2012年08月の記事一覧

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【旧東海道】その2 六郷橋(1)

六郷橋の位置
旧東海道の話、今回から数回、六郷橋を取り上げます。「橋」の話をする手前、江戸時代以降の話も織り交ぜる予定です。

江戸から旧東海道を歩いてきて、川崎宿に入る直前に渡るのが六郷の渡し。江戸初期には徳川家康が慶長5年(1600年)に架橋させた六郷橋があったものの、洪水で度々流される橋の修繕費に音を上げて貞享5年(1688年)渡しに切り替え、川崎宿の名主田中丘隅が六郷の渡しの永代渡船権を握ってから宿場の経営が安定した…という辺りまでは、街道歩きをする人には割と良く知られた話だと思います。元禄3年(1690年)に成立した「東海道分間絵図」にはまだ六郷橋が描かれていますが、これは版木の準備の都合上更新が間に合わなかったのでしょう。

この六郷橋、家康が架ける前にも一時期存在したという説があります。「新編武蔵風土記稿」でもこの説が採用されて、両岸の村の項で解説されています。(以下引用は雄山閣版より、…は中略、太字はブログ筆者)

卷之四十 荏原郡之二 六鄕領

◯八幡塚村

多磨川 …或人の考に、永祿の頃は此川川崎大師河原筋の村々より南を流れしと、されども永祿十二年信玄亂入の時、當所の橋を切おとせしこと【小田原記】に見えたれば、此説もうけがたし、
◯六鄕渡 附橋迹、東海道の往還にあり、川を渡て橘樹郡川崎宿へ達す、此所に昔は橋あり、其はしめて造りし年代はしらざれと、永祿十二年信玄當國へ亂入のとき、北條家の侍行方彈正六鄕橋をやきおとして、甲州勢を止めしことあり、この後三十餘年たへたりしを、慶長五年の夏東照宮ふたゝひ橋を造らしめたまひしこと、當所八幡宮への御願文に見えたり、…


卷之七十二 橘樹郡之十五 川崎領
◯川崎宿

◯六鄕渡 大橋跡附東海道往還の内多磨川の渡なり、南の方久根崎堤外の地より荏原郡八幡塚町へ達す、こゝはよほど古き往來にて、昔は橋ありしが、永祿十二年武田信玄當國へ慟の時、六鄕の住人行方彈正が橋をきり落せしこと【小田原記】に見ゆ、其後久しく再造に及ばざりしを、慶長五年命ありて造らしめられ、其後數御修造もありしかど、元祿五年七月廿一日の洪水に橋落てより永く癈せられて今の如く船渡となれり、…


しかし、この説は色々と調べてみると、どうやら異論が多く、信憑性に乏しい様です。「川崎誌考」をベースに「小田原記」の記述の信憑性について紹介した記事については、こちらのページが良くまとまっていますので該当ページヘのリンクのみ置いておきます。

ref-7 六郷橋の歴史


「小田原記」の記載が真説であれば、何故家康がここに橋を架けさせたかは、表向きはわかりやすくなります。後北条氏が破壊してしまった橋を「復興する」と宣言すれば、これは新しい領主にとっては既存の利便性を復旧する行為ですから、こういう事業は周辺の領民にも歓迎されやすくなります。

しかし、それならば何故この位置に元から橋があったのか、当時の街道がより上流の「丸子の渡し」や「平間の渡し」などを渡るルート(中原街道や池上道)であったことを考えると、それらの主要な渡しを差し置いて敢えて六郷に優先的に架橋したことになり、小田原を本拠とする後北条氏、もしくはそれ以前に六郷や川崎を所領した大名等が何故六郷にそこまで肩入れしたのか、理由を探らなければならなくなります。その点では確かに、六郷に橋が元々あったと考えるのはかなり難しそうです。六郷橋架橋が家康の江戸入からかなり時間が経っていて、殆ど五街道制定の時期に近いことも、六郷橋を「復旧」したという説明よりは、新たな街道の交通を円滑化する目的で架橋を命じた、という説明の方がしっくり来そうです。

