「江島道」カテゴリー記事一覧

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短信:片瀬市民センターの江島弁財天道標が移設された様です

取り急ぎ、備忘のために記録しておきます。

昨日、twitter上で全部假的さんと、こんなやり取りをしました。














片瀬市民センターの弁財天道標については、以前江島道を取り上げた際に紹介しました。ストリートビューでも何とかその存在が見えるかどうかという状態が物語る通り、駐車場の奥に置かれた道標は、予めその存在を知らなければ見逃し兼ねないものでした。


大源太公園の位置
一方、大源太公園の辺りには、こちらの記事で説明した通り、かつては境川を渡る「石上の渡し」がありました。「江島道見取絵図」を見ると、江の島に向かって左手に道標が置かれていたのに対して、大源太公園は右手に当たりますので、完全に同じ位置とは言えませんが、かつての道標が存在した場所に近い所を選んで移設されたと言えそうです。

一昨年暮頃には、藤沢市役所で保存されていた弁財天道標が藤沢橋の近く砥上公園に移設されました。今回の道標の移設もその一環で、かつての江島道を歩く人たちの目になるべく触れやすい場所に設置し直す意図がある様です。

現場を自分の目で確認する機会がなかなか得られませんが、何れまたストリートビューが更新されて、大源太公園の道標の最新の状況が反映されると思いますので、その際に改めてこちらに反映する予定です。
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【史料集】「新編相模国風土記稿」鎌倉郡各村の街道の記述(その3)

前回に引き続き、「新編相模国風土記稿」中の鎌倉郡の各村の街道の記述を一覧化しています。今回まとめるのは、鎌倉郡図説で「鎌倉道」として取り上げられた道の2本目です。

2本目の「鎌倉道」は基本的には藤沢から江の島へと向かう道筋を指していますが、これについては以前「江島道見取絵図」を取り上げた際にも、「風土記稿」の示す「江島道」との道筋や名称の違いを指摘しました。今回は「風土記稿」の一連の記述を中心にして、「見取絵図」との相違を確認します。


川名村付近の迅速測図
長谷への道筋の方を主要道として描いている
(「今昔マップ on the web」より)
まず、「風土記稿」では大鋸町から川名村へ向かい、そこで長谷への道と分かれて南下して片瀬村へ入る道筋を「江島道」または「鎌倉道」と呼んでいます。川名村の項では道幅が3間(5.4m)とかなり広い道筋であったことを指摘しています。しかし、片瀬村の項には「石上の渡し」の存在が記されており、しかも「往還」がこの渡しを通っているとしています。基本的にはこちらが江島道の主要道であったことは、以前検討した通り、数々の道中記・紀行文の大半がこの渡しを経て大久保町の鳥居を潜っていることを記していること、更には藤沢宿を描いた数々の錦絵でも大久保町の鳥居を描いていることでも明らかであり、「見取絵図」もその観点でこの区間の絵図を作成していると言えます。また、やや時代が下りますが「迅速測図」の川名村付近の道筋の描き方を見ると、東の長谷へと向かう道筋は2本の実線で描かれているのに対し、途中でこの道から分かれて江の島へと南下する道筋は実線と点線で描かれており、長谷への道筋の方を主要道として取り扱っていることがわかります。江の島方面への道を辿ると、やはり「石上の渡し」からの道が主要道であることを示す2本の実線で描かれています。

※片瀬村の記述中で藤沢から江の島に向かう街道が「坤」、つまり南西から入ると書いているのも疑問点です。藤沢を起点と考えるならば村の西寄りを境川に沿って南下することになりますから、その道が南側から入るというのは筋が通りません。


昌平坂学問所がどの様な判断で、川名村を経て江の島へと向かう道の方を藤沢からの江の島への主要な道筋と考えて鎌倉郡図説に記載したのかは良くわかりません。強いて挙げれば図説に転載された2つの国絵図のうち、元禄の国絵図では片瀬村から石上の渡しへ向かう道筋が描かれておらず、川名村への道筋だけが線で描かれているので、あるいはこれに影響された可能性も考えられなくはありません。

