2012年12月の記事一覧

【脇往還】金沢・浦賀道と鎌倉・浦賀道:年代の問題

前回、田浦の地形が確かに公儀の往来を遠ざける一因になった可能性はありつつ、それだけでは浦賀道の整備状況などを十分には説明できないのではないかということを指摘しました。今回は、享保5年(1720年)に浦賀に奉行所が移ってきた時に初めて浦賀道の継立が本格的に編成されたという点から、この問題を私なりに解いてみたいと思います。

街道継立場助郷組合
鎌倉・
浦賀道
小坪村桜山・山野根・逗子・久野谷・堀内・一色
下平作村木古庭・上平作・池上・金谷・不入斗・佐野・小矢部・森崎
金沢・
浦賀道
横須賀村沼間・上山口・長柄・長浦・田浦・浦之郷・船越新田・逸見・公郷・深田・中里
※「新横須賀市史」通史編・近世 236ページの表6-1より抜粋・再編
この、享保5年に継立が編成された時の最大の特徴は、三浦半島内の村々を言わばゾーニングする様にして助郷組合が当初から編成されているということです。「新横須賀市史」通史編・近世(2011年)に掲載されている助郷組合の表から鎌倉及び金沢・浦賀道の分のみを抜粋して掲載します。

継立場に対して人馬の不足が出た場合にその補佐をする役目である助郷そのものは、江戸時代において特に珍しいものではありませんが、浦賀道をはじめとする三浦半島の継立の場合、当初から半島内のほぼ全ての村々を「組合」と呼ぶグループに編成して継立を補佐する仕組みとした点が特徴的です。この点について、延享元年(1744年)の「小坪村明細帳」から該当箇所を拾ってみます。

一 浦賀御番所御用人様方、三崎御通御用人様方継合人馬之儀、近村七ヶ村ニ而高弐千三百石余ニ而割合、当村ニ而人馬継合相勤申候、尤、賃銭被下候分、則割合村〻相渡申候、
逗子市史」資料編Ⅰより引用)

公儀の往来で人馬を差し出すのはある意味では「労働税」でしたが、一定の分量を越えるとその分については公儀であっても賃金が出たので、それによって得たお金は助郷の村々と分け合っていた、ということです。

江戸時代の継立において、助郷は当初からあったものではありませんでした。東海道の場合、助郷が具体的な制度として確立してくるのは元禄年間(1688~1704年)の頃の様です。例えば、藤沢宿や小田原宿の助郷村が確定するのは元禄7年(1694年)のことです。それ以前にも各宿場が周辺各村に人馬の応援を依頼することはあった様ですが、街道の往来が増えて宿場の負担が増えるに従い、周辺の村々を組織的に組み入れなければ制度を維持できなくなっていたということでしょう。

特に東海道の場合は往来が多かったことから宿場の負担が大きく、それは助郷の村々にも波及して、負担増への抵抗や宿場と助郷間の不公平感に対する争いが時代を追う毎に増えていくことになります。


中原街道のルート
また、東海道の北側を江戸・虎ノ門から平塚・中原まで結ぶ中原道の場合は、寛文11年(1671年)に佐江戸村と中山村の間で継立を巡って争いとなり、結果的にこの時に奉行所が出した裁定書に記された小杉・佐江戸・瀬谷・用田の4ヶ村が、中原道の継立場として定着することになります。この街道の場合は記録に残る限りでは助郷が設定されたことは確認出来ないのですが、その後も継立場以外の村が勝手に馬を出して荷継に手を出してしまったことに対して戒める文書が残るなど、この道での荷馬による駄賃稼ぎに旨みがあったことが窺えます。

一見相反する動きの様にも見えますが、要するに自分の稼ぎになる分には馬を出したいが、公儀として負担が過分にのしかかってくることになるのは願い下げ、という訳です。江戸時代初期にはその負担を巡って幕府側も民間側も試行錯誤をしていた、と考えることも出来るでしょう。

こうした事例に比べると、享保年間に成立した三浦半島の助郷組合は、ある面で江戸幕府がそれまでの街道の継立の実績や経験を元に、村々の負担がより公平になることを目指した結果である様にも見えます。三浦半島の継立自体が立地面であまり旨みが見込めない面があったため、村々の利益よりも負担が増える点を重く見なければいけなかったことも、こうした制度を選択した背景にあった可能性もありますが、他方で享保という江戸時代の中期に当たる時期には、幕府側も継立を巡って起きてくる数々の問題について、既に多くの経験を積んでいるとも言える訳ですから、その様な時期に新たに継立を編成するに当たって、その経験を元に新たな制度を模索した可能性もありそうです。

さて、この様に、江戸時代中期になって継立制度に対して見直しが入ってきたという考えることが出来るのであれば、浦賀道の他の側面についても同様の見立ては出来ないでしょうか。

江戸時代以前に、鎌倉・浦賀道や金沢・浦賀道がどの様に整備されていたのか、詳しいことはわかりません。しかし、鎌倉時代にあっては三浦氏の拠点であった三浦半島の主要な道が、更に鎌倉・浦賀道に至っては古東海道の一部と目されているとあっては、その様な道の整備状況が不十分なものであったとは考え難い面はあるでしょう。

とは言え、江戸時代初期に関して言えば、既に鎌倉の地が武家政治の中枢であった時代は遠い過去のものになっており、同地が農村化する動きが止められなかったことを考えると、三浦半島内の道に関しても「都」に達する道という役目を失っており、交通量もそれに従って減っていたと考えるのが自然なところでしょう。

