「浦賀道」カテゴリー記事一覧

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島崎藤村「夜明け前」と公郷村と浦賀道

前々回の記事に対して、たんめん老人さんから島崎藤村「夜明け前」に出て来る公郷村についてコメントをいただきました。そこで今回はその補足として、「夜明け前」の題材となった公郷村の名家や浦賀道について少しまとめてみます。

「夜明け前」は幕末から明治にかけての木曽路・馬籠宿の本陣家の当主、青山半蔵を主人公に据えた小説です。藤村自身が馬籠宿の本陣家の末裔であり、半蔵は藤村の父がモデルであるとされていますが、木曽山中の宿場が主な舞台となったこの小説に相州の漁村が登場するのは、この長編小説の中で安政年間を書いた第一部第二章の中です。この本陣家を訪れた山上七郎左衛門という人物が、隣の妻籠宿の本陣に泊まった際にその2つの定紋が自身のものと同じであることに気付いたことから、馬籠・妻籠の青山家の先祖が元は三浦の山上家から分かれてこの地に移ってきたことを知り、半蔵がはるばる公郷の地まで先祖の出身地を訪れる、という筋になっています。

木曽路から江戸を経て東海道を進んだ半蔵一行は金沢まで陸路を進み、そこからは海路で横須賀へと向かい、上陸して程なく公郷村の山上家の屋敷に到着します。小説から当時の景観が参考にされたと思われる箇所を抜き出してみます。

…三人はこんなことを語り合いながら、金沢の港から出る船に移った。

当時の横須賀はまだ漁村である。船から陸を見て行くことも生まれて初めてのような半蔵らには、その辺を他の海岸に比べて言うこともできなかったが、大島小島の多い三浦半島の海岸に沿うて旅を続けていることを(おも)って見ることはできた。ある(みさき)のかげまで行った。海岸の方へ伸びて来ている山のふところに抱かれたような位置に、横須賀の港が隠れていた。

公郷村(くごうむら)とは、船の着いた漁師町(りょうしまち)から物の半道と隔たっていなかった。半蔵らは横須賀まで行って、山上のうわさを耳にした。公郷村に古い屋敷と言えば、土地の漁師にまでよく知られていた。三人がはるばる尋ねて行ったところは、木曾の山の中で想像したとは大違いなところだ。長閑(のどか)なことも想像以上だ。ほのかな鶏の声が聞こえて、漁師たちの住む家々の屋根からは静かに立ちのぼる煙を見るような仙郷だ。

半蔵の前にいる七郎左衞門は、事あるごとに浦賀の番所へ詰めるという人である。この内海へ乗り入れる一切の船舶は一応七郎左衞門のところへ断わりに来るというほど土地の名望を集めている人である。

松林の間に海の見える裏山の茶室に席を移してから、七郎左衞門は浦賀の番所通いの話などを半蔵等の前で始めた。…

夕日は松林の間に満ちて来た。海も光った。いずれこの夕焼けでは翌朝も晴れだろう、一同海岸に出て遊ぼう、網でも引かせよう、ゆっくり三浦に足を休めて行ってくれ、そんなことを言って客をもてなそうとする七郎左衛門が言葉のはしにも古里の人の心がこもっていた。まったく、木曾の山村を開拓した青山家の祖先にとっては、ここが古里なのだ。裏山の(がけ)の下の方には、岸へ押し寄せ押し寄せする潮が全世界をめぐる生命の脈搏(みゃくはく)のように、()をおいては響き砕けていた。半蔵も寿平次もその裏山の上の位置から去りかねて、海を望みながら松林の間に立ちつくした。

(青空文庫版より、…は中略、強調はブログ主)


無論、小説ですから何れも氏名は変えられているのですが、この公郷の名家にもモデルが存在します。島崎家も実際に三浦一族の末裔で、同じ三浦一族の中で永嶋姓を名乗った3代目の正義の弟、正胤が木曽で島崎姓を名乗る様になったという関係にあります。永嶋家については「新編相模国風土記稿」でも

