2013年10月の記事一覧

今年の神奈川の水がめ(続き)

ダム放流情報2013/10/29
ダム放流情報(2013/10/29 18:00現在)

相模川水系貯水量2013/10/28
相模川水系貯水量(2013/10/28現在)

相模川水系月別降水量2013/10/28
相模川水系月別降水量(2013/10/28現在)

酒匂川水系貯水量2013/10/28
酒匂川水系貯水量(2013/10/28現在)

酒匂川水系月別降水量2013/10/28
酒匂川水系月別降水量(2013/10/28現在)
8月の末頃に、今年の夏は雨が特に少なく、渇水の虞なしと言われる神奈川でも例年にないほどに貯水量が下がっていることをレポートしました。実際問題としてその頃は貯水量の数字以上に湖水面の低下が著しく、遊覧ボートの乗り場が移動したり(「タウンニュース 足柄版」による)、部分的に湖底が露出してかつての道路や橋が見られるようになった場所などもあった様です(「自転車放浪記 (足柄縣ブログ)」など)。

その後は数度の台風の影響で急速に貯水量は回復していましたが、たまたま昨日twitterで相模川水系で放水が行われていることを知り、再び「かながわの水がめ」で現況を確認したので、序でに先日の続きをここにメモしておくことにしました。

夏場の暑さは9月半ば頃まで続き、その間も平野部の夕立状の雨はあったものの、水源域のまとまった雨に繋がらない日が続いていました。状況が変わったのは台風18号の来襲で、各地で土砂災害や水害をもたらしたものの、各地のダムの貯水量はこの際の大雨で急速に回復していきました。相模川水系や酒匂川水系も例外ではなく、貯水量のグラフがこの日を境に急転して上昇しているのが良くわかります。

今年の台風は夏場の渇水を取り戻すかの様にその後も数回日本列島に押し寄せ、その都度大雨をもたらしました。降水量のグラフでも今年の9月と10月の降水量は例年を上回っているのが確認できます。それでも今年前半の降水量の低さが災いして、トータルでは今年の降水量は例年を下回りそうです。

そして、昨日からは相模川水系の各ダムが常時満水位に急速に近付いたため、洪水吐ゲートを開けて放流を開始しました。昨日の時点では相模ダムと城山ダムだけがゲートを開けていましたが、道志ダムでも今日から放流を開始した様です。貯水量のグラフは一転して例年を上回って満水に急速に近付いており、流入量が引き続き大きいために放流を開始したものの様です。流石に台風シーズンも終盤でこれ以上の来襲はないのではないかと思いますが、流入が収まってくるまではしばらく放流を続けることになるでしょう。つい数ヶ月前の低水位が一転して放水と、今年の相模川水系は随分と例年にない様子を見せていますね。
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【旧東海道】その10 平塚宿と大磯宿の「近さ」(まとめ)

平塚・柳町付近の旧東海道越しに高麗山を望む
平塚・柳町付近の旧東海道越しに
高麗山を望む
前回までかけて、大磯宿や平塚宿の歴史をひと通り見てきました。改めて記事の一覧を掲げます。



大磯が古来から和歌などに詠み込まれ、その名を広く知られた宿場であったのに比べれば、平塚はどちらかと言えば後発に属する宿場であったと言って良いでしょう。「平塚市史 通史編」の記述には疑問がありつつも、同地が当初は宿場以外の役割を担って開発された可能性もあることについて、私なりに考えてみたつもりです。

もっとも、当初に触れた通り、この2つの宿場が妙に近かった理由については、やはり確定的なことは言い難いのが実情です。何よりも、江戸時代より前の両宿の状況を窺い知ることが出来る史料があまり多いとは言えず、特に平塚宿については道中での記録さえ多くありません。宿場での継立や宿泊など、その機能に具体的に立ち入った史料となると更に少なく、僅かに戦国時代の後北条氏が伝馬を命じたものが大磯宿に関して数点残っている程度です。勿論、当時1日当たりどの位の宿泊客があったのかといった情報に繋がる史料は皆無です。そういう中では、まだ推測によって多くを補わなければならないのが実情ということでしょう。


今回は特に大磯より平塚の方でその難しさを多く感じる結果となりました。そのせいか、一通りまとめてみても、どうも当時の平塚の立ち位置の相対的な弱さだけが強調される結果になってしまった嫌いがあると感じています。これでは江戸時代の初期に平塚が大磯と共に伝馬朱印状を渡された理由が見え難いままになってしまいそうです。もう少し、特に中世後期の平塚の交通網上の位置付けがわかる史料があると良いのですが、どうも軍記物で軍の通過地として登場するケースが目立つので、伝馬朱印状配布前夜の立ち位置が語れなかったのは大きく影響していると思います。

その上、大磯宿にしても平塚宿にしても、時代を江戸時代以前まで遡った時にはその立地が異なっていた可能性があることも含めると、その移動した時期も含めて両宿の成立の経緯を考える必要があることになり、今のところその場所や時期については不明な点も多いので、更にこの問題を解きにくいものにしていると思います。平塚宿の鎮守である黒部宮の立地が春日社共々、相模川ではなく金目川(花水川)に程近かった点はヒントの1つになりそうではありますが、大磯宿などの立地との兼ね合いで何か説明出来そうな意味付けを見出すことは今回は出来ませんでした。

ただ、後世の目からは不自然に見える社会的な仕組みの背景には、それらが起こってきた「経緯」が大抵存在しています。今回見てきた宿場間の距離の偏りや、大磯宿が内陸方面への継立の権限を平塚宿を通り越して握っていた件などは、まさしくその様な事例だろうと思います。