もっとも、その後の歴史と照らし合わせた時に、家康が(東海道を担当していた彦坂元正あたりの家臣が見立てたのかも知れませんが)六郷橋を「架けられる」と見立てた「勝算」がどこにあったのかも気になります。鈴木理生氏の「江戸の橋」(2006年)によれば

寛保二(一七四二)年に、当時の道役の一人だった善兵衛に、幕府の担当者がつぎのような諮問をした文書が残っている。

この道役・善兵衛の父親は前に見た貞享五(一六八八)年に流失した多摩川河口の六郷橋の、流れ残った橋材と金物一切で、日本橋浜町の対岸にあたる「小名木川西河口」に万年橋(始めは「本番所の橋」と呼ばれた)を架けた技術者だった。 この先代善兵衛によると、六郷川は「虫付き」を防ぐために「槇一式」で架けたのだが、「六郷川ハ砂川ニテ杭之根掘レ、保チ申サズ」、つまり橋杭を支持する地盤が柔らかいために洪水に耐えられなかったことが、橋を廃止したことの技術的条件だったことを明らかにしている

これまでは、六郷橋を復興させずに船渡しにした理由を、江戸城防備のためだとする見方や説明が一般的だが、真相は案外このような理由であって、多摩川河口の沖積砂層の厚さが大きかったためだとわかる。つまり橋の規模の大小とは別の問題として、その端の橋脚の重量を受ける地盤(地層のあり方)が、橋の有無を決定していたのである。

(34〜35ページ、…は省略箇所で、千住大橋の虫食いについての諮問の内容が記されている。太字は同じくブログ筆者)


「江戸の三大橋」と言われた両国橋、千住大橋が江戸時代を通じて維持されたのに対して、六郷橋の方は90年足らずしか維持できず、その間も幾度も架け替えを余儀なくされたのは、この説に従えば立地場所の川底の差が物を言ったことになります。架橋技術の面で無理があることは、恐らく廃止を決断した幕府の耳にも届いていただろうと思われ、それが再架橋断念に繋がった可能性も確かに少なくないと思います。

他方、ならば慶長5年の架橋当時に技術上の難しさに気づくことはなかったのだろうか、という点が疑問として浮かびます。家康の江戸入りから相応に年月も経ち、大規模な架橋を行うに当たっては当然それに通じた職人を呼び集めたと思われる中、六郷川に杭打ちをした際の感触で川底の様子に気づくことがなかったのか、それとも気付いたものの無理を圧して架橋を続行したのか、八幡宮(現在の六郷神社)の家康の祈願文は架橋難航を悟った家康が何とか竣工せんことを願ってのことだったのか…などと妄想を膨らませてみたくなります。

そして、この実情にも拘わらず架橋が行われたことから考えても、そんな「難所」に家康以前に後北条氏(や、それ以前に架橋されたのであれば当時の領主)が六郷橋を大金を投じて技術的難題を乗り越えて維持していたとは到底思えず、やはり「小田原記」を六郷橋の証拠として考えるのはますます難しい気がしてくるのです。




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【武相国境】峠村は何故鎌倉郡に属していたのか?

前回のプレゼンで、武相国境が東京湾と相模湾の分水嶺に上がった後、そのままその分水嶺=現在の逗子・横浜市境を経て鎌倉・横浜市境を辿る様にトレースしてしまいました。ところが、実際は鎌倉市境に入った先で一旦分水嶺を降りて、現在の朝比奈町の東側の縁を武相国境が辿っていたことに、記事を公開した後に気付いてしまいました。

そのことに気付かされたのがこのWikipediaの記事:相模国#現在の行政区分 - Wikipedia

金沢区の朝比奈町の全域及び東朝比奈の一部(鎌倉郡東鎌倉村であったが、1897年〈明治30年〉に当該地区の大字峠が武蔵国久良岐郡六浦荘村に編入されているので、通常は旧武蔵国に含まれる)