◯舊家庄兵衛 里正なり、家號を永島と云ふ、家系一卷を藏す 其略に先祖三浦大田和平六兵衛義[勝]、新田義貞鎌倉を攻るの時先陣を承りて武功を顯す按ずるに、【太平記】に… 後相模次郎時行に從ひ、足利尊氏と戰ひ又楠正成の手に屬す、…義藤の子平太郎義政故ありて家號を永島と改む、…正重後出雲守と稱す、北條氏茂に隨ひ浦奉行を勤、其子庄太郎正氏後出雲守永正十七年家を襲ぎ濱代官海賊役を勤む、永祿七年國府臺合戰に氏綱に隨て軍功あり、天正四年二月死す、其子庄司正朝母は正木兵部大輔が女なり、天文十五年より父と同じく濱代官海賊役を勤む家藏天正十三年七月、北條氏より田津濱代官に與る文書あり、此頃當所の内三十五貫二百五十文の地を與へらる家藏永祿六年癸亥十二月の文書に見ゆ、天正二年正朝左京亮となる同十八年小田原に籠城して討死す、其の子莊吾正資の時より村民となり、今の庄兵衛に至りて八代なり 松平肥後守容衆領分の頃軍船水主差配役を勤め、苗字帶刀を許さる、文政四年松平大和守矩典が領主たりし時も亦舊の如し、所藏古文書十一通あり

(卷之百十四 三浦郡卷之八 雄山閣版より、…は中略、なお[勝]については下記コメント参照のこと)

などと記されており、永年浜代官や水主(かこ)差配役といった、主に海に関係の深い役を代々務めてきた家柄であったことがわかります。上記の引用箇所をはじめ、半蔵に家系図をはじめとする文書を見せるくだりの設定にも、この永嶋家に伝えられているものが多々反映されています。

この永嶋家の屋敷の長屋門が現在も残されており、横須賀市の「風物百選」に指定されています。

永嶋家赤門

江戸時代の総名主・永嶋家の長屋門。朱塗りであることから赤門と呼ばれている。門扉は江戸時代のものと推定されるが、柱や桁などは新しく何度か改修されている。

永嶋家は三浦氏の子孫と伝えられ、戦国時代は小田原北条氏の支配下にあって浜代官を努め、江戸時代には名主を務め代々永嶋庄兵衛を名乗っていた。

島崎藤村の『夜明け前』にもこの永嶋家が「公郷村の古い家」として登場してくる。赤門の脇に文久2年(1862年)の浦賀道を示す円柱形道標があり「右大津浦賀道、左横須賀金沢道」と刻まれている。以前は今と反対側の磯浜の側の聖徳寺坂下にあった。

また今は米が浜で営業している料亭「小松」はこの赤門の前にあった。

横須賀市ホームページより)



永嶋家赤門の現状。手前の石の円柱が道標
ストリートビュー
永嶋家赤門と浦賀道の位置
永嶋家赤門と浦賀道の位置
(「地理院地図」上で作図したものを
スクリーンキャプチャ
明治期の低湿地」を合成)

この赤門と浦賀道の位置関係を、地形図上で「明治期の低湿地」の主題図を合成して作成しました。主題図の元になった迅速測図は三角点を用いた厳密な測量を行って作図したものではないため、現在の地形図とは精確に重ねることが困難になっており、特に三浦半島域内ではその傾向が強い様でかなり大きなズレを生じています。上記の永嶋家の屋敷があった辺りに海を示す濃い青が重なっているのはその影響ですが、少なくとも永嶋家の屋敷の敷地が直接海に面する場所にあったことが直感的にわかりやすいことから、敢えてこの図を選択しました。ともあれ、この付近の海面は大正年間に安田保善社によって大きく埋め立てられ、その周辺の海面も幾度かにわたって埋立地が拡大されていきました。日の出町、米が浜通といった現在の横須賀の中心街は何れもそれらの埋立地の上に築かれ、国道134号線もこの上にありますので、現在の景観や交通がこうした埋立事業よって大きく変貌したことは確かです。


従って江戸時代当時の景観や交通事情を考える際にはこうした地形の変遷を考慮する必要がありますが、浜代官など海の要職を代々務めたとされる永嶋家の屋敷が、かつては海に面する地に存在したのは当然ではありました。

そして、「夜明け前」の描写では「公郷の古い屋敷」には「裏山」があり、その上の茶室から家主と半蔵が、崖を洗う海を眺望するシーンが描かれています。上記の地形図に重ねた色別標高図でも永嶋家の敷地に接する様にして高い崖地が存在し、門前の道がかなり深い切通を降りてくることが読み取れます。勿論、現在の切通はその後も更に拡幅されてきたものですが、切通脇の聖徳寺の敷地や門前の道の形状から、当初の地形の概略を窺うことが出来ます。

