2013年01月の記事一覧

【旧東海道】その9 馬入の渡しと馬入橋(その2)

前回江戸時代の馬入の渡しの運営主体が須賀村や柳島村、馬入村などであり、平塚宿とは関わりを持っていなかった点が六郷の渡しの場合とは異なる点を取り上げました。今回はそれを受けて、明治時代に入って馬入橋が架けられる経緯を調べてみます。

まず、その概略については「茅ヶ崎市」が比較的詳しくまとめていましたので、これを引用します。

従来の渡し船に代わる馬入川架橋工事の計画は、明治八年(一八七五)の船橋架橋がはじめてであった。足柄県令柏木忠俊は、馬入の渡しは増水時には杜絶し、また「平日ノ不便且土俗ノ癖習不尠」(『神奈川県史料』第九巻、一八五頁)として橋梁建設を思い立ったが、洪水の多い相模川では「如何様堅橋ニテモ永世不朽ノ目途難相立」(同右)として、長さ七〇間、幅二間の船橋の架設を計画し、建設費に渡船賃金をあて、馬入村の戸長に立て替えさせることとして、四月に内務省に架橋の伺いを提出し、五月に許可を受けた。翌九年、足柄県が神奈川県に合併されると、県は改めて、長さ二六六間、幅三間の木橋の建設を計画し、十二月に官費による架設を申請したが却下され、翌年工費の二十年賦拝借を申請したがこれも認められなかった。そのため「通行人民便利ノ為メ」(『市史』2、二八号)として、馬入村の民費によって建設し、橋賃を徴収して償却することとした。架橋工事は翌年夏には大半が終ったが、秋の洪水で流失したようである。十六年(一八八三)には六〇〇〇円余を投じて長さ二三〇間、幅三間の木橋が建設されたがこれも流失した。その後も三十六年(一九〇三)、三十七年と架橋を繰り返し、明治四十年(一九〇七)の大出水の翌年に至って永久橋が建設された。

(「茅ヶ崎市史 第四巻 通史編」1981年 414ページ)

最初に架けられた船橋、その次に架けられた明治11年の橋については他の市史などでも記述されているものの、その後の落橋と再架橋の経緯についてはあまり触れられていなかったり、明治41年から施工された「永久橋」を2代目と記していたりと、あまりきちんと記述されているものが見つかりませんでした。そうした中ではこの記述が今のところ一番詳細ということになるかと思います。

この記述に従えば、表向き、架橋と落橋の連続であった点は六郷橋と全く変わっていないと言えます。しかし、記述の中に「足柄県」「神奈川県」の名前が見える点は大きく異なっています。つまり、県行政が積極的にこの架橋の音頭を取っている訳です。六郷橋の場合は地元の名主だったり組合だったりが自ら動いていて、行政府の名前は明治末期頃まで出て来ませんでした。何故馬入橋の方は県行政が加担する格好になっているのでしょうか。

この点については「神奈川県」が次の様に書いています。少々長くなりますが御了承下さい。

ところで内陸部を流下する河川は、舟運によって少なからぬ貢献をする半面、道路交通を各地で遮断する大きな障害となった。そのため江戸時代以来各地に渡船場が設けられ、相対(あいたい)または定賃銭によって貨客の輸送に当たった。しかし、各地の渡船場は、江戸時代を通じてしばしば排他的な営業権を確立し、通行上の不便や近隣諸村との争論を招くこともまれではなかった。

このような事情は、幕府の崩壊や貨客の増加によって、維新以後しだいに変化しはじめた。そして、政府もまた明治四年(一八七一)十二月、布告第六四八号によって、新道開拓や架橋を奨励し、落成のうえは工費の多少に応じ、通行料金の取立てを許すことを明らかにしたのであった。

このような方針は一八七三年六月、六郷川架橋と渡橋賃取立の認可、というかたちで具体化された。…架橋願書が、一八七三年三月、八幡塚村鈴木左内および北品川宿芳井佐右衛門から東京府に提出された(『東京市史稿』帝都十一)。それによれば元来この渡船場は「往来之諸人(おびただ)しく、なかんずく横浜開港以来いや増し、馬車其のほか差しあつまる」場所であるが、渡船のため少なからぬ難儀を被っているので、このたび仮橋を架け、経費の償却のため五二か月半有料としたいというものであった。

この願書は東京府を経て所管の大蔵省に進達され、同年六月二十九日認可された。…

このような大蔵省の方針は神奈川県にもただちに反映し、一八七四年六月、第一七八号によって、渡船・架橋を旧慣から解放した「渡船架橋規則」が布達された。そして、これによって渡船・渡橋の運営は旧慣にとらわれず、すべて地元の村々がおこない、甲村の渡船・渡橋を乙村が支配する等のことを廃止すること、徒歩可能な河川で渡船・渡橋を強要する等の行為・奸計(かんけい)をおこなわないことなどが指示されることになったのである。

(「神奈川県史 通史編 6 近代・現代(3)」昭和56年 497〜498ページ、ルビも原文通り、…は中略)


つまり、あの鈴木左内の架橋は明治政府の通達を好機と捉え、それまで川崎宿が独占していた渡船権を架橋を契機に取り戻そうという動きであった訳です。成立当初の明治政府には十分な財源がありませんでしたから、架橋を奨励したくとも原資が無かったので、金は出せないが地元で財源が不充分ならば有料にしても構わないという「お墨付き」を与えてこれに代えたということになります。「積年の思い」を募らせていた八幡塚村にとっては、この通達は文字通り「渡りに船」だったことでしょう。