上山口・杉山神社:鳥居
上山口の杉山神社(再掲)
そうなってくると、これらの道筋も次第にその役目相応の規模に「縮小」していくのが避けられなくなってきます。以前上山口の棚田を紹介した際に、同地の杉山神社の由緒が海と繋がりのあるものであることを紹介しましたが、その後もこの村は相模湾沿岸の村々との繋がりを保っていた様で、上記の継立組合の一覧では横須賀村の組合に入っていますが、同時に三崎道の秋谷村の組合にも上山口村の名前が入っています。しかし、見方を変えれば江戸時代初期には鎌倉・浦賀道は半島内陸の村々が海岸沿いの村々との繋がりを維持するための「村道」と化していた、ということも出来ます。実際、「幅一間余」の道幅は当時村同士が繋がるための「村道」の道幅なのです。

そう考えると、同地周辺に妙に「飛石渡り」が多いのも腑に落ちてきます。村内や周辺の村々の「勝手知った顔」が行き交う道ならば、少々の沢なら飛石渡りでも十分…という箇所には橋を架けなかったのでしょう。享保5年に奉行所が移ってきた時には、浦賀道がその様な「村道」になって既に久しい時期だったと思われます。

他方、享保といえばあの徳川吉宗が「享保の改革」を行ったことで知られている年であり、幕府は財政建て直しに躍起になっている頃です。実際、下田の奉行所を浦賀に移すことになったのも、江戸に入って来る物資の総量を正確に把握して、経済情勢をより的確にコントロールしようという狙いからのことで、浦賀奉行所が3ヶ月おきに報告を江戸に送っていたのはそのためでした。北回航路の開発によって江戸に直接乗り入れる船が増え、下田では江戸に入って来る船を十分捕捉できないために、江戸の水運上の入口に当たる浦賀に奉行所を移転することで「抜け漏れ」を防ごう、という訳でした。

しかし、そういう幕府には既に新たな大規模開発のための出資はなかなか出来ない状況になってしまっていました。これがもし、継立による駄賃稼ぎに十分なメリットがある土地であれば、村々の普請に任せて道を整備させることも出来たのでしょうが、陸運よりも水運の強い半島にとっては持ち出しが増えるのが必定とあれば、公儀の継立のための普請は幕府側の都合ということになってしまいます。そうなれば、村々からは「然らば何卒お力添えを御願い致したく」という声が出て来るのは避けられない所でしょう。

木古庭・不動の滝-3
木古庭の不動の滝(再掲)
付近を古東海道が通っていたと
されている
それでも、定期的な奉行所の報告を江戸で受け取るためには公儀の継立の編成は不可欠のものでしたから、そのための経路を確保しようと考えれば、既存の道筋で比較的状態の良い道を選ばざるを得なかったのではないでしょうか。そして、その道は結果として昔からの由緒の強い方を選ぶことになりました。勿論、金沢・浦賀道の田浦付近の地形を避け、より緩やかな道筋を持っていた鎌倉・浦賀道を選んだ方が、地形が険阻でない分村の普請の負担も少なくなりますし、内陸の村々にとってみれば、海沿いで船を頼れる村とは違い、道で海と繋がっていることが大事になりますから、その分だけ道を維持する必要性が高かったという面はありますが、こうして選ばれた道筋が古東海道であったとされる道と重なるというのは興味深いことです。

しかし、結局その様な「村道」としての規模の浦賀道でも、江戸時代中期から後期の負荷であれば耐えられる水準であったのでしょう。そのことが結果として、脇往還としては不十分に見える道幅や、飛石渡りや、継立場のまま、「浦賀道見取絵図」の描かれる江戸時代後期まで維持されることになったのではないでしょうか。

さて、それならば浦賀に移る前の下田奉行所に至る道はどうだったのか。江戸時代初期に設けられた下田の奉行所に向かう道筋がもしも細いものであったとすれば、ここまでの見解はおかしなことになります。

そこで、江戸から下田奉行所に向かう道筋であった下田街道について調べてみたところ、次の様な記述を見つけました。

しもだ-おうかん 下田-往還 …①三島宿から狩野川沿岸を南下し天城峠を越え、下田へ通じる往還路。…慶長12年(1607)、大久保長安によって天城越えルートの整備が指示されていることから、これ以後、現在知られている下田往還のルートが拓かれるようになったと考えられる。…道幅は嘉永3年(1850)「田京村地誌御調書上帳」(『大仁町史 資料編二近世』3-11)によると、幅2間とある。南條〜宗光寺間にある横山坂切通しの横断発掘調査を行った結果、幅2間と1尺の排水溝をもっていた(『宗光寺村誌』)。…
(「伊豆大事典」NPO法人伊豆学研究会 伊豆大事典刊行委員会編 より引用、…は中略、太字は見出し以外はブログ主)

下田に奉行所が設置されるのは元和2年(1616年)のことですから、大久保長安の指示は勿論奉行所への往来のためのものではありません。当時伊豆では金が産出したので、長安はそこに目を付けて輸送路の確保を目指した様です。従って、単に奉行所が出来ただけでは街道の整備に結び付いたと言えるかどうかは不明ですが、とは言え大久保長安は江戸時代初期に八王子に陣屋を置いて同地の開発や甲州道中の整備に力を発揮した人物であり、こうした人間が動いたことで下田への道の整備が進んだという点では、やはりこうした脇往還の整備は江戸時代初期に特異なことと言える面があったと思います。