永嶋家の長屋門前に保存されている標柱型の浦賀道道標は文久2年の刻印がありますが、これは浦賀道が安浦の浜筋を通る様に付け替えられた後のものということになります。無論、それまでも永嶋家の屋敷へ通じる道が何処かしらにあった筈ですが、恐らく当初は継立の馬を通すには厳しい細くて急な道だったのでしょう。それでも船の方が至便な交通手段であった彼らにとっては、陸路が脆弱でも大した不便もなかったものと思われます。


米が浜付近の迅速測図
「米ヶ濱」の字の下の海岸に崖地を示す描写が続いているのが確認出来る
(「今昔マップ on the web」)
実際のところ、浦賀道が横須賀から内陸へと入っていく道筋を辿っていたのは、その先の米が浜から安浦にかけて、切り立った海岸段丘が海に張り出していて海沿いを進む道をつけることが出来なかったからです。龍本寺が乗るこの段丘は標高が50mほどあります。この段丘からの眺望の良さは現在もこの段丘上に位置する横須賀中央公園からの眺め(ストリートビュー)で確認出来ますが、眼下には横須賀共済病院の建物の屋根が見えています。この病院の敷地側から崖を眺め(ストリートビュー)ると、段丘崖を補強するコンクリート擁壁が病院の建物に匹敵する高さにまで直立しており、その高さを窺い知ることが出来ます。

陸路の交通量がそれほどではなかった時期には、敢えてこの段丘を削って安浦方面への降り口を付けるだけの動機を得られなかったため、金沢から浦賀へ向かう継立道は横須賀から小矢部の法塔十字路へと迂回していたのでしょう。それが、幕末になって浦賀の役割が増すにつれて、迂回路で時間をとられている訳に行かなくなったことで、浜へ降りる切通をつける動機が生まれてきた訳です。

藤村は実際にこの公郷の永嶋家にも訪れていた様で、その際に屋敷周辺の景観についても一通り把握した上で「夜明け前」のこの箇所の執筆に臨んだことが、引用した箇所の表現にも窺えます。そしてその海岸に屹立した海岸段丘の麓にあった屋敷の景観は、浦賀道の道筋の変遷を考える上でヒントを提供してくれるものである様に思います。

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歌川広重「諸国六十八景」相模・多古江の図

先日来パソコンの調子が思わしくなく、落ち着いてブログの記事を書いていられない状況が続いていますので、今年は気軽なネタを1点取り上げて締めとしたいと思います。

「諸国六十八景」相模・多古江
歌川広重(2代目)「諸国六十八景」より
「相模・多古江」
「武蔵・金沢」(左)とともに
国立国会図書館デジタルコレクション」より)
右の絵は「国立国会図書館デジタルコレクション」上で公開されている浮世絵を探していて見つけました。2代目の歌川広重の手による「諸国六十八景」という画集の中の「相模・多古江」と「武蔵・金沢」です。

以前浦賀道についてまとめた時には、「浦賀道見取絵図」以外の絵図類、特に浮世絵・錦絵などを取り上げるということはしていませんでした。当時はまだ「国立国会図書館デジタルコレクション」の著作権切れの画像が容易に利用できる様になっていなかったこともありますが、鎌倉は別格として、それ以遠では守殿明神(現:森戸神社)程度しか参拝客などの外部の人間が入っていく拠点がなく、その分一般向けに浮世絵などが描かれて出版される例は多くないと踏んでいたから、という面もあります。「東海道名所図会」(寛政9年・1797年、 秋里籬島著、竹原春朝斎画)でも、「守殿明神」「鐙摺山」の項はありますが、対応する絵は描かれていません。


富士見橋(旧:田越橋)の位置
(「地理院地図」より)
そうした中で、「多古江」つまり「田越川」を越えて鐙摺山を巻く様にして進む様子を描いた図が見つけた際は正直意外に感じました。現在は「富士見橋」と呼ばれている「田越橋」が田越川を渡る姿が絵の下部に描かれ、そこから道が右手に折れて「鐙摺山」と記された山の下の崖に沿って曲がっていきます。遠方には「イツ」と記されていますが「伊豆」のことでしょう。因みに、この絵が出版されたのは文久2年(1862年)ですが、田越橋は安政年間に落橋した後は渡し船に切り替えられてしまいますので、出版した頃には既にこの橋はなかったことになります。

