2012年11月の記事一覧

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【脇往還】浦賀道:鎌倉から浦賀まで(その7:写真集…鐙摺→清浄寺)

前回までで浦賀道が田越川を渡る所までを見て来ました。ここから先は「浦賀道見取絵図」との照合に際して色々と疑問点の出る場所ですので、出来るだけ写真毎に現在の地図を載せ、併せて必要に応じて見取絵図や迅速測図を掲載したりリンクを出したりしたいと思います。少々長くなりそうな雰囲気ですが、今しばらくお付き合いを。今回は鐙摺(あぶずり)から先、海岸線を離れて現在の葉山元町に達する辺りまでを見たいと思います。

追記:↓分量が多くページが重いので、一覧から見ている方はなるべく「別タブで記事を開く」をクリックして下さい。

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浦賀道から逸れて:木古庭不動尊・不動の滝と上山口の棚田

前回の続きの記事の準備が遅れてしまっているので、おまけにと準備した方を先に出します。

上山口から木古庭にかけて、江戸時代の浦賀道は、下山川の北側を一貫して進みます。これに対して、この一帯の南側に湧水量の多い滝と不動尊、そして棚田があり、その下を通る別の道が存在しています。


上で私が引いた道は飽くまでも現道を行く場合の道筋であり、なるべくアップダウンが少なくなる様に道を選んでみました。従ってここに示した道に何らかの由緒があるか否かについての裏付けは取れていません。

ただ、ガイド本によってはこちら側の道を「古東海道」と考えている様です。

常に木古庭街道(注:図示では現県道を指している)よりも一本入った山際の道を行く。この道が古東海道で、下山川へそそぐ小川(杉山神社東側を北へ向かって流れる沢)を渡ると、杉山神社である。
(「逗子・葉山・横須賀・三浦 三浦半島の史跡みち」鈴木かほる かまくら春秋社 79ページ、太字、注はブログ主)

不動の滝へのみちから木古庭の対岸の集落を見る
不動の滝へのみちから木古庭の対岸の集落を見る
無論、そこまで古い時代の道ということになると、現存する道と何処まで符合するかはわかりませんが、方面としては下山川の南を進んでいた、という目安と考えた方が良いかも知れません。地形図を良く観察すると、特に上山口から木古庭に入る辺りで、下山川と北側の山との間に平坦地が殆どない地点を江戸時代の浦賀道が通過しており、律令時代にはこれを回避するためにより下流で下山川を渡って北向きの急斜面の下辺を高巻きする様に進んでいた、とも考えられます。そこは等高線に現れている様に比較的なだらかな傾斜地の上で、周囲への見通しが良いことも安全面で好感されたのかも知れません。

もっとも、この地図の標高グラフを見ればわかる通り、河川の規模に対して高巻きかつ遠回りに過ぎる印象が強く、また北向きの斜面で寒冷であることから、南面する斜面に集落などが集まった所で下山川の北側を進むより平坦なルートに付け変わったのかも知れません。何れにしても、「浦賀道見取絵図」や「迅速測図」上で確認できるこの区間の当時の道は、一貫して川の北側を進んでいたことは確かです。

今回は木古庭の不動の滝や不動尊には立ち寄ったものの、上山口の棚田には立ち寄りませんでした。時間内にその日の終着地に辿り着ける様に先を急いでいたからではありますが、思ったよりも早着したこともあって少々後悔しています。神奈川県内では珍しく棚田風景が見られる所で、知る人ぞ知る場所ではある様です。差し当たり、ここではストリートビューでお茶を濁すこととします(汗)。2010年4月撮影とありますから、そろそろ田起こしして水を引き入れ始めた位の頃の様子ということになるでしょうか。


ストリートビュー


木古庭・不動の滝への急坂
木古庭・不動の滝への急坂
木古庭の不動の滝の方は、県道の不動橋から回り込むとかなりの急坂を登り、一旦下ってもう一度登りかけた辺りに位置しています。

不動の滝の位置

木古庭・不動の滝-1
木古庭・不動の滝-2
木古庭・不動の滝-3

意外に水量が多いのですが、これについては上記ガイドによると

〈不動の滝〉…この滝水には、実は仕掛けがある。上山口の御用邸水源地から、この滝に至る千七百㍍に亘り、凡そ二千五百万年前に海中から隆起したという石灰岩に亀裂があり、そこに流れ込んだ雨水が石灰岩層を少しずつ溶かし、空洞を作る。この空洞に溜まった雨水が少しずつ押し出され、この小さな滝となる。好天気続きでも耐えることのない所以である。
(上記同書 77ページ)