ただ、他の多くの史料と照合する限りでは、鎌倉郡図説のこの表記は当時の実情に合っているとは言い難く、何故こうなってしまったのか少なからず疑問を感じるのも事実です。少なくとも、昌平坂学問所が「風土記稿」を編纂するに当たり、道中奉行が編纂した「見取絵図」を参照した形跡が認められないことは確かです。そもそも「江島道見取絵図」をはじめとする「五海道其外分間見取延絵図」を、管轄の奉行所以外の役人などにどの程度閲覧させていたのかという問題もありますが、幕府直轄の学問機関であった「昌平坂学問所」も幕府自身が持つ行政資料の類いはあまり参考にさせてもらえていなかった、ということを意味するのかも知れません。何れにせよ、「風土記稿」成立の過程を考える上で課題になる項目の1つと言えそうです。川名村の「道幅三間」も、あるいは長谷への継立道としてのものか、2つの道が重なっている区間のものとも考えられそうです。

他方、鎌倉郡図説ではこの道筋は江の島までの道として書かれていると同時に、片瀬村の項には鎌倉への道が「小名下ノ谷町」で分岐していたと記されています。この小名は「藤沢の地名」(日本地名研究所編)によれば江ノ島電鉄の江ノ島駅周辺の一帯を指しており(90ページ地図)、この記述からは道印石の立てられていた龍口寺への分岐を指していると見られます。

これに対して「見取絵図」ではそのまま東浜の砂浜まで降り、そこから浜伝いに進んで神戸川を飛び石で渡ってから腰越の集落へと向かう道筋を描いており、その間にあった江の島への渡り口については何も表記していないことは以前も指摘しました。

そして、ここから腰越・津村、極楽寺村、坂之下村、長谷村を経て大町の下馬橋へと至る「江島道」について、「風土記稿」では各村の記述でもその存在を記していますが、図説の表記ではこの区間を含めていません。このため、藤沢から江の島までしか到達せず、鎌倉へは向かわない道筋に「鎌倉道」の名が付されるという関係になってしまっていますが、各村の記述は大筋で「見取絵図」が描いた道を辿っています。但し、極楽寺村から長谷村の間の記述は「浦賀や三崎からの江の島道」という位置付けになっている点が注目されます。この腰越〜大町間の道筋は鎌倉郡図説では触れられていませんが、ここでは「鎌倉道㈡」として一括することにしました。また、以下の地図では基本的に「見取絵図」の示す道筋を青線で示し、川名村を経由する道や龍口寺前を経る道筋を紫で補う形で線を引いています。

江の島が鎌倉と同様に江戸時代に多くの参拝者を集める地であったことから考えれば、ここもどちらかと言えば経由地であるよりも最終目的地であったということになるのでしょう。その意味では「風土記稿」が示す龍口寺への分岐路は、鎌倉方面へ急ぐ場合の「抜け道」であったと言うべきなのかも知れません。


江島道:鎌倉郡中の各村の位置
江島道:鎌倉郡中の各村の位置
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャし、リサイズ)

前回も触れた通り、各項とも「東鑑」を始めとする引用の点数が特に多くなっていますが、一覧では何れも省略せざるを得ませんでした。ただ、特に引用の多さが際立つ項目については、引用されている文献の名称を列記して補うことにしました。なお、津村と腰越村についてはその位置関係を明瞭に示すことが困難であるため、以下の地図での位置付けも極めて便宜的なものでしかないことを念頭に置いて御覧下さい。

街道「風土記稿」の説明
鎌倉道㈡ ※江島道大鋸町百三
(三十五)
東海道の驛路南北に貫く幅四間餘又南方にて東に分るゝ岐路あり、鎌倉道と唱ふ、

※ここで指摘する「鎌倉道」が長谷への継立道を指すのであれば、同時に江の島への道であることにもなるが、雪下への道を指しているのであれば、この道に関しての記述はないことになる。