こうした「経緯」は一般化して語ることが難しく、都度個別の事例を追ってみることによってしか、明らかに出来ないものだろうと思います。実際、神奈川宿と保土ヶ谷宿の場合は神奈川湊や帷子川を結節点に両者の間柄を考えることが出来たのですが、平塚宿と大磯宿の場合は、今のところその様な結節点を見出せませんでした。平塚〜大磯間の方が神奈川〜保土ヶ谷間よりも短距離であるにも拘らず、です。つまり、結局前回とは同じ手法では語り切れていないことは否めません。この様に、他の区間での事例を安易に援用出来ないのも、この問題を解き難いものにしていると思います。

とは言え、今回平塚宿や大磯宿の歴史を一通り辿ったことで、これまでの理解とはまた違った両宿の側面に気付くことが出来た点は有意義だったとも感じています。また、至近に位置する2つの宿場が、元は別々の役割を担った街であったという見立ては、現時点では裏付けに乏しいもののあり得る方向性であることを、一応は示すことが出来たのではないかと思います。今回の平塚宿〜大磯宿間の距離の偏りの問題については中途半端ながら一旦ここで一区切りとしますが、また何か新しい発見があったら再び考えてみたいと思います。



これだけで終わるのもどうかと思いますので、最後に平塚周辺の地形について簡単に御紹介します。

平塚付近の微地形分類図
平塚付近の微地形分類図
「大いなる神奈川の地盤」図-2.18より
相模川の西岸には、かなり内陸部から海岸線に並行する形で砂丘が並んでいます。これは「横列砂丘」と呼ばれています。「その4」でも引用した一帯の微地形分類図(「大いなる神奈川の地盤」50ページ:図-2.18)を見ると、相模川の西岸に堤間凹地を挟んだ砂州・砂丘帯が広がっているのが良くわかります。

この砂丘・砂州地形についても、「平塚市博物館」のWebサイト上でかなり詳しく解説されています。この砂丘の委細についてはそちらをご覧なった方が良いでしょう。記事数が多いので、その全てをここで御紹介出来ませんが、差し当たって東海道周辺(黒部宮周辺)と、中原御殿周辺の記事を見繕ってリンクを列挙します。


平塚・医王寺の墓地の砂丘
医王寺の墓地。
南側は東海道線の相模貨物駅の
敷地のために削られているが、
全体が砂丘の上にある。
平塚宿周辺はあまり高低差がはっきりと見えませんが、少し南側に逸れてみると、宿場付近に比べて幾らか窪地になった場所があるのが民家の塀の裾に感じられる場所があり、東海道線沿いに残る医王寺の墓地などに砂丘の名残が見られます。この位の微小な地形になると、少しでも周辺より標高を稼ぐことが重要になるのでしょう。勿論、戦後の街区整備で多少の高低差が均された箇所も多々あると思います。

また、上記平塚市博物館の記事でも触れられている様に、かつての黒部宮の辺りには一際目立つ砂丘があり、かつての宿場がこの辺りにあったという平塚宿の「地誌取調書上帳」での指摘も、あるいは黒部丘の方が「平塚」の地名の由来であるという説も、この地形を見ると確かにそうであった可能性は少なくないと思えてきます。仮に元から現在地に平塚の集落があったとしても、砂丘の作り出した微地形を利用して集落が形成され、そこから地名が起きたことには変わりはなさそうです。


他方、宿場の北側に位置する中原御殿や、周辺の関連施設も、これらの砂丘地形を巧みに使って設置されていることが窺えます。一時的にせよ将軍が屢々訪れ、地方行政を取り仕切る中原代官の陣屋が置かれたことは、この中原の地にも、そしてその周辺の村々にも、少なからぬ恩恵を齎したのでしょう。

平塚宿に差し出された伝馬の朱印状も、そうした「恩恵」のうちに入っているのはどうやら間違いなさそうです。

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【旧東海道】その10余録:「化粧坂」について

さて、「(その3)」で大磯宿の歴史について説明した際に、当初高麗寺の門前町として始まった宿場がやがて海沿いへと移転したのではないか、そしてそれが、和歌などによって名勝地として知られたが故のことではないか、という見解を披露致しました。これについて、もう少し考えを深める上での材料がないかと「新編相模国風土記稿」を見返していて、その国府本郷村の項に、こんな記述があるのに気付きました。

◯化粧塚 西北の方、生澤村堺にあり、由來詳ならず、此所は三ノ宮明神の休息所と云、

(卷之四十 淘綾郡卷之二 雄山閣版より引用、強調はブログ主)



国府本郷の一里塚の位置
大磯・国府本郷一里塚のガイド
国府本郷一里塚のガイド

相模国の国府は平安時代末期には淘綾郡にあったと考えられているのですが、国府本郷村はその名称からその当時の国府があった場所と見られています。但し、今までの該当地域内の発掘調査では、具体的に国府の跡と考えられるものは出てきていません。大磯宿からは東海道筋を西に進み、小磯村を過ぎて切通しを抜けた先からの地域に当たります。東海道歩きをしていると、国府本郷の一里塚跡でその名を目にしている人が多いのではないかと思います。

そんな村に、大磯の化粧坂(けわいざか)化粧井戸(けわいいど)との関連を思わせる地名があるというのです。そう言えば「化粧」の名を冠した地名が他にもなかったかと思い付いて、一先ず「化粧坂」でネット上を検索したところ、冒頭に出てきたのはWikipediaの「化粧坂」の記事でした。こちらは鎌倉の七坂の一つですが、その由来について諸説紹介する中に次の様な一節が書かれています。

「化粧」を「ケショウ」と読むとそれは現在の意味の通りに「白粉でお化粧」の意味であるが、古くは「ケワイ」とも読み、その場合は「身だしなみを整える」と言う意味に使われる。

その意味からは「都市」=「ハレの場」に入る境で「身だしなみを整える」と言う意味で「ケワイ(化粧)坂」、つまりは「鎌倉中」への境界である坂との意味と考えるのが自然であると言う説がある。(「中世都市鎌倉の実像と境界」p178 五味文彦)