…思いっ切り見落としていたなぁ。慌てて色々と検索して、こんな記事まで見つけて頭を抱えた次第。朝夷奈切通には散々登っている癖に、いつも鎌倉側から頂上まで行ってそのまま鎌倉駅へと引き返してしまうために、その先の鼻欠地蔵までは行ったことがないのがバレてしまいました。
鼻欠地蔵 横浜市金沢区 横浜金沢観光協会

ここは鎌倉と金沢を結ぶ大切な街道で、

この地蔵の東わずか2メートルの所が、武蔵の国との国界(くにざかい)でした。

これから西は相州、東は武州で相武の境にあたるので、「界の地蔵」、

また鼻が欠けているところから「鼻欠地蔵」とも呼ばれていました。



朝比奈町の区域(Googleマップ
しかし、何とも「不自然」な話です。現在の「朝比奈町」の区域はこんな感じ。

上記Wikipediaの記事に書かれている通り、現在では朝比奈町のうち再開発された地域が「東朝比奈」として住居表示が実施されたため、かつての峠村の境界だったと思われる朝比奈町の境界を正確に追うことが現在の地図ではできなくなりました。とは言え、分水嶺を離れて逆「く」の字に折れ曲がるかつての村境の雰囲気はまだ窺うことが出来ます。その逆「く」の頂点付近を環状4号と侍従川の支流である若水川が貫いており、この西側辺りにかつての村の集落があったことが町内会館などのあるエリアの道路の形状から窺えます。この町内会館の前を西へ行くと朝夷奈切通です。因みに、鼻欠地蔵はこの辺。


鼻欠地蔵の辺り(ストリートビュー
地蔵自体は既に風化が進んでフォルムが辛うじて確認できるのみ
何故この辺だけ敢えて分水嶺を越えて「相模国鎌倉郡」に収まっていたのでしょうか。勿論、この峠村の村境を辿る区間は武相国境中で分水嶺を辿らない3つ目の「例外区間」ということになりますし、この国境が川を渡るのはこの先境川上流までありません。明治時代には勿論武蔵国も相模国も過去のものとなっていたとは言え、その頃になって初めて自然地形に倣った境界に直ったことになります。

最初は「過去に何かの機会に武蔵国久良岐郡を離れて相模国鎌倉郡へと編入されたのだろうか」と考えたのですが、どうやらそうではないらしい。少なくともその様な記述は、江戸時代から明治時代にかけてのもっとも重要な地誌3種を当たった限りでは見出すことが出来ませんでした。


新編鎌倉志卷之八(雄山閣版より引用)

◯朝夷名切通 …此坂道を(タウゲ)坂と云ふ、坂の下六浦の方を峠村(タウゲムラ)と云ふ。

◯鼻缺地藏 鼻缺 (ハナカケ )地藏は、海道の北の岩尾に、大なる地藏を切付てあり。是より西は相州、東は武州なり。相・武の界にあるを以て、界地藏と名く。像の鼻缺てあり。故に里俗、鼻缺地藏と云なり。…


新編相模国風土記稿 卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十(雄山閣版より引用)

峠村[多不牙牟良]

江戸より行程十二里小坂鄕に屬す、家數十八、東西七町半南北八町許[東、寺分村、南、平分村、北、宿村、以上三村、皆武州久良伎郡の屬、西、郡内十二所村、]新田[高六石七斗九升二合、]…

◯鼻缺地藏 金澤往還の北側なる、岩腹に鐫たる像を云[長一丈許]是より東方纔に一間許を隔て武相の國界なり、故に【鎌倉志】にも界地藏と唱ふと記せり、又【志】に此像の鼻缺損せし如くなれば鼻缺地藏と呼とあり、土俗は傳へて古此像を信ずる者多く香花を供すること絶えざりし故、花立地藏と云つるを後訛りて鼻缺とは唱へしなりと云、