(彌勒寺村)百三
(三十五)

※鎌倉郡図説には大鋸町からこの村に入ってくると明記されている。しかし、当村の記述にも「村岡五ヶ村」についてまとめて載せられている高谷村の記述にも、この道に関して何も記されていない。

川名村百五
(三十七)
江島道村内を貫けり幅三間、
◯戸部川 村の北界を流れ幅十間餘乾隅にて境川に會す、土橋を架せり長十五間

※この書き方から判断すると、川名村では長谷へ向かう道筋よりも江島への道の方を主要道と見ていたと思われる。

片瀨村百五
(三十七)
藤澤より鎌倉江島への道、坤方より入て村中を貫き、小名下ノ谷町にて二道に分る幅二間、江島に達する處は海中一町餘の際潮落の時砂磧となり徒渉すべし、潮滿れば行人を肩して渉せり、按ずるに古は徒渉の事なしと見ゆ、…鎌倉より大磯驛に達せし古道は海濱にあり高座郡鵠沼村に達す、即古は鎌府より大磯驛に達する中間の郵驛にて【東鑑】建保六年建長四年等の條に、固瀨驛固瀨宿など載す、腰越古驛と相連れり彼村も當寺宿驛なり、今尚民戸頗る聚落をなし、腰越村と接壤す、…
◯小名 △門前町龍口寺門前の人家を云ふ、 △下ノ谷町 △上町 △西方町 △新屋鋪町以上、村落の小名なり △龍ノ口龍口寺所在の總名なり、… △唐ヶ原 △砥上原 △八松原以上三原は皆他郡の名所にて、唐ヶ原は、淘綾郡砥上・八松二原は、隣郡高座の屬なり、【鎌倉志】に當村を附錄せしより土人かく誤り傳へしなるべし、 △塚田 △殿山 △宮畑 △立石谷 △北ノ谷 △鯨骨 △中瀨 △藤ヶ谷 △地藏面
◯片瀨川 境川の下流なり、當村の界を流るゝを以てこの名あり對岸鵠沼村にては尚境川と呼ぶ、郡界を延互して、海に入る幅五六間より二十間に至る、此川名、古書に往々散見せり、…往還に渡船場あり、石上渡石上は對岸鵠沼村の小名、と唱へ當村鵠沼兩村の持とす、河涯に堤防を設く高六尺餘

※ここで引用されているのは「東鑑」「源平盛衰記」「海道記」「北条九代記」「歌枕名寄」「夫木集」「名所方角抄」。

◯橋 藤澤道の小巨に架す、馬鞍渡橋と唱ふ、往昔賴朝通行の時鞍を架して往來を通ぜしが故此遺名ありと傳ふ、又世俗馬殺橋とも云しぞと【海鏡猿田彦】と云ふ書に…
腰越村百五
(三十七)
地形津村と混淆して辨別しがたきが故に四隣廣袤等は總て彼村に括載す當村の地形、北方は小山連續して高く、南は海に瀕して低し、其地に道して、往來を通ぜり、故に山腰を踰越するの義に取れるならん、…古昔は鎌倉大磯中間の驛郵にて【東鑑】文治元年の條に、腰越驛と記す、今も民戸連住して、頗る古のさまを存せり、當所經歷の事蹟古記に散見せり、…鎌倉道村南を通ず幅三間、家數三百五十二鎌倉道の側に連住す、

