2013年09月の記事一覧

江戸時代の相模川の「川下り」(その2)

江戸時代の相模川川下り:当麻→四之宮
当麻→四之宮の相模川の水路(再掲)
(「地理院地図」に「ルートラボ」で
作成したルートを取り込んだものを
スクリーンキャプチャ)


四之宮の渡しの位置
(現在は案内ガイドが設置されている)
前回、下溝村に伝わる幕末の伊勢参宮の旅日記に記された相模川の川下りの様子から、昼食を摂った一之宮の様子について検討してみました。今回は、この川下りの上陸地点とこの川下りの性格について考えてみたいと思います。

この船旅の終点は四之宮であったことが、この日記に記されています。この伊勢参宮の一行はこの先東海道経由で西へ向かい、大磯で最初の宿泊をする訳ですから、それなら東海道に接続する「馬入の渡し」で上陸すれば良さそうなものですが、敢えて1つ上流の渡船場であった四之宮を上陸地点に選んでいます。この意味する所を考えてみる必要がありそうです。

江戸時代には、東海道など主要な街道と並行する水運で旅客業務を行うことが禁止されている箇所が少なくありませんでした。相模川に比較的近い地域の事例としては、江戸から東京湾沿いに南下する舟運で旅客を運ぶことが禁止されていたことを挙げることが出来るでしょう。川崎大師の参拝客が大森や羽田から船を使ってしまうことに対して、川崎宿役人や六郷川渡船の役人が代官に取締を願い出ていたり、あるいは金沢や杉田梅林への行楽客を舟運に奪われてしまうのに業を煮やした保土ヶ谷宿が奉行所に禁制の徹底を願い出ていることでわかる様に、これは言わば陸運の業者へのダメージを回避するための「産業保護施策」だった訳です(江戸日本橋〜行徳間や関西の淀川水運など、旅客の運搬が認められていた箇所もありますので、必ずしも全国で包括的に禁止されていた訳ではない様です)。

相模川の場合、その西にはほぼ並行して平塚〜田村〜戸田〜厚木〜依知を経て当麻へと至る街道がありました。地域によって「平塚道」「八王子道」などと呼ばれていたこの道は、現在もかなりの区間で残っています(現在の国道129号線がほぼその後継路線ということになります)。相模川を上り下りする旅客が増えると、ダメージを被るのはこの沿道の宿場だったことになりますが、その程度が過大であれば、これらの宿場から奉行所などに禁制を願い出た事例が残っていてもおかしくなさそうです。もしそうであれば、この伊勢参宮一行の川下りも禁制破りだったことになりますが、今のところ相模川水運で旅客を運ぶことを具体的に禁止した触書や沿岸の村々からの訴状などは見つかっていない様です。

勿論これは、単に見つかっていないだけ、という可能性も充分考えられます。ただ、当時の旅客の交通量という点では、流石に東海道と比較するとそれ程ではなかったでしょう。また、田村・戸田・厚木といった沿岸の各宿場も、大山詣での参拝先を主に扱っていましたから、南北方向に往来する旅行者のことはあまり強く意識していなかったかも知れません。とすると、この伊勢参宮の一行のクルージングは、あまり例のないことであった可能性が高くなり、その程度であれば沿道の関係者からも「目こぼし」されていたのではないか、という気はします。

もっとも、文久2年は幕末も終盤という時期に当たっており、開国後の混乱などで既に幕府の威信が大きく揺らいでいた時期でもあります。そういう最中の川下りということになると、あるいは本当は禁制が相模川にも存在したものの、既に有名無実化していた、という解釈も出来るのかも知れません。この辺りはもう少し他の事例を見てみないと判断が難しいところです。

とすると、四之宮で上陸したのは別の理由であったと考えた方が良さそうです。そうなると、各渡し場の事情の方にその理由を求めることになるでしょう。江戸時代には、東海道の各渡し場で指定された場所以外で渡しを行うのは「廻り越し」などと呼ばれて御法度とされていました。馬入の渡しも例外ではありませんでしたが、四之宮の渡しはこの「廻り越し」の常習地でした。


四之宮の渡しは現在の地図上で相模川沿いに計測すると、馬入の渡しの上流2.8kmほどの位置にありました。「新編相模国風土記稿」には基本的に四之宮村の農事用の渡しであったと記されています。ところが、当時の紀行文・旅日記の中には、東海道の馬入の渡しが川(つか)えになった時などに、上流に位置する四之宮の渡しを代わりに使ったことが記されているものがあります。例えば、安孫子周蔵という人の明和8年(1771年)の旅日記「いせ参宮道中小つかい帳」には

