2013年02月の記事一覧

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【武相国境】境川(その6)

先日来、当ブログのアクセスログに、「武相国境」のキーワードで検索されて来られる方が記録されることが多くなっております。アクセスどうもありがとうございます。この武相国境のシリーズもそろそろまとめに入る所まで来ましたので、もうしばらくお付き合いをお願い致します。

前回までに、現在の相模原市町田市境の武相国境周辺の歴史を大雑把に辿って来ました。今回は、戦国時代の終わりから江戸時代にかけて、現在の位置に武相国境が定まった頃の様子を見ていきます。

ここまでの歴史を辿るに当っては、「相模原市史」(昭和39年刊)「町田市史」(昭和49年刊)を主に参照、引用してきました。併せて必要に応じて「神奈川県史」の通史編(昭和56年刊)も参照しています。しかし、これらの市史・県史の何れでも、更には「東京百年史」(昭和48年刊)でも、検地と武相国境の変遷の関連を論じた箇所を見出すことは出来ませんでした。以前引用した様に、

当時(注:奈良〜平安時代)おそらく南多摩丘陵の尾根づたいや山巓(さんてん)見通し線などで相摸国との国界が定められ、現在の境川線より丘陵内部に入っていたと思われる。

(「町田市史 上巻」280ページ)

武相国境が境川を隔ててかぎられたのは、「武蔵通志」によると、文禄三年(一五九ニ)であって、それまでは境川が高座川と呼ばれたように、川の両岸は相州高座郡であった。千二百年以前の天平時代においてはもちろん相模国で、おそらく国境は多摩丘陵であったと思われる。

(「相模原市史 第一巻」299ページ)

と、古代の記述では国境の変遷が示唆されているのに、近世の段になるとその解説が成されないという、些かアンバランスな状態になっている訳です。

因みに、この「相模原市史」で指摘されている「武蔵通志」は河田(たけし)が明治22年頃に編纂した地誌ですが、未出版で東京都公文書館に行かないと見られない様です。閲覧する機会が出来たら改めて確認したいと思います。ただ、参照・引用される機会はかなり多い様です。

元より、こうした地方公共団体が作成する公的な市町村史や都道府県史の場合、様々な観点で議論が残っている事項についてはなかなか触れられない面があるとは思いますが、それはさておき武相国境に関して近世の記述が成されていない理由を探ってみましょう。まず問題なのは、肝心の江戸時代初期の検地の記録が、境川周辺に関しては残っていないことが挙げられます。「角川地名大辞典」では

文禄3年の洪水を契機に検地が行われ境川が武蔵・相模の国境とされたため、相模国相原村と武蔵国相原村(現東京都町田市)に二分され、上相原村とも称した。

(14.神奈川県「相原村(近世)」の項より)

としていますが、実際は外部の記録によって、徳川家康が江戸入りした後、所領となった関八州で検地を進めていたことが知られているのみで、その際の結果を記した当時の検地帳は、境川筋に限らずそもそも現地に残っていること自体が希少です。境川周辺の武相国境付近は徳川家康の江戸入り後早々に直轄領化されたものの、検地はやや遅れて行われたことがわかっていますが、その実態については充分に検証が出来ない状況にあります。

もう1点は、江戸時代において「国境(くにざかい)」がどの様な意味を持っていたのかについて、その研究が深まってきたのが上記市史が書かれたよりも後年であることが影響しているのではないかということです。そもそも、律令時代の支配体制は崩壊して久しく、国衙も郡衙もない中では国境にも郡境にもあまり意味はなかった筈ではないかと考えたくなりますが、実際は豊臣秀吉が天正19年(1591年)に全国の国絵図と御前帳(検地帳)を大名に命じて提出させ、これを禁裏に献納しており、実態はともかく枠組みとしては律令時代からの国郡制に倣っていることがわかります。しかし、

日本近世史研究のなかでは、七〇年代に入り、国家史研究の立場から国絵図・御前帳が注目され始めた。国郡という単位に立脚し、天皇の叡覧に供すという名目のもとで徴収された天正十九年絵図と御前帳が、関白政権というかたちをとった豊臣政権の性格を考える上で重要なものとしてクローズアップされてきたのである。ひとり豊臣政権のみならず、近世国家を考えるにあたって、領主制の視点だけでは捉えきれない先行国家の国制の枠組みが、いかに社会や国家の編制に影響を与え、当該期の権力がそれをどのようなかたちで機能させようとしたかという点が盛んに論じられ、国家論・朝幕関係・身分編制など諸分野の研究を刺激し、進展させた。こうして、近世初期を中心とした、政治史的観点からの国絵図・郷帳(国郷帳)の実証研究が緒に就いたのである。

(「領域支配の展開と近世」杉本史子 山川出版社 1999年 154ページ)

つまり、こうした研究が更に深まってくるのは70年代以降で、「相模原市史」や「町田市史」が書かれた時期よりも後のことです。その点では、特に津久井郡域を合併して政令指定都市化した相模原市の場合、市史の編纂から既に50年近くが経過していることもあり、武相国境の件に限らず編纂当時には明らかではなかった知見を加えて増補を行うことが検討されても良いのではないか、とも思います。