要するに鍾乳洞を経由して湧出していることになりますね。この上には現在はゴルフ場が出来ていたりするのですが、今のところ水脈への影響は見られない様です。

そして、これと同じ水脈が、上山口の棚田にとっても水源となっているのでしょう。山の上の方に十分な水源がなければ、棚田ではなく段々畑しか作れません。
木古庭不動尊
木古庭不動尊
木古庭不動尊の石灯籠-銀杏の黄葉を背景に
木古庭不動尊の石灯籠
銀杏の黄葉を背景に
木古庭不動尊はこの不動の滝から更に一段登った所に平坦地を造って設けられています。北向きの斜面の下にあるため、不動の滝共々どうしても日影になってしまい、今の時期は一際寒さが身に沁みてきます。古い社ですが、丁寧に管理されていることが伝わってきます。木古庭の現在の集落の中心は南向きの斜面側にありますが、かつては北向きの斜面のこちら側にも、もっと賑わいがあったのかも知れません。

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【脇往還】浦賀道:鎌倉から浦賀まで(その6:小坪・新宿の見取絵図の姿とその歴史―2)

前回に引き続いて、「浦賀道見取絵図」に描かれた小坪・新宿の姿について検討します。

江戸時代の脇往還の場合、継立を勤めた村に宿場が出来ることがしばしばありました。しかし、延享元年(1744年)の小坪村の明細帳には、

一 往還之泊宿不仕候、

一 当村名所旧跡無御座候、
(「逗子市史 資料編Ⅰ」より引用)

と、村内には宿がなかったことが記されています。

浦賀奉行所と江戸との往来にも使われたとされる道ですが、当時江戸を早朝に発ってもその日の晩には保土ヶ谷か、余程頑張っても戸塚で宿泊することになるのが普通でしたから、浦賀まで1日で踏破するのは流石に厳しかったのではないかと思われます。しかし、距離的に見て翌日には浦賀まで踏破出来たでしょうから、恐らく奉行一行が三浦半島内で宿を取るということは考え難かったでしょう。

他方、鎌倉・金沢方面の遊覧に訪れた参拝客が、更に三浦半島南部へと訪れる可能性があれば、参拝客相手の宿泊を業務とすることも考えられたでしょう。しかし、寛政九年(1797年)の「東海道名所図会」に取り上げられた項目を見ると、小坪近辺に存在する名所としては以下の項目が取り上げられています。

  • 小壺鷺浦(字が異なるが「小坪とも書す」と記されている)
  • 守殿明神(森戸村、現在の葉山町堀内)
  • 鐙摺山
  • 六代御前墓(田越川畔)
  • 神嵩(神武寺)
  • 岩殿観音(久野谷村、現在の岩殿寺)
  • 御猿畠山(名越切通の北、法性寺境内)

これがどういう順に並んでいるのか、「小壺鷺浦」の前に登場する「光明寺」と、「御猿畠山」の後に登場する「日蓮水」「石井(長勝寺)」まで、やや外れた場所に位置する「新居閻魔」「鎌倉漁村」を外して直線を引くと、こんな地図が出来上がります。地図をクリックするとルートラボのページに移動しますが、その地図中の吹き出しの上にマウスカーソルを持って行くと、各地点の名称が表示されます。

この全てを巡るとなると、神武寺の山上までの往復が入りますのでちょっと時間が足りないかも知れませんが、ほぼ1日で巡って鎌倉まで帰ってくる道筋を考えることが出来るのではないでしょうか。そして、これらのうちの南限は「守殿明神」であることがわかります。三浦半島内に参拝客が入ってくる南限はこの辺りだったと考えて良いでしょう。

小坪・大崎公園から小坪港・マリーナ方面を望む
小坪・大崎公園より小坪港方面を見る
そのため、小坪村には参拝客がやってくる可能性はありましたが、彼らは基本的に名所を巡って鎌倉に帰って行ってしまうので、泊まりに来る客を見込めなかったのでしょう。