また、ここに記されている道幅は何れも2間、脇往還の道幅としては標準的な幅ですが、下田街道全域に適用して考えるにはサンプル数不足で、これだけでは一概に判断出来ません。鎌倉・浦賀道も鎌倉以北は十分な幅があった訳ですから、区間による差があった可能性は当然考えなければならないと思います。しかし、横山坂切通(静岡県伊豆の国市)がかつては相応の幅を持っていたらしいという発掘調査結果を見ると、山中であっても道幅を維持しようとしていたことの現れとも考えられます。その点では、下田街道が脇往還としての水準を保っていた可能性は高そうです。

まとめると、江戸時代中期に継立が成立した浦賀道の場合、
  • 幕府側が緊縮財政への方向転換した後であった → 江戸時代初期と違い、大規模な普請は行われなかった
  • 鎌倉を失った浦賀道は交通量が減っていた → 江戸時代中期までに「村道」の規模に縮小していた
ことが相俟って、既存の道筋をそのまま取り立てて公儀に用いざるを得なくなっていた
…ということが言えるのではないでしょうか。その点では、勿論地形上の問題から迂回を強いられた面もありますが、江戸時代初期に成立した街道とは異なる時代背景が大きく作用したのではないか、というのが私なりの見解です。



本年はこのブログにお越し戴きまして、ありがとうございました。なるべく写真や絵図などを入れてわかりやすく…と思いながらなかなか果たせない部分もあり、読みにくい箇所も多々あったのではないかと思います。来年はもう少し改善できれば…と願いつつ、今年最後の更新を締めたいと思います。

来年もまたよろしくお願い致します。良いお年をお迎え下さい。

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【脇往還】金沢・浦賀道(その3:田浦の地形②)

前回に引き続き、田浦周辺の地形を検討します。今回は金沢・浦賀道を離れて、それよりも海側の地形を追ってみます。「そんなに無理して高い所まで登らなくても、もっと海に近い場所に道を付けることは考えられなかったのか?」という疑問の答えを追ってみよう、というのが狙いです。

確かに、急坂を遠回りして登り降りすることになる十三峠への道筋は厳しいものには違いありませんが、ならばもっと海沿いに道を付ける目はなかったのか、何が海沿いの道を阻んだのか、それを確認してみましょう。

こういう場合、地形図を仔細に追うのが本筋ですが、ここにはもう少し一般の人にも見えやすいものがあります。この区間を経由する鉄道や幹線道路です。

◯京浜急行
浦賀道(金沢):逸見・京浜急行との交点-1
逸見・京浜急行との交点より逸見駅方面を見る
浦賀道(金沢):逸見・京浜急行との交点-2
逸見・京浜急行との交点

浦賀道が京浜急行を潜る地点
前回逸見駅に向けて降りてきた所で記事を区切りましたが、尾根の麓に沿って金沢・浦賀道を進むと、途中で京浜急行の下を潜ります。

京浜急行の路線を金沢・浦賀道の道筋と比較すると、前身の湘南電気鉄道が多分に金沢・浦賀道の道筋を参考にしていることが窺えます。特に、能見台駅から浦賀までの区間はほぼ金沢・浦賀道に沿う様に線路を敷き、鎌倉・浦賀道の「その16」でも触れた様に、主要な集落のある場所に駅を設けました。鉄道も事業として成立する「見込み」が無ければ開業させられませんから、既存の交通事情を参考にするのは当然のことではあるのですが、陸運よりも海運に旨みがあるために当時は人があまり通らないと評されていた金沢・浦賀道に沿って鉄道を通そうというのは、少なからずリスクもある事業ではあったのではないかと思います。

とは言え、急坂には特に弱い鉄道のことですから、十三峠や按針塚に登るわけには到底行かず、この区間では按針塚になるべく近い麓を内陸側へと進むルートを採りました。安針塚駅から頂上までは直線距離で900mも離れており、標高差も100m以上ありますが、これが限界だったというところでしょうか。なお、現在の「安針塚」駅は開業当初は「軍需部前」という駅名で、必ずしも按針塚への観光客狙いで開業した駅はなかった様です。前回迂闊に「安針塚」と書いてしまっていましたが、これは飽くまでも駅名の表記で、塚の名前は三浦按針その人の名前の通り「按針塚」ですね。後で修正します(汗)。

安針塚〜逸見駅間の地形
しかし、ただでさえ山がちな場所を敢えて内陸へ進めば、それだけトンネルを使って突破しなければならない区間が増えてきます。追浜〜京急田浦間こそトンネルは1箇所ですが、京急田浦〜安針塚間には4箇所、安針塚〜逸見間にも4箇所のトンネルがあり、その先も逸見〜汐入間で2箇所、そして汐入〜横須賀中央間はほぼ全区間がトンネルになっており、合計するとこの間に12箇所ものトンネルが掘られています。

京浜急行:逸見駅より安針塚駅方面を望む
逸見駅より安針塚駅方面を望む
京浜急行:逸見駅より汐入駅方面を望む
逸見駅より汐入駅方面を望む
京浜急行:逸見駅ホームより安針塚方面のトンネル群を見通す
逸見駅ホームより安針塚方面の
トンネル群を見通す
特に、京急田浦〜安針塚〜逸見間はトンネルの数が極端に増えており、かつその間の「明かり」区間の距離が何れも短いのが特徴です。最初の2枚の写真の、金沢・浦賀道を越える区間はトンネル間の距離が120m程しかありません。

