2012年09月の記事一覧

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保土ヶ谷道

旧東海道編の序でに、横浜市西区が紹介している保土ヶ谷道について。私も2年ほど前に一度歩いていますが、ネット上の数カ所で西区の設置した案内サインについて「何これ?」と触れているのを見掛けたので、ちょっと取り上げてみる気になりました。以下、写真はその際のものです。

西区は区内を通る3本の旧街道、東海道・横浜道と保土ヶ谷道について、かなりしっかりした予算をつけてガイドを作っていますね。シンボルマークも3本の街道の位置関係を上手くデザインに取り入れています。

西区 歴史さんぽみち:横浜市西区ホームページ

案内サインの整備:横浜市西区ホームページ


WEB上でも紹介されていますが路面に埋め込んだプレートや地図などのガイドが充実していて、あまり迷うことなく歩くことが出来ます。
保土ヶ谷道飛び石サイン(大)
保土ヶ谷道飛び石サイン(大)
保土ヶ谷道飛び石サイン(小)
保土ヶ谷道飛び石サイン(小)
西区歴史街道総合案内サイン
西区歴史街道総合案内サイン
保土ヶ谷道解説サイン
保土ヶ谷道解説サイン
保土ヶ谷道はこの3本の街道の中では地味な存在と言って良いでしょう。私もこの西区のガイドが無ければ知らないままでいたと思います。

ルートラボ上に保土ヶ谷道の道筋を反映して高低差を見ると、野毛から藤棚商店街に降りてくるまではアップダウンが2度ほどありますが、その先はほぼ平坦な道筋になっています。

保土ヶ谷道:横浜道との交点から旧東海道との交点まで


例によって「迅速測図」で、保土ヶ谷道の西側の区間はこの辺りです

(「今昔マップ on the web」より)

藤棚商店街に降りた先保土ヶ谷宿に至るまでの区間は、現在よりも南寄りを進んでおり、当時は北側に水田が広がっていたことがわかります。他方、南側は切り立った崖になっていました。

願成寺
願成寺
その平地と台地の結節点の辺りにあるのが願成寺。お寺もその斜面の中に立てられています。

保土ヶ谷道付近の海岸段丘の絶壁(1)
保土ヶ谷道付近の海岸段丘の絶壁
(久保町付近にて)
保土ヶ谷道付近の海岸段丘の絶壁(2)
保土ヶ谷道付近の海岸段丘の絶壁
(旧東海道付近にて)
この崖も海食台地特有のもので、今もこの絶壁の上下に住宅が建っているのを見ることができます。また、この崖下に杉山神社などの寺社が建ち並んでおり、現在の国道1号線はその前を通過しています。右は旧東海道に近い今井川の橋の上から、国道1号線方面を見通しており、その高低差がわかるのではないでしょうか。

この道の役割が大きくなったのは、やはり幕末でしょう。横浜の開港によって旧東海道から関内まで横浜道が開かれたのに伴い、野毛坂から先を共有するこの保土ヶ谷道も保土ヶ谷宿から横浜港への短絡道としての役目を負うことになります。そのため、旧東海道でも神奈川宿の京方出口に関門が設けられたのと同様に、この保土ヶ谷道にも関門が設けられます。その位置は「くらやみ坂」の上でした。

くらやみ坂上
くらやみ坂上
くらやみ坂途中
くらやみ坂途中から脇道に降りる方向
かなりの傾斜地
左の写真がほぼ坂の頂上に当たる地点で、左手のコンクリートの擁壁は市立西中学校の校庭のものです。その高さから一帯が多少整地されていることがわかりますが、迅速測図ではこの坂は切り通しの中を通っていますので、その後周辺を削ったのかも知れません。

ところで、この「くらやみ坂」についてこんな記事が書かれていますが、

「くらやみ坂」の名前の由来は?[はまれぽ.com]

