「産物」カテゴリー記事一覧

「七湯の枝折」の「馬酔木」と「遅さくら」

相変わらず諸々停滞中です。申し訳ありません。

前回に引き続き、「七湯の枝折」に掲載された産物の一覧から、今回は残りの2つの植物を取り上げます。以下、「七湯の枝折」の引用は何れも沢田秀三郎釈註本(1975年 箱根町教育委員会)によります。

1.馬酔木


梅園草木花譜春之部「馬酔木」
毛利梅園「梅園草木花譜」より「馬酔木」
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
いわゆる「アセビ」ですが、「七湯の枝折」では「あせみ」と訓じています。右の「梅園草木花譜」の絵の脇には、各種の本草系の書物での表記などが書きつけられていますが、「馬醉木」の表記を記している「和漢三才図会」には

馬醉木/あせぼのき/あせみ

阿世美/俗云阿世保

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より。一部改行を「/」に置き換え、適宜順番入れ替え)

と記されていますので、「七湯の枝折」もこの影響を受けたのかも知れません。「和漢三才図会」では「取りつなけ玉田橫野のはなれ駒つゝしかけたにあせみ花さく」という源俊頼の「散木奇歌集」(平安時代後期)の歌を末尾に収めています。

「本草綱目啓蒙」では中国での「梫木」という表記を表題に据えた上で

梫木

アシミ萬葉集 アセボ古今通名 馬醉木共同上 アセミ古歌仙臺 イワモチ同上薩州 アセビ枕草子𡈽州 アセモ江戸 アセブ播州豊前 ヱセビ勢州 ヨシミ筑前 ヨシミシバ同上 ヨ子バ豊後 アシブ雲州 ヒサヽキ大和本草 ドクシバ豫州 カスクイ備前 ヲナザカモリ丹後 ヲナダカモリ同上 テヤキシバ長州 アセボシバ越前 ヨセブ豊前 ゴマヤキシバ藝州 シヤリシヤリ城州上加茂

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、異名一覧の改行は省略)

と、地方の呼び名を多数列挙しています。因みに「本草綱目啓蒙」では「馬醉木」の表記を古今の通称としていますが、「梅園草木花譜」では「和名抄」にこの表記例があることを記しています。

また、「大和本草」では

馬醉木(アセボノキ) 葉は忍冬の葉に似たり又シキミのはに似て細也味苦く澀る春の末靑白花開て下にさがる少黄色を帶ふ微毒あり馬此葉をくらへは死す西土の俗は此木をヨシミシバと云

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種名以外のカタカナをひらがなに置き換え、強調はブログ主)

と、「微毒」と言いつつも馬がこの葉を食べると死に至るとしています。これに対し、「本草綱目啓蒙」では

山中に五六尺の小木多し年久しき者は丈餘に至る葉形細長にして鋸歯あり柃葉に似て薄く硬し互生す冬凋まず春枝頂に花あり色白く綟木花の形の如し穂の長三寸許多く集り埀る後小子を生す又綟木子の如し若し牛馬この葉を食へば醉るが如し故に馬醉木と云鹿これを食へば不時に角解す又菜圃に小長黑蟲を生するにこの葉の煎汁を冷して灌く寸は蟲を殺す

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種名以外のカタカナをひらがなに置き換え、書き込みは省略、なお「煎」の足は「灬」ではなく「火」の字が用いられているが、該当する字が表示出来ないため、異体字で置き換えた)

と記し、馬が酔った様になることから「馬酔木」の字が来ていることを記すものの、馬を死に至らしめるとは書いていません。そして、鹿がこの木の葉を食べると角が落ちること、この葉の煎じ汁で農園向けの殺虫剤を作ることが出来ることを記しています。

神奈川県植物誌2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)では、県内の分布について次の様に紹介されています。

アセビ Pieris japonica (Thunb.) D.Don ex G.Don

小枝は平滑、葉は厚く縁にわずかに鋸歯がある。花冠は壺型、先は浅く5裂、葯には刺状の2個の突起がある。蒴果は扁球形。本州(宮城県以南)、四国、九州に分布。県内では箱根や丹沢のやや乾燥した山地に多く、箱根神山にはアセビ林を形成する所もある。低い所では「横植誌68」に横浜市旭区上川井の植林内に、高さ50cmくらいのものが1本あったと記しているが、今はみられない。また青葉区寺家町の尾根にも生えていたが、これも盗掘でなくなった。最近、公園、庭園、街路の植栽木として、利用が増えている。園芸種に花のピンクを帯びるベニバナアセビが栽培されている。有毒植物である。

(上記書1098ページより)


神奈川県のレッドデータブック(以下「県RDB」)ではアセビ自体は特に指定はされていません。国のレッドデータブックでは丹沢や箱根の「アセビ群落」が取り上げられているものの、県RDBでは「普通に見られる」としています。但し、「ヒメイワカガミ—アセビ群落」といった、アセビと他の植物との混群では群落の消滅が危惧されているものもある様です。何れにしても、神奈川県の山地ではそれほど珍しい存在という訳ではありません。「七湯の枝折」では、これも芦之湯に多いと記しています。

「和漢三才図会」では「多人家庭砌之以賞四時不ルヲ一レ」と、江戸時代初期にも賞翫目的で栽培する人が多かったことを記しているものの、アセビの用途については上記の様な書物にはあまり記載例が見当たりません。これに対し、「箱根細工物語 漂泊と定住の木工芸」(岩崎宗純著 1988年 神奈川新聞社かなしん出版)には次の様に箱根の漆器製作時にアセビを使う事例が紹介されています。

さて、これらの箱根漆器は、用材の木目を生かした木地呂塗りという手法が用いられていた。この漆法については『明治九年調、湯本細工』で詳しく紹介されており。当時の技法を知ることできるので、紹介しておこう。

次ニ漆際(こくそ)ヲ以テ寄木面上ノ疵点(してん)ヲ精細ニ填補(てんぼ)シ、其乾定(かんてい)スルヲ()チ、薄ク(さび)を塗リ、一夜ヲ経テ白砥(はくと)及ヒ青砥ヲ似テ研キ、綿ニ一戻漆(もどしうるし)ヲ附着シテ擦漆(すりうるし)ヲ為ス、(かく)ノ如クスル事二回ニシテ蔭室(いんしつ)ニ入ル

次ニ刷子(はけ)を以テ薄ク木地呂漆ヲ塗り、一夜室中ニ入レ平面ヲ磨キ、尖角(とつかく)()キタル方一寸(ばかり)厚朴炭(こうぼくたん)ヲ以テ研キ戻漆ニテ擦漆ヲ為シ、()タ室中ニ入ル、之ヲ中塗トス

次ニ木地呂漆ヲ塗り、前ノ如ク室中ニ入レ、厚朴炭及馬酔木(あせび)炭ヲ以テ()キ、更ニ馬酔木炭ノ細ヲ[矛参]布(さんぷ)シ、其上ヲ布片ニテ擦過シ、房漆ニテ擦漆ヲ()シ、室中ニ入レ、綿ニテ菜油ヲ全面ニ抹シ、角粉ヲ[矛参]布シ布片ニテ擦過ス

既ニシテ光采煥発(こうさいかんぱつ)スルニ及ヒ、擦漆ヲ為シ、角粉ニテ研ク是ノ如クスル□□□□後、手掌ヲ以テ頻リニ擦過ス、之ヲ上塗トス、即チ第四図ニ於テ示ス所ノモノ是ナリ

(上記書116〜117ページより、ルビも同書に従う、カタカナ書き中に一部ひらがな混じるがこれも同書に従う、字母を拾えなかった文字については[ ]内にその旁を示す、強調はブログ主)


箱根の漆器生産については、以前漆についてまとめた際に取り上げました。その際に見た通り、箱根の挽物に漆を塗る様になったのは比較的遅かった訳ですが、明治初期の記事の中でこの様に漆を幾層にも塗り重ねていく途上でアセビの炭粉を使う技術が使われているのは、箱根山中に迎えられた塗師(ぬし)が齎したのではないかと考えたくなります。今のところそのことを裏打ちする史料は見ていませんが、熱海の漆器問屋から縁戚関係を組んで箱根に迎え入れられた徒弟が、熱海で使っていたものと同一の、もしくは類似の役目を果たす樹としてアセビを見立てた可能性はかなり高そうに思えます。