文禄3年の検地はこの天正19年の国絵図・御前帳提出よりも後のことですから、この検地の結果が反映されたのは慶長10年(1605年)頃の国絵図・郷帳作成の時だったと考えられます。天正の国絵図は残念ながら見つかっていません。また、慶長の国絵図については「江戸幕府撰慶長国絵図集成」(川村博忠 編 柏書房 2000年)が出版されているものの、

本書は江戸幕府が数次にわたり収納した国絵図および日本総図のなかから、現在確認されている慶長国絵図のすべてと江戸時代初期の日本総図を収録した資料集成である。

(同書 凡例より)

とされつつも、実際にこの本に収録されているのは
  • 和泉国
  • 摂津国
  • 小豆島
  • 越前国
  • 周防国
  • 長門国
  • 阿波国
  • 筑前国
  • 豊後国
  • 肥前国
  • 肥後国
そして
  • 奥州羽州全図
  • 日本中洲絵図
  • 山陰山陽四国九州絵図
  • 慶長日本図
これで全てです。相模・武蔵の慶長の国絵図は未発見ということの様です。

新編武蔵多磨郡正保図より
「新編武蔵風土記稿」正保改定図より

新編相模高座郡正保図より
「新編相模国風土記稿」正保改定図より
但し、上記の図中「日本中洲絵図」の武相国境付近を見ると、国境の線と境川と思しき川筋の線が重なって描かれ、更にその両側に「相原」の地名が書かれており、確かにこの時期には既に武相国境が境川筋に定まっていたことが窺えます。この本はかなりの大判本で重量があり、コピー機に載せると本を破損しそうなので断念しました。代わりに「新編相模国風土記稿」の高座郡の図と、「新編武蔵風土記稿」の多摩郡の図から、正保年間(1645~48年)改定図の境川付近を拡大したものを引用します。

ところで、全国的に見ると国境を巡っては、例えば児島湾の干拓を巡って備前・備中の国境論争があったことが上記「領域支配の展開と近世」でも紹介されており、特に藩領では国境を巡る対立が後々まで続いていたことが窺えます。しかし上記でも触れた通り、境川周辺は何れも家康が直轄領とした訳ですから、この時点では所領を巡る諍いとは無縁の地になっていた筈です。従って、文禄3年の検地で国境が境川筋に決められたと言っても、それは飽くまでも現状追認が本来の目的であった筈でしょう。それが何故国境の変遷と結び付けられて語られているのでしょうか。

これを、同じ頃に武相国境が定まった、鎌倉郡峠村の例と併せて考えてみましょう。峠村の場合、元は人が定住しておらず、空白地帯の様になっていた所に出来た集落を、天正検地が追認した格好であることを、この時に解説しました。

境川周辺に関してはそれとは対照的に、これまで見てきた様に周辺の所領が細分化される等の経緯を経たため、所領関係が錯綜する傾向があったことが窺えます。こうした中では、後から当地を所領としたためにそれまでの経緯について明るくない領主にとっては、それまでの経緯については甲乙付け難いと判断せざるを得ないでしょう。そして、その様な状況に白黒をつけるには、過去の経緯はさておき現状で確定させる、という手段を採らざるを得なかったのではないでしょうか。

となると、文禄3年に国境が定まる以前は、境川筋と境川北側の分水界の両説が併存し、どちらとも言い難い状況に陥っていた可能性が高そうです。そこを改めて検地することによって、境川両岸に存在していた集落が独立した村としての性格を強めていることが確認され、結果として改めて境川筋に国境が定められたのではないか、と思います。

橋本・香福寺:鬼瓦の三鱗
香福寺本堂の鬼瓦に残る三鱗の家紋
正三角形のものは傍系が用いた
新編相模高座郡元禄図より
「新編相模国風土記稿」元禄改定図より
こうした経緯もあってか、相原の地はやがて正保3年(1646年)に分村し、橋本村や上九沢村、小山村が独立します(小山村については元は別の村だったものが一時期相原と合併していたのだろうかと「新編相模国風土記稿」では判じていますが、こうした経緯も錯綜した所領のやり取りの過程で起きた可能性は高いと思います)。その様子は、上記「新編相模国風土記稿」の2つの高座郡の図中でも変化になって現れています。

うち、橋本村はこの頃から八王子通り大山道の宿場町として発展していくことになるのですが、この地がそれ以前から集落を形成していたであろうことは、同地の香福寺(建長寺67世の蔵海性珍(応永18年(1411年)没)が開山と伝わる)、瑞光寺(戦国時代創建と伝わる)、神明大神宮(永禄12年(1569年)創建と伝えられる)と、室町時代から戦国時代にかけて創建されたとする寺社が複数存在することから窺えます。殊に香福寺には樹齢400年以上とされる高野槇が本堂前に聳え、この地に根差す古刹であることを物語っています。また、本堂の瓦などに後北条氏傍系の家紋である正三角形の三鱗(みつうろこ)が見られますが、これは前回触れた通り相原が油井領であったことに関連があります。油井領の当主は後北条氏の関東進出後、八王子を本拠とした北条氏照に引き継がれました。滝山城、後には八王子城を擁した氏照が、北条氏一族の本拠地である小田原との連絡路の途上、この橋本の地を中継の要地としていたことは充分考えられます。