宿泊客が望めないとなれば、東海道などの様に公儀以外での荷継で稼ぐ方向が考えられますが、浦賀奉行所のお陰で浦賀の湊は栄えていても、そこから荷揚げされて陸送される荷物は少なかった様です。浦賀では本来江戸に出入りする船便を逐一停泊させて荷物を改める、海の関所の役割を果たしていただけですから、大半の荷物はそのまま船に載ったままということになりますし、八王子など内陸向けの荷物を陸揚げするならば、例えば相模川河口の須賀湊など他に適地がありました。また、半島内で収穫されるものを近隣に売りに行く場合は百姓自ら担いで行くのが普通でしたから、遠方からの荷物を駄賃を取って運ぶ様な局面はもとより考え難い立地ではあった訳です。

浦賀道見取絵図-小坪付近2
「浦賀道見取絵図」より小坪村付近(東京美術版より:再掲)
こうしたことを念頭に置いて、「浦賀道見取絵図」の小坪村付近の描かれ方を見返すと、やはりこの図の描かれた寛政〜文化年間の頃には、公儀の継立も含め、継立場の負荷があまり高くなかったということが言えそうです。下田から浦賀に奉行所が移転してきたのは享保5年(1720年)、三浦半島内の継立が組織されたのは丁度その頃なので、それから約80年間、この様な状態で黙々と継立を勤めていたことになります(小坪村が新宿に継立場を移動したのが享保5年より後の可能性もありますが、そうなると前回検討した通り下平作村や秋谷村の負担が厳し過ぎることになるので、私としては継立が組織された当初からこの状態であった可能性が高いと考えています)。

但し、幕末になって浦賀沖がきな臭くなってくると、それに従ってこの道の往来も俄に増えていきました。恐らく小坪新宿に家が増えたのはその頃で、明治維新後の「迅速測図」でも街道筋に家が増えた姿が描かれています。こちらは明治13~19年(1880~86年)の作成ですから、「浦賀道見取絵図」からは約80年後の姿ということになりますね。

この辺は東海道をはじめとする遠距離を行く主要な街道とは事情が異なる一面で、それが公儀の運搬での各村々への負担にも影響を及ぼしていく訳ですが、そこに踏み込む前にまずこの浦賀道を終点まで歩き、更に「もう1つの浦賀道」を取り上げた上で、もう一度この話に戻ってきたいと思います。

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【脇往還】浦賀道:鎌倉から浦賀まで(その5:小坪・新宿の見取絵図の姿とその歴史―1)

浦賀道見取絵図-小坪付近1
「浦賀道見取絵図」より小坪村付近
(東京美術版より複写:一部不整合を起こしているのは 
複写時の制約によるものです)
鎌倉から名越切通を越えて、小坪の新宿に入り、田越川を渡った所までを、3回(その1その2その3)に分けてご紹介してきましたが、この新宿については「浦賀道見取絵図」に描かれた姿が問題です。まず、その見取絵図の新宿付近の部分を引用します。

縮小したら見え難くなってしまいましたが、小坪村付近の道筋の両脇の平地には格子状の模様が薄く描かれています。これは田畑を現しており、田越川に合流する支流に沿って一本道が田畑の中を通っているのが良くわかります。田越川からは若干離れており、支流もごく細いもので微高地が比較的得やすい地形であることから考えると、低湿地を無理に突破する道筋ではなく、絵図の見た目ほどには川からの水害のリスクはない様です。

浦賀道見取絵図-小坪付近2
上記「小坪村」付近を拡大
問題は、「小坪村」と丸で囲われた箇所の下に位置する、現在の新宿に相当する「集落」の描き方です。ここには家が僅か数軒しか描かれていません。これが特に何も役目を負っていない集落であれば何も問題はないのですが、小坪村は浦賀道、更には三崎道の継立場を受け持っていました。「新編相模国風土記稿」の小坪村の項にはこの様に記されています。

…鎌倉より浦賀及び三崎に達する往還あり、村内にて人馬の繼立をなす 西は鎌倉郡雪ノ下村、同郡長谷村迄各一里、東は浦賀郡内下平作村へ三里三崎道秋谷村へ二里、
(「新編相模国風土記稿」卷之百八 村里部 三浦郡卷之二 雄山閣版より)