木地呂塗りでのアセビの利用例が他の地域でもあったのか、更には漆器製作一般にまで拡げて見た時にはどうかも興味を惹かれるところですが、「文化遺産オンライン」によれば、アセビやチシャの炭は「呂色炭」と呼ばれ、ツバキの炭と共に漆芸に用いられているとのことです。この辺りは熱海の漆芸について掘り下げる機会があれば、改めて検討してみたいところです。



2.遅さくら


一見、箱根にサクラの独自の種類があったかの様にも見えますが、「七湯の枝折」の記述には「大てい芳野多し」と記されていますから、基本的には平地と同じソメイヨシノなどが優勢であったということでしょう。「芦の湯の桜ハ高山故にや花こせて細かし四月ヲ盛とす」つまり、芦之湯の辺りでは標高の関係で開花時季がやや遅く、花も小粒になると言っている訳です。因みに「七湯の枝折」では芦之湯の入口に桜の木が数本植えられて、その傍らに制札が立てられていたことが記されています。

浴室ハ市中ありて仙液の額をかけたり書ハ日本医道の長たる半井候の筆意を震ふ一棟四壺の湯あり両側ハ皆湯宿にして凡二丁はかり所せきまで軒をきしり厦を高ふす町の入口にハ大やかなる石畳して数株の櫻を植是か傍らに領主よりの制札をかけあがむ湯主六軒其戸数あまたありて酒をかもし蕎麦をのはし野菜をひさぎ魚を商ふ髪結床紙るい呉服土弓場あり

(上記書49ページより、強調はブログ主)


以前何度か紹介した松崎慊堂(こうどう)の「慊堂日暦(にちれき)」では、天保5年に芦之湯の桜を見掛けて、次の様に記しています。

(注:四月)三日 陰。崇朝(すうちょう)、山輿(六百文)に乗り、蘆の湯と(こまがたけ)(ふたごやま)との間を過ぐれば、桜花は山に満つ。

四日 …

◯宮下温湯を発し、山興に乗り、蘆湯を経れば、桜花は山に満つ。まことに(かん)春なり。よって一首を口号(こうごう)す。この日にこれを録す。

吾は春の返る処を疑いしが、春は箱根山に返れり。四月の駒(嶽)攣(山)の際、桜花は(らん)として(よう)雲のごとし。千万樹を俯仰すれば、黄鳥はまさに綿蛮(めんばん)たり。五月はなお掩滞(えんたい)し、六月は岳蓮の(てん)。岳巓は花を見ず、春服は完くして羞澀(しゅうじゅう)す。八月は平地に下り、九月は(ようや)枯拉(ころう)す。十月は淵泉に臥し、(かい)(したが)って孚甲(ふこう)を養う。(しょう)として端倪(たんげい)を見ず、粛殺(しゅくさつ)六合(りくごう)(あまね)し。これより春はいずこにか在る、春は東風に向って立つ。閲暦の卦年翁、真実に春法を看る。

(「慊堂日暦3」山田 琢 訳注 1978年 平凡社東洋文庫337 87〜88ページより、ルビも同書に従う、…は中略)


4月3日に桜を見掛けた際に漢詩をそらで(そら)んじて詠んだものを、翌日に思い返して書き留めている訳です。東洋文庫版ではこの漢詩を読み下した状態のものを、一字下げて掲げています。和暦の天保5年の4月3〜4日は、グレゴリオ暦に直すと1834年5月11〜12日に当たります。桜が「山に満つ」と表現していますから、必ずしもソメイヨシノではないかも知れませんが、何れにしても平野部の花期よりは遅めの時期であることは確かです。そして、平地よりも遅れて咲いた桜を見て、春が帰っていった先はどこだろうと思っていたら箱根の山だった、と詠んでいる訳ですね。

また、「七湯の枝折」の「芦之湯」の項には次の様な記述があり、高所であることの他に風当たりの強い場所であることも、桜を始めとする木々の枝振りに影響を及ぼしていることを記しています。

◯此地深山のならひとて寒気つよく風つねに烈しけれハなへての雑樹そたちえすこせて櫻なとハ枝ぶり柘なとのことく甚た雅なる木ふりなりまた弁天山の下あじか池の汀ハ芒々たる萱野にて春の比ハわらひつくつくしすみれ等そこかしこに生し療客の心を慰む此所を芦の湯といふハ権現の下の湖水を芦のうみと号く其近きほとなれハ此名あるなるべし芦の湯又早川の庄なり

(上記書50ページより)


これは桜以外にも、先日取り上げた「米つつじ」の生育環境にも重要な役割を果たしていると言えるでしょう。

最近はネット上でサクラの開花時季が速報される様になったため、場所による開花時季の違いを比較するのも容易になりました。こちらのサイトで取り上げられている箱根山中の各スポットのうち、一番標高が高そうなのは芦ノ湖畔の箱根恩賜公園ということになりそうですが、麓の入生田・正眼寺、更には大平台辺りでは見頃を3月下旬から4月上旬としているのに比べ、箱根恩賜公園では4月中旬から5月上旬と、確かに麓よりも1ヶ月近く見頃が遅くなっています。芦之湯は芦ノ湖畔よりも更に標高が高い場所に位置していますから、花期はそれよりももう少し遅くなることになるでしょう。



こうして見て行くと、「七湯の枝折」で取り上げられている植物のうち、特に花を愛でるものは、以前取り上げた釣鐘つつじ米つつじ、更にはうめばちそうも含め、何れも芦之湯に縁があることに気付きます。芦之湯は箱根七湯の中では最も標高が高いことも関連しているでしょうが、更に米つつじやアセビの様に風が強く吹き付けたり、芦之湯周辺独自の生息環境に育まれている植物であるために、平地では比較的珍しいものが多いことが関係しているのかも知れません。「風土記稿」の「蘆野湯」の項には

此地は山中高衍にして、常に風烈しく、草木繁茂せず、

(卷之三十 足柄下郡卷之九 雄山閣版より)

と記されているものの、そういう環境の中でこそ生息域を見出している植物も存在している訳です。

2015年に閉鎖されてしまいましたが、芦之湯に箱根町がフラワーセンターを設けていたのも、こうした由緒と無関係ではなかったのではないかと思います。
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「七湯の枝折」の「産物」から

前回、「新編相模国風土記稿」の箱根の温泉村の記述に、「七湯の枝折」の影響が窺えることを紹介しました。折角なのでこの「七湯の枝折」に掲載された箱根の「産物」を、「風土記稿」同様一覧にまとめておくことにしました。

「風土記稿」にも記述があるものについては「◯」を記してあります。既に別の記事で取り上げたものもありますが、今後「風土記稿」の産物を取り上げる際に改めて「七湯の枝折」も参照しながら紹介することになると思います。なお、「山川編」あるいは足柄下郡の図説のどちらかで取り上げられていれば「◯」としましたが、箱根を産地としないもののこれらの一覧に含まれている産品については括弧付きで◯を付けました。

Umebachisou.JPG

ウメバチソウ(Wikipediaより)
こうして見ると、「七湯の枝折」で取り上げられた産物のうち、主要なものは「風土記稿」にも採録されているものの、あまり代表的なものとは言えないものについては「風土記稿」では割愛されたと見て良いでしょう。例えば「一輪草」つまりウメバチソウ自体は箱根に限らず日本の山間でも比較的普通に見られるため、「風土記稿」では箱根の産物としては除外したのではないかと思われます。もっとも、「七湯の枝折」のこの産物一覧の特徴として、「太布」「すね当」あるいは禽獣類など、自然や風物に属するもので必ずしも部外に移出することを意図しているとは考えられないものも多数含まれているので、こうしたものは「風土記稿」でいうところの「産物」には当たらないと判断されて除外されているのかも知れません(はその点では「風土記稿」でも取り上げられたのはかなり異例ではあった訳ですが)。

また、「風土記稿」の産物の並びが当時の本草学で使われていた諸物の並べ方に概ね従っていたのに比べると、「七湯の枝折」の産物の並びはあまり整理されていません。特に主要なものを取り上げた前半部分はほとんど順不同といった風情になっています。以下の表では順序は整理せず出現順に並べてあります。