しかし、その左内橋が僅かな期間しかもたずに落橋し、自力での再架橋が叶わなかった経緯を考え合わせると、やはりこの試みは架橋技術や財政面の裏付けについて十分な勝算があってのことだったとは言えず、明治政府もその点への考慮はしていなかったと言わざるを得ないでしょう。せめて架橋技術に長けた技術者を施工時に派遣するなどの施策が採られていればまだましだったのかも知れませんが、その様な技術者自身がまだ絶対的に足りない状況(と言うよりこれから技術を習得しようという段階)下では、多少の無理には目を瞑っていたということになりそうです。

馬入の範囲。相模川東岸に飛び地がある
Yahoo!地図上で見る
とは言え政府の指令とあらば各県も動かざるを得ず、地元の関係者との協議の場を持ったということなのでしょう。相模川の場合、前回見た通り平塚宿による独占といった江戸時代からの「しがらみ」とは無縁ではありましたが、逆に周辺の村々が応分に分担して渡船場を運営していた分、架橋するとなれば改めて調整が必要になり、その音頭取りを上位の地方行政単位である県が担う格好になった、ということになるのでしょう。

おまけに「旧慣から解放」と言っても、馬入村にとっては周辺の村々と渡船場の運営の負担を分担していたものが、逆に馬入村1村の負担ということになってしまったということでもあります。地図を見るとわかる様に、馬入村の範囲は相模川の西岸のみではなく、東岸にも飛び地を持っており、馬入の渡しの辺りは両岸とも馬入村なので、地元の村の負担で架橋という話になると、相模川の規模を考えると負担が大き過ぎるのは目に見えていることでした。県もその点を考慮して負担軽減のために明治政府に援助を願い出ている訳ですが、当初に上記の様な通達が各県に出ている状況下では通る余地は無かったのでしょう。敢え無く却下されて結局六郷橋と同様の運用をする所に落ち着いたのでした。

最初の足柄県の船橋の計画は、その点ではなるべく無理をしないで実現可能な落とし所を探った結果なのだろうと思います。船橋であれば、江戸時代から既に幾度か架設した実績があり、その経験を持った人間が揃っていたと思われますので、架設に際して技術的な支障は無かった筈です。


もっとも、前回触れた相模川の水運は明治初期にはまだまだ健在でした。その船主にとっては船橋架橋は通行の妨げになるものを川の中に作られることになりますから、川を上下する舟が通過する時には船橋を一旦解放して通船し、通過後にまた戻すという運用が必要だった筈です。その煩雑さを考えると船橋という選択が必ずしも最適な選択ではなかったのではないかと思います。実際、明治8年に足柄県令の名前で内務省に伺いを立てて受理された上申書の最後には

其後人民彼此苦情ヲ鳴ラス者アリ、今ニ至リ未タ着手セスト云フ

(「平塚市史 5 資料編 近代(1)」1987年 595〜596ページ)

と追記されています。具体的な苦情の内容は書かれていませんが、苦情を寄せた中に須賀村や柳島村の名前があったとしてもおかしくないだろうと思います。

この船橋の運用は僅かな期間で終了しますが、足柄県から業務を引き継いだ神奈川県が木橋の建設に動いたのは、必ずしも水運に対しての配慮だけではなかった様です。「平塚市史 資料編」に明治10年の「馬入仮橋架設議定書」という資料が掲載されていて、ここで架橋に向けて関係者が合意したことが記されているのですが、その末尾にはこういう一文が追記されています。

先般村内渡船賃予備金勘定不明瞭之廉ヲ以、私共ヨリ奉出頭候処、本月(引用者注:10月)十八日本庁二課長安野義範殿・飯塚冬胤殿橋梁架設之義ニ付、当区平塚宿ヘ御派出ニ相成、吏員并小前一同御呼出之上、村内不熟之段厚キ義御論説彼我之件総遂熟議、帳簿不可解之廉下方ニ於テ双方并ニ正副戸長立会之上精算仕度候間、先般御煩慮奉懸候書面乍恐御下渡被成下度、双方連署ヲ以テ此段奉願候也

(「平塚市史 5 資料編 近代(1)」1987年 605ページ)

どうも船橋の資金運用を巡って何か揉め事があったらしいことが臭ってきますが、その具体的な経緯はともかく、揉め事の解消のためにより堅牢な橋を架する方向にすることで収集を図ろうとした意図があった様です。この議定書には実に90人以上の連署が並んでおり、それだけこの船橋運用に関与していた人(大半は出資者なのでしょうが)が多かったことを裏付けています。

ともあれ、こうした経緯を経て明治11年に最初の馬入橋の架橋工事が行われたことは確かな様ですが、上記の「茅ヶ崎市史」の書き方では果たして竣工できたのかも怪しく、竣工後程なく流失してしまった様にも読めます。とは言え、5年後には次の橋が架けられている以上、何れにしても架橋後長くもたずに落ちてしまったことには変わりはないでしょう。