個人的にはこのうち源頼朝に由緒を関連付ける説にはちょっと疑問を感じています。まぁ、この手の話は残念ながら伝承レベルで裏付けに乏しい話が多いのですが、一応信憑性を検討してみましょう。

幕末に横浜道が開かれるよりも前からこの道が存在していたことは確かな様です。

展示『紅葉ケ丘の散歩道~本を通して』:お知らせ(神奈川県立図書館)

安政6年(1859年)の「横濱開港地割ノ圖」という絵図がこのページに掲載されていますが、この図を良く見ると保土ヶ谷道に相当する道筋が引かれており、その頃には既にあったことがわかります(右上に「願成寺」が描かれていて、その前に引かれている赤い線が保土ヶ谷道))。対して横浜道の方は点線で示されており、これから築堤して橋を掛ける旨のことが記されています。

但し、元よりこの道があったとは言え、その位置付けは戸部村や横浜村の農民が保土ヶ谷宿との間の往復に使う間道であったと考えるべきでしょう。これらの村は江戸時代には保土ヶ谷宿の助郷に早くから指定されていますから、宿場との間を往来する農民たちによってかなり盛んに使われたことでしょう。しかし、この保土ヶ谷道を辿って野毛まで来ても、その先は神奈川湊の入江に囲まれた半島状の台地であり、戸部村に用がある人以外はこの道を使う想定がし難いのです。保土ヶ谷宿からは金沢方面に向かう鎌倉街道も通っており、江戸時代にも杉田の梅園や金沢へ周遊する旅人が利用していましたが、その道は保土ヶ谷道とは重なっていません。従って、もし頼朝がくらやみ坂を含む道を通ったとするならば、わざわざ街道を逸れてこの地にやって来たことになってしまいます。ここが、要人がこの地を通過したとする説には辛いところです。

せめて野毛に頼朝が訪れたとする史跡が他に残っていればもう少し説得力が出るのですが、生憎とこの地にはその様な史跡はない様です。野毛が神奈川湊を見下ろす位置に当たることを考えると、あるいはここに砦などを築くことを考えた武人がいても良さそうではありますが、その様な記録もありません。

Google Earthスクリーンキャプチャ:くらやみ坂眺望シミュレーション
くらやみ坂眺望シミュレーション
(GoogleEarthにて)
まぁ、迅速測図を見ると明治初期にはくらやみ坂の周囲は畑地になっており、その点では当時は眺望には恵まれていた可能性が高いので、あるいは保土ヶ谷道を行き交う通行人に風光明媚な地として売り込みたかったのかも知れません。Google Earthを使ってシミュレートした感じでは、帷子川沿いの新田越しに、山裾を進む旧東海道を見晴らすことが出来る位置関係ではあった様ですが、開港早々にこの地に処刑場が出来て、その流れからか明治維新後も監獄署が立ってしまったので、その関係で「くらやみ坂」などとあまり印象の良くない名前に転じてしまったのではないでしょうか。

ともあれ、開港当初に横浜に到達するには、海食台地の上を越えていかなければならなかった頃の道筋を足裏から感じ取るのも面白いと思います。2.5kmほどとそれほど長い道程ではありませんので、横浜道と併せて歩いてみては如何でしょうか。

保土ヶ谷道隣の京浜急行明かり区間
保土ヶ谷道隣の京浜急行明かり区間
また、鉄道のお好きな方は、保土ヶ谷道の傍らにこういう場所もありますので、京浜急行の掘割区間を辿りながら…というのも面白いかも知れません。

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【旧東海道】その4 神奈川湊周辺(その2)

さて、前回神奈川宿の台町まで上りましたが、少し引き返して洲崎大神の前にあったとされる神奈川湊の話。無論、今はすっかり埋められてしまって跡地は第1京浜国道になっています。