以前紹介した「山椒魚」がその冒頭に来て記述も特に長くなっていること、絵図が比較的大きく配置されていることから考えると、この「七湯の枝折」自体が箱根の温泉宿に訪れた上客に閲覧させて楽しませることを前提に作成されたことを示しているのかも知れません。「くさめくさ」の何とも奇妙な紹介も、その点では「山椒魚」のやや俗な感じと対をなすものと言えそうです。他方、「柴胡」は既に何度か取り上げた通りですが、他にも「石長生」「箱根蛇骨」など薬用を意識して効能を記しているものが幾つか含まれており、箱根が元来「湯治場」であることを思い起こさせられます。鹿の胎児が取り上げられているのもその一環と言えるでしょう。

その他、茶道の生花に用いる「鉈袋」が取り上げられていたり、その鳴き声から和歌の季語にもなっている「かしか蛙(カジカガエル)」が紹介されているなど、様々な興味を掻き立てられるものが含まれている一覧である様に思います。

「七湯の枝折」産物の図2「七湯の枝折」産物の図1
「七湯の枝折」産物の図より:原図は彩色(沢田秀三郎釈註書より)

品目記述風土
記稿
関連
記事

䱱魚図
又山椒ノ魚とも書く
註4黒魚(さんせううを)

小児五疳の妙薬なり功能世人の知る所なれバ略之但し男子にハ雄魚を用ひ女子にハ雌魚を服さしむ此魚のとれる比ハ弥生の末よりう月はしめ比をさかりとす其ある所ハ溪谷清水の流れに住む或ハ丘にもあがり木なとにも登る是をとるに法あり大かた小雨降る夜なと松明をともし身ニハ蓑かさうち着て扨溪川の岩間に右の松明を本のえた杯に立かけいかにもしつかに身をひそめおれバ松明のあかりに付て魚集りよるとそ其時石をとりのけ手つらまへにして竹の筒に入れ持帰る也此竹筒といふハ節一つをこめて切りロヘ少さく穴を穿ち是へせんをさし置也右とりたる魚ハ塩をふりかけて殺し日に干し乾すなり此魚当山ニとるを地魚と唱へて形大キク功尤よろし又大山辺にてとるを旅魚とて形少サく功も又うすし求る人よくよく弁ふべし

1/2

筥根草ノ図
石長生(はこねさう)

筥根山中に生すすへて湿瘡るいニ此悼を煎じて蒸しあらヘバ邪毒を去りかわかすとぞ茎ハむらさきニしてひとへに張かねのごとく至て美事也是をすきや箒木に結ハせて用るに甚タ雅なる者也

1/2

一輪草図
又梅草梅花草ともいふ芦の湯に限り生す
(うめばちさう)

此草ハ一茎一葉一花なり花形白梅のことく少しく青色ありて花ひら(コト)ことくかゝえひらく但し秋草にて仲秋の比をさかりとす近世是を押花にして或ハ扇にすき入れ又ハ婦女の衣のもよう等に染るに甚タしほらしくやさしきもの也

明礬
芦の湯明凡山より出ル

芦の湯明ばん山の半腹に明ばんわき出ル所あり其近辺の小石ニ花のごとくまとひ付てあり色ハ少し黄にして青白こもこも交り其製別に出ス

1/2

釣鐘つゝじ

枝葉ハ常の註5躅躑のことく花形つりかねのことく皆下に向てひらく是も又芦湯ニ多し

筥根蛇骨(硅華)

底倉より多く出ル功能血をとゝめ湿瘡なとに麻油ニて解付てよしとす

湯の花
芦ノ湯産也

他國ニくらふれハ此所の湯花白甚タ白し功能硫黄ニ似て少し異なり湿瘡ニよし湯本臺の茶や辺ニて是をあまた見せ先ニひさく

山梨
筥根山の産なり

是を塩ニつけて貯ふニよく酒毒魚毒ヲ解ス或ハ註6硯ぶたの取合ニつみて面白きもの也

木葉石
色赤し姥子ヨリ出ル

他国ニある所の木葉石といふものハ石質和らかにして木葉の形たしかならす當山ニ出ルハ石甚タかたく木葉の跡あざやかにして至而面白し

虎班竹

筥根山中生ス是太細ありといへとも大概烟管竹位のふとみなり甚奇竹也

鉈袋大小あり

藤かつらにてあみたるものなり樵夫是ヲ腰ニつけて鉈をいれ山路を往来ス茶人此中へかけ筒して花活ニ用ゆ甚タ雅也

くさめくさ

是ヲ干してもみ鼻ニ入るゝにくさめ出ること妙也

砥石袋

樵夫の具也繩ニてあみたるもの也

太布(タフ)

猟師の着物也藤にて織れるもの也是を着して山ニ入るに茨棘も通す事あたわず至て丈夫なるもの也染色大てい鼠多し

すね當

猟師の用るもの也右の太布打着し上ニすねの所へ是ヲつくり観世より又ハ熊の皮ニて作る

◯植物類

註7[酋阝]躅

明ばん山ニ多く生ス

馬酔木

あせみといふ葉ハ茶の葉のことく花ハ至て白く花ひら五ツあり芦の湯辺殊二多し

遅さくら

芦の湯の桜ハ高山故にや花こせて細かし四月ヲ盛とす大てい芳野多し

◯薬品類

細辛/柴胡

筥根山中より出ル功能謄疾をのそく薬店是をかまくら柴胡といふ

1/2

胡黄連

味苦く小児疳症註8驚風を治す

(後日注:「せんぶり」のこと)

神代杉

千石原より多く出る杉戸ニ用ゆ杢細密にて見事なり巾五六尺迄あり

火打石瓦

宮城野辺より出る石質かたく色黒し火の出る事常の石より多しくらまの火打石卜同物也

◯魚虫類

鱒魚

箱根湖水より出ル他国より大キクして味ひよろし

腹赤

同断

()

かしか蛙

堂ケ島の谷川ニアリ其声ひぐらしのことし

ほたる

底倉尤よろし形大キク光至てつよし

(◯)

()

◯禽獣類

鶯 時鳥 雲雀 山鴫 鹿 猿 兎 鷹

右之類いつれも沢山なり取わき鹿の註9腹篭ニ上品あり

◯野菜類

秦の大根

秦野といふ野に生ス此大根種をまかすして自ら生ス世ニはたな大こんといふハ是なり

(◯)

註10狗脊

筥根一山いつくにても生すといへともわけて宮城野の方より多く出ル味美に和らかし

1/2/3

同じく宮城野辺多し

1/2/3

「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 (1975年 箱根町教育委員会)68〜72ページより、くの字点は適宜置換え、字母を拾えなかった漢字については[]内にその旁を示す

[註]:何れも同書より

  1. 黒魚(さんせううを))とあるは後人の補筆なり。以下(石長生(はこねさう))(うめばちそう)(桂華)も同じ。
  2. 躅躑=躑躅(つゝじ)。
  3. 硯ぶた=口取りざかなを盛るひろぶた。
  4. [酋阝]躅=躑躅(つゝじ)。
  5. 驚風=小児脳膜炎の類。
  6. 腹篭=胎児の意で薬用に供すか。
  7. 狗脊=ぜんまい。

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「七湯の枝折」の一輪草(うめばちそう)

なかなか復帰に向けて状況が改善しませんが、差し当たり書き上げたものをアップします。

「七湯の枝折」に掲載された産物の一覧から、前回は「米つつじ」を取り上げましたが、今回は「一輪草(うめばちそう)」を取り上げます。


「七湯の枝折」産物の図2
「七湯の枝折」産物の図より:原図は彩色
右側に「一輪草(うめばちさう)」
(沢田秀三郎釈註書より・再掲)
「七湯の枝折」の産物の図では、山椒魚箱根草に続いて「一輪草(うめばちさう)」が挿画とともに紹介されています。その挿画の大きさも「山椒魚」や「箱根草」と同等のものとなっており、以降の産物についてはもっと小振りな挿画になっていることから、それだけ当時の箱根では注目されるべき草花と考えられていたことが窺い知れます。但し、この花が見られるのは「芦の湯に限り生す」と、箱根七湯の中で最も標高の高い(標高850m前後)場所に位置する芦之湯のみであることが記されています。

もっとも、「近世是を押花にして或ハ扇にすき入れ又ハ婦女の衣のもよう等に染るに甚タしほらしくやさしきもの也」と記していることからは、この花が箱根だけではなく、他の地域でも賞翫されていたことが窺えます。以下で引用する「大和本草」の記述も、そのことを裏付けています。