この初代の木橋の架設に際して、その資金の工面の話については資料が残っているのですが、技術面でどの様な配慮が成されたかについては記録が見当たりません。考えてみれば、江戸時代を通して270年以上もの間、そして鎌倉時代に架かっていたと伝わる橋からは更に数百年、相模川には橋が架かっていなかったのですから、地元の村々にはこんなに大きな橋を架けた経験は全く無かった訳です。近隣では平塚宿の西側に位置する花水川(現在の金目川下流)が比較的大きな川になりますが、「新編相模国風土記稿」に記された花水川の川幅は25間(「高麗寺村」の項による)しかありません。ですから、その数倍の規模の架橋にいきなり取り組むことになった筈ですが、神奈川県側から何らかの技術的な援助はなかったのか、疑問として残ります。例えば東京であれば、当時であっても江戸時代から隅田川での大規模な架橋の経験のある棟梁はまだ健在だった筈ですから、そういう技術力のある人間を招聘して架橋に臨む等の手は打たれなかったのだろうか、という気がします。

まぁ、いきなり従来からの伝統的な工法で架橋に挑んで失敗した、という話であれば比較的わかりやすい話ではあるのですが、初代の架橋からさほど間を置かずに、次の架橋に挑まざるを得ない状況になったことには変わりはありません。実はこの2代目の架橋が問題なのですが、この話はまた次回に。



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【旧東海道】その9 馬入の渡しと馬入橋(その1)

現在の馬入橋の位置
旧東海道の検討、「その8」では「旧相模川橋脚」の史跡の検討を行いました。何れにしても江戸時代には既に橋はなく、相模川は馬入の渡しで舟渡ししており、六郷橋の様には架橋が試みられることはありませんでした。この六郷橋の経緯については「その2」で3回に分けて隣接する2本の鉄道橋を含め、明治時代の様子までを検討しましたので、馬入橋についても比較の意味で同様の検討を加えてみたいと思います。

架橋の動きが全く無かったとは言え、やはりまずは江戸時代の渡し場の運営状況を確認する所から始めるべきでしょう。六郷の渡しとの比較で1つ着目しておきたいのは、六郷の渡しの場合は川崎宿が実質的に渡船場の運営権を独占しており、その収益を宿場の財政の柱に据えていたのに対し、馬入の渡しの場合はその様な気配が見えないことだろうと思います。

旧東海道:馬入の渡し石碑
馬入の渡し碑(再掲)
馬入の渡しの場合、舟を出していたのは須賀村と柳島村でした。このうち、須賀村については平塚市博物館がそのWebサイト上で「ひらつか歴史紀行」と題した読み物の中でまとめられていますので、こちらを一通りお読みになるのが良いと思います。その中で、馬入の渡しに関連する話が出て来るのは「その3」で、相模川水運の廻船業の運営権を巡って、須賀村と柳島村の争論があり、幕府の裁許するところとなった経緯が書かれています。その裁許の結果、それまで須賀村が馬入の渡しの舟を出していたのを、柳島村も同様に舟を出す条件で、廻船業を須賀村同様に営むことが認められた、というものです。

ここでも触れられている通り、背景には相模川を上下する水運が江戸時代に増大する傾向にあり、馬入の渡しは結果として両村の廻船業の権利の担保になっていたことが窺えます。こうした負担を背負ってでも、須賀村や柳島村にしてみれば、より大きな利益の元になる廻船業が担保される方が重要だったということでしょう。特に須賀村の方は、「ひらつか歴史紀行」の別の場所で触れられている通り、江戸時代以前から河口で相模川水運の拠点として栄えていたことが知られています。思えば鎌倉幕府が開かれた頃から、相模湾は武家政治の中心地に物資を供給する重要な役割を果たしていた筈で、その点では湾岸に沿って進めば程なく目的地に着けてしまう「地の利」は絶大だった筈です。それが江戸幕府に移ったということは、相模川の水運にとっては三浦半島を隔てた隣の湾まで「遠回り」せざるを得なくなったことになるのですが、条件が悪くなったのにも拘わらず水運が更に発達していったということは、江戸という一大消費地がそれまでとは比較にならないほど巨大であったこと、そして相模川の上流が江戸への物資の大きな供給源の1つとして機能していたことの現れでもあるだろうと思います。


相模川河口付近の迅速測図(「今昔マップ on the web」より)
なお、「ひらつか歴史紀行」の文中で相模川の柳島村への流路の変更の話が出て来ます。これは旧相模川橋脚の回に触れた「古相模川」とは別の流れで、迅速測図でも見られる柳島村側へ逸れている分流を指していると思われます。この明治初期の地図で見ても、須賀村の辺りの大集落からその繁栄ぶりを窺うことが出来ますし、柳島村の一帯が砂州や湿地に囲まれていて恵まれた耕地が少ないことから、対岸の須賀村と争議になっても水運への進出を敢行した背景が窺えると思います。

また、相模川を上り下りする舟の側から見ると、渡船はその進路を横切る存在ということになります。将軍や朝鮮通信使などの大通行の際には相模川にも船橋を臨時に架設しましたが、架設中は相模川の流通が滞ってしまうことになります。大通行が終わると船橋は速やかに撤去されましたが、これは相模川の舟運を一刻も早く再開させる観点からは当然のことでした。更に、「ひらつか歴史紀行」の「その5」で舟運に使われていた高瀬舟について解説されている通り、この舟は帆船であると共に岸辺からの曳航も行われる舟でした。帆をかけるにしても、曳航するにしても、川に橋が架かっていると何かと邪魔になることには変わりありませんから、結果的にとは言え、相模川に架橋されていなかったのは水運にとっては都合が良かったと言えるでしょう。