両国橋の位置
「橋本」の地名はこの宿場が「両国橋」の畔から街道筋に連なっていることに由来するとされていますが、橋本の宿場はこの両国橋の南側、つまり現在の相模原市側にのみ展開していました。宿場が栄えたのは江戸時代になってからですので、この傾向が果たして戦国時代以前からのものであるかどうかはわかりません。しかし、橋の北側には町田街道との辻があり、交通の要衝となるのであれば双方の街道に沿って集落が拡がっても良かった筈ですが、そうならなかったということは、あるいは当初から集落が南側にしか作られなかったのかも知れません。この付近での境川は川幅はそれほどありませんが、かなり深い場所を流れていることから、あるいは氏照に思う所があって集落を境川の片岸のみに固めさせたと考えられなくもありません。何れにせよ、「両国橋」の名が付いたのは境川筋が武相国境に定まった後のことであることは明らかですが、橋本の集落はそれ以前から既に境川の南側にのみ展開し、武相国境がそれを追認する形で確定された可能性もありそうです。

橋本・瑞光寺山門
瑞光寺山門
もっとも、「新編相模国風土記稿」では瑞光寺の開基について

開基は瑞光月心と傳ふ俗稱を勘十郎と云ふ、天正十四年十月三日死す、武州多磨郡下相原村の民、五左衛門の祖なり

(卷之六十七 橋本村の項 雄山閣版より、強調はブログ主)

と、境川対岸の下相原村の人間であることを伝えています。集落としては分かれていても、実際は相原の地の中で少なからず交流があったことを窺わせる事例で、単に同じ地名を共有する以上の関連があったからこそ、「元は同じ村」ということが末永く言われ続けているのでしょう。

という訳で、現在の町田・相模原市境に当たる武相国境は、文禄の検地によって現在の位置に定まったとは言えるものの、それ以前は必ずしも境川の分水界に確乎として認知されていたのではなく、時代の変遷の過程でどちらとも定め難くなっていたと考える方が当時の実情に合っているのではないかというのが、ここまで紙幅を尽くして書きたかったことです。

次回は橋本の寺社の写真集を挟み、その次に三浦半島の付け根から延々辿ってきた武相国境全体のまとめ…と当座の完結に続けます。

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藤沢・遊行寺にて

藤沢・遊行寺の位置
思う所があって日曜日に藤沢の遊行寺(藤沢山(とうたくさん)無量光院清浄光寺(しょうじょうこうじ))に出掛けました。今回は趣向を変えて境内で撮影した写真を何点か。


藤沢・遊行寺:水屋の龍
水屋の龍
藤沢・遊行寺:水垢離?する鳩
水垢離?する鳩
まずは手水を…と思って水屋へと近付くと、足元に先客がいました(笑)。水盤から溢れてくる水を受ける鉢の前で、頭にその水を被ろうというのかドバトが1羽。しばらくその姿を撮らせてもらいましたが、やがて鳩に餌を撒き始めたおじさんの元へと飛んでいってしまいました。

藤沢・遊行寺:遊行寺の大銀杏
遊行寺の大銀杏
境内の大銀杏は、幹の周囲が7mを越す大木です。昭和57年の台風で上部が折れた際に、その部分の年輪によって樹齢が250年以上であることが確認されているものの、傍らの解説では「イチョウの古木は根元の外周から生えた若木から育ち、元の木が枯れて中心が空洞になることがあるので、元来の樹齢は不明とせざるを得ません。」と説明されています。右下に見えている書院の中雀門が小さく見えます。

遊行寺は正中2年(1325年)、呑海によって開山されました。この大銀杏がそこまで時代を遡ることは流石に無さそうですが、折れた部分からは炭が検出されたことから過去に火災に遭ったことがあると考えられており、それだけの時代を潜り抜けて来たことは確かな様です。


藤沢・遊行寺:大銀杏と書院の冠木門
大銀杏と書院の冠木門
藤沢・遊行寺:大銀杏と紅梅・白梅
大銀杏と紅梅・白梅
この遊行寺のシンボルとも言える大銀杏の幹を傍らに据えて、こんな感じで見通した構図を作ってみました。

藤沢・遊行寺:紅梅と本堂
紅梅と本堂
開花が遅れていた梅もようやくほころんで来たので、本堂の屋根と取り合わせてみたものの…。もうちょっと鮮やかな色味になるかと期待したんですが。


藤沢・遊行寺:いろは坂の上から
いろは坂の上から
遊行寺総門から境内へと続く坂の石畳は、「四十八段」または「いろは坂」と呼ばれています。その両脇に眞淨院や真徳寺といった塔頭が配置されています。


藤沢・遊行寺:眞淨院前の白梅
眞淨院前の白梅
藤沢・遊行寺:真徳寺境内の白梅
真徳寺境内の白梅
両塔頭の白梅。こちらは大分花が開いてきていました。
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【武相国境】境川(その5)