Anemone nikoensis 5.JPG
イチリンソウの花
(By Qwert1234 - Qwert1234's file,
CC 表示-継承 3.0, via Wikimedia Commons
Umebachisou.JPG
ウメバチソウの花
GFDL, via Wikipedia

ただ、気になるのはその表題に「一輪草」という表記と「又梅草梅花草ともいふ」あるいは「うめばちそう」という表記が共に記されていることです。確かに「イチリンソウ」と「ウメバチソウ」の花は御覧の通り大変良く似ていますが、現在ではこれらは別の種の植物であり、更には植物分類上も別の科に属していることが知られています。従って、「七湯の枝折」のこの表記を、現在「イチリンソウ」あるいは「ウメバチソウ」として知られている植物と、どの様に関連付けて解すべきかが課題と言えます。


そこでまず、「神奈川県植物誌2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)から「ウメバチソウ」と「イチリンソウ」の記述を抜き書きしてみます。

  • ウメバチソウ Parnassia palustris L. var. mulutiseta Ledeb.(上記書798ページより)

    花茎は高さ10〜15cm、葉は円い心形で円頭、花は9〜11月、白色、仮雄しべは15〜22裂する。北海道、本州、四国、九州、東北アジアに分布、県内では丹沢、箱根の草原や湿地に生える。かつては丘陵地にも生えていたようで、古い標本では、川崎市多摩区登戸(1951.8.26 大場達之 KPM-NA0020550)、青葉区鉄町(1953.9.27 出口長男 KPM-NA0081124)、横須賀市須軽谷(1966.10.7 小板橋八千代 YCM10406)がある。また1984年に横浜市港南区舞岡町の谷戸(標高70m)で生育地が確認された(田中徳久 1911 FK(30): 301)。中山周平(1998 柿生 里山今昔 朝日新聞社)は1946年10月に川崎市の柿生(片平の中提谷戸)で写真撮影やスケッチをしたが、そこは1996年に学校建設により消滅したと記している。「神植目33、神植誌58、宮代目録」では低地の生育地に横浜や大船をあげている。県内の低地に分布していたものは絶滅したものが多く、「神奈川RDB」では減少種とされた。

  • イチリンソウ Anemone nikoensis Maxim.(上記書698ページより)

    根茎は横にはい、所々少し肥厚する。根生葉は長柄があり、1〜2回3出複葉、小葉は長さ2〜5cm、根生葉を出さない根茎の先に花茎を立てる。総苞葉は有柄で1回3出する。花茎は20〜30cm、花は1個、萼片は5個、早春に現われ、初夏には枯れる早春季植物。本州、四国、九州に分布、林縁や林床に生える。県内では丹沢、箱根、三浦半島を除く地域では広く分布するが少ない。


ウメバチソウ、イチリンソウの分布図はそれぞれの記述の次のページに掲載されています。これらを見ると、ウメバチソウの場合は箱根・丹沢・三浦半島に分布を示す記号が付けられているのに対して、イチリンソウの場合は丹沢・箱根には分布を示す記号が付けられていません。こうした現在の分布からは、箱根で見られるのは「ウメバチソウ」の方であって「イチリンソウ」ではない可能性が高くなります。

箱根町のサイトでも「ウメバチソウ」は紹介されていても「イチリンソウ」は紹介されていません。その他、箱根の植物をまとめた幾つかの書物でも、「ウメバチソウ」は掲載されていても「イチリンソウ」が掲載されているものは探した範囲では見当たりませんでした。江戸時代まで遡った時には「イチリンソウ」が生息していた可能性を完全には排除できませんが、これらの地域に過去にイチリンソウが生息していたことを裏付ける史料は今のところ見当たらないので、「七湯の枝折」の「一輪草(うめばちそう)」は「ウメバチソウ」の方を指している可能性の方が高いと考えておくのが妥当でしょう。

そうなると、江戸時代には「ウメバチソウ」や「イチリンソウ」はどの様に認識されていたのか、「七湯の枝折」上でだけ混用されていて、当時の人たちにもこれらが別の植物であったことが良く知られていたのか、それとも当時の人々には両者の違いがあまり理解されていなかったのかが疑問点として浮かんできます。この点を考えるのは容易ではありませんが、差し当たって幾つかの本草学の文献に当たってみることにしました。

まず、「大和本草」にはこの2つの植物についてそれぞれ次の様に記されています。磯野直秀氏によれば(リンク先PDF)、この「大和本草」が「うめばちそう」について記された初出ということになる様です。
  • 梅バチ(卷七)

    小草にて花白し好花なり盆にうへて雅玩とすへし花のかたち衣服の紋につくるむめばちのことし叡山如意カ嶽にあり攝州有馬湯山に多し俗あやまりてこれを落花生と云落花生は別物なり

  • ()(卷七)

    葉はツタに似て莖の長二寸はかり冬小寒に始て葉を生じ立春の朝花忽ひらく一莖に一花ひらく花形白梅に似たり夏は枯る他地に植ふれは花の時ちがふ

(何れも「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種名・地名を除いてカタカナをひらがなに置き換え)


ここでは「一花草(いちげそう)」という名称になっていますが、その解説の内容から見て現在のイチリンソウを指すと見て良さそうです。どちらも梅に似た白い花をつけるものの、花期が異なることを記しています。「梅バチ」は比叡山や有馬温泉に多いとしていますが、関東の分布について触れられていないのは著者の貝原益軒が基本的には西で活躍した本草学者だったからかも知れません。

注目されるのは、どちらもその欄外に「和品」と記されていることです。実際はウメバチソウは日本以外でも北半球に広く分布していますから、必ずしも日本の固有種ではない筈なのですが、益軒としては漢籍にこの植物に該当する記述を見つけられなかったということになるでしょうか。他方のイチリンソウの方は本州・四国・九州に分布しており、こちらは日本の固有種です。

一方、「和漢三才図会」には「梅鉢草」の項があり、そこには次の様に記されています。

梅鉢草(むめばちさう)

俗稱(  )本稱未詳

今以梅花衣服之文ンテ梅鉢故名

△按梅鉢草四五寸葉略團厚少シテ而靑色帶ミヲ三月開白花單葉ニシテタリ梅花風樓草夏雪草梅鉢草一輪草之花皆似タリ一輪草葉似風樓草葉三月開單白花

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)


ここでは「一輪草」と花が良く似ていることが記されています。言い換えれば、著者の寺島良安も「梅鉢草」と「一輪草」が別の植物であることを認識していたことになります。しかし「和漢三才図会」にはこの「一輪草」に該当する項目がありません。「一輪草」については「梅鉢草」の項目の末尾に簡略に示されているのみということになります。そして、「本称未詳」と記されているということは、「和漢三才図会」が手本とした「三才図会」は勿論、それ以外の漢籍、つまり中国の文献に該当するものを見出せずにいたことを示しています。

これら2つの書物の記述からは、江戸時代初期には既に「うめばちそう」と「いちりんそう」が、それぞれ秋と春に花をつける別の植物であることを識別していたことが窺えます。但し、「うめばちそう」が漢籍に該当するものがない、あるいは該当するものが見つからないでいるという見解をもっていたことになります。「七湯の枝折」でも「但し秋草にて仲秋の比をさかりとす」と記しており、その特徴からはやはり「うめばちそう」と呼ぶべき植物であったことになります。

これらに対し、「大和本草」や「和漢三才図会」よりは時代が下る「本草綱目啓蒙」では、ウメバチソウに該当しそうな項目を見出すことが出来ません。イチリンソウに該当しそうな項目としては、訓に「大和本草」でも取り上げられた「いちげそう」を含んでいる次の項目を挙げることになります。実際、イチリンソウが「本草綱目啓蒙」に掲載されているとしている植物図鑑のサイトも存在しています。

佛甲草

總名マン子ングサ ツルレンゲ イツマデグサ ステグサ丹波 イハマキ同上 ノビキヤシ雄泉州/雌大和本草 子ナシグサ雄大和本草/雌勢州 ハマヽツ雄紀州播州/雌豫州 イミリグサ雄豊後/雌豊前

雄名イチゲサウ大和本草 テンジンノステグサ藝州 ステグサ紀州 シテグサ豫州 ツミキリグサ筑前 チリチリ南部 タカノツメ勢州龜山 ホットケグサ同上山田 ホトケグサ同上内宮 子ナシカズラ和州 江戸コンゴウ防州 ミヅクサ阿州 セン子ンサウ讚州 ヒガンサウ泉州 マムシグサ伯州 イハノボリ同上 ナゲグサ越後 マツガ子江州彦根 カラクサ同上守山