※「小名」「神戸川」「七里濱」「袂浦」「行合川」「金洗澤」何れも津村の項を参照すべきことが繰り返し記されている。

津村百五
(三十七)
地形は腰越村と交錯して辨別しがたければ四隣廣袤共に爰に括載す…鎌倉道南方海濱を通ず幅三間餘
◯小名 △濱野町 △神戸町 △川向町以上鎌道にて、二村の村落連住す、 △長者窪砂山なり、… △初澤口 △長山 △丹後谷 △室ヶ谷 △馬場 △御所ヶ谷 △藏ヶ谷 △囚ヶ谷 △竹ヶ谷 △猫地 △藤子ヶ谷 △伊勢船山 △矢澤山 △牛ヶ窪以上の小名すべて二村犬牙の地なり、故にこゝに括載す、
◯七里濱 稻村ヶ崎極楽寺村の屬より以西村落に至る迄の海濱を云ふ、其道程關道六町を一里とす、七里あり仍て名とす、…此濱に鐡砂久呂賀禰須奈あり、其色黑漆の如し極て細密にして些も餘の砂を交へず、日に映ずれば光輝ありて銀の如し、厨刀刀子などを磨くに佳なり、又花買い兒女拾得て、作り花にす、故に名づく、或は櫻貝とも云ふ、其色の似たるをもて呼ぶ、と云ふあり、其色艶なれば兒女の翫物となせり、又折刀白骨など往々砂中より得ることあり、これ屢戰場となりし故なるべし、
◯袂浦多茂登能宇良 七里濱の西にて村落に添へる海々を云ふ、濱邊の地形衣袂に似たり故に此名あり、…
◯神戸川 水源二あり、並に兩村の溪間より出、字堀内に至り合して一流となり、小名神戸を流て海に入る、鎌倉道を横ぎる所橋を架せり、神戸橋と呼ぶ、◯行合川 字田鍋ヶ谷の溪間より出七里濱を絕して海に入る、文永八年九月十二日日蓮厄難の時龍口よりの使、鎌府の赦免使と行合ひし舊跡とて此名あり ◯金洗澤 七里濱の内行合川の西方を云ふ、土俗傳て昔黄金を鑿得たり、故に名づくと云へり以上【鎌倉志】所載、
極樂寺村九十七
(二十九)
三浦郡三崎・浦賀よりの江島道幅二間、村内に係れり、
◯極樂寺坂 坂之下村堺にあり登三十間餘、幅四間、往古重山疊嶂なりしを僧忍性疎鑿して一條の路を開きしと云ふ、卽極樂寺切通しと唱ふるは是なり、…
◯針磨橋 往還を横ぎる惡水渠に架せる石橋にて、鎌倉十橋の一なり、此邊に昔針を製せしもの住せしより、名とすと云ふ、
◯日蓮袈裟掛松 往還の北方にあり、日蓮龍ノ口にて難に遭し時袈裟を此松に掛たりと云傳ふ、
◯十一人塚 海濱に出る道の左にあり、石の小碑を立り、里民傳へて新田義貞の勇士十一人討死せしを當所に埋め、十一面觀音堂を建たる蹟なりと云ふ、義貞の勇士十一人と云ふ其徴證を得ざれど古昔戰爭の地なればとにかく英魂を弔せしなるべし按ずるに…
坂之下村九十六
(二十八)
村名の起りを傳へざれど山麓の村落にて隣村極樂寺切通しの坂下は當村の聚落なり、されば村名に起れるなるべし、…三浦郡三崎浦賀よりの往還係れり、江島道と唱ふ幅二間、

※極楽寺切通について個別に言及した箇所はない。

長谷(はせ)九十六
(二十八)
三浦郡三崎・浦賀等よりの往還二條村内を通ず、一は江ノ島道神明町兵橋脇より左折して坂之下村に至る、幅凡四間より六間許に及ぶ、一は藤澤道なり幅二間半當村人馬の繼立をなせり東方、三浦郡小坪村へ一里、北方、藤澤宿へ二里を送る、
◯小名 △長谷小路入口十字街頭の左に塔あり塔ノ辻と云ふ、右に庚申塔あり △神明町 △新宿已上四所、皆往還中の小名なり、 △甘繩神明社邊より東の方、安達盛長が宅趾に至る迄を云ふ、 △深澤大佛の邊、都て此唱あり、 △桑谷大佛の西にあり、已上三所は、【東鑑】に往々見えて、舊き地名なり、 △愛染堂按ずるに、… △宿屋光則寺境内を云ふ △大谷 △小谷 △入地 △長者ヶ久保
◯稻瀨川 源は御輿ヶ嶽より出て南流し村内にて由井ヶ濱に會す、往古は水無の瀨川と云へり、【萬葉集】に…、此川に石橋を架す、兵ヶ橋と呼、鎌倉十橋の一なり、