皇国地誌 村誌 相模国鎌倉郡(タウゲ)村(神奈川県図書館協会版より引用)

本村往古ヨリ本郡ニ属シ鎌倉大倉郷ノ内ニアリ此地鎌倉ヨリ六浦ニ出ル坂路[即チ朝夷奈切通是ナリ]アリテ之ヲ峠坂ト呼ブ其下方ニアル部落ナルヲ以テ峠村ト名クト云鎌倉府ノ頃ハ大倉ノ内ノ小名ナリシヲ徳川幕府ノ初ヨリ独立ノ一村トハナレリト云

地味

灰色ノ腐壚多ク間々細砂ヲ混スル所アリ其質瘠薄諸植物ニ宜シカラズ水旱ノ両災ハ甚稀ナリ

戸数

本籍平民     十八戸

社         一戸

寺         一戸

人口

本籍平民男   五十七人

同   女   六十六人

総計    一百二十三人

寄留平民男     一人

同   女     四人

総計        五人


また、上記「風土記稿」や「皇国地誌残稿」の記述から、峠村が大変に小規模な村であったことがわかりますし、皇国地誌残稿からはあまり農業には適さない土地であったこともわかります。確かに東に開けた細い谷戸では南側の尾根に日照を遮られることから、日当たりも良好とは言えず、それが地味に影響を及ぼした可能性は高そうです。実際、村内の耕地の大半は畑で水田は少なく、他に炭焼きなどで生計を立てていた様です。

村には僅かな世帯と神社、寺院が1軒ずつあるだけで、国境を敢えて自然地形から引き離す程に政治的に重要な施設があった訳でもなさそうです。但し、風土記稿には「新田」と書かれていることから、この村の開拓が比較的新しいものであることは窺えます。

もう少し深掘りする資料がないかと探したら、何と朝比奈町内会のまとめた「朝比奈の歴史」(2004年)という本があるのを見つけました。A5版の小振りな形状ながら内容は127ページに渡って地元の歴史が縄文時代からしっかりした構成でまとめられています。専門家の方の指導を仰ぎながら町内の方々がまとめたものの様です。

果たして、この中にこの問題の核心に迫る記述が複数箇所に渡って出てきます。長くなりますが、例示などの部分を外してなるべく簡潔に引用してみます。

古代奈良王朝による大化の改新(大化二年、六四六年)の一環として(こく)(ぐん)(ごう)制の地方行政組織が整いますが、当時の朝比奈の区域は、相模国鎌倉郡大倉郷(いまの鎌倉市域の中東部一帯)の東端に位置する辺境未開の山地でした。その東隣は、武蔵国久良(くら)鮎浦(ふくら)郷(いまの金沢区六浦一帯)に接していました。鎌倉時代の中期に幕府直轄事業として朝比奈切通しが開削され、相模湾側の鎌倉と東京湾側の六浦港とを山越えして結ぶ六浦道(むつらみち)が整備されてから、交通条件は画期的によくなりました。しかし、戦乱に明け暮れた中世の時代背景の下で、この国境いの山地に人が住みついて、村落が形成されるまでにはいたりませんでした。

朝比奈の地に、小さいながらも農耕を主業とする村落が生まれたのは、関が原の役(慶長五年、一六◯◯年)を節目として戦乱の世が終わり、平安な江戸時代に入ってからです。江戸初期にこの地に生まれた農耕村落は、相模国鎌倉郡(とうげ)村として、幕藩体制下の独立した一村として認知されました。…

(11ページ)


ともあれ天正検地(注:天正19年)にもとづいて、幕府公認の独立した一箇の行政村「峠村」が誕生しました。しかし峠村の誕生には、一般の村にくらべて異例ともみられるほどのきわだった二つの特色が指摘されるのです。