旧東海道:馬入の渡し川会所跡碑
馬入の渡し川会所跡
因みに、水主(かこ)(船頭)を出していたのは馬入村・今宿村・松尾村・下町屋村・萩園村の5ヶ村で、このうち渡し場西岸に当たる馬入村の畔には川会所が設けられていました。川止め・川明けを始めとする渡船場の管理運営を司る場所ですが、現在川会所跡の碑は国道1号線からは見え難く、旧東海道歩きをしていると見過ごされやすい場所にあります。現在の馬入橋が若干ですがかつての渡し場よりも下流に架かっているので、国道から少し離れてしまっていることも見つけ難い一因になっています。

何れにせよ、平塚宿がこの渡船場の運営には全く関わっていなかったことがわかります。渡船場から宿場までは意外に距離があり、後に宿場に加わった八幡村(現在の平塚駅前付近)まででも1km、元の宿場の東端に当たる見附町ですと2kmはありますので、関与しなかったのも当然ではあります。とは言え、川崎宿と六郷の渡しの事例と並べてみると、当時の渡船場の運営も案外地域によって様々に事情が異なっていたことが窺えます。

六郷の渡しの場合は川崎宿の独占状態に対して八幡塚村が度々渡船権を求めて訴えるという経緯が、明治時代になって名主鈴木左内の六郷橋架橋の動きに繋がっていった訳ですが、それとは異なる背景を持つ相模川の場合、明治時代以後の架橋の動きはどうなっていったのか、その辺りを次回追ってみたいと思っています。実はこの件に関する資料が思う様に見つかっていないので、どう纏めたものか考えあぐねている所ではありますが…。

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【武相国境】境川(その3)

前回は武相国境の境川沿いの変遷を見るために、律令時代当時の様子を探ってみました。今回も引き続き境川周辺の歴史を見ていきますが、奈良・平安時代の当地の歴史を考える上で見ておきたい遺跡についての話から始めます。


矢掛・久保遺跡の場所
遺跡の名前は「矢掛・久保遺跡」と言います。現在は京王相模原線が走っている高架線の細長い敷地が発掘調査の対象となったのですが、その経緯について当遺跡の報告書には次の様に記されています。

矢掛・久保遺跡の調査は、京王線多摩センター駅とJ.R.横浜線橋本駅とを結ぶ、京王線延伸工事に伴い実施された緊急調査である。途中昭和61年には、鉄道沿いに敷設されることとなっていた市道東橋本83号線の対象箇所、およびそれに付随したいくつかの支線の調査も併行して行われた。

調査は昭和59年5月7日より開始されたが、これに先立ち昭和56年12月に、京王帝都株式会社(以下「京王」という)の主催になる地元説明会があった。この席上参加者から、遺跡が存在することの指摘がなされた。これを受けて、翌57年1月7日には、京王、神奈川県教育委員会(以下「県教委」という)、相模原市教育委員会(以下「市教委」という)の三者による現地踏査があり、その結果遺跡地図の補正がなされたのである。したがって、周知の相模原市№266遺跡の対象範囲が北西方に著しく拡大されることとなった。

(「矢掛・久保遺跡の調査」久保哲三・柳谷博編 矢掛・久保遺跡調査会 1989年 27ページより)



矢掛・久保遺跡付近の1974〜78年頃の空中写真
現在の地形図を薄く透過(「地理院地図」より)


矢掛・久保遺跡付近のストリートビュー
該当地域を一通りストリートビューで探してみた限りでは、現地一帯は一部に畑が残っているものの、既に住宅地化がかなり進んでいるためか、今のところ特に遺跡についての案内などは存在しない模様です。地名も住居表示変更に伴って「東橋本」「宮下本町」になっていますが、どちらもかつての「小山村」に当たる地域です。「矢掛」の名は同地の小字ですが、現在は遺跡名と周辺のアパート名に残る程度になっています。

そんな訳で、残念ながら現地に赴いても遺跡に直接繋がるものを見出すのは現在のところは困難ですが、出土品の一部が相模原市立博物館常設展示室に展示されていますので、そちらを訪問する方が良いでしょう。

この遺跡からは、縄文期から弥生期にかけての遺跡や中世〜近世の遺跡も少々出土しましたが、中心を成すのは奈良〜平安時代のものです。まず、竪穴式住居跡と共に掘立柱建物跡や溝状遺構など、固定的な集落があったことを窺わせる遺構が数多く見られ、その多くから多種の土師器や須恵器が出土しました。それらの出土品の検討から、この遺跡の時期は8世紀から11世紀と推定されおり、かなりの長期間にわたってこの地で集落が維持されていたことが窺えます。

また、この遺跡からは10点ほどの瓦片が出土しました。前回触れた通り、瓦葺きが認められていたのは当初は寺社のみで、その後の宮殿などに用いられる様になったものの、勿論地方の役所レベルで用いる様なものではありませんでした。こうした背景や出土した点数などから考えて、恐らく実際に屋根を葺くために用いられていたと考えるのは難しいでしょう。私個人の見立てでは、恐らくは相模国分寺のために大量に焼いた瓦のうち、割れたり歪んだりして不良になってしまったものや、不良を見越して予備に焼いて余ってしまったものを集落に持ち帰ったのではないかと思います。何に使っていたのかは不明ですが、この集落の人間が相模国分寺の瓦焼きに参画していたことの証拠にはなるのではないでしょうか。