鎌倉以外にも「化粧坂」という地名は各地にみられ、多くは中世の国府や守護所などの近葉に見られる。その伝承の中にも境界で「身だしなみを整える」と解釈出来るものがあり、「境界の場の呼称」として「化粧坂」と通称されていたそのひとつとも考えられる

(コピー&ペースト後、明らかな漢字の誤変換は適宜訂正しました)


この最後の段落の一文が頭の中で引っ掛かりました。とすれば、あの大磯の化粧坂や国府本郷の化粧塚も、元は相模国府への入り口の場ということになるのでしょうか。

更に理解を深めるために、このWikipedia記事で指摘されている「中世都市鎌倉の実像と境界」の該当箇所を読んでみることにしました。該当箇所にはこう書かれています。

③化粧坂と極楽寺坂

石井氏は化粧坂について、境界の場の呼称として各地域に残っていることを民族的な事例を引きながら指摘した。その点から考えると、鎌倉の化粧坂は亀谷から入ったところにあるが、極楽寺坂も化粧坂といわれていた可能性があることを次の史料が教えてくれる。それは後深草院二条の日記『とはずがたり』正応二年(一二八九)条の、「明くれば鎌倉へ入るに、極楽寺といふ寺へ参りて見れば、僧のふるまひ都に違はず。なつかしくおぼえて見つつ、化粧坂といふ山を越えて鎌倉の方を見れば」という記事である。

その鎌倉入りの道順に沿ってゆくと、極楽寺から鎌倉に入ったとあるので、本来はそこが化粧坂と呼ばれていた可能性があることになる。鎌倉に西から入る場合は、多くは稲村崎・極楽寺から入っており、政子も稲瀬川のほとりに泊まって鎌倉に入っている。そうすると、極楽寺(注:「坂」落ちか)もかつて化粧坂といわれていた可能性は大いにあろう。

やがてその坂の近くに極楽寺が建てられ、坂の周辺が発展するにおよんで極楽寺坂といわれるようになったのであるが、この二つの坂からは、坂を場として活動する坂住人の存在も認められている。

(2001年 高志書院、「総括 鎌倉の中心性と境界性」中の一節)


この文中の「石井氏」は石井進氏のことで、この論文では同氏の著書を2つほど掲げて鎌倉の境界性についてまとめています。このうち、「中世のかたち」(「日本の中世1」網野善彦・石井進編 2002年 中央公論新社)の方を紐解くと、鎌倉の化粧坂が幕府公認の市の立つ場の一つであったことを紹介した部分の次に、次の様な核心に触れる一節が見つかります。

こうしてみると、化粧坂には、繁華な商業地域・市場で娼家が並び、遊女のたむろする場であると同時に、刑場であり葬送の場でもあるという、複雑な性格がまつわりついている。遊女たちの化粧と、敵将の首の化粧という二つの地名起源説は、まさにこの複雑な属性に対応したものであった。

中世、「けはう」は化粧する意味で用いられていたので、化粧坂という用字は正しく意味を伝えている。全国各地に化粧坂、化粧池、化粧石、化粧井などの地名が分布し、それぞれおそろしい神のために生けにえに献げられた若い女性がここで最後の化粧をした後、池の中に送られていったという類の美しくも悲しい伝説によって彩られている。

すでに柳田国男(やなぎだくにお)松浦佐用媛(まつらさよひめ)の物語を代表とする伝説について、民俗学的にその内容を見事に分析された。山口昌男(やまぐちまさお)氏はさらにそれを、化粧とは人間が「移行する状態をイメージで定着させること」、すなわち「(しる)すこと」だと表現し、「遊女は化粧をして、それから生け(にえ)になる」、「松浦佐用姫は化粧をして死に向う。生から死へ、陸から水へ移行していく。別の世界へ入っていく……坂を越えるということは、内なる村から外の世界へ入っていくことです。そういう場所に化粧池、化粧坂という名前が残っている」と説明を加えている。鎌倉における化粧坂とは、まさに山口氏の説く以上にあざやかに境界としての特質・属性を物語ってくれる場だったのではないか。

(同書139〜140ページ、ルビも原文ママ)


色々と引用が長くなってしまいましたが、五味氏が紹介した石井氏のもう一つの論文(「都市鎌倉における『地獄』の風景」(『御家人制の研究』御家人制研究会編 1981年 吉川弘文館))では、その脚注で大磯の化粧坂の虎御前伝説にも触れており、同氏がこの一節を書く上で意識した全国の「化粧」地名の中に、この大磯の化粧坂が含まれていたのはほぼ確実でしょう。私自身は、この手の「ハレ・ケ」といった場を自らの感覚で見極めるには余りにも鈍い散文的な性格の持ち主なので、差し当たっては民俗学の先哲の方々の見解を尊重することしか出来ませんが、以下に紹介する様に現在でも祭礼の場でこうした場が維持されている実例を見る限り、大磯や国府本郷にも当て嵌まる可能性はかなり高いのではないかと考えています。

こうした見解に従うならば、大磯の化粧坂の周囲には、元は宿場と言うよりは相模国府の市があり、その境界の守護神として高麗寺が位置付けられていたという関係になると解釈することになりそうです。相模国府の大住郡→淘綾郡の移転の経緯を考えると、高麗寺の創建の方が先になりそうですが、それであれば国府の境界地に相応しい場所としてこの坂の周辺が選定され、門前町の賑わいに辺縁地の市の賑わいが加わり、そこに遊女宿が出来、虎御前登場の舞台が整った…そんな成り立ちを考えることも出来そうに思えてきます。

