2012年10月の記事一覧

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日本初の航空写真

今日は他所様のブログで見掛けた写真について。もっとも、私の所での話の展開はそのブログでの取り上げられた経緯からは逸れていってしまうので、ちょっと申し訳ない面もあるのですが。

その写真を見掛けたのはこちらのサイト。
 幻の東京赤煉瓦駅 §5 | 新訂 旅と歴史

こちらのページでは、今回復元工事が終了した東京駅舎にちなんで、東京の鉄道網の整備の歴史がまとめられていますが、問題の写真はこのページの一番下に載っています。東京の航空写真ですが、まず目を引いたのがその撮られた年。

写真は、飛行機から見た明治44年の頃の…

…日本で飛行機が飛んだのって何時だったっけ?というので検索して、辛うじて前年の明治43年に初飛行を果たしたばかりだということを確認して、そのことを拍手コメントに残したのですが、どうも色々と気になるので更にネット上などで調べられる範囲で追ってみました。

まず、この写真は国会図書館のサイトで見ることが出来ます。

 飛行器より見たる市街 | 写真の中の明治・大正 - 国立国会図書館所蔵写真帳から -
  新橋上空から品川方面を撮ったもの
  皇居周辺を撮ったもの

どちらも刊行年に「明44.4」と記されています。撮影者については以下のサイトを手がかりに、徳川好敏工兵大尉の操縦するブレリオ式飛行機から、「伊藤中尉」が同月下旬に撮影したものであることがわかりました。この「伊藤中尉」がどういう方なのかは、検索した範囲では良くわかりませんでした。恐らくは軍部専属の写真家だったのだろうと思います。Wikipediaでは徳川好敏大尉自身が撮影した様に記載されていますが、流石に飛行機を操縦しながらカメラを操作できる様な時代ではありませんから、同乗者が撮影したと考えるのが正しいでしょう。

 日本最初の航空写真撮影行われる - 「明治」という国家
 空中写真#日本における空中写真撮影の沿革 - Wikipedia

更に検索を進めていくと、この様な年表が見つかりました。

 所沢飛行場のあゆみ・明治時代

これの明治44年の項目を見ると

  • 3月 ブレリオ式、ライト式飛行機、新潟に船着 
  • 4月1日 所沢陸軍飛行試験場開設 日本最初の飛行場完成
  • 4月5日 徳川好敏大尉がアンリ・ファルマン複葉機で午前5時37分離陸、高度10m、距離800m、滞空時間1分20秒を記録
  • 4月6日 最初の同乗飛行 徳川好敏工兵大尉はブレリオ単葉機に岩本周平気球技師を乗せて飛行。距離5Km 、滞空4分50秒
  • 4月13日 飛行記録更新 徳川好敏工兵大尉、ブレリオ単葉機で高度250m。距離80km、滞空1時間9分30秒


…つまり、飛行場も出来立てのホヤホヤ、操縦している飛行機も前月に新潟経由で届いたばかり、同乗者を乗せて初めて飛んだのもつい先日、という状況下で、下旬に早くも写真家を同乗させて所沢から東京上空まで飛んで撮ったのが、あの2枚だった訳です。この時実際には何枚撮影したのか不明ですが、まだフィルムなども貴重な頃ですから、今のデジカメみたいに「取り敢えず撮っとけ」という撮り方は到底出来ない時代、失敗ショットが仮にあったとしてもそれほどの枚数は撮っていないと思います。

それでいて、撮られた写真のクオリティが意外に高いのが驚きです。2種類の写真はどちらも横長の写真を2枚貼り合わせてパノラマにしていますが、何れも水平がきちんと出ています。「プレリオ式飛行機」で出てきた飛行機の形状から考えて、恐らく狭隘な後部座席から身をよじって側面から撮っているのでしょうが、こういう体制で撮っていると得てして水平線が傾いた写真になり勝ちです。貼り合わせる際に多少調整した可能性もないとは言えないものの、極端にトリミングするとパノラマにする際に貼り合わせることが出来なくなりますから、やったとしても僅かでしょう。初めて乗ったであろう飛行機の上で、カメラを的確に構えていることが窺えます。