2代目の広重がこの地を実際に訪れて写生したのかは不明です。この付近から伊豆半島は南西に位置しますので、その方角を見通すためには広重は北東に位置する山の上にいたことになり、実際田越橋の掛かる向きや浦賀道の進む方角も大筋では合っていそうです。ただ、その方角には浦賀道は通っていませんので、もしも実際に山の上に上がって見たのであれば、恐らくは山野根村(現:逗子市山の根)付近まで道を逸れたことになります。画題を求めてわざわざ不案内な土地まで自由に立ち入り出来る時代ではないですし、鐙摺山を巡る道の距離と人物の比率に現実味が乏しいことなどから、あるいは部分的な写生をもとに広重が位置関係を考慮して模式的に繋ぎ合わせて描いたのかも知れません。

なお、絵中の田越橋の存在からは、もしも現地を訪れて描いたのであれば少なくとも安政よりも前のことであったと考えないと辻褄が合いません。そうすると安政6年(1859年)に2代目を襲名するよりも前にこの地を訪れていたのでしょう。その訪問が「諸国六十八景」を目的としていたかは定かではありませんが、そうであれば広重を襲名する以前から画集の計画を暖めていたことになります。

この絵が収められた「諸国六十八景」は、山城国に始まって諸国から1点ずつ風景を集めてきた画集です。その中の相模国の代表としてこの「多古江」を選んで描いたことになるのですが、相模国の代表として考えるなら候補となりそうな名勝地は東海道筋や鎌倉・大山など枚挙に暇がなく、そうした中で敢えてこの地が選ばれているのが意外なところです。名の通った名勝地については既に先代が「東海道五十三次」などのシリーズで幾度も取り上げていたりしますので、あるいは2代目としては重複を避けたとも考えたくなりますが、他方で武蔵国には先代も描いている「金沢八景」を取り上げている訳ですから、必ずしもその理由は当たらない様です。

「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められている「諸国六十八景」は、恐らく元の持ち主手の手によって合本化されており、相模国と武蔵国の絵が見開きになったのはたまたまということではある様です。ただ、金沢からであれば鎌倉やその先の田越は比較的至近ですから、同じ道中でこの2箇所に訪れていたということかも知れません。

当時の実情とどの程度合っているかという点では、上記の様な課題がある絵ではありますが、それでも画題にされることが少なかった浦賀道の絵が曲がりなりにも残されているという点では、なかなか貴重な存在と言うことが出来るでしょう。





今年の更新はこれを以って終了とします。皆様のブログへの巡回は可能な限り続けますが、パソコンの根本的なメンテナンスが必要になったら途切れるかも知れません。皆様良いお年をお迎え下さい。
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【浦賀道】追記:長沼村の貝殻坂について

一昨年の記事にちょっと追記をします。他の史料も参照してから改めて、とも思ったのですが、ちょっとネタ切れということもあり(汗)、差し当たりのメモということでお許しを。

以前「浦賀道」を紹介した際に、その途上の「貝殻坂」についてはこの様に紹介しました。
鎌倉道(戸塚):貝殻坂バス停
貝殻坂バス停(再掲)

鎌倉道はこの辺から飯島に向けて坂を登り下りする道になります。この頂きに「貝殻坂」という名のバス停が立っています。丁度写真を撮っている時に話しかけてきた近所の御年配の女性がいらっしゃいましたので、この地名について尋ねたところ、この道をバスが通れる様に掘り下げた際に貝殻が多数出たことから付けられた名前だとのことです。検索してみたところ箱根の「生命の星・地球博物館」に当地で出土した貝殻が保管されている様で、恐らくは当地が海面下だった時代の地層を掘り当てたのでしょう。この坂が以前よりはなだらかになっていることが窺えると同時に、一帯の土地の成り立ちがわかる地名になっていると思います。

この時には、この「貝殻坂」の名称は意外に新しいものだという印象を持っていました。少なくとも「浦賀道見取絵図」には記載されていない名称であるため、それよりは時代を下った頃に付けられたものであろうと考えていたのです。