更に、出土品の中には墨書した土器や、円面の硯片、更に仏塔と思われる破片が見つかっており、後者は市の指定文化財になりました。これらはこの集落に読み書きの出来る人間がおり、仏教信仰が持ち込まれていた証拠と考えられており、その点が評価されて文化財保護されるに至った訳ですが、そうなってくると気になるのがこの集落の規模と、この集落が郡衙などの主要拠点であった可能性です。

今のところ、発掘調査の対象地点がかなり限られていて、対照地点の外側にまで集落が広がっていたことを示す遺構も見つかっているものの、具体的にどの程度の規模の集落であったか、全容がわかっている訳ではありません。この地に万一郡衙やその関連施設があったとすれば大発見なのですが、報告書ではその可能性については特に触れられていません。ただ、国郡制でも地方に対して発した詔が滞りなく浸透するためには口頭レベルでは到底追い付かないので、少なくとも村長(むらおさ)レベルには読み書きと仏教についての知識が伝播していた可能性の方を個人的には考えたいところです。

一方、8世紀から11世紀の長期にわたって集落が維持されていたという発掘結果を踏まえて考えると、この集落が少なくともある程度の規模を持っていた可能性の方が高そうです。しかし、ある程度以上の規模を持つとなると、その集落が崖下の境川沿いの水田だけで十分に養えたかどうかが気になってきます。矢掛・久保遺跡の辺りでは境川は南側の段丘崖に近い所を流れていますので、当時の流路が大きく変わっていなければ南側の水田だけでは到底足りていた様には見えず、対岸の水田までこの遺跡の集落が耕作していた可能性は高いと思われるものの、そうなると北側の多摩丘陵には境川沿いの水田を耕作する集落はなかったか、あってもごく小規模な集落しかなかったことになるでしょう。


境川・京王相模原線高架橋下付近のストリートビュー
矢掛・久保遺跡の住民はこの川から水を得たであろう
また、相模原台地の上は平坦で広い土地を得やすいものの、水利という点では非常に条件が悪い一面があります。この辺りでの地下水位はかなり低く、境川沿いの段丘崖でもまとまった湧水ポイントが殆どありません。従って、かなりの深度まで掘らなければ井戸が作れないためか、矢掛・久保遺跡でもこれまでの調査結果では井戸遺構がありません。湧水も期待できないとなれば、水は境川まで直接汲みに行かなければ得られないことになります。この遺跡から大量に出土した土師器や須恵器の一部、特に甕は境川から汲んで来た水を溜めておくための必需品だったでしょう。

こうした条件を踏まえた上で、この地に集落が長期にわたって維持され得たのは何故なのか、考えられそうなものを「相模原市史」から拾うと、当時の相模国の養蚕が挙げられそうです。同書にはこの様に記されています。

諸国の養蚕や機業ははやくより奨励されていたようで、令の規定によると、上戸は桑三百根漆一百根以上、中戸は桑二百根漆七十根以上、下戸は桑一百根漆四十根以上栽培を命ぜられていた。七世紀においては百済・高麗・新羅などの帰化人が、しばしば関東地方に移住しており、とくに相模・武蔵は多かったので、彼らの指導による産業開発も多かったであろう。また政府は和銅四年(七一一)には、織部司の挑文(とうもん)師(花紋の織りだしを教えるもの)を、諸国に派遣しているから、前記の「一()綾、二窠綾(ブログ主注:格子型に織り出す模様の種類であることが前記で解説されている)」などは、それらの指導によって生産されるにいたったものであろう。

和銅七年(七一四)には、はじめて相模・常陸・上野の三国から(あしぎぬ)を貢進した。延喜式では相模国は麁糸上納十一か国、輸絁十か国のうちにはいっている。また平安時代初めに、政府が陸奥国に養蚕を行わせるため、機織りの上手な婦女を派遣した時、相模国からも、伊勢・三河・近江・丹波・但馬などとともに、二名をだした。養蚕・機業においては、相当古くより相模国は先進国の一つに数えられていたらしい。なお織機は普通、地機(いざりばた)が用いられたもののようである。

(「相模原市史」第一巻 1964年 315ページ ルビは一部ブログ主)


以上は境川流域に限ったことではなく、相模国のこととして語られているので、相模国の主要な養蚕地域がどの辺であったかについては定かではありません。ただ、相模原台地の様に日当たりが良い場所は桑栽培の適地なので、候補地としては有力だと思います。日影にならない広い土地が桑栽培に使えるという点が好まれていたとすれば、あるいはこの地を支える有力な産品ということになり、起伏に富んで日影の出来やすい多摩丘陵よりも集落が発展した要因としても考えやすくなります。

但し、矢掛・久保遺跡でも紡錘車が発掘されているものの、僅かに2例(と未完成品と考えられている塊1例)のみなので、これだけでは養蚕が大規模に行われていたことの裏付けにはなりませんし、そもそも絹以外の織物のために使っていた可能性も等しく考えなければなりません。この辺は将来更に周辺地が調査される機会を待つことになるでしょう。

ただ、こうした事例を踏まえて考えると、口分田の配分という点では不利な条件の土地でも、他の作物に活路を見出して相応の規模の集落を維持出来ている所はあったということにはなりそうです。こうした地域が、やがて律令制度が衰えて荘園や開発地主が増え、武士が登場する時代になるとどうなっていったのか…といった辺りの話はまた次回に。今回は少々武相国境の話から幾らか離れてしまいましたが、次回はもう少し戻ってくる…筈と思います(汗)。