こちらの写真は逸見駅のホームから両側のトンネルを見たところです。ここは240mほどトンネル間の距離がありますが、写真を良く見るとトンネルの手前の石垣の形状や傍らの家屋の敷地の高さなどから、切通を付けているところがあることがわかります。つまり、実際の谷戸の幅としてはもっと狭いということです。

逸見駅のホームの端から安針塚駅方面を見ると、直線区間が比較的長いためにこの区間の4本のトンネルを見通すことが出来ます。

◯JR横須賀線
JR横須賀線・田浦隧道全景
JR横須賀線・田浦隧道全景
JR横須賀線・七釜隧道全景
JR横須賀線・七釜隧道全景
横須賀線は元は東海道線から横須賀軍港へのアクセスを確保するために明治22年(1889年)に敷設された支線です。その目的から、横須賀付近の海岸線沿いを走ることになるのは当然の成り行きでした。

しかし、逗子から田越川の谷沿いに進んできた横須賀線が、その先で分水嶺の下を潜って東京湾側に出た後、坂を下って田浦駅に近付くと再びトンネルを潜ります。これが田浦隧道で、トンネルを抜けた先に田浦駅があります。

この田浦駅は両側をトンネルに挟まれている駅として鉄道マニアの間では有名な存在ですが、これらのトンネルに阻まれてホームの長さが十分に取れず、11両編成の列車が停車する際には先頭から1両目と2両目の一番前のドアが開けられない運用を続けています。11両編成の列車は220mあるのですが、ホームの長さは200mを切っていることになります。

JR横須賀線・田浦隧道脇の斜面
田浦隧道脇の斜面
ここもトンネル脇の石垣や、周辺の斜面の形状から、実際の谷戸の幅がトンネル間の幅よりも狭いことがわかります。

この駅の北口を出ると、長浦港の岸壁まで200m程しかありません。勿論これは港湾整備の過程で埋め立てられて出来たものですから、当初の海岸線はもっと駅寄りだったことになります。それにも拘わらず、海岸線寄りを走る鉄道はトンネルを掘らねばならず、しかもトンネル同士の間隔がこれだけ狭くなってしまう、という地形になっていることがわかります。

JR横須賀線・田浦隧道の先を見通す
田浦隧道の先を見通す
JR横須賀線・七釜隧道の先を見通す
七釜隧道の先を見通す

田浦〜横須賀駅間の地形
その上、田浦駅を出た横須賀線は、駅端の七釜隧道を含めてやはり4つのトンネルを経て横須賀駅へと到着します。京浜急行の場合と違って田浦〜横須賀間はカーブが連続しますので、隣のトンネルまでを見通すことは出来ません。

京浜急行の場合は比較的山間を走っているために谷戸幅が狭くなる面がありましたが、実際は海岸沿いに出てもその傾向が変わっておらず、海を眺めながらトンネルを次々と潜るという、なかなか得難い車窓が展開します。

なお、上の地図でも確認できる様に、国道16号線も田浦駅の手前で横須賀線と交差すると、その先では横須賀線とほぼ並行して走りますので、トンネルも隣の鉄道と同期して現れます。因みに、この区間では国道16号の拡幅に際して用地の確保の関係からか、上り車線と下り車線が大きく分かれて進みます。



この様に、田浦一帯では海岸まで突き出た尾根によって区切られた細い谷戸が幾筋も連なっています。現在はトンネルを掘削することでこの地帯を突破する方法が使えますし、実際横須賀市内はトンネルが多数設けられているのですが、江戸時代には通行用のトンネルは極めて珍しい存在でした。神奈川県内では小坪村に数本の細い隧道が掘られており、現在も一部残ってはいるのですが、それらは飽くまでも地元の住民のための抜け道であり、街道の様な一般の通行人が用いるものとして供されているものではありませんでした。

となると、細い谷戸が連続する地形を通過するにはその都度尾根筋を越えて行かなければならなくなります。この一帯の尾根までの標高差は少なく見積もっても20mから30m、高い所では50m近くの高低差がありますから、この尾根を次々と登ったり下ったりを繰り返す様な道筋では、却って疲れやすい道中になるであろうことは容易に想像出来ます。

その上、この辺りの尾根は何れも麓の方が傾斜がきつく、こういう場所では巻き道を付けないと坂の傾斜を緩めることが出来ません。しかし、この一帯は今でも崩落危険地域が多数設定される様な地質の場所ですから、巻き道を付けるために斜面を大きく削ってしまうと、それだけ崩落の危険が増すことにもなります。勿論通行人への危険が増しますし、そのための予防策や崩落後の修復が度重なれば担当する地元の村々への負担も増します。

こうした条件を考え合わせると、無理に海岸線を行くルートを付けて細かい登り降りを何度も繰り返すよりは、その様な地帯を大きく迂回するために相模湾との分水嶺まで登ってしまう…という判断も、確かに止むを得ない判断ではあったのかな、とも思えます。そして、その様な道を敢えて行く程の喫緊の用事のない場合であれば、寧ろ平坦な道が多い鎌倉経由を行った方が…という判断が平時には優勢だったのかも知れません。

しかし…

金沢・浦賀道が平時の公儀には地形面で使い難い道筋であったとしても、前々回引用した川越藩主の手紙にある様に、非常事態には一刻の猶予もなく馳せ参じる必要から、やはり多少なりとも近道を使う選択をすることになるであろうという判断を退ける程のものだったかどうか。そうなると、金沢・浦賀道が「五海道其外分間見取延絵図」に含められなかったのは、やはり不自然なものではなかったか、という疑問を晴らすには至らないと思います。