※稲瀨川の項は特に引用の点数が多い。「万葉集」の他、「東鑑」「太平記」「梅松論」「夫木集」「東国紀行」「名所方角抄」の名が挙げられている。

大町村八十七
(十九)
◯小名 …△長谷小路下馬橋より、西方長谷村に達するの路次たるが故此唱あり、【東鑑】に武蔵大路と見えしは、卽此舊名なりとぞ、 …◯飢渇畠介加知婆多 西行橋の南路端にあり【鎌倉志】曰、此所昔より刑罰の所にて、今も罪人をさらし、斬戮する地なり、故に耕作をせず、飢渇畠と名づく…◯下馬橋 前[西行橋の下を流れる小流]の下流にて西の方置石道に出る所に架す長九尺、古昔は中下の別稱ありて二橋ありしとなり、今は是のみにて一は所在も詳ならず、…

※「下馬橋」に「中」と「下」があり、うち1つの所在が不明と書いているが、実際は次の雪下村の項に別の「下馬橋」が記されており、こちらが「中の下馬橋」を指す。大町村のうちに2本の「下馬橋」があると考えたために起きた取り違えか。

雪下村八十二
(十四)
民戸百四十五此内四十戸は、鶴岡社人を勤む、街衢に連住し、旅店を開き生業の資とする家多し、往還五條あり、人馬繼立をなす一は北方戸塚宿へ二里九町、一は西方藤澤宿へ二里餘、一は南方、三浦郡小坪村へ一里餘、一は西方、江ノ島へ二里餘、一は東方武州金澤へ二里餘
◯下馬橋 置石町の西の方小流に架す、橋邊に鶴岡の下馬牌あり、…

※「江島道」の道筋が雪下村の内にあったとは言い難いが、継立の起点となっていたことが記されているため、ここに書き加えた。また、雪下村の「下馬橋」は江島道に架かるものではないが、大町村の「下馬橋」の注を補完する意味で参考までにここに加えた。

注:

※何れも雄山閣版より

※巻数中、括弧内は鎌倉郡中の巻数。

※本文中、…は中略。なお、複数の街道について記述している場合、「前道」などの表現で先行する記述を受けた表記になっているケースが多々あるため、その場合は[]内にその道の名称等を補った。殆ど同一の文章になっている場合も、それぞれの街道毎に同一文章を掲げた。

※村の配列は、「鎌倉郡図説」で掲載された各街道の記述の順に合わせた。なお、一部順序については要検証。特に疑問点の大きいものは注を付した。

※街道中の坂、橋、一里塚等の施設は、文中にその名が現れる場合は含めた。明記がないものについても街道に関連すると思われるものは含めたが、遺漏の可能性はなしとはしない。



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短信:藤沢市役所にあった江島弁財天道標の移転先は砥上公園でした

昨年末の記事で、江島弁財天道標が藤沢橋付近に移設されていたこと、元は藤沢市役所に2体あったもののうち1体であること、残りの1体の行き先がはっきりしなかったことを書き留めました。

その後、全部假的さんのツイートで、砥上(いしがみ)公園に移設されていた1体に新たにガイドが設けられ、これが元は藤沢市役所に設置されていたもう1体であることが明らかになりました。




砥上公園の位置
この公園の一角には庚申塔が複数まとめて安置されていることを、江島道について取り上げた際に紹介しました。弁財天道標はこれらとは別に、かつての江島道に面した植え込みの中に置かれており、道路から直接目に出来る様に配慮されたことが窺えます。