雌名イチクサ三才圖會 マンネンサウ同上 コマノツメ勢州 イチリクサ津輕 フヱクサ秋田 コヾメグサ防州

路旁陰處林下水側に多く生す雄なる者は苗高さ六七寸叢生す葉細くして厚く末尖り長さ八九分黃緑色三葉ごとに相對す莖を切り捨て枯れす自ら根を生す四五月梢に花を開く五瓣黄色大さ三分許多く枝に盈て美し苗は冬を經て枯れず

(後略)

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、種命以外のカタカナをひらがなに置き換え、書き込みは原則省略、強調はブログ主)


もっとも、この「仏甲草」については中国語では「マンネングサ」を指すことになる様なので、小野蘭山がこの項に日本国内で見られる、そして「大和本草」が指摘する「いちげさう」を宛てた点については少なからず疑問の余地があります。その様なこともあってか、イチリンソウを「仏甲草」と表記した例は今のところ他に見出すことが出来ません。実際、黄色の花が咲くとしている点もイチリンソウの特徴とは合っていません。また、雄花と雌花がある様にまとめているなど、この項目での「いちげさう」以外の日本国内各地の和名のまとめ方についても、果たしてこの通りに解して良いかは検証が必要と思います。

「畫本野山草」より「一里ん草」
橘保國「畫本野山草」より「一里ん草」(右)
次のページに解説があり
「梅花草」と似ていることが記されている
但し「梅花草」は「畫本野山草」には採録されず
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
因みに、江戸時代初期の花譜である「花壇地錦抄」(伊藤伊兵衛(三之丞) 元禄8年・1695年)には、「うめばちそう」と思われる項目は掲載されていないものの「いちりんそう」については

一りん草 花しろし小草なり一本ニ一りんつゝ花咲

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、合略仮名は仮名に展開)

と記されており、「大和本草」の記述ともども江戸時代初期にはその存在が知られていたことがわかります。

こうして見て行くと、江戸時代には「うめばちそう」と「いちりんそう」を、花期の違いで識別するだけの知見が存在していた可能性の方が高そうです。とすると、「七湯の枝折」の「一輪草(うめばちさう)」という表記の混乱は、箱根山中での呼称一般に生じていたものが反映し、それを後で訂正したものか、あるいは「七湯の枝折」上でのみ表記を取り違えたことになりそうです。ただ、実際はそのどちらであったのかは、まだ明らかではありません。箱根について、特に芦之湯について書き記された他の史料に、この植物が登場する例があるかどうかを探す必要があり、今後の課題ということになります。

箱根七湯志より梅草
「箱根七湯志」より「梅草一名一輪草」の図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
コントラスト強調)
なお、幕末の「箱根七湯志」(間宮永好著)には「うめばちそう」について

梅草一名は一輪草ともいへり莖一つに花一つなり形花梅花のごとし

(「国立国会図書館デジタルコレクション」より、カタカナをひらがなに置き換え)

と記した上でうめばちそうの線画を載せています。しかし、この線画は「七湯の枝折」の挿画と良く似ており、恐らく「七湯の枝折」を参照して筆写したものと考えられます。線画周囲の空白の大きさからは、永好自身がウメバチソウを見ていれば何らかの追記が試みられたのではないかとも思われるものの、彼自身がこの花を見ることは叶わなかったのかも知れません。

「ウメバチソウ」については現在は神奈川県の2006年版レッドデータブック上で絶滅危惧ⅠB類に指定されています。県内で見掛けるのはますます難しい花になりつつあるのは確かな様です。

ウメバチソウ Parnassia palustris L. var. mulutiseta Ledeb. (ユキノシタ科)

県カテゴリー:絶滅危惧ⅠB類(旧判定:減少種 V-H)

判定理由:神植誌88および2001の調査では14地域メッシュで採集された。このうち11地域メッシュからは1995年以後の確認がない。地域メッシュ単位で79%の減少と考えられる。定量的要件Aより絶滅危惧ⅠB類と判定される。

生育環境と生育型:湿地や湿った草地に生える多年草

生育地の現状:不明

存続を脅かす要因:自然遷移、草地開発

保護の現状:県西のものは国立公園、国定公園、県立自然公園内

県内分布:(横浜市青葉区、相模原市緑区、箱根町、秦野市、南足柄市、川崎市多摩区、山北町、横須賀市、湯河原町)

国内分布:北海道、本州、四国、九州

(上記書103ページより、県内分布については地域を示す記号を市町名に置き換え)

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「七湯の枝折」の「米つつじ」

昨年の5月頃に、「七湯の枝折」に掲載された産物の一覧から「釣鐘つゝじ」を取り上げました。今回は同じ「七湯の枝折」に掲載されたもう1つのつつじである「米つつじ」を取り上げます。

米[酋阝]躅 明ばん山ニ多く生ス

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 70ページより、字母を拾えない文字については[ ]内にその旁を示す)


「つつじ」の表記がここでは妙なことになっていますが、箱根町教育委員会のこの本の注では「躑躅(つゝじ)」とのみ記していますので、ほぼ誤記と見做して良いと考えているのでしょう。今回は、和名の「ハコネコメツツジ」以外は「米つつじ」とひらがなに展開して表記することにします。

「箱根七湯図絵」芦のゆ
歌川広重「箱根七湯図会」より「芦のゆ」
南から北を見る構図になっており
「明礬山」はこの絵の左上から右手中程にかけての
稜線の膨らんだ辺りに位置することになる
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より
画像を正位置に回転)
「明ばん山」については以前も何度か登場しましたが、箱根七湯のうち最も標高の高い芦ノ湯の北寄りに位置する「山」で、当時この地で明礬の精製を行っていたことからこの名があります。「米つつじ」はこの様な所に生息していたと記すものの、この植物についての具体的な特徴については何も記載がなく、また絵図も添えられていません。

「釣鐘つゝじ」の時にも当時の本草学や花譜などの書物に、この種に該当する記述が見られるかどうか探してみましたが、結局の所見当たりませんでした。今回の「米つつじ」の場合も「釣鐘つゝじ」で確認した書物をひととおりあたってみたものの、残念ながらこちらもそれらしき記述を見つけることが出来ませんでした。このため、当時の人がこの植物をどの様に見ていたのか、手掛かりが乏しいのが実情です。「七湯の枝折」と並んで箱根の当時の地誌とも言える「東雲草」(雲州亭橘才著 文政13年・1830年)にも、「米つつじ」に関する記述は見られませんし、更には「七湯の枝折」を参照しつつ更に独自の調査を書き加えようとしていたと見られる幕末の「箱根七湯志」(間宮永好著)でも、産物の項に「米つつじ」はありません。「七湯の枝折」の記述も詳細とは言えませんし、「米つつじ」は地元で存在は知られていてもさほど注目されてはいなかった、というところなのかも知れません。

「米つつじ」の存在がより広く認知される様になったのは、明治時代に入ってこの植物の研究が始められてからです。「神奈川県植物誌2001」(神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊)ではその研究の経緯について次の様に記されています。


ハコネコメツツジ  Rhododendron tsusiophyllum Sugim.; Tsusiophyllum tanakae Maxim., Rhodod. As. Or.12, t.3, f.1-8(1870)の基準産地は箱根

落葉または半常緑の低木で、茎は倒伏して地面をはうようにして、多数分枝し、高さ60cmに達する。葉は楕円形または倒卵状楕円形、小型で長さ4〜12mm、やや質厚く、密に互生する。表面は伏せた毛があり、裏面の脈上および縁辺に褐色の毛がある。花は6〜7月、花冠は白色、筒状鐘型で外面に毛がある。雄しべは5本、花冠から突き出ない。葯は縦裂し、花糸に毛がある。本種はコメツツジあるいは同一系統の祖先より火山裸地に適応、分化した種と考えられ、箱根に分布の中心がある。北は秩父山地から南は御蔵島まで分布し、ブナ帯の風当りの強い岩場に生える富士火山帯の特産種、フォッサマグナ要素の代表種である。1870年にロシアのマキシモウィッチが、花が筒型で葯が縦裂する形質を重視して、新属新種Tsusiophyllum tanakae Maxim.として記載した。のち大井次三郎(1953)は葯の縦裂はツツジ属中の異端種にすぎないと考え、ツツジ属に併合する学名R. tanakae (Maxim.) Ohwiをつくった。しかし、杉本順一(1956 植研31:63-64)はこの学名が台湾のアリサンシャクナゲR. tanakai Hayataに使われていることを指摘し、R. tsusiophyllumを提唱した。また最近、高橋・勝山ら(1992、1998)はハコネコメツツジとオオシマツツジの雑種とされたコウズシマヤマツツジについて研究し、それを裏付ける成果を発表した。本誌ではツツジ属に含める説を支持する学名を採用した。なお「植物の世界63:92」に、永田芳男は本州産でハコネコメツツジとヤマツツジの自然雑種を見出し、カラー写真で紹介している。ハコネコメツツジは箱根町のシンボルとして、天然記念物に指定し保護している。