それから、当時はレシプロエンジンでプロペラを回して推力を得ていますから、その振動が機体を通じて座席まで伝わっている筈ですが、写真にはそれに起因するブレが見えません。遠方が霞んでいるのは気候要因によるものか、それともレンズの特性故かはわかりませんが、何れにしてもブレの影響を抑えるためにかなり高速でシャッターを切っていると思われます。明治44年でそんなカメラがあったのかと思いましたが、次のサイトの明治44年のカタログを見ると、既にコダックの「快速コダック(千分ノ一秒)」という商品が載っていますから、当時の高級機であれば相応のシャッタースピードを稼ぐことは出来た様です。軍部のカメラということであれば、必要があれば購入予算は相応に充当されたでしょうから、相応の性能を持ったカメラであったと考えて良さそうです。なお、イーストマン・コダックの35mmフィルムが登場するのは、翌年のことであったことが、一緒に掲載されているカタログでわかります。裏を返せば、この航空写真撮影時にはまだ従来型の大判のフィルムであったということになります。

 小西本店 六櫻社 鏡玉と暗箱

とは言え、まだやっと日本の空を飛び始めた飛行機からの写真が、こんなに早々から、それもかなり高いクオリティのものが存在していたというのはちょっとした驚きでした。まぁ、軍部ということであれば当然偵察などの目的に早期に実用化したいという目論見を持っていたであろうと考えれば、これも納得できる話ではありますが…。
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【旧東海道】その6 戸塚宿周辺の道と柏尾川水系【武相国境】(その1〜3まとめ)

「その6」公開後の反応を見ていて、少し話があちこち行き過ぎて分かり難かったかな、という気がしてきました。改めてまとめてみますと、

  • 柏尾川流域は、周囲に対して相対的に沈降する地域があるために、周辺からの支流がごく限られたエリアに集中して流入しており、その影響で水害が発生しやすい。
  • 鎌倉時代の主要道であった鎌倉街道は、このエリアを極力避けて通っていたため、戸塚を経由するルートが生まれなかった。
  • 鎌倉が衰退するまでは鎌倉を近傍でバイパスするルートが発展することはなく、後北条氏の統治下に入った後でも、リスクの高い柏尾川流域を突っ切ってまで鎌倉を素通りするルートを通すことはなかった(可能性が高い)。
  • 後北条氏滅亡後に徳川家康が派遣してきた岡津陣屋が、それまでの道取りの考え方とは異なる、治水を一体化した街道の普請を実施して、初めてこの流域内を長々と通過する江戸時代の東海道のルートが誕生した。

…ということになります。

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【旧東海道】その6 戸塚宿周辺の道と柏尾川水系【武相国境】(その3)

今朝方「その2」を上げたばかりですが、一気に行きます。

前回まで、江戸時代の東海道の保土ヶ谷から戸塚までの区間が、戦国時代の後北条氏統治の頃までは遡らない可能性が高いことを見てきました。そうなると、この区間については徳川家康が江戸入りした後に新たに開発されたことになってきますが、その点について「戸塚区」がなかなかユニークな指摘をしています。

戸塚区汲沢町…の旧家森家に伝わる同家家譜には次のようにある。

(家譜頭部略)

三代

義秀 森織部正、往古は深谷・汲沢・中田三ヶ村一村也。天正十九年村境(普請脱カ)を被仰付、谷切・峯切・道切・川切の四通の御触。義秀弟長慶は権大僧都法印、保土ヶ谷円福寺七代住職。

(家譜以下略)

(太田勇「鎌倉街道周辺の旧家を訪ねて」郷土戸塚区歴史の会発行「とみづか」第三号)

この家譜は直截に歴史的事実を示す一級の史料とは言い難いが、三代義秀の時、天正十九年(一五九一)、山を削って谷を埋め、川の流れを変えて道を切り開く、まさに空前の大土木工事がこの地において行われたことを、簡潔な表現のうちに雄弁に物語っている。

この時、保土ヶ谷の権太坂を通り境木(地蔵堂が出来たのはもっと後の万治二年のことである)で武相国境を越えて品濃坂を下る道も同時に開かれたと思われる。そして森家家譜に出て来る谷切、峯切、道切、川切によって切り開かれた道は柏尾を経て矢部で柏尾川を渡り、吉田、戸塚を過ぎて大坂を登り、原宿から鉄砲宿の坂を降りて、遊行寺横へ出るというもので、汲沢村の村境南縁は、まさにこの新道の貫く所であった。…