もっとも、洲崎大神の前にあったのは湊の船着場で、「神奈川湊」と言った場合は入江全体を指していた様です。「新編武蔵風土記稿」の神奈川宿の項の記述では

湊 南の方本牧浦の方より、神奈川の出崎までの間、なゝめにくり入たる如くなる入海なり、その間舟路一里餘なり、宿内靑木町の方古よりの湊にて、諸國の船のかゝる所なり、これを神奈川湊と呼ぶ西北に山あれば風波のうれひなし…

(卷之七十 橘樹郡之十三より 雄山閣版より引用)

とあり、入江のかなり広い範囲、大岡川の河口までを湊として認識していたことが窺えます。

源頼朝が洲崎大神を安房洲崎の安房神社から勧請して創建したのは建久2年(1191年)です。その頃から大神の前に湊の船着場があったかどうかは定かではありませんが、神奈川湊は鎌倉時代に鶴岡八幡宮の支配下にあったことと併せて考えると、将軍縁の洲崎大神の地が湊と関連していたと考えるのは割と自然なことではあります。この湊も品川や六浦と並んで東京湾沿岸を結ぶ海運の拠点の1つとしての歴史があり、江戸時代になると江戸の発展とともに陸運・水運の拠点として栄えることになります。

(「今昔マップ on the web」より)
そんな神奈川湊ですが、例によって「迅速測図」で該当箇所を見ると、鉄道のための埋め立てと歩を合わせる様にして洲崎大神の前を経て神奈川台場の近くまで埋立地が伸びており、大神前には「(さざなみ)橋」が架かり、その先の埋立地の上に造船所があった様に描かれています(三角形の様な印は良く見ると帆船の形をしている)。

鉄道のための埋め立てであれば、この場所の埋め立ては必要なかった筈ですが、むしろ鉄道のための埋め立ての「序で」を狙ったかの様に早々と埋立地が出来ました。この「漣橋」の架かる入江は明治から大正時代までは存在し、大きく発展する横浜港との間には渡し舟が運行されていましたが、その後昭和に入って国道を通す際に完全に埋め立てられて消滅しています。

洲崎大神を第一京浜国道越しに見る
洲崎大神を第一京浜国道越しに見る
洲崎大神
洲崎大神
この写真は現在の洲崎大神を、第一京浜を挟んで大神への参道を見通したところです。この国道の幅がほぼ水路になっていたので、幅は30m弱といったところでしょうか。国道から洲崎大神へ向かう辺りが坂になっていて、如何にもかつての水陸の境がこの辺りにあったと言わんばかりの地形が窺えます。ストリートビューでも道路の両脇の建物の裾の形状で、道路の傾斜の度合いが窺えると思います。

洲崎大神前から第一京浜に降りる道(ストリートビュー
国道に向けて下り坂になっているのがわかる

神奈川湊は元より波の穏やかな入江であったからこそ海運の拠点となっていた訳ですから、湊が波除けのための施設を必要としていたと考えるのは筋が通りません。当時の神奈川湊は廻船が直接接岸するのではなく、入江の中に停泊して艀を経由して荷物の積み下ろしを行う方式でしたから、従来通りの積み下ろしを引き続き行うなら、この新たに出来た埋立地の外側で積み下ろしをやることになりそうです。つまりそれだけ、船着場が沖合に展開していくことになります。そうでないと、漣橋の方まで水路を迂回していかなければならなくなります。

この辺りの地形を考える上では、やはり帷子川の特徴を見ておくべきでしょう。帷子川の源流は現在の横浜市旭区の上川井付近(現在の若葉台付近)にあります。幾つか源流を尋ねたレポートが見つかりましたのでリンクを張っておきます。源流地付近の標高はおよそ90mです。

帷子川の源流から河口まで:若葉台2丁目南自治会のブログ

帷子川探訪:放浪 神奈川


帷子川水系の全体図はこちらの横浜市のサイトのものが見やすいと思います。

帷子川水系全図

流路延長17km、流域面積57.9㎢とさほど広くはないものの、多摩丘陵の中に源流地があり、現在の相鉄線鶴ヶ峰〜西谷駅付近では周辺の分水嶺から流路までの高低差がかなり大きくなってきます。