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【武相国境】境川(その2)

前回を受けて、境川沿いの武相国境について、もう少し検討を深めてみます。今回は古い文献の引用などが増えますが御容赦を。

「太閤検地で国境が境川沿いに定まったと考えられている」という話を掘り下げるには、大きく分けると2つの問題を整理する必要があります。
  1. そもそもの「国境」が定まった律令時代の頃の話。国境が定まった経緯やその頃の境川周辺の様子を一通り探ってみる必要があります。
  2. 太閤検地の頃の話。何故その頃になって改めて国境を定める必要があったか、という問題がその中心になります。
勿論、2つの問題は独立して存在しているのではなくて、律令時代の国境がその後経た経緯が太閤検地の際の国境再設定の原因になる訳ですから、そのことを念頭に置いて説明を組み立てることになります。

つまり、7世紀頃から16世紀末頃までの、かなり長い期間の歴史を俯瞰する必要が出て来る訳で、これはなかなかの難問です。古い時代の歴史にはあまり強くないので何処まで成功するかわかりませんが、ともあれ、私なりに考えられることを書いてみようと思います。

時代を遡る方向で解説を行う方法もあるのですが、あまり一般に知られてはいない事柄が多い場合は、やはり順を追って律令時代の頃から話を始めるのが良さそうです。律令時代の国郡制の解説が丁度「相模原市史」にまとめられていますので、そちらを拝借すると、

律令体制における地方行政の組織としては、国・郡・里制を採用し、長官としてはそれぞれ国司・郡司・里長をおいた。…

この国郡制が成立したのは、大化二年(六四六)八月、「よく国々の協会を見て、あるいは(ふみ)し、あるいは図にして持参せよ。国県の名はその持参した時に定めよ」という詔がでているから、それからそう遠くない時期に定められたものであろう。…

(「相模原市史」第一巻 1964年 276~277ページ …は中略)

従って、「国境」が定められたのもこの頃だったことになります。

それでは、当時の武相国境がどの辺に定まっていたのか、現在は境川の両岸は町田市相模原市に集約されていますが、両市の市史はこの様に書いています。
  • 町田市(1974年):

    「当時(注:奈良〜平安時代)おそらく南多摩丘陵の尾根づたいや山巓(さんてん)見通し線などで相摸国との国界が定められ、現在の境川線より丘陵内部に入っていたと思われる。」

    (上巻 280ページ)

  • 相模原市

    「…武相国境が境川を隔ててかぎられたのは、「武蔵通志」によると、文禄三年(一五九ニ)であって、それまでは境川が高座川と呼ばれたように、川の両岸は相州高座郡であった。千二百年以前の天平時代においてはもちろん相模国で、おそらく国境は多摩丘陵であったと思われる。」

    (第一巻 299ページ)

両者とも「多摩丘陵」の上を通っていたという点では共通しています。具体的に武相国境が通っていた位置を裏付ける文献などは特に見出されていない筈と思いますので、その点を反映して「と思われる」という表現になっていますが、「尾根づたいや山巓見通し線などで」という表現からは、境川の分水嶺をその候補として考えている節が色濃く漂っている様に思えます。

ただ、これが比較的確乎としたものであったならば、果たして太閤検地に際して改めて国境を引き直すということになったかどうか。勿論、上記の引用中に出て来る(みことのり)がある以上、全く未定であった筈はありません。しかし、少なくとも戦国時代の頃には国境を再確定しなければならない状況があったと考えないと、わざわざ線引をやり直す理由を見出すのは困難です。と言うよりも、今となっては当時の国境が不明になっているからこそ、上記の引用でも「と思われる」という表現になっている訳です。この点は後で改めて検証するとして、まずは当時の境川周辺の状況を確認してみましょう。

境川の北側、多摩郡の当時の開発状況については、町田市史では

武蔵野の奈良・平安時代は、まだ未開の空閑地が広々と連なる草深い地方であった。七世紀代以降多くの帰化人たちを相次いで武蔵国に配置しているのも、空閑地を与えてその開発に貢献させようとの配慮が強く働いていたようである。天平宝字二年(七五八)の新羅郡設置の条にも「武蔵国の閑地に移す」と記されている。平安時代に入り仁明天皇の天長十年(八三三)にいたってもなお人煙の乏しい地方が広がっていたことは、同年五月に武蔵国衙からの上申のように「管内曠遠(こうえん)にして行路難多く、公私の行旅、飢病するものおおし、よって多磨・入間両郡の界に悲田処を置き、屋五宇を建てん」と、行路病者救済のために国司たちが浄財を出挙して救護所を設置することを申請している状況からも知られる。

(「町田市」上巻278ページ)

と表現しています。もっとも、一口に「多摩郡」と言っても現在の東京都西部全域がほぼその中に入りますので、これだけでは多摩郡の南端に当たる境川周辺の地域に何処まで当て嵌められるのか、一概には言えない様にも思えます。しかし、郡全体が未開というのに辺境地が先に開拓が進むというのも妙ですから、境川近辺が例外であったと考える方が難しいということになるでしょう。


因みにこの事情は「吾妻鏡」の仁治二年(1241年)十一月十七日の項に

…今日箕勾太郎師政募去承久三年勲功勸賞、拜領武藏國多磨野荒野、…

(強調はブログ主)