現在の大磯・化粧坂(2007年撮影)
現在の大磯・化粧坂(2007年撮影)
この坂の途中に一里塚があった
この説の難点は、この化粧坂から国府本郷まで距離があり過ぎることでしょう。何しろ、上記に紹介した様に江戸時代の国府本郷には一里塚がありましたが、大磯宿の江戸方、化粧坂の上にも一里塚がありました。ということは、この化粧坂から国府本郷まで、ほぼ1里(約4km)もの距離があることになります。国府があったと考えられている地まで、身なりを整えてから歩く距離としては、いくら何でも遠過ぎる様です。その間に折角整えた身なりもまた乱れてしまいそうです。

実際、元禄3年(1690年)に出版された「東海道分間絵図」(国立国会図書館デジタルライブラリーで閲覧可能です)の大磯付近に、「化粧坂」や「化粧井戸」の名はありません。また、万治年間(1658〜61年)に出版されたとみられる「東海道名所記」(浅井了意著)の大磯の項目には、「十間坂」の名はありますが、「化粧坂」の名前は見られません。この「十間坂」が後に「化粧坂」と呼ばれる坂を指すのか、それとも別の坂かは判然としませんが、どうも江戸時代初期には「化粧坂」の名は、少なくとも広く世に知られる存在ではなかったのは確かです。「化粧坂」の名が本来別の場所の坂を指す名称だったのがここに持って来られたのか、元からあった名前ではあったものの忘れられかけていたのかは、この2つの史料だけでは断定出来ません。中には、大田南畝の「改元紀行」(享和元年、1801年)の様にかつての化粧坂が現位置より半里(約2km)ほど西へ行った辺りとしている紀行文もありますが、これも他人の伝聞を記していて根拠は不明ですし、それでも国府の所在地と考えられている国府本郷まで、更に2km程も離れていることになります。

ただ、「化粧坂」が本来どの坂を指していたかを問わず、「化粧坂」の名称は元々は虎御前とは無関係で、「曾我物語」の知名度を借りる形で換骨奪胎して今に伝わっている、という可能性もかなり高そうです。そうなると、「化粧坂」の名は長い歴史の中でその時代毎の意義を纏って受け継がれたことになり、その結果生じた変化そのものを面白いと思うのです。勿論その背景には、国府が時代が下るにつれて弱体化し、室町時代には完全に衰退してしまったという歴史があるのは間違いありません。それによって「化粧坂」の当初の意味も忘れ去られていかざるを得なかったということでしょう。

では、当初の高麗寺の門前町がやがて海辺へと移ったという説との関連はどうなるでしょうか。これは「化粧坂」の名称が当初から今の坂を指していたか否かで解釈が変わってしまいます。別の坂を指していたならば、その坂の頂上付近に当初の市が存在し、それがそのまま廃れてしまったか、今の場所へと移転したことになるでしょう。その場合、頂上付近に国府の「結界」を守護する寺院が高麗寺とは別にあって、場合によっては廃寺にならずに今に伝わる寺院の中に該当するものがあるのかも知れません。しかし何れにせよ、化粧坂の元の場所が特定されなければ、これ以上の推測は不可能です。

一方、もし「化粧坂」が当初から今の坂を指していたとするならば(この場合、淘綾郡の相模国府の所在地自体が今の想定とは異なっている可能性が大きくなります)、国府の境界地に設けられた市が、その後宿場に変じ、やがて海の風景を求めて西寄りに移転していったと解釈することになるでしょう。しかし他方、淘綾郡の相模国府の開設時期や衰退時期との兼ね合いによっては、この地にあった市が国府の盛衰と同調して衰退しただけで、元々小磯との境界付近に別の宿があった、と考えることも出来そうです。

この辺りを更に考えるには、淘綾郡の相模国府の正確な位置やその規模、更には当時の国府周辺の関連施設などの位置関係、そして何より、「化粧坂」の名称が古くはどの坂を指していたかが、将来の発掘調査や、更なる史料の発見によって明らかになる日を待つしかなさそうです。

ところで、国府本郷村の化粧塚の方ですが、これは具体的には何処にあったのでしょうか。「新編相模国風土記稿」の「生澤(いくさわ)村堺」という記述も併せて考えると、これは現在「国府(こう)(のまち)神揃山(かみそろいやま)祭場」として伝わる地点かとも思えるのですが、神揃山については風土記稿に別途

◯神揃山 西北の方、生澤村堺にあり、高二十間許、山上平衍の所、方四十間許、五月五日近鄕五社の神輿、集會する故名とす、事は六所明神社の條に載す、

(卷之四十 淘綾郡卷之二 雄山閣版より引用、強調はブログ主)

とあるので、化粧塚の方はその近辺ということになりそうです。


神揃山の位置
この神揃山(大磯町の該当ページにリンク)には神事の際に神の降り立つ神体石が6体設置されているのですが、この中で三ノ宮の分が他の5体より幾らか北寄りに離れて設置されており、その傍らから国府本郷と生沢の境に沿って走る尾根筋道への昇り口が付いています。三ノ宮は他の五社に比べて北に位置しますので、神輿がこの尾根筋を進んでくる途上に、この化粧塚がありそうです。

国府祭では、各神社の神輿が神揃山に揃う前に、化粧塚でその着物を整えるという、まさに上記「けわい」の意義に沿った作法で祭りが進行します。その割に「風土記稿」が化粧塚の由緒を「つまびらかならず」とするのが不思議ではありますが。相模国府があった頃は、国府への入り口で身支度ということだったのでしょうか。

比々多神社 拝殿:ファイル:Hibita jinja Haiden.jpg - Wikipedia
比々多神社 拝殿
("Hibita jinja Haiden" by ChiefHira
- 投稿者自身による作品.
Licensed under GFDL
via ウィキメディア・コモンズ.)
また、相模三ノ宮である比々多神社の近くには別の「化粧塚」があります。ここで神輿を担ぐ氏子衆が国府祭に出立する前に身なりを整えるのも一緒です。かつての国府との関連が強い神社がこうした仕来りを強く持ち続けている辺りに、その意義の深さを感じることが出来る様にも思います。因みに、比々多神社のWebサイトではこれを「けしょうづか」とルビを振っていますが、上記の説に倣えば、これも過去には「けわいづか」と読んでいたのかも知れません。