多摩丘陵は海上に姿を表わす前は相模川(と言うよりはその元になった川)が堆積させた土砂が元になっています。それが地殻変動によって海上に姿を表し、15万年前からの箱根火山や富士山の噴出物を被りながら浸食作用によって複雑に入り組んだ谷戸を形成して今の姿になりました。

海中で堆積した土砂は平坦化する傾向が強いですから、海上に隆起した当初は地殻変動の影響で断層地形によって破壊されていない限り、平坦な面が大きく残る筈です。そういう土地が谷戸と尾根だらけになっているということは、それだけ浸食作用が深く進んだことを意味しており、多摩丘陵はそうした地形になっている訳です。浸食によって運ばれた土砂は一部は谷底平野を形成し、あるいは海まで運ばれて海中に堆積しますから、大きな谷になっているということは、少なくともそれだけの量の土砂が下流に向かって運ばれたことになります。

横浜駅付近の地下40m超の辺りには、かつての帷子川の谷底地形が見つかっています。これは今から約18,000年前の最終氷河期の海退によって浸食が激しくなった時期に形成されたものですが、その後の海進によって堆積作用が大きくなって埋没したものです。

また、かつての帷子川河口付近であった地点のボーリングサンプルでも、地下3.8m付近の炭素分析による年代が1,000年ほど前と分析されており、有史以後も引き続き堆積が続いていたことが窺えます。このことは、この河口付近の歴史を考える上では、帷子川の堆積作用による地形の変化を念頭に置いておかなければならないことを意味しています。平たく言えば、この入江は元々帷子川の運ぶ土砂によって埋まっていく傾向にあった、ということです。

そして、江戸時代にはそれに追い討ちを掛ける自然現象が起きます。富士山の宝永大噴火です。宝永4年(1707年)の噴火で富士山が降らせた火山灰が関東南部一帯に降り積もり、これが河川に流れ込んで川底を押し上げ、水害を頻発させるという状況をもたらしてしまいます。帷子川も例外ではなく、この年保土ヶ谷宿の定助郷14か村が同年の助郷役の免除を代官に願い出た訴状が残されています。

一 先達而奉願上候砂利降申候而難儀仕候者、相□

梅沢辺より保土ヶ谷町辺迄横幅三四里程大分

降り申候由及承候、右宿々之定助村之内保土ヶ谷町

定助村之儀、天水場并山林野無御座村々故、別而

困窮仕候所、当年度々大難ニ付御拝借奉願上候

(以下略)

(「宝永四年十二月 保土ヶ谷宿定助一四か村砂降のため難儀につき訴状」より 横浜市歴史博物館図録「東海道保土ヶ谷宿 資料集」2011年より引用 太字はブログ主)


また、その後も上流から帷子川が運び込んで来る土砂で河口が埋まってしまい、溢れた水で家が流されたり街道が水に浸かってしまうといった被害が出ているために、川浚いを願い出た記録も残されています。

乍恐口上書を以奉願上候

一 帷子川筋先年砂降り埋り候ニ付、少之雨ニ而も満水

仕、依之川筋田畑水ニ而押払、仕付候作物数年手

懸り不申候、就夫数ヶ年御願申上候ニ付、八ヶ年以

前御見分被為 仰付候得共、所之河筋御普請請御

用多御座候ニ付、不被為 仰付候、其以後段々砂

流込、作物之儀者不及申上、河筋之百姓之家

押流候程之水、度々ニ至、殊往還通りも通用

成兼、往来之差支ニも罷成候、(中略)

□御見分之上御慈悲を以惣百姓船持御救ニ

河浚御普請被為 仰付被下候者、難有可奉存候

(「享保六年〜享保七年 足立善兵衛記録」より 引用元は同上 太字はブログ主)