と表現されていることから見ると、鎌倉時代まで下ってもあまり変わっていなかったことが窺えます。

他方、相模原市史では、土師器や須恵器の出土地の分布から境川沿いに古代の村に相当する「郷」があったと考えている様です。もっとも、相模川とその支流域については詳説されているのに比べると「本市域の郷は境川をはさんで一郷が存在したと思われる。(第一巻 283ページ)」といった表現で済まされているのが気掛かりです。

というのも、実は境川は水田の灌漑には必ずしも向いていなかったのではないか、という懸念があるからです。大分時代が下ってしまいますが、「新編武蔵風土記稿」から、境川沿いの村々の記述を一通り拾ってみます。出来れば「新編相模国風土記稿」でも同様にしたかったのですが、両者で編集方針が変わってしまったためか、「相模国」の方には土性などは記述されていません。ただ、右岸と左岸で大きく様子が異なるということもないでしょうから、一連の記述から一帯の様子を窺い知ることは出来ると思います。
  • 鶴間村 …水田すくなくして陸田多し、村内すべて平衍なれども、土性はことによからずして、糞培の力をからざれば五穀生殖せず、もとより川にそひたれば、夏雨秋霖の比は水溢の患あり、されど、常は用水に乏しくして、多く天水を待ち播種する地なれば、やゝもすれば旱損の年多しと云、…
  • 金森村 …当初は原野に添し村にて、すべて平地なり、水田少して陸田多し、土性は黑土にして糞培の力をからざれば五穀生殖せず、しかのみならず水旱ともに患あり、…
  • 原町田村 もと曠原の地ゆへ皆陸田なり、土性は黑土にて専ら糞培の力をたのめり、…
  • 森野村 …土地もとより低くして、平かならざれども、さまで嶮岨と云ほどのことにもあらず、土性は黑土砂交などにて畑多く田少し、霖雨の時は境川溢て水損の患あり、また旱損の患もまぬがれぬ地なり、…
  • 木曾村 …地形平かにして土性は黑土なり、水田は少く陸田は多し、やゝもすれば旱損の患あり、…
  • 根岸村 …水田少くして陸田多し、ことに旱損の患多き地なりと云、土性は黑土にして薄土なり、糞培の力をからざれば五穀生殖せず、…
  • (以上卷之九十 多磨郡之二)

  • 小山村 …水田少く陸田多し、土性は眞土黑土なり、…
  • 上相原村 …その中西の方によりては、前後ともに山高く聳えたれば谷あひのごとくにて、、冬の頃は朝夕の日をさへ見ることを得ずと云、民家のうしろは山丘にして、前はうち開けたる平地なり、土性は眞土にて、水田少く陸田多し、水旱ともに患なし、…
  • 下相原村 …土性はなべて眞土にて、水田少く陸田多し、…
  • (以上卷之百三 多磨郡之十五)

(以上、雄山閣版より)

こうした表記が多く誇張を含んでいるということは良く言われるものの、それを差し引いても、境川沿いの村々が、あまり灌漑には恵まれていなかったことが窺えます。比較的優良な条件に恵まれている上相原村も、山間だけに水田はそれほど広く取れなかったことを考えると、この区間全体では好条件の土地が少なかったと言わざるを得ないと思います。

江戸末期でこれですから、灌漑技術が発達していなかった律令時代にまで遡った時に、少なくとも江戸時代よりも状況が良かったとは考え難いでしょう。前回確認した様に、境川の水量は当時も現在もそれほど変化が無く、地形も灌漑に影響が出るほどには変わっているとは言い難い訳ですから、この点の条件に変化があったと想定するのは難しいことになります。


深見神社の位置
この様に律令時代の徴税の基本になる水田が作り難い地域は、少なくとも郷の中心を成すには弱いのではないか、という気がします。もう少し下流に下ると、現在の大和市域に「深見」という郷があったことが「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に記されており、現在も深見神社にその名が見えますから、あるいは多少遠距離ではあっても深見郷が細長く上流まで伸びていたのかも知れません。それは最終的に高座郡が相模野から鵠沼海岸までを含む広い範囲でまとまっていくことからも窺い知ることが出来る様に思います。


相模国分寺跡上空写真
他方、「相模原市史」では相模国分寺の建立に際して、相原や小山にその瓦を焼くための「かまば」が設けられたことを紹介しています。上記に引用した武相国境の見解はその節に記述されていることですが、その点を根拠に現在の町田市域で発掘されている「かまば」跡は、当時の相模国内に属する筈という見解を示した上で、次の様に続けています。

いずれも丘陵の斜面の「のぼりがま」であり、付近に瓦用の泥土を産し、日当りはよく、下に川が流れていて水に便利な地点である。瓦工は瓦用泥土を採掘して、水でこね、型によって泥土板を作る。それを日向で干して乾燥させ、かまの中に並べて火入れをするのである。

(同書第一巻 301ページ)

瓦のための粘土や水の産出地がかまどのそばに必要である点は同意なのですが、もう1つ大事なものについて記されていないのが気になります。燃料になる薪の産出地の問題です。

当時の瓦は寺院以外には使えないものでした。後に宮廷などでも使われる様になるものの、何れにしてもごく限定された建物の屋根を葺くためのものだったのですが、それはやはり瓦を焼くために莫大な量の燃料が必要になるからでしょう。相模国分寺の規模で何枚ぐらいの瓦が必要であったかは不明ですが、武蔵国分寺では50万枚という途方も無い数字が出ていますので、規模の大小はあっても数万枚のオーダーを下回ることはまずないでしょう。相原や小山の「かまば」がそれらの全てを賄った訳ではないとは言え、それだけの量の瓦を焼くとなれば、当然それだけの薪を伐り出して来なければならないことになります。