何れの場合でも、こうした古くからの神事と共に、「化粧塚」が本来意味する所が現在まで伝えられ続けていることには変わりありません。そして、この一帯がそういう地であることから見ても、「化粧坂」の地名が今とは違う坂に付けられていた可能性はあるにしても、江戸時代になって全く新たに出現した地名などではなく、相応に古い歴史を有する地名であったとしても決して不自然なことではない、と言えそうです。




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【旧東海道】その10 平塚宿と大磯宿の「近さ」(その5)

前回は平塚宿が黒部宮と共に現在地に移転してきた可能性について紹介しました。今回も引き続き中世の平塚宿について考えます。

平塚市史9 通史編 古代・中世・近世」(以下「平塚市史 通史編」)では、この頃の平塚の発展の経緯について、少々独特の説を展開しています(同書92〜96ページ、以下の同書引用は全てこの内から)。かなり長いので全文引用する訳には参りませんので、なるべく簡潔にまとめながら、この説に対する私なりの見立てを付記します。神奈川県内でも当巻を蔵書している図書館は何故かあまり多くありませんが、興味のある方は当書に実際に当たってみて下さい。

まず、「三浦氏の平塚開発」と題して、

当初、三浦氏は相模国府(大磯町国府本郷)に近く、高麗寺門前で東海道から諸方へ通ずる往還の分岐点でもある大磯に重きを置いていたようである。文治元年(注:1185年)十一月二十九日の駅路の制発布によって、公領の大磯郷に大磯駅を設置したのは、相模守護である三浦義澄であった。

と書き出して、三浦氏と大磯の関連について指摘しているものの、続いて

義村が平塚の地に目を向けたのは、ここが商品流通・交通の要地であり、相模川の渡渉地点を控え、田村にも近く、多くの寺社を擁し広大な後背地をもっていたからである。義村は頼経の東下に成功し、将軍頼経の権威をいただいて、幕府内における勢力拡大を計っていた。田村別荘や大磯宿の振興もその一つであったが、義村は平塚の開発を通じて商業の利益掌握を狙ったものと思われる。

更に

三浦氏は相模・土佐・河内・紀伊・讃岐の守護職をもっており、鎌倉—大坂湾—南海道—瀬戸内海—西国へと海上交通の実権掌握に乗り出していた。平塚開発はこうした三浦義村や泰村が海外交通・商品や貨幣の流通を見込んで行った手段であろう。相模川河口は渡渉地点というだけでなく、須賀を湊として、重要視していたのではないだろうか。

と、平塚の開発に力を入れたとしています。しかし、大磯の方は「駅路の制発布」と具体的な手法について記述されているのに対して、平塚の方には手段についてこれといった指摘はなされていません。

そして、続く「北条氏の平塚支配」では、

こののち平塚は北条氏勢力下に、より一層発展を続け、大磯宿をしのぐ繁栄を見せるのである。北条氏は鎌倉後期、海上交通の要衝を支配下に収めており、博多—瀬戸内海の海上交通路は鎌倉へ直結していた。かつて義村が開拓した貿易品獲得のルートは北条氏支配の中にくり込まれたものと思われる。宝治合戦後、宗像社領が北条氏宗領となったように、平塚も同様の運命をたどったであろう。

鎌倉を経由して唐物・宋銭・文物が関東一円に流通していた。輸入陶磁器や宋銭などが市内の各遺跡で出土しているのも、鎌倉を経由した流通圏の中に平塚が含まれていたからに外ならない。鎌倉に屋敷地をもつ御家人たちがこうした物資や文物・貨幣を流通させたことが考えられるし、平塚に数多い寺社を巡行する僧侶・聖・巫女たちの活動もあっただろう。しかもこれら商品や貨幣流通をささえたのは、二毛作や換金作物などの生産を通じて力をもち始めた農民の成長があったからであろう。

と書いています。もっともここでも、こうした輸入品が須賀や平塚を経由したことを示す史料などの具体的な裏付けについては、特に紹介されていません。

色々と興味深い説ではあると思います。最近の研究では、中世の物流が年貢以外にも様々なものを運んでいたことが、発掘調査によって出土した遺物で明らかになってきているので、上記の記述もそれを前提にしていることはわかります。

ですが、この説を平塚や須賀の江戸時代頃の実情等と照らした時に、どうも色々と噛み合わない部分が出て来ると感じているのも事実です。中世についての最新の研究成果を盛り込もうとするあまり、現時点で地元についてわかっていること、考えられていることと上手く噛み合う様には、今はまだ語り起こすことが出来ない内容が混ざってしまっている様に見受けられます。

一番問題なのは須賀と平塚の関係ですが、少なくとも江戸時代までには、両村の協力関係はあまり見られなくなっており(実際はそれ以前の時代についても具体的な協力関係を示すものは見出せていませんが)、それぞれが独立した立ち位置を確保していた様です。以前「馬入の渡し」について見た際にも、渡船場に須賀村が船を出すなどの関与をしているのに対し、平塚宿は特に関与はしていなかったことを見ました。文献でも、須賀村との密接な関わりが読み取れる史料は見つかっていません。単に史料が見つかっていないだけという可能性は残るにしても、基本的には川から海への結節点として機能していた須賀港が、川から陸路への載せ替えではそれほど注目されていない点は考えなければなりません。

平塚・須賀村への道
「東海道分間延絵図」平塚八幡宮付近
八幡宮一の鳥居の東隣、厚木へ向かう道の
向かい側から須賀村への道が伸びる
(東京美術版より引用・加筆)