(63~65ページ、文中太字はブログ主)


家譜が少々長いので該当する代である義秀の部分以外をカットしましたが、初代から十七代までの家譜がひと通り掲載されています。そして、三代の義秀の箇所以外では同種の事業を行ったという記述が見当たらないので、義秀の行った普請が森家の戦国時代から大正時代に及ぶ歴史の中でも異例の大規模なものであったことが窺えます。

「区史」自ら「直截に歴史的事実を示す一級の史料とは言い難い」と認めているものの、確かにそれほどの普請を行う必要がある様な大規模な施設が、当時のこの地方に他に思い当たるものがないので、その点では普請を行った対象としては東海道が最有力候補ということになりそうです。

更に、この森家が汲沢村の名主であり、「往古は深谷・汲沢・中田三ヶ村一村也」とわざわざ断っていることから、中田と隣接する岡津の地に当時存在していた「岡津陣屋」のことが想起されます。

岡津陣屋は元は後北条氏が築いた支城の1つであった岡津城で、現在の岡津小学校と岡津中学校を含む一帯にありました。ここに、徳川家康が後北条氏滅亡後に関東代官の一人として彦坂元正を派遣して岡津陣屋を開いたのですが、元正はここで東海道整備の指揮に当たります。当然、普請に当っては周辺の村々の名主に声を掛けて回っていることでしょうから、森家はそうした指示を受けて実地に当たる立場にあったことになり、その観点でもこの家譜の記述は街道の普請を指すものである可能性がますます高くなると思われます。

以上、保土ヶ谷から戸塚へ向かう道筋が江戸幕府開設の頃の普請である可能性が高いことを長々と解説してきました。特に、この道が岡津陣屋の指揮の下に行われた可能性が高いことを念頭に置いて改めてこの区間の道筋を眺めた時に、昔ながらの伝統的なルート取りとは異なる道筋があることに気付きます。


川上川と平戸永谷川に沿う区間
それは、品濃坂を降りた辺りから川上川沿いを、更には平戸永谷川沿いを進んで赤関橋へと向かう区間と、


不動坂を降りた先で舞岡川沿いを進む区間
不動坂を降りた先で舞岡川沿いを進んで五太夫橋へと向かう区間です。


川上川(右)と平戸永谷川(左)の間にて(ストリートビュー

特に、川上川と平戸永谷川がごく細い地峡を挟んで隣接する間を東海道が抜けるこの場所は象徴的で、どちらの川が溢れても通れなくなる可能性のある、普通に考えればかなりリスクの高い所を通り抜けており、私は永年この道取りが大変不思議で仕方がありませんでした。多少なりともアップダウンを減らしたかったのだろうにしても、もう少し尾根筋を経てこの区間を回避することを考えなかったのだろうか、と。今はこの位置で川上川から平戸永谷川へ流入する様に潜函が埋められていますが、このことも現在の治水技術上から見て水害防止上対策が必要だと判断されやすい地形であることを裏付けています。

これらの区間以外は、権太坂から境木を経て品濃坂を降りてくるまでは典型的に尾根筋を経る道筋ですし(途中品濃一里塚付近で谷宿谷戸を横切るとは言え、谷戸頭に当たるので足元への影響は軽微)、上記の各支流を渡る箇所以外ではほぼ山際に沿って進んでおり、あまり無理を感じない道筋を通っているだけに、尚更この3本の河川に寄り添って進む区間が異質に見えます。


【ニコニコ動画】原付二種で行く旧街道
・東海道編その五(品濃坂-藤沢宿)
ちょうどこの区間を原付二種で走った動画がアップされ直しましたので、こちらも参考になさって下さい。これの1:04~1:52で川上川〜平戸永谷川沿いを、3:35~3:52で舞岡川沿いを進んでいます。

これが、上記で見た様に、これらの区間の普請を彦坂元正率いる岡津陣屋の指導の元に行ったのだとすれば得心が行きます。森家家譜に「谷切・峯切・道切・川切」とあることもその裏付けになりますが、これらの区間では街道の整備と共に大規模に治水工事をセットにして行ったのではないでしょうか。