前回は平安末期に登場する小山田氏の動きから、武相国境が混乱する要因の1つになったのではないかという話をしました。今回は同じく境川筋に展開した、横山党の諸氏の動きから話を始めます。

…と、いきなり横山党の名前を出してしまいましたが、「町田市史」では同氏について次の様に説明しています。

市内の小山田荘を除く小山・相原・山崎・成瀬等の地は、横山党の勢力下にあった。嫡流横山氏は元来八王子市内の横山、船木田荘を拠点とし、かねてから隣接する町田・相模原市域へその勢力をのばしていた。

横山孝兼には多くの子供があり、嫡男時重は散位権守、粟飯原(あいはら)氏を名のり、二男孝遠は藍原二郎大夫と称し武州相原にその居を構えた。その子孫は市内に勢力を伸ばし、孝遠の子義兼は野部三郎といって矢部に住し、その子兼光は山崎に居した。また孝遠の孫、鳴瀬(なるせ)四郎太郎も成瀬に居住したらしい。三男忠重は甲斐国古郷を領した。後年その子孫保忠・忠光父子は、和田の乱で横山氏と運命を共にする。四男経孝は小山、あるいは小倉を称し、小山および津久井小倉にその居をおいたものと思われる。その他女子は秩父重弘の妻として小山田有重を生んだ女をはじめ波多野・荻野・渋谷・平子等に嫁している。

ところで相原・小山の地名が境川をはさんで市内および相模原市にわたっていることよりすれば、両方にまたがる地帯が、かれらの所領であったものと思われる。

(「町田市史 上巻」384ページ)


上記文中に現れる「船木田荘」について、別の本から引用して補足すると、

…当地域(注:多摩地区)では、由比牧・小野牧などを中心とし、その周辺の山地部を含めた広大な地域が摂関家領の船木田荘 となった。そして、その立荘には、武蔵国府の在庁官人であった小野氏の系譜を引く横山党の横山氏が関係していた。こうした西武蔵の武士団の長が、当地域の開発を主導し、軍事力を背景に政治的にも活躍して、牧の荘園化にも深く関与していたのである。

ちなみに船木那翔の呼称は、荘園領主側の文書や記録類に登場するもので、在地では横山荘と呼ばれていた。…このことを裏づけるように、『新編武蔵国風土記稿』には横山荘という郷地名は登場するが、船木田荘については、郷荘としての記述は一切みあたらない。

(「地域開発と村落景観の歴史的展開―多摩川中流域を中心に」原田 信男 編 思文閣出版 2011年 142ページ、…は中略)

従って、横山氏も前回登場した小山田氏同様、牧の経営管理から興り、多摩郡内を南下して勢力を広げてきた在郷氏族ということになります。


町田市の範囲(Googleマップ
西側の東西に細く伸びた地域が相原・小山
現在の町田市域では、最も西寄りの地域の相原町が粟飯原氏の所領だった地域と考えられています。また、その東隣の小山町と小山ヶ丘(住居表示変更に際して旧相原町を一部編入)を合わせた地域が小山氏の所領でした。勿論、現在は土地の改変や区画整理に伴う市境の変更などによって当時の状況とは合わない部分が多くなっていますが、相原町や小山ヶ丘の付近では北側の市境がほぼ境川の分水嶺を通っており、粟飯原氏や小山氏らの所領がこの線を意識していたことが窺えます。つまり、この地域では当時まだ境川の分水嶺が武相国境と見做されていた可能性が高くなるということです。

なお、それぞれ南の相模原市域に同じ名前の地域が見出せますが、相原の方はその後橋本や川尻といった村が分村していったため、現在の地図上からは当時の所領との関連性は追い難くなっています。また、小山の東隣には同じく横山党の矢部氏が、やはり境川の両岸に所領を構えていたのですが、今はその地名は相模原市域のみに残っています。境川の北側の矢部は室町期には「小山田保下矢部郷」と記された資料が残っており、その頃までに小山田庄に取り込まれていたことが窺えるものの、その経緯については不明です。

しかしながら、粟飯原氏・小山氏をはじめとする横山党一族は、建保元年(1213年)に和田義盛が執権北条義時の挑発に乗って合戦に臨んだ際に共に挙兵し、敢え無く敗れてしまいます。和田義盛の妻は横山時重の娘であり、更に義盛の子である常盛の妻は時重の子である時広の娘という、深い姻戚関係にあったために出兵した訳ですが、これによって領主を失った横山荘は大江広元に与えられています。その後横山荘の一部は九条家や一条家領として譲られたり、天野氏をはじめ鎌倉幕府後期の御家人に分け与えられたりしているのですが、「町田市史」ではその天野一族の中での所領争いの例を紹介した上で次の様に解説しています。

以上によってわかるのは、第一にこの地が武蔵国由比本郷といわれて横山荘内と記されていないことから、横山荘内の少なくとも一部は国衙領に編入されて北条氏の直接支配下に入ったと考えられること、第二に鎌倉末期の南多摩地域の農村には、…旧来の在家の中からより小規模な在家農民が分立しはじめており、農民層の成長が認められること、第三に分割譲与によって御家人の所領が細分された結果、血を分けた兄弟姉妹の間でさえ激しい相続争いが行われたこと、第四にかれらは幕府の仲裁・保証によって和解に達してもなお郷や村のみならず在家や炭竃(すみがま)まで分割するという一層錯綜した領有関係に追い込まれ、したがって幕府の裁定に決して満足しえなかっただろうことなどである。現在の八王子市域におけるこのような状態は、隣接する町田市域内も同様に群小の在地領主層の錯綜した所領に分かれていったことを想定させる。