【明和八年七月十四日】

一、五十文  さ川(注:酒匂川のこと)、河越ちん

一、三十文  もち、あめ、すい瓜

一、五十文  四ノ宮ノ渡しちん、わき渡し也

一、八十文  藤沢泊り、はたごニ而小田原ノいしやと同宿

(「藤沢市史料集(三十一)・旅人がみた藤沢⑴—紀行文・旅日記抄—」藤沢市文書館編 11ページより引用、強調はブログ主)

と、帰路には四之宮の渡しを使ったことが記録されています(引用からは除外しましたが、往路には馬入の渡しを十文で渡っていますので、恐らく復路では馬入の渡しが渡れなかったのではないかと思います)。他にも、

それよりしばし過越して音入川風つかへとの噂ありなんごといふあひの宿ニ至リ同行の人打はかりて巡り道一里余四の宮といへる所へ行く 中間風雨甚敷大きに苦めり 中渡りを越へて平塚へ出づ

(「瓊浦紀行」天明五年・1785年 大槻 玄沢著、「近世紀行日記文学集成 2」 津本 信博編著  早稲田大学出版部より引用、強調はブログ主)

この例では、間の宿であった南湖(現・茅ヶ崎市)で川閊えの情報を得た旅人が、同行者の手引きで四之宮の渡しへと迂回して平塚へと向かったことが記録されています。

恐らく馬入の渡しでもこの様な四之宮の渡しでの「廻り越し」には神経を尖らせていたでしょうから、川下りの一行としてもその様な河岸に敢えて乗り入れて紛らわしい旅人を上陸したりすれば、要らぬ諍いに繋がり兼ねないという懸念もあったのだろうと思います。敢えて四之宮で丘に上がったのは、この地なら「廻り越し」を手がける地ということもあって、そんな諍いの心配が無用だったから、という事情がありそうです。

なお、この旅日記の終盤の記述は次の様になっています。

〃(注:正月廿七日)

一吉原宿 若狭屋伊兵衛泊り 三百廿四文

右川 よろし

廿八日

そこくら(底倉) よろつや泊り 夜昼 四百文

廿九日

堂ケ島 大和屋左兵衛次泊り 茶代共壱朱ト百文

卅日

一大磯宿 百足屋弥左衛門泊り 茶代共金壱朱也

二月朔日下向いたし

めでたしめでたし

相州下溝  田名辺治右衛門

(上記同書13ページより引用、ルビも原文通り)



行きで「よろし」と評価した(前回の引用箇所参照)大磯・百足(むかで)屋に贔屓序でに茶代まで出して泊まった翌日には村に帰り着いているのですが、その間の具体的な記述はありません。何処かで昼食をとってもおかしくない距離を最終日も進んでいる筈ですが、同日中に必ず帰着するつもりで空きっ腹を抱えたまま先を急いだのでしょうか。箱根山中では底倉・堂ケ島と湯治場を経由して骨休めしているものの、その直前では吉原宿から一気に箱根を駆け上がっており、なかなかの強行スケジュールで帰路を進んで来たことが窺えますので、最終日もそのペースで歩き切ったのでしょう。

ただ、相模川を遡上するとなると下りと同じペースで進むのは難しそうですし、帰路は陸路を進んだ可能性の方が高そうです。また、こうした「使い分け」がなされていたのであれば、それも相模川の川下りを無碍に禁制する程には及ばないと考えられた理由のうちに入るのかも知れません。

因みに、相模川水運が旅客を運んでいた可能性について、「相模原市史」にはこの様な記述が見られます。

この相模川の下り船は、物資の輸送ばかりでなく、東海道筋への旅客にもしばしば用いられた。前記河岸場をつくった儀右衛門(注:下溝村の河岸場が一度洪水で流された後この人物が再興したことが前ページに記されている)の一代前の当主は宝寿堂樹徳と号して、当時北相俳壇の中心的存在であった(第二章第六節参照)。彼は箱根にはたびたび遊び、塔の沢と宮の下の間に、自ら句碑を建ったほどであったが、その句稿を見ると、磯部から川船を利用したようである。

弥生末の五日相箱根温泉に

旅立と相川を船にて下る

旅立や朝日を花の下りふね

水無月のころ箱根温泉に旅

立とて身もかるかると行き

つきしたひ日くらしの風に

まかせ頭陀に笠杖をちから

として出立侍る

旅立や杖さへかろきことし竹

相川をふねにて下る

百合に目を残して行くや下り舟

皐月の末祇閣子とつれて箱根

温泉に旅立とて磯部といへる

所より川舟に乗りて下るに

風流も磯部に寄りて川涼し

夏河や噺流るる下りふね

梅沢の松屋といへる茶屋にて休て

名にしれて其松風や庭涼し     

(「相模原市史 第二巻」1967年 342ページより、句稿引用は再整形)