(上記書1099〜1100ページより、強調はブログ主)


箱根温泉道:足柄下郡中の各村の位置
箱根温泉道:足柄下郡中の各村の位置(再掲
この植物の標本が箱根から持ち帰られたこともあって、以降の和名では「ハコネコメツツジ」と箱根の名を冠する様になりました。論文が発表された1870年は西暦で書かれているとあまり違和感がありませんが、和暦に直せば明治2年から3年、これほど早い時期に箱根でもあまり記録が見られなかった植物の研究が海外で公表されているとなると、この外国人が一体どういう経緯で「米つつじ」の標本を手に入れたのかが気になってきます。「米つつじ」が「明礬山」で見られると「七湯の枝折」が記していることと考え合わせると、これまで紹介してきたハコネサンショウウオ石長生の様な例とは異なり、江戸時代にも外国人の往来があり得た東海道筋からはかなり隔たっていますから、たまたま通りすがった道すがらに見出すといった経緯では標本を入手出来なかった筈です。今回はこの経緯をもう少し掘り下げてみます。

神奈川県植物誌2001」上では「マキシモウィッチ」と表記されていますが、一般にはドイツ語風に「w」を「v」の発音に読んで「マキシモヴィッチ」と表記されていることが多い様です。カール・ヨハン・マキシモヴィッチはロシア国籍のバルト・ドイツ人の植物学者で、幕末に日本が開国されたことを知ってその植物調査のために来日、滞在しています。彼と箱根の関わりについては、北海道大学総合博物館の2010年の企画展示の図録に解説されていました。

1861年 1月末に横浜に向けて箱館を出港したマキシモヴィッチと長之助は12月1日に横浜に着く。横浜周辺で若干の採集をした後、すぐ12月末に長 崎に向けて出港、翌1862年1月初めに長崎に着いた。長崎周辺で採集をし、この時に2回目の来日をしていたシーボルトに会ったとされる(井上 1996)。 しかしこの年3月末には早くも長崎を出港し、1862年4月初めには江戸に到着し、再び長崎に向けて出港する12月中旬まで江戸周辺や箱根、富士山で採集している。この年1862年の12月21日には再び長崎に舞い戻り、翌年1863年の12月末まで長崎に滞在し、採集は九重山、阿蘇山、熊本、島原などに及んでいる(井上 1996)。これら1862年の関東地方、1863年の九州では、物情騒然としている時期でもあり、長之助を派遣して採集させたことが多かったようである(ファインシュタイン 2000)。1863年12月末に長崎を出港して翌1864年1月9日に江戸に到着した。ヨーロッパへ旅立つのはその年の2月1日なので、1ヶ月余りで標本等の整理を行い、さく葉標本72箱を持ち帰ったという(井上 1996、須田 2010)。

(「マキシモヴィッチと長之助、宮部の出会いと別れ」高橋英樹著、「マキシモヴィッチ・長之助・宮部:北海道大学総合博物館企画展示「花の日露交流史—幕末の箱館山を見た男」図録」8ページより、強調はブログ主)


ここで登場する「長之助」とは須川長之助のことで、陸中の出身だった彼はちょうど函館に渡ってきたマキシモヴィッチと知り合って彼の助手として活動する様になります。従って、マキシモヴィッチは勿論、長之助も箱根をはじめとする関東はこの時に初めて訪れており、必ずしも一帯の地理に長けていたとは考え難い状況だったことになります。

彼らが箱根を訪れた1862年は文久2年に当たりますが、この年の旧暦8月21日にあの「生麦事件」が起きていることを考えれば、外国人が安易に地方へと入っていける世情ではなかったことは容易に察しがつきます。長之助を派遣することが多かったというのはそういう世情を考慮すれば理解できるところで、箱根へ向かったのは長之助だけであった様です。上記で引用した企画展示の図録には、この時に長之助が採集したというハコネコメツツジのタイプ標本の写真が掲載されています(同書35ページ、PDFでは40ページ)。なお、この頃は幕府が外国人が自由に旅行できる地域を制限しており、箱根はその地域に入っていませんでしたが、マキシモヴィッチの場合は植物調査という名目がありましたから、許可さえ得られれば彼も箱根まで入っていくこと自体は可能だった筈です。

上記の通り箱根に入っていった須川長之助もこの土地には不慣れであったでしょうし、元より外部の人間が村落に入っていくことには慎重な時代である上に、幕末のきな臭い世情も重なっていることを考えれば、当然地元の人々の案内なしに箱根で植物調査を行うことは不可能だった筈です。

とすれば、この「米つつじ」の存在について長之助が気付いた背景には、地元の人の手引きがあった可能性が少なくないと思います。具体的に誰が彼を案内したのか、そしてその案内者が「七湯の枝折」に「米つつじ」が記されていることを意識していたかは不明ですが、明礬山に長之助を手引きして「米つつじ」を紹介した人がいたのだろうと思います。


「Rhododendrae Asiae Orientalis」の該当箇所(Googleブックスより)
因みに、マキシモヴィッチがハコネコメツツジについて最初に紹介したのは「Rhododendreae Asiae Orientalis(東アジアのツツジ属)」という論文中でした。当時の慣習に従ってこの論文もラテン語で記されており、私もGoogleの翻訳サイトで概略の意味を掴むのがやっとですが、流石に「Hakone」などの日本語が記されている箇所は理解できます。

マキシモヴィッチが提唱したハコネコメツツジの学名には「Tsusiophyllum tanakae」と「田中」の名前が記されており、この論文でも日本の田中という植物学者の協力があったことを記しています。当時の植物学者として田中姓ということであれば田中芳男を最初に挙げることが出来ますが、実際に田中芳男を標本採集者と記している論文(リンク先PDF)も見つけました。これは北海道大学総合博物館の指摘と上手く噛み合いませんし、田中芳男の「富士紀行」で富士山や箱根を訪れたのは明治4年(1871年)、それ以前に関東各地に遠征しているのは慶応2年(1866年)にパリ万国博覧会に出展する昆虫の採集であったことから考えると、田中芳男が標本採集に直接関与したのかは良くわかりません。ただ、マキシモヴィッチが関東に滞在していた当時には幕府の参与であった田中芳男が、「ハコネコメツツジ」をマキシモヴィッチが発表するまでの間に何らかの形でマキシモヴィッチに協力していたことは確かです。例えばその役職からは、長之助が箱根に植物採集に出掛ける際に、往来に支障がないように手形を出すなどの支援をしていた、といったことも可能性として考えられると思います。

何れにせよ、マキシモヴィッチが「ハコネコメツツジ」を発表するまでの経緯は、それまでケンペル、トゥーンベリ、シーボルトらが持ち帰っていた植物とはやや異なる形でヨーロッパに持ち帰られ、新たに研究される様になったという点で、その標本採集の転換期にあったことを象徴する植物の1つであったと言うことが出来そうです。

マキシモヴィッチも上記の論文でこの植物が希少(planta rara)であることを既に記していますが、現在はハコネコメツツジは国のレッドデータブックでも、更には神奈川県のレッドデータブックでも「絶滅危惧Ⅱ類」に指定されています。また、県のレッドデータブック2006年版ではハコネコメツツジ群落についても取り上げられています。

ハコネコメツツジ  Rhododendron tsusiophyllum Sugim.(ツツジ科)

県カテゴリー:絶滅危惧Ⅱ類(旧判定:希少種)国カテゴリー:絶滅危惧Ⅱ類

判定理由:箱根と丹沢の標高1000m以上の風衝地岩場に生え、総個体数は1000株未満と推定され、定量的要件Dより絶滅危惧Ⅱ類と判定される。

生育環境と生育型:ブナ帯の風衝地岩場に生える常緑低木

生育地の現状:変化なし

存続を脅かす要因:園芸採取

保護の現状:国立公園、国定公園

県内分布:(箱根町、秦野市、松田町、南足柄市、相模原市緑区、山北町)

国内分布:北は秩父山地から南は御蔵島まで

文献:神植誌2001 pp. 1099-1101.