帷子川河口はその後新田開発によって埋め立てられていきますが、そこにはこうして次第に埋まっていく河口を前に、「どうせ埋まるなら新田にして活用しよう」という意図があったことは言うまでもないでしょう。隣の大岡川河口の吉田新田の埋め立ては宝永大噴火よりも前ですが、保土ヶ谷まで水運があった帷子川では河口を埋め立ててしまうことに当初は多少の躊躇はあったと思われます。しかし、富士山の噴火の結果状況が変わったことで、帷子川でも新田開発に乗り出す様になったのでしょう。

そして、こうした影響は当然神奈川湊にも及んでいた筈で、湊の運営に携わる人々にも「湊が埋まってしまう」ことへの懸念はあったでしょう。それでなくても江戸時代には水運が盛んになるに連れて廻船は大型化する一方で、江戸時代後期には「千石船」も大きいものでは2千石を積めるものまで登場しています。当然それに従って吃水は深くならざるを得ませんが、それに反して湊が埋まっていってしまうのであれば、こうした大型船は底を擦らない様に入江の深い所に停泊せざるを得ません。そうなればそれだけ沖合まで艀を出して荷物の積み下ろしをせざるを得ず、その分艀が船着場と往復する距離が長くなって効率が悪くなることになります。

余談ですが、幕末の「黒船」は当時の廻船より更に大型で当然吃水もそれだけ深かった筈で、しかも同じサイズの和船に比べて西洋の船は吃水が深くなる傾向があるのだそうです。そんな船が果たして本気で神奈川湊に乗り付けることが出来るなどと考えていたのかどうか。それ以前に良く迂闊に湾奥まで乗り入れて座礁させなかったものだと思います。和船が多数停泊する湊にそれ以上乗り入れられなかったのが結果的に幸いしたのかも知れませんが。

因みに、江戸時代の浚渫技術がどの程度であったか調べてみましたが、川の中州を取り除く「川浚い」の記録は多数見つけられるものの、湊の航路を確保するための大規模な浚渫は上方(かみがた)の湊など数えるほどしか見つけることが出来ませんでした。需要がない技術ではない筈ですが、それよりは埋め立てをして平地を作る方により大きな需要があったのか、それとも純粋に技術力不足で実施が困難(コストが掛かり過ぎる)だったのか、これは俄には判断しがたいところです。

洲崎大神御神幸お濱下り祭斎場碑
洲崎大神御神幸お濱下り祭斎場碑
洲崎大神から国道を渡って首都高速道路の脇に立つビルの片隅に、真新しい石碑が立っています。

かつて洲崎大神の神輿が祭りの際に海にまで入っていたことを後世に伝えるべく建てられた石碑ですが、これは言い換えるとこの辺りではまだ背が立ったことになります。石碑があるのはこの位置ですが、かつての船着場から直線距離で100m弱といったところでしょうか。


洲崎大神御神幸お濱下り祭斎場碑のある場所(ストリートビュー

海図「武藏國横濱灣」 - Wikipediaより
海図「武藏國横濱灣」
("NauticalChart
Yokohama 1874
"
by 水路寮 - 水路寮.
Licensed under
パブリック・ドメイン
via
ウィキメディア・コモンズ.)
いや、実際は石碑のあった位置よりも遥かに沖合まで行けたかも知れません。Wikipediaの「横浜港」の項目に、当時の横浜港の水深を表した海図「武藏國横濱灣」が掲載されています。

右の図上をクリックするとWikipediaの該当ページに移動しますが、そこでもう一度図上をクリックすると更に拡大表示されます。水深がメートル法で記載されていますが、神奈川湊の前の「1」や「1½」といった数字が、かなり沖合まで広がっているのがわかります。海図の水深はその利用目的の必要から干潮時を基準にしますので、満潮時にはもっと深くなるとは言え、上手く干潮時のピークに合えば相当に沖合まで歩いて行けてしまうことになります。