そのひとつは、検地によって線引きされた峠村の位置です。…通例の境界線は自然地形の河川または山脈・丘陵の尾根です。…そのような線引きの通例原則からすれば、自然地形上は武蔵国久良伎郡に所属すべき位置の峠村が相模国鎌倉郡に編入線引きされたのは異例の扱いでした。…これについては、この土地の鎌倉時代いらいの鎌倉との密接な歴史的関連性が重視されたものとおもわれます。

(48〜49ページ)


つまり、天正検地によって初めて「峠村」が行政上の実体を持ったという解釈です。それまではどうやら一時的にはともかく、この辺での集落の形成はあまり進まなかったために、空白地の様になっていたということでしょう。そして、実体が持たされると同時に峠村がその時代には鎌倉との結び付きが強かったために、結果的に相模国鎌倉郡と認知されるに至った、という訳です。

この説の妥当性をもっと掘り下げると、今回私のブログで書く予定だった内容を先出しする結果になりそうなので(^_^;)、勿体ぶってしまいますが委細な検討は後に改めて。

なお、鎌倉郡から久良岐郡へと転籍して当時の六浦荘村、現在の横浜市金沢区と合併した経緯については、「朝比奈の歴史」にはこの様に記述されています。

江戸時代初期から約二百七十年間、独立した一個の行政村として存続してきた峠村は、御一新の改革によって制度上は姿を消しました。

江戸時代の峠村は、異例の特殊事情から村請制を最大限に活用した自主独立の村づくりと組織づくりを進め、小さいながらも安定した完全自給自足の平和な農村として存立していました。これにたいして御一新の地方制度の改革は、村請制といった村落共同体の自治を否定し、全国のすべての村を一串(いっし)整然とした強力な中央集権国家の下部組織に組み込むことを目指したのです。

明治二十二年に創設された東鎌倉村の東のはずれに位置する旧峠村の村民にとっては、大区小区制いらいの新しい村役場も村行政も、旧時代にくらべてあまりにもよそよそしい間柄に様変わりしたと目に映ったことでしょう。そしてそのことが、明治三十年(一八九七年)にいたって東鎌倉村(当時は町)大字峠が、地理的に近く、また経済的なつながりを強めつつあった東京湾側の隣村久良伎郡六浦荘村に、さしたる抵抗感なく郡を超えてまで編入されていく背景をなしていたといえましょう。

(91〜93ページ)


江戸時代には六浦藩の重税振りを尻目に旗本領の一ヶ村として自立した生活を営むことができたため、鎌倉郡に属していたことは峠村に相応にメリットがあった様ですが(この本ではこの辺の実態についてかなり仔細に記述されていますが、本題から外れますので割愛します)、それが失われてしまった以上、地の利が優先される行政区に所属する様になったのは時間の問題だった、というとになるのでしょうか。

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【武相国境】うごけ!道案内 と武相国境の東京湾側の話(追記アリ)

武相国境のお題は、東海道編で境木の話をする時に取っておくつもりだったのですが、色々と考えてみると、境木と武相国境が直交するので、国境の方へとお題を深めると東海道と離れてしまい過ぎることに気づき、題材としては独立させることにしました。

で、この話を展開するとなるとどうしても地図で解説を加えないと見えない部分が多いなぁと考え、どうやってプレゼンしようかとネット上のサービスを探していたら、Yahoo!のルートラボの姉妹サービスにこんなのがあるのを見つけました。

うごけ!道案内https://latlonglab.yahoo.co.jp/macro/

地図上にポイントを複数打ったり線や図形を描ける点では「GoogleMaps」の方が利便は良いのですが、説明が線や図形をクリックしないと見える様にならない(クリックすると1つだけバルーンが開いて説明が表示されるが、次のバルーンが開くとそれまで開いていたバルーンは閉じてしまう)ので、それらの間の連携について説明しようとすると物足りない部分が出てきます。一方、「ルートラボ」は街道などの説明には向いているものの、こちらもポイントに収めた説明を十分に表示してくれない嫌いがありますし、1つの地図に線を1つしか引けない制約があります。