(「町田市史 上巻」414〜415ページ、…は中略)

つまり、この地域では鎌倉時代の末期までには、早くも領主の所領関係も領民も分散化する傾向が現れていた、ということです。

こうした傾向は恐らくその後も続いていたと見え、やがて戦国時代になって後北条氏が小田原から関東へと支配を伸ばした頃に作成された「小田原衆所領役帳」では、「油井領」の1つとして「粟飯原四ヶ村」が挙げられています。「相模原市史」では同市域に属する江戸時代の「上相原・橋本・小山・下九沢」をこの4ヶ村に含まれると判じていますが(第二巻532ページ)、この4ヶ村が現在の町田市域の相原や小山までを含んでいるかどうかは定かではありません。しかし、この頃には相原は分村化が進んでいたことは確かな様です。特に橋本は八王子と小田原を結ぶ街道沿いにあり、江戸時代には宿場が栄えた地区ですが、戦国時代に既に同地に瑞光寺や神明大神宮が建立されていることと併せて考えると、その頃には既に同地が独立した街場として発展しつつあった可能性は高そうです。

下小山田:大泉寺山門
大泉寺山門。
小山田氏始祖である有重を祀る
ところで、横山党が和田合戦で壊滅的なダメージを受けるよりも少し前、小山田一族であった稲毛氏や榛谷氏が、畠山重忠の乱で重忠を陥れた首謀者として相次いで謀殺されるということが起き、その煽りで小山田氏の所領も大きく縮小を余儀なくされた様です。その後の変遷については詳しいことはわかっていませんが、「町田市史」ではこの地域に主要な街道が通っていたことから直轄領へと組み込まれた可能性が高いとした上で、

南北朝時代の末から室町中期にいたる文書や金石文には、小山田荘の代わりに小山田保と記されている。保というのはがんらい国司の免判によって認められた一種の私領であったが、のちには「限り有る国保は勿論の公領也」(『吾妻鏡』文治三年四月廿三日条)といわれるように国衙領の一単位を意味しているから、小山田荘が小山田保とよばれるに至ったのは、それが南北朝末期には国衙領に編入された事実を明示するものであるといえる。したがって、小山田氏没落後の小山田荘は、やがて国務をつかさどる得宗家の支配下におかれ、のちには行政区画上の名称まで保と改められたのであろう。

(「町田市史 上巻」409ページ)

と指摘しています。なお、小山田氏の一部は甲斐国の郡内谷村に本拠を移し、戦国期には武田氏のもとで活躍することになります。

大和市下鶴間に残る「公所」
なお、武相国境との兼ね合いでは、相原や小山同様に境川の両岸に跨って広がる「鶴間」の地についても併せて見なければなりませんが、同地については南北朝時代まで下らないと記録がなく、所領がどの様に移ってきたのかが良くわからないのが現状です。「大和市史」では鶴間の域内に「公所(ぐじょ)(現在は「ぐぞ」と読む)」という地名があり、南の上和田地区の「久田(くでん)(「公田」に通じる)」「善光名(ぜんこうみょう)」「外記名(げきみょう)」といった地名とともに、この一帯が国衙領であった可能性を指摘しているものの、裏付けが乏しいことを論じています。1つだけ言えるのは、「新編武蔵風土記稿」の「鶴間村」の項には

永祿の頃は小山田彌三郎が知行する所にして、十六貫二百七十二文のよし【小田原家人所領役帳】に見へたり、又其比は小山田庄に屬せしことをも記したれど、今は其唱を失へり、

(卷之九十 多磨郡之二、雄山閣版より引用、強調はブログ主)

とあり、「新編相模国風土記稿」の「上鶴間村」の項では

又境川の對岸、武州多磨郡にも鶴間村あり、土人傳へて古は是も當國に屬して彼是一村たりしを、後國界變易して境川を限り、武州に屬せしより地域兩國に分れしなりと云ふ、其年代傳なくして知由なけれど、【北條役帳】に小山田彌三郎が采地の内、小山田庄鶴間と見えたれば既に此頃國界革りしと識るべし、小田原北条氏割據の頃は關兵部丞領す

(卷之六十七 高座郡之九、雄山閣版より引用、強調はブログ主)

と論じられていることから、戦国時代には既に境川筋で村が分かれ、一部が小山田庄に含まれていたことによって、事実上境川が武相国境になっていた可能性が高いということのみです。

こうした各地の所領の変遷にあまり深入りすると話の流れが見え難くなってしまいそうですが、武相国境との関連では、小山田氏や横山党の進出によって所領化された境川流域は、やがて度重なる相続の細分化や領主の交代などを経たことによって、ますます国境の見極めが難しいものになっていった、ということになるのではないかと思います。この様な状況のもとで戦国時代の末期に豊臣秀吉や徳川家康がこの地に登場してくる訳ですが、次回は彼らの行った検地とそれに伴う国境について見たいと思います。