同市史の編集者としては、これらの句稿を相模川水運の旅客輸送の存在の根拠と考えたい様です。しかし、
  • この「儀右衛門」が河岸場を復旧した経緯から考えて、先代当主自身も河岸場の管理者であると同時に船主であったと考えられること。つまり、船の運用をある程度自由にできる立場にあった可能性があること。
  • ここに記されている事例では、何れも当主自ら単独か、俳句仲間の同行者1名の、1〜2名での舟の利用であり、船主自らの「私的利用」の範疇と看做せること。
から、事業として、つまり運賃を徴収して不特定多数の旅客を運んでいた証拠にはなり難いのではないかと私としては考えています。その点では、下溝村からではなく隣の磯部から舟に乗ったとする最後の事例はやや不思議ですが、その頃には下溝の船着場が崩れてしまっていた頃に該当するのかも知れませんし、あるいは句中に地名を引くには下溝より磯部の方が字数の収まりが良いので、敢えて隣村の名に置き換えたのかも知れません。

とは言え、今回見つけたのはこの旅日記の一例だけですので、これだけでは江戸時代の相模川の川下りを具体的に考えるには事例が足りないのは言うまでもありません。機会があれば他の事例も探してみたいところです。



追記(2013/11/12):ここで登場する大磯宿・百足屋、時代は下りますが明治23年(1890年)に新島襄が終焉を迎えた宿ですね。
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江戸時代の相模川の「川下り」(その1)

相変わらず復帰ままならず…の状況ですが、取り敢えず書き上げたものを置いておきます。


最近、江戸時代の東海道の様子を調べるために、江戸時代の紀行文・旅日記を折に触れて色々と探し回っているのですが、「県央史談」という郷土史研究会の機関誌(厚木・県央史談会編)に伊勢参宮の旅日記が掲載されているのを幾つか見つけました。その中に、相模川を舟で下ったという、当時としては珍しい記録がありましたので、備忘にブログに書き留めておきます。この旅日記はかつての下溝(しもみぞ)村に伝わるもので、同村の田名辺治右衛門という人が記したもの。出発日は文久2年(1862年)の正月2日です。

一正月二日立、夫より上溝村八幡宮にて篭上を致す 是より当麻川原迄行く 此所にて送りの人返ス、同行廿壱人にて船に乗り一之宮中飯いたし四之宮迄行、此所にてあがり、是より大磯宿へ行く 泊り

一、二日 大磯宿 百足屋(ムカデヤ)弥左衛門泊り 代弐百七拾弐文 右川よろし

三日 小田原宿 中飯いたし

三日 一箱根宿 油屋三四郎泊り 代三百廿四文 右川わろし

(「県央史談 第十一号」昭和48年11月 9ページより引用、ルビも原文通り)



旧下溝村の位置(Googleマップ
(一部新住居表示に伴い範囲外になっている)

上溝・亀ケ池八幡宮(ストリートビュー
かつての下溝村は現在の相模原市南区の西側、相模川と接する地域に当たります。上溝(かみみぞ)村はその上流側に当たり、その点ではこの人は若干「遠回り」したことになるのですが、恐らく周辺の村々からも伊勢参宮に参加する人が上溝八幡宮(亀ケ池八幡宮)に集合して出発したのでしょう。

江戸時代の相模川川下り:当麻→四之宮
当麻→四之宮の相模川の水路
(「地理院地図」に「ルートラボ」で
作成したルートを取り込んだものを
スクリーンキャプチャ)
ルートラボで仮に当麻(たいま)から四之宮まで線を引いてみました。当麻の出発点は仮に現在の昭和橋としましたが、当時はこの辺りに「当麻の渡し」があり、厚木から当麻を経て八王子方面へと向かう街道を渡していました。舟はこの渡し場のものだったのでしょうか、それとも当時の相模川水運で使っていた河岸場所有のものを転用したのでしょうか。どちらにせよ、一行総勢21人が搭乗出来る船ですから、それなりの大きさではあったでしょう(複数の舟に分乗した可能性もありますが、この川下りのために舟が出払ってしまうと「本業」に差し支えますから、精々2艘程度だったのではないでしょうか)。