また、鎌倉・浦賀道が本道として考えられていたのであれば、道幅や架橋、継立場等で不足を感じる状態のままで運用されていたことが、ますます不可解なものに見えてきます。無論、これらにもっと抜本的な梃入れを行うのであれば、地質面での困難さはあるにしても、金沢・浦賀道に何らかの手を入れて近道を本道として使える様に誂える、という動きがあっても良さそうですが、結局どちらの動きも見られないまま、幕末を迎えることになっていったのは、何が災いしたのか。

そこで、この課題を解くために、これらの街道にまつわる歴史的事実をもう少し掘り下げたいと思います。それは、これらの街道の継立は、下田から浦賀に奉行所が移ってきた享保5年(1720年)になって初めて本格的に組織されたということです。この継立の組織自体も、周囲の街道とは異なる方式が採られているのですが、次回はこの「享保5年」という時代背景を踏まえながら、この問題を私なりに解いてみたいと思います。



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【脇往還】金沢・浦賀道(その2:田浦の地形①)

前回、金沢・浦賀道について、田浦周辺の道の険しさが鎌倉への迂回に繋がったという話を紹介して終わりました。そこで今回は、その田浦周辺の地形を、まずは金沢・浦賀道に沿って検討してみたいと思います。

↓今回も分量が多くページが重いので、一覧から見ている方はなるべく「別タブで記事を開く」をクリックして下さい。


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【脇往還】金沢・浦賀道(その1:見取絵図の問題)

前回の最後に、金沢・浦賀道の問題を鎌倉廻りの浦賀道(以降、「鎌倉・浦賀道」と表現して「金沢・浦賀道」と区別します)と重ねると問題が一層複雑になると指摘しました。

本来なら、この金沢・浦賀道についても鎌倉・浦賀道と同様に逐次的にご紹介すべきなのでしょうが、それをやっていると何時まで掛かるかわかりませんし(汗)、この道については(一部区間を除いて)別途紹介する機会を持ちたいと思います。

もっとも、その場合でも今回鎌倉廻りの道で「浦賀道見取絵図」を対照しながら紹介した様な手法は採れません。何故なら、江戸幕府は「五海道其外分間見取延絵図」を編纂するに当たり、残念ながらその中に金沢・浦賀道を含めなかったからです。実はそちらの方の問題が大きくて、基本になる史料が十分に存在しないので道筋を確認し切れていないのが実情です。今回はこの見取絵図の問題について考えたいと思います。

ひとまず、地元の歴史研究グループの方々が作った資料などを元に、大筋で線を引いてみたのが以下のルートです。まだこのルートにどの程度の精度があるかもはっきりしませんが、このルートを辿るとどの辺を通りそうか、その時にどの位まで登ることになりそうかを確認する程度のことは出来るだろうという判断で公開することにしました。何れこのルートにも手を入れたいと思います。


保土ヶ谷→金沢のルート



金沢→浦賀のルート


鎌倉・浦賀道の「その14」で見た通り、「浦賀道見取絵図」が描かれた頃には横須賀から法塔十字路を経て鎌倉・浦賀道と合流して浦賀へと向かっていました。その後、天保末年に大津から安浦を経て横須賀へと向かう、近くてアップダウンの少ない道が切り開かれましたが、上記のルートはその安浦経由の道を示しています。上記ルートは大津の辻までで止まっていますが、この辻から浦賀の船番所までが約1里です。


東海道・保土ヶ谷宿内の
金沢・浦賀道の分岐から
戸塚宿の鎌倉・浦賀道の分岐まで
差し当たり、このルートで両者を比較すると、
  • 鎌倉・浦賀道:約35km(約8里27町)
  • 金沢・浦賀道:約32km(約8里)
この区間だけの比較なら、両者の里程に大した差はない様に見えます。

しかし、鎌倉を経由した場合は東海道を保土ヶ谷〜戸塚間の分だけ余分に歩かなければなりません。その間は10km(約2里半)ほどありますし、しかもその間には権太坂と品濃坂の上り下りが挟まっています。その間の境木の標高は、名越の切通に匹敵するほどの高さがあり、上山口〜阿部倉間の分水界の標高よりも高い場所に登るということでもあります。

余談ですが、1里=4km弱で、これは人間が1時間に歩く平均的な距離とほぼ同じです。ですので、「道程2里半」はそのまま「2時間半ほど歩かなければならない」ということです。全くの偶然とは言え、江戸時代の道程の単位が、何故か現代の時間の単位と相関性を持っているのはちょっと面白いところですし、街道歩きでは意外に便利な面もあります。それで、上記の里程の差を加えると、江戸から浦賀に徒歩で達する際に、鎌倉を経由すると金沢を経由するよりも3時間あまり余計に掛かる、ということになってきます。

この事実が当時の幕府の関係者間で共有されていたことを示す史料があります。文政4年(1821年)5月、川越藩主が幕府の勘定奉行・道中奉行に宛てた手紙が残っているのですが、それにはこうあります。

相州浦賀異国船渡来之節、私在処川越ヨリ人数差出候節、夫人馬而已ニ而ハ里数も御座候事故、手間取候も可相成候と奉存候、依之川越ヨリ江戸・金沢通り浦賀迄、継人馬宿〻無遅滞継立相成候様仕度奉存候、可相成義御座候ハゝ、御勘定奉行・道中奉行御達被置被下候様仕度、此段申上候、已上、
   五月六日         御名(川越藩主 松平斉典)

