御法度の間の宿泊まり…。「いいんですか、それ?」と思わずツッコミを入れたくなります。なお、書状を預かった佐次郎の方は、帰途箱根に着いたら芦之湯、木賀、宮ノ下と温泉巡りをしており、その都度湯治場に泊まってはいるものの、東海道筋では間の宿には泊まらず、宿場できちんと宿泊しています。

とは言え先程の事例は、箱根山中の、それも諸々条件が悪い最中の話ではあります。しかも畑宿から笈の平は小田原からの登りのなかでも一番勾配のきつい区間、駕籠で上り下りするのも危険なくらいで、新蔵が慣れない駕籠に酔ったと笑い飛ばすのも、道中を考えれば慣れだけの問題ではなかろう…などと、ここまではまだ色々と同情の余地もあります。また、世田谷区立郷土資料館編の「伊勢道中記史料」(1983年)には、「東海道宿屋名前付」という、宿屋のリストが含まれています。本書の解説では伊勢参宮の講中御用達の定宿(じょうしゅく)の一覧を書き写したものではないかと推測していますが、このリストに「畑」「湯本」の名前が見えています。つまり、伊勢講の定宿リストに名前が載る程までに、箱根山中では間の宿への宿泊が公然化・常態化していた背景も念頭に置く必要があるでしょう。

しかし、この紀行の帰路の部分を読み進めると、更にこんな一節が出てきます。

(注:三月)十八日、雨天、昼ゟ快晴  △朝日とく夕日ハ遅き不二か嶺の

なるのよいとくミじかかるらん

よし原ゟ     原ゟ          沼津ゟ

三り六丁   沼津へ壱り半      ミしまへ一り半

ミしまゟ

山中へ二里   一八日、山中泊り

△春雨にいぶすを宿の馳走かな

篠をたく箱根泊りや夕霞

十九日、曇

山中ゟ        小田原ゟ        十九日、こうづ

小田原へ六里     国府津(コウづ)へ一リ         茶屋泊

(同書80〜81ページ、強調はブログ主)



山中の立場付近(ストリートビュー
右手奥が山中城址
こちらは2日連続の間の宿泊まりです。3月18日は前泊地の吉原から東海道を東へ進んでおり、三島まで既に6里以上は歩いています。ここで旅程を中止して三島に早めに泊まるか、敢えて箱根宿まで行くか、出発の頃よりは日暮れまで幾らか余裕が出始める季節ですし(和歌もそのことを歌っていますね)、判断の微妙な所ではありますが、結局先に行く方を選択して、山中(やまなか)で再び雨に遭って裏目に出た様です。もっとも、その後の里程が次第に小刻みになるところを見ると、そこまでの無理が果たして必要だったかは疑問で、どうも最初から「いざとなったら山中で泊めてもらえばいいや」位に考えていた節も見え隠れします。因みに、この箱根外輪山の間の宿のそばには、後北条氏が築いた山中城址の遺構があることで有名です。

問題はその翌日で、この日は都合7里しか進んでいないことになります。途中箱根峠越えと酒匂川の渡しがあるとは言え、この記事からは川越しに手間取った風でもなさそうですし、敢えて国府津に泊まったのは一体どういう事情なのか、首を傾げてしまいます。もう藤沢が近く、次の日はたった4里足らずの道程を歩いて平塚に泊まっていますので、疲れが出たのか、祝杯をあげつつの日程調整なのか、その最中の間の宿泊まりは、取り敢えず酒匂川だけ早めに越しておこうということだったのでしょうか。

敢えて梅沢を選ばなかったのは、流石に立場上大磯宿から梅沢について色々と聞かされていたために、宿泊させることに渋くなっていることを知っていたからかも知れません。国府津への宿泊の例は前回取り上げた道中記にもありましたが、梅沢が大磯宿から色々と咎めたてを受ける様になったからなのか、今度はもっと酒匂川の渡し寄りの茶屋街でまたこっそり宿泊する客が増え始めていた様です。大磯宿の立場からすれば「イタチごっこ」の様相を呈しつつあったことになりますが、そこに近隣の宿場の役人が宿泊していたことをもし大磯宿側が勘付いたら「新蔵さんあんたそりゃないよ」くらいのことは言いそうですね。