ところが、意外な所で「貝殻坂」の名前を目にすることになりました。「祐之地震道記」という道中記で、これは元禄16年(1703年)の元禄地震の際に、たまたま江戸から京都へ帰る途上戸塚宿に宿泊していた梨木祐之が、地震当日以降の街道周辺の様子を記した異色のものです。深夜に被災した祐之は翌朝江戸と京都に向かう飛脚に書状をそれぞれ託し、2日ほど戸塚で周辺の様子を情報収集しています。そこで祐之の随伴者だった「伊賀守」を鎌倉の様子を伺うために遣いに出し、帰って来て報告を聞くくだりに、「貝殻坂」の名前が出て来るのです。

是日伊賀守、鎌倉一見のために罷越て、申剋許に帰、語云。これより鎌倉までの在郷、悉家つぶれて見ゆ。貝がら坂の大切通は、山崩て道塞る。木の根などにとりつきて越たり。鎌倉の在所も人家悉顛倒せり。円覚寺の門前の在家弐百宇ばかりもあるとみえたり。悉たふれたり。

(「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」4ページ、元は「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」より、強調はブログ主)



現在の貝殻坂の切通(ストリートビュー
実のところ「貝殻坂」の名称は様々な場所にあり、横浜市内では元町公園の近くに同名の坂があったりします。ですからこの名称が他の坂を指している可能性も考えてみる必要があるものの、大地震で崖崩れが起きている様な切迫した状況下で、戸塚から鎌倉まで視察に出掛けた遣いの者が敢えて主要な道筋を逸れて往復してきたとは考え難いものがあります。とすれば、この「貝殻坂」はやはりその途上の、長沼村の貝殻坂に比定せざるを得ないでしょう。

そうなると、江戸時代初期には既に「貝殻坂」の名称があったことになります。海から遠いこの地で貝殻が出て来ることにその名称が由来する点に変わりはないと思われるものの、「貝がら坂の大切通」という表現に見える通り当時既にここには切通しが設けられており、その際に縄文時代頃の地層まで掘り下げていたということになりそうです。「貝殻坂」の名称が「浦賀道見取絵図」に記されなかったのはたまたま、ということになるのでしょうか。

今は周辺をかなり大きく切り崩してしまっているため、当時の様子を窺うことは困難になっていますが、それでもこのコンクリートで固められた法面に多少面影が残っていると言えそうです。或いは当時はもっと深い切通しであったのでしょうか。当時は今の様に切通の法面を補強する様な施工は基本的にしませんでしたから、草木で覆われた法面の下に貝殻が覗くことがあったのかも知れません。



2014/02/14追加:ツイッター上でのやり取りで色々と情報を戴いたので、こちらに追加しておきます。猫綱(@nekotuna)さん、どうもありがとうございました。

まず、栄区の「広報よこはま・栄区版 平成21年4月号」中に「六人衆の道案内」というコラムがあり、その中で「長沼層」についての紹介が掲載されています。それによると、

長沼層の一部であるかいがら坂は、現在コンクリートで固められていますが、以前は地層が表に出て貝化石を見ることができたため、「はまぐり坂」とも呼ばれていました。昭和52年に愛称を募集した際「かいがら坂」と名付けられ、現在に至ります。

と、現在の名称が愛称の公募によって改めて決められたものであることが記されています。その一方で、この坂が古くは「はまぐり坂」という名称で呼ばれていたとしていますが、これについては「栄の歴史」(栄の歴史編集委員会編 2013年 横浜市栄区役所地域振興課)という資料の明治時代初期の記述中に

また天神橋付近、長沼村・飯島村間の蛤坂(はまぐりざか)でも地元民の負担で改修工事が行われた。

(ルビ一部省略)

という一文が見えますので、恐らくこの時代の現地の史料に「蛤坂」の名称とともに鎌倉道の普請に関する記述が残っているのでしょう。これも貝殻に関連する名称であることに変わりはありませんが、時代によって名称がまちまちであった可能性が窺えます。ただ、地名としては安定していなくても、「貝殻が埋まっているのが見える切通」という特徴に対する地元の人々の共通認識は、末永く受け継がれていたということは言えそうです。

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【脇往還】浦賀道:記事一覧

浦賀道について検索エンジン経由でアクセスされる方が多いので、ナビゲーションしやすい様に東海道編同様に記事の一覧をまとめておくことにしました。この記事だけ、記事の日付を原則最終更新日に合わせる様にします(但し、最新の記事よりは古い日付に設定します)。なお、他の記事へのリンク集という性質を考え、この記事に限ってコメント欄とトラックバック欄を閉じました。