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【旧東海道】明治時代の土橋→板橋の架替

馬入橋の件についてブログ記事を書くのに手にした本の中に、「神奈川県史料 第2巻」(神奈川県立図書館編 1965年)がありました。明治時代初期に神奈川県と明治政府の間でやり取りされた伺い立てとそれに対する指令が分野毎にまとめられており、「神奈川県史」や県内各市町史でも色々と参照指示の多い本です。明治9年の馬入橋に関するやり取りもこの中に収められていたので、再架橋の際のやり取りが残っていないか探してみたのでした。

残念ながら目的に叶う記事を見つけることは出来なかったのですが、架橋に関する資料には別の意味で色々と興味深いものが幾つか目に止まりました。今回はその中から1本、明治8年の神奈川県と明治政府との間のやり取りを取り上げます。

東海道武州川崎駅ヨリ相州中島村マテノ間ニ架設スルモノハ土橋ナリ人馬車通行破損シ易キヲ以テ東海道一線皆板橋ニ架換タキコトヲ伺タリ

当県管下東海道往還武蔵国川崎駅ヨリ相模国中島村迄従来架渡御座候橋梁ノ内土橋架渡有之時々朽腐損傷仕然ル処方今馬車人力車等通路モ繁敷随テ破損多ニテ其節ニ通路ニモ差支御保方悪敷ハ不俟論且三箇年或ハ五箇年間ヲ以架替致候儀ニ付積年ニ至リ却テ官費モ相嵩ミ村費課出モ同様ノ儀ニ御座候間東海道往還ニ限リ将来架替ノ節ハ土橋ノ分板橋ニ架渡候様仕度此段相伺申候以上

明治八年一月廿七日   神奈川県令中島信行

内務卿大久保利通殿代理

内務大丞林 友幸殿

指令

書面東海道土橋之場所板橋ニ模様替ノ儀ハ掛替ノ節従前土橋入費比較相添伺之上可取計事

内務卿大久保利通代理

明治八年二月八日     内務大丞林 友幸

(「神奈川県史料 第2巻」329~330ページ、強調はブログ主)


ここで言う「土橋」とは、橋脚や橋桁などは木で作った上で、床版に丸木を並べてその上に土を被せた構造のものを言います。こちらのブログに土橋の写真が何点かありましたので、そちらも併せて参照下さい。
この構造の最大の利点は、板橋の様に床版のために板を製材しなくて済むことです。人馬が上を通る訳ですから、板もそれなりの厚みがないとすぐに割れてしまいます。しかし、厚みのある板を取ろうとするとそれなりに成長した、樹齢の高い木を使う必要がありますから、それだけコストが嵩みますし、1本の木から取れる板の枚数にも限りがあります。他方、それほど樹齢が高くない木であっても丸木のまま多数並べればコストが抑えられるものの、これでは表面がデコボコして歩き難くなってしまいます。それで、丸木を並べた上に土を被せて表面を均す訳です。東海道でも比較的小規模な橋、特に村が維持する橋は大半がこの形式でした。

しかし、江戸時代には東海道をはじめとする主要な街道では大八車などの車を通すことは禁止されており、馬も背に荷物を載せて歩かせるのが基本でしたから、この様な仕様の橋でもそれほど傷みが早まることはなかったのですが、明治時代になって人力車や馬車が頻繁に通る様になると、「轍掘れ」の問題が出て来てしまいます。勿論同じ問題は道路自体でも発生していたのですが、土橋では上に載せた土が削れてしまうと下の丸木が露出してしまって通行し難くなってしまいます。かと言って都度都度土を被せ直して廻る訳にも行きませんから、多少コストが上がっても板橋へ転換せざるを得なくなったのです。

ただ、東海道に架かっている橋だけでもかなりの数がありますから、それを全て架け替えるとなれば支出が嵩んでくるのは当然で、その差額の援助を申し出ているのがこの文書の主旨です。それに対しての明治政府の指令はその都度差額の費用について書面にまとめて提出する様にと言っており、「神奈川県史料」にはその後の各橋の架替えの際のやり取りが載っています。例えば引地橋(現藤沢市内、引地川に架かる)の架け替えの際には

書面橋梁変更ノ儀伺ノ通聞届候尤修営費用ハ其県経費金ノ内ヨリ仕払ノ儀ト可相心得事

明治九年二月廿七日    内務卿大久保利通

と、かなり渋った返事を返してきています。元より道路・橋梁の国庫補助には、当時は一部を除いて積極的ではなかったのが、こういう所でも見られる訳ですね。

裏を返せば、江戸時代に街道に荷車を通すことも禁じられていたことには、それなりに理由があったことに気付きます。当時は道や橋の普請は地元の村の労力で担うのが基本で、東海道の場合は掃除役が助郷同様に周辺の村々にまで割り当てられている様な状況でした。そこを荷車が過度に荒らす様な運用を許してしまうと、その修繕の負担は誰が担うべきなのか、見えにくくなってしまうため、敢えて荷車を禁止して公平性を担保していた訳ですね。そうした時代から明治時代になり、道を通過するものが人馬だけではなくなったことで、その維持管理をどうしていくのか、なかなか思う様にならない時期が明治時代を通じて長く続いていたのですが、引用したやり取りは、そうした中で比較的初期に起こってきた課題の1つだった、ということです。
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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【武相国境】境川(その4)