具体的にどれだけの薪が必要だったのか、これも正確な所は不明ですが、当時の畿内では

…奈良山丘陵のかなりの範囲が現在開発によって大住宅地となっているが、平城京建設直前の景観はおそらく開発前の状況と大きく変わらなかったのではなかろうか。樹木が生い茂り、谷川には澄んだ水が流れていたことであろう。それらの樹木が瓦を焼く燃料として利用された。したがって、瓦生産が進むにしたがって、奈良山丘陵からは次第に緑が失われていったことであろう。平城京造営時に営まれた瓦窯もおおむね奈良山丘陵に築かれたのだが、大まかにいうと古い順に西から東へ移っている。粘土採取の都合というより、燃料確保のために少しずつ東へ移動しながら窯を築いていったのであろう。

(「ものと人間の文化史100 瓦」森郁夫著 法政大学出版局 2001年 137~138ページ)

…という程に乱伐が激しく、宮城建設のために必要とされる木材と相まって森林資源を使い尽くしていく様な状況でした。それに比べれば地方の寺院の建設用の瓦の燃料消費量はまだましだったのかも知れませんが、

建物の造営工事が始まり、大方の骨組みが仕上がると屋根の瓦葺きが行われる。このことは、昔も今も変わりないことである。屋根さえきちんとしていれば雨が降っても内部の工事が進められる。したがって、短期間に大量の瓦を必要とする

(同書134ページ 強調はブログ主)

という状況と重ね合わせると、やはり一時的にせよ寺院建設に際しては大量の資源を消費することには変わりなかったと思われます。

そして、薪は日常生活でも必要なものでしたから、それだけ大量の薪を一気に伐り出されてしまうと、近隣の集落にとっては必需品の入手が困難な状況を作られてしまうということになってしまいます。ということは、こうした施設を作る場所の近隣には、あまり大きな集落がある場所は選び難いということになります。つまり、こうした「かまば」跡が発掘されているということは、その当時の周辺人口があまり大きくなかったことの裏付けにもなると思えるのです。

この様に見ていくと、やはり律令時代当初の境川上流域は、あまり開発が進んでいなかった可能性の方が高くなってきます。そうなると、その当時の武相国境は一先ず定めがあっても、未利用地同士が接している様な状況ですから、武蔵国・相模国両国の統治という観点では散在する集落のまとまりを括る以上の役目を負っていなかったのではないかと考えられます。

次回はもう少し時代が下った頃の境川周辺の様子を検討してみたいと思います。

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旧字体・難読漢字の検索

前回の記事の続きがまだ上手く書けていないところに、別のブログで漢字の表示が上手く出来ない、という話を見たので、今回はそれに因んだ記事を出して場つなぎします(汗)。

このブログ中で引用文を出す場合、旧字体などを用いているものはなるべくその字を使う様にしています。現状Unicode上で定義されていない文字は諦めて別の字に置き換えるなどの対応をせざるを得ませんが、それによって表現が変わってしまうのは可能な限り抑えたいと思っていますので、出来る限りその漢字を探して来て使う様にしています。

幸い、FC2ブログはエンコード(ここでは文字をインターネット上を通せる形式に符号化する方法の取り決めのこと)がUTF-8なので、Shift-JISやEUCの様な旧来のエンコードに比べると遥かに自由度が高いです。最近はWindowsもMacintoshも、あるいはiOSやAndroidもUnicodeの表示に関してはあまり制約がないので、かつてのパソコン通信時代の様には機種依存文字などの制約を気に掛けなくても済む様になってきました。

但し、それは飽くまでも表示の話で、入力するとなると意外に苦労することが多くなります。特に旧字体や難読漢字の場合は日本語入力で変換候補に出て来なかったり、そもそも音を入力出来ないケースも多く、そういう場合はなどのサイトに御厄介になることになります。

この最後の「グリフウィキ」は文字のイメージの辞書ですが、ここの「筆画による漢字検索」が、β版ながらなかなかユニークな検索機能が出来ます。まだ完全ではない様ですが、いくつかサンプルをリンクにして紹介してみます。
  • 基本は、字画を1つづつ上のボタンで打ち込んで検索します。
    例えば、「」という字は「直線 横」→「縦 接続 上」→「曲線 右」の順に書きますので、その順にボタンを押して「検索」ボタンを押すと、「下」の字の他に同様の字形のものが複数候補に出て来ます。
  • 字画が多いと、逐一ボタンを押して…ではなかなか大変ですが、漢字を部首に分解して入力すると、それらの字を字画に置き換えて検索してくれます。これが結構便利です。
    例えば、以前記事にした」の字は、木奈」と入力して検索すれば出て来ます
  • 部首への分解にはカタカナも使える様です。例えば「」はシ者」と入力して検索することが出来ます。
  • 他にも、「」は山上下」で出て来ます。ただ、あまり複雑な字に分解すると上手く行かないケースもある様です。

漢字がなかなか出て来なくて苦労する人は多いと思いますので、そういう時はこういうサイトも試してみては如何でしょうか、というご紹介でした。

追記(2016/02/17):グリフウィキの「筆画による漢字検索」機能は廃止された様ですので、該当機能へのリンクを全てコメントアウトしました。委細は本日の記事を参照下さい。

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