経緯はどうあれ、これまで人目にあまり触れにくい場所にあったものがかつての江島道の脇に移設されたことで、この道を歩いてみようという人たちに関心を持ってもらいやすくなったのは確かだと思います。
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短信:藤沢橋付近に江島弁財天道標が移設された様です

全部假的さんのブログの今日の記事によりますと、11月頃に藤沢橋付近に江島弁財天道標が移設されていた模様です。


該当箇所の2015年7月のストリートビュー
報告されている場所は右のストリートビューの辺りです。この北隣(ストリートビューでは左手)に「藤沢橋自動車排出ガス測定局」の建屋があり、その前に歌川広重の隷書東海道の藤沢宿の絵が掲げられています。この絵では橋に向かって右手に道標と鳥居が描かれていますが、この橋は大鋸橋、現在の遊行寺橋に当たり、その点では当時の位置に比較的近い場所に道標が「戻された」ことになります。因みに藤沢橋の方は、関東大震災の後、復興事業の一環で東海道が自動車に対応した道に拡幅される際に、枡形を解消すべく新たに架けられた橋です。

旧東海道・藤沢宿:藤沢橋交差点付近に掲げられた広重隷書東海道
「藤沢橋自動車排出ガス測定局」前に掲げられた
歌川広重「隷書東海道」中の藤沢宿(再掲
他方で少々気掛かりなのが、この道標が「市役所新館脇歩道橋付近」にあったものを移設した、とされている点です。これは実質的に藤沢市役所の敷地内に当たり、かなり意図的に見学に立ち入らないと目にするのが難しい場所にありました。私も別の機会にここを訪れて3体の石碑があったのを見ているのですが、生憎とその時には序でに立ち寄ったこともあって写真を撮っていませんでした。3体の石碑のうちの2体が「江島弁財天道標」だったのですが、今回移設されたのはこの2体のうちの1体ということになります。

では、残りの1体は何処へ持って行かれたのでしょうか。全部假的さんの別の日の記事に、砥上公園に何時の間にか弁財天道標が移設されていることが報告されていますので、あるいはこの1体も市役所から移設されたものだったのかも知れませんが、この報告の時点ではまだガイドも何もなかったので今のところ委細は不明です。

また、渡部瞭氏のサイトによれば、市役所敷地内にあったもの(同ページ一覧中④と⑤)はそれぞれ「旧宿場地区」と「辻堂市民図書館隣」にあったとされています。ただ、2体のどちらが該当するものかは、この一覧が作成された時点でわからなくなっていた様です。以前も紹介した様に、この道標は東海道から江島道が分岐する場所に立っていただけに、他の道標とは異なる文字が刻印されていた可能性が捨て切れず、その点では幾度かの移設を経てしまったこの道標では、今となっては委細を知る手掛かりには、なり得なくなっていることになります。

とは言うものの、市役所の敷地内ではなかなか目にすることが難しかった道標が、街道歩きをされる方々が目にしやすい場所に移されたことは喜ばしいことではあります。
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アーネスト・サトウ「明治日本旅行案内」鎌倉の記述から

先日浦賀の水飴を取り上げた際に、アーネスト・メイスン・サトウ(Ernest Mason Satow)らの編纂した「A Handbook for Travellers in Central and Northern Japan(邦題;『明治日本旅行案内』、1884年)」を少し引用しました。今回はこの本から、以前書いた記事との関係で、鎌倉の景観についての記述の中で少し気になる箇所をメモ書き程度に取り上げます。

YoungSatow.jpg
1869年パリで撮影された
アーネスト・サトウのポートレート
この頃一旦日本を離れているが
すぐに再来日して長期間滞在した
("YoungSatow".
Licensed under パブリック・ドメイン
via Wikimedia Commons.)
この本は来日した外国人向けのガイドブックとして企画されたもので、初版の時点では原題に示されている通り日本の中央部と東北が取り上げられていました。その後の改訂で他の地域の観光ルートも追加され、最終的にはほぼ全国を網羅するまでに拡大されています。