こうした遠浅の海で湊を営んでいた人々が、それまでの廻船を凌駕する巨大な船が入ってくるのを目の当たりにして、今後は更に沖合に行かなければ荷物の積み下ろしが出来ないと悟った時、神奈川湊では対応がもはや難しいことを感じ取ったのかも知れません。漣橋の向かいに早々と出来上がった埋立地は、旧来からの水運の様変わりを逸早く悟って舵を切った証でもある様に思えるのです。


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【時事ネタ】京浜急行の脱線事故

たまには時事ネタを。但し、なるべくこのブログの主題に引き付けます。

ニュースでも盛んに報道していますので既に御存知の方が多いと思いますが、昨晩京浜急行の特急列車が崩落した土砂に乗り上げて脱線事故を起こしました。現時点では重軽傷者11人に上った様です。

事故を起こした地点はこの位置。トンネルの北側入口すぐ手前で崩落が起きました。

大きな地図で見る

地形図の方がわかりやすいのでこちらも。等高線から現場の斜面が意外に高いことが窺えます。

(地理院地図のページヘ)


NHKの動画東京新聞の写真から、崩落したのはトンネル手前10mほどの地点の切通左側(列車進行方向に対して)の斜面で、幅10m以上、高さも15m以上はありそうです。線路はその手前で緩やかに右にカーブしており、右側の斜面に視界が遮られる位置だったことから、崩落に気付いた時には既にブレーキが間に合わない状況になってしまったのでしょう。

元より横須賀市は土砂災害という点では弱い地域ではあります。
http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/sabo/bousai/dosha/a_gaiyo.html
上のリンク先は神奈川県がまとめた土砂災害危険箇所の概要です。9年ほど前の数字ですが、その性質上大きく上下することがないと思われますので、現時点でもほぼこの数字と大差ないと考えて良いでしょう。各管内の危険箇所の数が市町村ごとにまとめられていますが、横須賀市は「地すべり危険箇所」が20と県内全市町村中最高、「急傾斜地崩落危険箇所」は1027で横浜市の1445に次ぐ数字ですが、横浜市が横須賀市の4倍強の面積を持っていることを考えれば、圧倒的に崩落しやすい土地であることが窺えます。

http://www2.wagamachi-guide.com/yokosuka/search.asp?dtp=2&bcd=23&mcd=12&aky=6130A30111A0D
こちらの地図では横須賀市内の「土砂災害警戒区域」や「急傾斜地崩落危険箇所」の地図を切り替えて見ることが出来ます(該当箇所を直リンク出来なかったので目次ページをリンクします)。ほぼ全市域にわたって「土砂災害警戒区域」が広範囲に設定されていることがわかりますが、特に今回の事故が起きた北部地域は警戒区域が折り重なる様に設定されているのが目を引きます。今回の事故現場もその中の1つでした。

三浦半島一帯は今から50万年ほど前に海上に姿を表し、その後も地殻変動によって不均等に隆起を続けながら侵食によって多数の谷戸ができた複雑な地形をしています。また、地質も砂岩や凝灰岩の様に比較的柔らかい岩石が占める地層が多く、侵食されやすい特性を持っています。詳しいことをお知りになりたい方は、こちらのページがまとまっていると思います。
 三浦半島の地層・地質

上記の警戒区域の多さは、こうした地形や地質の特性を裏付けています。

こうした記録は歴史上も多数残っているのではないかと簡単に調べてみましたが、三浦半島は古来走水や浦賀に代表される様に、永年水運や海上防衛の拠点としての位置付けが強く、地元の村々も漁撈に頼る面が大きかったせいか、地震の際の津波被害の記録は多くても地滑り等の被害の記録は意外に少ない様です。勿論、それは実際に地滑りが起きていなかったというよりも、該当地が未利用地であった、もしくは人的被害を齎す様な利用地ではなかったために、記録されずに終わった面が強いと見て良いでしょう。その点は現代とは大きく異ると言って良いでしょう。