平塚・須賀から平塚八幡宮への道
平塚駅連絡地下道(南口)
平塚駅の連絡地下道(南口)。
壁面などはメンテナンスされているが、
コンクリート製の高欄に
古い年代の様式を残している
そもそも、江戸時代の平塚宿の宿内からでは、須賀湊は離れ過ぎているのが実情でした。陸路と水路の結節点を目指すなら、平塚宿はもっと東寄り、例えば平塚八幡宮の門前町を核として発展してもおかしくなさそうです(この一帯が平塚宿の加宿となったのは慶安4年(1651年)になってからでした)。実際、平塚八幡宮の南から須賀村への道が出ていたことが「東海道分間延絵図」でも確認出来ます。この道が須賀からの主要道であったことは、現在の周辺の土地の区画が北西から南東にかけて伸びるこの道に並行していることからも読み取れます。また、この道を東海道線が横切る辺りには、現在は連絡地下道が作られて南北の往来を確保していますが、この地下道が作られたのも比較的時代が古く、それだけ古くから使われてきた道筋であることを物語っています。

無論、鎌倉時代には須賀村と平塚宿の間にもっと密接な関係があった可能性は否定出来ませんが、仮にそうであったとしても、その後の歴史と照らし合わせた結果としては、その関係は後世には受け継がれずに終わった、と指摘することになるでしょう。では何故そうなってしまったのか、を考えてみなければならなくなります。まして、現時点では鎌倉時代の須賀に関する記述自体がありませんから、関連を解き起こす以前の状況でしょう。

他にも、例えば「平塚は北条氏勢力下に、より一層発展を続け、大磯宿をしのぐ繁栄を見せるのである。」としている点は、「(その2)」で平塚市博物館のウェブ読み物を検討した際に指摘した、大磯の方が平塚よりも何かと優先される存在であり続けた、という点と噛み合いません。平塚と田村の近さを指摘する点も、既に見てきた様に大磯宿が内陸への継立の権利を占有していた歴史を考えれば、どんなに近接していても意味がありません。

更に、須賀自体が当時本当に海外との交易拠点であったかどうか、「平塚市史 通史編」では輸入陶磁器や宋銭の市内での出土を紹介しているものの、これだけでは平塚が鎌倉の経済圏の内にあったとは言えても、須賀がその上陸点であったとは必ずしも言えないでしょう。鎌倉時代の有力な湊としては例えば六浦(むつら)が近隣の代表的な湊として知られており、他にも品川(大井)、神奈川、三浦、下田などを挙げることが出来ると思います。そうした中にあって、須賀はこれまで中世の港湾拠点としてはその名を聞くことがなく、鎌倉を起点・終点と考えた時の海路のネットワークの中で具体的にどの様な位置付けがあり得たのか、少なからず疑問が残ります。相模川自体に古くから水運があったことは、遺跡の出土品の分布などから推測されていることではあり、河口の湊が当初から重要な役割を果たした可能性は当然考えられるものの、須賀湊は江戸時代には四百石積みの船までしか入れなかったという浅い港でもあり、鎌倉時代以降の富士山降下物などの堆積物の影響を考慮する必要があるとは言え、そういう浅い湊を大型船の入港が必須になる外港として使うだろうか、という疑問もあります。

この様な訳で、個人的にはこの「平塚市史 通史編」の説をそのまま採用して論を展開することに対して、少なからず躊躇しているのが正直なところです。ただその一方で、平塚が中世に幕府の有力者によって何らかの強い「使命」を与えられて開発されたとする説には、ある強い「魅力」を感じているのも事実です。それは、もしもこの様な事情で平塚が開発されたのであれば、大磯と平塚が近接して発展したことが割と無理なく収まるということです。

つまり、当初それぞれ別の役目を担って近傍で共存していた2つの町が、やがて平塚の担っていた「使命」が鎌倉幕府の衰退によって失われてしまったと考えてみてはどうでしょうか。梯子を外された格好になった平塚としては、自らの存続のために別の役目に活路を見出さなければならなくなってしまった筈でしょう。その様な中で、平塚が大磯と同じ役回り、つまり継立に進出したことで両者の関係が微妙になってしまい、領主を含めた関係者間で調整を図った結果が、内陸への継立は大磯が担い続け、平塚は関与しない、という落としどころだったのではないか、という「シナリオ」が書けるのです。

特に、海外貿易というのは経済的なバックボーンの太さだけではなく、異文化が接触する上で当事国間の政治面の信頼関係が不可欠です。そういう点で、鎌倉に幕府が存在し、その近所(と言ってもそこそこ距離はありますが)で外国船を迎え入れることが出来る須賀の立地条件は、確かにメリットになり得ます。そして、鎌倉幕府の衰退・滅亡となれば、貿易の窓口も近畿へ、つまり難波などの津へと移って行くのも自然なことではあり、それによって外港としての役目を失ったとなれば、これは「シナリオ」の補完には最適と言って良いでしょう。

しかし、「シナリオ」としての収まりがどんなに綺麗でも、その裏付けが乏しい、或いは史料から確認出来る所と合致しない部分が多ければ、それ以上のものにはなり得ません。平塚が大磯とは違う何らかの使命を帯びて鎌倉時代に開発された可能性は引き続き考えたい所ですが、現時点では「平塚市史 通史編」の説はまだまだ疑問点が多いと言わざるを得ない様です。また、仮に平塚が鎌倉幕府によって使命を与えられて開発されたという説が基本線で合っているにしても、平塚の商人などが鎌倉幕府衰退後に敢えて平塚に留まろうと欲した動機付けが他に必要です。さもなければ、衰退する街を見捨てて新天地に出て行く人々の方が多いでしょうから、何も継立事業で先行する大磯と敢えてぶつかる道を選ばなくても良かっただろうからです。

今回は飽くまでも「こんな風に考えてみることもできるのではなかろうか」という程度のつもりで、敢えてここで披露することにしました。元は別の役目を担っていた、性格の異なる2つの街が継立で競合する関係になっていった可能性はもう少し追ってみたいところですが、今のところは傍証に乏しいのが実情です。次回、余談の回を1回挟んで平塚宿と大磯宿の「近さ」についてまとめる予定ですが、どうもあまり上手くまとまりそうにないですね…。