この本の初版は、横浜で外国人向けの辞書などを出版販売していた「Kelly & Co.」から明治14年(1881年)に上梓されました。今回引用に使用した東洋文庫版の「東京近郊編」が底本としたのはその3年後の明治17年の改訂版です。本書の解説によれば、アーネスト・サトウが日本に滞在した期間は幕末の文久2年(1862年)からと、かなり長期にわたっています。実際に日本国内を周遊する様になったのは明治3年(1870年)頃からである様ですが、それでも初版の出版年までは11年、改訂版の出版までは14年の隔たりがあります。特にこの十数年は道路や景観の事情が大きく変わり始めた時期で、実際わずか3年で改訂版が出版されたのは、そうした変化に少しでも追随する意図であったことが初版の序文から読み取れます。ただ、この本では各地域を何時訪れたかについての記述は省かれているため、その間の変化を追う必要がある場合には、この本の記述だけでは十分ではないということになります。


A Handbook for Travellers in Central and Northern Japan
改訂版扉ページ
(Googleブックスより)
「浦賀の水飴」の場合は事業の継続が確認出来れば良かったので、基本的には出版年を確認出来ればそれほどの問題はありませんでした。しかし、ある時期の事象の変化を追いたい場合には出版年ではなく、その事象を確認した時期が問題になります。その点では、文中で確認した時期が明記されない書物は、その時期をどう考えるべきか迷うことになります。

例えば、鎌倉宮(大塔宮)については

鎌倉に至る直前で道は右に折れ野原を横切って、十二年前大塔宮(おおとうのみや)を祀って建立された神社へと通じる。

(「明治日本旅行案内 東京近郊編」庄田元男訳 2008年 平凡社東洋文庫776 167ページより、強調はブログ主、以下同じ)

と書いています。明治天皇の命によって鎌倉宮が造成されたのが明治2年、それから12年ということは、初版の出版年である明治14年を意識してこの箇所を記述していることになります。言い方を変えると、彼らが現地で見てきたのが何年のことかについて、ここでは意図的に捨象されているということです。ちなみに、石上の渡しが山本橋に切り替えられたのは明治6年のことですが、サトウは

江ノ島から片瀬を経て東海道沿いの藤沢へは距離にして一里九町ある。大磯に向かう場合には、中ほどにある川に架かる山本橋で左に分岐する小道に入ると、藤沢のかなり西側の東海道に出て一マイルは充分に短縮できる。

(192ページより)

とこの橋の名前を記していますので、少なくとも鎌倉・江の島の一帯に訪れたのはそれ以降ということになります。ただ、これだけではまだ以下の話では時期の特定には十分ではありません。

鎌倉の農地の様子については、以前取り上げた明治9年の「鎌倉紀行」(平野栄著)で、小麦やスイカが栽培されていたことを記していました。これに対して、「明治日本旅行案内」では長谷観音からの景観として

御堂の前面にある舞台からは、海岸線を三崎方面に向かう風景と鎌倉平野にひろがるとうもろこし畑を見晴らすことができる。

(183ページより)

と書いています。この「とうもろこし畑」が果たして「鎌倉紀行」と近い時期のことかどうかで解釈が変わってしまいます。比較的古い時期にこの様子を見ていたのであれば、トウモロコシが麦やスイカと一緒に輪作されていたと見ることになるでしょう。それに対して、明治10年から出版年の14年までの間のことであれば、「鎌倉紀行」以降に作物がトウモロコシへと切り替えられた、という解釈も出来ます。

また、七里ヶ浜の様子については明治23年(1890年)のラフカディオ・ハーン「江の島行脚」を以前紹介し、この頃には人力車が通れる道が崖下に切り開かれ、砂浜を行く江戸時代の様子とは異なる景観になっていたことを指摘しました。他方で「鎌倉紀行」ではまだ江戸時代同様に砂浜を行く道筋であったことを、前年の明治8年の「武甲相州回歴日誌」(織田完之著)と共に紹介しています。