この「うごけ!道案内」はそうした線や図形などは描けませんが、各ポイントに移動しながら説明を表示させていくことが出来るので、今回の様な地図上の説明にはちょうど良さそうだと判断、試しに作ってみることにしました。

出来上がったものがこちら。


それなりに納得の行くものが出来たと思います。アドバンスモードにしてスクリプトに大幅に手を入れてやることで、かなり作成者の思惑通りに動かすことが出来ます。スクリプト自体は大して難しいものではないので、やる気があれば誰でもいじれると思います。

但し、根気は物凄く要ります(^_^;)。一先ず地図上の動きを記録させることで自動的にスクリプトが生成されるのですが、地図上をマウスを使ってあちこち移動させるのに、思った箇所に迷いなくピタリと動かすことが出来る人など滅多にいないと思いますw。スクリプトにはそのマウスの「迷った」軌跡が延々と記録されてくるので、綺麗なプレゼンにしようと思ったら、これを全部自分の思った場所を辿る様に書き換えなくてはなりません。それには結局通って欲しい地点の経度と緯度を1つ1つ拾い出しながらスクリプトにコピー&ペーストするしかなく、経由させる地点が増えればそれだけ同じ作業を延々と続けることになります。そのうち頭の中で「あきらめるなよ!」という某元プロテニスプレーヤーの叫び声がエコーして…。

因みに、地点の移動のコマンドは「moveto」と「smoveto」の2種類が用意されていますが、上の例では「smoveto」を使っています。経由させる地点の数を減らしながら動きを滑らかにすることを狙ったのですが、ほぼ狙い通りの動きになったと思います。今回は市境を辿るプレゼンなので、二重破線に含まれる点を目標に地点を選んでいます。速く移動させたければ破線のパターンを3つ置き、あるいは4つ置きに辿って地点を選び、ゆっくり移動させたければ飛ばさずに地点を選べば良い訳です。

但し、スクリプトの構文は常に正確に書かなくてはなりません。あまりエラー処理を考慮していないスクリプトになっている様で、途中で「smoveto」の引数を設定しないままプレビュー動作させてしまったところ、ページがフリーズしてしまうという現象が出てしまいました。せめて構文エラーで止まってくれると良いのですが、その時はここまで懸命に打ち込んだスクリプトが全て水の泡になるかと思いました。幸いブラウザの「戻る」「進む」ボタンの操作で打ち込んだスクリプトが復活したので事なきを得ましたが。



さて、やっと本題ですが、武相国境は基本的には東京湾と相模湾を隔てる分水嶺を辿っています。この点は次回以降じっくり追っていこうと思いますが、実際は2区間でその原則に合わなくなっています。その1つが上記のプレゼンに取り上げた区間で、現在の横浜市金沢区と横須賀市の境、かつての久良岐郡と三浦郡の境に当たります。この区間で武相国境は東京湾と相模湾の分水嶺を降りて東京湾へと向かうのですが、これによって相模国側に当たる三浦郡内の河川は東京湾へと流れるものが何本か出てくることになります。その東京湾に流れ込む川の中で最も国境に近いのが、「鷹取川」ということになります。


京浜急行と国道16号が通過する切通し(2014年ストリートビュー
しかし、地形図やGoogleEarthなどを使って実際の地形を辿ってみると、この区間も十分分水嶺とわかる地形になっており、律令時代の人が国境を設定する際にこうした地形を多分に利用していたことが窺えます。因みに、京浜急行や国道16号は、この尾根の鞍部を突っ切るためにかなり大規模に切通しを付けていることがわかります。