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【旧東海道】その10 平塚宿と大磯宿の「近さ」(その4)

前回は大磯宿の古代から中世にかけての歴史を検討しました。今回は平塚宿の歴史を検討します。

平塚市史9 通史編 古代・中世・近世」(以下、「平塚市史 通史編」)によると、平塚の名前が史料に登場する最初期のものは「吾妻鏡」です。建久3年(1192年)妻の北条政子の安産祈願を、源頼朝が相模国内を中心に多数の寺社に神馬を贈って依頼したことが記されていますが、その多数の寺社の中に、平塚の「範隆寺」と「黒部宮」が含まれています。

建久三年八月九日条:

九日 己酉 天晴れ風静かなり。早旦以後、御台所御産の気あり。御加持は宮法眼、験者は義慶坊・大学房等なり。鶴岡、相模国の神社仏寺に神馬を奉り、誦経を修せらる。いわゆる、

  • 福田寺酒匂
  • 平等寺豊田
  • 範隆寺平塚

  • 宗元寺三浦
  • 常蘇寺城所
  • 王福寺坂本

  • 新楽寺
  • 高麗寺大磯
  • 国分寺一宮下

  • 弥勒寺波多野
  • 五大堂八幡、号大会御堂
  • 寺務寺
  • 観音寺金目
  • 大山寺
  • 霊山寺日向

  • 大箱根
  • 惣社柳田
  • 一宮佐河大明神

  • 二宮河勾大明神
  • 三宮冠大明神
  • 四宮前取大明神

  • 八幡宮
  • 天満宮
  • 五頭宮

  • 黒部宮平塚
  • 賀茂柳下
  • 新日吉柳田

まづ、鶴岡に神馬二疋上下。千葉平次兵衛尉、三浦太郎等これを相具す。そのほかの寺社は、在所の地頭これを請け取る。景季、義村等奉行たり。巳の剋、男子御産なり。

(「大磯町史1 資料編 古代・中世・近世⑴」より引用、強調はブログ主)


ここにはお膝元の鶴岡八幡宮だけではなく、いわゆる相模国六社や箱根権現、そして大磯の高麗寺など、当時の相模国内の神社や権現社等が全部で28社も含まれています。その全てに神馬を贈り、鶴岡八幡宮には2頭贈っていることから考えると、他の寺社にも2頭贈った可能性もあることから、都合30頭以上、場合によっては50頭以上もの馬をこの祈願のために供出した可能性もあります。頼朝自身の勝利祈願でもこれ程までに多数の寺社に手を広げたりはしていませんから、如何に彼が跡継ぎの生誕に心を砕いていたかが良くわかりますが、それは今はさて置くとしましょう。

平塚市史 通史編」では、ここに現在の平塚市域やその近隣に属する寺院が多数含まれていることに着目し、次の様に指摘しています。

その他「平等寺豊田 常蘇寺城所 新楽寺小磯 高麗寺大磯 五大堂八幡号大会御堂(四之宮) 観音寺金目 二宮河勾大明神 四宮前鳥大明神 八幡宮」などが祈願を命じられた。寺社の集中した地域であることが注目される。これらのうち平等寺・常蘇寺・新楽寺・高麗寺・五大堂(大会寺)・観音堂(金目観音堂)は観音を本尊としており、観音信仰が流布していることが知られる。高麗寺の観音は大磯海岸、金目観音は小磯海岸、鎌倉の長谷観音は相模川河口で、そのほか平塚市内の教善寺・清雲寺では平塚の海岸で得たという伝説をもっている。これは河や海が清浄の地であると信じられていることの他に、渡来人との交易や売買ということを投影したものと考えられる(『平塚市文化財調査報告書』第2集)。高麗山周辺には古代に高麗人が住んでいたということを思えば、寺院が多いこともこうした渡来系住民の影響が考えられよう。

(同書 92ページより)


確かに寺社の集中には高麗人の移民の影響もあったと思われます。一方で、大住郡には一時期相模国府があったと考えられていて、前鳥神社のある四之宮で古代の役所跡と思しき遺跡が出土しており、相模国府の跡地の有力候補とされていることを考え合わせれば、この一帯が相模国の地方政治の中枢として機能していたことも、寺社の集中傾向を一層強める結果になったと考えることが出来るでしょう。何れにせよ、以前武相国境のまとめでも触れた通り、相模川下流部が古代から積極的に開発されてきたことの表れ、と言うことが出来るかも知れません。

さて、ここでその名が登場する「黒部宮」は、後に「春日神社」となり、その地を移したことが「新編相模国風土記稿」の平塚宿の項に記されています。また、同じく後に「広蔵寺」と名を変えた範隆寺が黒部宮の別当であったことにも触れられています(広蔵寺の方はその後廃寺となりました。春日神社の境内に毘沙門天など広蔵寺で祀られていたものが再興されているのがその名残です)。春日社が平塚宿の鎭守であるというのも、両者の関係の深さ、歴史の長さを感じさせます。

◯春日社 宿の鎭守なり、神躰木像長一尺六寸行基作、往古は黑部宮と號す、…三年八月賴朝夫人、平産の祈願として神馬を納めらる【東鑑】曰、八月九日御臺所御産氣、相模國神社佛寺、奉神馬、被修誦經、云々、黑部宮、平塚、範隆寺平塚、按ずるに、範隆寺は別當寺の舊號なり慶安二年八月社領六石、舊に依て寄附せられ、御朱印を給ふ、例祭六月十五日隔年に神興を海邊に渡し、舊社地にて神事あり古は社地東海道往還より六七町海岸の方、字十軒坂にあり、後今の地に移れり舊地に稻荷の小祠あり、…△別當廣藏寺 平塚山延命院と號す古義眞言宗淘綾郡大磯宿地福寺末古は範隆寺と號す、建久三年八月賴朝夫人安産の爲誦經を命ぜし事【東鑑】に見ゆ其文本社の條に載す、今の寺號に改めし、年代詳ならず、本尊地藏、