早朝に下溝村を発ち、途中上溝で道中の無事を祈願していますから、当麻から船に乗った時には冬場とは言え既に日もかなり高くなっていたでしょう。当時の距離などを正確に知ることは今となっては不可能に近いですが、仮に当麻から一之宮まで現在の地図上で辿るとざっと18km、これも仮に朝9時頃に舟に乗り、一之宮に正午過ぎに着いたと仮定すると所要時間は約3時間、平均6km/h程度という、歩くよりも若干速い程度のゆったりしたクルージングだったことになります。勿論これは仮定した数字同士の計算ですから誤差は多々ありますが、何れにせよ先を急ぐための水運というよりは、流れに身を任せたのんびりした遊覧川下りだったと見て良いでしょう。途中に厚木や戸田などの渡し場があることを考えても、相互の安全確保の観点からもそれほどの速度は出せなかったと思います。

江戸時代の旅では陸を行くのが基本で、船は基本的に川や海上を「渡す」ためのものでした。海上を行く例としては東海道では宮〜桑名間の「七里の渡し」がありますし、浜名湖の入り口を渡す「新居の渡し」も1里と比較的長距離でしたが、「遊覧」を気取るには海の波に揉まれることもあって少々厳しかった様です。その意味では、比較的水面の穏やかな川面をゆっくり下る相模川下りは、当時の伊勢参宮の道中ではあまり見られないもので、相模川の中流域を起点とする地ならではのものだったと言えるでしょう。

勿論、今の相模川では上流のダムによって水量を抑えられており、また途中に固定の取水堰が3箇所も(磯部頭首工取水堰、社家・相模大堰、寒川取水堰)ありますから、当時の川下りを再現することは不可能です。


一之宮付近の迅速測図(「今昔マップ on the web」より)

寒川社の一の鳥居(ストリートビュー)。
ここから境内に入るまで900m近くあるが、
江戸時代の宿場はここより更に600mほど南
一之宮(現・高座郡寒川町)に立ち寄ったのは中食、つまり昼飯目的であったことがこの日記に記されています。ここは中原街道と田村通り大山道の交点に当たる宿場であると同時に「田村の渡し」で相模川を越える拠点でもあり、特に大山詣での参拝客で賑わう宿場でした。今は寒川町の中心地であり、北側には初詣の際に県内有数の参拝客を集める寒川神社が祀られる地としてその名が知られています。

このため、この上陸はあるいはその寒川社への参拝も兼ねていたのかと考えたくなりますが、この旅日記ではそのことには触れられていません。当時の伊勢参宮では伊勢に到着するまでの間に複数の権現社などに参詣することが多く、特に箱根権現(現・箱根神社)への参拝は大抵組み込まれていたのですが、この日記ではその点にも触れられていないので、あるいはこの旅日記が参拝先をあまり積極的に記録していないだけで実際には寒川社にも詣でているのかも知れません。ただ、「迅速測図」にも見える様にかつての一之宮の宿場町は現在の「景観寺前」交差点の辺りから「一之宮小入口」交差点を経る道筋にあり、ここから寒川神社までの参道はかなり長いので、その距離を考えると立ち寄らなかった可能性の方が高そうではあります。田村の渡しの上流、寒川社の西辺りで上陸すれば歩く距離を幾らか短縮出来そうですが、明治時代の地図を見ると渡し場ではない場所に接続されている道は細い農道くらいしかありませんので、敢えて大人数の一行が上陸を試みるのは難しそうです。

因みに、寒川神社境内に掲げられた由緒書きによれば、江戸時代には寒川神社は寧ろ不遇の時期で各社殿の荒廃が進み、再興は明治時代に入ってからのことなのだそうです。江戸時代は寧ろ権現信仰が根強かったということになるのでしょうか。もっとも、寒川の地が東海道などから離れ過ぎていることも少なからず影響していたでしょう。その点を考慮しても、やはりこの伊勢参宮の途上に寒川社に立ち寄った可能性は薄いということになりそうです。

ところで、この伊勢参宮の一行21名が昼食に立ち寄ったということであれば、なかなかの大人数向けの膳を一之宮が賄ったことになりますが、そこはやはり大山講中の参拝客の団体を恒常的に受け入れていたために、それだけの収容力を一之宮が備えていたことを考えて昼食の場に選んだのでしょう。もっとも、正月早々に大人数で立ち寄っていることから考えて、この伊勢参宮の講中から予め一之宮に「先触れ」を送って手筈を整えてもらっていたのかも知れません。受け入れる側も相応に食材の手配などが必要なのは、言うまでもなく当時も一緒です。

後半が長くなりそうなので、今回はここで止めます。次回はこの川下りの上陸地点について検討してみたいと思います。

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