こちらはひとまず記事が完結しているので、執筆順に記事を並べます。


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【脇往還】金沢・浦賀道と鎌倉・浦賀道:幕末の動き


鎌倉・浦賀道のルート:下馬〜浦賀
前回までで、鎌倉・浦賀道や金沢・浦賀道に見られる道幅や飛石渡り、継立場といった施設の不十分さが生じた原因について、一先ず私なりの見解をご紹介する所まで終わりました。地形面の問題に加え、江戸時代中期に当たる享保年間に継立が本格的に編成されたという時代背景が大きく影響した、という説明をしたと思います。

でも、私自身がこの道について「浦賀道見取絵図」や「新編相模国風土記稿」を追い始めた時に最初に感じたのは、何とも不相応で収まりが悪い、ということでしたし、一通りこうして自分なりに整理してみても、「とは言え…」という感触は今ひとつ拭えないでいます。それは、やはり現代の私たちが、浦賀の地が幕末にどの様な歴史を辿ったか、既に知っているからかも知れません。

「浦賀道見取絵図」をはじめとする「五海道其外分間見取延絵図」が作成されたのは寛政12年〜文化3年(1800~1806年)です。あのペリーの浦賀来航は恐らく学校の歴史の時間に散々年号を暗記させられて今でも覚えているという人は多いのではないでしょうか。1853年、和暦では嘉永6年に当たります。つまり、「見取絵図」はその50年ほど前の姿、ということになります。その頃にはロシアの使節が根室や長崎に来たりしていますので、幕府もそろそろ外国船への守りが重要になってくることは意識し始めていたとは思われるものの、まだ浦賀が海外との折衝役になる日が来るとは考えていなかったであろう頃です。事実、浦賀奉行所は当初は一連の遠国奉行の中での序列は下の方で、それが引き上げられたのは奉行所の役割に外国船の警備が加えられた後でした。

幕末の一連の動きについてここで仔細に検討することは手に余りますので、差し当たりWikipediaの幕末の年表へのリンクだけ置いておきます。ここでは浦賀道の往来が幕末にかけて増大していったことが窺える資料を2つ、「逗子市」から引用しようと思います。何れも「通史編 古代・中世・近世・近現代編」(平成9年)に掲載されているもので、浦賀道での継立の負担が増大していったことが窺えるものです。

久野谷・山野根・桜山三か村の小坪駅人馬勤高
 ―高百石につき1ヶ年平均勤高―
年次寛政〜
文化年間
文政4〜
天保13年
天保14〜
弘化3年
弘化4〜
嘉永2年
人足25人44人60人247人
1疋1疋2疋30疋
〔資料〕嘉永元年9月「乍恐以書付御歎願申上候」
1つ目の表は、小坪村の助郷を勤めていた久野谷村、山野根村、桜山が増大する助郷の負担を軽減する様、当時の領主であった川越藩の代官所に宛てて嘉永元年(1848年)に提出した嘆願書に書かれていた一覧を表に起こしたものです(上記書449ページ)。この表は「高百石につき1ヶ年平均」とありますので、実際に差し出した人馬はそれぞれの村の石高に応じて掛け算することになります(江戸末期の各村の石高から見て、山野根村はこの表の通り、久野谷村がこの表の3倍、桜山村が同じく4倍と考えれば大体良さそうです)。

特徴的なのは、人足の方が先に増えていっていることで、これは比較的軽量の荷物の継立から業務が増大したことを意味しています。恐らくその代表的なものは書状でしょう。浦賀を始めとする三浦半島の各拠点と江戸との間での連絡が密になるに連れ、その通信を担う役目が過重になっていったことが窺えます。それにしても、いよいよ海外からの圧力を具体的に感じる嘉永の頃になると、人馬の調達が急激に増えたことが良くわかります。

ペリー来航と人馬継立高の激増 ―小坪村継立場の場合―  〔単位〕人・疋
期間
*( )は嘉永7年
嘉永6年(1853)嘉永7年(1854)
人足(賃払い)馬(賃払い)人足(賃払い)馬(賃払い)
正月20日〜晦日(29日)
22 (  21)
1 (  1)
350 ( 280)
11 ( 10)
2月朔日〜29日(晦日)198 ( 113)27 ( 24)199 ( 119)25 ( 24)
3月朔日〜晦日(29日)769 ( 739)152 (152)911 ( 719)62 ( 61)
4月朔日〜晦日748 ( 724)106 (106)2518 (2302)318 (318)
5月朔日〜5日
22 (  19)
2 (  2)
38 (  28)
6 (  6)
合計1759 (1616)288 (285)4016 (3448)422 (419)
〔資料〕嘉永7年11月「当春異国船渡来ニ付人馬継立高書上帳」