一般的には継立を担う村は比較的大きな村で、継立場には人馬の往来が呼び水になって集落が発達しやすいことから考えると、「見取絵図」のこの描かれ方は少々不思議です。「浦賀道見取絵図」をはじめとする「五海道其外分間見取延絵図」は江戸幕府の内部資料として作成されたものであり、実地調査に基づいて家並みを表現している筈ですから、集落の侘しさなどを誇張して表現する様なことはあり得ず、絵図が作成された寛政〜文化年間に実際にこの様な状況だったのでしょう。

何故この様な状況であったのか、参考になる資料がないか探したところ、逗子市の郷土史についてのエッセーをまとめた本に次の様な記述を見つけました。

披露山の高橋家の分家が新宿に下り名主代理として人馬継立等を行った。近村名主の寄合所で会所と呼び村々の事務を取った。高橋家は今も「会所」の屋号で呼ばれ地域旧家の人々の寄り合いの場として親しまれている。…この会所と、隣接する逗子開成校の校庭とにかけて、藤塚とも富士塚とも呼ばれる塚があって地名にもなっていた。
 古墳説、古戦場説色々あったが昭和九年発掘調査が行われ、祭祀用と思える室町期の「かわらけ」各種が出土した。
(「逗子 道の辺百史話-道の辺史話総集編-」(逗子道の辺史話編集室 昭和61年)87ページ「新宿会所と藤塚」より)


継立場を設置するに際して、多少なりとも水害の愁いのない高地を選んだところが藤塚だったということなのではないかと思いますが、それはさておき。

元々小坪村の集落の中心は、現在の小坪港の周辺と、そこから内陸へと入り込む谷戸付近にありました。「見取絵図」でも、図の上方、和賀江島の付近にその集落が描かれて「小坪村」と表記されています。ここは典型的な漁業の村で、延享元年の本百姓53軒、漁師百姓260軒(牛尾家文書による)と、人口の大半が漁業に従事していましたが、それぞれに名主が存在するという変則的な自治形態になっていました。そのうち、農業の従事者の名主を「岡名主」と呼び、上の文の「披露山の高橋家」はこの岡名主を代々務める家柄でした。その分家が、本来の集落から離れた田越川に近い場所に出張していって、人馬継立を行う様になったというのです。

この出張の理由は「風土記稿」に記された継立の里程を良く見ると何となく見えてきます。鎌倉方面には1里なのに、浦賀や三崎に向かう方向にはそれぞれ3里、2里と長くなっていますよね。

小坪の本集落の周囲は山に囲まれているだけではなく、その山が磯辺にまで達していて、周囲からのアクセスが極めて悪い場所にありました。このため、小坪村に入るにはどちらから行くにしても山越えを強いられるのですが、特に南側には難所が1つありました。披露山です。

鎌倉から小坪の集落を抜けて新宿に至る道筋は、古くは名越切通共々鎌倉幕府の頃から存在していましたが、これを現在残っている道から再現すると大筋で次の様な地図になります。中学校や高級住宅街化によって江戸時代の道筋が失われた箇所も多いため、飽くまでも目安ということになりますが、大筋での高低差を見極めるのには十分かと思います。この地図をクリックするとルートラボのページに移動しますが、是非そこに表示される標高グラフでどの区間が登り降りが厳しそうかを確かめてみて下さい。


披露山から新宿方面に降りる坂は「七曲坂」と呼ばれていますが、ここに特にきつい坂があり、現在でも最大で40%前後の傾斜があります。名越坂にも同じくらいの坂が鎌倉側の頂上付近にありますが、現在はここは階段が設置されているために多少きつさが緩和されています。七曲坂の方も先日歩いてみましたが、階段などが設置されない土のままの急坂が残っていることもあって、一層の険しさを感じさせるものになっていました。なお、名越切通、披露山のどちらを通るにせよ、意外にもここが浦賀道全区間を通じての最高地点に当たります。

「新編相模国風土記稿」の各村々に記述された継立の里程を一通り書き出して並べてみると、当時の継立では、平地を行く場合は2里程度が標準で、丹沢など山中に入る区間では人馬の体力に配慮して1里程度が標準になってくることが窺えます。ですから、特に下平作村の3里はかなり長い(しかも、後日改めて取り上げますがこの区間は必ずしも平坦な道程ではない)ということになります。秋谷村方面はそれよりは短めですが、岩礁を抜けたり沢を高巻きする道筋であった様です。