これらに対して、「明治日本旅行案内」では

極楽寺坂の頂部の左手に位置するこの御堂にはいくつか興味深い古物が蔵されており、その中には頼朝自身が彫ったといわれている彼の木像がある。また文覚(もんがく)が自ら大包丁で彫った雑な自分の像、竹の繊維で編んだぼろぼろで色あせた平家の赤い(のぼり)、頼朝の刺繍入りの「陣羽織」、盛装した八幡が描かれた紗[弘法大師の作というのは誤り]などが見られる。極楽寺は元来塔屋、鐘楼、転輪蔵等を有する大きな寺で十三世紀に創設された。その奥に北条時政の屋敷があった。「本堂」の本尊は釈迦で、寺の蔵する宝物の中には三つの頭を持つ大黒、小さな不動がある。これは紅玉髄でできているといわれるが、実のところは朱の漆が塗られた大変古い木像だ。精巧な真鍮製の鈴一つと五鈷が二つ、義貞の陣太鼓、彼の側近の一人が使用していた鞍などがあり、また十二世紀の作である黒と赤の漆塗りの木製能面が二つある。

二〇〇ヤード先で道は砂浜に出る。「俥」は使えないが波が低いときは徒歩が気持ちよい。このあたりで富士が江ノ島のこんもりとした森の背後に唐突に姿をあらわす。ここの砂浜は七里ヶ浜と呼ばれ、昔は一里は六町あるとされていた〔つまり七里は四二町となるのだが、この長さは現在の一里、すなわち三六町を少々上まわる距離でしかないという意味〕。

(185〜186ページより)

と記しており、まだ七里ヶ浜を人力車で通り抜けるための道は整備されていなかったことになっています。これが明治9年以前であれば単に「鎌倉紀行」などの記述を裏付けているのみということになります。それに対して、明治14年近くに七里ヶ浜を訪れた時にも砂浜を行く道であったとすれば、この区間の道路開発はそれよりも後だったことになってきます。更に、改訂版の明治17年までの間にも再度ここを訪れて確認しているのであれば、明治23年にこの地を人力車で通り抜けたハーンが見た道は、まだ開通してからそれほど年数が経っていなかったことになってきます。


「新田十一人塚」の位置(地図中央の記念碑記号)
(「地理院地図」より)
なお、ここで極楽寺から砂浜まで「200ヤード」、つまり約190mと書いているのは何かを取り違えた可能性が高いと思います。極楽寺の門前からですと稲村ヶ崎までは約1kmもありますので、とても誤差の範囲では収まりません。砂浜から約150m進むと「新田十一人塚」の前に来ますので、あるいはこの距離を取り違えて記しているのかも知れません。


また、ここで「極楽寺坂の頂部の左手に位置するこの御堂」と書いているのは、このガイドが長谷から江の島方面に向かう視点で書かれていることを考え合わせると妙です。極楽寺はこの方向で進んできた場合は、右手に位置することになる筈だからです。文覚像(恐らく荒行像)のことを書いていることと考え合わせると、この記述も極楽寺だけではなく成就院の話が混ざっている様に思われますが、そうすると成就院のある辺りに極楽寺坂の頂上があったことになります。この坂の頂点が「江島道見取絵図」で描かれている位置と現在とでは変わっていることを、以前この見取絵図を追った際に指摘しましたが、サトウがここを訪れた頃にはまだ坂の頂上が見取絵図と同じか、それに近い位置にあったことになってきます。史料として考えるには読み替え操作が必要になるのが弱い点ですが、それでも極楽寺坂の景観の推移を考える上でのヒントの1つにはなりそうです。

アーネスト・サトウの書き残した手記があれば、もう少しこの辺りの問題を絞り込むのに使えるかも知れません。実際、彼の日記の一部が翻訳されて出版されている様ですので、この付近を旅した際の記録がないか、探してみることが出来そうです。その辺りは後日の課題ということで残しておきたいと思います。

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