何にせよ、こうなるとこの平野新蔵という宿役人は間の宿への宿泊について、割と鷹揚に考えていたと言わざるを得ないですね。


さて、ここまで随分と茶化しながら書いてきましたが、この一例だけをもってして、「だから宿役人たちもみんな道中キツイのはわかってたから、間の宿泊まりも結構大目に見る下地は持っていたんだ」などと一気に類型化するのは危険でしょう。平野屋は旅籠ですから、その点では庶民の旅をより近い位置で見届ける位置にいたのは確かで、その分判断が柔軟になっていた可能性はありそうです。あるいは、狂歌などをたしなむユーモアのある人の様ですから、そうした個人的な資質が影響していた面も考える必要があるでしょう。他に宿役人の道中記などがあれば、是非とも読んで比較してみたいものです。


茅ヶ崎・南湖の第六天神社(ストリートビュー
かつてはこの西側に南湖の立場が
広がっていた
しかし、これに関連して気になるのは、藤沢宿と南湖(なんご)の立場との関係です。藤沢と平塚の中間に位置するこの茅ヶ崎村の立場は、その西側に馬入の渡しを控えており、位置関係が酒匂川を西に控える梅沢の立場と良く似ています。藤沢宿と平塚宿の間も3里半とかなりの長距離で、その中間に位置する南湖が良く利用され、茶屋本陣と称される茶店があった(屋号も何故か梅沢と同じ「松屋」)のも梅沢と共通するものがあります。道中記や紀行文でも、南湖の宿泊を示唆するものが幾つか見られます(前回引用した高山彦九郎の「小田原行」もその1つです)。

(四月)四日泊り

一南古

木三十五文

米 六十弐文 宿 利右衛門

(「上方道中記」〔陸奥国耶麻郡落合村〕鈴木重興 明和4年(1767年)、「藤沢市史料集(三十一) 旅人がみた藤沢⑴」9ページより引用)

この例では南湖で木賃宿の風習に従って対価を出して宿泊したことになります。無論、東海道の立場に常設の木賃宿があっては不味いですから、街道沿いの茶屋か民家が臨時の木賃宿として薪代と米代を受け取った訳ですね。

こんな状況であれば、藤沢宿も大磯宿と共通の悩みを抱えていたとしてもおかしくありません。けれども、南湖に関しては近隣の宿場から宿泊を具体的に咎められたという記録が、今のところは見つかっていません。

無論これは、単に史料が発掘されていないだけで、実際には藤沢宿から南湖の立場を咎めたてる様な訴えが具体的に出たことがあったのかも知れません。「茅ヶ崎市史4 通史編」でも「残念なことに南湖の茶屋関係史料は皆無に近い状態」(232ページ)と記すほどなので、同地の立場の実情については専ら紀行文や道中記に記されたものを手掛かりにして調べるしかなく、外から見え難い部分については語り難いのが実情です。

しかし、上記の平野新蔵の紀行文を読んでいると、こういう宿役人のいる宿場がそんな訴えを出すのかなぁ、という気にもなってきます。勿論、新蔵以外の宿役人が強硬な意見を持っていたかも知れませんし、他の世代の宿役人が同様に考えていたという謂われもないのですが。

ただ、その様な目線で藤沢宿と大磯宿を比べた時、藤沢には大磯にはない、動かし難い特徴がひとつあることに気付きます。それは、藤沢は江の島や鎌倉といった、当時の人気の観光スポットを抱えている上に、大山詣での行き帰りに田村通り大山道を経由して藤沢経由で江の島へ向かうことも出来るという、抜群の「地の利」の良さでした。しかも、