特記事項:Tsusiophyllum tanakae Maxim. Rhodod. As. Or.12, t.3, f.1-8 (1870) の基準産地は箱根

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編 2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 114ページより、県内分布は記号で羅列されているものを市町名に置き換え)


ハコネコメツツジ群落 Rhododendron tsusiophyllum community (16044)

判定理由:国RDB(神奈川)、RD植物、原記載地、既報告、複合構成

存続を脅かす要因:園芸採取

県内の分布:丹沢・箱根のブナ帯の風当たりの強い岩角地に分布する。

特記事項:植物社会学的な植生単位(群集)としてはオノエラン—ハコネコメツツジ群集が報告されている。オノエラン—ハコネコメツツジ群集は箱根で記載された植生単位で(『箱根・真鶴』)、その原記載地としても重要である。種としては絶滅危惧Ⅱ類とされる。箱根の植分としては田中(1994)による現況報告がある。

(同書186ページより)

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中原御殿にまつわる「醋」と「雲雀」:「新編相模国風土記稿」から(その3)

前回に引き続き、今回も「新編相模国風土記稿」の山川編にのみ中原御殿にまつわる産物のうち、「雲雀」について見ていきます。

では、雲雀は鷹狩の獲物としてはどの様な位置づけにあったのでしょうか。今回はあまり深入り出来ませんが、江戸時代の鷹狩では、御鷹の献上やその獲物の下賜といった、贈与の秩序に意味がありました。この課題を考える上で、今回は江戸時代の鷹狩に付いて書かれた諸物を幾つか参考にしました。
  • 鷹場史料の読み方・調べ方」村上 直・根崎 光男著 1985年 雄山閣出版
  • 鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」岡崎 寛徳著 2009年 講談社選書メチエ
前者は鷹狩に関する文書が影印とともに多数収められており、文書の読解演習に使う教科書という側面もある本です。その点では若干敷居が高い面もありますが、鷹狩についてどの様な文献が現存するかについて俯瞰出来る良書です。後者はむしろ一般的な読者に向けて書かれた本で読みやすく、しかし史料の紹介も多いので江戸時代の鷹狩について理解する最初の段階で読むのに適しています。

まず、将軍の鷹狩で得られる獲物を下賜する際のランク付けを記した文書を紹介しているものを引用します。

いずれにせよ、細部にわたる検討は必要であるが、鷹狩による獲物の分配を通して、一定の秩序が存在したことは事実である。実際、「柳営秘鑑」には「御鷹の鳥巣鷹等拝領之次第」と題するものがある。

一御鷹之鶴拝領、御三家、松平加賀守被下之、御三家上使、両御番頭、加賀守江者、御使番被遣、松平陸奥守、松平大隅守、在府之節、享保十四年初拝領被仰付、其外在国之国持衆、壱年弐三人程宛、有次第以宿次被下之

一御鷹之雁、雲雀、御家門、国家之(主カ)面々、准国主四品以上、在府之時節により、右両品之内、壱通り被下之、四品以下之外様之大名も、家に寄拝領之、南部修理大夫被下之、御譜代衆雖小身、城主以上被下之、何も上使御使番勤之

一右雁、雲雀、老中松平右京大夫、石川近江守、若年寄衆、有馬兵庫頭、加納遠江守、何も於御座之間被下之、御奏者番、寺社奉行、詰衆、於殿中拝領之、老中被伝之、京都諸司代、宿次を以被下之

一御三家、御在国之時、招家来、於殿中鶴被遣之

このように、格式に応じて拝領する鳥の種類も違ってくるのであり、その差は拝領に伴う使者にまで及んでいる。同様な事情は「青標紙」のなかの「御鷹之鳥来歴之事」にも述べられている。

(「鷹場史料の読み方・調べ方」178〜179ページより、強調はブログ主)


ここで「御鷹之鳥」「御鷹之鶴」などと記されているのは、将軍の所有する鷹が捕えた獲物を指しています。この文書に従えば、徳川御三家などに下賜される最上位の品とされていたのは鶴、次いで雁で、雲雀はその次に位置づけられる獲物であったことになります。

これらのうち、鶴や雁はその性質上1回に獲れる数が限られるのに対し、雲雀は一度に多数の猟果を得ることが可能であったことが、次の例でも明らかです。

しかし、甲府・館林および御三家と、他の徳川一門の間には、下賜の待遇に違いがあった。その例として、正保元年(一六四四)七月二十日における下賜を取り上げよう。この日は御三家・越前福井藩主松平忠昌・金沢藩主前田光高の五人に「御鷹之雲雀」(将軍の「御鷹」による鷹狩で捕獲した雲雀)が下賜された。その雲雀の数は、御三家が五十羽、忠昌・光高は三十羽である。また、それぞれの使者に立った者の役職は、御三家が書院番頭であるのに対し、忠昌・光高は使番がつとめた。

つまり、同じ日に同じ種類の鳥を下賜されているのだが、鳥の数と使者の役職が異なっている。これは、下賜される者の格の違いによるもので、同じ将軍家の一門であっても、御三家などは上格に位置づけられていたのであった。

(「鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」41ページより)


将軍から下賜される雲雀の数が、各家とも数十羽の単位であることから、この5家に下賜された分だけでも210羽の雲雀が狩られていることになります。実際はこの下賜に先立ってもっと多数の雲雀が狩られ、将軍家側で食された分などもあるでしょう。また、鷹が捕えた雲雀のうちの一部は、次の引用にも見られる通り、「くはせ」と呼ばれて鷹の餌になりました。

そして、次の例ではもう少し時代が下って享保年間の鷹匠(たかじょう)同心の日記が解説されていますが、ここでは将軍の御鷹を扱う鷹匠が関東各地へ遠征して多数の雲雀を狩っています。この時はその大半を江戸へと送っていますが、一部は狩りをした鷹に与えていることがわかります。

享保期の鷹匠同心に、中山善大夫という人物がいる。中山は職務に関する日記を書き残しており、その写本が宮内庁書陵部に伝来する。将軍所有の「御鷹」を預かり、江戸近郊で鷹狩を行うなど、専門技術者としての活動を知ることができる。本節では、この日記から鷹匠同心と将軍「御鷹」の動向を追っていくことにしよう。

享保八年(一七二三)…中山は七月一日に「渋山御(はいたか)」(注:鷹の名前)を受け取った。同月十一日から二十九日まで、「野先」を巡ったが、この時は上総の茂原村に達している。その往復、「渋山」は雲雀の捕獲を繰り返し、その数は四十二羽に上った。

中山善大夫の動きは、享保九年(一七二四)になると、より慌ただしくなっている。

同年五月二十八日、中山は「檜皮水山御鷂」を預かった。早速、六月十一日の夕刻から「野先」へ出立し、一ヵ月後の七月十二日に江戸へ舞い戻っている。

向かった先は武蔵の西部で、六カ所で宿泊している。最初に逗留した①小金井村では、光明院を宿とした。六月十五日には②芝崎(柴崎)村に至り、組頭の次郎兵衛宅に泊まっている。二十一日には③八王子町、二十四日には④木曾村に到着した。二十九日には⑤磯部村に「宿替」し、源左衛門方に宿泊した。さらに、七月三日から⑥小山村に逗留し、五日に再び②芝崎村の次郎兵衛宅を宿とし、十二日にそこから江戸への帰路を取った。現在の市域でいうと、東京都の①小金井市・②立川市・③八王子市・④町田市、神奈川県の⑤相模原市・⑥横浜市緑区にあった村々である。

そうした村々を拠点として、中山は鷹狩をほぼ毎日行った。しかも、雲雀を数多く捕獲し、その総数は三百八十二羽に及んだ。

享保十年四月十七日から五月五日にかけて、中山は再び相模へと向かった。川崎領鶴見村、神奈川領下野川村、相州藤沢町、神奈川町、神奈川領西寺尾村を回るルートである。

享保十一年(一七二六)…六月十八日に「六厩」の鷂を受け取った中山は、七月十五日から下総・上総方面を巡った。江戸に戻ったのは八月六日なので、この時も、およそ一ヵ月間の巡回であった。