(「逗子市史 資料編Ⅱ」より引用、強調はブログ主)
幕末になって浦賀沖に外国船の出現回数が増えたことに対し、川越藩が緊急の際に遅滞なく浦賀に馳せ参じることを伝えている訳ですが、その際に金沢を経由することを明記しています。

これはその前提に、通常の江戸〜浦賀の公儀の通行には、専ら鎌倉・浦賀道が使われていたことが背景にあり、「浦賀道見取絵図」が作成されたのはその道筋を示している訳ですが、有事の事態になって一刻の猶予なく浦賀に駆けつけるために使う道としては金沢・浦賀道の方が近道であることは幕府も川越藩も承知であったからこそ、この手紙の文言に「金沢」の地名が出て来ることになるのです。浦賀奉行所を補佐する川越藩の役所が以前から浦郷にあり、「浦賀道見取絵図」でも木古庭からの道程が示されていることは「その10」でも触れましたが、当然三浦半島内の陸路の実情は熟知していたでしょう。


「江島道見取絵図」のルート
ならば、「浦賀道見取絵図」が作成された時に併せて金沢・浦賀道の絵図が作られなかったのは、公儀の往来に使われていなかったから…で話が済めば良いのですが、そう考えると不思議なのは「江島道見取絵図」の存在です。以前見た様に、この絵図は「江の島」の名前を含んでいながら肝心の江の島へは向かわない道筋が描かれており、巻末の文言から窺える様に鎌倉・浦賀道の支道的な位置付けで作成されています。

前回「江島道見取絵図」を取り上げた際には触れませんでしたが、幕末には小田原藩が川越藩と共に浦賀の海防に参画することになるものの、小田原藩の名前が浦賀に具体的に登場してくるのは絵図の完成よりは後のことです。小田原から浦賀に向かうのであれば確かに江の島道を経由してくるであろうとは考えられるものの、小田原藩が海防に参画する以前から川越藩と同様に浦賀奉行所の支援を行なっていたという記録は見当たりませんし、仮にあったにしても、それが「江島道見取絵図」作成の理由になるのであれば尚のこと、川越藩が浦郷への往来に使ったであろう金沢・浦賀道の絵図が作成されなかった理由がわからなくなってしまいます。

では、金沢・浦賀道は鎌倉・浦賀道に比べて、整備状況に差があったという可能性についてはどうでしょうか。これについては、少なくとも鎌倉・浦賀道が必ずしも十分な状態ではなかったことをこれまで回数を掛けて説明してきたばかりです。そうなると、余程金沢・浦賀道が酷かったのでしょうか。

「新編相模国風土記稿」で金沢・浦賀道の沿道の各村々について、これまで同様に道幅の記述を洗ってみましたが、明記されていたのは2箇所のみでした。うち、「浦ノ郷村」には「幅二間」とあり、「田浦村」には「幅一間餘」と記されています。浦郷は金沢よりは浦賀寄りに位置していますが、川越藩の役所があったことが効いているのか、この記述通りなら道幅は脇往還としては十分だったことになります。一方、田浦の道幅は十分とは言えないものの、少なくとも鎌倉・浦賀道と同等の道幅ではあったことになります。

金沢八景「乙舳帰帆」 - Wikipedia
歌川広重「金沢八景」より「乙舳帰帆」
("Kanazawa8 Ottomo" by 歌川広重 - 不明.
Licensed under パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.)
また、寛政九年(1797年)の「東海道名所図会」には金沢道(金沢・浦賀道のうち保土ヶ谷〜金沢の区間)について「程谷」の項に以下の様に記しています。

…これより金沢・鎌倉へ行く道筋右の方にあり、金沢能見堂まで三里余なり。道よし。

(「新訂 東海道名所図会[下]」ぺりかん社刊より引用)
わざわざ「道よし」などと記した意図が何処にあるのか、当時金沢に向かう際に神奈川宿から舟を雇ってしまうケースが後を絶たず、海上を通過されてしまう保土ヶ谷宿が禁止を求めて訴え出るなどということが起きていましたので、これも陸路への誘導策なのかも知れません。それでもこの金沢道は元は鎌倉街道下道の支道として開かれた道としての由緒もあり、何より江戸時代には「金沢八景」として知られた名勝地への道ですから、戸塚から鎌倉までの区間同様に往来の賑わいを十分期待できた道筋でもありました。その点で、この「道よし」は字義通りに受け取っても差し支えなさそうです。

とすれば、鎌倉・浦賀道に比べて金沢・浦賀道の整備状態が悪かった、と考えるのはやはり当たっていない、と言わざるを得ないでしょう。更に別の説明を探す必要があります。

なお、最近では梅の名所として知られる様になった田浦の梅林が開かれたのは昭和9年のことですから、それまでは金沢の先まで物見遊山の客が入って来ることはなかったと思われます。

鎌倉・浦賀道が選ばれていた理由として、金沢・浦賀道は近道ではあるが、田浦の辺りに極端に険しい区間があり、これを回避するために鎌倉・浦賀道へと迂回している、という説明が成されているものもあります。これは上のルート図をクリックしてルートラボ上で標高グラフを見て戴ければお分かり戴けると思いますが、現在のJR田浦駅の辺りから内陸へと入っていくと同時に上り坂となり、「十三峠」や「三浦安針塚」の辺りで標高130m近くまで登ります。鎌倉・浦賀道の名越の切通よりも更に40m程も登らなければならないことになります。因みに、金沢道の区間では能見台の辺りに標高90mほどの地点がありますが、この辺りは大々的にニュータウン開発が行われているため、江戸時代当時の地形からは大きく変わっている点は考慮する必要があります。