旧日光街道:草加〜蒲生間の新綾瀬川沿い
大規模な河川改修工事を行った上で、敢えて街道を川沿いに進ませた区間の例としては、日光道中・奥州道中の草加宿〜蒲生宿間に現れる、新綾瀬川沿いの直道が挙げられると思います。こちらは上記の東海道沿いの各河川よりも更に大規模に、排水目的で新たに掘った新綾瀬川沿いに堤を築き、その上を街道を通すという、より大胆な工法が採用されています。


【ニコニコ動画】【車載動画】原付で日光街道を走ってみた
(その4)草加-蒲生
こちらについては、原付で日光街道を撮影されたこちらの動画が大変丁寧に解説されていますのでご参考にどうぞ。恐らく街道歩きをされている方々には良く知られた動画シリーズの1本ですね。後半のMADな部分はさておき(笑)、冒頭から4:56辺りまでが該当区間になります。特に、1:52~2:20辺りでこの区間の工事についてわかりやすく図解されています。

この、治水工事を施して増水時の排水を十全に確保した上で敢えてその脇に街道を通すという、当時としては画期的な方法論が、東海道のこれらの区間と大変に良く似ています。

そして、こうした新たな手法は、やはり誰かがその技術を外から持ち込まなければ実現不可能なものです。当時の具体的な普請の記録が見つかっておらず、現在は河川の改修も進んだので具体的な施工の内容を窺い知ることも困難ですが、徳川家康が江戸入りに際して各地に配備した代官が、それぞれに江戸時代の交通網を整備する上で重要な役割を果たしていることを考えると、彼らがこうした新しい技術を各地に浸透させていった可能性はかなり高いと思われます。

その点で、江戸時代初期に同地に存在した岡津陣屋がこの地で果たした役割は、恐らくかなり大きかったのではないかという気がするのです。

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【旧東海道】その6 戸塚宿周辺の道と柏尾川水系【武相国境】(その2)

前回予告した通り、江戸時代の戸塚宿付近の東海道の道筋がいつ頃成立したかを検討します。


柏尾川流域:ポインタは戸塚宿の位置
前回見た通り、鎌倉古道は何れも足元の悪い柏尾川の流域を出来るだけ避け、必要最小限の距離で通過する様にしていました。こうしたこともあって、当時の街道が戸塚宿の付近を通ることはありませんでした。戸塚には平安時代に源頼義、義家親子が前九年の役平定の際に露営したと由緒として伝わる富塚八幡宮がありますので、この由緒通りならこの地が古くから鎌倉と何らかの関わりを持っていた可能性を考えなければなりませんが、少なくとも鎌倉時代以降は街道の中継地点として戸塚が使われることは久しくなかった様です。


この富塚八幡宮も含め、戸塚付近は台地の縁の柏尾川からはそこそこ比高差がある段丘の上にあり、その点では集落を形成しやすかったのでしょうが、これまでも検討してきた通り、そのすぐ上流が支流が多数集中するエリアであり、出来ればここは街道筋としては使いたくない場所ではあったのでしょう。因みに、戸塚から鎌倉へと抜ける道も「鎌倉街道」と呼ばれてはいるものの、この道が整備されたのは江戸時代に戸塚宿が成立した後ですので、それ以前の街道の検討には加えられません。この道は「浦賀道」とも呼ばれ、浦賀奉行所への連絡道でありました。

従って、江戸時代の東海道が開かれた時期は、鎌倉街道の利用が減退した後ということになり、これはどんなに早くても鎌倉幕府や室町時代の鎌倉府があった頃より遡ることはないと思われます。もしも、当時の政治の中枢地を差し置いて、それを近傍でバイパスする様な道筋に需要があるとすれば、恐らく大きな交易拠点の間を結ぶ様な道筋ということになるでしょう。しかし、一方には神奈川湊という大きな交易の拠点があるものの、反対側の藤沢には鎌倉を差し置いてまで交易の中枢になるだけの力があったのかどうか。まして、これまで見てきた通り、柏尾川沿いを抜けるとなると水害への備えなどで余分な労力を必要とする土地ですから、それに見合っただけの動機付けがなければ、敢えて既存の道筋を替えようという判断にはなりにくいのではないでしょうか。