その3」から少々間が開いてしまいました。前回は古代の境川周辺、特に相模原台地側の状況を見て来ました。今回はもう少し時代が下った頃の、今度は多摩丘陵側の状況を見ていきます。

古代の多摩郡が特に開発が進まない地で、渡来人を幾度と無く開拓目的で送り込んでいた地であったことは前回までに紹介しましたが、やがてこの地は武蔵国の他の地域とともに、馬の放牧に使われる様になっていきました。「延喜式」の「左右馬寮」の巻に次の様に、「御牧」、すなわち朝廷の勅旨牧があったことが記されています。

御牧。

甲斐國。…

武藏國。石川牧、小川牧、由比牧、立野牧

信濃國。…

上野國。…

凡年貢御馬者、甲斐國六十疋、真衣野、柏前兩牧卅疋、穗坂牧卅疋。武藏國五十疋、諸牧卅疋、立野牧廿疋。信濃國八十疋、諸牧六十疋、望月牧廿疋。上野國五十疋。

(卷第卌八「馬寮」、…は中略、強調はブログ主)

ここに記されている通り、武蔵国には「延喜式」が成立した平安時代中期(延長5年(927年)完成)には4つの勅旨牧があり、そのうち、「立野牧」が単体で20匹、残りの3箇所の牧が合わせて30匹という配分になっていたことから、「立野牧」が武蔵国の中では最も大きかったことがわかります。なお、武蔵国内の勅旨牧はその後「小野牧」と「秩父牧」の2箇所が編入されています。

この勅旨牧の所在地について、「町田市史」では諸説ありとして「新編武蔵風土記稿」や「日本地理志料」「荘園志料」「大日本地名辞書」の各説を紹介した後、次の様に続けています。

以上のように由比牧と秩父牧の所在地はほぼ確かめられるが、小川牧以下の四つの牧については、まさに諸説紛紛である。しかし、小川・立野・小野の三牧についていずれも町田市内に牧地を想定する説があるのは、注目してよい。そもそも牧の語源はムマキすなわち馬を飼うために(かき)をめぐらした(その)という意味であって、古代の牧は、一定の土地を区切ってウマセすなわち馬柵杙(ませぐい)をたてめぐらし外側に(ほり)を掘ったりして、家畜の逸出(いっしゅつ)を防ぐとともに家畜を外部の危害から守る繋飼場の設備をそなえていた(西岡虎之助前掲書)。したがって、一望千里の曠野よりも、山や丘陵にかこまれた凹地が適していて、袋状の谷戸(やと)の中に牛馬を追い込み、袋の口にあたる部分に馬柵(ませ)棒をかえば、牛馬が逃げられなくなる。いまも各地に残っている馬込(まごめ)・駒込・牛込というような地名は、このような牧の設備を意味した。勅旨牧が武蔵・上野の山寄り地帯・丘陵地帯で信濃・甲斐の山間部に設定されたのもそのためであるし、多摩丘陵地帯にも七〜八世紀ごろからこうした馬の牧養が発達していたことは、前章に述べた市内能ヶ谷・川崎市早野などの横穴古墳の線形壁画や、市内鶴川遺跡に発見された角柱列の遺構からも推測される。

(「町田市史 上巻」1979年 317〜318ページ、ルビも原文通り)


町田市馬駈交差点
交差点に残る「馬駈」の地名
やや長く引用しましたが、当時の馬の放牧に当たっては谷戸地形の方が好まれており、多摩丘陵の様な細谷戸が多い地形は最適だったということでしょう。無論、その背景として水田耕作には向かない土地で開発が難航していたという事情も関与していたことは充分考えられると思います。それだけ人口密度が低く、開発が難航していた土地があったからこそ、放牧地へと姿を変えていったのでしょう。

そのことを裏付けるかの様に、前回紹介した小山田周辺には「馬駈(まがけ)」「牧畠」「馬場窪」「鶴牧(多摩市)」といった、馬の放牧が行われていたことと関係しそうな地名が見られるのです。ここが果たして上記の勅旨牧のうちの1つに比定出来るかどうかはさておくとしても、広大な放牧地として使われていたことは充分考えられるでしょう。

町田市史上巻338ページ図
さて、この勅旨牧を管理していた在郷勢力や土着した国司が力を蓄え、勢力を伸ばして武士化していく、ということが平安末期に起こってきます。それに伴って勅旨牧は衰退していきますが、代わって在郷勢力による私営の牧が発達し、荘園と同様に有力な貴族や寺社への寄進によって基盤を固めていきます。そうした勢力の中で、秩父牧の別当から武蔵国最大の武士団となった秩父一門から分かれた諸氏が、関東平野南部に勢力を伸ばしていきます。「町田市史 上巻」からその拡散する様を描いた図を引用しますが、小山田氏はこの秩父氏から分かれて今の町田市や川崎市北部に進出して当地の馬牧を掌握します。小山田氏の祖である小山田有重は「小山田別当」と称していましたが、「別当」は元々勅旨牧の管理者を意味していましたから、まさしく馬牧の管理者として当地に君臨していたことになります。