最後になりましたが、今回負傷された方々には心よりお見舞い申し上げます。
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【武相国境】港南区内(その1)

武相国境のシリーズ、前回から少し間が空いてしまいました。港南区に到達した所から再開です。



今回のルートを引くに当たっては、以下の地図を参考にしました。

Googleマップ:鎌倉古道

広報こうなん2007年4月号:1ページ(PDF)


この区間は区境を離れてしまうので、目安になる線が何もないのですが、この「うごけ!道案内」のプレゼンでは地図上に線が引けないので、上記の地図を併せて見て下さい。

例によって「迅速測図」ではこの辺りに該当します。良く見ると武相国境に線が引いてあるのですが、等高線と紛れてしまってちょっと分かりにくいかも知れません。ただ、この武相国境付近が造成前は現在よりももっと険しい尾根が連なる場所であったことは、等高線の幅の狭さから窺えると思います。


(「今昔マップ on the web」より)

今回はちょっと話を盛り込み過ぎて港南区の途中で止まってしまいました。前回も予告した通り、この辺りの川の向きが何れも北向きである点が今回のプレゼンの中心になっています。

特に東側の大岡川流域は海からの距離が近く、明治時代以降に水害対策のために掘割川や大岡川分水路を掘られている程ですが、そもそも何故尾根筋から直接海に向かわずに北へと向かっているのか、特に笹下川が氷取沢から東へと流れ出ているのに、谷戸を出ると北向きに変わってしまうのは、ちょっと考えると不思議な話です。

また、舞岡川や馬洗川といった柏尾川の支流は、一度北へと流れ出たあと向きを西に変え、柏尾川に合流すると今度は逆に南に向かうという、全体としてはかなり大きなUターンを経ています。特定の河川だけが北を向いているのであれば、もっと偶発的な理由によると考えることも出来るのですが、一帯の河川が共通して北を向いているということは、それだけでは説明が付き難い。土地の傾斜がその方向に現れたことを意味していて、実際その中心がちょうど横浜市の最高峰のある辺りと一致する訳ですね。

この話はまだ先があるのですが、そこは次回の区間に関わる話なので、解説はその時に。

今回唐突に鎌倉街道の話が出て来ました。上記の「鎌倉古道」の地図では「下之道」とされていますが、「旧鎌倉街道・探索の道―中道編」(芳賀善次郎著)によれば、この道は中道と下道の連絡道で、弘明寺への参拝に使われた道である様です。一帯の開発によって元の道は大半が消滅してきますが、馬洗川との関連が深いので敢えて取り上げました。この道についても次回もう1回取り上げることになります。

弘明寺から鎌倉に至る道と考えると、この馬洗川のある辺りがちょうど中間点ということになるでしょうか。現在の距離でざっと15kmほどの行程ですが、途中で尾根を越えてくるために尾根から一度谷筋に降りる道を選んでいたのかも知れません。現在は跡形もありませんが、かつては馬を洗うのに丁度良い滝壺があったとも言われています。

足場のことを考えると、なるべく尾根伝いを行く道筋であっても良かった様にも思えるのですが、幕府の一行が使う道として考えるとそれなりの道幅が取れない場所では用を成しませんし、移動距離を考えると道中の適切な場所で水分を確保できないと厳しい道中になってしまいます。洪積台地の尾根ですから井戸を掘ればそれなりに水は確保できるにしても、その井戸の周囲で休憩できるだけのスペースがなければグループでの移動には役に立たなくなります。その様な理由で、一部の例外を除いて多くの街道では水場の必要な箇所で適宜谷筋に降りるルートを選んでいるケースが意外に多く、この道もその様な事情を反映しているのではないか、と思います。



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