では、戦国時代、特に後北条氏が関東を平定した時期はどうでしょうか。残念ながらこの時期、どの道筋を重要視していたかを伝える史料などの証拠が乏しいので、方法論としては当時後北条氏が築いた城などの配置を元に、どの様な道筋が主に使われていたかを類推するといった手法が主になります。そこで、戸塚付近の後北条氏の主要な拠点を探すと、玉縄城と蒔田城を挙げることが出来ます。


蒔田城の位置
蒔田城の位置は現在の横浜英和女学院付近に当たりますが、その下を鎌倉街道下道が通っており、この道を上から監視できる位置取りであることがわかります。

ストリートビューと関連付けられているPanoramioというフォトアルバムに、この丘に上る階段の途上で撮ったと思われる写真が掲載されていました。現在は街道沿いに建ったビルに阻まれて街道の様子は見えませんが、ここからは街道筋への眺望が十分に取れたことは確かでしょう。


玉縄城の位置
玉縄城の方は戸塚よりも南側に位置しますが、こちらは鎌倉街道中道から水堰橋で分岐して俣野付近で上道へ抜ける連絡道がすぐ南を通っています。実際に、玉縄城の麓で安房里見氏と一戦を交えたのは柏尾川の畔で、そこはこの連絡道の上でしたから、恐らく里見氏もこの道を経て攻め入って来たのでしょう。

こうして見ていくと、もう少し小さな陣屋などを間道に配備していた可能性もありますが、やはり後北条氏の時代にあっても、引き続き鎌倉街道の道筋を活用していた可能性の方が高くなってきます。因みに、「戸塚区」(1991年)では

小田原北条氏関係の文書を通覧した限りでは、北条氏は伝馬などの駅制の整備や、殊に城郭の整備には大変熱心であったが、道路そのものについては、修理の手は絶えず加えたであろうが、広範囲に亘る道の付け替えなどの大規模な土木工事は行わず、道筋自体にさしたる変化はなかったのではあるまいかと推定する。(61~62ページ)

と記しています。後北条氏の支配した領土全体について道筋に変化がなかったとする見解は、以前取り上げた滝山街道の存在を考えると些か疑問も感じますが、少なくとも戸塚付近に関しては主要な街道の道筋に大きな変化がなかったということで良さそうです。

因みに、保土ヶ谷の郷土史研究家の中には、上杉謙信や武田信玄の侵攻ルートを以って、既に当時から境木を経る江戸時代の東海道筋に相当する道があったと考える人もいる様です。しかしながら、軍記物の信憑性を脇に置くとしても、敵の領地に深く入り込んで拠点を目指すこれらの武将の行動を見ていると、寧ろ守りを固めた主要な城のある道筋を避けて通った可能性の方が高いのではないかと思います。その点は、以前六郷橋の架橋時期を検討した際にも、信玄が守りを固めた六郷を避けて池上へと抜けていった道筋にも窺えます。その際にも地元の町民を使って道案内させていることから、敢えて裏道を使ったと考えるのが妥当であり、従ってこの時のルートを街道の証拠として採用するのは少々問題がある様に思います。精々農道か、隣村などへの連絡道として自発的に切り開かれた道があった程度ではないでしょうか。

次回もう少し続けます。

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【旧東海道】その6 戸塚宿周辺の道と柏尾川水系【武相国境】(その1)

旧東海道の話、今回から戸塚宿付近の道筋について色々と考えてみます。これは武相国境の話で柏尾川の流域について考えてきたこととも関連しますので、タイトルにその両方を併記しました。

柏尾川vs.旧東海道概念図
柏尾川vs.旧東海道概念図(再掲)
前回武相国境を阿久和川の源流地付近まで辿った際に、この図を表示して柏尾川の流域と江戸時代の東海道の道筋の位置取りについて簡単に触れました。

当時の東海道はこの柏尾川の流域を北東から南西に、なるべく近道になる様に辿っている様に見えますが、そもそもこの道はいつ頃出来たのでしょうか。

そこで、今回はそれ以前の鎌倉街道が柏尾川の流域とどの様な位置関係にあったのかを確認します。それだけで地図だらけになるので今回はかなり重いページになりそうで、閲覧環境によってはかなり厳しいかも知れませんが御容赦下さい。なお、今回の検討でも芳賀善次郎氏の「旧鎌倉街道・探索の旅 」シリーズを参考にしました。



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