(雄山閣版より引用、…は省略、強調はブログ主)



平塚・黒部宮
現在の黒部宮
平塚・春日神社
現在の春日神社


旧社地・黒部宮の位置

現在の春日神社の位置

ここで問題になるのが、この旧社地の場所です。「風土記稿」に記されている通り、現在の春日神社の南方、600〜700m程の場所に位置するこの地は現在でも「黒部丘」という地名が示す通り、周囲より一段高い、標高10m弱の砂丘の一角に当たります。ここから西を流れる花水川(現・金目川)へは坂を下る格好になり、「字十軒坂」の位置は不明ながら如何にもその様な坂がありそうな地形です。

加えて、上記の「風土記稿」の記述では採用されなかったのですが、「風土記稿」編纂に当たって平塚宿から提出された文政8年(1825年)の「地誌取調上帳」では、黒部宮が現在の春日神社の位置に移された理由を

春日大明神

右春日宮之義前々黒部宮唱、別当広蔵寺之義範隆寺号候節宿方ゟ六、七町海辺之方宿並御座候処、高浪打入難渋仕候間当時宿並引申候、…

(「平塚市史 2 資料編 近世⑴」73〜88ページから引用、強調はブログ主)

としています。つまり、かつての平塚の宿場はもっと南寄り、黒部丘の辺りにあり、街道もこちらを通っていたが「高浪」を被ってしまったので現在の位置に動いてきた、ということを主張しているのですが、この部分は「風土記稿」の編集者が何等かの判断から採用しませんでした。恐らく、他の記録などによって裏を取ることが出来なかったのと、「平塚の塚」の由緒との矛盾が出る点を考えてペンディングとしたのでしょうが、かと言って明確に否定した訳でもなく(同書では偽説もその旨指摘した上で掲載するケースが割と多い)時期は未詳ながら平塚宿が一度移転を経験した可能性は残しておいて良いのではないかと思います。少なくとも、この「地誌取調上帳」をまとめた江戸時代の平塚宿の役人一同が、平塚宿が昔はもっと南寄りにあったと信じていたことは確かでしょう。

また、この「高浪」が何を指すのか、個人的には黒部丘の標高と海岸からの距離を考えると恐らくは高潮よりは津波の可能性の方が高いだろうと思うものの、それであれば当時の記録と照合して移転の時期を検討出来ないかとも思います(例えば仁治2年(1241年)四月の地震では、鎌倉で津波によって由比ヶ浜の大鳥居内の拝殿が流失する被害が出ています。時期的・規模的に見てこの辺りの地震が候補の1つに挙げられそうです)。もっとも、相模湾岸のこの付近は地殻変動によって隆起する傾向が強く、嘗てはもっと標高が低かったとすれば、高浪が台風などによる高潮であった可能性も強まり、そうなると時期特定は困難です。


旧東海道:旧相模川橋脚解説模型から
旧相模川橋脚は現在の国道とは違う方角を向いていた
(橋脚傍らの解説模型から:再掲)
更に、鎌倉時代に黒部宮の辺りに宿場があったとすれば、あの「旧相模川橋脚」が何故江戸時代の道筋に対して斜に位置しているのかがこれによって説明出来るかも知れません。つまり、相模川を江戸時代よりも南で渡河して黒部宮付近の宿場に向かっていたのであれば、旧相模川橋脚の辺りから当時の渡河地点へ南へ向かう道筋であったことになります。もっとも、当時の相模川左岸の今の微地形を考えると不自然な面も多いので、当時の地形がどうであったかも配慮しながら妥当かどうかを判断しなければならない点が若干苦しいところです。

「大いなる神奈川の地盤」図2-18より
平塚付近の微地形分布。複数の砂丘列が並ぶ。
大磯から四之宮へは、この複数の砂丘列を
横断しなければならない。
(「大いなる神奈川の地盤」図2-18に加筆)
他方、古代にはこの付近を街道が通っていたとして、これが相模国の国府があった頃に合うのであれば、その街道は国府があった可能性が高い四之宮の方へ向かっていたでしょう。しかし、黒部丘から四之宮は北東方向になります。現在は大半が削平されたので現地に面影が殆ど残っていませんが、この相模川西岸一帯は砂丘列が東西に数本並んでいました。ここを直線的に進もうとすると、これらの砂丘を斜めに突っ切ることになってしまいます。実際はその砂丘列の間の窪地に低湿地が出来やすかったりするため、これらを避けて進むとジグザグの道筋が出来ます。実際、江戸時代の中原街道も、中原から田村にかけてはその様なジグザグの道を進んでいました。古代の駅路は比較的直線的な区間が多かったと説明されることが多いのですが、こういう砂丘列の並ぶ地形を当時どの様に突っ切って行ったのか、当時の土木技術の傾向なども併せて考えてみなければならないところです。勿論、その後四之宮を経なくなったのが何時頃で、それがどういう理由によるものなのか、また黒部宮が北に移る時期とはどの様な順序になるのか、といった問題も出てきます。

この様に、黒部宮の付近をかつての街道が通っていたという説については、まだまだ色々と調べてみなければならない疑問が多々残ります。ただ、かつての街道が平塚付近でもっと海沿いを進んでいた可能性があること、それが高浪の影響で内陸に移ってきたらしいというこの説は、大磯の中心地が黒部丘より更に標高の高い場所に位置するだけに、少しでも裏を取りたい誘惑に駆られるのも事実ではあります。今はこういう説もあるということだけ紹介して、次回もう少し時代を下ってみたいと思います。

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