そして、そのピークはやはり浦賀にペリーが来航した頃に来た様です。こちらの表は嘉永7年、つまりペリー来航の翌年の小坪の継立場が前年からの継立の実績をまとめて、当時所領していた彦根藩に報告したものを元に編集されたものですが、1ヶ月の人馬の往来が一気に増えたことがわかります(上記書450ページ)。この表の中では嘉永7年4月の1ヶ月間の人馬の往来が最大になっていますが、これを単純に30で割ると1日平均約84人の人足と10匹以上の馬が継立のために往来していたことになります。当然、街道を往来するのは継立ばかりではありませんから、鎌倉・浦賀道はこれ以上の人馬が往来していたでしょうが、その道が今まで見た通り「一間余り」の幅しかなかったというのですから、その分狭い道の中での「譲り合い」をしながら先に進まなければならない訳で、ただでさえ労力負荷が大幅に上がっている中では人馬ともに相当にストレスを感じざるを得ない状況だったでしょう。

因みに、括弧内に入っている「賃払い」の数字は、各村々の割り当てでは賄い切れなかった分を駄賃を出して雇った分ということで、この表で見られる様に大半の人馬が雇われていたということは、助郷組合に割り当てられた分をとうに使い果たしてしまっていたということになります。この点からも、元々考えられていた継立への負荷を大幅に越えた負担を各村々が負っていたことが窺えます。なお、同様の影響は恐らく金沢・浦賀道でもあったと思われますが、今回は上記の2つに対比できる資料を見出だせなかったので、ここでは鎌倉・浦賀道の事例だけに留めておきます。

浦賀道(鎌倉):小坪・富士見橋を下流側より見る
現在の富士見橋:江戸時代には「田越橋」(再掲)
それでいて、この道幅を拡げたり飛石渡りを解消して増大する交通量に対応しようとした形跡は、調べた範囲では見当たりませんでした。明治時代に入ってもほぼそのままの道幅で据え置かれていたらしいことは、以前「その19」で引用した「葉山町郷土史」の記述からも明らかです。恐らく、幕府側も各村々も、のしかかってきた負担を捌くので手一杯で、とてもそれ以上の普請に手が回らなかったのでしょう。それどころか、田越橋の度重なる落橋の補修に、普請の担当だった小坪村も桜山村も財政面で手が回らなくなり、挙句安政の大地震で落橋してからはしばらく渡舟での連絡で凌ぐ有様でした。


こうして、浦賀道が結果的にその規模に不相応な役割を担い、その役割を何とか果たしつつ幕末を迎えた一連の顛末を眺めるにつれ、そこに「歴史の綾」が見え隠れする気がしてきます。無論、それぞれの時代にこの道を通った人たちには、その後に待ち受けている歴史の行方は当然見えていない訳ですから、後世から見て「何故こっちじゃなかったんだろう」というのは、飽くまでも結果が知れたが故の後知恵でしかないのですが、それでも、幕末に狭い道を窮屈そうに譲り合いながら人馬がすれ違っていく様を見ながら、「何故最初からもっと…」などと思っていた奉行所の役人がいたのではないかなぁ、なんてことをつい想像してみたくなったりもするのです。

そして、三浦半島の脇往還の辿った歴史を一通り見た上で、改めて東海道を振り返ってみると、こちらは江戸時代を通して日本で最も重要な街道であり続けたという実情もありつつ、江戸に幕府を移して全国の大名を総動員して土木事業を行なっていた江戸時代初期だったからこそ、あれだけの規模を持った街道を整備出来た、という側面が浮かび上がってきます。例えば保土ヶ谷〜戸塚付近の東海道の普請を考えても、江戸という新しい中心地に向けての陸路を確保するという題目の下で、大規模な労力を投下出来なければ、街道が別の場所を通っていたかも知れない…という所でようやく東海道の話に繋がって来ました。次回からは藤沢まで来て止まっている東海道筋の話に戻したいと思います。

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