江戸で暮らしていた画家の司馬江漢(一七四七〜一八一八)は、西洋画の技法を学びに京・長崎への旅に出る際に、「毎々藤澤迄は来りしに、爰より先は初めてなり」(司馬江漢『江漢西遊日記』(『日本庶民生活史料集成 第二巻』三一書房 昭和四四年)265頁。…)と書いています。この記述からは、江戸に住む人々にとっての藤沢に対する距離感が伝わってきます。

関東近郊の人々にとっては、「毎々」に訪れる機会のある藤沢は、参宮の長い伊勢参宮の旅においては観光する対象ではなく、ここから先が旅の始まりという土地だったのでしょう。

(「藤沢市史料集(三十一) 旅人がみた藤沢⑴」解説 ivページより、…は中略)

つまり、藤沢宿の近辺は当時から江戸市民の気楽な「行楽スポット」で、それほど身構えて旅支度する程の所ではない、ちょっと思い付きで足を運ぶことも出来なくはない土地だったということです。これはつまり、江戸の町民のうちに今で言う「リピーター」を確保することも不可能ではないことを意味しています。これらの条件は当時の宿場経営上は大変に有利だったでしょう。

大磯宿も継立では厚木・八王子など内陸方面の継立の権利を確保してはいたものの、宿泊では自らの意識で移動する客が相手ですから、地の利の不利を権益による制限で補うといった手法は使えません。目的もないのにわざわざ遠回りを強いられる様な道筋は選ばない、ということです。そしてそれ以上に、大山方面の参拝客が流れて来るには、江の島・鎌倉ほどの魅力を持ったスポットを抱えていないのも不利でした。鴫立沢や虎御前ゆかりのスポットは確かに紀行文・道中記での出現回数も多く、ここを通る伊勢詣でなどの旅人が必ずと言って良い程立ち寄る場所ではあった様ですが、少なくともわざわざこれらを見るためだけに大磯宿まで足を運ぶという性質のものではなく、飽くまでも別の目的地への往来の序ででしかなかったのが限界だったと言えるでしょう。

旧東海道・藤沢宿:藤沢橋交差点付近に掲げられた広重隷書東海道
藤沢橋交差点付近に掲げられた
歌川広重「隷書東海道」中の藤沢宿
ここから江島道が分岐し
鎌倉方面に向かう旅人で賑わう様子が
描かれている
つまり、宿場自身の集客力という観点では、藤沢宿は大磯宿に比べて、遥かに恵まれた位置にあったのは確かです。これを具体的に比較する統計はこれといってありませんが、江の島や鎌倉巡りの紀行文・旅日記が多数残される中で、藤沢宿も大抵何らかの形で登場することを見ても、相応に恩恵があったと見るのが自然な判断でしょう。そしてこうした背景が、近隣の立場の宿泊業務に対する姿勢の違いとして現れたのではないか、と考えることも出来そうです。大磯と違って集客の点でゆとりのある藤沢としては、南湖に対してそれ程躍起になる必要もなかった、ということになるのではないでしょうか。あるいはそれが、平野新蔵の道中宿泊地の選定に表れたのかも知れません。

こうして見て行くと、制度としては街道筋の宿泊は、一律で宿場に限定される「ことになっていた」ものの、実際はそれぞれの地域によってまちまちなことが起きていた、と考えて良さそうです。そこには渡し場や箱根の様な山中など、道中の難所や、宿場間の距離など、様々な要因が絡んでいる様です。そして、制度によって守られている宿場側の対応も、自分たちへの影響の度合いを見計らいながら、厳しい取り締まりを要請したり目こぼししたりと、宿場毎に違うものになって行かざるを得なかったのではないでしょうか。

この立場の宿泊問題も、また別の立場の所で考えてみたいと思います。立場(たてば)立場(たちば)の読み分けの難しい文章ですみませんでした。

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