この、相模湾と東京湾の分水嶺を辿りながら、何故ここが武相国境として選ばれたのか、古代の歴史は正直なところ疎いのですが、自分なりに探ってみようと考えています。

本題の方が遥かに短くなってしまいましたが、正直なところプレゼン作成で力尽きました…orz。

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【旧東海道】その1 高輪〜品川〜大森の海沿い道(3)

前回の続きです。

江戸前の海に対する備えの薄さは、東海道の道筋に限ったことではなかったと思います。江戸の街そのものが日比谷入江を埋め立てるなど大々的な土木工事を施して出来上がったことは既に有名ですが、こうして出来上がった土地の割り当てを見ても、将軍家の別邸浜御殿(元は甲州藩下屋敷の庭園、現在の浜離宮)や紀州徳川家の御屋敷(元は老中大久保家の屋敷、現在の芝離宮)が作られるなど、幕府の御用地が海沿いに作られていたり、海岸に近い辺りでも親藩大名の中屋敷や下屋敷が点在するなど、その町割りに海への備えを意識した形跡があまり見受けられません。水運が主体だった当時、水際が最も利便性が高いことから庶民の町が集中するのは理解できますが、主要な街道や大名屋敷まで海沿いに来るのはどうなのか。

どうも、家康以下徳川幕府は、江戸入り後一貫して、江戸前の海が荒れる事は極めて少ないという認識を持ち続け、その前提で海沿いの土地利用を積極的に進めたということになるのではないでしょうか。

新編武蔵風土記稿」でも、江戸前の海は

固より入海のことなれは、風波も穩にして、ことに風收りたるときは水面平にして(むしろ)を舗るが如し

(卷三十九 荏原郡之一)


などと書かれており、江戸前の海の格別の穏やかさは共通認識になっていたことが窺えます。

因みに、麹屋村(現在の大田区糀谷)には潮除堤があったことが「風土記稿」に書かれていますが、堤築造の年月が不明ですが、これは海岸付近に水田が迫っているため、潮が入って稲作にダメージが来るのを防ぐ目的で作られたものの様です。明治初期の迅速測図でも海岸付近の水田や畑の周囲に堤が築かれているのが確認でき、ここから海岸線沿いに江戸前の海沿いに見ていくと、同様の堤が浦安辺りの田畑にも築かれているのがわかります。


水田の周囲の赤線でなぞられている所が潮除堤
(「今昔マップ on the web」より、地図の不透明度を100%にすると明治39年測図の地形図に切り替わる)

同様の農耕地を囲む潮除堤は、行徳・旧新井村の「へび土手」などがあった様ですが、何れも農耕地のためのもので、江戸の街を海から守る位置にはこれと言った堤防がありません。
余談ですが、この迅速測図で見ると埋め立てられる前の海岸沿いの干潟の広大さが良くわかります。

とは言え、江戸入り間もない家康や家臣が、事前に仕入れた知識だけで荒天の海への備えを解くというのはかなり不自然です。

確かに、岡野友彦氏が「家康はなぜ江戸を選んだか」で指摘していた通り、

伊勢湾と江戸湾との海上交通は、当時の航海技術からいって、大きく太平洋上に出ることはなく、東海道諸国の沿岸を経由して行われていたと考えられる。とするならば、三河・遠江・駿河といった東海道諸国を制圧して「のし上がって」きた家康が、信長・秀吉に比べて、江戸湾との水運に無知であったというのは、いささか不自然ではなかろうか
(同書11ページ)

少なくとも、江戸との間でどの様な交易が行われていたかについては把握していた可能性が高い点は同意です。

しかし、江戸入りするまでは後北条氏の領地であった地域内の湊の海が荒れた時の様子などは、実際にその様な天候の時に居合わせて実感しなければ、なかなかそこまで思い切るのは難しいのではないでしょうか。家康の江戸入り前に領地内が津波に襲われた記録はありませんが、明応地震(明応7年=1498年)の被害の記憶は三河から駿河にかけての沿岸各地域ではまだ記憶に新しかったと思われ、家康もその惨状や備えについて伝え聞く機会が少なからずあった筈と思います。こうした災害の記憶を持つ人々にとっては、訪れた先で「ここは安全だから」と地元の人から聞かされた程度では、にわかには警戒を解き難いのではないでしょうか。