初代有重の子のうち、三男重成は有重の所領から稲毛一帯の地を引き継ぎ「稲毛三郎」になりました。後に出家して相模川への架橋を行ったことは、「旧相模川橋脚」の話の中で出て来ましたね。また四男重朝は榛谷(はんがや)御厨に進出して榛谷氏を名乗りました。この御厨の名前も以前保土ヶ谷宿の成り立ちを考える過程で出て来ました。同地の伊勢神宮の所領というのは、榛谷氏の寄進によって成立した荘園であった訳ですね。この様なことから、有重が抱えていた所領が既に相当に大きなものであったことが窺えますが、翻って本家である小山田荘もまた相当な広さを持っていたことは想像に難くありません。

小山田神社:石灯籠の「小山田之荘」の文字
小山田神社に残る石灯籠の
「小山田之荘」の文字
嘉永5年の日付がある
ここで武相国境との関連で注目したいのは、この小山田荘の地域です。「町田市史」ではこの小山田荘の範囲を

現在の市内の小山・相原を除く大部分を含んでいたと思われる。

(上巻364ページ)

としています。しかし、その説の通りであれば、この時期に小山田荘が既に境川沿いまでを含んでいたことになります。小山田荘は武蔵国の所領という認識を持っていたことを考え合わせると、この時には既に境川の北側の地域も武蔵国という認識を持っていたことになってきます。実際はこの時期の小山田荘の境界は確定されている訳ではありません。しかし、やや時代は下りますが戦国時代の「小田原役帳」などを頼りに「小山田庄」に属する地域を見てみると、境川左岸に連なる一連の村々が何れも小山田庄に属しており、小山田氏の所領が境川の分水界を意識していなかった可能性は高そうです。

この辺りをどう解釈するか、今となっては確定的なことは最早不明になってしまっていると言わざるを得ないでしょう。小山田氏が律令時代の国境を無視して南下し、境川沿いまでを荘園のうちに繰り入れてしまったと考えることも出来そうですし、この辺りの国境が曖昧になっていたため、小山田氏が境川沿いまで進出したことを咎める人もいなかったとも考えられます。勿論、実は最初からこの区間は境川沿いに武相国境が走っていたと考えることも出来なくはありません。しかし、いくら荘園の勢力が高まる一方の時代であったとは言え、貴族や寺社への寄進によって自らの地歩を確保するという行為の意味付けから考えると、敢えて国境を侵すような行為を小山田氏がやったと考えるのはなかなか難しい面があると思います。


地理院地図」色別標高図では
標高が10mメッシュで色分けされており
境川の分水界は殆ど浮き上がって来ない


境川分水界付近のストリートビュー
また、武相国境の地形の特徴を考えると、瀬谷北部辺りから町田駅付近を経て下小山田に至る辺りまで、分水嶺が低く分かり難いという一面があることも否定出来ません。例えば、小田急線の町田駅から線路沿いを歩いてみると、駅付近は境川に向けての斜面に繁華街が立地しており坂道が目立ちますが、新宿方面に向けて歩くと平坦地となり、ごく緩やかな起伏が建物の敷地の裾に僅かに認められる程度になります。分水界に当たりそうな場所を探すと、小田急線の掘割の地形などから考えて右のストリートビューに示した辺りということになりそうですが、勿論道路や宅地の整地に際しての削平の影響は確実にあると思われるので、正確な場所を確定することは難しく、この様な場所は人為的に境界が明示されなければ一括して畑などに活用されそうな場所です。なお、この傾向は明治初期の迅速測図で見ても同様です。

もっとも、小山田氏が私牧の経営で力を成し、その主要な牧が袋状の谷戸地形を利用してのものであったとするならば、その様な地形とは異なる境川沿いは小山田氏にとっては単なる辺縁の地でしかなかったことになり、その点では境川沿いは小山田氏にとってはさほど注目される地ではなかったのかも知れません。

この様な経緯を見ていくと、この小山田荘の成立が、意図的に武相国境を無きものとしたとは言えないまでも、境川付近の武相国境の混乱に1つ手を貸した可能性はかなりありそうに思えます。ただ、小山田荘だけが問題と認識されていたならば、西隣の矢部・小山・相原の辺りでは境川の分水嶺を北端とする地域が所領となっており、後に境川沿いに武相国境が移るのは小山田庄内だけで良かった筈とも考えられます。そこで、次回はこの横山党から分かれて所領となったこれらの地域について見て行きたいと思います。

それにしても、広大な平地が広がる相模原台地の方が一見すると放牧に向いている様にも見えますが、それは海外の放牧事例などを知識として持っている現代人ならではの見立てなのかも知れません。平安時代の牧の経営は、谷戸地形の他にも島や中洲など、地形を「天然の柵」として利用できる場所を選んで行われていたというのは、当時の大きな特徴であったと見て良いでしょう。

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