これでもし、小坪村の継立場が小坪の本集落の方にあるとなったらどうなるか。下平作村や秋谷村から小坪に向かってきた人馬にとっては、継立の平均以上の道程を長々と歩いてきて、やっと目的地が見えた所で胸突き八丁の急坂が待ち構えていることになってしまいます。それでは余りにも厳しく、継立村相互の不公平が過ぎるため、小坪村が継立の出張所を新宿に出すことで、下平作村や秋谷村からの人馬を披露山の前で受け継ぎ、その分厳しい山越え区間を担当する小坪の継立が短くなっている、という分担になっている訳です。

しかし、新宿の立地についての説明はこれで良くても、見取絵図の新宿が僅か数軒のみになっていることの説明としては不足です。次回はこの点をもう少し検討してみたいと思います。

なお、現在の地区が「新宿」と称する様になったのは明治時代以降で、江戸時代には「東小坪」と称していましたが、ここでは話の便宜上現在の地名である「新宿」で通します。

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【脇往還】浦賀道:鎌倉から浦賀まで(その4:写真集…鐙摺の露頭と夕景)

これまでの続きということでタイトルには「浦賀道」の名前が残っていますが、今回は浦賀道の話からは逸れます。ご容赦を。

前回田越川に到達した所で、この日は無理をせずに逗子市郷土資料館に立ち寄りました。ひょっとしたら浦賀道に関する資料が展示されているかも知れないと考えたからですが、生憎とそういうものは見当たりませんでした。建物の雰囲気は明治〜大正の別荘地だった頃の雰囲気を感じさせるもので良かったんですが。ここからの海方向の眺望もなかなか良好ですが、到着した時刻が光回りの良い時間帯ではなかったのでここで撮った写真は省略。午前中の方が良さそうです。

そこで鐙摺(あぶずり)の露頭の地図が展示されているのを見つけて、それでは少しそちらを見に行って終わりにしようと考えました。

逗子・蘆花記念公園の露頭
逗子・蘆花記念公園の露頭
郷土資料館は蘆花記念公園の中にあります。その公園の一角で見つけた露頭。地層の傾斜振りが半端ではなく、これだけでも一帯の地殻変動の大きさが窺えます。

因みに公園のすぐ裏手の尾根が「長柄(ながえ)桜山古墳群 」です。今回は時間が足りなくて立ち寄れませんでした。

逗子・鐙摺の露頭-1
逗子・鐙摺の露頭
逗子・鐙摺の露頭-2
露頭の不整合面
問題の露頭の1つは県道207号線から右手に逸れる道を少し入った所にあります。もう1つは逗子浄水管理センターの敷地内なので、日時を問わず観察できるのはこちらだけです。迅速測図との比較ではこの県道が通る前は浦賀道は浜沿いを通っており、現在の県道の位置は尾根越えの村道であったと思われるので、この露頭はそこを大規模に切り通した時に現れたものでしょう。

逗子・鐙摺の露頭解説-1
鐙摺の露頭解説-1
逗子・鐙摺の露頭解説-2
鐙摺の露頭解説-2
かつては地学を志す学生が良くスケッチに訪れていたそうですが、今では露頭の表面を草や苔が覆ったり変色が進んだり、あるいはフェンスに遮られていたりして、なかなかそれとはわからなくなってきているのは止むを得ない面もあるでしょう。具体的な解説が傍らに設置されているので、それを手掛かりに照合する方が良さそうです。

逗子・鐙摺の露頭からの地下水滲出-1
鐙摺の露頭からの地下水滲出-1
逗子・鐙摺の露頭からの地下水滲出-2
鐙摺の露頭からの地下水滲出-2
この露頭から2箇所ほど、地下水が滲出しているのを見つけました。不整合面の辺りは特に地下水の浸透率に大きな差がありそうです。

逗子海岸の夕暮れ-1
逗子海岸の夕暮れ-2
逗子海岸・夕暮れの富士山と江の島
逗子海岸の夕暮れ-3
日が西に傾いてきたので、近くの喫茶店で日没の時間を待ってから、砂浜に出て夕景を数枚収めました。ここでカメラがエラーを出したりして、対応時間をロスしたのが残念でしたが…。

次回は「浦賀道見取絵図」の小坪付近の描かれ方を検討する予定です。

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