家康が江戸入りしてから五街道が制定されるまで、10年ほど経っています。その間家康自身は江戸を留守にすることも少なくなかったとは言え、これだけ時間があれば新たな領地と言ってもその様子は家臣も含め概ね把握できていたことでしょう。恐らくはその間に、海沿い道であっても問題がないであろうという認識を固めていたのではないかと私は想像していますが、これはちょっと裏付けを得るのが難しそうです。ただ、当時の人の認識がどうであったか、文献などに現れているものがないか、出来ればもっと探してみたいところです。

では、本当に江戸前の海は安全であったのか。この辺は慎重に検討しなければなりませんし、手元の資料だけではとても結論染みたことは言い難いところです。が、手にとってみた江戸の災害にまつわる書物で取り上げられる水害の大半は、隅田川や荒川、あるいは神田川がもたらす河川の増水によるものであり、幕府の対策もほぼこれらの流域に集中していた様です。少なくとも、利根川東遷をはじめ河川治水事業にあれ程躍起になっていた幕府にしては、江戸前の海からの水害対策にはあまり手を掛けなかったし、恐らくはその必要を感じていなかった、という言い方はできそうです。

また、元禄地震や安政地震の津波の高さを検討した研究もありますが、これを見ても横浜辺りまでは比較的高い津波が来ているものの、それより奥では幾らか波の高さが抑えられていることがわかります(但し被害は多少なりとも出ていますが)。

「東京湾・浦賀水道沿岸の元禄関東(1703)、安政東海(1854) 津波とその他の津波の遡上状況」羽鳥 徳太郎著(歴史地震 第21号(2006) 37-45頁)[PDF]


勿論、当時の水害対策は現在のそれとは大きく立ち位置が異なるものです、現在は江東ゼロメートル地帯など高潮への備えが必要な地域がたくさんありますし、明治時代以降遥かに高度化した海の埋め立てと浚渫、人口の極端な増加など、当時とは違う観点で治水を考えなくてはならなくなっているのは言うまでもないことです。が、裏を返せばそれだけ江戸時代は江戸前の海を「信頼しきっていた」とも言えると思うのです。むしろそれだからこそ、あれほどの巨大な都市がウォーターフロントに大々的に展開できたのではないか、そんな気がしてなりません。

ただ、繰り返しになりますがこれは飽くまでも江戸時代の話。今の治水も東京湾に関しては恐るるに足りないなどという、とんでもない主張をする気はありませんので念のため。むしろ、堤防に守られているからと高層マンションをウォーターフロントに高々と建ててしまうのは、ちょっと行き過ぎではないかと思っているひとりです。



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【動画】鎌倉・朝夷奈切通のハンミョウその2【ネタ回】

ニコニコ動画:


YouTube(HD):


タイトルに含めましたが、今回はちょっとネタを仕込んでみました。まぁ、まさかハンミョウにあんな行動に出られるとは思わなかったので。

何だか連日生き物系の動画ばかりで本来の主題から離れかかってますね(汗)。えーと、本来は滑川を題材にした動画を作りたくて連日取材に出ていて、その過程で撮れたものをおまけ的にアップしているのが実情です。そろそろ本題の方を作成したいのですが、なかなか思う様に進まずおまけばかりが増える悪循環…。オープニングは一先ず作成したものの、出来たと思ったらiMovieのプロジェクトファイルが破損して全てご破算とか…代わりの動画編集ソフトを検討するところからやり直しになってしまいました。iMovieで作ったものは「その場限り」と考えないと駄目ですね。後日もっと高画質にしようと思ったら最初から作り直しって、頭が痛い。

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