下総の馬加(まくわり)(幕張、現千葉市)村から千葉村を経て上総に入り、久保田村(現袖ヶ浦市)や皿木村(現長生郡長柄町)などを「宿替」して、七月二十九日には東上総の茂原村に至った。そこから西へ向かい、潤井戸(うるいど)村(現市原市)や検見川(けみがわ)村(現千葉市)を通り、小岩田村(現江戸川区)から八月六日に江戸へ帰った。

その間に捕獲した雲雀の総数は、二百三羽に及んだ。この中から、「上鳥」と「くわセ」に分けられ、前者は江戸城へ運ばれ、後者は鷹の餌となった。

(「鷹と将軍—徳川社会の贈答システム」172〜181ページより、一部ルビと注をブログ主が追記、…は中略)


かなり飛び飛びの引用になりましたが、雲雀の捕獲数が何れも数百羽に及んでいるのが目につきます。これらは各地の鷹場を巡りながらの猟果ですから1箇所でのものではないとは言え、それでも相当な数の雲雀が例年捕獲されていたことになります。無論、これだけの数の雲雀を全て将軍だけが食するとは考えられませんし、大奥でもこれらを振る舞いつつ、上記の様な例に倣って適宜下賜されていたのでしょう。

また、ここで登場する地名の中には、高座郡小山村、藤沢宿、あるいは上記の引用からは外しましたが高座郡鶴間村(現:相模原市南区)・大庭村(現:藤沢市)・下町屋村・矢畑村(以上現:茅ヶ崎市)や三浦郡秋谷村(現:横須賀市)・下宮田村(現:三浦市)、鎌倉郡下倉田村(現:横浜市戸塚区)といった地名が見られます。相模国でも比較的江戸から離れた土地まで足を伸ばして鷹狩が度々行われ、その獲物の中に雲雀も入っていたことが窺えます。


藤沢市・境川の「鷹匠橋」(ストリートビュー

こうした例を見ると、雲雀は鶴や雁鴨に比べると位置付けが低く見做されていたものの、より多数の獲物を下賜する必要がある局面ではむしろ最上位に位置づけられていた、と考えることも出来そうです。そして、将軍の御鷹を携えた鷹匠が関東一円に出張して狩っていた鳥の1つが雲雀であり、その点では家康の鷹狩時の宿泊施設であった中原御殿が「雲雀野の御殿」と称されるのも、あながち故無いこととは言えません。

ただ、残念ながら今のところ、中原に来た家康が鷹狩で仕留めた獲物として書き記されたものの中に、雲雀の名前を見出す事は出来ません。「徳川実紀」には辛うじて

御鷹野の折。雲雀の空たかくまひあがるを見そなはして。
のほるとも雲に宿らし夕雲雀遂には草の枕もやせん
とよませ給ひしが。その雲雀俄に地に落しとなん。

(東照宮御実紀附録巻二十二、J-texts版より)

という、鷹狩中に家康が詠んだとされる短歌が収められているものの、どの鷹場で詠まれたかは不明です。未見の史料に家康の狩った雲雀の記載がある可能性はありますが、家康の鷹狩での猟果では鶴など特に重要なものが書き留められる傾向はあったので、雲雀の様に大量に捕獲される鳥については必ずしも記録の対象とならなかったのかも知れません。

また、上記の中山善大夫の様に関東各地の幕領で将軍の御鷹を使って鷹狩に巡回していた鷹匠が、かつての家康の御鷹場の1つであった中原まで足を伸ばして雲雀を狩っていたという記録も、今のところ私は未見です。無論、私がまだ見つけ損ねているだけの可能性も高いですし、特に家康の鷹狩の記録という点では、やはり鶴などより上位に位置づけられる獲物の記録の方が優先されがちということで、記録になくても実際は雲雀も狩っていた可能性も高いでしょう。しかし、「風土記稿」が「雲雀野の御殿」の名称については地元の人がその様に呼んでいるという記述をしているところを見ると、あるいは昌平坂学問所でも中原での雲雀の猟果を具体的に確認していた訳ではなく、単に地元の呼称をそのまま記しただけだったのかも知れません。その点で、「風土記稿」山川編の産物に「雲雀」が書き加えられたのは、飽くまでも中原御殿の由緒に結び付いているというその1点に留まっており、雲雀が産物として記される上で考えるべき具体的な用途面の裏付けは今のところ乏しいということになるでしょう。

鷹狩では大量に狩られることもあった雲雀ですが、鷹場に指定された地域では村民が野鳥を狩ることが禁じられていましたし、「本朝食鑑」の記述も基本的には将軍や大名が珍重していたことを記しています。従って、恐らく、この時代の鷹狩による採集圧が雲雀の生息数に与えた影響はかなり限定的であったのではないかと思います。

一方で、最初に書いた通り、今では鳥獣保護法の規定によってヒバリが狩猟されることはなくなりました。従って、狩猟によってヒバリの生息数が減るということはなくなった筈ですが、神奈川県ではヒバリは「レッドデータブック2006年版」で「減少種」とされています。特に都市化の著しい地域で田畑などヒバリの生息に必要な環境が失われていることが、個体数の減少に繋がっていると見られています。

ヒバリ Alauda arvensis Linnaeus (ヒバリ科)

県カテゴリー:繁殖期・減少種(旧判定:繁殖期・減少種H、非繁殖期・減少種H)

判定理由:県東部の特に都市部で分布域の明らかな減少がみられ、個体数も減少している。

生息環境と生態:留鳥として、広い草地のある河川敷や農耕地、牧場、造成地などに生息する。背の低い草本が優占し、ところどころ地面が露出する程度のまばらな乾いた草原を特に好む。背の高い草本が密生する場所や、湿地ではあまりみられない。繁殖期間は4~7月。イネ科などの植物の株際の地上、あるいは株内の低い位置に巣をつくる。抱卵期間は約10日、ヒナは約10日で巣立つ。オスは空中や地上で盛んにさえずる(陸鳥生態)。非繁殖期は数羽から十数羽の群で行動する。

生息地の現状:広い農耕地や、主として背の低い草本が生息する草原が開発によって減少、分断された。一方で、このような環境が残る地域では、現在も比較的安定した個体数がみられている。

存続を脅かす要因:都市化、草地開発、河川開発、農地改良

県内分布:留鳥として県内全域の平地に生息するが、一部の個体は非繁殖期に南方へ移動し、また北方から渡来する個体もいると思われる。

国内分布:留鳥、あるいは漂鳥として北海道から九州に生息する。南西諸島では冬鳥として生息する。

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編 2006年 神奈川県立生命の星・地球博物館 255ページより)


周辺地域では、東京都では都区部と北多摩、南多摩地域で絶滅危惧種Ⅱ類(西多摩地域で準絶滅危惧種)、千葉県では準絶滅危惧種相当に指定されていますが、これらも原因は同様で、市街化による生息環境の減少が影響していると見られています。

平塚市・豊田付近の一風景
平塚市・豊田付近の一風景
周辺に田畑が拡がり民家がないため
新幹線の軌道に防音壁が設けられておらず
16両(400m)の全編成がほぼ隠れることなく見えている
平塚市・豊田付近での「揚げ雲雀」
豊田付近で見られた「揚げ雲雀」
どちらも2011年5月撮影
(ExifデータにGPS情報あり:
閲覧できる方は場所を確認してみて下さい)


左の写真の撮影場所(「地理院地図」)
但し、かつて家康が鷹狩に訪れた豊田の辺りでは、今でも広い水田や畑が残っているため、ここではまだヒバリの姿を見ることが出来ているのも事実です。上の写真は私が5年ほど前にこの地を訪れて辛うじて撮影したもので、殆ど豆粒の様にしかヒバリの飛翔する姿が写っていませんが、この日は幾度となく「揚げ雲雀」の鳴き声を耳にすることが出来ました。地元の人がこうした雲雀の姿を見て、家康の由緒地をその名で呼んだ理由は、今でも充分確認できる状態にあると言えるでしょう。

そして、「成瀬醋」の方もこの地で産した米を使ったと考えられることを考え合わせると、「風土記稿」に取り上げられた2つの「産物」の共通項は「中原御殿」にのみあった訳ではなく、むしろこの景観の方に強い関係があるのではないかとも思うのです。
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