しかし、そのためにわざわざ鎌倉まで遠回りなのか?そもそも、この田浦周辺の道筋からして随分と遠回りな…という辺りから次回は考えてみたいと思います。


P.S. お陰様で、このところ「ブログ村」のランキングが随分と上がって来ました。アクセス戴いた皆様、どうもありがとうございます。今後とも重ねてよろしくお願い致します。

P.S.2
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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【脇往還】浦賀道:鎌倉から浦賀まで(その19:まとめと道幅の問題)

鎌倉から浦賀に向かう「浦賀道」は、地元の方を除くと一般的にはあまり馴染みのない道筋かと思いましたので、今回は特に「浦賀道見取絵図」と対照しながら逐次的に個々のポイントを追ってきた訳ですが、やはりここまで長くなると全体の見通しが悪いですね。改めて振り返ってポイントをまとめたいと思います。

その前にまず、今回鎌倉から浦賀にかけての全18回の記事をリストアップします。




そして、戸塚から鎌倉までと、鎌倉から浦賀までのルートを改めて掲げます。

戸塚から鎌倉まで


鎌倉から浦賀まで



浦賀道(鎌倉):名越第一切通
名越第一切通
鎌倉・下馬の辻を発った浦賀道は、その先でいきなり名越の切通を越える急坂に挑むことになります。しかし、そこを下った先では、大筋では、相模湾側から東京湾側へと三浦半島を横断する道筋でありながら、その分水界を越える道は意外なほど平坦な道筋となっていました。その結果、この浦賀道全区間を通じての最高標高地点は、名越の切通の頂上にあります。

古くは鎌倉から走水へ抜けて、そこから水路で上総へと向かう古東海道のルートとして使われたと考えられており、鎌倉時代にも三浦半島を支配した三浦氏の居城である衣笠城と鎌倉を結ぶ道として使われたと考えられているのも、三浦半島を横断するルートとしては最適なこの地形が最も有力な裏付けになる様に思われます。

上山口の棚田:上方の公道より
上山口の棚田
その緩やかな分水界に当たる上山口〜阿部倉間には、鍾乳洞由来の豊富な地下水脈を活かして多数の棚田が存在するエリアであったことも併せて紹介しました。神奈川県内の貴重な棚田風景が残っているということもあって、この記事は割と良く参照されていた様です。

首都圏近郊の比較的短距離の古道で、鎌倉は言うに及ばず、他にも浦賀など史跡には事欠かないので、街道歩きをされる方には地味ながら意外な「穴場」だと思います。物足りない方は街道を逸れて衣笠城址まで足を伸ばすというオプションもあります。

浦賀道見取絵図:木古庭村中心部
浦賀道見取絵図より:木古庭村中心部
他方で、「浦賀道見取絵図」を検討していくと、道中に洗い越しが1箇所、そして何より「飛石渡り」が7箇所も描かれており、これは同時期に作成された一連の「五海道其外分間見取延絵図」中の他の絵図で、神奈川県内や近郊の区間を比較して、他の街道では見られない特徴であることを指摘しました。

この点は出来れば「五海道其外分間見取延絵図」の残りの絵図も一通りチェックしたい所ではありますが、流石に分量が膨大なので完了するのが何時になるのかはわかりません。他の絵図も参照するなら洗い越しや飛石渡りだけ確認するのでは勿体無いですしw。ただ、江戸に近く幕府の目も十分に届く地域で、架橋が困難とは思えない地域で何故こういう整備状況のまま措かれていたのか、という課題は考えてみる価値があると思いました。

浦賀道見取絵図-小坪付近2
浦賀道見取絵図より:小坪新宿付近
また、「見取絵図」で確認できる小坪や下平作の継立場には集落が形成されておらず、少なくとも絵図が描かれた頃までは継立の負荷はそれほど大きくなかったと思われる点を見てきました。

因みに、東海道の場合は江戸初期に周辺の村々に対し、治安の観点からなるべく街道の近傍に住む様に通達が出ており、そのため宿場を離れた所でも山中でもない限り街道筋に集落が多数点在していたのですが、浦賀道の場合は全体として各村々の集落の形成地が必ずしも街道の周辺にはなく、寧ろ離れてしまっている箇所の方が多かったことも追記しておいた方が良いかも知れません。

さて、今回はもう1つ追加して指摘したい点を取り上げます。戸塚から鎌倉にかけての区間についても、「新編相模国風土記稿」の各村々の記述から浦賀道の道幅を拾い出して一覧化しましたが、鎌倉から浦賀にかけての各村々についても同様の一覧表を作ると、この様になります。

雪下村
大町村
久野谷村
小坪村
桜山村
堀内村濶一間餘
一色村濶一間餘
上山口村幅六尺許
木古庭村
上平作・下平作・池上村入会道幅一間餘
金谷村幅一間餘
小矢部村道幅一間餘
公郷村
大津村幅一間餘
西浦賀
(以上、雄山閣版より。引用に当たり小字の記述もサイズ変更せず)

戸塚〜鎌倉間に比べると随分と未記載になっている村が多くなってしまいました。この点を埋められる史料が無いか確認した所、以下の村明細帳が出て来ました。

文政八年三月「地誌御取調書上帳」相摸国三浦郡久野谷村

一 街道 鎌倉郡雪之下村ヨリ三崎・城ヶ島御用御通行、浦賀御奉行様御通行并不事之人馬道、但シ道幅弐間、同郡小坪村ヨリ同村新宿境迄十丁、…

逗子市史 資料編Ⅰより引用)

文政八年三月「三浦郡桜山村地誌取調書上帳」

一 街道、村西南方有之、浦賀道と唱、道幅壱丈

文政八年四月「三浦郡西浦賀村地誌取調明細帳」

一 町方街道壱筋、但、大津村ゟ入口谷戸町/内川新田ゟ入口田中町弐間余継場下平作村迄道方弐里、

文政八年五月「三浦郡木古庭村地誌御調書上帳」

一 往還浦賀ゟ鎌倉之道御座候、
道幅一間余も御座候、諸御役人中様御通行之節、…

(「相模国 村明細帳集成」2001年 青山 孝慈著・青山 京子編より引用)
(以上強調はブログ主)
何れも「文政八年」の明細帳ですが、これらは何れも「新編相模国風土記稿」の作成のために各村から提出させたもので、まさに「風土記稿」の原資料ということになります。しかし、何故かこれらは「風土記稿」には採用されませんでした。因みに、上山口村の同年の村明細帳には「風土記稿」に記述されたものと同じ「幅一間余」という道幅が記されています。

「風土記稿」の作成に当たっては各村からの明細帳がそのまま採用された訳ではなく、これらを元に実検を経て、その中から適宜取捨選択や追記が施されて執筆されています。従って、村明細帳に記載されているのに「風土記稿」に取り上げられなかったのは、何らかの問題を見出したからなのかも知れません。今回たまたま久野谷村の境にある名越の切通について、最近の発掘調査を「その2」で取り上げましたが、それによれば江戸時代の切通の幅は最大で幅270cmでした。これは当時の尺貫法に直せば「一間半」に相当する幅です。無論、切通は飽くまでも浦賀道のごく一部の区間に過ぎないのですが、これは「二間」と称するには若干サバを読み過ぎと判断された可能性もありそうです。桜山村の「道幅壱丈」は10尺に相当しますのでメートル法に直すと3m程になりますが、これもあるいは同様の判断によって採用されなかったのかも知れません。

もっとも、久野谷村はまだ鎌倉の隣接地であり、「その6」で見た様に参拝客が来ない訳ではないエリアでしたから、まだ幾らか道幅を広めにする動機付けがあったとも考えられます。桜山村もその点では森戸明神の途上ですし、浦賀はその繁栄振りから考えて相応の広さの道を構えていてもおかしくないところです。そうであれば、当時の道幅は明細帳の通りで「風土記稿」に採用されなかったのは別の理由ということになります。しかし、現時点ではどちらであるかを判断するに足るだけの裏付けがこれ以上ありませんので、部分的にはもう少し広かった可能性もある、という判断に留めます。

そうであったとしても、戸塚〜鎌倉間が大筋で「幅二間」を確保していたのと比べると、鎌倉〜浦賀間のうち、少なくとも堀内村から先は大筋ではその半分程度の幅しかなかったことになります。ざっと2mほどということになりますね。実際、葉山町が刊行した「葉山町郷土史」(昭和50年)でも

 当時の道は多く田畠をさけて山や浜を通り道巾も狭く街道筋でも二メートル位であった。川には橋らしい橋もなかったので大雨後は当分川を歩いてわたるしまつ、荷駄は人馬で、人は歩くか籠に乗る程度でこの不便さは明治中頃まで続いていた。

(同書56ページ)
と記しており、この道幅が大筋正しいものであることを裏付けています。

東海道五十三次保永堂版「川崎宿」
歌川広重「東海道五十三次(保永堂版)」より
川崎宿
("Tokaido02 Kawasaki" by 歌川広重
- The Fifty-three Stations of the Tokaido.
Licensed under パブリック・ドメイン
via ウィキメディア・コモンズ.)
この道幅が何を意味するかは、当時の馬の積荷の様子を見るとわかるでしょう。「東海道五十三次」保永堂版の「川崎宿」の絵の中に、対岸で渡し舟を待つ荷馬の姿が描かれています。背中に載せているものが何であるかはっきりしませんが、傍らの馬子の大きさから見てもその肩幅程度の直径はありそうです。当時の米俵が直径約40cmと言いますから、確かにその位の大きさのものを積んでいると言えそうです。これが馬体の両脇に1つずつあるということは、2つで80cm、馬体の幅もそれ以上はありそうですから、仮に50cmとするとトータルで130cmに達することになります。

道幅が2m程度しかない所にこの様な積荷の馬が両側から来れば、当然すれ違えるだけの幅がない訳ですから、どちらか一方が辻などを使って退避したりしながら行き交うしかありません。人馬の往来が大して見込めない道であれば、この程度の譲り合いは大して問題になりませんが、交通量が増えてくればその都度退避を繰り返すことになり、所要時間に響いてきてしまいます。つまり、「道幅一間余」では当時の人馬による輸送でも充分な容量を持っていなかった、ということになります。

こうして見てくると、この「浦賀道」は「浦賀御奉行様御通行并不事之人馬道」(上記久野谷村の明細帳)にしては、その整備状況にどうも疑問符が付いてしまう点が色々と見えてきてしまいます。この道は一体何故この様な運用を続けていたのか?

この問題は、浦賀から江戸へと向かう道筋としてはもう1本、既に見てきた様に金沢経由の道があった、という点を重ねると一層複雑になってきます。陸路で比較すると明らかに金沢経由の方が鎌倉経由よりも近道だった筈なのですが…という辺りから次回に続きます。

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